美しき社会
ユートピアは美しき社会です。しかし、その美しさは単に穢れたものを排除しただけのものではありません。カラマーゾフ的に言えば、マドンナとソドムの統合です。無粋な表現乍ら、聖と俗の弁証法的統合と言ってもいいでしょう。勿論、それはソドムの現実を黙認するものではありません。そこには大いなる逆説があります。
例えばソーニャ・マルメラードヴァは本当に「美しい女」ですが、現実には一人の娼婦にすぎません。ラスコーリニコフは言っています――「この娘には三つの道がある。掘割へ身を投げるか、きちがい病院へ入るか、それとも智をくらまし心を化石にする淫蕩の中へ飛び込むかだ」。しかしソーニャはその何れの道も辿りませんでした。
生きていくためにはもはや身を売るしかないという現実に直面した時、掘割に身を投げれば自らの純潔を守ることができます。それは一つの美しい生き方(死に方)に違いありません。しかし、そこには「真の美しさ」はないと思います。むしろ、たとい身は穢れても、その現実に踏み止まることから「真の美しさ」は生れてくるのではないでしょうか。
少なくともソーニャは掘割に身を投げず、気が狂うこともなく、娼婦として生きるしかない道を決然と選びました。しかし、それは淫蕩に自己を汚すことではなく、むしろ一つの聖化 だと私は思っています。私が熾烈に求めているユートピアもそのように聖化 された社会なのです。
何れにせよ、「美しき社会」としての新しき村は決してマドンナの理想だけを追求するものではありません。それはソドムの現実に徹することを通じて逆説的に聖化 されるものなのです。
例えばソーニャ・マルメラードヴァは本当に「美しい女」ですが、現実には一人の娼婦にすぎません。ラスコーリニコフは言っています――「この娘には三つの道がある。掘割へ身を投げるか、きちがい病院へ入るか、それとも智をくらまし心を化石にする淫蕩の中へ飛び込むかだ」。しかしソーニャはその何れの道も辿りませんでした。
生きていくためにはもはや身を売るしかないという現実に直面した時、掘割に身を投げれば自らの純潔を守ることができます。それは一つの美しい生き方(死に方)に違いありません。しかし、そこには「真の美しさ」はないと思います。むしろ、たとい身は穢れても、その現実に踏み止まることから「真の美しさ」は生れてくるのではないでしょうか。
少なくともソーニャは掘割に身を投げず、気が狂うこともなく、娼婦として生きるしかない道を決然と選びました。しかし、それは淫蕩に自己を汚すことではなく、むしろ一つの聖化 だと私は思っています。私が熾烈に求めているユートピアもそのように聖化 された社会なのです。
何れにせよ、「美しき社会」としての新しき村は決してマドンナの理想だけを追求するものではありません。それはソドムの現実に徹することを通じて逆説的に聖化 されるものなのです。