〇リンク

http://web.archive.org/web/20190516004745/https://news.nifty.com/article/domestic/society/12267-260440/

https://ameblo.jp/nishino-akihiro/entry-12449260616.html

https://ameblo.jp/nishino-akihiro/entry-12449261043.html

https://ameblo.jp/nishino-akihiro/entry-12449261117.html

https://ameblo.jp/nishino-akihiro/entry-12458638623.html

 

 

 

〇西野氏スピーチの背景

・漫才コンビ「キングコング」の西野亮廣氏は近畿大学の2019年度の卒業式に招かれ、15分ほどのスピーチを行った。近畿大学はYouTube上の公式チャンネルに「キンコン西野 伝説のスピーチ 」として投稿した。

・西野氏のスピーチの後半に時計というワードが出てきたため「西野時計スピーチ」などと呼ばれている。

・西野氏のスピーチには「感動した」などの評価の声が上がった一方、批判する声もみられる。

・ジャーナリストの藤倉善郎氏が彼のスピーチを懸念視する記事をハーバーオンラインに掲載し、彼にスピーチの場を提供した近畿大学に問題提起を行った。

・西野氏は藤倉氏の記事を揶揄し、今後ハーバーオンラインとその運営会社である扶桑社と仕事をしないことを表明するブログを公開。

・スピーチのタイトルは「世の中に失敗など存在しない」 (2019年3月23日講演)

・この記事では西野氏のスピーチの分析をした上で藤倉氏の記事を分析する。藤倉氏の記事を揶揄した西野氏のブログを分析し、最後に双方の主張に関して総括を行う。

 

〇西野時計スピーチに対する分析

・スピーチは「皆さんはこれから社会に出られるわけですけども、社会に出たらコミュニケーションというものが、より大切になってくることは想像に難くないと思います。んでもって、コミュニケーションの鍵は・・・もうお分かりだと思います」という冒頭部で始まる。当然のことながら、大学の卒業式での大学側のメッセージは卒業を迎える生徒たちに今後ためになることを伝えることにある。この冒頭部は可もなく不可もなくといった内容で特に問題のない無難な内容といえる。

(以下、西野氏のスピーチの原文とそれに対する私見を添えていく)

 

「でね、今、僕が出る前にオープニング映像が流れました。
もう『スーパースターが出てくるぞ!』といった雰囲気たっぷりの煽り映像です。
あの映像を作られた方が、映像終了後に求めているものは『スーパースターの登場』で、
私は、自分がスーパースターでないことは百も承知ですが、でも、そこは社会人として大切なコミュニケーションです。私、それはそれは皆様に申し訳ないと思いながらも、スーパースターのごとく、堂々と舞台袖から出てきましたよ。」
→コミュニケーションが大事だという主張はあまりにも陳腐だが、この部分に関して特に問題があるわけではない。
この部分で西野氏は自分を全力でアピールしている。
 
「スーパースターが出てくるような映像が流れ、スーパースターのような振る舞いで西野が登場し、そして、あなた方は……パラパラの拍手を送った。それでいいのか?という話です。あなた方には二つの選択肢があった。
1つは、キングコング西野をパラパラの拍手で迎える。もう1つは、男は野太い声を出し、女は黄色い声を上げ、大歓声でキングコング西野を迎える。どちらでも構いません。皆さんの人生ですから、皆さんの好きなようにされるのがいいと思います。
あ、もう一点。
もう間もなく…あと10分~15分ほどで皆さんの大学生活が本当に終わってしまうのですが、このまま静かに座って終わらせてしまうのか、それとも、最後にバカをして終わるのか?」
→ビジネス界では二択縛りという心理テクニックがある。このテクニックは本来は複数の(少なくとも三つ以上の)取りうる選択肢が有るにも拘らず、「君にはAかBかという二つの選択肢がある」と相手に告げ、さりげなくAかBかのうち自分が相手にしてほしい選択肢でない方にネガティブな印象を与え、消去法的に自分が相手にしてほしいことを相手にさせる手法である。この場合、西野氏は「キングコング西野をパラパラの拍手で迎える」or「大歓声でキングコング西野を迎える」という二択縛りをしている。
 この状況においては西野氏のいう二つの選択肢以外に「西野氏の話を聞かずに卒業式の席を立ち去る」や、「寝始める」や、「全く拍手せず式場をしーんとさせる」などの複数の選択肢がある。しかし西野氏は二択縛りを卒業生たちにすることによって彼らが大歓声でキングコング西野を迎える」のを誘導している。
 また「あなた方には二つの選択肢があった。」という表現にも問題がある。一般に「選択肢があった」という表現は一種の暗喩である。なぜなら選択肢とは事前に提示されるものだからである。例えば「この問題にはア~オの五つの選択肢があったが、多くの受験生はイと解答した」というように。この例文で「選択肢があった」という表現が使用されているのは受験生が解答用紙にア~オのうちのどれかの記号を書く前の段階で五つの選択肢が事前に提示されているからである。
 一方、近大の卒業生の場合、当然のことながら事前に「キングコング西野をパラパラの拍手で迎える」or「大歓声でキングコング西野を迎える」という選択肢が彼らに提示されているわけではない。にも拘らず、「二つの選択肢があった」という表現を使うことによって西野氏は彼らに「事前に『キングコング西野をパラパラの拍手で迎えるor大歓声でキングコング西野を迎える』という二つの選択肢が提示されており、自分らはキングコング西野をパラパラの拍手で迎えるという選択をしたかのような錯覚」を想起させたともいえる。
 そのイメージ操作を西野氏が意図的にしていたのかそれとも意図していた訳ではなかったのかは私にはわからない。
 
 
「誰かが世界を変えてくれるのを待つのか、それとも自分で世界を変えるのか?
念のため、もう一度言いますね。あなた方には二つの選択肢がある。
パラパラの拍手でキングコング西野を迎えるのか、それとも、割れんばかりの大歓声でキングコング西野を迎えるのか?」
→「キングコング西野をパラパラの拍手で迎えるor大歓声でキングコング西野を迎える」という二択がなぜ「誰かが世界を変えてくれるのを待つのか、それとも自分で世界を変えるのか?」という二択に繋がるのかを論理的に説明するのは困難だといわざるを得ない。もしあなたの知人が壇上の男をパラパラの拍手で迎えることを「誰かが世界を変えてくれるのを待つ」と表現していたら、あなたは知人の精神状態が心配になるであろう。「あなた方には二つの選択肢がある」という表現はあまりにも露骨な二択縛りだと感じられる。
 
 
「決めるのは、あなた方です。
というわけで、ゲストスピーカーの登場……やり直しです」
→「AかBか決めるのはあなた次第さ」というセリフは二択縛りの際に多用される表現である。
 
「まあ、いろいろありまして、こうして僕なんかがスピーチを頼まれたわけですけども、本題に入る前に自分が何者なのかをお話しした方が良さそうですね。話します。
紹介映像にもありましたが、2~3年前に『えんとつ町のプペル』という作品を発表しまして、これが結構売れて、映画化が決定して、今、その映画を作っているところです」
→自己紹介を始める前に「本題に入る前に自分が何者なのかをお話しした方が良さそうですね。話します。」と自分が自己紹介を始めるサインを卒業生に提示している。このようなサインはスピーチのわかりやすさに良い影響を与える。
 
「んでもって、自分は『ディズニーを超える』とか何とか言ってまして、今のところスタッフの皆様からは反対をくらっているのですが、この映画『えんとつ町のプペル』の公開を、ディズニーの新作アニメの公開の真裏にぶつけて、観客動員数で勝とうと思っています。
そこで、ディズニー映画が一体どれぐらいヒットしているのかを知りたくて、ディズニー映画の収支表のようなものを見たら…あの人達、メチャクチャ売れてるんです。」
→西野氏は「ヒット」、「収支表」というワードに言及していることからアニメ制作に関して商業性を重視しているようである。
 
 
「皆さん、ご存知ですよね? 『ベイマックス』とか、『アナと雪の女王』とか。僕は来年、ここに挑まなきゃいけないのかと思うと、膝がブルブル震えてきたんですけども、ずっと、その表を見ているうちに、ディズニー作品の弱点に、ついに気がついたんです。それは…なので、ディズニーがジャングル系の作品を出してきたら、『そろそろ西野が出てくる』と思っていただけると助かります。
そういうセコいやり方で、ディズニーに挑もうと思っております」
→卒業式のスピーチにおいては『ファウスト』、過去の偉人の名言、聖書、漢籍などの古典的教養を引用する演説者が目立つ。それらの古典はtimelessであり、卒業式という場で言及するに値する中身を持つだろう。だが、かなしいことに近畿大学というそれなりの知的水準の大学の卒業生であってもそれらの古典にノータッチの者が少なくない。それらの者に古典を引用した文章を語っても、彼らがその話に興味を持つことはまれだといえるのではないだろうか。一方の西野氏は『ベイマックス』、『アナと雪の女王』など十代、二十代の若者であれば必ず知っている身近な固有名詞をスピーチで多用している。キャッチャー性でいえば、古典の引用が目立つ典型的な演説者よりも西野氏の方が遥かに優れている。
 
「ここまでは、チームの自己紹介です。そして、ここからが個人の自己紹介になるわけですが…好感度は低めです。
街中で『キングコング西野さんですよね?』と声をかけられたので、『あ~、どうもどうも』と手を差しのべると、『大丈夫』と断られたりします。
声をかけられて、フラれたりします。つらいです」
→西野氏のスピーチは「作品を発表しまして、これが結構売れて…」というアピール性と先ほどの「セコい」などにもみられるような自虐性の二面性が見られる。日本ではアメリカ社会のような過度の自己アピールは避けられる風土があるため、「フラれたりしてつらい」といったさりげない自虐表現をところどころに混ぜているのではないかと感じた。
 
「相方は・・・大事故です。酷い有り様でした、ホント。
で、このままフザけた話を続けたいところなのですが、そろそろ先生方に怒られそうなので、ここから、イイ感じの話をします…」
→相方へのいじりやコミカルな体験談がかなり長い時間をかけて語られている。この笑い話は卒業生に受けたようである。15分という時間は特に話すべきポイントがない場合、どうしても時間が余ってしまいがちとなる。また、最初の方は興味津々な態度だった卒業生が時間の経過とともに退屈そうな姿勢に変わってしまう恐れもある。そこで、ぼーとしていても頭に入ってくる軽めの話を途中の長い時間をかけて話すという手法はスピーチ全体を聞いてもらうための有益な技巧の一つといえる。「このままフザけた話を続けたいところなのですが、そろそろ先生方に怒られそうなので、ここから、イイ感じの話をします…」という話の流れのサインをここでも提示している。このような話の流れのサインの提示はスピーチを分かりやすくしてくれる。この部分でも「フザけた」や「イイ感じ」といった自虐的な表現を使っており、「なんか笑い話長いなあ。そろそろ卒業式らしい話してくれよ」と感じている堅実な観客(近大関係者の一部や生真面目な保護者など)も想定していることが窺える。
 
 
 
「想像してください。
僕たちは今この瞬間に未来を変えることはできません。
そうでしょ? 『10年後の未来を、今、この瞬間に変えて』と言われても、ちょっと難しい。
でも、僕たちは過去を変えることはできる。
 
たとえば、卒業式の登場に失敗した過去だったり、
たとえば、好感度が低い過去だったり、
たとえば、アホな相方を持ってしまった過去だったり、
たとえば、友達と一緒に恥をかいてしまった過去だったり。
 
そういった過去を、たとえば僕の場合ならネタにしてしまえば、あのネガティブだった過去が俄然、輝き出すわけです。
 
『登場に失敗して良かったな』と思えるし、
『嫌われていて良かったな』と思えるし、
『相方がバカで良かったな』と思えるし、
『友達と一緒に恥をかいて良かったな』と思える。
 
僕たちは今この瞬間に未来を変えることはできないけれど、過去を変えることはできる」
→西野氏は話のまとめ方が巧みに感じられる。以上の四つの内容は全てスピーチで前述していた事柄なのである。
これをきいた卒業生は「なんかその話、さっききいた!」と感じたであろう。卒業生は前きいた話と今聞いている話がつながっていると実感でき、西野氏のスピーチがもやもや感のない清々しいものに感じられただろう。
 ただ、ここでも西野氏に特徴的な論理の飛躍が見られる。「過去を変えることはできる」と西野氏は強調するが、確かに過去の出来事に対する自分の解釈・評価が変わるということは現実にありうることである。しかし、当然のことながら過去の出来事自体は変えることなど出来ない。西野スピーチでの例を挙げると、アホな相方を持ってしまったという事実に対して「以前はネガティブな感想を持っていたのが、今ではポジティヴな感想を持つようになった」と感じるようになることは現実に起こりうることである。しかし、アホな相方を持ってしまったという事実を変えることは出来ない。ネガティブな過去を自分の意志でポジティブなものに変えることは不可能に近いのではないだろうか。「過去を変えることはできる」という表現は「過去の出来事に対する自分の解釈・評価は工夫・心がけによって変えられることもある」という意味としてのみ整合性を持ちうる。
 
 
「これから皆さんは社会に出ます。
様々な挑戦の末、
最高の仲間に出会えることもあるでしょうし、
最高のパートナーに巡り会えることもあるでしょうし、
最高の景色に立ち会うこともあるでしょう。
 
一方で、涙する夜もあるし、
挫折もあるし、
傷を背負うし、
言われのないバッシングを浴びることもあるでしょう。
挑戦には、そういったネガティブな結果は必ずついてまわります。
でも、大丈夫。
そういったネガティブな結果は、まもなく過去になり、そして僕らは過去を変えることができる。
失敗した瞬間に辞めてしまうから失敗が存在するわけで、
失敗を受け入れて、
過去をアップデートし、
試行錯誤を繰り返して、
成功に辿りついた時、
あの日の失敗が必要であったことを僕らは知ります。
つまり、理論上、この世界に失敗なんて存在しないわけです。
このことを受けて、僕から皆さんに贈りたい言葉は一つだけです。挑戦してください。
小さな挑戦から、世界中に鼻で笑われてしまうような挑戦まで。
皆さんにはたくさんの時間があるので、たくさん挑戦してください」
→この話を聞いた卒業生の大半は「自分に西野がエールを贈ってくれてる」と素朴に感じたのではないだろうか。だが、私はこの部分に対して疑問点を感じた。「でも、大丈夫。そういったネガティブな結果は、まもなく過去になり、そして僕らは過去を変えることができる。」とあるが、現実世界においてはネガティブな結果が長期にわたることも少なくない。「そういったネガティブな結果がまもなく過去になる」とは全然限らないのである。また、「僕らは過去を変えることができる」と再度主張するが、ネガティブな過去を自分の意志でポジティブなものに変えることは現実的だといいがたい。東日本大震災で家族を失い、悲痛な表情を浮かべている被災者に「僕らは過去を変えることができる。さあ、家族を失ったというネガティブな過去をポジティブなものに変えよう!」と語りかけることができる者などいるのだろうか?現実世界においては自己のネガティブな過去に打ち勝つことができず、自殺という道を選んでしまう者も少なくない。自殺者が世間で相次いでいるという事実を知っている私は、「僕らは過去を変えることができる」と楽天的にいえてしまう西野氏のマインドに違和感を持つ。
 ちなみに「たくさん挑戦して下さい」というメッセージはありがちなものであり、典型的かつ類型的に感じられた。
 
 
「一応、絵本作家もやっているので、最後は絵本の話でまとめます。
今、『チックタック  約束の時計台』という絵本を作っています。時計を舞台にした物語です」
→「最後は」というのも話のサインである。スピーチが終盤の方に差し掛かっても、西野氏は全体の流れに注意を払って話している。
 
「時計の針って面白くて、長針と短針が約1時間ごとに重なるんです。1時5分頃に重なって、2時10分頃に重なって…毎時重なるんですけど、でも、11時台だけは重ならないんです。短針が逃げきっちゃう。二つの針が再び重なるのは12時。
鐘が鳴る時です。何が言いたいかと言うと、『鐘が鳴る前は報われない時間がありますよ』です。
僕にもありましたし、皆さんにも必ずあります。人生における11時台が。
でも大丈夫。時計の針は必ず重なるから。だから、挑戦してください。応援しています。頑張ってください。
僕は、少し先で待っています。いつか一緒にお酒を呑みましょう。」
→この時計のたとえ話は後に賛否を巻き起こすこととなる。「僕は、少し先で待っています」という部分をみて、私は西野氏は「自分はお前ら卒業生よりも少し先にいるんだぜ」という意識を持っているのではないかと感じた。
 
 
「卒業生の皆様、御家族の皆様。本日は、本当におめでとうございます。キングコング西野亮廣でした」

→特に問題のない締めの言葉。

 

 

後編につづく