新海誠作品『天気の子』は前作『君の名は』と共通している点もあれば共通していない点もある。
ボーイ・ミーツ・ガール、都会と田舎の対比、風景などの作画の美しさ、神道っぽい雰囲気、田中将賀やRADWIMPSの関与、俳優や女優を声優として採用する鈴木敏夫的手法、作中のキャラが就活を行っているシーンなど、前作との共通点は多い一方で、ハッピーエンドなのか否かという点で大きな違いがある。
前作は、主人公らの行動により500人以上の住民の命が助かり、ハッピーエンドと言いうるような結末を迎えているが、本作では主人公らの行動により東京都の3分の1が水没するという大災害が起こっている。
天野陽菜の命が助かったというのは本作の主人公である森嶋帆高にとっては確かにハッピーエンドなのだろうが、伊豆大島や神津島などといった離島ではない「東京の中心部」で生まれ育ってきた何百万人もの住民にとっては災難そのものだと思う。
本作は反戦映画などのように教訓めいた映画ではないと思われる。それゆえ本作はストーリーとテーマのうち前者に重きを置いて鑑賞する者が多数派であろう。
筆者もストーリーを追うようにして鑑賞していたのだが、脚本の質は普通なように感じた。
拳銃を偶然ひろってしまうシーンがあったが、銃社会と無縁の人生を送ってきた圧倒的大多数の日本人であれば拳銃を元の場所に戻したり、どこかにあるゴミ箱に廃棄したりするのが自然だと思った。
スカウトマン木村の怒りを買っていて切迫していた状況だったとはいえ、人生で一度も拳銃を握ったことのない子供が発砲という行為を遂げられるのかという違和感も湧いた。
本作は主人公の幼さを強く感じる展開が目立ち、作中でも複数のキャラが主人公の幼さを指摘していた。
新海誠監督は主人公の人格を幼稚に描こうとしており、これは監督の狙い通りなのかもしれない。
だが、精神的に幼いからという擁護が苦しいほど、主人公は自分の言動への責任感が乏しいように感じた。
たとえば主人公が警官達から逃げるシーンでは、須賀夏美が主人公をバイクに乗せて主人公の逃走を助けていた。
その際、須賀夏美は「ウケる!こりゃあ私もお尋ね者だね!」と明るく語っており、悲壮な覚悟と言えるような表情をしていないため分かりづらくなっているが、このシーンは須賀夏美が自身の就活よりも主人公の手助けを優先したことを意味している。
逃走犯の手助けをして警察に迷惑をかけることが就活に響かないはずがなく、須賀夏美は主人公のために自分の将来を危うくしているにも拘らず、須賀夏美の「白バイ隊員になろうかしら」という台詞に対して主人公は「もう雇ってくれませんよ!」とツッコミを入れていた。
須賀夏美が「もう雇ってくれない」ような状況となった最大の原因は主人公にある。
「白バイ隊員になろうかしら」という台詞が能天気なのは事実だが、主人公は、その能天気な台詞にツッコミを入れていいような立場なのか不思議に思った。
恩人である須賀圭介の腕に噛み付いたり発砲したりしているシーンに至っては精神年齢が低いどころの話ではない。
「恩人の腕に噛み付いたり発砲したりするほど主人公は天野陽菜に会いたかったんだ」と主張する観客もいるかもしれないが、「だったら須賀圭介が主人公を説得しようとしているタイミングで主人公が須賀圭介の話を聴こうともせず非常階段へ疾走するような脚本にすればよかったんじゃないの?」と感じる。
主人公の性格は幼いというよりも衝動的で無鉄砲と表現するほうが正確なようにも見える。
主人公が非常階段を上り、屋上の鳥居に到達すると、主人公は天空の世界へワープした。
そこで天野陽菜と対面し、彼女を救出したのち主人公は逮捕された。
彼女が救われたあと降り始めた雨は2年半も続き、東京中心部を水没させる巨大災害を引き起こした。
高校を卒業した主人公は大学に通うため船に乗って東京中心部へ向かうのだが、船に乗っている途中「変わってしまった東京のこの風景を見て、何を思えばいいのか?彼女に何が言えるのか?僕にはまだ分からない」と独白していた。
巨大災害のせいで自宅や故郷を失って標高の高い地域への移住・避難を余儀なくされた都民の前でも、そんなこと言えるのかなと疑問に思いながらストーリーを追っていくと、立花冨美に会ったり須賀圭介に会ったりした後、主人公は晴れ女としての能力を失った天野陽菜と対面したのだった。
そして、対面のシーンの前後で「違う…やっぱり違う!あのとき僕は…僕達は確かに世界を変えたんだ!僕は選んだんだ、あの人を、この世界を、ここで生きていくことを!」と独白していた。
この独白を聴いた視聴者の反応は様々だと思う。
或る者は聞き流すように言葉を聴いて「ふーん」と感じるだろう。
筆者は「本作の主人公にとって『世界』は故郷の神津島と東京の中心部なのだろうな」と感じた。
小学生の頃、筆者は『週刊そーなんだ!』という学習漫画を読んでおり、『週刊そーなんだ!』の社会編には「世界の七不思議」を扱った回があった。
その回では、古代における世界の七不思議が紹介されていたのだが、それら七つの建物は全て「地中海や中東」の地域にあった。
つまり「世界の七不思議」なるものを考えた古代人たちにとって「世界」は地中海や中東などといった地域のことに過ぎず、オセアニア地域やマダガスカル島やアメリカ大陸などは「世界」として認識すらされていなかったということが示唆される。
いくら幼いキャラクターといっても主人公は欧州や北米や南米やアフリカ大陸などを知ってはいるだろう。
だが、それは教師や本やネットなどを経由して聞きかじった知識に過ぎず、それら諸外国について言及したり思索に浸ったりするような国際性は作中で余り見られない。
海外に関心がないにしても、近畿地方や北海道などといった東京都以外の国内地域に関する言及や思索があってもおかしくはないのだが、『ムー』の取材などが絡むシーンを除けば、主人公の世界認識は神津島や高島平や代々木など東京エリアに留まっているように感じた。
「この世界といっても、災害が起こっているのはあくまで東京エリアであり、例えば北海道や九州やメキシコやモンゴルやチェコなどでは巨大災害は起こっていないんじゃないの」とも筆者は感じるが、作中で描写される地域の大半は神津島や、東京の中心部であり、世界全体で見れば災害が起こっていない地域のほうが広いということは作中において重要な事柄ではないのだろう。
この独白には「世界」という単語があり、筆者はこの箇所に着目して主人公の認識・想定する世界が狭いことに意識が向いたが、サブカル界隈にはセカイ系なるジャンルに強い関心を抱く人々がいるようで、ネットでも「新海誠作品とセカイ系の関係性」や「『天気の子』とセカイ系の関係性」を論じている文章が散見された。
そのような文章には或る特徴があり、本作のストーリーよりも本作のテーマに重きが置かれているものが多い。
本作のテーマは「主人公が一人を救うために東京水没をもたらしたこと」であろう。
それらの文章の書き手の大半は主人公の行動を絶賛している。
SNSでも「東京は大丈夫だ!」と書いている人がいた。
絶賛する人たちは大体「東京中心部よりも天野陽菜を選択した主人公は素敵だ」といった内容のことを書いている訳だが、「主人公が一人を救うために東京水没をもたらしたこと」を「主人公の選択」と表現することには留意すべき点があると感じる。
新海誠が「天空の世界で主人公が天野陽菜と会っているシーン」を「主人公が東京よりも天野陽菜を選択している」という意味で描いているのは確かである。
事実、本作の結末部で主人公は「違う…やっぱり違う!あのとき僕は…僕達は確かに世界を変えたんだ!僕は選んだんだ、あの人を、この世界を、ここで生きていくことを!」と独白するに至っている。
だが、天空の世界のシーンで主人公は「東京と天野陽菜どっちを選択しようか」などといった逡巡をしていた訳ではない。
「天野陽菜をいま救ったら豪雨がやまなくて東京の中心部に災害が起こるかも」などといった具体的な想定・思考を行いながら天野陽菜を救っていったのではなく、「天野陽菜が消えてしまうなんで嫌だ」や「天野陽菜と一緒にいたい」などといった衝動に駆られるがままに行動していたように見える。
つまり、「主人公は意識的に選択した」と表現するよりも「主人公は結果的に選択した」と表現するほうが実態に近い。
いずれにせよ、主人公の行動が天野陽菜を救い、東京水没をもたらしたのは明らかである。
筆者が強調したいのは、「天野陽菜を救った代償が主人公個人の範囲内に収まるならばノープロブレムだろうけど、自分以外に損害が及んでしまうのならば主人公個人だけで決めてよいことではないんじゃないの?」ということである。
「天野陽菜を救ったら自分の手足が不自由となってしまう」などの状況であったら、「主人公は結果的に自分の手足よりも一人の愛する少女を選んだのだな」と受け止められる。
しかし、本作のように天野陽菜を救ったら東京の3分の1が水没してしまう状況の場合、「何の(法的な若しくは道義上の)権限があって都民に多大なる損害を与える行動をとったのか」という問題が出てきてしまう。
更に言えば、東京中心部からすると、神津島で生まれ育った主人公はいわゆる「余所者」に過ぎないことも重要である。
本作は「天野陽菜を救ったら自分の故郷である神津島が水没してしまう」という構図ではなく、「天野陽菜を救ったら自分の故郷ではなく自分以外の人々にとっての故郷が水没してしまう」という構図になっている。
そうであるにも拘らず、主人公の行動を絶賛する視聴者が一定数あらわれているのを見ると、新海誠は脚本や設定をかなり工夫したのだなと感じる。
たとえば、仮に主人公が標準語から乖離した方言の地域から東京へ家出したという設定だったとする。
その場合、主人公は東京中心部の住民でないことが台詞だけでも目立ってしまい、本作を視聴した東京中心部の住民が「この映画って、東京中心部で生まれ育った訳でもない余所者が、好きな女の子一人のために、東京中心部を被災させ、少なくない数の都民に多大なる損害をもたらすストーリーじゃん」と気づいてしまうリスクが高くなる。
なお、主人公の設定が「日本以外の国で生まれ育ち、日本人離れした外見をしていて、日本語すら片言のティーンエージャー」であった場合は、このリスクが更に高くなっていただろう。
中心部の3分の1が水没しているのに、船や橋の上に人々がいるような風景を描写するだけというのは流石に東京中心部の2年半の描写が不足していると筆者は思うし新海誠らもそう思ったらしく、主人公が立花冨美に会いに行くという流れで自宅を失った当事者の話を聴くシーンが用意されている。
その際、立花冨美は自宅を失ったことを話しつつも「水没地域は江戸時代以前は海だった場所で、それが元に戻っただけ」という持論を伝えている。
これも故郷を失った当事者と会うシーンの描き方として工夫がされているように思う。
冷静に考えれば「もともと海だった地域なんだから水没したとしても問題ない」ということにはならないのだが、立花冨美のこの持論は「もともと海だった地域なんだから沈んじゃったとしてもよくね」と観客にさりげなく感じさせる効果が期待できるのではないだろうか。
もし、主人公が会いに行った相手が立花冨美ではなく「憧れのマイホームを数年前や数か月前に建てたけれども水没で家屋を失って残り数十年も支払い義務のある住宅ローンだけが残った」というような境遇の家族などであったら、「東京は大丈夫だ!」などと能天気な感想を抱いたまま映画館から帰宅する観客は皆無に近かっただろう。
本作では、神宮外苑と見られる地域も登場していたが、神宮球場を本拠地とする東京ヤクルトスワローズなどのように首都圏を本拠地とするプロスポーツチームの関係者からすれば、自分たちの職場ひいては自分たちの職業を巨大災害に奪われている訳である。
「人はどんな状況でも乗り越えられる」というのは「そういう場合もある」というだけのことで、実際には「取り返しのつかない事態」が待っていることも珍しくない。
太平洋戦争のとき「米英は強いけど神風が吹くから日本が勝つ」と主張する軍国主義者たちがいたが、彼らは神風が吹くことを説明できるようなエビデンスを有していた訳ではなかった。
「元寇のときに神風が吹いたという伝承はあるけど、それが実話なのかは歴史家の間でも議論があるし、そもそも連合国と戦っている今の日本に神風が出現してくれる保証ってあるの?」と訊かれたとしても、彼らは「神風を信じられぬなんて非国民だ」などと激高するだけだったであろう。
もちろん太平洋戦争で勝ったのは連合国側である。
「神風が吹く」という話は単に軍国主義者がそう言っていただけであり、第二次世界大戦中に神風が吹くことはなかった。
同じ天空を題材とした作品『天空の城ラピュタ』でも「ラピュタは滅びぬ…何度でも甦るさ!」と言っていた男がいたが、結局のところラピュタの復活が達成されることはなく、その男も目を痛めながら転落死していった。
「人はどんな状況でも乗り越えられる」と言ってみたり、そう信じてみたりするのは自由だが、実際にそうであるとは限らないし、具体的な根拠の伴わない希望的観測は現実逃避と表裏一体だと思う。
主人公の選択を絶賛する人たちの中には、中心部の3分の1が水没した後も庶民たちが東京に住み続けていることを以て「新海誠監督は、豪雨などの災害があっても人は乗り越えられるというメッセージを発している」と主張する者がいる。
無論、作品の解釈には個人差があろう。
しかし、この主張は正しくない可能性が高いと筆者は考える。というのも国連のインタビューで、新海誠は「今の温暖化がこれほどはっきりと目に見える形で危機的状況を及ぼす以前から、日本は他の国と比べて自然災害がとても多い国でした。だから良くも悪くも、環境の変化に過剰適応してしまっていると感じます」と述べているからだ。
東京中心部の水没はまさに環境の変化である。
本作に関して行われたインタビューから、この主張を直に裏付ける箇所を見出すのは難しいように思う。
因みに、本インタビューは日本と海外の間で本作への反応に差がみられるという記述などがあり、一読する価値のある記事だと感じる。
本作のテーマ「主人公が一人を救うために東京水没をもたらしたこと」を更に突き詰めていけば功利主義を肯定するか否かという論点が現れることとなる。
近日中に本記事の後編を公開する予定だが、後編では功利主義やセカイ系などについて掘り下げていこうと考えている。