祭の後のさみしさ
私は幼い頃から忠臣蔵が好きでした。皆が一つの精神のもとに連帯し、様々な困難を乗り越えて本懐を遂げる――こういうドラマに感動したのです。
同様の理由から、「大脱走」(The Great Escape)というアメリカ映画も好きでした。個性的な人間が、それぞれの能力(技術)を駆使して、「脱走」という目的に向かって一つになる。忠臣蔵では「滅私奉公」という古き精神による連帯のドラマでしたが、これは正に「one for all, all for one」のドラマだと言えるでしょう。このように多様な人間が、その個性を活かすことで全体的な目的を果すというドラマに、私は堪らない魅力を感じます。
しかし乍ら、問題はその目的を果した後です。忠臣蔵では皆切腹しますが、もし切腹せずに生き続けるとしたら、どんな生き方が可能でしょうか。余談ですが、幼い私は赤穂義士のように自分も切腹できるかどうか思い悩み、その挙句に熱をだしてしまったという苦い経験があります。その際考えたことは、「切腹するのはとても怖いことだけど、切腹せずに逃げても生きようがない」ということでした。実際、本懐を遂げれば、その後の人生は余生にしかすぎないでしょう。
「大脱走」についても基本的に同じ事が言えると思います。勿論、脱走に成功した後も(映画では、数名しか成功しませんでしたが)、戦争が続く限り、新たなミッションがあるでしょう。しかし、戦争が終わった後はどうでしょうか。平和を満喫できればいいのですが、なかなかそうはいきません。と言うのも、「戦争における直線的生」から「平和における円環的生」への移行には或る困難さが伴うからです。ちなみにThe Best Years of Our Lives (1946)という映画はそうした困難さを見事に描いた作品だと思います。
確かに戦争は悲惨です。しかし、その反面、戦争ほど人間の生を充実させるものはない、ということも事実ではないでしょうか。それは或る目的に向かって突っ走る「直線的生」の充実です。尤も戦争がその典型ですが、「直線的生」の充実は何も戦争に限られるものではありません。あらゆる祭にそうした充実は見出されるでしょう。しかし、祭はやがて終わります。そして後には底なしのさみしさがやってきます。「祭の後のさみしさは死んだ女にくれてやろう」という歌がありますが、実際、「祭の後のさみしさ」を如何に克服するかが祝祭的生の根源的問題だと言えるでしょう。
螺旋的充実としての祝祭
「共生―競争―祝祭」という図式は「円環―直線―螺旋」の弁証法に正確に対応します。すなわち私にとって「真のユートピア」とは、生の螺旋的充実である祝祭空間なのです。それは共生と競争の対立を真の意味で止揚するものに他なりません。
しかし、こうした図式的なことを繰り返していても意味がないでしょう。重要なことは、「螺旋的充実としての祝祭」とは具体的に如何なるものか、ということです。そして、それを明確にするためには、やはり円環と直線の関係について更に思耕を深める必要があると思います。円環(共生社会)は何故、直線(競争社会)へと移行するのでしょうか。
直線と円環の関係は戦争と平和の関係に準えることができます。もし平和が完全な円環であるなら、平和は永久に持続するでしょう。しかし、人類のこれまでの歴史(例えば、PAX ROMANA=ローマの平和でさえ崩壊したこと)を振り返ってみると、残念乍ら平和は必ず戦争へと移行すると言わざるを得ません。何故でしょうか。
私は先日、ドストエフスキイの「おかしな男の夢」について述べました。この作品では「或る男」が平和な共生社会に「競争原理」を吹き込んだことが切掛になって戦争が起こります。では、この男さえ来なければ、平和な共生社会は永久に続いたでしょうか。もしかしたら、そうかもしれません。しかし、我々は「競争原理」をもたらすその男の出現を止めることはできないでしょう。何故なら、その男は我々の心の奥底からやって来るからです。三島由紀夫の言葉を借りて、我々の心の「荒野より」、と言ってもいいでしょう。
勿論、一口に「競争原理」と言っても、互いの生長を促す「良き競争原理」と相手の否定を目的とする「悪しき競争原理」があるでしょう。しかし、何れも「競争原理」であることに変わりはありません。すなわち、「良き競争原理」と「悪しき競争原理」は表裏一体のものであり、前者だけを選ぶというわけにはいかないのです。ここに「競争原理」が魔力である所以があります。
共生―競争―祝祭
「新生会」では今、Y氏の主導で「共生経済」についての勉強会が始まろうとしています。題材はNHKで先頃放映された内橋克人氏の人間講座「共生経済が始まる:競争原理を超えて」です。未だ「新生会」の活動は具体化していませんが、こうした試みを通じて、「新しき拠点」を摸索していければと思っています。
ところで、「共生経済」と言えば、そもそも新しき村こそ「自他共生」の理想実現を求めてきた筈です。しかし、繰り返し申し上げているように、村の現実はその理想には程遠いものだと言わざるを得ません。実に残念なことですが、我々はこの現実から出発する他はないでしょう。そして、その第一歩こそ「新生会」の活動なのです。それが具体的にどうなるかは今後の話し合いで決まっていくと思いますが、如何なる活動になるにせよ、「共生原理」に基くものになることだけは間違いありません。
しかし、問題は「共生原理」とは何か、ということです。それは本当に「競争原理」を超えることができるでしょうか。私は先日の便りで、「共生社会」の問題は倦怠だと書きました。それに対して、「共生社会は倦怠を引き起こすような社会ではない」というコメントを戴きました。私はそのご意見に基本的に同意します。と言うより、我々は「倦怠を引き起こすことのない共生社会」をこそ実現しなければならないと思っています。正にそれが「競争原理」を真に超える「共生社会」だと言えるでしょう。果して、そのような真の「共生社会」は如何にして実現するのでしょうか。
私はここで、一つの弁証法的な図式を示したいと思います。それは「共生―競争―祝祭」というものです。すなわち、始源の楽園とも言うべき「共生社会」から「競争社会」を経て、最終的に「祝祭社会」に到達するというヴィジョンです。この図式において、「祝祭社会」こそ真の「共生社会」の実現を意味することは言うまでもありません。
魔力としての「競争原理」
私は少し先走り過ぎたようです。やはり「共生社会」の問題点を論じる前に、「競争社会」の克服にこそ集中すべきでしょう。そこで「競争社会」の問題点、殊にそれを成り立たせている「競争原理」について思耕してみたいと思います。
ドストエフスキイの短編に「おかしな男の夢」という作品があります。これは皆が平和に暮らしている「共生社会」に或る男が飛び込み、そこに「進歩・発展」の精神(これは我々の文脈では「競争原理」と言い換えてもいいと思います)を吹き込んだ御蔭で、結果的にその社会の平和が崩れ、やがて戦争が始まる――というようなストーリーだったと記憶しています。ここにあるテーマは、私が以前に「円環と直線の関係」で問題にしたことに通じます。すなわち「円環のユートピア」(共生社会)が「直線の精神」(競争原理)に直面することは不可避だという問題です。
確かに人類は有史以前(文明以前)の始源に、原始共産制とも言うべき「共生社会」に平和に暮らしていたのかもしれません。ドストエフスキイもそれを人類の「黄金時代」として、その回復を求めるドラマを繰り返し描いています。しかし、その試みはことごとく挫折します。何故か。人間は自由だからです。サルトルは「人間は自由に呪われている」と言いましたが、本質に先立って実存する人間の自由は魔力に他なりません。
そもそも人類が始源の「共生社会」に生きていたとしても、何故それが失われ、「競争社会」へと移行したのでしょうか。三流の宗教者は全て人間の罪に因るものだと言うでしょう。しかし、人間が自由であることを罪だと言ったところで、問題の根本的な解決にはなりません。と言うのも、人間が自由である限り、一度その罪を悔い改めて「共生社会」に戻ることができたとしても、それは再び「競争社会」に転化することを止められないからです。
確かに現代の「競争社会」には様々な弊害があります。言うまでもないことですが、私は何も「共生社会」よりも「競争社会」の方が良いと主張しているのではありません。むしろ、冒頭でも述べたように、あくまでも「競争社会」の克服を目指しているのです。しかし、その克服は決して容易なことではありません。何故なら、誤解を恐れずに敢えて言えば、「競争社会」には魅力があるからです。スポーツ、受験、ビジネスなど、そうした分野に明らかなように、「競争原理」には人間の生を輝かせる魔力があります。勿論、輝くのは勝者の生だけですが、「競争原理」があるが故に、人間社会が豊かになる(予め断っておけば、この豊かさが今後の問題になります。すなわち、人間の本当の豊かさとは何か、という問題です)ということは言えるでしょう。正に「競争原理」は我々にとって「禁断の果実」に他なりません。果して我々はこの果実を拒否できるでしょうか。
ユートピアにおけるスピード
私は何を言おうとしているのか。時間の関係上あまり論理的な整合性に気を遣わずに書き進めていますので、前後矛盾する点もあるかと思います。しかし、「真のユートピアの追求」という一線だけは保っているつもりです。
勿論、「真のユートピア」といっても、一つに限定しようというのではありません。おそらく、様々なユートピアがあることでしょう。私はそれを認めます。ただ私はこの便りを通じて、「究極的なユートピア」というものを見極めたいと思っているにすぎません。それ故、私の便りに少しでも違和感を覚えたら、ご意見をお寄せ下さい。何でも構いません。そのご意見を糧にして、更に「真のユートピア」をめぐる思耕を進めていきたいと思っています。
さて、ここ数日、「オブローモフおよびデクノボオのユートピア」ということで考えていることは、ユートピアにおける「競争原理の止揚」という問題です。現代社会は多かれ少なかれ「競争原理」によって成り立っています。それは自由競争社会と言ってもいいでしょう。言わば弱肉強食の社会、すなわち能力のある者が富み、能力のない者は貧困に苦しむ社会です。また能力があっても、社会の貧困層に生まれたが故に、それを活かすことができないという問題もあるでしょう。我々はこうした「競争社会」を何としてでも克服しなければなりません。
しかし乍ら、「競争社会」の克服とは一体何を意味するでしょうか。言うまでもなく、「共生社会」です。従って、「共生社会」の実現こそ「真のユートピア」に向けての第一歩だと言えるでしょう。先ず、この点を確認しておきます。
その上で、私は「共生社会」を問題にしたいのです。未だ「共生社会」が実現されてもいないのに、その問題点について考えることは一種の杞憂に基くものだと嗤われるかもしれません。しかし私は「共生社会」が「真のユートピア」だとは思っていないのです。或る意味で、そこには「競争社会」以上の問題があると言えるでしょう。それは倦怠です。
「生活」のスピード
私はオブローモフをそのまま肯定するわけではありません。彼はラディカルに変わる必要があります。しかし、オブローモフにこそ「真に新しきもの」を生み出す可能性があると思っています。そこで、その可能性について少し考えてみたいと思います。
或る考古学者が日本の古代人の特性について語っていたことがあります。例えば一日かかっていた労働が道具の発明などによって半日で済むようになる。問題はあとの半日をどう過ごすかということです。その考古学者によれば、南洋の古代人は昼寝をしたそうです。それに対して日本の古代人は、残りの半日も労働したということです。
もとよりこの対比によって私の言いたいことは日本人論ではなく、あくまでも「人間として本当に生きること」についてです。言うまでもなく、生産性をあげることだけを考えて労働し続けることは、たといそこに生の充実を感じるにしても、決して長続きするものではないでしょう。しかし私は、昼寝をすることに「本当の生」があるとも思いません。更に言えば、「適度に労働し、適度に休息する」という生き方にも疑問を感じています。勿論、それが悪いというのではありません。ただ「モーレツに労働すること」は言うに及ばず、「休息もしくはレジャーを中心とした生き方」も「人間として本当に生きること」ではない、と思っているにすぎません。
なかなかうまく表現できないのでもどかしいですが、私は基本的に「スローライフ」を肯定しています。しかし、それは主に「生存」の次元における生産活動、すなわち労働に関してのことです。そうした労働に追われる忙しい「生活」は決して人間本来のものではないでしょう。その意味において、「スローライフ」が絶対的な条件となります。しかし――ここから少し理解しがたいことに突入しますが――「スローライフ」が我々の最終目的地ではないと思うのです。
私の求める「デクノボオによる革命」は、「スローライフ」を超え、再びスピード溢れる「生活」を実現するものです。ただし、それは「労働における生産性のスピード」ではなく、「仕事における創造性のスピード」に他なりません。
デクノボオによる革命
私はきれいごとを言うつもりはありません。かつて「モーレツからビューティフルへ」という言葉が流行しましたが、「シュトルツからオブローモフへ」ということの真意は少し違います。
確かに私はデクノボオであるオブローモフの復権を考えています。それは所謂「スローライフ」の復権にも通じていますが、そのことは決して「非生産的な生き方」の肯定ではありません。例えば、「スローライフ」に関連して「頑張らない生き方」が新たな美徳のように言われていますが、私はそこに非常な違和感を覚えます。それは先日述べた「やすらぎの場としてのユートピア」に対する違和感にも通じるものです。
この点に関して私は未だ論理的にうまく説明できないので、誤解を招くかもしれません。ただ感覚だけで言えば、生産的な生き方こそが生を輝かせることができる、と思っています。尤も、「生産的」というより「創造的」と言った方がいいかもしれません。そこに微妙な差異があります。
シュトルツは間違いなく生産的な人間です。しかし、それは確立した社会の中でのみ発揮される生産性にすぎません 。すなわちシュトルツの生産性は「真に新しきもの」を生み出すことのないものなのです。その意味において、シュトルツは生産的ではあるけれども、創造的ではないと言えるでしょう。更に言えば、今は何もしていない非生産的なオブローモフにこそ創造性の芽があると私は思っています。
オブローモフとシュトルツ
人間の類型としてハムレット型とかドン・キホーテ型というものがありますが、ここではオブローモフ型とシュトルツ型について考えてみたいと思います。簡単に言えば、前者は非生産的人間、後者は生産的人間の典型に他なりません。
オブローモフは社会にとって「無用者」ですが、決して単なる怠け者ではないと思います。彼はいつも夢見るように「理想的生き方」について考えています。勿論、考えているだけで、結果的に何もしていないことは事実です。その意味において、オブローモフは現代の「ニート」と呼ばれる若者達の元祖だと思われます。
それに対してシュトルツは何事もテキパキとこなす有能な人間です。彼は親友のオブローモフのことを何かと心配するなど、人間性の面においても問題はありません。 おそらくオブローモフとシュトルツの何れになりたいかと問われれば、十人が十人、シュトルツのような人間になりたいと答えるでしょう。シュトルツは社会的にも個人的にも「求められている人材」に他なりません。
しかし乍ら、オブローモフには不思議な魅力があります。それは宮澤賢治のいう「デクノボオ」に通じる魅力です。確かに彼は「無用者」には違いありませんが、人々に何となく「サウイフモノニワタシハナリタイ」と言わせる力があります。そこに「真のユートピア」の原点があるのではないでしょうか。
商品価値と使用価値
新しき村を「人間として本当に生きること」を求める全ての人に開かれた場にしたいという「新生会」の問題提起以後、村は逆にますます閉鎖的になりつつあります。それは恰も我々の目指す方向に対抗しているかのような気さえしています。それ故、この便りを続ける意味もなくなったように思ったのですが、村を完全に離れてしまうまでは続けることにしました。そもそも私の求めるユートピアは最初から「新しき村」に限定されるものではありませんし、これから「新しき拠点」をつくるためにも私の思耕を発信することにはそれなりの意味があると思うからです。もとより文章が硬くて読みづらいとは思いますが、一人でも多くの共鳴者を求めて書き続けるつもりです。今後ともよろしくお願いします。
さて、昨日は時間がなくて中途半端なものになってしまいました。少し整理したいと思います。
人間には生産者と消費者の二面があるとすれば、問題はそれぞれの人間における生産能力の違いです。一つの理想として、「各自の能力に応じて生産し、必要に応じて消費する」ということが考えられます。しかし、例えば10の生産能力のある人が10の消費を必要とするのならいいですが、5の生産能力しかない人が10の消費を必要とした場合にはどうしたらいいのでしょうか。また全ての生産物が商品になるとは限りません。使用価値のない商品もあるでしょうが、たとい使用価値があっても、それがそのまま商品価値にならないのは言うまでもありません。そもそも商品とは一体何なのでしょうか。
全ての人間が本当に人間らしく生きられるユートピアにおける生産と消費――ここに「オブローモフの問題」があると思います。
オブローモフのユートピア
人間の生は生産と消費から成り立っていると思います。ただし、ここでいう生産は単に「モノづくり」に限定されるものではなく、知的活動とかサービスなど目に見えないものも含まれます。
さて、そうした広い意味で生産を考えれば、人間には生産者と消費者の二面があることになります。と言うのも、独力で全ての必要物を生産するのは不可能であり、人は否応なく他者の生産物を消費せざるを得ないからです。勿論、そうした消費活動は自分の生産物が他者によって消費されるということに裏打ちされねばなりません。すなわち生産と消費は相互的(reciprocal)なもので、生産者であることが消費者であることの条件であると思います。そして様々な生産物を相互に享受し合うところに祝祭的生活が生まれてくるでしょう。
もしかしたら、こうした考えは一種のエリート主義に基くものだと思われるかもしれません。特権的に生産者になることを免除されている「主人」どもは論外ですが、世の中には様々な条件によって生産者になれない人がいるのは事実です。またそれぞれの能力によって生産物の量と質に違いも出てくるでしょう。それは認めなければなりません。しかし私の思い描くユートピアは決して「素晴らしいものを生産することのできる人たち」だけに限定されるものではありません。
確かに人間にはその生産能力に差があります。しかし生産能力が全くない人などはいないでしょう。人間として生きることは何かしらの生産を成すことです。問題はその生産物が「商品」に値するか否かということにあります。私はその「商品―生産」の構造を超克したいのです。