大江健三郎は『職業としての作家』で難解なセンテンスを書いている。

 

いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機をあたえられつつ考えることは、作家みなが全体小説の企画によってかれの仕事の現場にも明瞭にもちこみうるところの、この現実世界を、その全体において経験しよう、とする態度をとることなしには、かれの職業の、外部からあたえられたぬるま湯のなかでの特殊性を克服することは出来ぬであろう、ということにほかならないが、あらためていうまでもなくそれは、いったん外部からの恩賜的な枠組みが壊れ、いかなる特恵的な条件もなしに、作家が現実生活に鼻をつきつけねばならぬ時のことを考えるまでもなく、本当に作家という職業は、自立しうるものか、を自省するとき、すべての作家がみずからに課すべき問いかけであるように思われるのである。

 

この一文を見て私は「一文で、この文字量かあ。多いなあ」と感じた。

 

一通り読んだ後、私はこの文が「いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機をあたえられつつ考えることは、作家みなが全体小説の企画によってかれの仕事の現場にも明瞭にもちこみうるところの、この現実世界を、その全体において経験しよう、とする態度をとることなしには、かれの職業の、外部からあたえられたぬるま湯のなかでの特殊性を克服することは出来ぬであろう、ということにほかならない」と「あらためていうまでもなくそれは、いったん外部からの恩賜的な枠組みが壊れ、いかなる特恵的な条件もなしに、作家が現実生活に鼻をつきつけねばならぬ時のことを考えるまでもなく、本当に作家という職業は、自立しうるものか、を自省するとき、すべての作家がみずからに課すべき問いかけであるように思われるのである」に分けられると気づいた。

 

そして、「大江は野間宏の仕事に影響を受けて『作家という職業の特殊性を克服すること』や『作家という職業は本当に自立しうるものかということ』などについて思索しているらしい」と感じた。野間宏の仕事というのは簡単に言えば全体小説のことである。

 

この文はどのように解釈されているのかをネットで調べると、二つのサイトが見つかった。

 

一つ目はQuoraというサイトで、本田勝一『日本語の作文技術』における図や、「日本の言の葉」というユーザーによる図などが載っていた。このサイトでも全体小説が言及されている。

 

二つ目はnoteというサイトで、天才🐾文学探偵犬と名乗るユーザーの記事だった。この記事は何故か大江健三郎とは直接的な関係のない漫画『鬼滅の刃』が後半に突如あらわれるなど独特な内容となっている。

正直に言って、この記事はこじつけが疑われる箇所が複数ある。

たとえば<「全体小説」は金稼ぎのための小説なのです。金+人+本なのです。>は「親は立+木+見なのです」と書くのと同レベルのシュールさだし、<「克服」と実存主義的な言葉を使っていますが、いつまでもぬるま湯に浸っていたいに決まっているのです。作家は働きたくないでござるのです。克服したくないでござるのです。>は「天才🐾文学探偵犬」氏の主観でしかないようにも思われる。

 

ただ、一点だけ目を引く箇所があった。それは「明瞭にもちこみうる」がどの語句に係るのかという点である。記事では二通りの解釈が取り上げられており、「天才🐾文学探偵犬」氏が解釈Aを採用する一方、本田勝一氏は解釈Bを採用している。

 

解釈A:いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機をあたえられつつ考えることは、作家みなが全体小説の企画によってかれの仕事の現場にも明瞭にもちこみうる「この現実世界をその全体において経験しようとする態度」をとることなしには、かれの職業の、外部からあたえられたぬるま湯のなかでの特殊性を克服することは出来ぬであろう、ということにほかならない。

 

解釈B:いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機をあたえられつつ考えることは、作家みなが「全体小説の企画によってかれの仕事の現場にも明瞭にもちこみうるこの現実世界」をその全体において経験しよう、とする態度をとることなしには、かれの職業の、外部からあたえられたぬるま湯のなかでの特殊性を克服することは出来ぬであろう、ということにほかならない。

 

天才🐾文学探偵犬」氏は<「明瞭に」と限定があるのに、全体小説の企画と現実世界の関係が全く不明瞭だから解釈Bは意味が通らない>と主張しているが、「全体小説を企画すること」が「人間を、それを取り巻く現実とともに総合的・全体的に表現しようという試み」であることを踏まえれば「明瞭に(もちこみうる)」という表現が「この現実世界」に係っているとしても意味が通るのではないだろうか。

 

ただ、大江が敢えて2通りの解釈ができるように、この長い文を書いた可能性はあると思う。

というのも、大江は1994年に「あいまいな日本の私」という題のノーベル文学賞受賞記念講演を行っているからだ。

これは川端康成の1968年のノーベル文学賞受賞記念講演「美しい日本の私」を模倣したタイトルとなっている。

「美しい日本の私」は本文を読めば<「美しい日本」の私>という意味だと分かるが、タイトルだけでは<「美しい日本」の私>とも<美しい「日本の私」>とも読めてしまう。

 

『職業としての作家』は『別冊・経済評論』1971年春季号で発表されたようで、時系列としては川端康成が1968年にノーベル文学賞受賞記念講演「美しい日本の私」を行った後に書かれた文章と見られる。

「あいまいな日本の私」が<「あいまいな日本」の私>とも<あいまいな「日本の私」>とも読めるような構造になっているのは論を俟たない。

 

この一文は解釈Aでも解釈Bでも意味が通るし、大江が意図的に二通りの解釈が成り立つような文を書いた可能性もあると私は考えている。

 

最後に、本サイト「An Anonymous Author Analyzes Art Articulately」の本記事や「雑談 大江健三郎の村上春樹評の一文」を読んで「大江って長ったらしい文章ばかり書いちゃう作家なのかな」と感じた読者もいるかもしれないので言っておくと、大江は短いセンテンスで紡がれた作品も普通に書いている。長いセンテンスの作品はどちらかといえば彼が若かった時期に多いとされているが、興味のある方は大江作品を読むために書店などへ足を運んでみても良いのかもしれない。