カイラクとケラク | 新・ユートピア数歩手前からの便り

カイラクとケラク

この便りを読んで戴いている皆さんは、「人間として本当に生きる」ことを熾烈に求めている私を非常にストイックな人間だと思われているかもしれません。しかし、それは誤解です。むしろ私はエピキュリアンだと自認しています。と言うのも、「人間として本当に生きる」ことが私にとって最高の快楽だからです。しかし一口に快楽と言っても、武田泰淳の言葉を借りれば、カイラクとケラクの二種類があるでしょう。

私はその区別を、肉体の求めるカイラクと魂の求めるケラクというように理解していますが、「人間として本当に生きる」快楽はカイラクとケラクの矛盾的自己同一にあると思います。それは具体的に如何なるものでしょうか。

先ずカイラクとケラクを二元論的に理解すべきではないと考えます。その差異は生の根源的力の現象面でのことにすぎません。従って或る種の修行者のように、カイラクを滅却することによってケラクを得ようとするのは根本的に間違っています。少なくとも私はカイラクを否定するつもりはありません。すなわち私は如何なる意味においても禁欲主義者ではないということです。

しかし、カイラクのみに溺れるつもりもありません。またカイラクを中途半端に抑制してケラクを得ようとする姑息な道も私の本意ではありません。あくまでもカイラク全開によるケラクの全開をこそ望むのです。こうした私の快楽追求は一種のフーリエ主義だと言えるのかもしれません。