新・ユートピア数歩手前からの便り -223ページ目

労働・仕事・遊び

労働は義務、仕事は生きる意味。できれば労働はしたくないと思います。しかし通常はその義務を免れることはありません。それは言わば人生への入場券のようなもので、それなくして仕事をする権利は得られないでしょう。私は一応ここで「仕事」という言葉を用いていますが、もし遊ぶことが生きる意味であるならば、「遊び」と言っても構いません。むしろ、楽しく遊ぶために嫌な労働をする――その方が一般的だと言えます。

しかし遊びは純粋な消費活動ですから、一部の特権階級以外は労働せずに遊び続けることはできないでしょう。それ故、嫌な労働も遊ぶための必要条件として受け容れざるを得ない、というのが現実となります。しかし乍ら、それは明らかに理想には程遠い状態です。やはり嫌な労働は、もしなくせるものならなくしたいと思います。

そこで改めて問題となるのは、生きる意味としての仕事です。確かに遊びは楽しい。それは生きる意味にもなるでしょう。しかし、先にも述べたように、消費するだけの遊びは所詮長続きするものではありません。そもそも我々の生は「生産」と「消費」という二つの活動が恰も車の両輪の如く機能して成立するものだと思います。それ故、理想的な生の在り方はそうした二つの活動を楽しく行うことにあると言えます。

問題は、消費が楽しいのは当然なので、生産活動を如何に楽しく行い得るか、ということになるでしょう。この文脈において、私は嫌々する生産活動を労働、楽しく行う生産活動(あるいは、遊びと化した生産活動)を仕事と称したいと思います。では、労働から仕事への移行、もしくは労働の仕事化は如何にして可能になるでしょうか。ここに「ユートピア実現」に向けての根源的な問題があると思います。

農耕と思耕

肉体の糧を生産する「農耕」と魂の糧を生み出す「思耕」――私が新しき村に来たのは、人間として本当に生きるためにはそうした二つの活動が不可欠だと思ったからです。しかし実際にその両立を果たすことは難しい。それに、昨日述べたように、私には農耕に対する根源的な関心が欠けています。できれば思耕のみに没頭したいというのが、やはり偽らざる本音です。ならば何故その本音で生きる道を突き進まないのか。思耕のみで生活していく自信がないということもさること乍ら、農耕を断念することに未だ負い目を感じてしまうからでしょう。果して農耕と思耕の両立を諦めることは自己欺瞞であるか。事は私自身の生き方に関わることです。もし私にとって人間として本当に生きることが農耕と思耕を両立させた生活にあるのなら、私は何としてでもその実現を追求すべきでしょう。果して本当にそうなのか、私は改めて根源的に問い直す必要に駆られています。

農耕と思耕、その両立――しかし両立と言えば格好が良いですが、一つ間違えば中途半端な結果になってしまうでしょう。一人でできることには自ずと限界があります。農耕は半人前、思耕も半人前、ということでは「本当に生きる」どころではありません。そんな醜悪な生活に陥ってしまうくらいなら、自分の本音、すなわち思耕に徹する生活を目指した方がいいでしょう。果たしてそれは私がこれまで批判してきた出家者の生活への転向を意味するでしょうか。もしそうなら、それもまた醜悪なことと言わざるを得ません。とすれば、やはり両立を目指すしかないのでしょうか。

現時点で明らかなことは、両立は平均化ではない、ということです。農耕半分、思耕も半分という「あれも、これも」の生活など、私の望むものではありません。むしろ、「あれか、これか」に徹する生活、私の場合には思耕に徹することによって農耕も活かすということにこそ真の両立があると思っています。勿論、それは逆説の現実に他なりません。農耕が思耕になり、思耕が農耕になるという境地――尤も、それは両立と言うよりも、統合と言うべきでしょう。

何れにせよ、農耕と思耕を二元論的に捉えている限り、その両立はどうしても中途半端な「つまみ食い」にしかならないと思います。そして本来両立し得ぬものの両立を求める時、そこには絶対的な逆説が要請されるでしょう。すなわち、二元論を超え、両立を止揚し、或る矛盾的同一(統一ではなく、統合)を実現するということです。

肉体の糧と魂の糧

肉体の糧(生の維持に必要なもの=主に食物)と魂の糧(生の充実もしくは輝きに必要なもの)を分離することには問題があるかもしれません。そもそも生の維持なくして生の充実もあり得ないでしょう。そして生を維持するための活動(肉体の糧の生産を目的とする労働)によって生の充実も得られるのなら、それはそれでいいと思われます。例えば、大地にしっかり根を下ろした篤農家の生活――それは一つの理想的生活であることは間違いないでしょう。しかし乍ら、その点において私の生き方は未だ揺れている面があります。安藤昌益の言うような直耕生活への憧れがある一方、それでは満足しきれない思いもあります。

果して私は篤農家のような生活で生の充実を得ることができるのか。率直に言って、私は生の維持に不可欠な労働である「農」の営みは重要だと思いながら、それに没頭する自分を思い描くことができません。そして、その事実は私にとって一つの負い目になっています。自分は農業のみに生きることはできない――自己欺瞞かもしれませんが、それが私の本音です。

尤も、私は未だ農本主義的な考え方に囚われているだけのことかもしれません。少し開き直って言えば、野球に集中しているイチローを非農業者である(つまり食物を生産していない)ことを以て非難できるでしょうか。野球をすることによってこそ生の充実を得ることのできるイチローは、そのことによって肉体の糧も得ていることにおいて、一つの理想を生きていると言えるでしょう。

言うまでもなく、篤農家の生活とイチローの生活を比較すること自体には無理があります。結局、人はそれぞれ生の充実を得る道は異なる、という単純なことにすぎません。おそらく「農」が基本であることは間違いないと思われますが、それ以外に自らの生を充実させる道のある人はそれに集中すべきでしょう。それで所謂「食っていくことができる」のなら、それがその人にとって肉体の糧であると同時に魂の糧になり、そこに「理想的生活」があると言えます。肉体の糧と魂の糧を分離する必要はありません。むしろ、その一致を目指すところにこそ「新しき生活」があると私は思っています。

新生会の理念について

そろそろ理念的な便りから実践的な便りに徐々に移行していきたいとは思っていますが、本日も「ユートピア実現」に向けての理念についてです。

率直に言って、新しき村はこのままでは駄目だと私は思っています。所謂「食うための労働」に追われて村本来の活動が疎かになっている現在の体制では新しき村の将来を切り開くことは望めません。それ故、新しき体制を実現していくことがどうしても必要になってきます。そのために「新生会」というものを準備しているわけですが、果して新しき体制とは如何なるものでしょうか。

それは「新しきこと」への挑戦を可能にする体制に他なりません。具体的に言えば、人間として本当に生きることの意味を問う人達が集い、それぞれの究極的関心に基いて、その意味を表現(創造)していく場を実現することです。例えば、農(もしくは食)に関心のある者は安心、安全、しかも美味しいものをつくることに喜びを見出し、教育に関心のある者は生きることに躓いた若者たちと共に苦しんでいくことに自らの使命を見出していく――そこに「新しきこと」があると私は思っています。それは人間として本当に生きることの自己表現でもあります。そうした様々な自己表現の共働こそ「新しき村」本来の活動だと信じています。

勿論、個人的な自己表現というものもあるでしょう。義務労働(食うための労働)を果した後、自分だけの世界で自己表現を楽しむ――私はそれを無下に否定するつもりはありません。しかし少なくとも「新しき村」の生活に関して言えば、孤立した自己表現は、たといどんなに純粋なものであっても、村本来の生き方ではないと思います。そもそも共働の次元が開かれなければ、「村」とは言えないでしょう。

確かに今の体制においても、義務労働の範囲内では共働はあると言えるかもしれません。しかし労働を超えて、それぞれの仕事の次元においても共働がなければ、「新しき村」の名に値しないと思います。肉体の糧を目的とする水平の次元のみならず、魂の糧を目的とする垂直の次元においても共働する生活の実現――それが「新生会」の理念に他なりません。

祝祭とファシズム(2)

ユングは意識の中心である「自我」と無意識をも含む深層の「自己」という区別をしていますが、その文脈で言えば、祝祭の熱狂における忘我状態は「自我を超越する自己の運動」に他なりません。それに対してファシズムによる熱狂的忘我にはそのような深みはなく、単なる自我の喪失に止まっています。とは言え、祝祭とファシズムの差異はかなり微妙なものであり、祝祭は常にファシズムへと転化・堕落する危険性に晒されています。アポロとディオニュソスの結束が破れぬことを祈る他ありません。

何れにせよ、祝祭の主体的熱狂というものは一つの逆説です。それは禅で言う「無我の境地」に通じるものがあります。無我もまた逆説的真理なのです。

一般的に無我と言えば、自己を空にするマイナスの運動だと解されますが、それは一面的な理解に過ぎません。例えばコップに入っている水を全て捨てて空にする――この状態は無我の往相にすぎず、それだけでは無我を真に成就したとは言えません。何故なら、空の状態は常に何かが入ってくる可能性を孕んでいるからです。では、もう何も入ってくる可能性のない状態とは如何なるものでしょうか。言うまでもなく、それは満杯の状態です。そこに無我の還相があります。「無我の境地」とは空杯と満杯の循環(reciprocal)運動に他なりません。

祝祭とファシズム

かつてパウル・ティリッヒが来日した際、「宗教のリアリティ」という問題をめぐって或る禅の大家と対話をしたことがあります。その中でティリッヒは大略、次のようなことを語りました。

「仏教とキリスト教は、人間が絶対的なもの(無制約的なもの)と関係するところに信仰のリアリティを見出す点において共通する。しかし根本的な違いもある。仏教は絶対的なものとの一致(identification)を目指しているのに対し、キリスト教は絶対的なものへの参与(participation)を求めている」

ティリッヒの仏教理解が必ずしも正鵠を射ているわけではありませんが、私は彼の言う「一致」と「参与」の区別は極めて重要だと思います。と言うのも、そこには祝祭とファシズムの根本的な差異もあるからです。

祝祭もファシズムも一種の熱狂であることに変わりはありません。しかし、昨日述べたように、ファシズムが主体喪失の熱狂であるのに対し、祝祭はあくまでも主体的な熱狂である点に根源的な差異があるのです。では、主体的な熱狂とは如何なるものでしょうか。そもそも熱狂とは所謂「我を忘れる」状態であって、主体的な熱狂というのは矛盾だと思われるでしょう。しかし私は決してそうは思いません。(つづく)

どうも本来の便りの趣旨から横道に逸れ、いつの間にか宗教哲学講義のような調子になりがちですが、この点は私の「ユートピア実現」にとって極めて重要なので、もう少し我慢してお読み下さい。

祝祭の輝き

祝祭における生の輝き、それは美的段階で失われた生の輝きを前向きに反復したものに他なりません。では、前向きの反復とは如何なるものでしょうか。本日はその点について述べたいと思います。

通常反復とは「同じものの繰り返し」を意味しますが、前向きの反復は必ずしもそうではありません。すなわち「美的段階の直接的な生の輝き」と「祝祭における生の輝き」の間には質的な差異があります。前者がそれぞれの感性による個人的な体験であるのに対し、後者は個々の生の輝きが言わば掛け算的に統合される全体的な体験だと言えるでしょう。

尤も全体的な体験などと言えば、ファシズムによる熱狂だと誤解されるかもしれません。確かにオリンピックやサッカーのワールドカップなどにおける熱狂は戦争における熱狂に通じるものがあるでしょう。その点は認めざるを得ません。

しかし祝祭の全体的体験はファシズムの熱狂とは根本的に異なります。ニーチェの言葉を借りて比喩的に言えば、ファシズムの熱狂はディオニュソスの酩酊にすぎないのに対し、祝祭の全体的体験はアポロとディオニュソスの結束に他なりません。すなわち祝祭には主体性がありますが、ファシズムにはないということです。従って祝祭における人間は自立者ですが、ファシズムにおける人間は没主体的な大衆だと言えるでしょう。

人生行路の三段階

デンマークの憂愁の哲学者ゼーレン・キルケゴールに実存弁証法というものがあります。一口で言えば、美的段階-倫理的段階-宗教的段階という「人生行路の三段階」です。それは反復の逆説を含み、なかなか複雑な構造になっていますが、私はその三段階を大略、直接的(感性的)段階-反省的(理性的)段階-祝祭的段階として次のように理解しています。

幼時における明確な自己意識に目覚める以前の状態(夢見る無垢 dreaming innocence)が美的段階であり、人はそこで感性的な生の輝きを体験します。しかし残念乍ら、そうした根源的な生の輝きは自己意識に目覚めると同時に失われる運命にあります。ウィリアム・ブレイクはこの運命を「無垢の歌 Songs of Innocence」と「経験の歌 Songs of Experience」という対比で詩的に表現していますが、こうした一種の楽園喪失は人間にとって不可避だと思われます。しかし、その失われた生の輝きを何とかしてもう一度取り戻そうとすることも不可避です。そして美的段階で失われた生の輝きを反復しようとすることを以て人は倫理的段階に突入します。

しかし、その倫理的な試みは絶望に至る他はありません。と言うのも、美的段階は確かに一つの楽園ではありますが、一度失われれば、後向きにそこに戻ろうとすることは金輪際不可能だからです。そもそも美的楽園は反省以前の状態なので、それは常に既に(必然的に)失われたものとしてしか意識されないでしょう。すなわち楽園にいる時はそこが楽園であるという意識はなく、それを失って初めて楽園だったと意識されるということです。その意味において、楽園は常に失楽園でしかありません。従って美的段階の生の輝きをそのまま直接的に反復することは絶対に不可能になります。

では、どうすべきか。生の輝きをもう一度味わいたいという願いは永久に断念せざるを得ないのでしょうか。そんなことはない!と私は思います。可能性は前向きの反復(運動)にあります。失われた美的段階の生の輝きに後向きに戻ろうとするのではなく、前向きに生の輝きを創造するのです。そこに祝祭の輝きがあるというのが私のヴィジョンに他なりません。

生の輝き

人は何のために生きるか。それは十人十色でしょうが、私の場合は「生の輝き」です。自らに与えられた生を輝かせるために私は生きる――しかし、これは幾分トートロジー(Tautologie)的な答えかもしれません。と言うのも、結局は何によって生は輝くかということが問題になるからです。それを理論的に問い詰めることは難しい。また、あまり意味のないことでしょう。生の輝きはあくまでも個人の主体的な問題に他ならず、そこではそれぞれの個人的な体験が大きく影響するに違いありません。おそらく誰しもその幼時の「美的段階」に生の輝きを体験したことがあると思います。私にもあります。

それは小学四年生の時のことです。私は左鎖骨を折って暫く学校を休んでいたのですが、或る土曜日の昼下がり、病院から戻ってくると実に多くの友達が見舞いに来てくれていました。その頃の私は貧乏長屋に住んでいたのですが、その狭くて汚い家に友達が犇いている光景が忘れられません。そして「やあ、帰って来た、帰って来た」という誰かの叫ぶ声が今でも耳の奥底に響いています。ガキ大将で少し威張っていた私はみすぼらしい家を友達に見られたことを気にしながらも、本当に嬉しかった。あの時、私の生は確かに輝いていたと思います。それは人と人との信頼、それに基く連帯感(少し大袈裟ですが)だったと今の私は理解しています。あの輝きをもう一度味わいたいのです。それは言わば人間の連帯感による生の輝きの反復(Wiederholung)に他なりません。

魔力としての弁証法

私は「遅れてきた青年」より更に遅れてきた者ですが、弁証法なしには生きていけません。と言うより、生きていくその運動そのものが弁証法だと思っています。従って弁証法のない所で、ただ生きて在るだけでは「本当に生きる」ことにはならないのです。そもそも「本当に生きる」ことを求める原動力それ自体が弁証法だと言えるでしょう。では、「本当に生きる」とは如何なることでしょうか。

私自身はそれを「生の充実」だと理解しています。「生の完全燃焼」だと言ってもいいでしょう。要するに、私もまた「あしたのジョー」のように燃え尽きたいのです。しかし、それを実現するためには絶対的なものが必要になるでしょう。人は絶対的なものに主体的に関係することによってのみ生を完全燃焼させる可能性を得る――これが私の根本テーゼです。

かくして私はずっと絶対的なものを求めてきました。最初は「絶対的なものに殉じる生き方=死に方」のみが生を完全燃焼させると考えました。例えば、大東亜戦争における神風特攻隊の若者たちのように。しかし、やがてそれはもはや不可能だと思うに至りました。何故なら、「天皇陛下万歳!」と叫んで死のうとしても、もはや天皇は現人神ではなく、殉じるに値する絶対的なものなど何処にも存在しないからです。「あしたのジョー」にとってはボクシングが絶対的なものであったかもしれませんが、私には全てが相対的なものにすぎません。しかし、それにも拘らず、私は絶対的なものの探究を断念することができないのです。

言わば神が死んだ世界において、敢えて絶対的なものを求め続けるとは如何なることでしょうか。単なる悪足掻きとしか見做されないかもしれませんが、それが今の私の究極的な問題となっています。果してそれは不可能な問題にすぎないのでしょうか。勿論、私は不可能だとは思っておりません。もし不可能なら、私の生もまた不可能だということになるでしょう。私は弁証法の魔力に最後の可能性を見ています。