性善説は「人間の本性は生まれながらにして善である」とする説であり、孟子が提唱したとされる。

一方の性悪説は「人間の本性は生まれながらにして悪である」とする説であり、荀子が提唱したとされる。

古来、この二つの説は複数の思想家によって議論され解釈されてきたが、現在の日本において名詞「性善説」と名詞「性悪説」は少しニュアンスの異なる意味で用いられることが多い。

具体的にいうと、性善説は「人は誰しも善人である」という意味で用いられることが多く、性悪説は「人は誰しも悪人である」という意味で用いられることが多い。

 

孟子や荀子の主張への賛否に限らず、或る事柄への賛否を問う議論は様々な場で行われている。

たとえば電力エネルギーに関して言えば「あなたは原発に賛成ですか。それとも反対ですか」という議論があるし、野球のルールに関しても「あなたはDH制に賛成ですか。それとも反対ですか」という議論がある。

 

教育の分野でもこのような形式の議論が行われており、ときたま筆者は「あなたは体罰に賛成ですか。それとも反対ですか」という議論をみかけることがある。

しかし、これは賛否の分け方が適切でないように思う。

「あなたは健康な成人が嗜好目的で大麻を吸うことに賛成ですか。それとも反対ですか」と問う企画が日本で開かれていたら、大半の日本人は「そもそも違法なのだから賛否以前の話じゃん」とツッコミを入れるはずである。

このトピックの賛否を日本で問いたいのならば「あなたは大麻合法化に賛成ですか。それとも反対ですか」などとするのが妥当であろう。

日本において体罰は学校教育法や改正児童虐待防止法や改正児童福祉法などで禁じられている違法行為である。

そうである以上、体罰に関する賛否を日本で問いたいのならば、本来は「あなたは体罰を禁じる法制度を変更して体罰を合法化することに賛成ですか。それとも反対ですか」などと問う必要がある。

 

「しつけ」でもダメ!4月から体罰は法律で禁止されました 世界で59番目 子どもへの暴力のない社会へ、意義と課題は | 東京すくすく (tokyo-np.co.jp)

 

 

数々の報道が示しているように、体罰に走る教師や、子供に暴力をふるう親は日本で依然として散見される。

それどころか「学校の先生だって忙しいんだし問題児に対しては体罰したっていいと思う」などと体罰を肯定する者も多い。

体罰肯定派の意見を集めると「殴らないと分からない子供もいる。体罰否定派は性善説に立っているが、これは実態に即していない。性悪説に立って体罰を行うべきだ」というのが大筋の主張となる。

だが、これは逆だと思う。

寧ろ性悪説に立つならば尚更、体罰には否定的となるはずだからだ。

 

少し考えれば分かるように教師や親はまともな人ばかりではない。

イケメンや可愛い生徒を依怙贔屓し、容姿の劣る生徒を雑に扱う教師。カルトに染まって自分の子供の輸血を禁じる親。プライベートで不機嫌なことがあったときに何も悪いことをしていない子供に当たる教師。「お前なんか産まなきゃよかった」と子供に言い放つ親。

世の中まともな大人ばかりではないし、体罰肯定派は何故そういった有害な大人が体罰を行う危険性などを考えないのか疑問に思う。

それでも体罰を肯定する教師や親は「体罰をしなきゃ授業中に生徒が騒いだり子供が公の場でマナー違反したりするのを止められない」と主張するかもしれない。

このような主張を見かけるたびに筆者は興味深く思う。

というのも、こういった主張は「自分は体罰に頼らないと教育できないような無能教師・無能ペアレントです」などと自分の無能さを自白しているような雰囲気を感じるからだ。

読者の皆さんも自分が中学校にいたときのことを思いだせば分かりやすいと思うが、クラスメートは大体どの科目でも同じなのに、科目を担当する教師によって授業中の生徒の態度には大きな差が生じていなかっただろうか。

「生徒から敬慕されている教師は体罰なしでも生徒の指導が可能だし、生徒から敬慕されていない教師は体罰に頼らないと生徒の指導ができない」という構図が頭に浮かんでくる。

 

子供が騒いだり躾のなっていない態度をとったりするごときで人は死なないが、体罰は子供の生死に直結しうる。

岐陽高校体罰死事件、不動塾事件、大分県立竹田高校剣道部主将死亡事件、そして親が「しつけ・教育のため」と称して子供に暴力をふるっていた野田小4女児虐待事件などのような悲劇を人類は繰り返すべきではない。

職場において上司が罰と称して部下に暴力をふるったら刑事罰や民事訴訟の対象となるように、大人が罰と称して子供に暴力をふるった場合も刑事罰や民事訴訟の対象となる社会のほうが望ましいように思う。