魔力としての「競争原理」
私は少し先走り過ぎたようです。やはり「共生社会」の問題点を論じる前に、「競争社会」の克服にこそ集中すべきでしょう。そこで「競争社会」の問題点、殊にそれを成り立たせている「競争原理」について思耕してみたいと思います。
ドストエフスキイの短編に「おかしな男の夢」という作品があります。これは皆が平和に暮らしている「共生社会」に或る男が飛び込み、そこに「進歩・発展」の精神(これは我々の文脈では「競争原理」と言い換えてもいいと思います)を吹き込んだ御蔭で、結果的にその社会の平和が崩れ、やがて戦争が始まる――というようなストーリーだったと記憶しています。ここにあるテーマは、私が以前に「円環と直線の関係」で問題にしたことに通じます。すなわち「円環のユートピア」(共生社会)が「直線の精神」(競争原理)に直面することは不可避だという問題です。
確かに人類は有史以前(文明以前)の始源に、原始共産制とも言うべき「共生社会」に平和に暮らしていたのかもしれません。ドストエフスキイもそれを人類の「黄金時代」として、その回復を求めるドラマを繰り返し描いています。しかし、その試みはことごとく挫折します。何故か。人間は自由だからです。サルトルは「人間は自由に呪われている」と言いましたが、本質に先立って実存する人間の自由は魔力に他なりません。
そもそも人類が始源の「共生社会」に生きていたとしても、何故それが失われ、「競争社会」へと移行したのでしょうか。三流の宗教者は全て人間の罪に因るものだと言うでしょう。しかし、人間が自由であることを罪だと言ったところで、問題の根本的な解決にはなりません。と言うのも、人間が自由である限り、一度その罪を悔い改めて「共生社会」に戻ることができたとしても、それは再び「競争社会」に転化することを止められないからです。
確かに現代の「競争社会」には様々な弊害があります。言うまでもないことですが、私は何も「共生社会」よりも「競争社会」の方が良いと主張しているのではありません。むしろ、冒頭でも述べたように、あくまでも「競争社会」の克服を目指しているのです。しかし、その克服は決して容易なことではありません。何故なら、誤解を恐れずに敢えて言えば、「競争社会」には魅力があるからです。スポーツ、受験、ビジネスなど、そうした分野に明らかなように、「競争原理」には人間の生を輝かせる魔力があります。勿論、輝くのは勝者の生だけですが、「競争原理」があるが故に、人間社会が豊かになる(予め断っておけば、この豊かさが今後の問題になります。すなわち、人間の本当の豊かさとは何か、という問題です)ということは言えるでしょう。正に「競争原理」は我々にとって「禁断の果実」に他なりません。果して我々はこの果実を拒否できるでしょうか。