Vol.986-3/3 R巻頭-98。歴史(観て歩き)レポ-県都編:14<讃岐国分寺跡> | akijii(あきジイ)Walking & Potteringフォト日記

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「凡に中なる、これ非凡なり」(論語)、「何事も自分に始まり、自分に終わる。自分を救う道は自分以外ない」(夏目漱石の言葉)を座右の銘に、我流(感性だけ)の写真を添えて日記を綴る。

Vol.986-2/3に続けてご覧ください。

 

さぬき歴史(き)フォトレポ-県都:14分寺跡

<22.讃岐国分寺跡> <撮影:2015.06.24 and 2016.11.09>

奈良時代の天平13年(741年)、当時の日本を脅かしていた天災、疫病、内乱などの様々な情勢不安から人々を救うため、聖武天皇は各国に一寺ずつ、国分寺と国分尼寺を建てよという「国分寺建立の詔」を発した。

讃岐国分寺もまた、その際に建立された国分寺のうちの一つで、奈良の高僧である行基(ぎょうき)によって開基されたと伝えられている。

 

平安時代初期の弘仁年間(810~824年)には、四国を巡錫していた弘法大師空海が讃岐国分寺を訪れ、痛んでいた本尊や堂宇の修理を行ったとされる。時代が進み、朝廷の力が弱まり、その財政的支援によって支えられていた全国の国分寺と国分尼寺は、瞬く間に衰退してしまう。讃岐国分寺もまたその例に漏れず、廃れていったのだが、真言宗の開祖である空海に縁のある霊場として信仰を得ていた為か、鎌倉時代には創建時の講堂跡に残っていた礎石を利用して、立派な本堂が再建され今もなお現存し、重要文化財に指定されている。その後、四国遍路が盛んになると、讃岐国分寺は四国八十番札所の第80番札所として、現在に至るまで数多くの参詣者によって賑わってきた。

 

創建当時の讃岐国分寺は、東西約220m、南北約240mという広大な寺域を有し、その周囲は築地塀によって囲われていた。現在もかつての寺域の西端と北端に、築地塀の跡である土塁が残されている。現在、創建当時の建造物は存在しないが、かつての主要建造物の礎石がほぼ完全な状態で現存しており、創建当時における建物の規模を推測する事が可能である。寺の中心を担う金堂(仏像を安置する建物)は、基壇の規模が横幅34.9mで奥行きは21.3m、建物は桁行七間に梁間四間である。金堂の背後に建つ講堂(僧侶が学習したり、説法を説く建物)は、現在の本堂とほぼ同じサイズであったと推測されている。

 

讃岐国分寺に残る他の遺構としては、講堂の裏手より僧坊跡が発見されている。その規模は、基壇の横幅が87.9m、奥行きは16m、建物は桁行が83.9mで、梁間は12mである。これは、全国の国分寺に見られる僧坊跡の中で、最大規模のものだ。また、伽藍の西側からは掘立柱の建造物跡が、伽藍の東側からは鐘楼跡も発見されている。現在、境内に建つ鐘楼に吊るされている銅鐘は、奈良時代の特徴を残しつつ、平安時代の特徴も見られるもので、平安時代の初期に鋳造されたものと考えられ、香川県最古の梵鐘として、重要文化財の指定を受けている。

 

<所在地・外観>

讃岐国分寺跡-高松市国分寺町国分

▼讃岐国分寺跡-復元された僧坊跡

 

 

讃岐国分寺跡」は、JR国分駅の北東300mほどの所にある。

 

<概 要><歴史遺産>

▼特別史跡-讃岐国分寺跡

 

 

讃岐国分寺は天平宝字(ほうじ)年間(757~765)に完成した。中門・金堂・講堂・僧坊が一直線に並び、中門と金堂の中間東側に塔が配置される大官大寺式に整備された国分寺境内には、現在も32個の礎石が残る金堂跡と15個の礎石と心礎が残る塔跡を見る事が出来る。

 

▼讃岐国分寺-仁王門(中門跡)-1

 

▼讃岐国分寺-仁王門(中門跡)-2

 

▼讃岐国分寺-塔跡15個の礎石と心礎

 

▼讃岐国分寺-金堂跡32個の礎石

 

 

現、讃岐国分寺の「本堂」(国重文)は旧講堂跡に建てられ、鎌倉時代中頃のものと考えられている。

 

▼讃岐国分寺本全景、本瓦葺き

 

▼讃岐国分寺本堂-単層入母屋造

 

塔跡心礎に立つ高さ3.15mの凝灰岩製七重塔も、その頃のものである。

 

▼讃岐国分寺-凝灰岩製七重塔

 

本堂には、像高約5mの本尊「木造千手観音立像」(国重文)が安置されている。

平安時代後期(11世紀末頃)のものであるが、秘仏となっている。

また同寺には、平安時代前期の造立とされる「銅鍾」(国重文)が伝わる。

 

▼讃岐国分寺-木造千手観音立像(web引用-水彩画風変換)

▼讃岐国分寺-鐘楼、銅鍾

 

▼讃岐国分寺-千体地蔵、北向地蔵

 

▼讃岐国分寺-閻魔堂、毘沙門天堂

 

▼讃岐国分寺-中門、大師堂

▼讃岐国分寺-弁財天、願かけ金箔大師

 

▼讃岐国分寺-成満大師・願かけ不動明王、延命地蔵尊

 

▼讃岐国分寺-ミニ八十八カ所巡り(阿波の国-発心道場)、(土佐の国-修行道場)

 

▼讃岐国分寺-ミニ八十八カ所巡り(伊予の国-菩提道場)、(讃岐の国-涅槃道場)

 

 

1952(昭和27)年に東西330m・南北227mの範囲が国特別史跡に指定され、1983年からの発掘調査を踏まえ、僧坊や築地(ついじ)塀などの復元・整備が行われた。

 

また史跡内には、10分1の石製伽藍配置模型が設置され、史跡の東には「讃岐国分寺跡資料館」があり、発掘調査で出土した瓦や土器などを展示している。

 

▼讃岐国分寺跡-よみがえる天平の甍(いらか)

 

▼讃岐国分寺跡-伽藍配置模型

 

▼讃岐国分寺跡-築地塀(ついじべい)復元、鐘楼跡

 

▼讃岐国分寺跡-僧房跡覆屋(おおいや)

 

▼讃岐国分寺跡-堀立柱(ほったてばしら)建物跡、西から東方向の景

 

 

▼讃岐国分寺跡資料館-案内板、正面全景

 

▼讃岐国分寺跡資料館-館内

 

▼讃岐国分寺跡資料館-展示物

八葉複弁蓮華文軒丸瓦、均正唐草文軒平瓦、七要複弁蓮華文軒丸瓦、均正唐草文軒平瓦。

 

 

讃岐国分寺跡から南西1km強の坂出市府中町には、「府中山内瓦窯(がよう)跡」(国史跡)が保存されている。

 

<関連遺産-1>

瓦窯跡は全長約3mで、窯跡付近からは、国分寺跡や国分尼寺跡で見つかっている七葉複弁蓮華文軒丸瓦や八葉複弁蓮華文軒丸瓦、均正唐草文軒平瓦が出土しており、国分寺などの造営にあたって築造されたと考えられている。

 

▼府中・山内瓦窯跡-1

 

▼府中・山内瓦窯跡-2

 

 

讃岐国分寺跡から北東約2kmに、「讃岐国分尼寺跡」(国史跡)とされる法華寺(ほっけじ)がある。

 

<関連遺産-2>

境内には金堂跡の十数個の礎石が残っているが、1982(昭和57)年に周辺部の発掘調査によって、東の列の南北5個の礎石は動いていないとみられ、奥行4間の建物が推定でき、1町半(約160m)四方の敷地であったことが推定されている。

 

▼法華寺(讃岐国分尼寺跡)-全景

 

▼法華寺(讃岐国分尼寺跡)- 寺標、山門

 

▼法華寺(讃岐国分尼寺跡)- 讃岐国分尼寺跡石碑、本堂

 

▼法華寺(讃岐国分尼寺跡)-史跡指定地石柱、「無量壽」親鸞

 

▼法華寺(讃岐国分尼寺跡)-「吾唯足知」(われただたるをしる)

 

▼法華寺(讃岐国分尼寺跡)-国府犀東の漢詩碑、伽藍配置及び基壇造成範囲(web引用-水彩画風変換)

 

▼法華寺(讃岐国分尼寺跡)-讃岐国分尼寺金堂跡礎石、礎石-1

 

▼法華寺(讃岐国分尼寺跡)-礎石-2

 

▼法華寺(讃岐国分尼寺跡)-礎石-3、尼坊跡調査風景(web引用-水彩画風変換)

 

▼法華寺(讃岐国分尼寺跡)-菅原道真-白牡丹の漢詩碑

<文は現地説明板やWebなどより引用した>

 

▶▶▶▶▶▶ 今報了◀◀◀◀◀◀