祝祭共働態とエリート主義
先日或る女性から、「新しき村でない人々は本当の人間として生きていない」と言っているような感じがする、という批判的意見を戴きました。言うまでもなく、それは誤解であり、私は以下のような弁明をしました。
私は「新しき村」を決して閉鎖的に考えておらず、「人間として本当に生きる」ことを求める全ての人達に開かれた場にしたいと思っています。ですから、「新しき村でない人々の生き方を否定する」というようなことは決してありません。…新しき村の外でも人間として本当に生きようと懸命に頑張っている人はたくさんいるでしょう。私はそれを認めます。ただ、もしそうした人達が一つの連帯の輪を築くならば、そこが「新しき村」になると思っています。つまり、「新しき村」とは埼玉の村に限定されるものではないのです。勿論、世界各地に生れるであろう連帯の輪を「新しき村」と名付ける必要はありません。私にとって「新しき村」とは、「人間として本当に生きることを求める人達が連帯する場」の一つの象徴にすぎません。
実際、私の夢見るユートピアとしての祝祭共働態は全ての人間の生が輝く連帯の輪に他なりません。しかし生の輝きは人それぞれです。それは主観的なものですから、客観的にその優劣を比較することには意味がないでしょう。とは言え、例えば「草野球を楽しんでいる人の生の輝き」と「プロ野球選手の生の輝き」には明らかに質的な違いがあります。私はこの差異を「全ての人がナンバー・ワンの輝きを求めなくてもいい。それぞれの生の輝きがオンリー・ワンなのだ」と言うことで御茶を濁したくありません。むしろ私は敢えて「祝祭共働態では全ての人間がナンバー・ワンの生の輝きを求めるべきだ」と主張したいと思います。そもそもそれぞれの人間がオンリー・ワンであることは当然のことであり、そんな次元に安住していては到底生を輝かせることなどできないでしょう。勿論、全ての人間がナンバー・ワンになれる道理はありません。勝者がいれば必ず敗者がいます。しかし、そこにそれぞれのオンリー・ワンのドラマが生れてくるのではないでしょうか。私はナンバー・ワンを求めることなくしてオンリー・ワンはあり得ないと思っています。
何れにせよ、私は全ての人間が「最高の生の輝き」を求めることを期待しています。ただ先述したように、「何が最高の生の輝きか」ということは客観的に決められる(優劣の)問題ではありません。しかし、それぞれの人間が「最高の生の輝き」を主体的に求めるということは祝祭共働態に不可欠です。少なくとも「最高の生の輝き」を断念し、中途半端な次元で妥協している人達との連帯はあり得ないでしょう。その点、祝祭共働態はエリート主義に基くものだと誤解される可能性があります。弱者切捨のようなことは決して本意ではありませんが、やはりそれぞれの人間の求める「生の輝き」には質的な差異があることは認めざるを得ないと思います。祝祭共働態は全ての人間に開かれていますが、それを本当に求める人は自ずと限られてくるでしょう。
私は「新しき村」を決して閉鎖的に考えておらず、「人間として本当に生きる」ことを求める全ての人達に開かれた場にしたいと思っています。ですから、「新しき村でない人々の生き方を否定する」というようなことは決してありません。…新しき村の外でも人間として本当に生きようと懸命に頑張っている人はたくさんいるでしょう。私はそれを認めます。ただ、もしそうした人達が一つの連帯の輪を築くならば、そこが「新しき村」になると思っています。つまり、「新しき村」とは埼玉の村に限定されるものではないのです。勿論、世界各地に生れるであろう連帯の輪を「新しき村」と名付ける必要はありません。私にとって「新しき村」とは、「人間として本当に生きることを求める人達が連帯する場」の一つの象徴にすぎません。
実際、私の夢見るユートピアとしての祝祭共働態は全ての人間の生が輝く連帯の輪に他なりません。しかし生の輝きは人それぞれです。それは主観的なものですから、客観的にその優劣を比較することには意味がないでしょう。とは言え、例えば「草野球を楽しんでいる人の生の輝き」と「プロ野球選手の生の輝き」には明らかに質的な違いがあります。私はこの差異を「全ての人がナンバー・ワンの輝きを求めなくてもいい。それぞれの生の輝きがオンリー・ワンなのだ」と言うことで御茶を濁したくありません。むしろ私は敢えて「祝祭共働態では全ての人間がナンバー・ワンの生の輝きを求めるべきだ」と主張したいと思います。そもそもそれぞれの人間がオンリー・ワンであることは当然のことであり、そんな次元に安住していては到底生を輝かせることなどできないでしょう。勿論、全ての人間がナンバー・ワンになれる道理はありません。勝者がいれば必ず敗者がいます。しかし、そこにそれぞれのオンリー・ワンのドラマが生れてくるのではないでしょうか。私はナンバー・ワンを求めることなくしてオンリー・ワンはあり得ないと思っています。
何れにせよ、私は全ての人間が「最高の生の輝き」を求めることを期待しています。ただ先述したように、「何が最高の生の輝きか」ということは客観的に決められる(優劣の)問題ではありません。しかし、それぞれの人間が「最高の生の輝き」を主体的に求めるということは祝祭共働態に不可欠です。少なくとも「最高の生の輝き」を断念し、中途半端な次元で妥協している人達との連帯はあり得ないでしょう。その点、祝祭共働態はエリート主義に基くものだと誤解される可能性があります。弱者切捨のようなことは決して本意ではありませんが、やはりそれぞれの人間の求める「生の輝き」には質的な差異があることは認めざるを得ないと思います。祝祭共働態は全ての人間に開かれていますが、それを本当に求める人は自ずと限られてくるでしょう。