農耕と思耕 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

農耕と思耕

肉体の糧を生産する「農耕」と魂の糧を生み出す「思耕」――私が新しき村に来たのは、人間として本当に生きるためにはそうした二つの活動が不可欠だと思ったからです。しかし実際にその両立を果たすことは難しい。それに、昨日述べたように、私には農耕に対する根源的な関心が欠けています。できれば思耕のみに没頭したいというのが、やはり偽らざる本音です。ならば何故その本音で生きる道を突き進まないのか。思耕のみで生活していく自信がないということもさること乍ら、農耕を断念することに未だ負い目を感じてしまうからでしょう。果して農耕と思耕の両立を諦めることは自己欺瞞であるか。事は私自身の生き方に関わることです。もし私にとって人間として本当に生きることが農耕と思耕を両立させた生活にあるのなら、私は何としてでもその実現を追求すべきでしょう。果して本当にそうなのか、私は改めて根源的に問い直す必要に駆られています。

農耕と思耕、その両立――しかし両立と言えば格好が良いですが、一つ間違えば中途半端な結果になってしまうでしょう。一人でできることには自ずと限界があります。農耕は半人前、思耕も半人前、ということでは「本当に生きる」どころではありません。そんな醜悪な生活に陥ってしまうくらいなら、自分の本音、すなわち思耕に徹する生活を目指した方がいいでしょう。果たしてそれは私がこれまで批判してきた出家者の生活への転向を意味するでしょうか。もしそうなら、それもまた醜悪なことと言わざるを得ません。とすれば、やはり両立を目指すしかないのでしょうか。

現時点で明らかなことは、両立は平均化ではない、ということです。農耕半分、思耕も半分という「あれも、これも」の生活など、私の望むものではありません。むしろ、「あれか、これか」に徹する生活、私の場合には思耕に徹することによって農耕も活かすということにこそ真の両立があると思っています。勿論、それは逆説の現実に他なりません。農耕が思耕になり、思耕が農耕になるという境地――尤も、それは両立と言うよりも、統合と言うべきでしょう。

何れにせよ、農耕と思耕を二元論的に捉えている限り、その両立はどうしても中途半端な「つまみ食い」にしかならないと思います。そして本来両立し得ぬものの両立を求める時、そこには絶対的な逆説が要請されるでしょう。すなわち、二元論を超え、両立を止揚し、或る矛盾的同一(統一ではなく、統合)を実現するということです。