労働の芸術化
人は食うために生きているのではありませんが、生きるためには食うことが必要不可欠です。この現実において食うものの生産が人間の基本的な労働となります。しかし、これを食うための労働と見なしては面白くありません。少なくとも労働が楽しきものであるためには、食うものの生産が一つの芸術活動となる必要があるでしょう。すなわち米や野菜などを芸術作品として作ることが求められるのです。勿論それは食うものの生産=農業に限られたことではなく、あらゆる労働について留意されるべきことです。
新しき村における労働は食うための労働を超えて行かねばなりません。そして食うための労働の超越こそ「労働の芸術化」なのです。労働が生み出すものはお金などではなく、あくまでも自己の生の表現としての芸術作品であるべきだと思います。それは基本的に所謂職業芸術家の生活に等しいと言えますが、全ての労働が芸術の域に達する時、もはや芸術を特別な職業と見なす意味(必要)はなくなるでしょう。農民はその労働においてすでに芸術家なのです。
言うまでもなく、労働の芸術化は一つの理想であって未だ現実にはなっていません。そもそも労働が芸術になる時、それはもはや労働ではなく、むしろ仕事と言うべきでしょう。労働は肉体の糧を得るための活動であり、仕事は魂の糧を求める活動に他なりません。こうした対比において芸術こそ仕事の本質であり、労働の芸術化とはその実「労働の仕事化」だと言えるでしょう。勿論、その逆に「仕事の労働化」という理想を考えることもできます。すなわち「労働の仕事化」とは肉体の糧を得るための活動がそのまま魂の糧になることであり、「仕事の労働化」とは魂の糧を求める活動で肉体の糧も得られるようになることを意味します。例えば、前者の具体例は篤農家や職人であり、後者のそれは職業芸術家もしくは真の意味での出家者でしょう。何れにせよ、現実の人間には労働と仕事という二つの活動が必要です。そして「労働の仕事化」にせよ「仕事の労働化」にせよ、労働と仕事の大調和にこそ人間の理想の生活があると思われます。新しき村は農耕者と思耕者の共働による「祝祭空間」に他なりません。
新しき村における労働は食うための労働を超えて行かねばなりません。そして食うための労働の超越こそ「労働の芸術化」なのです。労働が生み出すものはお金などではなく、あくまでも自己の生の表現としての芸術作品であるべきだと思います。それは基本的に所謂職業芸術家の生活に等しいと言えますが、全ての労働が芸術の域に達する時、もはや芸術を特別な職業と見なす意味(必要)はなくなるでしょう。農民はその労働においてすでに芸術家なのです。
言うまでもなく、労働の芸術化は一つの理想であって未だ現実にはなっていません。そもそも労働が芸術になる時、それはもはや労働ではなく、むしろ仕事と言うべきでしょう。労働は肉体の糧を得るための活動であり、仕事は魂の糧を求める活動に他なりません。こうした対比において芸術こそ仕事の本質であり、労働の芸術化とはその実「労働の仕事化」だと言えるでしょう。勿論、その逆に「仕事の労働化」という理想を考えることもできます。すなわち「労働の仕事化」とは肉体の糧を得るための活動がそのまま魂の糧になることであり、「仕事の労働化」とは魂の糧を求める活動で肉体の糧も得られるようになることを意味します。例えば、前者の具体例は篤農家や職人であり、後者のそれは職業芸術家もしくは真の意味での出家者でしょう。何れにせよ、現実の人間には労働と仕事という二つの活動が必要です。そして「労働の仕事化」にせよ「仕事の労働化」にせよ、労働と仕事の大調和にこそ人間の理想の生活があると思われます。新しき村は農耕者と思耕者の共働による「祝祭空間」に他なりません。