〇ナギ氏とは
hatenaブログで外国語の歌詞の和訳を主に行っている人物。
ナギ氏はブログ「華氏65度の冬」(記事リスト)を運営しており、このブログの「Indian Summer もしくは大和郡山市下三橋町付近国道24号線東側 (1970. The Doors)」という記事でブルーハーツの青空を批判した。
ネットの和訳サイトは文法を無視した雑な訳が書かれていることも多いのだが、ナギ氏は外国語の歌詞を真摯に和訳し、比較的マイナーな曲も豊富に取り上げているため、おすすめのブログだといえる。
〇ブルーハーツとナギ氏の関係
ナギ氏は「爆弾が落っこちるとき」や「イメージ」等のブルーハーツの曲をブログでよく取り上げている。ナギ氏は青空を批判しているが、ブルーハーツ自体を否定している訳ではない。
〇強いイデオロギー性
ナギ氏の記事は「〇〇は△△でなければならない」といったイデオロギー性が強いものが目立つため、曲の和訳を読む際はその点に留意する必要がある。
ブログの中で度々登場する主張のパターンを以下で列挙する。
・この曲は女性蔑視である → 例Brown Sugar もしくは ふう (1971. The Rolling Stones)
・この曲はオリエンタリズムだ → 例Hoochie Coochie Man もしくはオリエンタリズムということ (1954. Muddy Waters)
・この曲は植民地主義だ → 例神々の詩 もしくは捏造された言語 (1997.姫神)
・この曲は差別的だ → 例Ship Of Fools もしくはその種の言葉について (1970. The Doors)
〇ナギ氏のIndianへの評価
ナギ氏は<私自身は「Indian」という言葉は、アメリカ先住民の人々に対するヨーロッパ世界の側からの「蔑称」であると考えている。それが蔑称である以上、「Indian」という言葉の「差別的でない使い方」などというものは、およそありえない。>と述べている。
ナギ氏によれば「秋ないし初冬のあいだ晴天が続き,日中は高温,夜間は冷えこむ特異な期間」を指すインディアン・サマー【Indian summer】という名詞はIndianという蔑称が用いられているので差別的な表現なのだという。
〇ナギ氏の青空への批判とそれに対する私見
・<まず第一に、「Indian」という言葉に対するこのブログとしての立場を明らかにしておかねばならないと思う。
以前にも書いたことだが、私自身は「Indian」という言葉は、アメリカ先住民の人々に対するヨーロッパ世界の側からの「蔑称」であると考えている。それが蔑称である以上、「Indian」という言葉の「差別的でない使い方」などというものは、およそありえない>
→前述した箇所。ナギ氏はIndianという語句を蔑称とみなしている。
「およそありえない」とあるが、例外は存在する。
例えば、アメリカ社会では白人が黒人を差別する蔑称である「ニガー」が黒人間で仲の良さを表現し合うために互いの呼称として用いられる場合がある。
当然ながら、間違っても黒色人種以外の者がNワードとも呼ばれるその呼称を黒色人種の方に対して用いてはならない。
・<「インディアン」という言葉を歌詞に含む日本語の有名曲としては、ブルーハーツの「青空」があり、一部には「差別に反対する歌」として愛唱されている向きもあるようだが、私はこの歌が少しも好きではない。
確かに「生まれたところや皮膚や目の色で一体このぼくの何がわかるというのだろう」みたいな歌詞は出てくるものの、それとは裏腹に真島昌利氏はこの歌の中で「インディアン」という言葉を明らかに「蔑称」として使っているし、またその人々に向けられた彼氏の視線そのものがある種の「蔑視」につらぬかれていることを、私は感じずにいられない>
→何故「明らか」なのかは不明。
ブルーハーツ(orハイロウズorクロマニオンズ)は横文字を羅列してカッコよさを演出していた先行のロックバンドに反発しており、一つの音に一音節の歌詞をつけて歌うという試みをデビュー当時から一貫して行っている。
私は試しにこの「インディアン」という部分を「インディアンさん」と言い換えて歌ってみたが、語呂が凄まじく不自然で歌いにくかった。「ネイティヴ・アメリカンさん」と言い換えて歌ったらさらに歌いにくくなった。
西部劇で描かれている時代では(現在用いられている)ネイティヴ・アメリカンはインディアンと呼ばれていた訳だが、史実に忠実な呼称を用いることが何故<真島昌利氏がこの歌の中で「インディアン」という言葉を明らかに「蔑称」として使っていて、その人々に向けられた彼氏の視線そのものがある種の「蔑視」につらぬかれている>となるのかは理解に苦しむ。
・<「ブラウン管の向こう側 カッコつけた騎兵隊がインディアンを撃ち倒した ピカピカに光った銃でできればぼくの憂鬱も 打ち倒してくれればよかったのに」というのがその冒頭の歌詞であるわけだけど、日本語話者の感覚として、理由もなく一方的に殺された人のことを「呼び捨て」にするということが、およそありうるだろうか。
テレビや新聞の報道で、殺人被害者の名前が「呼び捨て」にされるのを聞いたことがあるだろうか。
また、あなたは「呼び捨て」にできるだろうか。
前提的な問題として、人間にはその人が男であるとか女であるとかナニナニ人であるとかいうこと以前に、必ず「その人の名前」というものが存在する。
その人の固有の名前に「さん」をつけて呼ぶのが、日本語世界における「不正の犠牲者への正当な向き合い方」というものだと思うし、この原則は犠牲者がたとえ仮名でしか報道されない場合であっても「Aさん」「Bさん」という形で必ず貫徹されるのである。
殺されたその人が「自分と同じ人間」であるという意識を持っている限り、そうせずにいられなくなるのが、日本語を話す人間の「自然な感覚」であるはずなのだ。
それを「呼び捨て」にできるのは、明らかにその日本語話者が、殺された人たちのことを「自分と同じ人間ではない」と見なしているからなのである。
「言い方」云々の問題ではなく、自分と同じように呼吸し生活している他の人間のことを平気で「名前を持たない存在」として扱うことができてしまうその感覚の中に、差別は存在している>
→日本語では、敬称はそれぞれが固有の名前を持つ個人に対して用いられ、集合名詞に対しては用いられない。
例えば、東京都民に対して「東京都民さん」などと言うのは標準的な日本語の用法ではない。
或る日本語ユーザーがWikipediaにバルトロメ・デ・ラス・カサス(魚拓)の記事を書いたが、このユーザーは記事で「インディアン」という表現を用いている。
この記事は書かれてから10年以上経過しているが、この記事を人種差別的だと批判する意見は全く見当たらなかった。
この記事を読んで「この記事は確信犯的な差別だ」と感じる者はいるのだろうか。
・<そして「日本人でない人々」のことを無造作に集合名詞で呼び捨てにしてみせる明らかな差別は、マスコミ報道においても学校教育においても、現在も平然と継続されている。
現在進行しているシオニストによるパレスチナの人々の大量虐殺の報道において、多くのマスコミは「パレスチナ人が何人死亡した」という書き方しかしていない。
この「パレスチナ人」という「突き放した無造作な呼び捨ての仕方」を目にした瞬間に、日本語話者の感覚は自動的にそれを「他人事」であると感じ取ってしまう。
これは「客観的な書き方」というものではない。書き手の人間が「自分」と「パレスチナの人々」との「距離の取り方」を慎重に計算した上で、主観的に選択した表現なのである。
こうしたことには以前の記事でも触れた。
さらに右寄りのマスコミになると、パレスチナの人々の反撃によってシオニストが死亡した場合には必ず「イスラエル市民が死亡」「イスラエル兵士が死亡」と書くという「気の使い方」を見せている。
「呼び捨て」が「失礼」にあたることを、かれらはしっかり自覚しているのである。
その上で「パレスチナ人」は「パレスチナ人」で「いい」と「判断」して記事を書いているのだから、これが確信犯的な差別でなくて一体何だと言うのだろうか>
→ナギ氏は日本語を不正確に使っていると感じた。
呼び捨てとはAさん、Bさんといった個人ひとりひとりに対して「さん」「様」「君」「先生」「殿」「氏」などの敬称を付けないで呼ぶ行為を指す。
パレスチナ人はAさん、Bさんといった個人ではない。この言葉は集団名詞であり、むしろ「さん」「様」のような敬称を付けない方が標準的なのである。
ナギ氏によると「イスラエル市民」「イスラエル兵士」といった表現は呼び捨てでないらしいが、言語学的知見を踏まえると「イスラエル市民」という表現はイスラエルという固有名詞が市民という普通名詞を修飾している表現に過ぎず、「さん」「様」「君」「先生」「殿」「氏」などといった敬称とは関係がない。
なお、この箇所は「日本のマスコミがパレスチナ人を軽んじている」という前提に基づいているが、その前提が事実なのか否かは意見の分かれるところであろう。
・<日本語というのは、使い手が何をどうごまかそうとしたって絶対にウソがつけないようにできているものなのだ。もちろんこれは他のどんな言語でも同じことだと思うけど>
→観念的な文章。この文章は現実を反映していない。
使い手が何をどうごまかそうとしたって日本語が絶対にウソがつけないようにできているのなら、日本語の用いられる裁判において偽証などというものは存在しないことになる。
周知のように、昔も今も日本語で嘘を垂れ流す者はうじゃうじゃ存在する。この文章は事実に反している。
・<「青空」という歌に戻るなら、その歌詞を書く時、真島昌利という人の中には「インディアン」は「インディアン」で「かまわない」という「判断」が確実に存在したはずなのである。
その「判断」を私は差別であると感じるし、ふざけるなとも感じる。
そしてこの「インディアン」という「突き放した呼び捨ての仕方」には、「かれらはどうあがいたって、殺される他に仕方のない存在なんだ」とでも言わんばかりの「諦念」みたいな感情が込められていることが、ありありと伝わってくる。
「諦念」と私は書いたけど、それはあくまで作詞者自身の頭の中にだけ存在する「勝手な感情」であって、彼氏から「インディアン」に向けられた視線は、ひたすら「見下し」に貫かれていると私は感じる。
確かに「同情」はあるだろう。でも「同情」だってやっぱり「見下し」なのだ。
彼氏は白人の騎兵隊によって先住民の人々が殺されることを、確かに「正しい」ことだとは思っていない。
しかし別にそのことに対して「怒って」いるわけでもない。
本音の部分で彼氏はそれを「仕方がない」「どうしようもない」と感じているだけである>
→<その歌詞を書く時、真島昌利という人の中には「インディアン」は「インディアン」で「かまわない」という「判断」が確実に存在したはずなのである>とあるが、ソースは不明である。
この部分はナギ氏による主観の垂れ流しが見受けられる。
この曲の歌詞だけから本音の部分で彼氏は白人の騎兵隊によって先住民の人々が殺されることを「仕方がない」「どうしようもない」と感じているか否かを客観的に判断するのは困難を極めるだろう。
ナギ氏はこの部分の歌詞を聴いて<「諦念」と私は書いたけど、それはあくまで作詞者自身の頭の中にだけ存在する「勝手な感情」であって、彼氏から「インディアン」に向けられた視線は、ひたすら「見下し」に貫かれていると私は感じる>とのことだが、ナギ氏は一般的な日本語話者の感性と大いに乖離しているのかもしれない。
・<彼氏が見ていたテレビの中で「インディアン」が「殺された」のは、直接には「戦った結果」のことだろう。
しかしアメリカの歴史において先住民の人々は「戦わなくても」殺されてきたのだし、戦わなければ「もっと殺された」に違いないのである。
コロンブスが初めて上陸したその時から、先住民の人々は一貫して白人たちと友好的な関係を取り結ぼうとしてきた。
それにも関わらず先住民の人々は白人から一方的に「人間狩り」の対象にされてきたし、また白人との間に交わされた約束はことごとく破られた。
「同じ人間同士の関係」であれば、そういうことをされたら「怒る」のが当然のことだろう。
ところが白人たちは先住民の人たちを挑発してワザと怒らせて、かれらが抵抗に立ちあがったことを、さらなる大虐殺を正当化するための口実にしてきたのである。
非は一貫して白人たちの側にあるのであって、先住民の人々が非難されねばならないいわれは一片もない。
そして殺されても殺されても戦い続けることを通して、先住民の人々は自らの誇りを守り抜いてきたのだ。
それにも関わらず「青空」という歌の主人公は、「騎兵隊」に対して怒らない。
そこに表現されているのは「憂鬱な感情」だけであり、歌い手の「いらだち」はむしろ「インディアン」の側に向けられている。
彼氏の目には「インディアン」の抵抗が「ムダなこと」「意味のないこと」にしか見えていない。
「だからボクが憂鬱になるんだ」とでも言わんばかりである。
この歌に歌われているのはあくまでその「憂鬱の感情」であり、「差別に対する怒り」ではない。
そしてこの歌において「インディアン」という存在には、歌い手がその「自分の憂鬱」を「投影」するための「素材」としての位置づけしか与えられていない。
言い換えるなら真島昌利という人は「自分の憂鬱」を表現するための「ネタ」としてのみ、「インディアン」の存在を「必要」としているにすぎない。
この歌における「インディアン」は、「無力な存在」「あわれな存在」「みじめな存在」「何もできない存在」「黙って死んでゆく存在」の象徴であり、自分のことをそういう人間だと思っている歌い手は、その「インディアン」に「自分」の姿を重ねているのである。
こんな失礼な話があるだろうか。>
→この箇所は個人的に強く賛同する点と違和感しか湧かない点の両方がある。
白人がインディアンにした非人道的な行いは想像を絶するものがある。
例を挙げよう。ある日、白人はインディアンに「寒いならこれを着てみなよ」と毛皮を与えた。
インディアンは深く感謝し、寒いときはそれを羽織った。
数週間後、そのインディアンの集落は天然痘によって全滅した。
白人が与えた毛皮はもともと天然痘患者の所持品だったのだ。
<非は一貫して白人たちの側にあるのであって、先住民の人々が非難されねばならないいわれは一片もない>というのは真っ当な主張といえる。
インディアン虐殺と酷似したケースとしてはスペインによる新大陸侵略などがある。その件は前述したラス・カサスの告発文に詳しい。
だが、ナギ氏は歌詞に「侵略者への怒り」が直接的に書かれていないというだけで「真島は先住民の悲劇を、憂鬱という自分の勝手な感情を表現するためのネタ(素材)に使っているに過ぎない」と断定している。
そして<この歌における「インディアン」は、「無力な存在」「あわれな存在」「みじめな存在」「何もできない存在」「黙って死んでゆく存在」の象徴であり、自分のことをそういう人間だと思っている歌い手は、その「インディアン」に「自分」の姿を重ねている>と決めつけている。
私はこの部分を読み、あまりの独断性に愕然とした。
・<てめえが絶望するのは勝手だが、だったらてめえの言葉でてめえで語れっていうのだ。
「絶望を拒否して戦っている他者」のことを引き合いに出す必要がどこにあるというのだろう。
その人たちが必死で生きようとしている姿を「憂鬱のメタファー」として扱うようなことは、およそその人たちに対する「悪意」がなければできることではないはずなのだ。
要するにこの歌の主人公は、「自分が絶望しているにも関わらず絶望していない人間がこの世にいることが面白くなくて気に食わない」という人間として最悪な状態に陥ってしまっているにすぎないのである。
しかもその感情を「歌にすること」を、彼氏は「恥ずかしいこと」ではなくむしろ「カッコいいこと」であると感じているらしいのだ。
感受性が腐ってしまっているのではないかとしか私には思えない>
→さきほどまで真島氏を「彼氏」と呼んでいたのに、ここでは突如「てめえ」という乱暴な表現に変わっている。
山月記の李徴みたいだなと私は感じてしまった。
ここまでくると主張の過激さに圧倒されかけてしまうのだが、簡潔に言って、ここでもナギ氏は日本語を不適切に使っている(と当初、感じた)。
「悪意」には以下の三つの意味がある。
2 よくない意味。「発言を
3 法律上の効力に影響を及ぼす事情を知っていること。道徳的な意味での善悪とは異なる。⇔善意。
「バス」に乗っかって好きなところへ行けるご身分の人間諸氏は、行き先なんかどこでもいいからさっさと立ち去ってもらいたいものだ。
いずれにしても、だから私はこの歌が大嫌いだし、真島昌利という人に対しては今からでも遅くないから、この歌の言葉を引っくり返すような「本当の反戦歌」を書いてもらいたいと心から願っているのである。