〇構成

カバー

表紙

巻頭ポエム

目次ページ

track1 p5

人物紹介1 芥木ガンマ  p60

track2 p61

人物紹介2 Elwood  p86

track3 p87

人物紹介3 スミス  p108

track4 p109

人物紹介4 Sheryl  p128

track5 p129

初期デザイン 芥木ガンマ p148

track6 p149

人物紹介5 Calder他 p168

track7 p169

スタッフ紹介 p190

クレジット(第何刷かによって異なる) p191

 

 

〇巻頭ポエム解説

・久保の初期のポエムの特徴は装飾性の高さと大胆な擬人法の2点である。

・BLEACHの単行本でも巻頭ポエムが書き下ろされているのだが、BLEACHの巻頭ポエムと違って今回のポエムは代名詞が平仮名でかかれている。

・「それらはみな」は「死者の指輪全て」を指していると考えられる。

・「象った」など常用漢字表の枠を超えた漢字表記を久保はデビュー時から現在に至るまで多用する。このことは久保が学生時代に漢和辞典を愛読していたことに由来する。

・死者の指輪の外見が結婚指輪と似ていることを表現。

・久保は「姿」という単語をポエムで多用する。

・BLEACHの巻頭ポエムはカバーで描かれた人物が巻頭ポエムでの主人公に当たる例が多いが、このポエムでの「わたし」はガンマ以外の人物にも当てはまる表現。(そもそも「わたし」という代名詞はガンマの一人称にふさわしくない。)この「わたし」は英語で言う「一般論のyou」に近い。

・余程ませた幼児を除けば、幼児は暗闇に居させられると怯えるが、その反応は生理的なものだといえる。この比喩を用いて、久保は死者の指輪が自身が依り代とする生物を生理的に「離さない」さまを表現している。

 

〇分析

・巻頭ポエムの文章のフォントは第何刷かによって異なっている。上記の画像(第1刷)と違って2004年11月20日発行の第12刷では明朝体になっている。

表紙のデザインはカオスの一言に尽きるだろう。槍を持ったゾンビらしきキャラがラフに書かれていることから、表紙の絵は本作のテーマを戯画的に表現していると思われる。RETURN OF NIRVANA(何故かRが左右反転、Aが上下反転されて書かれている)というように、久保氏はロックバンド・ニルヴァーナやロック・ミュージック全般を好んでいるようである。久保氏のゾンビパウダー後の連載作品は「BLEACH ―ブリーチ―」だが、これはニルヴァーナの1stアルバムのタイトルと一致している。なお、BLEACH第3章で登場するキャラ、ザエルアポロのテーマ曲はニルヴァーナのrape meである。

・p60に「髪が描きにくい」とあるが、BLEACH第5章連載時に久保はジャンプ巻末コメントで「グリムジョーの髪を描くの面倒」という趣旨の発言をしている。グリムジョーはBLEACH第3章で登場するキャラで、ガンマと似ている点が多い(単行本の表紙の構図や性格など)。

・p86の文章に「エルウッドってのは、アメリカにあるレコードレーベルの社長の名前(CCM系に詳しい人なら知っているかも)」とあるが、CCMはおそらくコンテンポラリー・クリスチャン・ミュージックを指すと思われる。また、「アメリカにあるレコードレーベルの社長」は、Joey Elwoodを指すと思われる。

・p86の「Big Fat Star Jack」は本作内で存在するメーカーだと思われる(つまり、現実世界には存在しない)。ヘヴィデューティ(heavy duty)は「丈夫な」という意味の語句。

・p108のスミスのラフ画の服に大麻の絵とaddictという文字が描かれている。久保氏はアメリカで根強い大麻カルチャーに親しみを感じているのかもしれない。この大麻のデザインの元ネタはアディダス

スタッフ紹介 p190ではアシスタントと思われるメンバーがローマ字で紹介されているが、ヘボン式や訓令式とはかなり違ったローマ字表記がされている。例、Satou Yoshitaka →Satow Yositacaなど。

 

〇収録

第四巻  p187~192

extra poem /  sleeping with vertigo. (参考資料

 

〇解説

track for cut downの直後のストーリーであり、p191にはガンマとナズナが見えることから、ジェミニ研究所のエンジェルの視点から詠まれたポエムと言える。p192には「あたしの あたしの おうじさま」とあるが、作中におけるエンジェルの一人称は「あたし」である。p189の一コマ以外すべて平仮名なのは、エンジェルが子供だから。

 

・内容はエンジェルがガンマを讃えるというもの。タイトルは「めまい(空間識失調)で眠っている」という意味で、詩文の中にも「あたしは かれを おもうたび ゆめのなかでも くらくらするの」とある。文章が鏡文字になっていたり上下反転の文章が挟まっていたりするのは、エンジェルが「めまい」を起こしていることを表現していると考えられる。

 

・p190でウルフィーナはバイクに乗っている。

 

・p191の「銀色に光る獅子のような」は、ガンマが銀色のコート(第一巻p10参照)を着ていることを踏まえている。

 

・p188のスミスが冷徹な目をしているのとは対照的に、p191のガンマの顔は自信に満ちていて、笑みを浮かべているようにすら感じさせる。エンジェルの目からの印象がこれほどまでに違うのは、「ガンマはスミスと違って『人間』に戻れた」(track25 第四巻p83)からではないか。

 

・久保は第四巻でこのextra poemを書き下した際、このポエムを単行本に載せるかどうか逡巡した。

2000年08月11日
4巻の巻末オマケ、sleeping with vertigo.が中々好評みたい。うれしいな♪実は載せる前は、純粋な「マンガ」とはちょっと違うあのスタイルが理解を得られるか どうか、多少不安だったのですよ。あと、毎度のことながら 「本屋に置いてない」というハナシもよく耳にするんですが。 えーっと、本屋においてなかったら、取り敢えず注文してください。元々そんなに数に余裕持って刷ってないから、今刷ってる分は多分もう店にハケちゃってると思うんだ。もし「注文せずに探したい!」ってんなら、でっかい本屋みたいに沢山数を仕入れてる所か、裏路地の本屋や駅 のキオスク(けっこう穴場)みたいに「え?こんなとこに!?」的な売り場をあたるしかないと思うけど、 ハッキリ言って注文する方が確実です。 つーか、皆が注文してくれて重版がかかれば、写植ミスを直せるんだわ。初版には大抵「ええっ!?」って思うようなミスがあるからさ。(勿論わざとやってるワケじゃなくて、初版が出て、第三者に 指摘されて漸気がつく。 って類のものなんだけど。)1巻なんて、明らかに3版が一番完成度高いもの。(笑)
>(久保帯人の日記より)

 

 

 

 

 

 

はっきり言ってマイナス金利な時点でもう異常なんだけど今や銀行に口座を登録しただけで口座手数料を課す時代に・・・。

おそらく資本主義は既に末期。

 

要するに、もはや資本主義って持続できないレベルでガタが来ているのに、資本主義の代替となる社会制度が見つかっていないがために、すでに無理がある資本主義社会が続いてしまっているのではと私は疑っている。

 

http://web.archive.org/web/20190930143756/https://jp.reuters.com/article/japan-account-fee-idJPKBN1WF0OG

 

〇ナギ氏とは

hatenaブログで外国語の歌詞の和訳を主に行っている人物。

ナギ氏はブログ「華氏65度の冬」(記事リスト)を運営しており、このブログの「Indian Summer もしくは大和郡山市下三橋町付近国道24号線東側 (1970. The Doors)」という記事でブルーハーツの青空を批判した。

ネットの和訳サイトは文法を無視した雑な訳が書かれていることも多いのだが、ナギ氏は外国語の歌詞を真摯に和訳し、比較的マイナーな曲も豊富に取り上げているため、おすすめのブログだといえる。

 

 

〇ブルーハーツとナギ氏の関係

ナギ氏は「爆弾が落っこちるとき」や「イメージ」等のブルーハーツの曲をブログでよく取り上げている。ナギ氏は青空を批判しているが、ブルーハーツ自体を否定している訳ではない。

 

 

〇強いイデオロギー性

ナギ氏の記事は「〇〇は△△でなければならない」といったイデオロギー性が強いものが目立つため、曲の和訳を読む際はその点に留意する必要がある。

ブログの中で度々登場する主張のパターンを以下で列挙する。

 

・この曲は女性蔑視である → 例Brown Sugar もしくは ふう (1971. The Rolling Stones) 

・この曲はオリエンタリズムだ → 例Hoochie Coochie Man もしくはオリエンタリズムということ (1954. Muddy Waters)

・この曲は植民地主義だ → 例神々の詩 もしくは捏造された言語 (1997.姫神) 

・この曲は差別的だ → 例Ship Of Fools もしくはその種の言葉について (1970. The Doors) 

 

 

 

〇ナギ氏のIndianへの評価

ナギ氏は<私自身は「Indian」という言葉は、アメリカ先住民の人々に対するヨーロッパ世界の側からの「蔑称」であると考えている。それが蔑称である以上、「Indian」という言葉の「差別的でない使い方」などというものは、およそありえない。>と述べている。

ナギ氏によれば「秋ないし初冬のあいだ晴天が続き,日中は高温,夜間は冷えこむ特異な期間」を指すインディアン・サマー【Indian summer】という名詞はIndianという蔑称が用いられているので差別的な表現なのだという。

 

 

 

〇ナギ氏の青空への批判とそれに対する私見

・<まず第一に、「Indian」という言葉に対するこのブログとしての立場を明らかにしておかねばならないと思う。
以前にも書いたことだが、私自身は「Indian」という言葉は、アメリカ先住民の人々に対するヨーロッパ世界の側からの「蔑称」であると考えている。それが蔑称である以上、「Indian」という言葉の「差別的でない使い方」などというものは、およそありえない

→前述した箇所。ナギ氏はIndianという語句を蔑称とみなしている。

「およそありえない」とあるが、例外は存在する。

例えば、アメリカ社会では白人が黒人を差別する蔑称である「ニガー」が黒人間で仲の良さを表現し合うために互いの呼称として用いられる場合がある。

当然ながら、間違っても黒色人種以外の者がNワードとも呼ばれるその呼称を黒色人種の方に対して用いてはならない。

 


・<「インディアン」という言葉を歌詞に含む日本語の有名曲としては、ブルーハーツの「青空」があり、一部には「差別に反対する歌」として愛唱されている向きもあるようだが、私はこの歌が少しも好きではない。

確かに「生まれたところや皮膚や目の色で一体このぼくの何がわかるというのだろう」みたいな歌詞は出てくるものの、それとは裏腹に真島昌利氏はこの歌の中で「インディアン」という言葉を明らかに「蔑称」として使っているし、またその人々に向けられた彼氏の視線そのものがある種の「蔑視」につらぬかれていることを、私は感じずにいられない

→何故「明らか」なのかは不明。

ブルーハーツ(orハイロウズorクロマニオンズ)は横文字を羅列してカッコよさを演出していた先行のロックバンドに反発しており、一つの音に一音節の歌詞をつけて歌うという試みをデビュー当時から一貫して行っている。

私は試しにこの「インディアン」という部分を「インディアンさん」と言い換えて歌ってみたが、語呂が凄まじく不自然で歌いにくかった。「ネイティヴ・アメリカンさん」と言い換えて歌ったらさらに歌いにくくなった。

西部劇で描かれている時代では(現在用いられている)ネイティヴ・アメリカンはインディアンと呼ばれていた訳だが、史実に忠実な呼称を用いることが何故<真島昌利氏がこの歌の中で「インディアン」という言葉を明らかに「蔑称」として使っていて、その人々に向けられた彼氏の視線そのものがある種の「蔑視」につらぬかれている>となるのかは理解に苦しむ。

 

 

・<「ブラウン管の向こう側 カッコつけた騎兵隊がインディアンを撃ち倒した ピカピカに光った銃でできればぼくの憂鬱も 打ち倒してくれればよかったのに」というのがその冒頭の歌詞であるわけだけど、日本語話者の感覚として、理由もなく一方的に殺された人のことを「呼び捨て」にするということが、およそありうるだろうか。

テレビや新聞の報道で、殺人被害者の名前が「呼び捨て」にされるのを聞いたことがあるだろうか。

また、あなたは「呼び捨て」にできるだろうか。

前提的な問題として、人間にはその人が男であるとか女であるとかナニナニ人であるとかいうこと以前に、必ず「その人の名前」というものが存在する。

その人の固有の名前に「さん」をつけて呼ぶのが、日本語世界における「不正の犠牲者への正当な向き合い方」というものだと思うし、この原則は犠牲者がたとえ仮名でしか報道されない場合であっても「Aさん」「Bさん」という形で必ず貫徹されるのである。

殺されたその人が「自分と同じ人間」であるという意識を持っている限り、そうせずにいられなくなるのが、日本語を話す人間の「自然な感覚」であるはずなのだ。

それを「呼び捨て」にできるのは、明らかにその日本語話者が、殺された人たちのことを「自分と同じ人間ではない」と見なしているからなのである。

「言い方」云々の問題ではなく、自分と同じように呼吸し生活している他の人間のことを平気で「名前を持たない存在」として扱うことができてしまうその感覚の中に、差別は存在している

→日本語では、敬称はそれぞれが固有の名前を持つ個人に対して用いられ、集合名詞に対しては用いられない。

例えば、東京都民に対して「東京都民さん」などと言うのは標準的な日本語の用法ではない。

或る日本語ユーザーがWikipediaにバルトロメ・デ・ラス・カサス魚拓)の記事を書いたが、このユーザーは記事で「インディアン」という表現を用いている。

この記事は書かれてから10年以上経過しているが、この記事を人種差別的だと批判する意見は全く見当たらなかった。

この記事を読んで「この記事は確信犯的な差別だ」と感じる者はいるのだろうか。

 

 

・<そして「日本人でない人々」のことを無造作に集合名詞で呼び捨てにしてみせる明らかな差別は、マスコミ報道においても学校教育においても、現在も平然と継続されている。
現在進行しているシオニストによるパレスチナの人々の大量虐殺の報道において、多くのマスコミは「パレスチナ人が何人死亡した」という書き方しかしていない。

この「パレスチナ人」という「突き放した無造作な呼び捨ての仕方」を目にした瞬間に、日本語話者の感覚は自動的にそれを「他人事」であると感じ取ってしまう。

これは「客観的な書き方」というものではない。書き手の人間が「自分」と「パレスチナの人々」との「距離の取り方」を慎重に計算した上で、主観的に選択した表現なのである。

こうしたことには以前の記事でも触れた。
さらに右寄りのマスコミになると、パレスチナの人々の反撃によってシオニストが死亡した場合には必ず「イスラエル市民が死亡」「イスラエル兵士が死亡」と書くという「気の使い方」を見せている。

「呼び捨て」が「失礼」にあたることを、かれらはしっかり自覚しているのである。

その上で「パレスチナ人」は「パレスチナ人」で「いい」と「判断」して記事を書いているのだから、これが確信犯的な差別でなくて一体何だと言うのだろうか

→ナギ氏は日本語を不正確に使っていると感じた。

呼び捨てとはAさん、Bさんといった個人ひとりひとりに対して「さん」「様」「君」「先生」「殿」「氏」などの敬称を付けないで呼ぶ行為を指す。

パレスチナ人はAさん、Bさんといった個人ではない。この言葉は集団名詞であり、むしろ「さん」「様」のような敬称を付けない方が標準的なのである。

ナギ氏によると「イスラエル市民」「イスラエル兵士」といった表現は呼び捨てでないらしいが、言語学的知見を踏まえると「イスラエル市民」という表現はイスラエルという固有名詞が市民という普通名詞を修飾している表現に過ぎず、「さん」「様」「君」「先生」「殿」「氏」などといった敬称とは関係がない。

なお、この箇所は「日本のマスコミがパレスチナ人を軽んじている」という前提に基づいているが、その前提が事実なのか否かは意見の分かれるところであろう。

 

 

・<日本語というのは、使い手が何をどうごまかそうとしたって絶対にウソがつけないようにできているものなのだ。もちろんこれは他のどんな言語でも同じことだと思うけど

→観念的な文章。この文章は現実を反映していない。

使い手が何をどうごまかそうとしたって日本語が絶対にウソがつけないようにできているのなら、日本語の用いられる裁判において偽証などというものは存在しないことになる。

周知のように、昔も今も日本語で嘘を垂れ流す者はうじゃうじゃ存在する。この文章は事実に反している。

 

 

・<「青空」という歌に戻るなら、その歌詞を書く時、真島昌利という人の中には「インディアン」は「インディアン」で「かまわない」という「判断」が確実に存在したはずなのである。

その「判断」を私は差別であると感じるし、ふざけるなとも感じる。

そしてこの「インディアン」という「突き放した呼び捨ての仕方」には、「かれらはどうあがいたって、殺される他に仕方のない存在なんだ」とでも言わんばかりの「諦念」みたいな感情が込められていることが、ありありと伝わってくる。

何を勝手に絶望してくれているのだ。

「諦念」と私は書いたけど、それはあくまで作詞者自身の頭の中にだけ存在する「勝手な感情」であって、彼氏から「インディアン」に向けられた視線は、ひたすら「見下し」に貫かれていると私は感じる。

確かに「同情」はあるだろう。でも「同情」だってやっぱり「見下し」なのだ。

彼氏は白人の騎兵隊によって先住民の人々が殺されることを、確かに「正しい」ことだとは思っていない。

しかし別にそのことに対して「怒って」いるわけでもない。

本音の部分で彼氏はそれを「仕方がない」「どうしようもない」と感じているだけである

→<その歌詞を書く時、真島昌利という人の中には「インディアン」は「インディアン」で「かまわない」という「判断」が確実に存在したはずなのである>とあるが、ソースは不明である。

この部分はナギ氏による主観の垂れ流しが見受けられる。

この曲の歌詞だけから本音の部分で彼氏は白人の騎兵隊によって先住民の人々が殺されることを「仕方がない」「どうしようもない」と感じているか否かを客観的に判断するのは困難を極めるだろう。

ナギ氏はこの部分の歌詞を聴いて<「諦念」と私は書いたけど、それはあくまで作詞者自身の頭の中にだけ存在する「勝手な感情」であって、彼氏から「インディアン」に向けられた視線は、ひたすら「見下し」に貫かれていると私は感じる>とのことだが、ナギ氏は一般的な日本語話者の感性と大いに乖離しているのかもしれない。

 

 

・<彼氏が見ていたテレビの中で「インディアン」が「殺された」のは、直接には「戦った結果」のことだろう。

しかしアメリカの歴史において先住民の人々は「戦わなくても」殺されてきたのだし、戦わなければ「もっと殺された」に違いないのである。

コロンブスが初めて上陸したその時から、先住民の人々は一貫して白人たちと友好的な関係を取り結ぼうとしてきた。

それにも関わらず先住民の人々は白人から一方的に「人間狩り」の対象にされてきたし、また白人との間に交わされた約束はことごとく破られた。

「同じ人間同士の関係」であれば、そういうことをされたら「怒る」のが当然のことだろう。

ところが白人たちは先住民の人たちを挑発してワザと怒らせて、かれらが抵抗に立ちあがったことを、さらなる大虐殺を正当化するための口実にしてきたのである。

非は一貫して白人たちの側にあるのであって、先住民の人々が非難されねばならないいわれは一片もない。

そして殺されても殺されても戦い続けることを通して、先住民の人々は自らの誇りを守り抜いてきたのだ。
それにも関わらず「青空」という歌の主人公は、「騎兵隊」に対して怒らない。

そこに表現されているのは「憂鬱な感情」だけであり、歌い手の「いらだち」はむしろ「インディアン」の側に向けられている。

彼氏の目には「インディアン」の抵抗が「ムダなこと」「意味のないこと」にしか見えていない。

「だからボクが憂鬱になるんだ」とでも言わんばかりである。
この歌に歌われているのはあくまでその「憂鬱の感情」であり、「差別に対する怒り」ではない。

そしてこの歌において「インディアン」という存在には、歌い手がその「自分の憂鬱」を「投影」するための「素材」としての位置づけしか与えられていない。

言い換えるなら真島昌利という人は「自分の憂鬱」を表現するための「ネタ」としてのみ、「インディアン」の存在を「必要」としているにすぎない。

この歌における「インディアン」は、「無力な存在」「あわれな存在」「みじめな存在」「何もできない存在」「黙って死んでゆく存在」の象徴であり、自分のことをそういう人間だと思っている歌い手は、その「インディアン」に「自分」の姿を重ねているのである。
こんな失礼な話があるだろうか。

→この箇所は個人的に強く賛同する点と違和感しか湧かない点の両方がある。

白人がインディアンにした非人道的な行いは想像を絶するものがある。

例を挙げよう。ある日、白人はインディアンに「寒いならこれを着てみなよ」と毛皮を与えた。

インディアンは深く感謝し、寒いときはそれを羽織った。

数週間後、そのインディアンの集落は天然痘によって全滅した。

白人が与えた毛皮はもともと天然痘患者の所持品だったのだ。

非は一貫して白人たちの側にあるのであって、先住民の人々が非難されねばならないいわれは一片もない>というのは真っ当な主張といえる。

インディアン虐殺と酷似したケースとしてはスペインによる新大陸侵略などがある。その件は前述したラス・カサスの告発文に詳しい。

だが、ナギ氏は歌詞に「侵略者への怒り」が直接的に書かれていないというだけで「真島は先住民の悲劇を、憂鬱という自分の勝手な感情を表現するためのネタ(素材)に使っているに過ぎない」と断定している。

そして<この歌における「インディアン」は、「無力な存在」「あわれな存在」「みじめな存在」「何もできない存在」「黙って死んでゆく存在」の象徴であり、自分のことをそういう人間だと思っている歌い手は、その「インディアン」に「自分」の姿を重ねている>と決めつけている。

私はこの部分を読み、あまりの独断性に愕然とした。

 

 

・<てめえが絶望するのは勝手だが、だったらてめえの言葉でてめえで語れっていうのだ。

「絶望を拒否して戦っている他者」のことを引き合いに出す必要がどこにあるというのだろう。

その人たちが必死で生きようとしている姿を「憂鬱のメタファー」として扱うようなことは、およそその人たちに対する「悪意」がなければできることではないはずなのだ。
要するにこの歌の主人公は、「自分が絶望しているにも関わらず絶望していない人間がこの世にいることが面白くなくて気に食わない」という人間として最悪な状態に陥ってしまっているにすぎないのである。

しかもその感情を「歌にすること」を、彼氏は「恥ずかしいこと」ではなくむしろ「カッコいいこと」であると感じているらしいのだ。

感受性が腐ってしまっているのではないかとしか私には思えない

→さきほどまで真島氏を「彼氏」と呼んでいたのに、ここでは突如「てめえ」という乱暴な表現に変わっている。

山月記の李徴みたいだなと私は感じてしまった。

ここまでくると主張の過激さに圧倒されかけてしまうのだが、簡潔に言って、ここでもナギ氏は日本語を不適切に使っている(と当初、感じた)。

 

悪意」には以下の三つの意味がある。

1 他人を憎み、害を加えようとする気持ち。わるぎ。「悪意を抱く」「悪意に満ちた眼差(まなざ)し」⇔善意
2 よくない意味。「発言を悪意に取る」⇔善意
3 法律上の効力に影響を及ぼす事情を知っていること。道徳的な意味での善悪とは異なる。⇔善意
 
しかし、1~3のいずれの意味も記事本文中で用いられている「悪意」に該当せず、「ここでもナギ氏は日本語を不適切に使っているなあ…」と当初、感じていた。
だが、後になってから、私はナギ氏が1の意味で「悪意」という単語を使っている可能性に気づいた。
私には、真島氏がこの曲を「他人(アメリカ先住民)を憎み、害を加えようとする気持ち」で書いたようには思えないのだが……。
 
 
 
・<それにも関わらずこの歌がいまだに一部の世界で「愛されている」ということは、そういう人間として最悪な状態に陥ってしまっていながらそれに無自覚な人間というのがいかに多いかを示すひとつの指標であると言えるだろう。
だからこの歌が発表された当時においては誰にとっても別世界の出来事みたいに感じられていた「戦争」がこれほど差し迫っている現在において、「何もしないで平気でいられる人間」がこんなに多いのである。
「バス」に乗っかって好きなところへ行けるご身分の人間諸氏は、行き先なんかどこでもいいからさっさと立ち去ってもらいたいものだ。
パレスチナの人々はもとより沖縄の人たちだって福島の人たちだって、どこへも逃げられないからこそ「戦う」ことに活路を求めているのではないか。
いずれにしても、だから私はこの歌が大嫌いだし、真島昌利という人に対しては今からでも遅くないから、この歌の言葉を引っくり返すような「本当の反戦歌」を書いてもらいたいと心から願っているのである。
もしも本当に「戦争に反対したい」という気持ちを持ち続けてはったらの話で構わないのだけど
→この曲が発表されたのは冷戦末期だが、アフガン紛争等、2019年現在と同様に世界各地で戦争は多発していた。
ナギ氏によれば(おそらく2019年現在の日本は)戦争がこれほど差し迫っているらしいが、市井で「戦争が今の日本に差し迫っているという話」は特に聞いたことがない。
SEALDs(シールズ)を支持したような人々の中にはそう確信されている者も少なくないかもしれないが、私にはそうだとは思えない。
「バス」に乗っかって好きなところへ行けるご身分の人間諸氏は、行き先なんかどこでもいいからさっさと立ち去ってもらいたいものだ。パレスチナの人々はもとより沖縄の人たちだって福島の人たちだって、どこへも逃げられないからこそ「戦う」ことに活路を求めているのではないか>とあるが、我々が彼らのような災禍に陥っていないからといって我々に落ち度があるわけではない。
彼らのような災禍に陥っていない人々のうち、彼らに対して「怒り」を表明していない人がいたとしても、そのような者に落ち度があるようには思えない。
そもそも「運転手さん そのバスに僕も乗っけてくれないか」という一節は1955年のアラバマ州で起きたローザ・パークス逮捕事件が題材となっている可能性がある訳だが、もしかするとナギ氏は公民権運動を象徴するバス・ボイコット騒動などを知らないのかもしれない。
そのような者はとっとと立ち去れ」とナギ氏は言うが、「怒り」を表明しない人々の実存を否定したがる発想は正常とはいいがたい。
ナギ氏が例示している沖縄・福島の人々にしても「在米基地がないと島の経済が回らない」「電源立地等推進対策交付金や電源地域振興促進事業費補助金etcがないと地元が成り立たない」といった理由で米軍や電力会社に怒りを表明しない方も多いのである。
この事実は新聞などのマスメディアを調べれば普通に分かることである。
自分が理想とするタイプの者の存在のみを肯定し、自分の理想に反するタイプの者の存在を「立ち去れ」などと否定するのであれば、そのような行為は傲慢であるといわざるを得ない。
この種の傲慢さが著しく悪質な所以は、その主張に「差別反対」など倫理的に正しそうなワードが含まれていることで一般人がその主張の不適切さを指摘するのが心理的に難しいという点と、そのような主張をしている張本人は「自分いいこと言っている」という自己満足に浸りがちな点にある。
別に自分の正義感に対して自己満足に浸る分には構わないが、客観的に考えて、ナギ氏の主張が「自身が弱者とみなしている人々」にとって何の役にも立っていないことだけはナギ氏も気づくべきなのではないだろうか。
 
 
続き

〇青空とは

THE BLUE HEARTSの3rdアルバム『TRAIN-TRAIN』(1988年)収録。作詞・作曲:真島昌利。

 

 

〇動画

https://www.youtube.com/watch?v=OoXc0ZBXEx8 (削除)

https://www.youtube.com/watch?v=l0EkQzx_hZg (削除)

https://www.youtube.com/watch?v=a3GCQXCxqFE

THE BLUE HEARTS 青空 NHKver - YouTube

 

 

 

〇元々の歌詞

元々の歌詞は「こんなはずじゃなかっただろ?歴史が僕を問い詰める」の一節が「安っぽい神様たちが君をメクラにするだろう」となっていた。歌詞が変更されたのは「メクラ」が放送禁止用語とされていることが要因として挙げられる。

変更前の歌詞は「有史以来、宗教が人類に様々な災禍をもたらしたこと」や「特定の宗教を妄信してしまうことが自分の外部の存在に対する正確な認識をゆがめてしまうこと」などを簡潔に表現している。

 

真島は冒頭部の「神様にワイロを贈り 天国へのパスポートを ねだるなんて 本気なのか?」という歌詞で、いったんキリスト教への疑問を提示しているが、キリスト教は一神教なので、「安っぽい神様たち」の「神様たち」は世界中に存在する複数の宗教の複数の神々を指していると考えられる。

だとするならば、真島はキリスト教以外の宗教に対しても「特定の宗教を妄信してしまうことの危険性」を訴えているのだろう。

 

その後、恐らく自主規制によって歌詞が「こんなはずじゃなかっただろ?歴史が僕を問い詰める」へと変更された訳だが、その変更によって「人種差別や宗教対立などの社会問題が無くなってほしい」という希望のニュアンスがより強く打ち出される結果となった。

流血や悲哀に紡がれた人類の歴史を踏まえた上で「こんなはずじゃなかっただろ?」と訴えかける真島の歌詞は21世紀を迎えた今も切実さに満ちている。依然として人種差別や宗教対立などの問題を孕んでいる現代社会において、本曲は不朽の輝きを有している。

 

私は「安っぽい神様たちが君をメクラにするだろう」も「こんなはずじゃなかっただろ?歴史が僕を問い詰める」も素晴らしい歌詞だと感じている。

 

 

 

〇真島が受けた洋楽の影響

「生まれたところや皮膚や目の色で 一体この僕の何がわかるというのだろう」というサビは

英国のロックバンドThe Yardbirdsの曲Mr. You're a Better Man Than Iの冒頭部

Can you judge a man by the way he wears his hair?
Can you read his mind by the clothes that he wears?
Can you see a bad man by the pattern on his tie?
に影響を受けた可能性がある。

 

 

〇評価

身近な言葉で表現されたメッセージ性の高い楽曲。歌詞もメロディも良質。真島によるギターソロも曲調に合っており、感慨深いものとなっている。世間での評価も高く、数多くのミュージシャンによってカヴァーされている。この曲の歌詞に感銘を受けた私は自作の英訳を書くに至った。

 

 

 

 

〇英訳(自作。翻訳ミスがあればコメント欄などでご指摘を。)

 

ブラウン管の向こう側

Through a TV screen,

 

カッコつけた騎兵隊がインディアンを 打ち倒した

I watched the pretentious cavalrymen shooting and slaying the Indians.

 

ピカピカに光った銃で できれば僕の憂鬱を 撃ち倒して くれればよかったのに

I wish they had wiped out my depression with their sparkling guns.


神様に賄賂を贈り 天国へのパスポートを ねだるなんて 本気なのか?

Can it be appropriate to pay a bribe to God and desire ‟a passport to Heaven“?

 

誠実さのかけらもなく 笑っている奴がいるよ 

There exist people laughing without a bit of honesty.

 

隠している その手を見せてみろよ
I want them to show us the hands they are hiding.
 

 

*生まれたところや皮膚や目の色で 一体この僕の何がわかるというのだろう

*What on earth can you tell about my personality from my birthplace and the color of my skin or eyes?


運転手さんそのバスに 僕も乗っけてくれないか

Hey, driver!  Would you mind my getting on this bus?


行き先ならどこでもいい

I want to get it on no matter where it goes.


こんなはずじゃなかっただろ?

‟The current situation is not what it should be, is it? “

 

歴史が僕を問い詰める

History is demanding an explanation from me
 

まぶしいほど青い空の真下で*
Under the almost dazzling sky whose color is blue. *

 

(Guitar solo)


(*repeat*)

青い空の真下で 青い空の真下で 青い空の真下で

Under the blue sky    under the blue sky    under the blue sky

 

※安っぽい神様たちが君をメクラにするだろう Cheap gods will make you blind.

 

 

 

 

〇英訳の補足

「まぶしいほど青い空の真下で」はUnder the dazzlingly blue skyと訳す方が自然な英文かもしれない。

 

 

〇ナギ氏による批判

ブログ民のナギ氏はこの曲が大嫌いだと自身のブログの記事で述べている。ナギ氏によると、<この歌の主人公は、「自分が絶望しているにも関わらず絶望していない人間がこの世にいることが面白くなくて気に食わない」という人間として最悪な状態に陥ってしまっているにすぎないのである。しかもその感情を「歌にすること」を、彼氏は「恥ずかしいこと」ではなくむしろ「カッコいいこと」であると感じているらしいのだ。感受性が腐ってしまっているのではないかとしか私には思えない>のだという。私はその記事を読み、一種の衝撃を受けた。ナギ氏によるこの曲への批判とそれに対する私見はこちら。

 

 

〇追記

2020年10月、或るネット民が英訳の字幕を載せた動画をYouTubeにアップロードした。これは私が2018年頃から制作を構想していたものであり、「同じことを考える人っているんだな」と感じた。詳細はこの記事をお読みください。

 

 

 

 

色々と迷惑をかけましたが、4巻とも他県に住む知り合いが間違えて持って帰ってしまったらしく、今から一週間前に持ち主である私のもとに帰ってきました。

遅くとも来月までにはゾンビパウダー解説プロジェクトを復活させます。

乞う、ご期待。

〇沉默是金という曲について

香港を代表する歌手レスリー・チャン1988年に発表した曲。或る中華系の友人から歌詞が深いと紹介され、和訳の歌詞を探すもなかなか見つからず、以下では英訳の歌詞をもとに歌詞を分析することとする。

 

 

〇動画リンク

SAM HUI & LESLIE CHEUNG - SILENCE IS GOLDEN ( ENG TRANSLATED MEANING )

沉默是金 MV

 

 

 

〇歌詞 「沉默是金」 (演唱:張國榮/許冠傑)

 

夜風凜凜 獨回望舊事前塵

The night wind blowing, alone looking back at the old times

夜の風が吹く最中 独り昔日を懐古していた


是以往的我充滿怒憤

It was me in the past, full of anger and frustration

かつて私は怒りと欲求不満で一杯だった


誣告與指責 積壓著滿肚氣不憤
False blames and accusations caused great feeling of unfairness to build up

邪悪な責めが重大な不公平感を形成させていた

 

對謠言反應甚為著緊

Cared a lot about rumours and responses

社会の評価と反応をとても気にしていた


*受了教訓 得了書經的指引

Learned the lesson, led by books and literatures

あの教訓を学び 書籍と文学に導かれた


現已看得透不再自困

Now can see through it all, no longer locking up myself

今や私はそれすべてを通して理解できる もはや自分自身に囚われていない


但覺有分數 不再像以往那般笨

Feel that I know the way, won't be as stupid as before

私は道を知っていると感じる かつてのように愚かではない


抹淚痕輕快笑著行

Wipe away the tears, walk forward relaxed and smiling

涙を払い 緊張を解き 微笑みながら 遠くへ進め


冥冥中都早注定你富或貧

In fate it was already decided that you be rich or poor

あなたが裕福か貧困かは既に宿命で決められている


是錯永不對真永是真

What is false will never be true Truth is always true

間違いとは何かという問いは決して正しくない 真実は常に正しい


任你怎說安守我本份

Whatever you say, I'll be responsible for my own duties

あなたが何を言おうと 私には私自身の義務に対する責任があろう


始終相信沉默是金*

Always believed that silence is gold

沈黙は金だと常に信じて


是非有公理 慎言莫冒犯別人

There is justice There are right things and wrong things Careful in speaking so not to offend others

正義がある 正しいことと誤ったことがある 他人を傷つけないように言葉を慎め


遇上冷風雨休太認真

When cold storms come up, don't take it too seriously

寒冷な風雨がくるとき 過度に真剣になるな


自信滿心裡 休理會諷刺與責問

Confidence fills the heart, no need to care about sarcasm and questioning

自信は心を満たす 皮肉と責めを気にする必要はない


笑罵由人 灑脫地做人

Let people laugh and condemn as they like, live on as a cool and carefree person

人々に嘲笑させて罵倒させておけ 冷徹で暢気な人として生きよ


*受了教訓 得了書經的指引

現已看得透不再自困
但覺有分數 不再像以往那般笨
抹淚痕輕快笑著行
冥冥中都早注定你富或貧
是錯永不對真永是真
任你怎說安守我本份
始終相信沉默是金

是非有公理 慎言莫冒犯別人

遇上冷風雨休太認真

自信滿心裡 休理會諷刺與責問

笑罵由人 灑脫地做人*

 

少年行 灑脫地做人

Young people, walk on, live on as a cool and carefree person

若者よ 進め 冷徹で暢気な人として生きよ


繼續行 灑脫地做人

Continue to walk on, live on as a cool and carefree person

進み続けよ 冷徹で暢気な人として生きよ

 

 

 

〇感じたこと

・レスリーの歌声が美しい。リスナーに包み込みかけてくるような歌唱法。

・メロディがいい。イントロが素朴にして優雅なムードを漂わせている。「冥冥中都早注定你富或貧」から始まる部分のメロディが特に印象的。

・歌詞は主語の有無に関していえば洋楽よりむしろJ-POPに近い。洋楽では日本語の「私は・・・」に当たる主語のIが歌詞の中で多用されるが、沈黙是金ではJ-POPのように「私は・・・」にあたる主語の部分が少ない(J-POPを聴いているときに「私は」や「僕は」や「俺は」が多用されている歌詞の曲に出会うことは珍しいのではないだろうか)。

・「受了~做人」の部分は曲の中で二度も歌われている。ここは「沉默是金」の作詞者が最も伝えたい箇所だと考えられる。

・紹介してくれた友人同様、この曲を聴くとリラックスできると感じた。

・この曲は「若いころ、当時親しくしていた女性の裏切りによって生活が荒み、金銭的にも精神的にも苦難の日々が続いていたレスリー」の「苦悩から涅槃に向かおうとする姿勢」が反映されいるとも感じた。

・この曲を紹介してくれた友人にこの記事を見せたところ、彼から上の歌詞の和訳に関してアドバイスをもらい、有難く感じた。

 

 

 

現在、ゾンビパウダー全四巻が手元から消えており、ゾンビパウダー全話解説プロジェクトが出来なくなっております

 

紛失・盗難の可能性も含め様々な可能性を探っています

 

 

もし9月になっても発見できなかった場合は新たに全四巻を再購入しますので

ゾンビパウダーの単行本が見つかるまでの間は全話解説記事の作成は中止させていただきます

 

 

ご迷惑おかけいたします

※この記事は前編の続きです。

 

 

〇藤倉氏の記事
・西野氏の近大でのスピーチを取り上げ、時計のたとえ話を引用し、ツイッターで感動したという声を紹介した後、このたとえ話に否定的な声のツイートを紹介し、たとえ話への批判を展開。
 
 
・〈長針と短針が重なることがなぜ「報われる」ことに当たるのかが、全くわからない。放っておいても一定の間隔で2つの針が重なる時計を、定期的に「報われる」とは限らない人生に例える意味もわからない。現実とたとえ話の内容が全く対応していない内容だ。時計の針は、しょせんは歯車によって同じ場所をぐるぐる回らされる存在に過ぎない。時計を人生にたとえるなら、「歯車以下の存在であるお前らは、長針と短針が重なっただけの何の意味もない機会的な出来事を見て報われた気分になるくらいしかできなんだよ」という身も蓋もない話だってできる。どうとでも言えるということは、つまり何も言っていないということだ〉と指摘。

・たとえ話の内容のなさを表現する目的で<このスピーチのせいで、筆者の知り合いの宗教社会学者が〈時計の長針において「報われる」とは何か〉について24時間も考え込んでしまったという。長針と短針が重なると「報われる」なら、この研究者は考え込んでいる間に22回も「報われた」はずなのだが>と知人の話を紹介。
 
・〈スピーチの映像を見て分かる通り、芸人ならではの流暢で明確なしゃべり口調で、雰囲気的な説得力はある。しかし実際に語られている内容は意味不明。「いい話」風に語ることで、雰囲気を成立させているだけのことだ〉と西野氏のスピーチを批判。
 
・藤倉氏はマルチ商法やカルト組織でのマインドコントロールの実態を現地ルポした経験を積んでおり、それらの経験を踏まえて〈物事を、現実に対応しないたとえ話によって抽象化して、「必ず報われる」という根拠のない話に説得力を与える。これがまさに「マルチ商法」の動機づけや成功哲学と同じなのだ〉と述べ、西野氏のたとえ話とマルチ商法の類似性を指摘している。
 
・〈誰しも本来、能力や可能性がある。正しく努力すれば必ず報われる。このポジティブな精神論は、裏返せば「報われないのは、お前自身が間違っているから」という「心の自己責任論」だ。「必ず報われる」という動かぬ前提。現実に対応しない抽象的なすり替えの「たとえ話」。西野氏のスピーチは、こうした自己啓発的な思想や「心の自己責任論」そのものと言っていい〉と述べ、西野氏の時計のたとえ話が結果的に心の自己責任論に結びつく危険性を孕んでいることを総括している。
 
・しかし、藤倉氏は西野氏のプレゼン力の高さを評価し、〈現時点で言えるのは、西野氏は雰囲気的に「やる気」を出させる適当な与太話をした(それがたまたまなのか、マルチ商法や自己啓発ビジネスによくある類いだった)というだけ。それ自体を悪いとかやめろと言うのは無理がある〉と西野氏に悪意はなかっただろうとも述べている。
 
・〈大学の卒業式とは、こういうものが跋扈する世界にこれから放り出されようとしている人々が多く集まる場だ。「いい話」風なものに流されないようにしましょうと卒業生に注意喚起するなら、わかる。しかし近大はその逆。与太話にBGMまでつけてYouTubeに動画をアップしている。完全に自らが西野スピーチを「いい話」として演出している。大学は教育や研究を目的とする機関であって、不合理な「感動」を売り物にする商売ではないはずだ。近大を卒業した学生たちが、与太話を真に受けないだけの批判意識や思考力を持ったオトナであることを祈るばかりだ〉と総括し、近畿大学に「西野氏を卒業式に呼ぶ意義はあったのか」と疑問提起している。
 
・この記事はヤフーニュースに転載された。ヤフーニュースの読者のコメント欄
 
 
 

〇藤倉氏の記事を揶揄した西野氏のブログの記事
・タイトルは「 『ハーバービジネスオンライン』の危うさ。問われる扶桑社の良識。 」
 
・<「近畿大学のスピーチ見ましたよー。感動しましたー!」という声をたくさんいただいております。
一方で、ここ数日、「死ね!」「死刑だ!」という怖いコメントがTwitterのタイムラインに流れてきて、「楽しくなければテレビじゃない」で育った身(フジテレビっ子)として、とても震えています。
>と冒頭部にある。
→そこそこ知名度がある有名人の場合、程度の差こそあれ匿名のネット民から「死ね」などの誹謗中傷を受けてしまうというのは有名な話である。西野氏に否定的な意見を持っているからと言ってそのような誹謗中傷をネット上で書き込んではならない。この件に関して西野氏が震えているというのは当然であろう。
 
・その文章の直後に二つのツイートが引用されている。ゆぅさんのツイートZawaZawaさんのツイート。その二つのツイートはいずれも西野氏に好意的な内容である。
 
・<「それにしても、やたら回ってくるなぁ」と思ったら、どうやら『ハーバービジネスオンライン』というニュースサイトでネガティブ記事になっていたみたいです。コチラです→https://hbol.jp/191318
この記事の投稿者は藤倉善郎という方で、プロフィールを見ると、「やや日刊カルト新聞総裁」とあります。なんだか、怖そうです>と藤倉氏の記事を載せ、藤倉氏への揶揄を開始。
 
・藤倉氏は「やや日刊カルト新聞」というサイトのトップを務めている。このサイトは現実社会に蔓延っているカルトに関する情報を藤倉氏らが整理している新聞風のウェブサイトであり、ほぼ毎日といっていいペースで更新されていることから「やや日刊」というワードが付いている。つまり、オカルト本のような内容のものではない。しかし、やや日刊カルト新聞という固有名詞は藤倉氏について何も知らない多くの方にとっては語感的に(なんか怖そうな名前の新聞だな)と感じさせかねないものではある。事実、私もその固有名詞を初めて聞いたとき、(なんかあやしげな新聞なのかな?)と先入観で感じてしまった。私は西野氏は<「やや日刊カルト新聞総裁」とあります。なんだか、怖そうです>と書くことによってブログ読者に「藤倉って危ないやつっぽい」というイメージを与えようとしているのかもなと感じた。
 
 
・<「11時台は時計の針が重ならない(=鐘が鳴る前は報われない時間がありますよ)」という僕のスピーチを受けて、『ハーバービジネスオンライン』の記事には、こうあります。
====
このスピーチのせいで、筆者の知り合いの宗教社会学者が〈時計の長針において「報われる」とは何か〉について24時間も考え込んでしまったという。長針と短針が重なると「報われる」なら、この研究者は考え込んでいる間に23回も「報われた」はずなのだが。
====
どうやら、藤倉さんのお知り合いの宗教社会学者さんが、「たとえ話」を真に受けて、24時間も考え込まれたらしいのです(暇なの?)。
<長針と短針が重なると「報われる」なら、この研究者は考え込んでいる間に23回も「報われた」はずなのだが。>とありますが、針が重ならない11時は1日に2回あるので(午前と午後ね)、24時間のうちに時計の針が重なるのは23回じゃなくて22回なので、宗教社会学を勉強する前に、算数(さんすう)を勉強された方がいいと思います。その学力のまま、宗教社会学を学ばれるのはあまりにも効率が悪いので、シンプルに心配です
>と続き、「1年生のたしざん」という小学一年生向けの算数ドリルのアマゾンのリンクが載っている。
おそらく西野氏はブログ読者に「藤倉氏は小学一年生レベルの算数すらできない阿呆だ」というイメージをもたせたいのであろう。
 
 
・何故かハーバーオンラインは23→22と後に書き換えているが、スタート時の0時0分を一回目とカウントするかしないかの違いであり、23回と書いたとしても少なくともミスではないと私は考える。「宗教社会学を勉強する前に、算数(さんすう)を勉強された方がいいと思います。その学力のまま、宗教社会学を学ばれるのはあまりにも効率が悪いので、シンプルに心配です。」と書くのは批判ではなくただの暴言に近いといえる。
 
 
・<もちろん、宗教社会学の知り合いなんてそもそも存在しなくて、今話題のニュースにのっかって、アクセス数と小銭を稼ぐことを目的とした藤倉善郎さんの作り話だと思うのですが、気になるのは、この記事をアップした『ハーバービジネスオンライン』さんです。
→藤倉氏はいい話風のトークで金儲けを謀る悪徳組織の危険性を指摘するためにあの記事を書いたと考えられる。それを「アクセス数と小銭を稼ぐことを目的とした」と決めつけるのは藤倉氏への名誉棄損に当たる。そもそも何故「宗教社会学の知り合いなんてそもそも存在しなくて、今話題のニュースにのっかって、アクセス数と小銭を稼ぐことを目的とした藤倉善郎さんの作り話」という西野氏の発想が「もちろん」なのか自体が不明である。別に西野氏が勝手にそう思いこむ分には構わないが、そう考えた根拠がブログのどこにも書かれておらず、結果的にこの文章はただの「根拠なき決めつけ」となってしまっている。
 
 
・その後、西野氏は<気になったので調べてみると、「扶桑社が運営するニュースサイト」とあります。なんと、出版社の公式サイトなんですね(メモメモ)。
コバンザメ記事で小銭を稼ぐ糞メディアは昔からあったので、べつにどうってことありませんが、出版社の公式ニュースサイトなると、信用問題に関わります。
出版社となると、もしかすると、今後、お仕事でご一緒する機会もあるかもしれないので、ちゃんと調べておいた方が良さそうです。
というわけで、扶桑社さんが運営する『ハーバービジネスオンライン』の評判を調べてみたところ、最初に、こんな記事が出てまいりました。

https://togetter.com//li/1153090 
記事を要約すると『ハーバービジネスオンライン』のライターさんが、Twitterで「死ね!」や「知恵遅れ!」というコメントを連発されて(怖いってば!)、アカウントが凍結しちゃったことを受けて、まさかまさか、扶桑社さんがTwitter社に正式抗議をしたというのです。
正気かよ((( ;゚Д゚)))
 >と扶桑社への批判を展開。
→「コバンザメ記事で小銭を稼ぐ糞メディア」というあまりにも品のない悪態が書かれている。西野氏は扶桑社について調べるためにインターネットを活用したようだが、「扶桑社」と検索してたまたま一番上に表示されたサイトに、不祥事といえるような内容の情報を発見し、「扶桑社は怖い会社だ!」と判断したと読み取れる。ある企業の質をネット検索の一番上の記事の内容で判断するというのは安直すぎるといえる。因みにさきほど「フジテレビっ子」というワードが出てきたが、フジテレビと扶桑社は同じグループ会社である。西野氏は記事で「扶桑社さんはフジテレビの子会社なんですね。」と書いているが、その事実を知っておきながら何故無神経に「自分はフジテレビっ子として震えています」と言えてしまうか不思議でならない。
 
 
・その下では、ハーバーオンラインが<「『知恵遅れ』や『死ね』は、お前みたいな奴には言ってもいい」by 扶桑社(代表=久保田栄一)>と公式ツイッターで回答したという扶桑社の不祥事について書かれている。<言葉を扱うプロとして、お客様に対して「死ね」や「知恵遅れ」という言葉を選んでしまう出版社の姿勢は僕は賛成できないので、扶桑社さんとは金輪際お仕事をご一緒しないことに決めました。だって、怖いもん(>_<)なので、僕のマネージャーさんは、僕に確認をとるまでもなく、扶桑社さん絡みのお仕事は全て断っておいてください。よろ。以上、「『ハーバー・ビジネス・オンライン』の危うさ。問われる扶桑社の良識」でした>と、西野氏はブログの記事を結んでいる。
→言葉のプロを自称する西野氏がビジネスをする上でどの出版社選ぶかは西野氏が決めることである。西野氏が扶桑社と仕事をしたくないのならそうすればいいだけのことで、この点について西野氏に落ち度はない。
ただ、個人的に、扶桑社が運営するサイトの一つであるハーバーオンラインのスタッフの一部署の中の一人が「死ね、知恵遅れはお前みたいな奴には言ってもいい」とやや乱暴な公式ツイートをしたという出来事を「こんな公式見解を出す出版社、絶対に嫌だよ!カルトすぎるよ(>_<)」と感じたというのはかなり大袈裟な反応だと思えてしまった。
執筆業は売れるときと売れないときのギャップが著しく激しい業界である。西野氏のようにアニメ、絵本など多角的にビジネス・プロジェクトを展開していくのならなおさらである。どんな出来事が起こるかは今後にならないとわからない。
そうであるにもかかわらず、自分から「かなり大手の出版社とのビジネスに関する可能性」を捨て去ってしまうというのはあまりにも短絡的すぎると思った。
 
 
・藤倉氏の記事を揶揄した「西野氏のブログの記事」は西野氏の手によるコンテンツの広告がかなり多め。ちょくちょく西野作の書籍・絵本のアマゾンのページのリンクが文章の間に添えられている。
 
 
 
 

〇藤倉氏の記事を揶揄した「西野氏のブログの記事」に対する私見と全体を通して思ったこと
・西野氏のスピーチと、藤倉氏の記事を揶揄した「西野氏のブログの記事」を分析して感じたのは「西野氏はフィーリングを重視している人」なのかもなということである。「時計の長針と短針が重なること→何となく素敵な感じがする→良いこと→努力が報われること」という連想が時計のたとえ話の背後にはあったのではないかと推測している。
 
 
・藤倉氏の記事を揶揄した西野氏のブログの記事についてだが、西野氏は藤倉氏の記事について表面的な部分しか扱っていない。藤倉氏はハーバーオンラインのあの記事を通して、以下の5点を伝えたかったのだと考えられる。
 
(1)西野氏の時計のたとえ話は一見いい話風だが、現実と全く対応しておらず、中身のないものであること。
(2)西野氏の時計のたとえ話はカルト組織やマルチ悪徳団体で悪用されているたとえ話と類似していること。
(3)それらのたとえ話は「報われないのは、お前自身が間違っているから」という「心の自己責任論」につながってしまうこと。
(4)西野氏のスピーチは芸人ならではの流暢で明確なしゃべり口調で、雰囲気的な説得力があるものの、実際に語られている内容は意味不明であり、「いい話」風に語ることで、雰囲気を成立させているだけであること。
(5)大学は教育や研究を目的とする機関であって、不合理な「感動」を売り物にする商売ではないはずなのに、近畿大学は西野氏を卒業式にゲストとして呼び、彼の与太話にBGMまでつけてYouTubeに動画をアップしており、完全に自ら進んで西野スピーチを「いい話」として演出していることに対する近畿大学への懸念。
 
 
・しかし、西野氏はブログで(1)~(5)のいずれにも触れず、ただ表面的に藤倉氏の記事を扱っているだけであった。西野氏のブログの記事は藤倉氏への反論になっておらず、ただの見下しや揶揄となってしまっている。西野氏のブログの記事を読んで西野氏の浅はかさを感じ取った方は少なくないのではないだろうか。
 
・西野氏がブログで(1)~(5)のいずれにも触れていなかったのは自分を呼んでくれた近畿大学を庇うためなのかもなとも思った。
 
・今回の話とは直には関係ないが、「議論で絶対に論破されない方法の一つは相手の批判をまともに扱わないこと」なのではないかと感じた。