自覚的生産者
新しき村のO氏は、数年前に村の稲作責任者になって以来、ずっと無農薬・無化学肥料による米づくりに挑んでいます。それ以前の責任者の下では、慣行農法に従って渋々農薬などを撒布していましたが、その前任者が離村したのを機に有機栽培に切り替えたわけです。余談ながら、村では直接の責任者の離村ということでもなければ、なかなか新しい試みを始めることはできないでしょう。おそらく彼も、村の米づくりのヴェテランである前任者の離村ということがなければ、無農薬・無化学肥料栽培に挑戦することはできなかったと思います。
何れにせよ、彼は今、自分の理想とする米づくりの実現を目指して悪戦苦闘しています。それは主に草との戦いで、除草の手段としては水田に糠を撒く程度で後はひたすら草取りの日々が続きます。その労力たるや実に大変なもので、生来怠け者の私にはとてもできないことだと毎年痛感しています。
何故彼は、そんな苦労までして無農薬・無化学肥料栽培に固執するのでしょうか。或る時、彼にその理由を尋ねると、「別に消費者に安心で安全な米を提供しようなどということは考えていない」という応えが返ってきました。彼によれば、「ただ生き物を殺したくないから」というのが農薬を使わぬ主な理由なのです。
この点においては徹底しており、彼は自分が風邪をひいても、決して薬を服用しようとはしません。つまり抗生物質で菌を皆殺しにすることなく、ただ自分の身体の抵抗力を信じて、何日も咳をし続けるのです。また捨て犬の治療に何万円も支払ったり、とにかく生き物を大切にするのです。
こうした姿勢で米づくりに取り組むO氏は間違いなく「自覚的生産者」であると言えるでしょう。しかし、そこには様々な問題があると思います。
自覚的消費者
実践に向けての便りを続けます。
自覚的消費者は多分に意識の問題なので、その気になりさえすれば誰でもすぐになれるように思われます。しかし、理念的には「多少割高でも環境に優しい商品を買わなければ…」と思っていても、経済的には安い商品につい手が伸びてしまうというのが現実ではないでしょうか。勿論、内橋氏が紹介しているデンマークの例のように、環境に優しい商品を購入する自覚的消費者が増えれば、その商品のコストもやがて下がってくるでしょう。その意味でも、自覚的消費者の輪を広げていく運動が必要なのは言うまでもありません。
しかし乍ら、現在の所謂「環境ビジネス」を見ていると、環境に優しい商品は一種のブランド品に堕しつつあり、一部の金持しか買えないようなものになっているような気がしてなりません。確かに現時点では環境に優しい商品を生産するためにはコストがかかり、どうしても高価なものになってしまうでしょう。しかし何とかして一般の人が普通に購入できるようにできないものでしょうか。
自覚的消費者の輪を広げてコストを下げるということも重要ですが、所謂「安心で安全なも の=本物」を普通に流通させるマーケティングを早急に構築する必要があると思います。尤も、私自身はその点に関して専門家ではないので、様々な人の協力が不可欠です。多くの人の知恵を結集して、新生会の活動を進めていきたいと思います。
マンダラとしてのユートピア
少し先走ることになるかもしれませんが、リーダーを必要としない「主体的生活者」の反組織的共働態こそ私の求める「真のユートピア」だと言えます。それは個々の「主体的生活者」が中心となる祝祭的マンダラに他なりません。勿論、こうしたヴィジョンは現時点では実現不可能な「妄想」にしかすぎないでしょう。そもそも私自身が先ず「主体的生活者」になる必要があります。
しかし乍ら、そうしたヴィジョンを共有する人々が結集・連帯して、「取り敢えずのユートピア空間」をつくることは可能だと思います。それが遠い将来に「真のユートピア」を実現する「拠点」になるでしょう。私は「新生会」をそのような「拠点」にしたいのです。
具体的な構想としては、下記のような二つの「拠点」が考えられます。
1.「自覚的消費者」の連帯を目指す、 販売を中心とした拠点(都市部)
2.「自覚的生産者」としての拠点(郊外)
もとより新生会の当初の構想では、「生産・加工・販売」の三位一体を目指していたわけですが、それはあくまでも新しき村を前提にしたものです。将来その実現を試みるにしても、当面新しき村という前提なしに「拠点」を考えるならば、生産と販売の何れかに焦点を絞る必要があるでしょう。そして、差し当っては「1の拠点」の方が現実的だと思っている次第です。
主体性と共生
昨日の便りで述べた「主体的生活者」の概念の問題点は、その主体性を「誰にも依存しないこと」と解した点にあると思います。すなわち、「主体的に生活すること」は「誰にも依存しないこと」ではない、ということです。それは自立が孤立とは異なり、常に連帯と相即したものであるのと同じ論理に基いています。
従って、「主体的生活者」はあらゆる分野において専門家になる必要はありません。かつて或るエンジニアが「自分達は死ぬほどの苦労をして新しい商品を開発する。しかし、消費者はそれを何の苦労もなく簡単に使うことができなければならない」と言っていましたが、そこにあるのは「依存関係」ではなく「信頼関係」だと思います。ただし、この違いが詭弁に陥らないようにするためには、生産者と消費者の関係を真に循環的なものにする必要があるでしょう。すなわち、或る専門家の生産物を信頼して使用する消費者は、同時に他者に信頼される物を生産する専門家でなければならない、ということです。この場合の「専門家」とは所謂プロフェッショナルという意味であり、その技能の信頼に基く「生産―消費」の循環(相互交通)にこそ労働の本質があるのではないでしょうか。
尤も、現実には、「信頼関係」は容易に「依存関係」に堕してしまうでしょう。それ故、或る専門家を信頼するにしても、その分野に関する或る程度の知識は必要になってきます。また、専門家としても、その基本的知識を一般消費者に与える努力をしなければなりません。例えば医者の所謂「インフォームド・コンセント」のようなことが、様々な分野でも必要だということです。それが「自覚的生産者」の義務もしくは責任だと思います。
何れにせよ、そうした「自覚的生産者」と、それを信頼する「自覚的消費者」によって「共生社会」は成立すると私は考えます。そして、そのような社会の有機的な一員として生きる者こそ、「主体的生活者」なのです。主体性と共生は相即しています。
主体的生活者
この便りでは、二つのことを行ないたいと思います。一つは「真のユートピア」のヴィジョンを理論的に追求すること、もう一つは「取り敢えずの理想」に向けての実践の摸索です。そもそも当初の予定では、後者こそ私の目的だったのですが、なかなか具体的な一歩を踏み出せないでいるうちに、自ずと前者の方に流れてしまったようです。そこで今回は実践的な課題について思耕してみます。
ユートピアへの現実的な一歩としては、やはり「共生社会」の実現ということが考えられるでしょう。私はその核心として「主体的生活者」ということを考えています。すでに内橋克人氏も「自覚的消費者」ということを言われていますが、それと「自覚的生産者」を合わせて「主体的生活者」という概念を提案したいと思います。しかし、そこには大きな問題があります。
言うまでもなく、主体的かつ自由に生きることは易しいことではありません。厳密に言えば、そこには相当の知識と努力が必要になるでしょう。例えば、外国語の知識のない人は翻訳者や通訳に依存せざるを得ません。従って、外国語の書物を主体的に解釈したり、外国人と自由に会話するためには、その外国語を自分で習得する必要があります。しかし乍ら、こうした必要は全ての人が満たせるわけではないでしょう。
勿論、問題は外国語の習得に限られません。医学の知識のない者は医者に依存し、工学の知識のない者はエンジニアに依存することになります。それ故、論理的に「主体的生活者」というものを考えるならば、それはあらゆる知識を有する神の如き存在者になるでしょう。それは事実上、不可能なことです。
やはり現実的に考えれば、一般人は専門家への依存を否定することはできないでしょう。また依存した方が生活の能率化になると言えます。これは私がアメリカで勉強していた時のことですが、「アメリカの学生は文献を原典で読むことをあまりしない」という私の指摘に対して、或るアメリカ人学生は「アメリカでは、一部の秀才が原典を訳して、スタンダードの英語版を作成する。我々はそのスタンダードに基いて研究を発展させるのだ」というようなことを言いました。確かに語学に費やす労力を全て研究に注いだ方が合理的に違いありません。研究に限らず、アメリカでは全てにおいてこのような合理化が支配的で、一部の秀才たちがマニュアルを作成し、一般大衆はそのマニュアル通りに行なうということになると思います。しかし、これは一見能率的ではありますが、極めて危険なことではないでしょうか。少なくとも一部の秀才たちをリーダーとし、彼等に全面的に依存することは「共生社会」とは言えません。
しかし乍ら、もしマニュアル人間として生活することを拒絶するならば、我々は一体どう生活すればいいのでしょうか。先に述べたように、真に主体的に生活しようとすれば誰にも依存することのない「神の如き存在者」になることが求められますが、それは事実上不可能です。かくして「主体的生活者」という概念は大きな壁に直面することになります。どこに問題があるのでしょうか。
ヴィトゲンシュタインの梯子
また先走りしてしまったようです。最近の便りに関して「消化不良」とのご批判を戴いたので、少し問題を整理して、消化しやすくしたいと思います。やはり牛を丸ごと差し出しても、食べられぬのは当然だと反省しております。
さて、この便りの目的は「人間が本当に生きること」を実現する「真のユートピア」を皆さんと一緒に摸索していくことにあります。このように「本当に」とか「真の」という言葉を多用することについては、すでにその真意を明らかにしたつもりでしたが、未だ疑念があるようなので弁明したいと思います。昨日戴いたご批判に対するコメントでも述べましたが、私の「真なるもの」の探究はニーチェの「認識の遠近法」に基くものです。すなわち私にとって真理とは、発掘されるべき「唯一のもの」ではなく、風の中に舞っている「多元的なもの」にすぎません。その意味において、私もまた、この世に唯一の「真なるもの」があるとは思っていません。
そもそも神が死んだ現代において、唯一絶対の真理などあり得ないでしょう。ただ、次のようなことは言えると思います。それはドストエフスキイの『悪霊』の中で描かれるキリーロフとスタヴローギンとの対話にあることです。そこで「この世の全てがいい」というキリーロフに対して、スタヴローギンは「では、罪もない赤ん坊が面白半分に殺されても、それでもいいのか」と反論します。それに対してキリーロフは「いい」と答えますが、「ただし、この世がすべていいということを知った者は、そんなことはしない」と付け加えます。言うまでもなく、キリーロフの答えは論理的に矛盾しています。しかし、そこには何か非常に大切な「真なるもの」があるように思います。
おそらく、この世に「真なるもの」などはないと思っていても、人間はその追求を止めないでしょう。「ユートピアの追求」についても同じことが言えると思います。様々な人間が渦巻く中で、全ての人間が幸福に生きられる「理想社会」の実現など不可能です。しかし、それにも拘らず、その追求は止められない、と言うより止めるべきではないでしょう。
確かに私の理想とする「祝祭共働態」には未だ理解しがたい面が多々あると思います。しかし、たとい「妄想実験」だと見做されても、「真のユートピア」のヴィジョンを明確にする必要があると私は考えています。それについては徐々に具体化していくつもりですが、ここではその基本姿勢に関して、僭越ながらヴィトゲンシュタインの次のような言葉を借りたいと思います。
「私を理解する人は、私の命題を通り抜け―その上に立ち―それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行う。(言わば、梯子をのぼりきった者は梯子を投げ棄てねばならない。)私の諸命題を葬り去ること。その時、世界を正しく見るだろう」
勿論、ヴィトゲンシュタインはこの後、「語り得ぬものについては、沈黙せねばならない」と締め括るわけですが、私が沈黙に至るまでには、まだまだ語り続けねばならないと思っています。
ユートピアにおけるリーダーシップ
昨日時間がなくて書き足りなかったことを少し補足します。
新しき村が曲がりなりにも今日まで存続してきた最大の理由は、基本的に強制ということがなかったことだと思います。尤も、養鶏が盛んだった頃には、その事業をブルドーザー式に拡大するというような有無を言わせぬ雰囲気があったようです。しかし、それが嫌なら村を去ればいいわけで(事実、多くの若者が離村したようです)、少なくとも「誰かに無理矢理従わせられる」ということはなかったと思います。そして、養鶏事業の衰退とともに何かを強力に推進するという雰囲気もなくなり、今の村は個々バラバラに自分のペースで労働しているという感じです。それは或る意味で気楽な状況だと言えますが、私には「新しき村の本質」を見失った閉塞状況としか思えません。
実際、村の現状を閉塞的だと見做すのは私だけではなく、少なからぬ人が危惧の念を抱いています。そして、そうした人達が決まって口にする村の問題点は「リーダーシップの欠如」です。すなわち経済を含む村の運営方針を明確に見定め、それを具体的に実行する人物の登場を待望しているのです。しかし乍ら、私はそこで考え込んでしまうのです。果して、「真のユートピア」に「リーダー」は必要でしょうか。
現実問題として、リーダーなき組織など考えられないでしょう。そこで普通に考えれば、「理想の組織」を求めることは「理想のリーダー」を求めることに等しくなります。しかし私はそうした構造をこそ超えなければならないと思うのです。すなわち、「真のユートピア」を求めることは「理想の組織」を求めることを超えているということです。更に挑発的に、「真のユートピア」は組織でさえない、と言ってもいいでしょう。おそらく、現実離れした議論にしか思えないかもしれませんが、「真のユートピアは反組織である」というテーゼには核心的な問題があると私は思っています。
何れにせよ、これは極めて大きな問題で、すぐに答えが出るようなものではありません。昨日の便りで批判した前衛主義とリーダーシップの関係など、今後少しずつ思耕を深めていきたいと思います。
ユートピア実現への「廻り道」
ヘーゲルは理想社会実現への「廻り道」(Umweg)について論じています。それは最終目的に至る過渡的段階として、政治的能力に優れている者に権力を集中するというものだったと思います。手許に文献がないので確かなことは言えませんが、この「廻り道」は、例えばプロレタリアート独裁、もしくは労働者の代表であるソヴィエトに全ての権力を集中させるという言わば前衛主義に通じるものだと理解した記憶があります。すなわち、これは昨日の便りで言及した「大審問官」の論理に他なりません。
ところで、「ユートピアとファシズム」の便りに戴いたコメントにもありましたが、正直言って私も、新しき村の「大審問官」になろうかと考えたことがあります。すなわち、様々な権謀術数を弄して村の運営を自由に行える「独裁者」の地位を得て、その上で村の改革を推進する方が結果的に近道かもしれないと思ったのです。確かに「虎穴に入らずんば虎子を得ず」と本気で思っているのなら、そうすべきだったかもしれません。
しかし乍ら、そうしたマキャベリズムによる権力奪取の「廻り道」は、たとい近道のように見えても、やはり「真のユートピア」には通じていないのではないでしょうか。一般的には「目的が手段を正当化する」と言えるかもしれませんが、「ユートピアの追求」に関しては当て嵌まらないと思います。むしろ、ユートピアの場合には、そこに至る過程こそが重要ではないでしょうか。少なくとも一握りの前衛が大衆をリードしていくという図式は、もはや決定的に時代遅れ、と言うよりも「古き精神」に属することでしょう。従って、たとい時間がかかっても、「主体的自由」に自覚的な同志の結集を求めていくしかないと私は思っています。皆さんはどうお考えでしょうか。
ユートピアにおける主体的自由
新しいローマ法王が決まりました。キリスト教徒ではない私に特別な感慨はありませんが、サンピエトロ大聖堂前の広場に集まって歓喜の涙を流している人々には羨ましさを禁じ得ません。どうも色々な人を羨ましく思ってばかりいるようですが、敬虔な信徒に対する羨ましさは単純素朴な若者達に対するそれとは質的に異なっています。端的に言えば、後者が「直線的生におけるナイーヴさ」だとすれば、前者は「円環的生におけるナイーヴさ」だと言えるでしょう。
ところで、ローマ法王と言えば、私はイヴァン・カラマーゾフが提起した「大審問官」の問題を連想します。周知のように大審問官は、民衆に自由を説くイエスを糾弾し、むしろそれを放棄させる絶対的権威(カソリックの宗教的権威)のもとでの平和を主張しました。それは全ての人間を畜群化することによるユートピアだと言えるでしょう。
確かに自由を放棄し、全てを所謂「御上」に委ねてしまえば、随分楽に生きられることでしょう。それは言わばプラトンの言う「哲人政治」であり、為政者さえ賢人であれば、民衆は難しいことに煩わされることなく、平和かつ安楽に日々を暮らせるのかもしれません。しかし、果してそれが「真のユートピア」だと言えるでしょうか。
言うまでもなく、現代社会では暴君的な為政者の存在は概ね許されなくなりました。しかし、たとい為政者が賢人でも、民衆がその「主体的自由」を売り渡してしまっては、到底「真のユートピア」など実現できないと思います。繰り返しになりますが、それは「家畜のユートピア」にすぎません。
勿論、私はサンピエトロ大聖堂前の人々を「主体的自由」を売り渡してしまった人々だというつもりはありません。ただそこに宗教的権威の力をまざまざと見ただけです。
何れにせよ、私がここで言いたいことは、「真のユートピア」は決して誰かから授けられるものではなく、あくまでも自分たちの「主体的自由」の力によって実現する他ないものだ、ということです。これは我々にとってすでに自明のことではありますが、敢えて確認しておきます。
ユートピアとファシズム
もし戦争を実際に経験された方にこの便りをお読み戴いているとすれば、その方は私の戦争に関する見解にウンザリされているでしょう。「戦争が人間の生を輝かせるだと? ふざけたことを言うな!」と憤慨されているかもしれません。確かに私は戦争を知らず、だからこそ「戦争には人間の生を輝かせる要素がある」などと呑気なことを書いていられるのだと思います。しかし、戦争という限界状況は決して長続きするものではありません。それはやがて終わり、戦争の経験者の減少とともに「戦争の悲惨で醜悪な面」はいつしか忘れ去られるでしょう。そして代わりに、「戦争の勇ましさ、カッコ良さ」だけが戦争を知らぬ者の胸に沈殿していくのではないでしょうか。私が「直線的生の充実」にこだわる理由はそこにあります。
競争原理に基く「直線的生の充実」は実に誘惑的なものです。私自身、基本的に直線的人間なので、その誘惑の力を如実に実感しています。それはファシズムへの誘惑に通じているとさえ言えるでしょう。実際、「生の充実」とか「ニヒリズムの超克」というキーワードでユートピアを追求していると、いつしかナチズムに接近している自分を見出して驚くことがあります。そこにはハイデガーさえ陥った罠があります。
おそらく、もう一度戦争が起こるとすれば、それは情熱的な「正義の人」によってだと思います。逆に言えば、全ての人間が絶対的な正義の実現など求めず、「色々と矛盾はあるものの、基本的に世界はこのままでいい」と思っているのなら、今の中途半端な平和が延々と続くでしょう。果して、それでいいのでしょうか。言うまでもなく、全ては各自の自由に委ねられていることですが、少なくとも「真のユートピア」を求めるのなら、「中途半端な平和」(直線的に言えば、平和は常に中途半端なものにすぎませんが)に妥協することはできないでしょう。虎穴に入らずんば虎子を得ず。ファシズムの危険を避けていては何も始まりません。
何れにせよ、「真のユートピア」を求めるということは実に危険なことです。ミイラとりがミイラにならぬよう、常に気をつけねばなりません。