主体的生活者 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

主体的生活者

この便りでは、二つのことを行ないたいと思います。一つは「真のユートピア」のヴィジョンを理論的に追求すること、もう一つは「取り敢えずの理想」に向けての実践の摸索です。そもそも当初の予定では、後者こそ私の目的だったのですが、なかなか具体的な一歩を踏み出せないでいるうちに、自ずと前者の方に流れてしまったようです。そこで今回は実践的な課題について思耕してみます。


ユートピアへの現実的な一歩としては、やはり「共生社会」の実現ということが考えられるでしょう。私はその核心として「主体的生活者」ということを考えています。すでに内橋克人氏も「自覚的消費者」ということを言われていますが、それと「自覚的生産者」を合わせて「主体的生活者」という概念を提案したいと思います。しかし、そこには大きな問題があります。


言うまでもなく、主体的かつ自由に生きることは易しいことではありません。厳密に言えば、そこには相当の知識と努力が必要になるでしょう。例えば、外国語の知識のない人は翻訳者や通訳に依存せざるを得ません。従って、外国語の書物を主体的に解釈したり、外国人と自由に会話するためには、その外国語を自分で習得する必要があります。しかし乍ら、こうした必要は全ての人が満たせるわけではないでしょう。


勿論、問題は外国語の習得に限られません。医学の知識のない者は医者に依存し、工学の知識のない者はエンジニアに依存することになります。それ故、論理的に「主体的生活者」というものを考えるならば、それはあらゆる知識を有する神の如き存在者になるでしょう。それは事実上、不可能なことです。


やはり現実的に考えれば、一般人は専門家への依存を否定することはできないでしょう。また依存した方が生活の能率化になると言えます。これは私がアメリカで勉強していた時のことですが、「アメリカの学生は文献を原典で読むことをあまりしない」という私の指摘に対して、或るアメリカ人学生は「アメリカでは、一部の秀才が原典を訳して、スタンダードの英語版を作成する。我々はそのスタンダードに基いて研究を発展させるのだ」というようなことを言いました。確かに語学に費やす労力を全て研究に注いだ方が合理的に違いありません。研究に限らず、アメリカでは全てにおいてこのような合理化が支配的で、一部の秀才たちがマニュアルを作成し、一般大衆はそのマニュアル通りに行なうということになると思います。しかし、これは一見能率的ではありますが、極めて危険なことではないでしょうか。少なくとも一部の秀才たちをリーダーとし、彼等に全面的に依存することは「共生社会」とは言えません。


しかし乍ら、もしマニュアル人間として生活することを拒絶するならば、我々は一体どう生活すればいいのでしょうか。先に述べたように、真に主体的に生活しようとすれば誰にも依存することのない「神の如き存在者」になることが求められますが、それは事実上不可能です。かくして「主体的生活者」という概念は大きな壁に直面することになります。どこに問題があるのでしょうか。