新海誠作品『天気の子』は前作『君の名は』と共通している点もあれば共通していない点もある。

ボーイ・ミーツ・ガール、都会と田舎の対比、風景などの作画の美しさ、神道っぽい雰囲気、田中将賀やRADWIMPSの関与、俳優や女優を声優として採用する鈴木敏夫的手法、作中のキャラが就活を行っているシーンなど、前作との共通点は多い一方で、ハッピーエンドなのか否かという点で大きな違いがある。

 

前作は、主人公らの行動により500人以上の住民の命が助かり、ハッピーエンドと言いうるような結末を迎えているが、本作では主人公らの行動により東京都の3分の1が水没するという大災害が起こっている。

天野陽菜の命が助かったというのは本作の主人公である森嶋帆高にとっては確かにハッピーエンドなのだろうが、伊豆大島や神津島などといった離島ではない「東京の中心部」で生まれ育ってきた何百万人もの住民にとっては災難そのものだと思う。

 

本作は反戦映画などのように教訓めいた映画ではないと思われる。それゆえ本作はストーリーとテーマのうち前者に重きを置いて鑑賞する者が多数派であろう。

筆者もストーリーを追うようにして鑑賞していたのだが、脚本の質は普通なように感じた。

拳銃を偶然ひろってしまうシーンがあったが、銃社会と無縁の人生を送ってきた圧倒的大多数の日本人であれば拳銃を元の場所に戻したり、どこかにあるゴミ箱に廃棄したりするのが自然だと思った。

スカウトマン木村の怒りを買っていて切迫していた状況だったとはいえ、人生で一度も拳銃を握ったことのない子供が発砲という行為を遂げられるのかという違和感も湧いた。

 

本作は主人公の幼さを強く感じる展開が目立ち、作中でも複数のキャラが主人公の幼さを指摘していた。

新海誠監督は主人公の人格を幼稚に描こうとしており、これは監督の狙い通りなのかもしれない。

だが、精神的に幼いからという擁護が苦しいほど、主人公は自分の言動への責任感が乏しいように感じた。

たとえば主人公が警官達から逃げるシーンでは、須賀夏美が主人公をバイクに乗せて主人公の逃走を助けていた。

その際、須賀夏美は「ウケる!こりゃあ私もお尋ね者だね!」と明るく語っており、悲壮な覚悟と言えるような表情をしていないため分かりづらくなっているが、このシーンは須賀夏美が自身の就活よりも主人公の手助けを優先したことを意味している。

逃走犯の手助けをして警察に迷惑をかけることが就活に響かないはずがなく、須賀夏美は主人公のために自分の将来を危うくしているにも拘らず、須賀夏美の「白バイ隊員になろうかしら」という台詞に対して主人公は「もう雇ってくれませんよ!」とツッコミを入れていた。

須賀夏美が「もう雇ってくれない」ような状況となった最大の原因は主人公にある。

「白バイ隊員になろうかしら」という台詞が能天気なのは事実だが、主人公は、その能天気な台詞にツッコミを入れていいような立場なのか不思議に思った。

恩人である須賀圭介の腕に噛み付いたり発砲したりしているシーンに至っては精神年齢が低いどころの話ではない。

「恩人の腕に噛み付いたり発砲したりするほど主人公は天野陽菜に会いたかったんだ」と主張する観客もいるかもしれないが、「だったら須賀圭介が主人公を説得しようとしているタイミングで主人公が須賀圭介の話を聴こうともせず非常階段へ疾走するような脚本にすればよかったんじゃないの?」と感じる。

主人公の性格は幼いというよりも衝動的で無鉄砲と表現するほうが正確なようにも見える。

 

 

主人公が非常階段を上り、屋上の鳥居に到達すると、主人公は天空の世界へワープした。

そこで天野陽菜と対面し、彼女を救出したのち主人公は逮捕された。

彼女が救われたあと降り始めた雨は2年半も続き、東京中心部を水没させる巨大災害を引き起こした。

高校を卒業した主人公は大学に通うため船に乗って東京中心部へ向かうのだが、船に乗っている途中「変わってしまった東京のこの風景を見て、何を思えばいいのか?彼女に何が言えるのか?僕にはまだ分からない」と独白していた。

巨大災害のせいで自宅や故郷を失って標高の高い地域への移住・避難を余儀なくされた都民の前でも、そんなこと言えるのかなと疑問に思いながらストーリーを追っていくと、立花冨美に会ったり須賀圭介に会ったりした後、主人公は晴れ女としての能力を失った天野陽菜と対面したのだった。

そして、対面のシーンの前後で「違う…やっぱり違う!あのとき僕は…僕達は確かに世界を変えたんだ!僕は選んだんだ、あの人を、この世界を、ここで生きていくことを!」と独白していた。

この独白を聴いた視聴者の反応は様々だと思う。

或る者は聞き流すように言葉を聴いて「ふーん」と感じるだろう。

筆者は「本作の主人公にとって『世界』は故郷の神津島と東京の中心部なのだろうな」と感じた。

小学生の頃、筆者は『週刊そーなんだ!』という学習漫画を読んでおり、『週刊そーなんだ!』の社会編には「世界の七不思議」を扱った回があった。

その回では、古代における世界の七不思議が紹介されていたのだが、それら七つの建物は全て「地中海や中東」の地域にあった。

つまり「世界の七不思議」なるものを考えた古代人たちにとって「世界」は地中海や中東などといった地域のことに過ぎず、オセアニア地域やマダガスカル島やアメリカ大陸などは「世界」として認識すらされていなかったということが示唆される。

いくら幼いキャラクターといっても主人公は欧州や北米や南米やアフリカ大陸などを知ってはいるだろう。

だが、それは教師や本やネットなどを経由して聞きかじった知識に過ぎず、それら諸外国について言及したり思索に浸ったりするような国際性は作中で余り見られない。

海外に関心がないにしても、近畿地方や北海道などといった東京都以外の国内地域に関する言及や思索があってもおかしくはないのだが、『ムー』の取材などが絡むシーンを除けば、主人公の世界認識は神津島や高島平や代々木など東京エリアに留まっているように感じた。

「この世界といっても、災害が起こっているのはあくまで東京エリアであり、例えば北海道や九州やメキシコやモンゴルやチェコなどでは巨大災害は起こっていないんじゃないの」とも筆者は感じるが、作中で描写される地域の大半は神津島や、東京の中心部であり、世界全体で見れば災害が起こっていない地域のほうが広いということは作中において重要な事柄ではないのだろう。

 

 

この独白には「世界」という単語があり、筆者はこの箇所に着目して主人公の認識・想定する世界が狭いことに意識が向いたが、サブカル界隈にはセカイ系なるジャンルに強い関心を抱く人々がいるようで、ネットでも「新海誠作品とセカイ系の関係性」や「『天気の子』とセカイ系の関係性」を論じている文章が散見された。

 

そのような文章には或る特徴があり、本作のストーリーよりも本作のテーマに重きが置かれているものが多い。

本作のテーマは「主人公が一人を救うために東京水没をもたらしたこと」であろう。

それらの文章の書き手の大半は主人公の行動を絶賛している。

SNSでも「東京は大丈夫だ!」と書いている人がいた。

 

絶賛する人たちは大体「東京中心部よりも天野陽菜を選択した主人公は素敵だ」といった内容のことを書いている訳だが、「主人公が一人を救うために東京水没をもたらしたこと」を「主人公の選択」と表現することには留意すべき点があると感じる。

新海誠が「天空の世界で主人公が天野陽菜と会っているシーン」を「主人公が東京よりも天野陽菜を選択している」という意味で描いているのは確かである。

事実、本作の結末部で主人公は「違う…やっぱり違う!あのとき僕は…僕達は確かに世界を変えたんだ!僕は選んだんだ、あの人を、この世界を、ここで生きていくことを!」と独白するに至っている。

だが、天空の世界のシーンで主人公は「東京と天野陽菜どっちを選択しようか」などといった逡巡をしていた訳ではない。

「天野陽菜をいま救ったら豪雨がやまなくて東京の中心部に災害が起こるかも」などといった具体的な想定・思考を行いながら天野陽菜を救っていったのではなく、「天野陽菜が消えてしまうなんで嫌だ」や「天野陽菜と一緒にいたい」などといった衝動に駆られるがままに行動していたように見える。

つまり、「主人公は意識的に選択した」と表現するよりも「主人公は結果的に選択した」と表現するほうが実態に近い。

 

いずれにせよ、主人公の行動が天野陽菜を救い、東京水没をもたらしたのは明らかである。

筆者が強調したいのは、「天野陽菜を救った代償が主人公個人の範囲内に収まるならばノープロブレムだろうけど、自分以外に損害が及んでしまうのならば主人公個人だけで決めてよいことではないんじゃないの?」ということである。

「天野陽菜を救ったら自分の手足が不自由となってしまう」などの状況であったら、「主人公は結果的に自分の手足よりも一人の愛する少女を選んだのだな」と受け止められる。

しかし、本作のように天野陽菜を救ったら東京の3分の1が水没してしまう状況の場合、「何の(法的な若しくは道義上の)権限があって都民に多大なる損害を与える行動をとったのか」という問題が出てきてしまう。

更に言えば、東京中心部からすると、神津島で生まれ育った主人公はいわゆる「余所者」に過ぎないことも重要である。

本作は「天野陽菜を救ったら自分の故郷である神津島が水没してしまう」という構図ではなく、「天野陽菜を救ったら自分の故郷ではなく自分以外の人々にとっての故郷が水没してしまう」という構図になっている。

 

そうであるにも拘らず、主人公の行動を絶賛する視聴者が一定数あらわれているのを見ると、新海誠は脚本や設定をかなり工夫したのだなと感じる。

たとえば、仮に主人公が標準語から乖離した方言の地域から東京へ家出したという設定だったとする。

その場合、主人公は東京中心部の住民でないことが台詞だけでも目立ってしまい、本作を視聴した東京中心部の住民が「この映画って、東京中心部で生まれ育った訳でもない余所者が、好きな女の子一人のために、東京中心部を被災させ、少なくない数の都民に多大なる損害をもたらすストーリーじゃん」と気づいてしまうリスクが高くなる。

なお、主人公の設定が「日本以外の国で生まれ育ち、日本人離れした外見をしていて、日本語すら片言のティーンエージャー」であった場合は、このリスクが更に高くなっていただろう。

 

中心部の3分の1が水没しているのに、船や橋の上に人々がいるような風景を描写するだけというのは流石に東京中心部の2年半の描写が不足していると筆者は思うし新海誠らもそう思ったらしく、主人公が立花冨美に会いに行くという流れで自宅を失った当事者の話を聴くシーンが用意されている。

その際、立花冨美は自宅を失ったことを話しつつも「水没地域は江戸時代以前は海だった場所で、それが元に戻っただけ」という持論を伝えている。

これも故郷を失った当事者と会うシーンの描き方として工夫がされているように思う。

冷静に考えれば「もともと海だった地域なんだから水没したとしても問題ない」ということにはならないのだが、立花冨美のこの持論は「もともと海だった地域なんだから沈んじゃったとしてもよくね」と観客にさりげなく感じさせる効果が期待できるのではないだろうか。

もし、主人公が会いに行った相手が立花冨美ではなく「憧れのマイホームを数年前や数か月前に建てたけれども水没で家屋を失って残り数十年も支払い義務のある住宅ローンだけが残った」というような境遇の家族などであったら、「東京は大丈夫だ!」などと能天気な感想を抱いたまま映画館から帰宅する観客は皆無に近かっただろう。

本作では、神宮外苑と見られる地域も登場していたが、神宮球場を本拠地とする東京ヤクルトスワローズなどのように首都圏を本拠地とするプロスポーツチームの関係者からすれば、自分たちの職場ひいては自分たちの職業を巨大災害に奪われている訳である。

「人はどんな状況でも乗り越えられる」というのは「そういう場合もある」というだけのことで、実際には「取り返しのつかない事態」が待っていることも珍しくない。

太平洋戦争のとき「米英は強いけど神風が吹くから日本が勝つ」と主張する軍国主義者たちがいたが、彼らは神風が吹くことを説明できるようなエビデンスを有していた訳ではなかった。

「元寇のときに神風が吹いたという伝承はあるけど、それが実話なのかは歴史家の間でも議論があるし、そもそも連合国と戦っている今の日本に神風が出現してくれる保証ってあるの?」と訊かれたとしても、彼らは「神風を信じられぬなんて非国民だ」などと激高するだけだったであろう。

もちろん太平洋戦争で勝ったのは連合国側である。

「神風が吹く」という話は単に軍国主義者がそう言っていただけであり、第二次世界大戦中に神風が吹くことはなかった。

 

同じ天空を題材とした作品『天空の城ラピュタ』でも「ラピュタは滅びぬ…何度でも甦るさ!」と言っていた男がいたが、結局のところラピュタの復活が達成されることはなく、その男も目を痛めながら転落死していった。

 

「人はどんな状況でも乗り越えられる」と言ってみたり、そう信じてみたりするのは自由だが、実際にそうであるとは限らないし、具体的な根拠の伴わない希望的観測は現実逃避と表裏一体だと思う。

 

主人公の選択を絶賛する人たちの中には、中心部の3分の1が水没した後も庶民たちが東京に住み続けていることを以て「新海誠監督は、豪雨などの災害があっても人は乗り越えられるというメッセージを発している」と主張する者がいる。

無論、作品の解釈には個人差があろう。

しかし、この主張は正しくない可能性が高いと筆者は考える。というのも国連のインタビューで、新海誠は「今の温暖化がこれほどはっきりと目に見える形で危機的状況を及ぼす以前から、日本は他の国と比べて自然災害がとても多い国でした。だから良くも悪くも、環境の変化に過剰適応してしまっていると感じます」と述べているからだ。

東京中心部の水没はまさに環境の変化である。

本作に関して行われたインタビューから、この主張を直に裏付ける箇所を見出すのは難しいように思う。

因みに、本インタビューは日本と海外の間で本作への反応に差がみられるという記述などがあり、一読する価値のある記事だと感じる。

 

本作のテーマ「主人公が一人を救うために東京水没をもたらしたこと」を更に突き詰めていけば功利主義を肯定するか否かという論点が現れることとなる。

近日中に本記事の後編を公開する予定だが、後編では功利主義やセカイ系などについて掘り下げていこうと考えている。

 

 

 

 

〇経緯

今月、新紙幣が発行され、6年前に書いた「未来は僕らの手の中」の替え歌のことを思い返しました。

以前から替え歌の動画をYouTubeに投稿する機会を窺っていたこともあり、来月1日の深夜0時に動画を公開する運びとなりました。

動画投稿にあたって、歌詞を微調整したので紹介いたします。

 

 

 

〇替え歌「未来なき僕らの世の中」(2024年版) 原曲:真島昌利/歌詞:A倉R郎

夜よりも朝がいい 果実より葉っぱがいい

カレーパンよりアンパンが好き バイクよりチャリが欲しい

舐められるくらいなら しゃぶられる方がいい

この紙一枚で 禁断の異世界へ

 

悪魔に気を付けろ 悪魔の名はオトリのマトリ

グミよりもチョコが好き 肉よりも野菜が欲しい

かき氷たべるなら アイスをしゃぶりたい

支配者をあてにせず 買おう、きめよう、売り捌こう

 

未来なき僕らの世の中

 

学校も塾も要らない 粉末を握り締めたい

人骨は主より授かりし天使の粉で粉々に

砕かれつつあるけど 今さえ良ければいい

隔世への一針 幻覚への一粒 それらさえあればいい

 

 

性善説は「人間の本性は生まれながらにして善である」とする説であり、孟子が提唱したとされる。

一方の性悪説は「人間の本性は生まれながらにして悪である」とする説であり、荀子が提唱したとされる。

古来、この二つの説は複数の思想家によって議論され解釈されてきたが、現在の日本において名詞「性善説」と名詞「性悪説」は少しニュアンスの異なる意味で用いられることが多い。

具体的にいうと、性善説は「人は誰しも善人である」という意味で用いられることが多く、性悪説は「人は誰しも悪人である」という意味で用いられることが多い。

 

孟子や荀子の主張への賛否に限らず、或る事柄への賛否を問う議論は様々な場で行われている。

たとえば電力エネルギーに関して言えば「あなたは原発に賛成ですか。それとも反対ですか」という議論があるし、野球のルールに関しても「あなたはDH制に賛成ですか。それとも反対ですか」という議論がある。

 

教育の分野でもこのような形式の議論が行われており、ときたま筆者は「あなたは体罰に賛成ですか。それとも反対ですか」という議論をみかけることがある。

しかし、これは賛否の分け方が適切でないように思う。

「あなたは健康な成人が嗜好目的で大麻を吸うことに賛成ですか。それとも反対ですか」と問う企画が日本で開かれていたら、大半の日本人は「そもそも違法なのだから賛否以前の話じゃん」とツッコミを入れるはずである。

このトピックの賛否を日本で問いたいのならば「あなたは大麻合法化に賛成ですか。それとも反対ですか」などとするのが妥当であろう。

日本において体罰は学校教育法や改正児童虐待防止法や改正児童福祉法などで禁じられている違法行為である。

そうである以上、体罰に関する賛否を日本で問いたいのならば、本来は「あなたは体罰を禁じる法制度を変更して体罰を合法化することに賛成ですか。それとも反対ですか」などと問う必要がある。

 

「しつけ」でもダメ!4月から体罰は法律で禁止されました 世界で59番目 子どもへの暴力のない社会へ、意義と課題は | 東京すくすく (tokyo-np.co.jp)

 

 

数々の報道が示しているように、体罰に走る教師や、子供に暴力をふるう親は日本で依然として散見される。

それどころか「学校の先生だって忙しいんだし問題児に対しては体罰したっていいと思う」などと体罰を肯定する者も多い。

体罰肯定派の意見を集めると「殴らないと分からない子供もいる。体罰否定派は性善説に立っているが、これは実態に即していない。性悪説に立って体罰を行うべきだ」というのが大筋の主張となる。

だが、これは逆だと思う。

寧ろ性悪説に立つならば尚更、体罰には否定的となるはずだからだ。

 

少し考えれば分かるように教師や親はまともな人ばかりではない。

イケメンや可愛い生徒を依怙贔屓し、容姿の劣る生徒を雑に扱う教師。カルトに染まって自分の子供の輸血を禁じる親。プライベートで不機嫌なことがあったときに何も悪いことをしていない子供に当たる教師。「お前なんか産まなきゃよかった」と子供に言い放つ親。

世の中まともな大人ばかりではないし、体罰肯定派は何故そういった有害な大人が体罰を行う危険性などを考えないのか疑問に思う。

それでも体罰を肯定する教師や親は「体罰をしなきゃ授業中に生徒が騒いだり子供が公の場でマナー違反したりするのを止められない」と主張するかもしれない。

このような主張を見かけるたびに筆者は興味深く思う。

というのも、こういった主張は「自分は体罰に頼らないと教育できないような無能教師・無能ペアレントです」などと自分の無能さを自白しているような雰囲気を感じるからだ。

読者の皆さんも自分が中学校にいたときのことを思いだせば分かりやすいと思うが、クラスメートは大体どの科目でも同じなのに、科目を担当する教師によって授業中の生徒の態度には大きな差が生じていなかっただろうか。

「生徒から敬慕されている教師は体罰なしでも生徒の指導が可能だし、生徒から敬慕されていない教師は体罰に頼らないと生徒の指導ができない」という構図が頭に浮かんでくる。

 

子供が騒いだり躾のなっていない態度をとったりするごときで人は死なないが、体罰は子供の生死に直結しうる。

岐陽高校体罰死事件、不動塾事件、大分県立竹田高校剣道部主将死亡事件、そして親が「しつけ・教育のため」と称して子供に暴力をふるっていた野田小4女児虐待事件などのような悲劇を人類は繰り返すべきではない。

職場において上司が罰と称して部下に暴力をふるったら刑事罰や民事訴訟の対象となるように、大人が罰と称して子供に暴力をふるった場合も刑事罰や民事訴訟の対象となる社会のほうが望ましいように思う。

 

慣れって恐ろしいなと思う。

例えば電車に乗ると一部の車両が女性専用車両(女性専用車)になっていることがしばしばある。

米国などで、黒人による白人への犯罪が電車内で複数回あったことを理由に「有色人種が乗車できない白人専用車両」を運行する鉄道会社が現れたならば、大々的に問題視されるはずである。

ところが、日本の鉄道会社は「痴漢がいるからしょうがない」などといった常套句と共に女性専用車両を何十年以上も運行している。

女性専用車両という制度が法律や条例で公的に定められているのならば、このような差別に疑問を抱かない人が多数いたとしても不思議ではないだろう。

だが、そもそも日本の場合、女性専用車両という制度は法律や条例で定められているものではない。

司法も女性専用車両の導入は乗客の任意の協力の下でのみ実施されるという見解を示している。

女性が痴漢被害を警戒するのは全然おかしなことではないし、多くの女性乗客にとって女性だけの空間が「痴漢のリスクがほぼ無くて快適」に感じられるというのも分かる。

だが、その快適な空間は大半の男性乗客が「同じ運賃なのに特定の属性しか乗れないような車両」の存在を許容し、女性専用車両へ入るのを善意で控えているから成立しているに過ぎない。

ヤフー知恵袋で「体も心も女性」という方が隣の普通車両は満員電車なのに女性専用車は或る程度ゆとりがあることなどに関して女性専用車両への違和感を表明しているように、ジェンダー平等やポリコレの風潮が強まりつつある今後の社会では女性専用車両という制度が揺らいでいく可能性もある。

善意で成り立っている制度を「あって当然の制度」だと認識するのは冷静さを欠いている。

 

 

 

海外でも似たような状況が起こっている。

 

ビール飲むのもストレスたまる、米国流のチップが英国パブ文化を侵食(Bloomberg)

 

「心づけ」やチップは本来「素晴らしいサービスをしてくれた従業員に感謝の気持ちを伝える手段」に過ぎない。

ところが、欧米、特に米国では「チップは払って当然」という同調圧力が強くなっている。

従業員の雇用主は客の善意に胡坐をかいているという声があがっており、筆者も「従業員はチップ収入が仮になくとも生計を立てられるほどの賃金を雇用主から受け取っているのが望ましい」と考える。

 

 

 

日本には学校保健安全法という法律があり、学校健診(学校検診)が全国の学校で行われている。

学校健診は拘束時間が長い割には報酬が低く医者個人の視点でいえば儲からない仕事である。

だが、医者の中には子供の健康を守っていきたいという善意や理念を持った方が一定数いて、このような利他的な医師たちのお陰で学校健診という制度が成り立ってきた。

現行の制度では、虐待、漏斗胸、側湾症、皮膚病などを発見しやすくするため、男女ともに上半身を裸にして健診することが多い。

もちろん児童や生徒の中には上半身が裸であることや、同性でない医師が検診を行うことに羞恥心を感じる子もいるだろうし、子供たちへの配慮は重視すべきである。

しかし、医学的な必要性があって男女ともに上半身裸で健診しているにもかかわらず「善意で学校健診を行っている医師」に対して「猥褻だ」や「子供の人権を軽視している」などとバッシングする大人が現れている。

人間の善意は無限にある訳ではない。

学校健診という儲からない仕事を引き受けている医師たちも不当なバッシングが激しくなれば、やがて学校健診という仕事から離れていき、学校健診の制度自体が減ったり学校健診の精度自体が下がったりする虞がある。

現役小児科医の森戸やすみ先生は<子供は大人のミニチュアではありませんし、まだ発達の途中です。だからこそ、聴診だけではなく視診、触診もより大切になります。学校健診で服を脱ぐのは「子供の健康を守るために必要があって行うこと」だとご理解いただけたらいいなと思います>と述べていて、自分もその通りだと考えているが、利他的な医師たちの善意によって成り立っている現行の学校健診への風当たりは強くなってきているようにも感じる。

 

 

 

以上で三つの事例を挙げたが、この三つの事例には共通点がある。

それは、「善意で成り立っている制度の受益者は、その善意に慣れきっている可能性が高い」ということである。

日本で女性専用車に乗っている女性乗客の多くは、「この制度に法的な裏付けがある訳ではないという事実」を知らないだろうし、「女性乗客しかいなくて快適な空間」が多くの男性乗客の善意によって成り立っていることすら意識していない。

チップのお陰で従業員への賃金を節約できている雇用主の多くは客がルーティンワークのようにチップを払っていくことに慣れているのだろう。

学校健診の医師を不当にバッシングしている大人の多くも、「健康な子供が多い社会」と「そうでない社会」であれば前者を望んでいるはずである。

現行の学校健診のお陰で少なくない数の子供が健康になっている以上、間接的であるとはいえ彼らも学校健診という制度の受益者なのだが、学校健診のニュースが流れるたびに不当なバッシングを行う彼らにとって学校検診は余りにも見慣れている行事であり、その行事が形骸化したり消滅したりするリスクを軽く考えている。

 

日本において救急車は永らく無料で呼べてきた。

しかし、不要不急なのに119番通報する人々のせいで三重県松阪市などのように有料化の流れも進んでいる。

精神疾患などがある訳でも、急を要する訳でもないのに、119番通報を繰り返してしまう人々は恐らく「なぜ救急車は無料で呼べるのか」を考えたことがないのだろう。

今まで日本は「救急車を呼ぶのを躊躇って患者が重症化したり急死したりするのを防ぐために無料で即ち気軽に救急車を呼べるようにしよう」という善意に基づいて救急制度を整備してきたが、こういった善意で成り立っている制度を「あって当然だ」と思ってしまう人々が増えていけば、そのような制度も揺らいでいくこととなる。

 

他人の善意を当然と思うのは倫理的に問題がある行為であり、社会全体に害を及ぼしうる行為でもある。

他人の善意で成り立っている制度を当然だと思うのは大の大人として相応しいことではないと筆者は考えている。

私は紅白歌合戦をたまにしか見ていない。

年末に本番組をフルで視聴したことは人生で数回ほどだと思う。

だが、そんな私でも近年の紅白歌合戦に関して気になっていることがある。

それは、男女対抗という形式と、短縮バージョンでの歌唱・演奏が多すぎる点である。

 

出場アーティストの大半が演歌歌手やシンガーソングライターなどで占められていた時代であれば、女性アーティストを紅組に、男性アーティストを白組に割り振るだけで良かったのだろう。

だが、男女混成のバンドや音楽グループが多く出場するようになり、LGBTなどといった概念が社会に普及するようになると、紅組か白組かの二択がややこしいというケースも増えてゆく。

この問題点への解決策を考えるならば、紅白歌合戦を男性部門・女性部門・視聴者部門のそれぞれでMVPを一つ(一人)ずつ決める大会に変更する案などが挙げられるかもしれない。

男女混成のバンドや音楽グループ、そしてLGBTのアーティストなどのために、男性部門でも女性部門でもない部門として視聴者部門という新たなカテゴリーを新設すればよいのではないだろうか。

余談だが、視聴者部門というネーミングは「既存の男性部門・女性部門ではなく、視聴者のための新たな部門」というイメージに基づくものであり、それ以外の意味は特にない。「第三部門」や「新規部門」や「新設部門」というネーミングでも別に良いと思う。

 

ちかごろジャニーズ事務所が消滅するという出来事があったが、それ以前は大量のジャニーズファンが視聴者投票に参加し、白組に票を投じるという現象が問題になっていた。

このような票の偏りも「紅組全体と白組全体で競争する現行システム」から「紅組・白組・第三部門のそれぞれで最優秀賞を選ぶシステム」にすることで大幅に緩和されるであろう。

 

また、番組に出場するアーティスト数を絞るかわりに、歌唱・演奏を短縮バージョンではなくフル・バージョンで流すことも検討すべきだと思う。

今や、自分が興味を抱いているアーティストの曲は動画サイトや配信アプリを使えばフル・バージョンで聴くことができる時代だというのに、年末にテレビをつけて紅白歌合戦をみても短縮バージョンしか聴けないというのは色々と問題があるかもしれない。

 

以上で紅白歌合戦のリニューアル案を述べたが、「紅白歌合戦で最も重要な要素は歌や演奏である」という大前提だけは見落とすべきでないと私は考える。

「けん玉のギネス世界記録チャレンジ」のように本番組でなくでも出来るような企画に熱を出すよりかは寧ろ、本番組で最も重要な要素を最大限いかせるような番組作りに熱を出すほうが視聴率はあがるのではないだろうか。

 

 

2022年の秋、筆者は北海道にいた。

人生で一度も入ったことのなかった札幌ドームに足を運んだり回転寿司を食べたりした。

札幌ドームでスポーツ観戦していると、隣の席に香山リカとそっくりな女性がいて「もしや香山リカご本人様かも……」と気になった思い出がある。

そして月曜日の早朝、筆者は羽田空港へ向かう飛行機に乗っていた。

機体の後方から液体が流れるような音が聞こえてきたので後ろを見ると、飲み物の提供を終えたCAたちが或る行為をしていた。

最後列の客席の背後にはトイレや倉庫のようなスペースがあり、そのスペースには排水溝があったのだが、その排水溝に向かってCAたちが紙パックに残った飲み物を素早く捨てていたのだった。

飲み物の種類にもよるのだろうが、リンゴジュースやミックスジュースは1リットルほどのサイズの紙パックに入っている。そして、紙パックから紙コップへ注がれたあと客に提供される。

紙パックの量が前述したように1リットルほどで、紙コップに注がれる量が250ミリリットルほどならば、紙パック一個で紙コップ4回分という計算になる。

一回のフライトで紙コップに注がれる回数が4の倍数であるのならロスは生じないだろう。

しかし、紙コップの回数が4で割り切れない場合は余りが生じることとなる。

一度開封してしまった紙パックは衛生面などの理由で、そのフライトのうちに使い切る規則となっているのだろう。

普通に考えて、あのCAたちは規則通りの作業を行っていたに過ぎない。

だが、開封されて一時間も経っていない飲み物が余りにも淡々と廃棄されている光景を見て、複雑な感情が生じたのは確かだった。

 

 

今年の2月に入って、ヤフーを開くと<勤務先の「スーパー」でアルバイトの子達が勝手に「廃棄予定」のお弁当や総菜を持って帰っています。捨てるものなので問題ないのでしょうか?>という記事のタイトルが画面に映っていた。

ネットニュースを何年も読んでいると、記事のタイトルだけで記事の内容が大まかに推測できてしまうというケースが増えていく。

「無断だと法的に色々まずいはずだし『勝手に』という表現がついていて『問題ないのでしょうか』という文体になっている以上『廃棄予定であっても無許可で持って帰ってはならない』みたいな内容が書かれているのだろうな」と思いながら記事の本文を読み始めると察した通りの内容が書かれていた。

「廃棄予定の食品を持ち帰る場合は必ず店の許可をもらおう」など、記事の内容は無難なものだった。

 

ヤフコメを覗いてみると、様々なコメントがあった。

 

 

wert****:昔、デパートでバイトしていた時は、帰りの時間に従業員用の通用口で地下食料品売り場の残りもの(ケーキとかお弁当類)を安く売っていました。 持って帰らせるわけにはいかないので、捨てるより、少額でも売り上げになったほうがいいからだと思うけどいい取り組みだな、と思っていました。 スーパーも、廃棄ではなく、安価で、欲しい従業員がいたら買わせたらいいと思います。

筆者もいい取り組みだと思う。

 

 

f*****:廃棄するぐらいなら…この緩みが大きな被害になり得る事があります。早めに半額に見切り売り切るようにしないといけないと思うのは、25年スーパーで働いてきた者の考えです。廃棄するのは企業にとってはマイナス金ですが、無料で持ち帰られるという緩みが積み重なると従業員としての気持ちも緩みます。自分が持ち帰りたいものを売り場に出さないとか、自分は廃棄物をもらっているとポロリと口を滑らせ、問題になったことも見てきた自分には、持ち帰りは反対です。売れないものをどうするか?それは企業努力です。持ち帰りを当たり前と捉えてはいけない。

こういう「大きな被害が出ちゃうかも」って思考が食品ロス問題の解決を遠ざけていると考えることは出来るのではないか。従業員が売れ残りを持ち帰りやすい店はそうでない店よりも従業員の気持ちが緩んでいるという統計があるのかは微妙だし、「自分は廃棄物をもらっているとポロリと口を滑らせ、問題になった」に至っては単に黙認の意味が分かってない頭の悪い従業員がいたってだけの話。「持ち帰りを当たり前と捉えてはいけない」とあるが、そもそも「従業員による持ち帰りを許可・黙認している店とそうでない店の両方があるってこと」を知らない人は余りいないはずであり、持ち帰りを当たり前だと捉えている人自体ほとんどいないと思われる。ただ、食品ロス問題の解決策としては「早めの半額見切り」という方法も挙げられる訳で、そのことが言及されているのは妥当だと言える。

 

 

gtl********:高校生の時、近所の個人経営のパン屋でアルバイトしてたけど、家族だけで今日中に食べるように、と店長がよく売れ残りをくれた。家族で団子屋をやってたお婆ちゃんも、売れ残りの団子やいなり寿司をよく持って来てくれた。昔は、自分が作った物を捨てたくない、捨てるくらいなら誰かに食べて欲しい、食べ物屋が食べ物を粗末にしたらバチが当たるって言う人ばかりだった。勝手に持ち帰るのは良くないけど、あげるのがダメなら割引して売り切り、食品ロスを無くして欲しい。食べ物は、作った人や自然や犠牲になってくれた動物達に感謝して、残さず有難く頂く物です。

心の清らかさが伝わってくるコメント。

 

 

btt********:学生時代にスーパー・コンビニ(深夜含)でバイト経験があります。とくにコンビニバイト初日の廃棄の際に『心苦しくなるかもしれないけれど、すぐに慣れるから』と言われたのを覚えております。でも、そんなの慣れたくないしそうはいかないのが人情ってもんですよね。廃棄持ち帰りを容認してもしなくても、バックヤードに隠して廃棄時間を待つ輩もいる。

しょうがない」とか言いながら食べ物大量廃棄の構図に順応しようとする人よりも、その構図に疑問を抱き躊躇するような人のほうが倫理性は高い。飢餓の過酷さを知っていれば、そのような行為に慣れてしまうことの深刻さは容易に理解しうるはずである。食品ロス問題は環境問題や生命倫理の問題も含んでいる。「人情」という語句よりも「道徳心」という語句のほうが正確なようにも感じられる。

 

 

そして2024年4月7日の夜、筆者は2年前の秋と同様に羽田空港への飛行機に乗っていた。

飛行機の機種は2年前と同じであり、航空会社も同じだった。

周囲を見ると、飲み物が載った台車は既に止まっており、片付けの準備が進んでいた。

そのとき、一人のCAが開封されたリンゴジュースの紙パックを持ちながら「リンゴジュースをお飲みになる方はいらっしゃいませんか」と通路を歩き始めた。

筆者の席の付近にいた乗客2人が手を挙げ、CAはその2人にリンゴジュースを注いだあと空になった紙パックを折りたたんで機体後方へ歩いて行った。

素朴であり、温かいものが感じられる光景だった。

 

その十数日後、筆者は一つのニュースを読んだ。

 

セブン―イレブン、おにぎりや弁当の「値引き」タイミングを本部が通知へ…食品ロス削減狙い : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

 

大手コンビニ会社が食品ロス削減の取り組みを強化していると窺えるニュースだった。

ニュースの本文には「昨年5月から行った実証実験では、店舗の1日あたりの売上高が伸び、廃棄量は減少した」と書かれており、このような食品ロス対策は売り手側と買い手側の両方にメリットをもたらすと考えられる。

食品ロス削減のための取り組みが法的にも衛生的にも問題なく行われていけば、環境面や経済面や倫理面などにおいて望ましい社会が期待できるのではないだろうか。

 

 

(5月19日追記)

筆者は5月12日にも新千歳空港から羽田空港への便に乗っていたのだが、5月12日は奇跡的な一日となった。筆者はこの日の体験を「2024年5月12日の奇跡 地獄から天国へ」という動画にまとめた。

大江健三郎は『職業としての作家』で難解なセンテンスを書いている。

 

いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機をあたえられつつ考えることは、作家みなが全体小説の企画によってかれの仕事の現場にも明瞭にもちこみうるところの、この現実世界を、その全体において経験しよう、とする態度をとることなしには、かれの職業の、外部からあたえられたぬるま湯のなかでの特殊性を克服することは出来ぬであろう、ということにほかならないが、あらためていうまでもなくそれは、いったん外部からの恩賜的な枠組みが壊れ、いかなる特恵的な条件もなしに、作家が現実生活に鼻をつきつけねばならぬ時のことを考えるまでもなく、本当に作家という職業は、自立しうるものか、を自省するとき、すべての作家がみずからに課すべき問いかけであるように思われるのである。

 

この一文を見て私は「一文で、この文字量かあ。多いなあ」と感じた。

 

一通り読んだ後、私はこの文が「いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機をあたえられつつ考えることは、作家みなが全体小説の企画によってかれの仕事の現場にも明瞭にもちこみうるところの、この現実世界を、その全体において経験しよう、とする態度をとることなしには、かれの職業の、外部からあたえられたぬるま湯のなかでの特殊性を克服することは出来ぬであろう、ということにほかならない」と「あらためていうまでもなくそれは、いったん外部からの恩賜的な枠組みが壊れ、いかなる特恵的な条件もなしに、作家が現実生活に鼻をつきつけねばならぬ時のことを考えるまでもなく、本当に作家という職業は、自立しうるものか、を自省するとき、すべての作家がみずからに課すべき問いかけであるように思われるのである」に分けられると気づいた。

 

そして、「大江は野間宏の仕事に影響を受けて『作家という職業の特殊性を克服すること』や『作家という職業は本当に自立しうるものかということ』などについて思索しているらしい」と感じた。野間宏の仕事というのは簡単に言えば全体小説のことである。

 

この文はどのように解釈されているのかをネットで調べると、二つのサイトが見つかった。

 

一つ目はQuoraというサイトで、本田勝一『日本語の作文技術』における図や、「日本の言の葉」というユーザーによる図などが載っていた。このサイトでも全体小説が言及されている。

 

二つ目はnoteというサイトで、天才🐾文学探偵犬と名乗るユーザーの記事だった。この記事は何故か大江健三郎とは直接的な関係のない漫画『鬼滅の刃』が後半に突如あらわれるなど独特な内容となっている。

正直に言って、この記事はこじつけが疑われる箇所が複数ある。

たとえば<「全体小説」は金稼ぎのための小説なのです。金+人+本なのです。>は「親は立+木+見なのです」と書くのと同レベルのシュールさだし、<「克服」と実存主義的な言葉を使っていますが、いつまでもぬるま湯に浸っていたいに決まっているのです。作家は働きたくないでござるのです。克服したくないでござるのです。>は「天才🐾文学探偵犬」氏の主観でしかないようにも思われる。

 

ただ、一点だけ目を引く箇所があった。それは「明瞭にもちこみうる」がどの語句に係るのかという点である。記事では二通りの解釈が取り上げられており、「天才🐾文学探偵犬」氏が解釈Aを採用する一方、本田勝一氏は解釈Bを採用している。

 

解釈A:いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機をあたえられつつ考えることは、作家みなが全体小説の企画によってかれの仕事の現場にも明瞭にもちこみうる「この現実世界をその全体において経験しようとする態度」をとることなしには、かれの職業の、外部からあたえられたぬるま湯のなかでの特殊性を克服することは出来ぬであろう、ということにほかならない。

 

解釈B:いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機をあたえられつつ考えることは、作家みなが「全体小説の企画によってかれの仕事の現場にも明瞭にもちこみうるこの現実世界」をその全体において経験しよう、とする態度をとることなしには、かれの職業の、外部からあたえられたぬるま湯のなかでの特殊性を克服することは出来ぬであろう、ということにほかならない。

 

天才🐾文学探偵犬」氏は<「明瞭に」と限定があるのに、全体小説の企画と現実世界の関係が全く不明瞭だから解釈Bは意味が通らない>と主張しているが、「全体小説を企画すること」が「人間を、それを取り巻く現実とともに総合的・全体的に表現しようという試み」であることを踏まえれば「明瞭に(もちこみうる)」という表現が「この現実世界」に係っているとしても意味が通るのではないだろうか。

 

ただ、大江が敢えて2通りの解釈ができるように、この長い文を書いた可能性はあると思う。

というのも、大江は1994年に「あいまいな日本の私」という題のノーベル文学賞受賞記念講演を行っているからだ。

これは川端康成の1968年のノーベル文学賞受賞記念講演「美しい日本の私」を模倣したタイトルとなっている。

「美しい日本の私」は本文を読めば<「美しい日本」の私>という意味だと分かるが、タイトルだけでは<「美しい日本」の私>とも<美しい「日本の私」>とも読めてしまう。

 

『職業としての作家』は『別冊・経済評論』1971年春季号で発表されたようで、時系列としては川端康成が1968年にノーベル文学賞受賞記念講演「美しい日本の私」を行った後に書かれた文章と見られる。

「あいまいな日本の私」が<「あいまいな日本」の私>とも<あいまいな「日本の私」>とも読めるような構造になっているのは論を俟たない。

 

この一文は解釈Aでも解釈Bでも意味が通るし、大江が意図的に二通りの解釈が成り立つような文を書いた可能性もあると私は考えている。

 

最後に、本サイト「An Anonymous Author Analyzes Art Articulately」の本記事や「雑談 大江健三郎の村上春樹評の一文」を読んで「大江って長ったらしい文章ばかり書いちゃう作家なのかな」と感じた読者もいるかもしれないので言っておくと、大江は短いセンテンスで紡がれた作品も普通に書いている。長いセンテンスの作品はどちらかといえば彼が若かった時期に多いとされているが、興味のある方は大江作品を読むために書店などへ足を運んでみても良いのかもしれない。

2024年2月17日、H3ロケット2号機が発射され、JAXAは打ち上げに成功した。

その翌日、宇宙開発のニュースを読む機会の多い筆者は一つの記事を発見した。

記事では、宇宙に向かって飛んで行く2号機を観察する一般人が取り上げられており、記事を読んだ筆者は鹿児島県に南海日日新聞という新聞があることを知った。

その記事は南海日日新聞の公式サイトに載っており、そのサイトの「月別アーカイブ」という欄の真下に7つのバナーがあったので、上から順にクリックしていった。

すると7つの内1つだけ「404 Not Found」となっているものがあった。

それは「本紙・電子版 購読のお申込」というバナーで、クリックすると「お探しのページは見つかりませんでした。」という表示が視界に入ってきた。

新聞社は少しでも購読の数を増やすことに拘っているはずだと考えられるため、筆者は意外に思った。

キャッチコピーの分野において、Intel insideと「インテル入ってる」の対応関係は余りにも有名である。

 

「虫は無視」というフレーズをよく見聞きするが、

If you are correct, you will ignore many an insect.

と訳せば英語でもダジャレになる気がする。

 

イギリス英語のmugには間抜けという意味もあるので、

If you are not a mug, then you must ignore many a bug.

と訳すことも出来る。

 

野球では敬遠のことを「歩かせる」と言うが、これは英単語walkに由来する。

喫煙(きつえん)はsmokeであり、敬遠(けいえん)はintentional walkなので、これもダジャレが成立している。

筆者が10歳にも満たない頃、或る新書が日本で話題となっていた。

書籍名は『国家の品格』であり、著者は藤原正彦であった。

小学生だった頃、父が持っていた本書を手に取って表紙や裏表紙(のカバー)をよく眺めていた記憶がある。

「表紙はタイトル名や著者名を強調した簡素なデザインだな。裏表紙は著者の紹介文と顔写真が載っているな」などというのが第一印象だったかと思う。

筆者は小学生になるまで殆どの漢字を書くことは出来なかったが、日常生活で頻出する漢字の多くをルビに頼らずに読むことは出来たので、本書の裏表紙(のカバー)に載っていた程度の文章を読むことは出来た。

ただし、筆者は10代前半の或る年齢になるまで、文章だけの本を最初から最後まで一気に読むということに苦手意識を感じていたので、成人からすれば大した文字量でもない本書を読み通すということは当時しなかった。

どれぐらい苦手意識を持っていたかと言うと、小学校の図書室に図鑑があったときに、図やイラストに付記された文章が1行や2行程度であれば読むものの、4行や5行を超えるような文章は読み飛ばしていたほどだった。

文字量が重要なファクターであり、長文を読むことに対して疲労感のようなものを感じることもしばしばだった。

 

因みに、この苦手意識は筆者を星新一のショートショートに没頭させる結果となった。

星新一のショートショートは短い作品の場合は見開き1面(和田誠の挿絵を含めても2~3頁ほど)で完結するくらい文字量が少なく、そして内容も面白いものが多かった。

小学校の休み時間、図書室にいることが少なくなかった筆者は、図鑑や学習漫画(『はだしのゲン』も含む)や星作品を読むことが多かった。

文字中心の児童書は星作品に比べれば読む頻度が少なかった。

それらを読むにしても、本の最初の方の章や最後の方の章だけを読むなどといった特殊な読み方をしていた。

文字だけの本や文字中心の本を読むことに対する心理的ハードルは、それぐらい高かった。

 

中学生となった筆者は、或る長期休暇、祖父母の家へ帰省することとなった。

午前に出発し午後に到着する長距離バスに乗り、本書をバスの座席に持ち込んだ。

本書は数ページごとの短い節に分かれた構成となっており、その頃には節の一つを断片的に読む程度のことは出来るような年齢になっていた。断片だけでも「結構この本、読み応えありそうだな」と判断することは容易だったし、父の書架から手に取って節の一つを流し読みすることは中学に入って以降すでに何度かあった。

バスが動き出し、筆者は本書を手に持ちつつ葉加瀬太郎の「ひまわり」のメロディを思いだしたり窓からの景色を眺めたりしていた。

高速バスといっても車輪が停止している時間や、乗り物酔いしない程度の速度で動いている時間は当然ある。

そのようなタイミングで筆者は本書の真ん中あたりのページから本文を読んでいった。

気づくと奥付のページまで進んでいた。

「あれ?最後のページまで来てしまったが…?」と驚きを伴いつつ、今度は最初のページから読み進めていった。

カバーの袖には本書を紹介する文章があり、その文章は7~8行ほどだったかと思うが、その文章もスムーズに読み終わり、目次や本文を開いてゆくと、時の経過を強く感じた訳でもないのに、読み始めた箇所のページまで到達してしまった。

むろん流し読みをしていた訳ではないし、藤原正彦の主張も頭に入っている状態だった。

そのうえで筆者は最初に開いた箇所のページをめくっていただけに、家族や知人も周囲にいない座席にて唖然たる面持ちとなった。

間もなく筆者は自分が一冊の新書や文庫本を部分的にではなく一冊通して読むことが出来る人間になっていたということを悟った。

目的地まではまだ時間もあったので、乗り物酔いを警戒しつつ本書の最初のページから最後のページまで読んでいった。

難解な語彙は殆どない文体であり、熟読といえるほどのことなのかは分からないが、熟読に近いくらい本文をじっくり読んでいったにも拘らず、筆者は大した疲労感もなく本書を読み尽くすことが出来た。

 

筆者個人にとって、本書は文字中心の本を読むという点において余りにも大きな意味を持っている。

書かれている内容も斬新で、未成年だった当時の筆者にとって刺激的なトピックが多数あった。

アングロサクソンと一緒くたにされがちな英国と米国の違い。

論理を駆使する職業である数学者の藤原が論理の限界に気づいていったこと。

ナショナリズムとパトリオティズムを峻別することの重要性。

ラマヌジャンの生い立ちや彼のような天才を産む風土。

桜と薔薇のコントラスト、俳句という独特な日本の文化や精神性などなど、本書では古今東西の話題が豊富に展開されている。

 

その中でも特に印象に残った箇所がある。

その箇所において藤原は「資本主義が共産主義に勝ったのではなく、単に共産主義が机上の空論すぎただけ。現行の資本主義でさえ欠陥だらけの主義」と主張していた。

つまり「資本主義も共産主義も欠陥だらけのシステムだが、共産主義が机上の空論すぎたから先に滅んだだけで、資本主義もいつ滅びるか分からない」という趣旨のことが書かれていた。

中学生ころの筆者は今以上に経済学に疎く、資本主義と共産主義を英語で言えないほどだったが、それでもこの主張には妥当性のようなものを感じ取った。

藤原は資本主義の欠陥として「貧富の差が大きくなりすぎること」とデリバティブを例示したうえで「資本主義の論理を追求していくと、次第に資本主義自体が潰れかねない状況となる」と論じており、当時の筆者は藤原が提示したケース以外の具体例を明示できなかったにも拘らず、「共産主義が机上の空論すぎたから先に滅んだだけで資本主義もいつ滅びるか分からないというのは凄く正しそうだな」という直感を抱いた。

 

成人して数年経つ今の筆者であれば、藤原が提示したような事例よりも端的な具体例を挙げて、資本主義の持続困難性を論じることが出来る。

 

資本主義社会では市場化が進み、資本の自己増殖が加速してゆく。

市場化とは今まで金銭の授受を介する必要のなかった「人と人との交流」に金銭を介在させることと考えうるが、市場化が進むと個人は共同体のためよりも自分自身のために自分の労力や時間を費やすようになる。

たとえば出産や育児は共同体の人口動態を維持するうえで死活問題と言えるほど重要なものであるが、出産や育児に自分の労力や時間を費やすよりも、キャリア形成のために自分の労力や時間を費やすほうが自分の所得や社会的地位は上がりやすい。

結果として資本主義社会では少子化が起こりやすくなり、現状を見渡してみても、移民大国や宗教色の強い国などを除いて多くの資本主義国家は人口減少に苦しんでいる。

人口減少は国内市場の需要の減少に繋がって長期的な不況をもたらし、資本主義が成立するうえで必要不可欠な市場そのものを衰退させてゆく。

このように、資本主義が高度に発達すると次第に資本主義自体が潰れかねない状況となってしまう。

 

『国家の品格』は2005年頃の新書であるにも拘らず、英国王室が男子優先の王位継承権のルールを撤廃したことが絡む箇所などを除き、その殆どが令和の現代日本においても通用する内容となっている。

現在さまざまな賛否を読んでいるポリコレ(ポリティカリー・コレクトやポリティカル・コレクトネスの略称)に言及している箇所などは先見の明がありすぎるとさえ感じる。

本書はハードカバーではなく、手ごろな値段で買うことが出来る。

未読の方は目を通してみても良いと思う。