10代の頃、筆者には「深入りしたらやばそうだな」と感じられるジャンルが三つあった。

その三つはガンダムとエヴァンゲリオンと野球であり、それらには「ファンの数が膨大」「楽しむのに必要な知識量が多い」「それを鑑賞するコストが凄まじい」等の特徴があると考えていた。

 

数年前から筆者はプロ野球に関心を抱くようになり、NPB本拠地の14球場すべてで現地観戦するほどには深入りしているが、「楽しむのに必要な知識量が多い」や「それを鑑賞するコストが凄まじい」という予測は概ね当たっていた。

野球はルールが他のスポーツと比べて特殊で観戦するのに必要な知識量が多い。

また、現地観戦は時間も諸々かかるし、費用も諸々かかる。

現在、筆者はプロ野球の魅力に気づけて良かったと感じている一方で、「深入りしたらやばそう」という警戒心も正しかったと感じている。

 

なお、数年前から筆者は友人のG君に麻雀を勧められるようになった。

「麻雀ってどんなボードゲームなのだろう」と思い、筆者はネットや本で麻雀のルールを調べてみた。

だが、いくら調べても麻雀のルールは複雑に感じられるし、未だにルールを把握できていない。

また、麻雀は賭博や徹マンなど不穏な話が少なくない。

「深入りしたらやばそうだな」というジャンルは今も三つのままなのだが、現在その三つは「ガンダムとエヴァンゲリオンと野球」ではなく「ガンダムとエヴァンゲリオンと麻雀」となっている。

 

 

ガンダムとエヴァンゲリオンにも触れようと思う。

筆者がガンダムを初めて知ったのは幼児のときで間違いない。

エヴァンゲリオンは小学生か中学生ぐらいのときに地元のロッテリアのレジ付近を眺めていたら「エヴァンゲリオン」という文字が見え、「そういう映画(コンテンツ)があるんだ」と感じた記憶がある。

そして、中学最後の夏に「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」を地上波で観て「こんなアニメ今まで観たことがない」という衝撃を受けたのを覚えている。

その日の夜は、なかなか寝付けなくて、寝れたのは布団に入って数時間たってからだった。

それぐらい興奮していたし、もしテレビアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』全26話のDVDが自宅にあって、筆者がそれらを容易に視聴できるような環境にいたならば、筆者はさっそく全26話を視聴していたと思う。

だが、筆者が生まれ育った家庭は漫画やアニメに寛容な環境ではなかった。

両親は漫画やアニメを禁止していた訳ではなかったが、「漫画本やアニメを買ってほしい」と親に頼んでも学習漫画などを除き親は「自分のお小遣いで買いなさい」と答えるだけだった。

因みに、小学五年生のとき、お小遣いは月に500円で、小学六年生のときは600円だった。

中学生のときは1000円で、高校生のときは2000円だった。

少なくとも漫画やアニメDVDを気軽に購入できるような金額ではなかった。

中学に入ってからはお年玉を自ら管理するようになっていたが、お年玉は将来のためにとっておきたいという思いがあったのと、20代の初め頃までは自分の所持金が減ることに対して恐怖心に近い感情を抱いていたことが影響して、「このコンテンツ面白そうだな」と感じても鑑賞まで至らないケースが多かった。

 

余談だが、大学入学の数年後に行った自動車免許合宿の費用は、お年玉などの貯金から出せたので、「将来のためにとっておきたい」という当時の思いは正しかったように思う。

合宿で同じ部屋だった青年の一人は野球部の出身らしく、或る夜、部屋にあったテレビで東京五輪の決勝戦を視聴していた。

筆者も彼と一緒に決勝戦を観ていたのだが、数年前までネットで「打線組んだ」の打線(打順)を見かけるたびに「よく判らない羅列だな」と感じていたほど野球のルールに疎かった筆者は、そこまで観戦を楽しめなかった。

 

なお、中学生のとき、筆者は名探偵コナンの組織編に強い関心を抱いた。

普通の中学生であれば、コミックス全巻や、組織編が載っている単行本を買って、漫画本編を読み始めるだろう。

だが、筆者は漫画本編を読む前に、組織編の情報を文章(や図や画像)でまとめたサイトを読むという行動をしていた。

というのも、それらのサイトはネットで検索すれば幾らでも無料で読めたからだ。

もちろん、組織編が載っている回も最終的には読んでいったが、『ゾンビパウダー』にしても『BLEACH』にしても、先に読んだのは漫画本編の方ではなく、Wikipediaなどといった情報サイトの方だった。

 

いま『エヴァンゲリオン』全26話を視聴するハードルは10代のときと比べて低くなっている。

それゆえ何らかのきっかけで全26話を視聴し始める可能性は全然あると思う。

だが、「エヴァはストーリーや設定の内容量が非常に多く、鑑賞するエネルギーが結構かかるコンテンツらしい」という警戒心が依然として残っており、現時点で全26話の視聴は実現していない。

 

それにしても、エヴァンゲリオンとガンダムだったら深入り要素が凄まじいのはどちらなのだろうか。

Wikipediaでガンダムシリーズを調べると以下のリストが載っていたが、このリストを眺めた限りでは、深入り要素が凄まじいのはガンダムの方なのかもしれない。

 

 

 

1970年代-1980年代
「機動戦士ガンダム」 TVアニメ 富野喜幸【全43話】 1979年–1980年
映画「機動戦士ガンダム」 富野喜幸 【3部作】1981年-1982年
小説/富野由悠季 朝日ソノラマ【全3巻】/ 角川書店 1979年–1981年
小説/中根真明 朝日ソノラマ 【全3巻】 1980年
漫画「機動戦士ガンダム (冒険王版)」 岡崎優 秋田書店 【全2巻】 1979年
「機動戦士Ζガンダム」 TVアニメ 富野由悠季【全50話】1985年
小説/富野由悠季 講談社【全5巻】 / 角川書店 1985年-1986年
漫画/近藤和久 講談社【全3巻】 / バンダイ【全2巻】 / メディアワークス(旧版【全3巻】 / 新装版【全3巻】 / セレクション版) 1985年–1986年
映画「機動戦士Ζガンダム A New Translation」 富野由悠季 【3部作】2005年-2006年
漫画/田巻久雄、白石琴似、津島直人 角川書店【全3巻】 2005年-2006年
「機動戦士ガンダムΖΖ」 TVアニメ 富野由悠季 【全47話】1986年
小説/遠藤明範 講談社【全2巻】 / 角川書店 1986年
漫画/村上としや 講談社(ボンボンKC【全3巻】 / KPC【全2巻】 / KCDX【全2巻】)/ 大都社(復刻版【全2巻】、普及版【全2巻】) 1986年
「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア」 映画 富野由悠季 1988年
小説「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア (ハイ・ストリーマー)」 富野由悠季 徳間書店(アニメージュ文庫【全3巻】 / 徳間デュアル文庫 / 復刻版 アニメージュ文庫) 1987年–1988年
小説「機動戦士ガンダム 逆襲のシャア ベルトーチカ・チルドレン」 富野由悠季 角川書店 1988年
カセットブック / 復刻版ドラマCD 1989年
漫画/左菱虚秋 角川書店【全7巻】 2014年-2018年
漫画/村上としや 大都社(漫画版ΖΖの復刻版2巻に収録) 1999年
漫画/ときた洸一 講談社(ボンボンKC / KPC / KCDX / KPC復刻版) 1998-1999年
「機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争」 OVA 高山文彦 【全6話】 1989年
小説/結城恭介 角川書店 1989年
漫画/池原しげと 講談社(ボンボンKC / KPC / KCDX) / 大都社 1989年


1990年代
「機動戦士ガンダム0083 STARDUST MEMORY」 OVA 加瀬充子、今西隆志 【全13話】 1991年
映画「機動戦士ガンダム0083 ジオンの残光」今西隆志 1992年
小説「機動戦士ガンダム0083」 山口宏 角川書店【全3巻】 1992年
漫画「機動戦士ガンダム0083 星屑の英雄」 松浦まさふみ メディアワークス【全2巻】 2000年–2001年
漫画/加登屋みつる 講談社(KPC / 「大都社版ガンダムF91」「ガンダム短編集(2)」「一年戦争名作選」に収録)1992年
「機動戦士ガンダムF91」 映画 富野由悠季 1991年
小説「機動戦士ガンダムF91 クロスボーン・バンガード」 富野由悠季 角川書店【全2巻】 1991年
漫画「機動戦士ガンダムF91 プリクエル」 おおのじゅんじ 角川書店【既刊2巻】 2020年-
漫画/井上大助 講談社 /大都社 1991年
「機動戦士Vガンダム」 TVアニメ 富野由悠季【全51話】1993年–1994年
「機動戦士ガンダム 第08MS小隊」 OVA 神田武幸、飯田馬之介 【全12話】1996年–1999年
映画「機動戦士ガンダム 第08MS小隊 ミラーズ・リポート」 加瀬充子 1998年
小説/大河内一楼 角川書店【全3巻】 1999年
「GUNDAM Mission to the Rise」 大友克洋 20周年記念『ガンダムビッグバン宣言』イベント上映(劇場作品「スチームボーイ」のチケット初回販売版にDVDが付属) 1998年


2000年代
「G-SAVIOUR」 映画グラム・キャンベル 2000年
小説/河原よしえ 集英社 2000年–2001年
漫画/拓人 ファミ通ブロス(未単行本化)
「GUNDAM THE RIDE ‐A BAOA QU‐」 シミュレーションライド型アトラクション 2000年
「ガンダム新体験 ‐0087‐ グリーンダイバーズ」 プラネタリウムCGシアター 2001年
「GUNDAM EVOLVE」 OVA 2001年–2003年
OVA「GUNDAM EVOLVE../」 2004年–2007年
漫画「機動戦士ガンダム U.C.戦記 追憶のシャア・アズナブル」 大森倖三 角川書店 2009年
「機動戦士ガンダム MS IGLOO -1年戦争秘録-」 OVA 今西隆志 【全3話】 2004年
OVA「機動戦士ガンダム MS IGLOO -黙示録0079-」 今西隆志 【全3話】 2006年
小説/林譲治 角川書店 2005年
漫画
「機動戦士ガンダム MS IGLOO 603」MEIMU 角川書店【全2巻】 2004年-2005年
「機動戦士ガンダム MS IGLOO 黙示録0079」MEIMU 角川書店 2006年
「機動戦士ガンダム MSイグルー2 重力戦線」 OVA 今西隆志 【全3話】 2008年–2009年
漫画「機動戦士ガンダム MSイグルー2 重力戦線」MEIMU 角川書店【全2巻】 2009年
「リング・オブ・ガンダム」 短編映像 30周年記念『GUNDAM BIG EXPO』イベント上映 2009年
「機動戦士ガンダム戦記 アバンタイトル」 OVA ゲーム特典映像 2009年


2010年代
「機動戦士ガンダムUC」 OVA(※) 古橋一浩 【全7話】 2010年–2014年
漫画「機動戦士ガンダムUC バンデシネ」大森幸三 角川書店【全17巻】 2010年–2016年
漫画「機動戦士ガンダムUCバンデシネEpisode:0」大森幸三 角川書店【全3巻】 2017年–2018年
TVシリーズ「機動戦士ガンダムUC RE:0096」 古橋一浩 2016年
DOME-G映像「機動戦士ガンダムUC One of Seventy Two」2013年
DOME-G映像「機動戦士ガンダムUC ネオ・ジオング、お台場に現る!」 2014年
WALL-G映像「機動戦士ガンダムUC A Phantom World」 2016年
VR映像「機動戦士ガンダムUC VR 激突・ダイバ上空」 2017年
WALL-G映像「機動戦士ガンダムUC ペルフェクティビリティ」 2018年
映像「episode EX 百年の孤独」 バンダイナムコアーツ(「ガンダムUC ep7、BD-BOX Complete Edition」の特典) 2014年
小説「獅子の帰還」 福井晴敏 バンダイナムコアーツ(「ガンダムUC BD-BOX Complete Edition」の特典) 2019年
ドラマCD バンダイナムコアーツ(「ガンダムNT」BD特典) 2019年
漫画「機動戦士ガンダムUC episode EX2 獅子の帰還」 玉越博幸 角川書店 2019年-2020年
「ガンダムさん」 TVアニメ(※) まんきゅう 【全13話】 2014年
「機動戦士ガンダム THE ORIGIN」 OVA(※) 安彦良和 【全6話】 2015年-2018年
「機動戦士ガンダム サンダーボルト(第1シーズン)」 OVA(※) 2015年-2016年
第2シーズン OVA 2017年
映画「機動戦士ガンダム サンダーボルト DECEMBER SKY」 2016年
映画「機動戦士ガンダム サンダーボルト BANDIT FLOWER」 2017年
「機動戦士ガンダム Twilight AXIS」 Webアニメ(※) 金世俊 2017年
OVA「機動戦士ガンダム Twilight AXIS 赤き残影」 2017年
「機動戦士ガンダムNT」 映画(※) 吉沢俊一 2018年
漫画 大森倖三 角川書店 【既刊3巻】 2018年-
「機動戦士ガンダム 光る命 Chronicle U.C.」 映像 福井晴敏 バンダイナムコアーツ(「U.C.ガンダムBlu-rayライブラリーズ」の特典) 2019年 /「編集版」 ガンダムチャンネル 2021年


2020年代以降
「機動戦士ガンダムG40」 Webアニメ 2020年
「機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ」 映画(※) 【3部作(予定)】2021年-
「機動戦士ガンダム ククルス・ドアンの島」 映画

 

 

 

最後になるが、筆者が野球に関心を抱いたきっかけは一つのヤフーニュースであった。

家族や知人経由で野球に関心を持った人は多いだろう。

野球関連の漫画・アニメ・小説・映画がきっかけとなって野球に関心を持った人も多いだろう。

だが、ヤフーニュースがきっかけで野球に関心を持つようになったという人は殆どいないと思う。

筆者以外に存在しないのではとすら思う。

いずれにせよ、2021年の東京五輪の決勝戦で観戦を楽しめなかった筆者が2023年のWBCで観戦を楽しめたのは、あのヤフーニュースの記事が筆者の視界に入ってきたからである。

そのことを考えると、数年後や数十年後、筆者はガンダムやエヴァンゲリオンや麻雀に詳しくなっているかもしれない。

数年後や数十年後も筆者が生きているのかは不明だが、そうなっている可能性は否定できないように思う。

前編で述べたように、功利主義やセカイ系などを掘り下げていくこととする。

 

功利主義は19世紀の英国で発達した思想であり、ジェレミ・ベンサムやジョン・スチュアート・ミルやピーター・シンガーなどといった哲学者が論じている。

各々の哲学者によって思想の内容に差異が見られるものの、どの功利主義者も幸福を人生や社会で最大の目的とする点で一致している。

現在の日本において、功利主義は「最も多くの人に最も多くの幸福をもたらす行為を正義とする考え」という意味で使われることが多い。

 

セカイ系は21世紀の日本で命名され、注目されるようになったジャンルのことであり、東浩紀は「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』や『この世の終わり』などといった抽象的で大きな問題に直結する作品群のこと」と定義している。

本作では「主人公(ぼく)」が森嶋帆高に対応し、「ヒロイン(きみ)」が天野陽菜に対応している。

前述したように、主人公が認識する世界は故郷の新津島や東京中心部に限られており、主人公は具体的な中間項を挟むことなく「東京中心部の都市機能」すなわち「主人公にとっての世界」の崩壊をもたらしている。

東浩紀の定義が示すように、本作はセカイ系の作品である。

 

セカイ系は『新世紀エヴァンゲリオン』や「ギャルゲー・アダルトゲーム」に由来するとされるが、筆者は前者に関しては10年ほど前に旧劇を地上波で観た程度の知識しかないし、後者に関しては殆ど何も知らないに等しいので、これらへの具体的な言及は控えることにする。

 

ただ、「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性」を「数人や十数人の小さな関係性」と捉えるならば、セカイ系というジャンルの成立は時代の必然だったように思う。

というのも、科学技術の発達は一人から十数人ほどの少人数が世界に直接的な大打撃を与えることを可能にしたからだ。

具体的な事例がある。

セカイ系のジャンルが成立した21世紀初頭に、一つの衝撃的な出来事が公になった。

時は1962年。キューバ危機のさなか、ソ連軍は核攻撃が可能な潜水艦をキューバ近海に潜ませていた。

その潜水艦はモスクワとの連絡が取れず米国の民間ラジオ放送すら傍受できなくなっていた。そのうえ潜水艦のバッテリーが著しく低下し、二酸化炭素濃度の大幅な上昇や猛暑などといった極限状態が潜水艦内で発生していた。

実は、その潜水艦は上層部から「潜水艦内の士官3人全員がソ連と米国の間で戦争が発生したと判断した場合は核攻撃を米国側に対して行ってよい」という指示が出ており、士官3人のうち2人は核攻撃すべきだと主張していた。

しかし、ただ1人ヴァシーリー・アルヒーポフだけが核攻撃に反対し、最終的に潜水艦は核攻撃を行わずに基地へ帰った。

この出来事は、3人という小さな関係性が核戦争が起こるか否かという「抽象的で大きな問題」に直結していたことを示している。

 

本作は一人の少女が天候を左右できるという非科学的かつスピリチュアルな設定が登場しており、核兵器開発などといった科学技術の発達が作品の題材となっている訳ではない。

そのため、本作を考察するにあたっては、「主人公の少年と可愛い容姿のヒロイン」という関係性に注目し「ギャルゲー・アダルトゲーム」からの影響を重点的に検討すべきなのかもしれない。

しかし、科学技術の発達によって、「具体的な中間項がなくても少人数の関係性が抽象的で大きな問題に直結する事態」が生じるようになったことは、フィクション作品の作り手がストーリーを紡ぐ際に小さくない影響を及ぼしているように思う。

例えばSNSは科学技術の産物な訳だが、近頃は多種多様なジャンルでSNSを題材にした作品が増えており、それらの作品では得てして「主人公たち少人数の発信が世界にダイレクトな影響を与えるというようなストーリー」が展開されている。

 

 

先ほど、功利主義は「最も多くの人に最も多くの幸福をもたらす行為を正義とする考え」という意味で使われることが多いと述べたが、英米道徳哲学史に詳しい研究者の児玉聡は「功利主義には四つの特徴がある」と指摘する。

 

 

功利主義はいくつか特徴があり、その一つが帰結主義です。「帰結」とは「結果」のことです。ですので、行為の正しさを評価するには、行為の「帰結」を評価することが重要だ、と。道徳理論・倫理理論の中には「帰結」よりも「動機」の方が重要だという話もありますが、功利主義ではあくまでもその「帰結」が重要だ。ですから、この場合には、「五人が死んでしまうのか一人が死ぬのか」その帰結を考えなくてはいけません。

二つ目は、「帰結」といってもいろいろな結果があるわけですが、特に人々に与える「幸福」が重要である。これが二つ目の幸福主義という特徴です。幸福の内容もいろいろあるのですが、一つの説では快楽説、人々の快苦が重要だ、と。またの他には、欲求の充足、欲求を満たすことが重要だ、といったことが言われます。この場合、快苦にしろ欲求にしろ、五人も一人も死にたくないと思っているので、この人たちが死なないという帰結が重要だということになります。

三つ目の特徴として、「最大多数の最大幸福」ということが言われることがありますが、その総和の最大化、足し算の総和の最大化。功利主義というのはときどき「利己的な、ジコチューの説だ」と言われることがありますが、そうではなくて、全体の利益、この場合、全体の幸福、行為が全体の幸福に対して与える影響が重要だ、と。ですから、この場合では、五人か一人かということで、五人の一人一人の幸福を足し算して五人の方が幸福の量が多くなるから、そちらの方を助けるべきだ、とそういうことになると思います。

今の話の中にも半分含まれているのですが、四つ目の特徴として、これが最後の特徴で、公平性があります。全体の利益を考慮するさい、ひとによっては自分の利益が一番大切だとか、自分の家族の利益が大切だとか、そういう人もいるかもしれませんが、そうではなく、一人を一人として数えて誰も一人以上に数えない、そういうところが重要だ。ですので、たとえば、功利主義者の中でも意見が分かれる難しい問題ですが、この五人と一人の誰かが自分の家族であるとか兄弟であるとか子どもであるとか、仲の良い自分の親でけんかもしていない場合に、そのような状況でどっちを助けるか。功利主義の原則的には、一人は一人として助ける、と。自分のおじいちゃんだから五人分には数えない。こういうことが重要だということになります。

これが簡単な功利主義の説明になります。

 

 

本作のテーマ「主人公が一人を救うために東京水没をもたらしたこと」は「一人の少女の命」と「東京中心部の都市機能」の対比をイメージさせる。

主人公が結果的に後者よりも前者を選ぶというストーリーは功利主義を肯定するか否定するかという視点を観客に示しているようにも感じられる。

 

筆者が功利主義という言葉を知ったのは中高のときに読んだ『哲学用語図鑑』だったが、高校の倫理政経や世界史とかでも功利主義に関する記述はありそうなので、本作を観て功利主義を連想する人は筆者以外にもいるだろうなと思い、「天気の子 功利主義」などといった語句を検索すると、一つのnote記事がヒットした。

 

「天気の子」から見る功利主義の否定と抵抗権|ねおねお (note.com)

 

このnote記事へのレビューは最後に行うこととして、「ねおねお」なるネット民のように、「東京中心部よりも一人の少女の命を選ぶような功利主義は間違っている」と主張する者は多い。

 

確かに、本作において、東京中心部の巨大災害で人が死んでいるような描写はない。

それゆえ「東京中心部が沈んだって人が死ぬわけじゃない。だったら一人の少女の命を守るべき」と感じてしまう観客が散見されるのだろう。

しかし、あれだけの巨大災害が起こって、一人も犠牲者が出ないということは果たしてありうるのだろうか。

 

本作は現実の東京を極めて高い水準で再現した作品となっている。

小説版によると、主人公にかけられた嫌疑は刑法95条の公務執行妨害罪、刑法199条および203条の殺人未遂罪、銃刀法3条違反、鉄道営業法37条違反であるとのことで、法制度も現代日本を忠実に再現したものとなっている。

バニラカー、実在する東京の街の風景、就活に苦労する若者、「恋するフォーチュンクッキー」等の有名曲の登場、2021年(令和3年)という具体的な年号など、新海誠らは本作の舞台がリアルの東京となるよう努めていた。

事実、天候に関するスピリチュアルなフィクション設定を除けば、本作で描かれた東京中心部は現実空間にある東京中心部そのものである。

そうである以上、本作で起こった2年半もの巨大災害の実情を考えるにあたっては、まず、現実の東京中心部であのような巨大災害が起こったらどうなるのかを検討するのが自然だと思う。

 

災害や予期せぬアクシデントが起こったとき、そのダメージに関しては主に二つの意見がある。

 

一つは、ダメージはその地域の人全員に対して平等に生じるという意見で、具体例としては歌手のマドンナがコロナ渦の2020年3月末に「コロナウイルスにとってはあなたがどんなにお金持ちか、有名か、面白いか、賢いか、どこに住んでいるか、何歳か、素晴らしい話ができるかどうかも関係ない。このウイルスは平等をもたらす偉大なものよ」や「ウイルスのひどい点は同時に素晴らしい点でもある。ひどい点はみんなをいろいろな意味で平等にしたこと。素晴らしい点はみんなをいろいろな意味で平等にしたこと。私が毎晩『Human Nature』の終わりでみんなに言っていたように、私たちはみんな同じ船に乗っている。船が沈むときは一緒に沈むのよ」や「差別のないコロナウイルス」とSNSに投稿していた文章などが挙げられる。

 

もう一つは、ダメージは弱い立場の者に偏りがちであるという意見で、前述したマドンナの投稿には「仕事を休めずに働いている人や、具合が悪くても給料が減るのを避けるために働き続けなければならない人や、健康保険がない人などを考えれば、パンデミックで皆が平等になっているなんて言えない」という声があがっていた。

 

筆者は、どちらの意見も間違っていないと考えている。

例えば、コロナ渦ではトランプ大統領やボリス・ジョンソン首相などといった社会的地位の高い人物が新型コロナウイルスに感染し、様々な症状に苦しんでいた。

本作の水没にしても、沈んだ地域の家屋に住んでいた都民は所得の高低に関係なく家屋の喪失を余儀なくされた訳である。

だが、神奈川県の資料や、カリフォルニア州の複数の大学に在籍する研究者などが示しているように、パンデミックによる被害を最も受けたのは社会的に弱い立場の人たちであった。

また、水没という点で共通するタイタニック水難事故においても、一等客の生存率と二等客の生存率と三等客の生存率を比べると、客室のクラスが低いほど生存率が低いという残酷な事実が知られている。

 

結局のところ、前者の意見にも頷ける側面はあるが、それでも後者の意見のほうが正しいケースが多いと考えられる。

 

そのことを踏まえれば、東京中心部の水没で最も被害を受けているのは弱い立場にいる人たちだと言える。

単に新海誠らが本映画で描写するのを避けているだけで、実際にはホームレスなどの弱者の中には水没の被害を受けて亡くなった人たちがいるはずである。

「東京中心部が沈んだって人が死ぬわけじゃない。だったら一人の少女の命を守るべきだ」と主張するのは、実は不正確であり、この主張を正確に言い換えるならば「東京中心部が沈んで弱い立場の人たちが死ぬのだとしても一人の少女の命を守るべきだ」となる。

 

なお、本作はワクチン接種を題材にした作品では全然ないが、本作を観て「東京中心部よりも一人の少女の命を選ぶような功利主義は間違っている」と主張している者は、各国で実施されているワクチン政策をどう感じるのだろうか。

 

ワクチンは副反応が一定の確率で出てしまう。

副反応は微熱や発赤など軽微なものが多いとされるが、後遺症を伴う重篤なものもある。

それでも「ワクチン接種をしたことで生じる副反応の害」よりも「ワクチン接種をしないことによる害」のほうが大きいというエビデンスがあって、医療機関や政府などはワクチン接種を推奨している。

つまり、ワクチン政策は「副反応に苦しむ人も出てくるだろうけどワクチン接種を勧めたほうが社会全体でのメリットは大きいよね」というスタンスで行われており、このスタンスは功利主義と無関係ではない。

 

これまで述べてきたことを考えると、「主人公が一人を救うために東京水没をもたらしたこと」を賛美したり肯定したりする観客は、主人公や天野姉弟に感情移入し過ぎて、水没地域に住む住民のことを軽視しているように感じる。

主人公の行動を賛美し肯定する観客に、「貴方に息子さんがいるとします。その息子さんは家出をしたのち一人の少女を救うために東京中心部を水没させました。貴方は息子さんのこの行動についてどう思いますか」と尋ねたとき、胸を張って「息子を誇らしく思います!」と答える者はどれくらいいるのかなと思う。

主人公の行動を賛美し肯定する観客であっても、心の底から賛美や肯定をしているのかは疑わしく見える。

 

更に言えば、本作のストーリーを紡いだ新海誠本人も主人公の行動を全肯定しているとは限らない。

小説版のあとがきで、前作『君の名は』の予期せぬ規模のヒットと、前作に向けられた批判の数々に対して、新海誠は以下のように語っている。

 

そういう経験から明快な答えを得たわけではないけれど、自分なりに心を決めたことがある。それは、「映画は学校の教科書ではない」 ということだ。映画は(あるいは広くエンターテインメントは)正しかったり模範的だったりする必要はなく、むしろ教科書では語られないことを──例えば人に知られたら眉をひそめられてしまうような密やかな願いを──語るべきだと、僕は今さらにあらためて思ったのだ。教科書とは違う言葉、政治家とは違う言葉、批評家とは違う言葉で僕は語ろう。道徳とも教育とも違う水準で、物語を描こう。

 

これはその通りだと思う。

新海誠は「映画は(あるいは広くエンターテインメントは)」という表現を用いているが、映画やエンターテインメント作品に限らず、全てのフィクション作品は、正しかったり模範的だったり教育的だったりする必要なんてないと筆者も考える。

模範的なフィクション作品があってもいいし、模範的でないフィクション作品があってもいい。

教育的なフィクション作品があってもいいし、教育的でないフィクション作品があってもいい。

問題行動をしてしまうようなキャラクターを主人公とすることで生じる魅力だって存在するはずなのだ。

本作は少なくとも「ありきたりな長編アニメ作品」ではなく、一人の男による作家性が濃厚に感じられる作品である。

中身のないアニメ映画とは真逆の作品であり、RADWIMPSのファンにとって満足度の高い作品であろう。

ここまで作家性の濃いアニメ映画が多数の映画館で上映されていたというのは日本のアニメ文化の底力を示していると思うし、筆者は日本のアニメ文化が持続し、そして発展していくことを強く願っている。

 

 

 

 

 

 

 

最後に、「ねおねお」なるネット民によるnote記事のレビューを行おうと思う。

本記事は<論点><天気の子はいわゆる『セカイ系』><圭介という存在><功利主義の否定><ロックの抵抗権><結論>という節で構成されている。

 

<論点>

本note記事の執筆者は「功利主義の否定」や「ロックの抵抗権の推奨」という二つのキーワードを提示している。執筆者は『天気の子』を非常に高く評価しており、その理由として「既存のセカイ系という設定にアレンジを加えることで受け手にメッセージを訴えかけるための有効な思考装置に昇華させた点」や「帆高は自身の居場所に苦悩する思春期の少年、就活に苦戦する夏美はこどもから大人に変わるモラトリアム期の青年、圭介は理不尽を受け入れながら社会に適応しようと必死でもがく大人、というようにキャラクターそれぞれに各視聴者層に引っ掛るフックを大量に作っている点」などを挙げている。

 

 

 

<天気の子はいわゆる『セカイ系』>

この節には、<「天気の子」が一般的なセカイ系と異なるところは、陽菜と天秤にかけられる世界というモノが緻密に描写をされている点です>という一文がある。筆者はセカイ系に疎いのだが、この一文は「大抵のセカイ系作品は『世界の危機』や『この世の終わり』といったスケールの大きい問題が登場するものの、『世界の危機』や『この世の終わり』の描写が抽象的であり、緻密に描かれている訳ではない」という意味なのかなと推測する。

 

そして<通常のセカイ系は主人公を取り巻く限定的な環境(これを「世界」と対比して「セカイ」と称している)での出来事がそのまま世界の存続に直結します。その為に世界に対面している脅威や敵の正体、また主人公を取り巻く国家や組織の動向といった本来存在すべき社会の存在が最大限まで希釈、または触れられないという状況が珍しくありませんでした。しかし「天気の子」では帆高や陽菜の視点を通して多く描かれています。風俗のキャッチに心ない暴力を振るわれる帆高、両親を失い弟を養う為に風俗に身を売ろうとした陽菜。子供である二人には過酷な状況であることは言うまでもありません>と書かれている。これは「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性」が「セカイ」に対応しているということなのだろうか。

本作では確かに家出少年の行方を追っている警察が登場するが、これを<主人公を取り巻く国家や組織の動向>と呼ぶのは幾分か大袈裟な気もする。そもそも本作は日本という国家の存在感がそこまで強くない作品なように思うのだが、執筆者は筆者とは異なる感想を抱いているようだ。

 

晴れ女のビジネスで人々に感謝をされ、ようやく社会に居場所を見出した二人でしたが、こんどはメディアに取り上げられた事で好機の目を向けられるようになります。その後は帆高を探す警察なども現れ、帆高を住み込みで働かせていた圭介からも「もう来ないでくれ」と一方的に別れを切り出されます。なんとか社会と繋がった二人は、再び社会から絶縁をされたのです。「天気の子」で描かれる『世界』とは、懸命に自分の居場所と繋がりを作る子供達に対して苦難を与え続ける存在でした>と執筆者は論じているが、主人公が東京中心部の交番に行くなり、故郷の神津島へ帰るなりすれば、「社会から絶縁」という状態はあっさりと解消されるのではと思う。

主人公が神津島にいる親から日常的な虐待を受けていた等の設定が観客に明示されているのならまだしも、本映画ではフェリーで東京中心部に向かっているとき主人公の頬に絆創膏やガーゼがあった程度の描写しかない。

そのため「本当に、苦痛を与える人しか主人公の周囲にはいなかったのか」と感じる観客はいるだろう。

 

 

 

<圭介という存在>

この節で、執筆者は「圭介は帆高と同じように社会に傷つけられながらも社会に適応しようと足掻いている人間だ」と論じている。「本当に、苦痛を与える人しか主人公の周囲にはいなかったのか」という疑問はともかく、主人公が東京中心部に到着し、陽菜にハンバーガーを恵んでもらうまでの間、主人公に親切なことをしてくれる都民は確かに登場していない。この意見は妥当であると言えそうだ。

 

圭介は物語の終盤で、陽菜を救うためにビルへと訪れた帆高に大きな壁として立ちはだかります。静止を振り切り陽菜の元へ行こうとする帆高を殴り圭介は言います>という文章があるが、「静止」ではなく「制止」が正しいように思う。

 

作中で陽菜を助ける為に線路を走る帆高を嘲笑する人々の姿がありました。彼らは線路を走るという社会から逸脱した行為を指して笑っているわけですが、なぜ帆高が線路を走らなければいけない状況になったか、そこまで思い至る人間はいません>という箇所に対しては、「騒音を撒き散らし、近隣住民に迷惑をかけている暴走族がいたときに『なぜ彼らは路上を暴走しているのだろうか』と思う人が殆どいないのと似たような理由なのではないかな」と感じた。

犯罪の疑いすらある非常識な行為をしている人が自分の視界に入ったとき、大多数の市民はその非常識さに圧倒されて当然だと思うし、その市民がその光景についてコメントすることに倫理的な問題があるとは言い難い。

 

この忙しい現代社会においてイレギュラーな行為を起こす他人の心情や動機を理解する余裕などない。仰る通りだと思います。しかし、この言説には大きな矛盾があります。他人の心情を推し量る余裕がない癖に、どうして他人の行動を笑うために足を止める余裕があるのでしょうか?>と執筆者は、さも鋭いことを指摘しているかのような雰囲気を出しているが、過労死した電通の高橋まつりさんの事例を考えれば、「大きな矛盾」ではないことが分かる。

東京大学を2015年3月に卒業し、同年4月に電通に入社した高橋さんは、東京本社デジタル・アカウント部に配属されてインターネット広告を担当していたが、同年10月1日付で本採用となってからは仕事量が急増し、数か月後の12月25日に社員寮から飛び降り自殺を遂げた。

過労に追われているさなか、高橋さんは<帝京大医学部の女の子がテラスハウス出てたけど、その肩書きがテロップに出てる限り「私はめちゃめちゃ馬鹿だけど、親に大金を払ってもらって医者になるよ!」って吹き出しに書いてあるようなものじゃん。>とツイートしている。

このツイート(現在は「ポスト」)は、過労死に至るほど激務な状況下であっても、「縁もゆかりもない人間」を嘲笑したり揶揄したりする程度の「余裕」が存在しうることを示している。

結局のところ、「他人の心情を推し量る余裕がない」は不正確であり、「他人の心情を推し量る動機がない」というのが実態に近いのだと思う。

この忙しい現代社会においてイレギュラーな行為を起こす他人の心情や動機を理解する余裕などない>は<現代社会では忙しさを感じている者が多いし、そもそも彼らには「イレギュラーな行為を起こす他人の心情や動機」を理解する動機がない>とするべきなのではないだろうか。

 

本当は余力がないわけではなく、知らないフリをした方が都合がいいからです。義憤、集団との一体感、自身の正義の実感、様々な自身の利益の為に彼らは知らないフリをするのです。さながら作中の警官なら「自身の労働負担の軽減」、大衆なら自分たちはマトモだという「集団の一体感」といったところでしょう。そうした社会全体の知らないフリ、無関心が個人の権利を脅かしていく誤った功利主義の根幹にある事を示唆しています>に対しては、本映画を視聴しなおした方がいいとすら感じる。

警官や大衆らは異常気象の理由や天野陽菜が巫女になったことについて「知らないフリ」をしているのではなく、単に知らないだけである。

車内で主人公は高井刑事に「陽菜さんは……陽菜と引き換えに空は晴れたんだ。みんな何も知らないで……こんなのってないよ」と泣き叫んでいるが、主人公や天野姉弟の事情を知っている我々観客と、その事情を知るよしもない警官達とでは、この非科学的なコメントへの受け止め方に差が出て当然だろう。

仮に自分が警官で、その車内にいたとしても「鑑定医いりますかね」と真顔で言うと思う。

 

 

 

<功利主義の否定>

この節は、第一段落と、第二段落と、<「まあ一個人が社会にそんな大きな影響を与える事ってまずないけどさ! 仮に! 仮にさ! もしそういう状況になったとして! 罪のない女の子の命と社会の利益、お前ならどっち取る?」そして私はこの雨による水没をロックの抵抗権の行使に通じるものがあると感じました。>という文章の三つから構成されている。

 

第一段落を読んで気になったのは、<もちろん提唱者のベンサムは個人の犠牲を良しとしない但し書きを設けましたが、(量的功利主義は)結果として前述のような全体主義的な誤った用法で用いられることが多いように感じます>という執筆者の感想のほうが誤っているのではないかということである。

あれだけの巨大災害が起これば(単に新海誠らが描くのを避けているだけで)災害による死者が数人以上でてしまうことを踏まえると、<個人の犠牲を良しとしない>の「個人」には「災害による死者一人一人」も該当するはずである。

執筆者の述べていることが正しければ、主人公が結果的に東京中心部を選ぶのもダメということになるし、主人公が結果的に一人の少女を選ぶのもダメということになる。

つまるところ「どちらかしか選べない状況」なのに「どっちもダメ」ということになってしまう。

 

この段落は「(量的)功利主義は全体主義的で誤っている」という論調が漂っているが、例えば功利主義が前提となっているワクチン政策は、全体主義国家だけで実施されているものではなく、世界中の国々で幅広く実施されているものである。

ワクチン政策が全体主義的だとは言い難く、功利主義に基づいた政策を全体主義的と捉えるのは無理がある。

 

また、功利主義者はベンサム以外にもいて、ベンサムの量的功利主義を質的功利主義に発展させたジョン・ステュアート・ミルは危害原則を唱え、「個人の自由は最大限みとめられるべきだが、その個人が他人に危害を加える恐れがある場合には制限される」と主張した。

本作では、スピリチュアルな自然のなりゆりによって一人の少女が犠牲になろうとしているのを止めるという自由が、「その自由の行使によって生じる災害地域の住民への危害」につながってしまっている。

つまり、危害原則が該当しうる構図となっている。

もちろん前編で述べたように、「主人公は意識的に選択した」と表現するよりも「主人公は結果的に選択した」と表現するほうが実態に近い訳だが、幸福量の計算よりも幸福の質に重きを置いたジョン・ステュアート・ミルの立場からしても、本作における主人公の選択を正当化するのは苦しいように思う。

 

第二段落を読んで、筆者は「人権は人が作り上げた仕組みに対して主張できるものであって、自然に対して主張できるものではないのでは」と感じた。

自然のスピリチュアルな力は人が作り上げた仕組みというよりも、むしろ自然に属するものだろう。

カルト集団や、民衆への弾圧を繰り返す独裁政権などに対して人権を主張するのは成立の余地があるが、大津波や大地震などに対して人権を主張するのは成立の余地がない。

大津波や大地震をもたらした自然に犠牲者の遺族が怒りや嘆きや絶望感といった心理を抱くのはおかしなことではないだろうが、それでも遺族たちが自然に対して人権を主張するのは、人権自体が自然には元々ないものであることが物語っているように、空虚な行為なのだ。

 

「まあ一個人が社会にそんな大きな影響を与える事ってまずないけどさ! 仮に! 仮にさ! もしそういう状況になったとして! 罪のない女の子の命と社会の利益、お前ならどっち取る?」は、「まあ権力者とか大富豪とかを除けば、一個人が社会にそんな大きな影響を与えることってまずないけどさ! 仮に! 仮にさ! もしそういう状況になったとして! 『罪なき女の子一人の命』と『罪なき女の子一人の命を救う代わりに、東京中心部を水没させて、その地域の罪なき住民らの暮らしを奪い、その地域で弱い立場にある罪なき人たちの命を危険にさらすこと』、お前ならどっち取る?」とするほうが正確だと思う。

 

この節の最後に「そして私はこの雨による水没をロックの抵抗権の行使に通じるものがあると感じました」という導入文があり、執筆者は次の節で哲学者ジョン・ロックの思想を紹介している。

 

 

 

<ロックの抵抗権>

執筆者はジョン・ロックの抵抗権という用語を説明したうえで<社会の機能不全により陽菜と帆高は社会に自身の権利を脅かされたことで抵抗権を行使する条件が満たされた。陽菜を助けることによってふたたび降り始めた雨は抵抗権という概念の可視化であり、その結果、東京は水没して首都機能を失った。転じて抵抗権の行使によって立法権と執行権が剥奪され、東京という社会が崩壊した>という持論を展開している。

この持論で気になるのは、「首都だの立法権だの執行権だのって近代思想そのものだろうけど、近代思想って基本的に前時代的な『自然のスピリチュアルな力』を想定してないんじゃないの」ということである。

近代以前の呪術的な「自然のスピリチュアルな力」が存在する世界で、抵抗権という概念が適応できるのかは不透明な側面がある。

確かに、警察や児童相談所が家出少年に寄り添ったり優しい態度をとったりしているのかは怪しい。

だが、警察や児童相談所が「スピリチュアルな自然のなりゆりによって一人の少女が犠牲になるのを止めたいという主人公の希望」に沿っていないからといって、それを機能不全と主張するのは論理が飛躍している。

警察や児童相談所は「自然のスピリチュアルな力」を想定して運営されている組織ではないし、そこで働いている者たちは法制度に反することを行いたい場合でも職務上の制約により行えないという立場にある。

 

執筆者は「行政が本来助けに入るべきところで機能を果たさず、関与しなくてもいいところで機能して邪魔をする構造、これはマートンが提唱した『官僚制の逆機能』に他ならないでしょう」と述べているが、これは官僚制による問題ではなく、今の日本の法制度が親権を強く設定していることによる問題だと思う。

陽菜がバイト先で年齢を18歳と偽っていたのは、労働基準法や民法などのせいで18歳未満の就労に大きな制限が存在するからだし、そもそも主人公が親権の及ばない年齢であったならば主人公の親が警察に行方不明者届(旧捜索願)を出したとしても、警察は主人公の違法行為を把握するまで捜索に消極的な対応をしていたであろう。

本作で主人公は刑事に「ただまあ彼はまさにいま人生を棒に振っちゃってるわけでして」と指摘されるほど犯罪を重ねていた。

執筆者は「作中において警察や児童相談所といった行政が陽菜と帆高に恩恵をもたらした描写が一回でもあったのか」と問いかけているが、陽菜と児童相談所の件は兎も角、もし警察が犯罪行為を重ねている者に恩恵ばかりもたらしているのであれば、それは正気の沙汰ではない。

 

この節は<新海誠が若者に対してのメッセージを「天気の子」に仕込んでいるのは間違いないでしょう。そのメッセージの一つとして、これは親でも友人関係でも学校でも職場でもなんでもいいのですが、自身を守ってくれない、または脅かそうとしている上位存在に従順に迎合し続ける必要はないというメッセージの様に感じられました。実際、学生アルバイトを食い物にした労働法違反行為など無知な子供をターゲットにした違法行為は現実に存在しています。そうした理不尽に対して「でも、逆らったって仕方ないし……。自分にも落ち度はあるし……」と泣き寝入りをしてきた大人になってきたのが圭介です。しかしこのような慣習が続いていけば大人は子供たちに「いや、でも自分たちは受け入れて生きてきたから」と、理不尽や違反を受け入れさせようとするでしょう(前述の通り、圭介の大人になれよ発言はまさにこれです)。陽菜のような特殊能力は持っていないにしても、我々人間には生命や権利を脅かす相手に抵抗をする権利があるのだということを東京の水没という象徴的な結末で訴えかけているように思えるのです>という文章で結ばれている。

だが、これは、既存の法制度に則って抵抗するのか否かという点における一貫性が欠けているように思う。

 

執筆者は主人公の言動を肯定しているが、主人公は刑法95条の公務執行妨害罪、刑法199条および203条の殺人未遂罪、銃刀法3条違反、鉄道営業法37条違反などに抵触しうるような違法行為に手を染めている。

その一方で、執筆者は<実際、学生アルバイトを食い物にした労働法違反行為など無知な子供をターゲットにした違法行為は現実に存在しています……陽菜のような特殊能力は持っていないにしても、我々人間には生命や権利を脅かす相手に抵抗をする権利があるのだということを東京の水没という象徴的な結末で訴えかけているように思えるのです>と語っており、「違法行為という理不尽に対しては抵抗(をする)権(利)がある」という論調である。

これは違法行為を許容するのか否かという点での一貫性が欠落しているのではないだろうか。

 

 

 

<結論>

執筆者は<それ故に一部批評で見られる「天気の子は従来のセカイ系同様に、周りの見えていない子供が正常な判断を持たずにイタ恥ずかしい行動を美化した作品」という考察は、作品文脈の明らかな誤読であると断言します>などと語っているが、文法的に整った文章に修正するならば、<それ故に一部批評で見られる「天気の子は従来のセカイ系同様に、周りの見えていない子供が正常な判断を持たずにイタ恥ずかしい行動をするのを美化した作品」という考察は、作品文脈の明らかな誤読であると断言します>となるだろう。

筆者も「天気の子は従来のセカイ系同様に、周りの見えていない子供が正常な判断を持たずにイタ恥ずかしい行動をするのを美化した作品」という意見は正しくないと思う。

何故なら、主人公の行動は「イタ恥ずかしい行動」などという軽いノリのフレーズでは言い表せないほど深刻かつ重大な結末をもたらしているからだ。

主人公の衝動性や無鉄砲さは一つの大国の首都に大打撃を与え、数百万人もの民衆の故郷を消滅させるに至った。

 

なお、ここでいう「作品文脈」は、「新海誠が全くの異世界ではなく新宿という舞台を選んだのか」「なぜ圭介が帆高と似ているという情報を何度も残しているのか」「なぜ雨で東京を沈没させる展開にしたのか」といったことを指している。

 

文脈から作者の意図を想定し要素を勘案した結果、誤った功利主義の思想を用いて個人の権利を踏みにじる行為の批判と、相手が間違っていると自身が確信しているのなら異を唱えて抵抗をする権利があるのだというメッセージが込められていると結論付けました、以上>という締めの文章を読み、筆者は「執筆者は主人公や天野姉弟ばかりに目を向けるのではなく、水没地域で暮らしていた数百万人もの住民などにも目を向けてみると良いのかもしれない」と感じた。

 

 

 

新海誠作品『天気の子』は前作『君の名は』と共通している点もあれば共通していない点もある。

ボーイ・ミーツ・ガール、都会と田舎の対比、風景などの作画の美しさ、神道っぽい雰囲気、田中将賀やRADWIMPSの関与、俳優や女優を声優として採用する鈴木敏夫的手法、作中のキャラが就活を行っているシーンなど、前作との共通点は多い一方で、ハッピーエンドなのか否かという点で大きな違いがある。

 

前作は、主人公らの行動により500人以上の住民の命が助かり、ハッピーエンドと言いうるような結末を迎えているが、本作では主人公らの行動により東京都の3分の1が水没するという大災害が起こっている。

天野陽菜の命が助かったというのは本作の主人公である森嶋帆高にとっては確かにハッピーエンドなのだろうが、伊豆大島や神津島などといった離島ではない「東京の中心部」で生まれ育ってきた何百万人もの住民にとっては災難そのものだと思う。

 

本作は反戦映画などのように教訓めいた映画ではないと思われる。それゆえ本作はストーリーとテーマのうち前者に重きを置いて鑑賞する者が多数派であろう。

筆者もストーリーを追うようにして鑑賞していたのだが、脚本の質は普通なように感じた。

拳銃を偶然ひろってしまうシーンがあったが、銃社会と無縁の人生を送ってきた圧倒的大多数の日本人であれば拳銃を元の場所に戻したり、どこかにあるゴミ箱に廃棄したりするのが自然だと思った。

スカウトマン木村の怒りを買っていて切迫していた状況だったとはいえ、人生で一度も拳銃を握ったことのない子供が発砲という行為を遂げられるのかという違和感も湧いた。

 

本作は主人公の幼さを強く感じる展開が目立ち、作中でも複数のキャラが主人公の幼さを指摘していた。

新海誠監督は主人公の人格を幼稚に描こうとしており、これは監督の狙い通りなのかもしれない。

だが、精神的に幼いからという擁護が苦しいほど、主人公は自分の言動への責任感が乏しいように感じた。

たとえば主人公が警官達から逃げるシーンでは、須賀夏美が主人公をバイクに乗せて主人公の逃走を助けていた。

その際、須賀夏美は「ウケる!こりゃあ私もお尋ね者だね!」と明るく語っており、悲壮な覚悟と言えるような表情をしていないため分かりづらくなっているが、このシーンは須賀夏美が自身の就活よりも主人公の手助けを優先したことを意味している。

逃走犯の手助けをして警察に迷惑をかけることが就活に響かないはずがなく、須賀夏美は主人公のために自分の将来を危うくしているにも拘らず、須賀夏美の「白バイ隊員になろうかしら」という台詞に対して主人公は「もう雇ってくれませんよ!」とツッコミを入れていた。

須賀夏美が「もう雇ってくれない」ような状況となった最大の原因は主人公にある。

「白バイ隊員になろうかしら」という台詞が能天気なのは事実だが、主人公は、その能天気な台詞にツッコミを入れていいような立場なのか不思議に思った。

恩人である須賀圭介の腕に噛み付いたり発砲したりしているシーンに至っては精神年齢が低いどころの話ではない。

「恩人の腕に噛み付いたり発砲したりするほど主人公は天野陽菜に会いたかったんだ」と主張する観客もいるかもしれないが、「だったら須賀圭介が主人公を説得しようとしているタイミングで主人公が須賀圭介の話を聴こうともせず非常階段へ疾走するような脚本にすればよかったんじゃないの?」と感じる。

主人公の性格は幼いというよりも衝動的で無鉄砲と表現するほうが正確なようにも見える。

 

 

主人公が非常階段を上り、屋上の鳥居に到達すると、主人公は天空の世界へワープした。

そこで天野陽菜と対面し、彼女を救出したのち主人公は逮捕された。

彼女が救われたあと降り始めた雨は2年半も続き、東京中心部を水没させる巨大災害を引き起こした。

高校を卒業した主人公は大学に通うため船に乗って東京中心部へ向かうのだが、船に乗っている途中「変わってしまった東京のこの風景を見て、何を思えばいいのか?彼女に何が言えるのか?僕にはまだ分からない」と独白していた。

巨大災害のせいで自宅や故郷を失って標高の高い地域への移住・避難を余儀なくされた都民の前でも、そんなこと言えるのかなと疑問に思いながらストーリーを追っていくと、立花冨美に会ったり須賀圭介に会ったりした後、主人公は晴れ女としての能力を失った天野陽菜と対面したのだった。

そして、対面のシーンの前後で「違う…やっぱり違う!あのとき僕は…僕達は確かに世界を変えたんだ!僕は選んだんだ、あの人を、この世界を、ここで生きていくことを!」と独白していた。

この独白を聴いた視聴者の反応は様々だと思う。

或る者は聞き流すように言葉を聴いて「ふーん」と感じるだろう。

筆者は「本作の主人公にとって『世界』は故郷の神津島と東京の中心部なのだろうな」と感じた。

小学生の頃、筆者は『週刊そーなんだ!』という学習漫画を読んでおり、『週刊そーなんだ!』の社会編には「世界の七不思議」を扱った回があった。

その回では、古代における世界の七不思議が紹介されていたのだが、それら七つの建物は全て「地中海や中東」の地域にあった。

つまり「世界の七不思議」なるものを考えた古代人たちにとって「世界」は地中海や中東などといった地域のことに過ぎず、オセアニア地域やマダガスカル島やアメリカ大陸などは「世界」として認識すらされていなかったということが示唆される。

いくら幼いキャラクターといっても主人公は欧州や北米や南米やアフリカ大陸などを知ってはいるだろう。

だが、それは教師や本やネットなどを経由して聞きかじった知識に過ぎず、それら諸外国について言及したり思索に浸ったりするような国際性は作中で余り見られない。

海外に関心がないにしても、近畿地方や北海道などといった東京都以外の国内地域に関する言及や思索があってもおかしくはないのだが、『ムー』の取材などが絡むシーンを除けば、主人公の世界認識は神津島や高島平や代々木など東京エリアに留まっているように感じた。

「この世界といっても、災害が起こっているのはあくまで東京エリアであり、例えば北海道や九州やメキシコやモンゴルやチェコなどでは巨大災害は起こっていないんじゃないの」とも筆者は感じるが、作中で描写される地域の大半は神津島や、東京の中心部であり、世界全体で見れば災害が起こっていない地域のほうが広いということは作中において重要な事柄ではないのだろう。

 

 

この独白には「世界」という単語があり、筆者はこの箇所に着目して主人公の認識・想定する世界が狭いことに意識が向いたが、サブカル界隈にはセカイ系なるジャンルに強い関心を抱く人々がいるようで、ネットでも「新海誠作品とセカイ系の関係性」や「『天気の子』とセカイ系の関係性」を論じている文章が散見された。

 

そのような文章には或る特徴があり、本作のストーリーよりも本作のテーマに重きが置かれているものが多い。

本作のテーマは「主人公が一人を救うために東京水没をもたらしたこと」であろう。

それらの文章の書き手の大半は主人公の行動を絶賛している。

SNSでも「東京は大丈夫だ!」と書いている人がいた。

 

絶賛する人たちは大体「東京中心部よりも天野陽菜を選択した主人公は素敵だ」といった内容のことを書いている訳だが、「主人公が一人を救うために東京水没をもたらしたこと」を「主人公の選択」と表現することには留意すべき点があると感じる。

新海誠が「天空の世界で主人公が天野陽菜と会っているシーン」を「主人公が東京よりも天野陽菜を選択している」という意味で描いているのは確かである。

事実、本作の結末部で主人公は「違う…やっぱり違う!あのとき僕は…僕達は確かに世界を変えたんだ!僕は選んだんだ、あの人を、この世界を、ここで生きていくことを!」と独白するに至っている。

だが、天空の世界のシーンで主人公は「東京と天野陽菜どっちを選択しようか」などといった逡巡をしていた訳ではない。

「天野陽菜をいま救ったら豪雨がやまなくて東京の中心部に災害が起こるかも」などといった具体的な想定・思考を行いながら天野陽菜を救っていったのではなく、「天野陽菜が消えてしまうなんで嫌だ」や「天野陽菜と一緒にいたい」などといった衝動に駆られるがままに行動していたように見える。

つまり、「主人公は意識的に選択した」と表現するよりも「主人公は結果的に選択した」と表現するほうが実態に近い。

 

いずれにせよ、主人公の行動が天野陽菜を救い、東京水没をもたらしたのは明らかである。

筆者が強調したいのは、「天野陽菜を救った代償が主人公個人の範囲内に収まるならばノープロブレムだろうけど、自分以外に損害が及んでしまうのならば主人公個人だけで決めてよいことではないんじゃないの?」ということである。

「天野陽菜を救ったら自分の手足が不自由となってしまう」などの状況であったら、「主人公は結果的に自分の手足よりも一人の愛する少女を選んだのだな」と受け止められる。

しかし、本作のように天野陽菜を救ったら東京の3分の1が水没してしまう状況の場合、「何の(法的な若しくは道義上の)権限があって都民に多大なる損害を与える行動をとったのか」という問題が出てきてしまう。

更に言えば、東京中心部からすると、神津島で生まれ育った主人公はいわゆる「余所者」に過ぎないことも重要である。

本作は「天野陽菜を救ったら自分の故郷である神津島が水没してしまう」という構図ではなく、「天野陽菜を救ったら自分の故郷ではなく自分以外の人々にとっての故郷が水没してしまう」という構図になっている。

 

そうであるにも拘らず、主人公の行動を絶賛する視聴者が一定数あらわれているのを見ると、新海誠は脚本や設定をかなり工夫したのだなと感じる。

たとえば、仮に主人公が標準語から乖離した方言の地域から東京へ家出したという設定だったとする。

その場合、主人公は東京中心部の住民でないことが台詞だけでも目立ってしまい、本作を視聴した東京中心部の住民が「この映画って、東京中心部で生まれ育った訳でもない余所者が、好きな女の子一人のために、東京中心部を被災させ、少なくない数の都民に多大なる損害をもたらすストーリーじゃん」と気づいてしまうリスクが高くなる。

なお、主人公の設定が「日本以外の国で生まれ育ち、日本人離れした外見をしていて、日本語すら片言のティーンエージャー」であった場合は、このリスクが更に高くなっていただろう。

 

中心部の3分の1が水没しているのに、船や橋の上に人々がいるような風景を描写するだけというのは流石に東京中心部の2年半の描写が不足していると筆者は思うし新海誠らもそう思ったらしく、主人公が立花冨美に会いに行くという流れで自宅を失った当事者の話を聴くシーンが用意されている。

その際、立花冨美は自宅を失ったことを話しつつも「水没地域は江戸時代以前は海だった場所で、それが元に戻っただけ」という持論を伝えている。

これも故郷を失った当事者と会うシーンの描き方として工夫がされているように思う。

冷静に考えれば「もともと海だった地域なんだから水没したとしても問題ない」ということにはならないのだが、立花冨美のこの持論は「もともと海だった地域なんだから沈んじゃったとしてもよくね」と観客にさりげなく感じさせる効果が期待できるのではないだろうか。

もし、主人公が会いに行った相手が立花冨美ではなく「憧れのマイホームを数年前や数か月前に建てたけれども水没で家屋を失って残り数十年も支払い義務のある住宅ローンだけが残った」というような境遇の家族などであったら、「東京は大丈夫だ!」などと能天気な感想を抱いたまま映画館から帰宅する観客は皆無に近かっただろう。

本作では、神宮外苑と見られる地域も登場していたが、神宮球場を本拠地とする東京ヤクルトスワローズなどのように首都圏を本拠地とするプロスポーツチームの関係者からすれば、自分たちの職場ひいては自分たちの職業を巨大災害に奪われている訳である。

「人はどんな状況でも乗り越えられる」というのは「そういう場合もある」というだけのことで、実際には「取り返しのつかない事態」が待っていることも珍しくない。

太平洋戦争のとき「米英は強いけど神風が吹くから日本が勝つ」と主張する軍国主義者たちがいたが、彼らは神風が吹くことを説明できるようなエビデンスを有していた訳ではなかった。

「元寇のときに神風が吹いたという伝承はあるけど、それが実話なのかは歴史家の間でも議論があるし、そもそも連合国と戦っている今の日本に神風が出現してくれる保証ってあるの?」と訊かれたとしても、彼らは「神風を信じられぬなんて非国民だ」などと激高するだけだったであろう。

もちろん太平洋戦争で勝ったのは連合国側である。

「神風が吹く」という話は単に軍国主義者がそう言っていただけであり、第二次世界大戦中に神風が吹くことはなかった。

 

同じ天空を題材とした作品『天空の城ラピュタ』でも「ラピュタは滅びぬ…何度でも甦るさ!」と言っていた男がいたが、結局のところラピュタの復活が達成されることはなく、その男も目を痛めながら転落死していった。

 

「人はどんな状況でも乗り越えられる」と言ってみたり、そう信じてみたりするのは自由だが、実際にそうであるとは限らないし、具体的な根拠の伴わない希望的観測は現実逃避と表裏一体だと思う。

 

主人公の選択を絶賛する人たちの中には、中心部の3分の1が水没した後も庶民たちが東京に住み続けていることを以て「新海誠監督は、豪雨などの災害があっても人は乗り越えられるというメッセージを発している」と主張する者がいる。

無論、作品の解釈には個人差があろう。

しかし、この主張は正しくない可能性が高いと筆者は考える。というのも国連のインタビューで、新海誠は「今の温暖化がこれほどはっきりと目に見える形で危機的状況を及ぼす以前から、日本は他の国と比べて自然災害がとても多い国でした。だから良くも悪くも、環境の変化に過剰適応してしまっていると感じます」と述べているからだ。

東京中心部の水没はまさに環境の変化である。

本作に関して行われたインタビューから、この主張を直に裏付ける箇所を見出すのは難しいように思う。

因みに、本インタビューは日本と海外の間で本作への反応に差がみられるという記述などがあり、一読する価値のある記事だと感じる。

 

本作のテーマ「主人公が一人を救うために東京水没をもたらしたこと」を更に突き詰めていけば功利主義を肯定するか否かという論点が現れることとなる。

近日中に本記事の後編を公開する予定だが、後編では功利主義やセカイ系などについて掘り下げていこうと考えている。

 

 

 

 

〇経緯

今月、新紙幣が発行され、6年前に書いた「未来は僕らの手の中」の替え歌のことを思い返しました。

以前から替え歌の動画をYouTubeに投稿する機会を窺っていたこともあり、来月1日の深夜0時に動画を公開する運びとなりました。

動画投稿にあたって、歌詞を微調整したので紹介いたします。

 

 

 

〇替え歌「未来なき僕らの世の中」(2024年版) 原曲:真島昌利/歌詞:A倉R郎

夜よりも朝がいい 果実より葉っぱがいい

カレーパンよりアンパンが好き バイクよりチャリが欲しい

舐められるくらいなら しゃぶられる方がいい

この紙一枚で 禁断の異世界へ

 

悪魔に気を付けろ 悪魔の名はオトリのマトリ

グミよりもチョコが好き 肉よりも野菜が欲しい

かき氷たべるなら アイスをしゃぶりたい

支配者をあてにせず 買おう、きめよう、売り捌こう

 

未来なき僕らの世の中

 

学校も塾も要らない 粉末を握り締めたい

人骨は主より授かりし天使の粉で粉々に

砕かれつつあるけど 今さえ良ければいい

隔世への一針 幻覚への一粒 それらさえあればいい

 

 

性善説は「人間の本性は生まれながらにして善である」とする説であり、孟子が提唱したとされる。

一方の性悪説は「人間の本性は生まれながらにして悪である」とする説であり、荀子が提唱したとされる。

古来、この二つの説は複数の思想家によって議論され解釈されてきたが、現在の日本において名詞「性善説」と名詞「性悪説」は少しニュアンスの異なる意味で用いられることが多い。

具体的にいうと、性善説は「人は誰しも善人である」という意味で用いられることが多く、性悪説は「人は誰しも悪人である」という意味で用いられることが多い。

 

孟子や荀子の主張への賛否に限らず、或る事柄への賛否を問う議論は様々な場で行われている。

たとえば電力エネルギーに関して言えば「あなたは原発に賛成ですか。それとも反対ですか」という議論があるし、野球のルールに関しても「あなたはDH制に賛成ですか。それとも反対ですか」という議論がある。

 

教育の分野でもこのような形式の議論が行われており、ときたま筆者は「あなたは体罰に賛成ですか。それとも反対ですか」という議論をみかけることがある。

しかし、これは賛否の分け方が適切でないように思う。

「あなたは健康な成人が嗜好目的で大麻を吸うことに賛成ですか。それとも反対ですか」と問う企画が日本で開かれていたら、大半の日本人は「そもそも違法なのだから賛否以前の話じゃん」とツッコミを入れるはずである。

このトピックの賛否を日本で問いたいのならば「あなたは大麻合法化に賛成ですか。それとも反対ですか」などとするのが妥当であろう。

日本において体罰は学校教育法や改正児童虐待防止法や改正児童福祉法などで禁じられている違法行為である。

そうである以上、体罰に関する賛否を日本で問いたいのならば、本来は「あなたは体罰を禁じる法制度を変更して体罰を合法化することに賛成ですか。それとも反対ですか」などと問う必要がある。

 

「しつけ」でもダメ!4月から体罰は法律で禁止されました 世界で59番目 子どもへの暴力のない社会へ、意義と課題は | 東京すくすく (tokyo-np.co.jp)

 

 

数々の報道が示しているように、体罰に走る教師や、子供に暴力をふるう親は日本で依然として散見される。

それどころか「学校の先生だって忙しいんだし問題児に対しては体罰したっていいと思う」などと体罰を肯定する者も多い。

体罰肯定派の意見を集めると「殴らないと分からない子供もいる。体罰否定派は性善説に立っているが、これは実態に即していない。性悪説に立って体罰を行うべきだ」というのが大筋の主張となる。

だが、これは逆だと思う。

寧ろ性悪説に立つならば尚更、体罰には否定的となるはずだからだ。

 

少し考えれば分かるように教師や親はまともな人ばかりではない。

イケメンや可愛い生徒を依怙贔屓し、容姿の劣る生徒を雑に扱う教師。カルトに染まって自分の子供の輸血を禁じる親。プライベートで不機嫌なことがあったときに何も悪いことをしていない子供に当たる教師。「お前なんか産まなきゃよかった」と子供に言い放つ親。

世の中まともな大人ばかりではないし、体罰肯定派は何故そういった有害な大人が体罰を行う危険性などを考えないのか疑問に思う。

それでも体罰を肯定する教師や親は「体罰をしなきゃ授業中に生徒が騒いだり子供が公の場でマナー違反したりするのを止められない」と主張するかもしれない。

このような主張を見かけるたびに筆者は興味深く思う。

というのも、こういった主張は「自分は体罰に頼らないと教育できないような無能教師・無能ペアレントです」などと自分の無能さを自白しているような雰囲気を感じるからだ。

読者の皆さんも自分が中学校にいたときのことを思いだせば分かりやすいと思うが、クラスメートは大体どの科目でも同じなのに、科目を担当する教師によって授業中の生徒の態度には大きな差が生じていなかっただろうか。

「生徒から敬慕されている教師は体罰なしでも生徒の指導が可能だし、生徒から敬慕されていない教師は体罰に頼らないと生徒の指導ができない」という構図が頭に浮かんでくる。

 

子供が騒いだり躾のなっていない態度をとったりするごときで人は死なないが、体罰は子供の生死に直結しうる。

岐陽高校体罰死事件、不動塾事件、大分県立竹田高校剣道部主将死亡事件、そして親が「しつけ・教育のため」と称して子供に暴力をふるっていた野田小4女児虐待事件などのような悲劇を人類は繰り返すべきではない。

職場において上司が罰と称して部下に暴力をふるったら刑事罰や民事訴訟の対象となるように、大人が罰と称して子供に暴力をふるった場合も刑事罰や民事訴訟の対象となる社会のほうが望ましいように思う。

 

慣れって恐ろしいなと思う。

例えば電車に乗ると一部の車両が女性専用車両(女性専用車)になっていることがしばしばある。

米国などで、黒人による白人への犯罪が電車内で複数回あったことを理由に「有色人種が乗車できない白人専用車両」を運行する鉄道会社が現れたならば、大々的に問題視されるはずである。

ところが、日本の鉄道会社は「痴漢がいるからしょうがない」などといった常套句と共に女性専用車両を何十年以上も運行している。

女性専用車両という制度が法律や条例で公的に定められているのならば、このような差別に疑問を抱かない人が多数いたとしても不思議ではないだろう。

だが、そもそも日本の場合、女性専用車両という制度は法律や条例で定められているものではない。

司法も女性専用車両の導入は乗客の任意の協力の下でのみ実施されるという見解を示している。

女性が痴漢被害を警戒するのは全然おかしなことではないし、多くの女性乗客にとって女性だけの空間が「痴漢のリスクがほぼ無くて快適」に感じられるというのも分かる。

だが、その快適な空間は大半の男性乗客が「同じ運賃なのに特定の属性しか乗れないような車両」の存在を許容し、女性専用車両へ入るのを善意で控えているから成立しているに過ぎない。

ヤフー知恵袋で「体も心も女性」という方が隣の普通車両は満員電車なのに女性専用車は或る程度ゆとりがあることなどに関して女性専用車両への違和感を表明しているように、ジェンダー平等やポリコレの風潮が強まりつつある今後の社会では女性専用車両という制度が揺らいでいく可能性もある。

善意で成り立っている制度を「あって当然の制度」だと認識するのは冷静さを欠いている。

 

 

 

海外でも似たような状況が起こっている。

 

ビール飲むのもストレスたまる、米国流のチップが英国パブ文化を侵食(Bloomberg)

 

「心づけ」やチップは本来「素晴らしいサービスをしてくれた従業員に感謝の気持ちを伝える手段」に過ぎない。

ところが、欧米、特に米国では「チップは払って当然」という同調圧力が強くなっている。

従業員の雇用主は客の善意に胡坐をかいているという声があがっており、筆者も「従業員はチップ収入が仮になくとも生計を立てられるほどの賃金を雇用主から受け取っているのが望ましい」と考える。

 

 

 

日本には学校保健安全法という法律があり、学校健診(学校検診)が全国の学校で行われている。

学校健診は拘束時間が長い割には報酬が低く医者個人の視点でいえば儲からない仕事である。

だが、医者の中には子供の健康を守っていきたいという善意や理念を持った方が一定数いて、このような利他的な医師たちのお陰で学校健診という制度が成り立ってきた。

現行の制度では、虐待、漏斗胸、側湾症、皮膚病などを発見しやすくするため、男女ともに上半身を裸にして健診することが多い。

もちろん児童や生徒の中には上半身が裸であることや、同性でない医師が検診を行うことに羞恥心を感じる子もいるだろうし、子供たちへの配慮は重視すべきである。

しかし、医学的な必要性があって男女ともに上半身裸で健診しているにもかかわらず「善意で学校健診を行っている医師」に対して「猥褻だ」や「子供の人権を軽視している」などとバッシングする大人が現れている。

人間の善意は無限にある訳ではない。

学校健診という儲からない仕事を引き受けている医師たちも不当なバッシングが激しくなれば、やがて学校健診という仕事から離れていき、学校健診の制度自体が減ったり学校健診の精度自体が下がったりする虞がある。

現役小児科医の森戸やすみ先生は<子供は大人のミニチュアではありませんし、まだ発達の途中です。だからこそ、聴診だけではなく視診、触診もより大切になります。学校健診で服を脱ぐのは「子供の健康を守るために必要があって行うこと」だとご理解いただけたらいいなと思います>と述べていて、自分もその通りだと考えているが、利他的な医師たちの善意によって成り立っている現行の学校健診への風当たりは強くなってきているようにも感じる。

 

 

 

以上で三つの事例を挙げたが、この三つの事例には共通点がある。

それは、「善意で成り立っている制度の受益者は、その善意に慣れきっている可能性が高い」ということである。

日本で女性専用車に乗っている女性乗客の多くは、「この制度に法的な裏付けがある訳ではないという事実」を知らないだろうし、「女性乗客しかいなくて快適な空間」が多くの男性乗客の善意によって成り立っていることすら意識していない。

チップのお陰で従業員への賃金を節約できている雇用主の多くは客がルーティンワークのようにチップを払っていくことに慣れているのだろう。

学校健診の医師を不当にバッシングしている大人の多くも、「健康な子供が多い社会」と「そうでない社会」であれば前者を望んでいるはずである。

現行の学校健診のお陰で少なくない数の子供が健康になっている以上、間接的であるとはいえ彼らも学校健診という制度の受益者なのだが、学校健診のニュースが流れるたびに不当なバッシングを行う彼らにとって学校検診は余りにも見慣れている行事であり、その行事が形骸化したり消滅したりするリスクを軽く考えている。

 

日本において救急車は永らく無料で呼べてきた。

しかし、不要不急なのに119番通報する人々のせいで三重県松阪市などのように有料化の流れも進んでいる。

精神疾患などがある訳でも、急を要する訳でもないのに、119番通報を繰り返してしまう人々は恐らく「なぜ救急車は無料で呼べるのか」を考えたことがないのだろう。

今まで日本は「救急車を呼ぶのを躊躇って患者が重症化したり急死したりするのを防ぐために無料で即ち気軽に救急車を呼べるようにしよう」という善意に基づいて救急制度を整備してきたが、こういった善意で成り立っている制度を「あって当然だ」と思ってしまう人々が増えていけば、そのような制度も揺らいでいくこととなる。

 

他人の善意を当然と思うのは倫理的に問題がある行為であり、社会全体に害を及ぼしうる行為でもある。

他人の善意で成り立っている制度を当然だと思うのは大の大人として相応しいことではないと筆者は考えている。

私は紅白歌合戦をたまにしか見ていない。

年末に本番組をフルで視聴したことは人生で数回ほどだと思う。

だが、そんな私でも近年の紅白歌合戦に関して気になっていることがある。

それは、男女対抗という形式と、短縮バージョンでの歌唱・演奏が多すぎる点である。

 

出場アーティストの大半が演歌歌手やシンガーソングライターなどで占められていた時代であれば、女性アーティストを紅組に、男性アーティストを白組に割り振るだけで良かったのだろう。

だが、男女混成のバンドや音楽グループが多く出場するようになり、LGBTなどといった概念が社会に普及するようになると、紅組か白組かの二択がややこしいというケースも増えてゆく。

この問題点への解決策を考えるならば、紅白歌合戦を男性部門・女性部門・視聴者部門のそれぞれでMVPを一つ(一人)ずつ決める大会に変更する案などが挙げられるかもしれない。

男女混成のバンドや音楽グループ、そしてLGBTのアーティストなどのために、男性部門でも女性部門でもない部門として視聴者部門という新たなカテゴリーを新設すればよいのではないだろうか。

余談だが、視聴者部門というネーミングは「既存の男性部門・女性部門ではなく、視聴者のための新たな部門」というイメージに基づくものであり、それ以外の意味は特にない。「第三部門」や「新規部門」や「新設部門」というネーミングでも別に良いと思う。

 

ちかごろジャニーズ事務所が消滅するという出来事があったが、それ以前は大量のジャニーズファンが視聴者投票に参加し、白組に票を投じるという現象が問題になっていた。

このような票の偏りも「紅組全体と白組全体で競争する現行システム」から「紅組・白組・第三部門のそれぞれで最優秀賞を選ぶシステム」にすることで大幅に緩和されるであろう。

 

また、番組に出場するアーティスト数を絞るかわりに、歌唱・演奏を短縮バージョンではなくフル・バージョンで流すことも検討すべきだと思う。

今や、自分が興味を抱いているアーティストの曲は動画サイトや配信アプリを使えばフル・バージョンで聴くことができる時代だというのに、年末にテレビをつけて紅白歌合戦をみても短縮バージョンしか聴けないというのは色々と問題があるかもしれない。

 

以上で紅白歌合戦のリニューアル案を述べたが、「紅白歌合戦で最も重要な要素は歌や演奏である」という大前提だけは見落とすべきでないと私は考える。

「けん玉のギネス世界記録チャレンジ」のように本番組でなくでも出来るような企画に熱を出すよりかは寧ろ、本番組で最も重要な要素を最大限いかせるような番組作りに熱を出すほうが視聴率はあがるのではないだろうか。

 

 

2022年の秋、筆者は北海道にいた。

人生で一度も入ったことのなかった札幌ドームに足を運んだり回転寿司を食べたりした。

札幌ドームでスポーツ観戦していると、隣の席に香山リカとそっくりな女性がいて「もしや香山リカご本人様かも……」と気になった思い出がある。

そして月曜日の早朝、筆者は羽田空港へ向かう飛行機に乗っていた。

機体の後方から液体が流れるような音が聞こえてきたので後ろを見ると、飲み物の提供を終えたCAたちが或る行為をしていた。

最後列の客席の背後にはトイレや倉庫のようなスペースがあり、そのスペースには排水溝があったのだが、その排水溝に向かってCAたちが紙パックに残った飲み物を素早く捨てていたのだった。

飲み物の種類にもよるのだろうが、リンゴジュースやミックスジュースは1リットルほどのサイズの紙パックに入っている。そして、紙パックから紙コップへ注がれたあと客に提供される。

紙パックの量が前述したように1リットルほどで、紙コップに注がれる量が250ミリリットルほどならば、紙パック一個で紙コップ4回分という計算になる。

一回のフライトで紙コップに注がれる回数が4の倍数であるのならロスは生じないだろう。

しかし、紙コップの回数が4で割り切れない場合は余りが生じることとなる。

一度開封してしまった紙パックは衛生面などの理由で、そのフライトのうちに使い切る規則となっているのだろう。

普通に考えて、あのCAたちは規則通りの作業を行っていたに過ぎない。

だが、開封されて一時間も経っていない飲み物が余りにも淡々と廃棄されている光景を見て、複雑な感情が生じたのは確かだった。

 

 

今年の2月に入って、ヤフーを開くと<勤務先の「スーパー」でアルバイトの子達が勝手に「廃棄予定」のお弁当や総菜を持って帰っています。捨てるものなので問題ないのでしょうか?>という記事のタイトルが画面に映っていた。

ネットニュースを何年も読んでいると、記事のタイトルだけで記事の内容が大まかに推測できてしまうというケースが増えていく。

「無断だと法的に色々まずいはずだし『勝手に』という表現がついていて『問題ないのでしょうか』という文体になっている以上『廃棄予定であっても無許可で持って帰ってはならない』みたいな内容が書かれているのだろうな」と思いながら記事の本文を読み始めると察した通りの内容が書かれていた。

「廃棄予定の食品を持ち帰る場合は必ず店の許可をもらおう」など、記事の内容は無難なものだった。

 

ヤフコメを覗いてみると、様々なコメントがあった。

 

 

wert****:昔、デパートでバイトしていた時は、帰りの時間に従業員用の通用口で地下食料品売り場の残りもの(ケーキとかお弁当類)を安く売っていました。 持って帰らせるわけにはいかないので、捨てるより、少額でも売り上げになったほうがいいからだと思うけどいい取り組みだな、と思っていました。 スーパーも、廃棄ではなく、安価で、欲しい従業員がいたら買わせたらいいと思います。

筆者もいい取り組みだと思う。

 

 

f*****:廃棄するぐらいなら…この緩みが大きな被害になり得る事があります。早めに半額に見切り売り切るようにしないといけないと思うのは、25年スーパーで働いてきた者の考えです。廃棄するのは企業にとってはマイナス金ですが、無料で持ち帰られるという緩みが積み重なると従業員としての気持ちも緩みます。自分が持ち帰りたいものを売り場に出さないとか、自分は廃棄物をもらっているとポロリと口を滑らせ、問題になったことも見てきた自分には、持ち帰りは反対です。売れないものをどうするか?それは企業努力です。持ち帰りを当たり前と捉えてはいけない。

こういう「大きな被害が出ちゃうかも」って思考が食品ロス問題の解決を遠ざけていると考えることは出来るのではないか。従業員が売れ残りを持ち帰りやすい店はそうでない店よりも従業員の気持ちが緩んでいるという統計があるのかは微妙だし、「自分は廃棄物をもらっているとポロリと口を滑らせ、問題になった」に至っては単に黙認の意味が分かってない頭の悪い従業員がいたってだけの話。「持ち帰りを当たり前と捉えてはいけない」とあるが、そもそも「従業員による持ち帰りを許可・黙認している店とそうでない店の両方があるってこと」を知らない人は余りいないはずであり、持ち帰りを当たり前だと捉えている人自体ほとんどいないと思われる。ただ、食品ロス問題の解決策としては「早めの半額見切り」という方法も挙げられる訳で、そのことが言及されているのは妥当だと言える。

 

 

gtl********:高校生の時、近所の個人経営のパン屋でアルバイトしてたけど、家族だけで今日中に食べるように、と店長がよく売れ残りをくれた。家族で団子屋をやってたお婆ちゃんも、売れ残りの団子やいなり寿司をよく持って来てくれた。昔は、自分が作った物を捨てたくない、捨てるくらいなら誰かに食べて欲しい、食べ物屋が食べ物を粗末にしたらバチが当たるって言う人ばかりだった。勝手に持ち帰るのは良くないけど、あげるのがダメなら割引して売り切り、食品ロスを無くして欲しい。食べ物は、作った人や自然や犠牲になってくれた動物達に感謝して、残さず有難く頂く物です。

心の清らかさが伝わってくるコメント。

 

 

btt********:学生時代にスーパー・コンビニ(深夜含)でバイト経験があります。とくにコンビニバイト初日の廃棄の際に『心苦しくなるかもしれないけれど、すぐに慣れるから』と言われたのを覚えております。でも、そんなの慣れたくないしそうはいかないのが人情ってもんですよね。廃棄持ち帰りを容認してもしなくても、バックヤードに隠して廃棄時間を待つ輩もいる。

しょうがない」とか言いながら食べ物大量廃棄の構図に順応しようとする人よりも、その構図に疑問を抱き躊躇するような人のほうが倫理性は高い。飢餓の過酷さを知っていれば、そのような行為に慣れてしまうことの深刻さは容易に理解しうるはずである。食品ロス問題は環境問題や生命倫理の問題も含んでいる。「人情」という語句よりも「道徳心」という語句のほうが正確なようにも感じられる。

 

 

そして2024年4月7日の夜、筆者は2年前の秋と同様に羽田空港への飛行機に乗っていた。

飛行機の機種は2年前と同じであり、航空会社も同じだった。

周囲を見ると、飲み物が載った台車は既に止まっており、片付けの準備が進んでいた。

そのとき、一人のCAが開封されたリンゴジュースの紙パックを持ちながら「リンゴジュースをお飲みになる方はいらっしゃいませんか」と通路を歩き始めた。

筆者の席の付近にいた乗客2人が手を挙げ、CAはその2人にリンゴジュースを注いだあと空になった紙パックを折りたたんで機体後方へ歩いて行った。

素朴であり、温かいものが感じられる光景だった。

 

その十数日後、筆者は一つのニュースを読んだ。

 

セブン―イレブン、おにぎりや弁当の「値引き」タイミングを本部が通知へ…食品ロス削減狙い : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

 

大手コンビニ会社が食品ロス削減の取り組みを強化していると窺えるニュースだった。

ニュースの本文には「昨年5月から行った実証実験では、店舗の1日あたりの売上高が伸び、廃棄量は減少した」と書かれており、このような食品ロス対策は売り手側と買い手側の両方にメリットをもたらすと考えられる。

食品ロス削減のための取り組みが法的にも衛生的にも問題なく行われていけば、環境面や経済面や倫理面などにおいて望ましい社会が期待できるのではないだろうか。

 

 

(5月19日追記)

筆者は5月12日にも新千歳空港から羽田空港への便に乗っていたのだが、5月12日は奇跡的な一日となった。筆者はこの日の体験を「2024年5月12日の奇跡 地獄から天国へ」という動画にまとめた。

大江健三郎は『職業としての作家』で難解なセンテンスを書いている。

 

いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機をあたえられつつ考えることは、作家みなが全体小説の企画によってかれの仕事の現場にも明瞭にもちこみうるところの、この現実世界を、その全体において経験しよう、とする態度をとることなしには、かれの職業の、外部からあたえられたぬるま湯のなかでの特殊性を克服することは出来ぬであろう、ということにほかならないが、あらためていうまでもなくそれは、いったん外部からの恩賜的な枠組みが壊れ、いかなる特恵的な条件もなしに、作家が現実生活に鼻をつきつけねばならぬ時のことを考えるまでもなく、本当に作家という職業は、自立しうるものか、を自省するとき、すべての作家がみずからに課すべき問いかけであるように思われるのである。

 

この一文を見て私は「一文で、この文字量かあ。多いなあ」と感じた。

 

一通り読んだ後、私はこの文が「いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機をあたえられつつ考えることは、作家みなが全体小説の企画によってかれの仕事の現場にも明瞭にもちこみうるところの、この現実世界を、その全体において経験しよう、とする態度をとることなしには、かれの職業の、外部からあたえられたぬるま湯のなかでの特殊性を克服することは出来ぬであろう、ということにほかならない」と「あらためていうまでもなくそれは、いったん外部からの恩賜的な枠組みが壊れ、いかなる特恵的な条件もなしに、作家が現実生活に鼻をつきつけねばならぬ時のことを考えるまでもなく、本当に作家という職業は、自立しうるものか、を自省するとき、すべての作家がみずからに課すべき問いかけであるように思われるのである」に分けられると気づいた。

 

そして、「大江は野間宏の仕事に影響を受けて『作家という職業の特殊性を克服すること』や『作家という職業は本当に自立しうるものかということ』などについて思索しているらしい」と感じた。野間宏の仕事というのは簡単に言えば全体小説のことである。

 

この文はどのように解釈されているのかをネットで調べると、二つのサイトが見つかった。

 

一つ目はQuoraというサイトで、本田勝一『日本語の作文技術』における図や、「日本の言の葉」というユーザーによる図などが載っていた。このサイトでも全体小説が言及されている。

 

二つ目はnoteというサイトで、天才🐾文学探偵犬と名乗るユーザーの記事だった。この記事は何故か大江健三郎とは直接的な関係のない漫画『鬼滅の刃』が後半に突如あらわれるなど独特な内容となっている。

正直に言って、この記事はこじつけが疑われる箇所が複数ある。

たとえば<「全体小説」は金稼ぎのための小説なのです。金+人+本なのです。>は「親は立+木+見なのです」と書くのと同レベルのシュールさだし、<「克服」と実存主義的な言葉を使っていますが、いつまでもぬるま湯に浸っていたいに決まっているのです。作家は働きたくないでござるのです。克服したくないでござるのです。>は「天才🐾文学探偵犬」氏の主観でしかないようにも思われる。

 

ただ、一点だけ目を引く箇所があった。それは「明瞭にもちこみうる」がどの語句に係るのかという点である。記事では二通りの解釈が取り上げられており、「天才🐾文学探偵犬」氏が解釈Aを採用する一方、本田勝一氏は解釈Bを採用している。

 

解釈A:いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機をあたえられつつ考えることは、作家みなが全体小説の企画によってかれの仕事の現場にも明瞭にもちこみうる「この現実世界をその全体において経験しようとする態度」をとることなしには、かれの職業の、外部からあたえられたぬるま湯のなかでの特殊性を克服することは出来ぬであろう、ということにほかならない。

 

解釈B:いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機をあたえられつつ考えることは、作家みなが「全体小説の企画によってかれの仕事の現場にも明瞭にもちこみうるこの現実世界」をその全体において経験しよう、とする態度をとることなしには、かれの職業の、外部からあたえられたぬるま湯のなかでの特殊性を克服することは出来ぬであろう、ということにほかならない。

 

天才🐾文学探偵犬」氏は<「明瞭に」と限定があるのに、全体小説の企画と現実世界の関係が全く不明瞭だから解釈Bは意味が通らない>と主張しているが、「全体小説を企画すること」が「人間を、それを取り巻く現実とともに総合的・全体的に表現しようという試み」であることを踏まえれば「明瞭に(もちこみうる)」という表現が「この現実世界」に係っているとしても意味が通るのではないだろうか。

 

ただ、大江が敢えて2通りの解釈ができるように、この長い文を書いた可能性はあると思う。

というのも、大江は1994年に「あいまいな日本の私」という題のノーベル文学賞受賞記念講演を行っているからだ。

これは川端康成の1968年のノーベル文学賞受賞記念講演「美しい日本の私」を模倣したタイトルとなっている。

「美しい日本の私」は本文を読めば<「美しい日本」の私>という意味だと分かるが、タイトルだけでは<「美しい日本」の私>とも<美しい「日本の私」>とも読めてしまう。

 

『職業としての作家』は『別冊・経済評論』1971年春季号で発表されたようで、時系列としては川端康成が1968年にノーベル文学賞受賞記念講演「美しい日本の私」を行った後に書かれた文章と見られる。

「あいまいな日本の私」が<「あいまいな日本」の私>とも<あいまいな「日本の私」>とも読めるような構造になっているのは論を俟たない。

 

この一文は解釈Aでも解釈Bでも意味が通るし、大江が意図的に二通りの解釈が成り立つような文を書いた可能性もあると私は考えている。

 

最後に、本サイト「An Anonymous Author Analyzes Art Articulately」の本記事や「雑談 大江健三郎の村上春樹評の一文」を読んで「大江って長ったらしい文章ばかり書いちゃう作家なのかな」と感じた読者もいるかもしれないので言っておくと、大江は短いセンテンスで紡がれた作品も普通に書いている。長いセンテンスの作品はどちらかといえば彼が若かった時期に多いとされているが、興味のある方は大江作品を読むために書店などへ足を運んでみても良いのかもしれない。

2024年2月17日、H3ロケット2号機が発射され、JAXAは打ち上げに成功した。

その翌日、宇宙開発のニュースを読む機会の多い筆者は一つの記事を発見した。

記事では、宇宙に向かって飛んで行く2号機を観察する一般人が取り上げられており、記事を読んだ筆者は鹿児島県に南海日日新聞という新聞があることを知った。

その記事は南海日日新聞の公式サイトに載っており、そのサイトの「月別アーカイブ」という欄の真下に7つのバナーがあったので、上から順にクリックしていった。

すると7つの内1つだけ「404 Not Found」となっているものがあった。

それは「本紙・電子版 購読のお申込」というバナーで、クリックすると「お探しのページは見つかりませんでした。」という表示が視界に入ってきた。

新聞社は少しでも購読の数を増やすことに拘っているはずだと考えられるため、筆者は意外に思った。