肉体の糧と魂の糧 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

肉体の糧と魂の糧

肉体の糧(生の維持に必要なもの=主に食物)と魂の糧(生の充実もしくは輝きに必要なもの)を分離することには問題があるかもしれません。そもそも生の維持なくして生の充実もあり得ないでしょう。そして生を維持するための活動(肉体の糧の生産を目的とする労働)によって生の充実も得られるのなら、それはそれでいいと思われます。例えば、大地にしっかり根を下ろした篤農家の生活――それは一つの理想的生活であることは間違いないでしょう。しかし乍ら、その点において私の生き方は未だ揺れている面があります。安藤昌益の言うような直耕生活への憧れがある一方、それでは満足しきれない思いもあります。

果して私は篤農家のような生活で生の充実を得ることができるのか。率直に言って、私は生の維持に不可欠な労働である「農」の営みは重要だと思いながら、それに没頭する自分を思い描くことができません。そして、その事実は私にとって一つの負い目になっています。自分は農業のみに生きることはできない――自己欺瞞かもしれませんが、それが私の本音です。

尤も、私は未だ農本主義的な考え方に囚われているだけのことかもしれません。少し開き直って言えば、野球に集中しているイチローを非農業者である(つまり食物を生産していない)ことを以て非難できるでしょうか。野球をすることによってこそ生の充実を得ることのできるイチローは、そのことによって肉体の糧も得ていることにおいて、一つの理想を生きていると言えるでしょう。

言うまでもなく、篤農家の生活とイチローの生活を比較すること自体には無理があります。結局、人はそれぞれ生の充実を得る道は異なる、という単純なことにすぎません。おそらく「農」が基本であることは間違いないと思われますが、それ以外に自らの生を充実させる道のある人はそれに集中すべきでしょう。それで所謂「食っていくことができる」のなら、それがその人にとって肉体の糧であると同時に魂の糧になり、そこに「理想的生活」があると言えます。肉体の糧と魂の糧を分離する必要はありません。むしろ、その一致を目指すところにこそ「新しき生活」があると私は思っています。