消費と生産
奴隷が生産し、主人が消費する――この構図において、誰も奴隷になどなりたいとは思わないでしょう。事実、今では昔のような奴隷制度はなくなりました。しかし、消費するだけの主人が根絶されたとは言えないと思います。勿論、これは「生存」の次元のことです。
人生の本質は「生活」にあります。しかし「生活」をするためには先ず「生存」しなければなりません。そして「生存」を維持するために必要なものを生産することを余儀なくされるのです。基本的には衣食住に関する生産なくして我々は「生存」できないでしょう。こうした「生存」に関する生産活動を「労働」と称するならば、これは全ての人間にとって義務だと思います。
さて、ここで確認しておきたいことは何人たりとも義務労働を免れることはできない、ということです(言うまでもなく、何らかの障害のある方や高齢者は別です)。言い換えれば、義務労働から解放された状態をユートピアと見做すべきではないのです。確かに義務労働からの解放 は一つの理想でしょう。しかし、それは昨日述べたように「主と奴の関係」においてしか可能にならぬものです。その意味において、我々の求めるべき「真のユートピア」は「主と奴の関係」の止揚を絶対条件としなければなりません。
主と奴の弁証法
とびきりゴージャスな生活、同じ靴下を二度履くことのない生活、すなわち「生存」の苦労から完全に解放された生活――それが真のユートピア(理想の生活)でしょうか。
もしそうだとしても、それが可能になるのは一部の「主人」だけでしょう。言うまでもなく、「主人」が「生存」の煩いから自由になるためには、それを引き受けてくれる他者が必要になります。従って、全ての人間が「生存」の苦労から解放される「ユートピア」は原理的に不可能だと言わざるを得ません。それは「主と奴の関係」に基くことなくして成り立たないユートピアです。
一方、宮澤賢治は「全世界の人間が幸福にならなければ、個人の幸福はあり得ない」と言っています。私にとって、これは絶対的な真理です。そして「真のユートピア」はこの真理にこそ基かなければならないと思っています。しかし、それは如 何にして可能になるのでしょうか。言い換えれば、それは先述した「主と奴の関係」に基くユートピアを如何にして切り崩すことができるのでしょうか。この問題について暫く思耕することにします。
取り敢えずの総括
私はこれまで新しき村の変革に努めてきました。しかし結局のところ、誰も私の提案する変革など必要とはしていないようです。尤も「変革を必要としていない」と言うよりも、「私の構想する新しき村を必要とはしていない」と言うべきかもしれません。別に拗ねているわけではありませんが、これが偽らざる現実です。
しかし私には「祝祭共働態としての新しき村」こそ真のユートピアであるという自負があります。新しき村の「真の新しさ」、すなわち「生存」(exist)以上の「生活」(live)の実現、欠乏のニヒリズムをめぐる「水平の改革」に対する過剰のニヒリズム超克を目指す「垂直革命」――ここにこそ若きキルケゴールのいう「そのために生きかつ死ぬことができるような主体的真理」があると思っています。ただ地に足のついていない私の言葉は徒に空回りするばかりで、この虚しさにちょっと堪えられなくなってきました。
何れにせよ、今後の課題は「祝祭共働態としての新しき村」というイデーを如何にして現実に根付かせるか、ということでしょう。率直に言って、今の私はどこから切り込んでいったらいいのか、途方に暮れています。しかし乍ら、「祝祭共働態としての新しき村」は決して私だけの「主体的真理」ではない筈です。それは今のところ未完成のヴィジョンにすぎませんが、何とかして多くの人の結集を可能にするようなイデーへと発展させていきたいと思っています。
メビウスの輪(∞)
どうも論理が錯綜して、次第に理解しがたいものになりつつあるので、この辺りで終わりにしようと思います。そもそもこの便り自体が「場違い」なことばかり書いているようで、とても皆さんの共感を得られそうにありません。それ故、近日中にこの便りにも幕を引くつもりです。
さて、「メビウスの輪」は明確な結論に辿り着くことは到底できませんが、その意図するところは察して戴けると思います。結局、「個即全・全即個」のリアリティ、すなわち「個人幻想」(私的領域)と「共同幻想」(公的領域)は表裏一体になるべきだということです。
繰り返しになりますが、あくまでも「個人幻想」が中心です。しかし「個人幻想」は個人に閉じられている限り、その成就(実現)はあり得ません。そこにはどうしても他者との関係が必要になります。特に愛する人との「対幻想」、それに基く「家庭の幸福」が一つの理想的生活を形成します。そこまでが、広い意味での「個人幻想」の私的領域だと言えるでしょう。
問題は、そこで立ち止まるか否か、です。私自身は幸か不幸か(多分、不幸なのでしょう)「家庭の幸福」を最高のものとする所謂マイホーム主義に立ち止まることができません。この点に多くの人々の共感を得られない最大の理由があると思います。しかし私は何も「家庭の幸福」を犠牲にして「公的領域」に生きよ!と言いたいのではありません。ただ「真のユートピア」というものは、決して「家庭の幸福」に基く「やすらぎの場」に尽きるものではないということが言いたいだけです。
「個人幻想」から「共同幻想」へ――それは断じて滅私奉公を強いるものではありません。しかし、その祝祭的リアリティを説得的に語れるだけの言葉が今の私には欠けているのです。勉強して、出直してまいります。
メビウスの輪(3)
「個人幻想・対幻想・共同幻想」は「個人幻想」を中心とする同心円の三層構造を成しています。すなわち、それは「個人幻想」の発展形態であり、「対幻想」を経て、最終的には「共同幻想」という形態において完成に至ると考えられます。言い換えれば、「個人幻想」が「共同幻想」へと転化・発展して、「個人幻想・対幻想・共同幻想」が真に三位一体となる時、個人の生は「最高の輝き」を得るということです。私はそこに祝祭的輝きを見るわけですが、ここで問題にしたいことは「個人幻想」が「共同幻想」へと転化・発展する過程です。(本来であれば「個人幻想」から「対幻想」への移行についても述べなければなりませんが、それについては余り語る資格がありませんし、徒に問題を複雑にすると思われるので、「個人幻想」と「共同幻想」の関係に焦点を絞ることにします。)
さて、私は「個人幻想」と「共同幻想」の関係を凡そハンナ・アレントのいう「私的領域」と「公的領域」の区別に基いて考えています。ご存知とは思いますが、念の為に一応御紹介しておきます。
私的領域(the private realm)-オイコス(家)の領域-生命の維持に関わ る 活動力
公的領域(the public realm) -ポリス(都市)の領域-共通世界に関わる活動力
これは古代ギリシャの世界観に基くもので、前者(家)の原理は各個人の生命の維持・種の保存であり、男が生命の維持を、女が種の保存を司るというものです。それに対して後者はアリストテレスの言う政治的生活が行われる場で、それぞれの家の代表(家長)が自分たちの政治的共同体を運営、維持する空間です。こうした世界観において、古代ギリシャでは、公的領域に参与することにこそ人間の「本当に生きる意味」があるということになります。
更に言えば、私的領域において中心となる活動は「労働」(labor)であり、公的領域におけるそれは「仕事」(work)とされます。その違いを端的にまとめれば以下のようになります。
「労働」-消費と結びつき、人間の肉体的生命維持を目的とする。その生産物は耐久性のない消費物。
「仕事」-消費に抵抗し、人間の個体生命を超えて存続する「世界」(world)を作り出すことを目的とする。その生産物は「人間の工作物」(human artifice)。
そして極めて大雑把に言えば、人間生活は古代においては公的領域の仕事が中心であったのに対し、近代に至ってその中心が私的領域の労働に移ってしまった、とアレントは指摘します。彼女によれば、そうした逆転こそ現在我々が直面している大量消費社会の環境汚染や資源涸渇といった問題の根に他なりません。それ故、現代の危機的諸問題を根本的に解決するためには、近代における「労働の優位」を覆し、「仕事の復権」が必要だとされるのです。こうしたアレントの問題構成は「祝祭共働態としてのユートピア」を求める私の問題意識と通底しているように思います。(つづく)
メビウスの輪(2)
久しく経験しておりませんが、恋をすると世界が一変します。その人が好きで好きでたまらず、その人と一緒にいることができさえすれば、もう他には何にもいらない――そんな気持になります。そして、その恋が実れば、世界は薔薇色になるでしょう。それが「対幻想のユートピア」です。そこでは、その社会体制が資本主義であるか共産主義であるか等ということは関係がありません。正に「世界は二人のためだけにある」のです。尤も、そうした「二人の世界」を脅かすような社会情勢になれば、話は別です。彼等とて戦わずにはいられないでしょう。しかし、その戦いは「自分達の世界」を守るためのものであり、その本質はエゴイズムです。
私は「対幻想のユートピア」が素晴らしいものであることは認めますが、やはり究極的なユートピアではないと思います。何故なら、それは結局閉鎖的なものにすぎないからです。そこには太宰治が「家庭の幸福は諸悪の本」と言わざるを得なかったのと同様の事情があります。勿論、閉鎖的であろうとエゴイズムであろうと、それが一つのユートピアであることに変わりはなく、それによって幸福になれるのなら構わないのかもしれません。実際、今の社会においては「家庭の幸福」が最高のものであり、それを安全に保障する政治体制のみが求められているように思われます。それは一種の「夜警国家」として求められるユートピアだと言えるでしょう。
それでいいのかもしれません。しかし、私はやはりどこか狂っているのか、それ以上の次元に「最高のユートピア」を求めざるを得ないのです。言うまでもなく、それは「共同幻想のユートピア」です。
ただ誤解のないように断っておきますが、私は「個人幻想」も「対幻想」も否定するつもりは全くありません。むしろ、「個人幻想」と「対幻想」が螺旋状に捩れながら「共同幻想」を生み出していくというのが私の「最高のユートピア」のヴィジョンなのです。(つづく)
メビウスの輪
かつて若き長嶋茂雄が「日本が社会主義の国になったら、プロ野球ができなくなる」と言って、物議を醸したことがあります。その真偽はともかくとして、彼にとっては「プロ野球ができる」ということが最も重要な問題であり、それさえ可能になるなら政治体制など何でもいいでしょう。すなわち、自分の好きな野球で生活していける社会――これが彼にとってのユートピアだと言えます。
こうしたユートピアの構造は別に長嶋に限ったことではなく、彼の場合の野球を様々に変換して、それぞれ好きなことで生活していける社会がそれぞれのユートピアを意味すると思います。しかし、問題は「好きなこと」の質です。
私は人間の生は三つの次元から成り立っていると思います。その区分については様々な考えがありますが、ここでは吉本隆明の「個人幻想・対幻想・共同幻想」に基いて述べます。すなわち、こうした三つの幻想領域に応じて三つの「好きなこと」があると思うのです。
一般的に「好きなこと」と言えば、それは個人幻想、つまり個人のしたいことに他なりません。それが基本です。しかし、「好きなこと」はそうした個人主義的な欲望に限定されるものではないでしょう。愛する人ができれば、その人と一緒に何かをしたいという「対幻想」が生じてくるでしょうし、更に自分の生活している社会全体として何かをしたいという「共同幻想」も生まれてくるでしょう。そして、それぞれの幻想に基くユートピアが思い描かれることになります。(時間がないので、明日につづく)
直線-円環-螺旋
少し整理します。図式的に言えば、「直線と円環の対立を螺旋が止揚する」ということになります。
円環は自足の象徴であり、一つの安定を意味します。そこにはもはや終末はありません。それに対して直線は、そうした円環的安定を嫌い、むしろそれを破壊して終末に向けて突っ走ろうとします。円環は現状肯定派、直線は現状の徹底変革派だと言えるでしょう。
ユートピアの追求とは、基本的に直線運動に他なりません。しかし、何処まで突っ走ればいいのでしょう。終末までだとすれば、そこで成就されるべきユートピアとは如何なるものでしょうか。それが歴史の完成である以上、円環以外には考えられません。ただし、それは直線の止揚としての円環、すなわち螺旋を形成するものと思われます。しかし、単なる円環のユートピアと、その直線的否定の末に辿り着く螺旋のユートピアとでは、一体何が違うのでしょうか。結局「安定」であることに変わりがないのなら、別に円環でいいわけであり、無理をして円環を破壊する必要はないでしょう。
言うまでもなく、私は直線的人間です。「世界はこのままでは駄目だ」と熾烈に思っています。しかし最近、「このままの世界で構わない」という円環的人間が満ち溢れているような現実に押し潰されそうになってきました。弱音を吐くわけではありませんが、自分のやろうとしていることに自信が失われつつあります。
スパイラルとしてのユートピア
勿論、単なる直線運動とスパイラルの直線運動との間には質的な差異があります。ユートピアの理念に関して言えば、前者が排他的かつ不寛容な運動(選民意識)になりがちなのに対して、後者はそれぞれの段階において形成される「やすらぎの場」を一概に否定することはありません。「一概に」という条件がつくのは、「やすらぎの場」の存在を認め乍らも、そこに安住することはしないからです。スパイラルは円環運動でもありますが、本質的には直線運動なのです。
なかなか上手く説明できませんが、私は「ユートピアの理念」には円環的要素(宇宙論)と直線的要素(歴史)の両者が不可欠だと思っています。円環的要素を欠いたユートピアの危険性については昨日少し言及しましたが、直線的要素 を欠いたユートピアも危険なものです。それは極めて閉鎖的なユートピアになるでしょう。たといそれが「やすらぎの場」であったとしても、世界の片隅で或る特定の人達しか生活することを許されぬものなど果してユートピアの名に値するでしょうか。少なくとも私は世界の片隅に実現するユートピアではなく、世界そのものをユートピアにしたいと思っています。それがスパイラルとして求められるユートピアに他なりません。
ユートピアのイロニー
ところで今村昌平監督の「黒い雨」(原作・井伏鱒二)という映画の中で、原爆の悲劇に苦しんでいる或る人が朝鮮戦争の勃発を知って、「人類は未だわからないのか。正義の戦争よりも不正義の平和の方が尊いということを!」と吐き棄てるように叫ぶシーンがあります。最近のイラク戦争も同様ですが、戦争は大抵「正義」の名の下に行われます。また名作「第三の男」の中でオーソン・ウェルズは「戦争によって科学技術などが大きく発展し、素晴らしいものがたくさん生み出された。平和が生み出したのは鳩時計だけだ」と言っています。
こうしたことから言えることは、皆が「正義」の歴史的貫徹を求めず、たとい「不正義」でも争いのない状態の方を選ぶのなら、戦争など起こりはしないということです。それに対して「そんな中途半端な平和に甘んじていては駄目だ。現実に不正義に苦しめられている人が一人でもいる以上、その状況を超克する歴史の完成を目指して戦わねばならない」と考えるならば、戦争は不可避でしょう。
ここに「ユートピアの実現」を求める私のディレンマがあります。世界の片隅に「やすらぎのユートピア」を実現するのなら、問題はありません。しかしあくまでも「終末論的ユートピア」の実現を求めるのなら、どうしても「中流の平和に甘んじている人」を問題にしなければなりません。皆さんはどうお考えでしょうか。