天意に即した生活
新しき村の精神が求める理想は、「天命を全うすること」と「自我を完全に生長させること」です。これをヒンドゥー教的に解すれば、大我(ブラフマン)と小我(アートマン)の一致、すなわち梵我一如の理想だと言えるでしょう。
天に意志があり、人間にも意志があります。両者は密接に関係しており、ヘーゲル的に言えば神と人間の相互承認が問題になります。すなわち「人間の上り道」(人間が神を知ろうとする過程)と「神の下り道」(神が人間に自己啓示する過程)は相即しているということです。これがマイスター・エックハルトに代表されるような神秘主義(神が私を見る眼は、私が神を見る眼と同一)に基いていることは言うまでもありません。
こうした考えからすれば、天意(神意)に即した生活に人間の理想があり、それを可能にする社会こそユートピアだと言えるでしょう。しかし天意に即した生活とは如何なるものでしょうか。そもそも天意とは何であり、それを我々は如何にして知ることができるのでしょうか。
カール・バルトはキルケゴールの実存弁証法に基いて、神と人との絶対的(質的)断絶を主張しました。すなわちヘーゲルが言うような「人間の上り道」などななく、ただ神の啓示のみがあるということです。そして彼にとっての神の啓示はキリスト教の聖書のみなので、それを正統的に解釈する権威である教会以外に人間の救いはないことになります。
言うまでもなく、キリスト者以外の人はこうした見解を受け容れられないでしょう。おそらく宗教の数だけ天意(神意)の解釈があると思われます。更に言えば、その解釈に応じてユートピアのヴィジョンも異なってきます。こうした状況において、「真のユートピア」を求めることは果して可能でしょうか。皆さんのお考えをお聞かせ下さい。
天に意志があり、人間にも意志があります。両者は密接に関係しており、ヘーゲル的に言えば神と人間の相互承認が問題になります。すなわち「人間の上り道」(人間が神を知ろうとする過程)と「神の下り道」(神が人間に自己啓示する過程)は相即しているということです。これがマイスター・エックハルトに代表されるような神秘主義(神が私を見る眼は、私が神を見る眼と同一)に基いていることは言うまでもありません。
こうした考えからすれば、天意(神意)に即した生活に人間の理想があり、それを可能にする社会こそユートピアだと言えるでしょう。しかし天意に即した生活とは如何なるものでしょうか。そもそも天意とは何であり、それを我々は如何にして知ることができるのでしょうか。
カール・バルトはキルケゴールの実存弁証法に基いて、神と人との絶対的(質的)断絶を主張しました。すなわちヘーゲルが言うような「人間の上り道」などななく、ただ神の啓示のみがあるということです。そして彼にとっての神の啓示はキリスト教の聖書のみなので、それを正統的に解釈する権威である教会以外に人間の救いはないことになります。
言うまでもなく、キリスト者以外の人はこうした見解を受け容れられないでしょう。おそらく宗教の数だけ天意(神意)の解釈があると思われます。更に言えば、その解釈に応じてユートピアのヴィジョンも異なってきます。こうした状況において、「真のユートピア」を求めることは果して可能でしょうか。皆さんのお考えをお聞かせ下さい。