労働・仕事・遊び
労働は義務、仕事は生きる意味。できれば労働はしたくないと思います。しかし通常はその義務を免れることはありません。それは言わば人生への入場券のようなもので、それなくして仕事をする権利は得られないでしょう。私は一応ここで「仕事」という言葉を用いていますが、もし遊ぶことが生きる意味であるならば、「遊び」と言っても構いません。むしろ、楽しく遊ぶために嫌な労働をする――その方が一般的だと言えます。
しかし遊びは純粋な消費活動ですから、一部の特権階級以外は労働せずに遊び続けることはできないでしょう。それ故、嫌な労働も遊ぶための必要条件として受け容れざるを得ない、というのが現実となります。しかし乍ら、それは明らかに理想には程遠い状態です。やはり嫌な労働は、もしなくせるものならなくしたいと思います。
そこで改めて問題となるのは、生きる意味としての仕事です。確かに遊びは楽しい。それは生きる意味にもなるでしょう。しかし、先にも述べたように、消費するだけの遊びは所詮長続きするものではありません。そもそも我々の生は「生産」と「消費」という二つの活動が恰も車の両輪の如く機能して成立するものだと思います。それ故、理想的な生の在り方はそうした二つの活動を楽しく行うことにあると言えます。
問題は、消費が楽しいのは当然なので、生産活動を如何に楽しく行い得るか、ということになるでしょう。この文脈において、私は嫌々する生産活動を労働、楽しく行う生産活動(あるいは、遊びと化した生産活動)を仕事と称したいと思います。では、労働から仕事への移行、もしくは労働の仕事化は如何にして可能になるでしょうか。ここに「ユートピア実現」に向けての根源的な問題があると思います。
しかし遊びは純粋な消費活動ですから、一部の特権階級以外は労働せずに遊び続けることはできないでしょう。それ故、嫌な労働も遊ぶための必要条件として受け容れざるを得ない、というのが現実となります。しかし乍ら、それは明らかに理想には程遠い状態です。やはり嫌な労働は、もしなくせるものならなくしたいと思います。
そこで改めて問題となるのは、生きる意味としての仕事です。確かに遊びは楽しい。それは生きる意味にもなるでしょう。しかし、先にも述べたように、消費するだけの遊びは所詮長続きするものではありません。そもそも我々の生は「生産」と「消費」という二つの活動が恰も車の両輪の如く機能して成立するものだと思います。それ故、理想的な生の在り方はそうした二つの活動を楽しく行うことにあると言えます。
問題は、消費が楽しいのは当然なので、生産活動を如何に楽しく行い得るか、ということになるでしょう。この文脈において、私は嫌々する生産活動を労働、楽しく行う生産活動(あるいは、遊びと化した生産活動)を仕事と称したいと思います。では、労働から仕事への移行、もしくは労働の仕事化は如何にして可能になるでしょうか。ここに「ユートピア実現」に向けての根源的な問題があると思います。