小学生のころ「トイ・ストーリー」三部作が話題になっていた。

「トイ・ストーリー」シリーズと聞いて頭に浮かぶキャラは、主人公の少年と、カウボーイ人形と、宇宙飛行士っぽい男と、熊のぬいぐるみ程度で、『トイ・ストーリー』や『トイ・ストーリー2』に関する記憶は殆どないに等しいのだが、『トイ・ストーリー3』は視聴した記憶がある。

『トイ・ストーリー3』の全体的な粗筋は記憶に残っていないものの、「玩具は子供が大人になると遊ばれなくなる」というテーマや、大人になろうとしている主人公の男が年下の子供に玩具を手渡すエンディングなどは印象に残っており、『トイ・ストーリー3』を視聴し終わった直後、子供ながら「いい感じに三部作の物語が完結しているな」と感じたのを覚えている。

 

大学生になり、<映画『トイ・ストーリー2』、いつの間にかセクハラシーンを削除>という記事を見かけた。

まず「あんなに美しく完結した『トイ・ストーリー3』に続編が出るらしい」と知って驚いたあと「『トイ・ストーリー2』に、そんなシーンがあったんだ」と思った。

記事によると、『トイ・ストーリー2』にはプロスペクターという悪役キャラが登場しているそうで、プロスペクターがバービー二人(若い女性キャラ)に「僕なら君たちを『トイ・ストーリー3』に出してあげられるよ」と持ちかけるも、カウボーイらの視線に気づいたプロスペクターが言い繕うシーンがある。

 

ネットで調べると該当シーンが見つかったので、プロスペクターの台詞を引用する(拙訳も付記した)。

 

(プロスペクターが二人組のバービー人形を見ながら)

And so, you two are absolutely identical? 

それで、君たち二人は完全に同じなんだね?

You know, I'm sure I could get you a part in Toy Story 3.

君らも分かると思うけど、私は君らをトイ・ストーリー3に出演させることが出来ると思う。

 

(カウボーイらの視線に気づいたプロスペクターが言い繕って)

Oh, I'm sorry. Are we back?! Lovely talking with you. 

おお、ごめん。我々は撮影中の状態に戻っているのか?!君らと会話できて楽しかったよ。

Yes, any time you'd like some tips on acting, I'd be glad to chat with you. 

ああ、演技のヒントが欲しいなら、どんなときでも私は喜んで君らにしゃべるさ。

All right. Off you go then. 

いいよ。もう行っていいよ。

 

映画等のプロデューサーが(特に新人の)女優を自分の部屋に呼び、親密な関係(セクハラ行為の許容や、疑似恋愛や、肉体関係など)となることを交換条件に、映画等の役や契約をその女優に与えることを、キャスティングカウチというが、このシーンはキャスティングカウチを暗示したブラックジョークとなっている。

 

前述した記事を引用する。

 

最新作『トイ・ストーリー4』の公開を前に再リリースされたDVDからこのシーンが削除されているという。ディズニーはこれについて正式には発表していない。

ハーヴェイ・ワインスタインの事件をきっかけに起きたセクハラ告発運動「#Me Too」ムーブメントでキャスティングカウチの実態も明るみになったハリウッド。ワインスタインだけでなく、他の映画会社重役やプロデューサーが同様の行為をしていることを女優たちが語っている。ちなみにこのムーブメントの中でディズニーのプロデューサー、ジョン・ラセターもキャスティングカウチではないけれど、社員へのセクハラが告発されディズニーを退職するという騒ぎに発展した。

ディズニーアニメにこのようなシーンが登場するのは、『トイ・ストーリー2』が作られた1999年にはキャスティングカウチをジョークにしても問題ないと男性主導のハリウッドが考えていたことの表れ。それから約20年経ち、これが冗談ではないという考え方が浸透してきたよう。「ようやく」という感もあるけれど、ハリウッドのセクハラに関する意識は確実に変わってきていると言えそう。

 

 

「明るみになった」は「明るみに出た」という意味だろうが、「ディズニーアニメにこのようなシーンが登場するのは、『トイ・ストーリー2』が作られた1999年にはキャスティングカウチをジョークにしても問題ないと男性主導のハリウッドが考えていたことの表れ」というのは少し違うと思う。

というのもブラックジョークは批判や非難や風刺や告発の意義がこめられているケースも多いからだ。

このシーンで「I'm sure I could get you a part in Toy Story 3.」と語っているのが、作中で善とされる側のキャラではなく悪役であるという点、そしてカウボーイらの視線に気づいたプロスペクターが即座に言い繕っている点などから判断できるように、このシーンを制作したスタッフはキャスティングカウチを良くないこととして描いている。

つまり、本作のスタッフはキャスティングカウチを肯定したり笑い話として扱ったりするためにこのシーンを制作した訳ではない。

 

だが、或る空間や作品でブラックジョークが存在しうるか否かは表現の自由度に大きく依存する。

例えば、金正恩を風刺したブラックジョークを人ごみの中で語るという行為は、金正恩を非難しても政治的に弾圧されない日本や英国などの国では容易に出来るだろう。

しかし、そのようなブラックジョークを平壌の人ごみの中で語るとなれば話は別である。

このように、表現の自由度が低い空間ではブラックジョークが存在しづらくなってしまう。

ポリコレやキャンセルカルチャーの勢いが凄まじい米国では、現在と異なる時代に制作された作品に対して攻撃的な人が目立っており、表現の自由度が大幅に低下している。

このことは例のシーンが削除された要因の一つだと考えられる。

 

もう一つの要因は、大々的に報じられている事故や事件への自粛である。

例えば、2015年に「イスラム国」とみられるグループが日本人二人を拘束し、殺害を予告する事件が起こった。

この事件を受けて、フジテレビはアニメ『暗殺教室』第3話の放送を自粛した。

『暗殺教室』は謎の生物が担任教師を務める中学校を主な舞台とした作品である。

作中には中学生が暗殺目的で特殊なナイフを振り回す場面などがあり、こういったことが放送自粛につながったという。

記事にもあったように、2010年代後半は、ワインスタインの事件をきっかけに起きたセクハラ告発運動「#Me Too」ムーブメントでキャスティングカウチの問題に注目が集まっていたばかりかジョン・ラセターのセクハラ疑惑が報道されていた。

2019年の記事で米オンラインメディアのVoxが考察しているように、当時ピクサーがセクハラ関連のシーンに関して敏感になっていたのは確かである。

 

ブラックジョークのシーンの削除が2025年以降も続くのかは分からない。

ポリコレ等のウォーキズムに否定的なドナルド・トランプが再選したことを踏まえると、このシーンの削除がディズニー社で見直される可能性はある。

結局のところ、大きな事故や事件が起こったときに作中の或るシーンを自粛すべきか否かは、主に具体性で判断すべきなのではないだろうか。

ネットで安倍晋三銃撃事件の前に発表されたと思しき漫画を見かけたが、例えば、この漫画は「安倍晋三狙撃」という語句を含んでおり、具体的な人名が登場している。

政治家が狙撃されること自体は今も昔も数えきれないほど発生している訳だが、「安倍晋三狙撃」で連想される出来事となれば、やはり2022年7月に奈良県で発生した例の事件が多くの人々の脳内で真っ先に浮かぶであろう。

その一方で、削除されたブラックジョークのシーンはワインスタインなどといった人名を全く含んでおらず、本作のアニメーターたちがワインスタインらの問題を念頭においてこのシーンを制作したのかは不明である。

 

子供も見る作品であったとしてもブラックジョークは一定の範囲内であってよいはずだし、ワインスタインらの問題を直ちに連想させるシーンではない以上、このシーンを永遠に削除するのは過剰な反応であると考える人は多いのではないだろうか。

 

 

翻訳は直訳と意訳に大別される。

日本の学校における英語教育では直訳が重視されている印象を受ける。

しかし、一部の翻訳者たちは、状況に応じて、あえて直訳しないという手法を用いることがある。

本記事では筆者が興味深いと感じた意訳の具体例を挙げてゆく。

 

南北戦争は米国においてThe Civil Warなどと呼ばれている。

形容詞civilには「公民の、民間の」という意味の他に「内政の、国内の」という意味があり、Civil Warを直訳するならば内戦となる。

アメリカ独立戦争から2025年現在に至るまで、この一度しか内戦が起こっていないとされる米国では、The Civil Warだけで南北戦争のことだと通じるのである。

南北戦争が米国で発生したことを強調するためにAmerican Civil Warという名称もあり、この名称を直訳するならば「アメリカ内戦」などのようになるが、日本や中国では14世紀や5~6世紀に実在した南北朝時代のイメージから「南北戦争」と意訳され、この名称が歴史用語として定着している。

この意訳は米国が南部の勢力と北部の勢力に分かれて戦闘していたことを端的に表現しており、分かりやすさという点で優れている。

 

南北戦争とは対照的に民主主義という訳語は元の意味が分かりづらくなっており、誤解を招きやすい意訳と言えるかもしれない。

名詞democracyはdemoとcracyから構成されている。aristocracyが貴族制・貴族政・貴族政治などと、bureaucracyが官僚制・官僚政治などと、gerontocracyが長老政治・長老支配などと訳されることを踏まえれば、democracyは民主制や民主政や民主政治などと訳すのが自然である。

だが、接尾辞がismではなくcracyとなっているにもかかわらずdemocracyは民主主義と訳されることが多い。

この背景には「民主政や民主政治が行われているのは民衆による政治が相応しいからだ」という価値観があるのだろう。

世界の国々をみても実質的な独裁国家ですら「民主主義人民共和国」と称している例が存在するほど「民衆による政治を是とする価値観」は支持されている。

確かにdemocracyが民主制とも民主政とも民主政治とも民主主義とも訳せるケースは豊富にあり、例えばenemy of democracyは「民主制の敵」とも「民主主義の敵」とも訳すことが出来る。

ただし、democracyという単語が含まれる英文があって民主制や民主政治と訳すのが妥当なときに、民主主義という訳語を採用してしまうのは誤訳であると思われる。

 

筆者は映画に疎いのだが、『地獄の黙示録』や『アナと雪の女王』などといった邦題は有名である。

『地獄の黙示録』の原題は『Apocalypse Now』であり、これは1960年代にヒッピーが主張していた「Nirvana Now(今こそ涅槃を)」をもじったものである。

涅槃は「煩悩が消えた悟りの境地」を意味する仏教用語であり、『Apocalypse Now』を直訳するならば「今こそ黙示録を」などとなる。

だが、日本人の多くは「Nirvana Now(今こそ涅槃を)」というフレーズを知らないため、「今こそ黙示録を」だと本作がどういう雰囲気の映画なのかが伝わりにくい。

『地獄の黙示録』という邦題は「キリスト教や米国のヒッピー文化に詳しくない観客」に配慮した意訳だと考えられる。

因みに、本映画はコンラッドの小説『闇の奥』が原作となっているが、この小説の原題は『Heart of Darkness』であり、小説のほうもタイトルが意訳されている。

名詞heartは「心」や「心臓」なので、『Heart of Darkness』を直訳するならば「闇の心」や「闇の心臓」などとなる。

 

アニメ映画『アナと雪の女王』も原題は『Frozen』であり、作中キャラの人名を前面に出した邦題とは大きく異なっている。

 

筆者は小学生の頃から『宇宙大戦』という作品(英題は『The Great War of the Worlds』となる予定)を構想している。

この作品は小説として完成するかもしれないし、もしくは戯曲や漫画やアニメなどとして完成するかもしれないが、このタイトルはハーバート・ジョージ・ウェルズの『宇宙戦争』に由来する。

『宇宙戦争』も実は意訳であり、原題は『The War of the Worlds』である。

これを直訳するならば「世界同士の戦争」となり、このタイトルは「地球人の世界」と「火星人の世界」の間で戦争が発生するという粗筋を表している。

だが、「世界同士の戦争」という直訳では本作がSF作品であることが伝わりづらい。

日本で『宇宙戦争』という邦題が100年以上にわたって定着しているのは、漢字四文字という完結さや、SF作品であることが伝わりやすいというメリットによるところが大きいのだろう。

 

これまで英語から日本語に意訳された例を紹介してきたが、フランス語から日本語に意訳された例もある。

フランスの作曲家オリヴィエ・メシアンは1940年ごろ『Quatuor pour la Fin du Temps』という曲を発表した。

この曲は『時の終わりのための四重奏曲』や『世の終わりのための四重奏曲』という邦題で知られており、前者が直訳に近いタイトルで後者が意訳に近いタイトルである。

終末論として知られる新約聖書『ヨハネの黙示録』が曲想となった作品であり、『時の終わりのための四重奏曲』の「時」は「時代」というニュアンスが強いと思われる。

簡潔に言えば、終末論は「この世の終わり」や「この世界の終わり」を扱った記述のことである。

『時の終わりのための四重奏曲』と『世の終わりのための四重奏曲』であれば、多くの日本語話者にとって曲のイメージが伝わりやすいのは後者だろう。

 

人文学や社会科学とは異なる領域でも意訳は散見される。

例えばアインシュタインはマックス・ボルンへの手紙で「Jedenfalls bin ich überzeugt, daß der Alte nicht würfelt.」と述べている。

この一文を直訳するならば「いずれにせよ、私は、古きものはサイコロを振らないと確信している。」などとなる。

つまり「神はサイコロを振らない」というアインシュタインの有名台詞は「古きもの」を「神」と置き換えた意訳である可能性が高い。

 

意訳は誤訳と隣り合わせであるというリスクを伴うが、直訳では汲み取りづらいニュアンスを如実に表現できるという魅力がある。

機械翻訳の精度が高まりつつある21世紀、意訳の重要性は増してゆくのかもしれない。

 

将棋界には棋士と呼ばれる方々がいる。

誰であっても棋力が高ければ性別に関係なく棋士となれるが、棋士を志す者が棋士の地位に至るハードルは非常に高い。

競技人口の差などもあって将棋界は男女間の実力差が大きいとされており、2025年元日現在、棋士の座を掴んだ女性は皆無である。

マスメディアなどで女流棋士という職業を見聞きした方もいるかもしれないが、女流棋士と棋士は別物である。

女流棋士となった女性は今も昔も大勢いるが、棋士となった女性(いわゆる「女性棋士」)は今のところ一人もいない。

 

棋士を志す者が棋士になる経路は二つある。

一つは奨励会と呼ばれる組織に入り、その組織内で行われている三段リーグで一定水準以上の順位となることである。

もう一つはプロ棋士編入試験の受験資格を得て、プロ棋士編入試験に合格することである。

2022年に里見香奈先生という女流棋士がプロ棋士編入試験を受けたが、合格とはならなかった。

その2年後の夏、西山朋佳先生という女流棋士がプロ棋士編入試験の受験資格を得て、プロ棋士編入試験を受けると発表した。

西山先生のプロ棋士編入試験は去年の9月に始まり、現在2勝2敗という経過をたどっている。

2025年1月下旬に5局目となる対局(試験官は柵木幹太先生)が実施される予定で、西山先生がこの最終局に勝てば将棋の歴史で初めて女性棋士が誕生することとなる。

昭和の時代から多くの将棋関係者が女性棋士の誕生を夢みてきた。

令和7年正月の現在、この夢はあと一歩のところで現実になろうとしている。

そもそも西山先生の試験の結果に限らず、棋士を目指す女性がいる限り、女性棋士が誕生する可能性はあり続ける。

仮に女性棋士が誕生したら、どのような事態が起こりうるかを考えてゆくこととする。

藤井聡太旋風のときのような将棋ブームが起こるだろう。

快挙を知って将棋に関心を持つ若い女性が出てくるだろう。

そして、女性棋士の誕生は将棋漫画の世界に大きな影響を及ぼすだろう。筆者はそう考える。

 

筆者は将棋漫画をたくさん読んでいる訳ではない。

将棋のルールを覚えたのは小学校の図書室にあった学習漫画『スグわかる!まんが将棋入門』だったが、この本を隅から隅まで読んだとは言い難く、駒の動かし方や美濃囲いの組み方が載ったページとか漫画ページとかを集中的に読んだ感じだった。

それ以外に読んだことのある将棋漫画は『ものの歩』や『龍と苺』や『永世乙女の戦い方』ぐらいだが、『ものの歩』は『週刊少年ジャンプ』にアクセスできたときの回しか読めなかった記憶があり、『龍と苺』や『永世乙女の戦い方』もファンの方々に比べれば読みこみがまだまだである。

 

だが、そんな筆者でも予測できることがある。

それは、女流棋士というキャラの立ち位置が女性棋士の誕生以前と以後とで結構かわってしまうだろうという予測である。

萌え豚しか読まない漫画や、腐女子や夢女子しか読まない漫画などを除けば、男性キャラしか登場しない漫画や、女性キャラしか登場しない漫画は珍しい。

大抵の将棋漫画では、将棋に熱中する男性キャラと将棋に熱中する女性キャラの両方が登場しているように思う。

 

或る将棋漫画でメインのキャラたちが棋士を目指しており、そのキャラたちの中に女性キャラがいるとする。

彼女がどんなエンディングを迎えるのかは漫画家の意向によるが、以前であれば「最終的に彼女は女流棋士となり、女流棋士の世界で無双状態となりました」などといったエンディングでもノープロブレムだったであろう。

しかし、今後、現実世界で女性棋士が誕生するようになると、そのようなエンディングでは読者の一部が「あの女性キャラって作中では棋力が凄く高いとされていたけど、よくよく考えれば棋士になれない程度の棋力だったってことだよね」などと感じてしまうケースが出てくる。

 

これはサッカーに置き換えて考えると分かりやすいかもしれない。

日本人サッカー選手が海外の名門リーグで活躍するようになる前の時代であれば、「サッカーが得意な主人公が大人になったあと、国内リーグで無双し、主人公の所属チームが国内リーグで優勝するというようなエンディング」でも「この主人公すげーじゃん!」と容易に読者を興奮させられたであろう。

だが、海外の名門リーグで活躍する日本人選手が現れるようになった今の時代だと、「大人になった主人公が国内リーグで無双」というだけでは、多くの読者が「海外の名門リーグでも無双していないなら、この主人公は国内リーグでしか無双できない井の中の蛙じゃね」などと感じるはずである。

 

個人的には、今後の将棋漫画は『龍と苺』のように女性棋士の座を掴む女性キャラが豊富に登場する作品が増えていくのかなと思っている。

 

最後になるが、『スグわかる!まんが将棋入門』をたったいまネットで調べてサンプル部分を読むと内容の深さに気づかされる。

理解がおいつくならば、どんどん読み進めるべき学習漫画であると今なら分かる。

有名手筋や終盤の戦い方なども解説されており、読んで損のない学習漫画なので、子供だろうが大人だろうが将棋を指したいという方は全てのページを熟読すべきだと筆者は考える。

 

〇曲名の謎

私がハイロウズの「日曜日よりの使者」という曲を知ったのは10代の頃だと思う。

当時からアメイジング・グレイスとメロディが似ていると感じていたのだが、調べてみると「Will the Circle Be Unbroken?」がメロディの元ネタらしいと分かった。

時系列で並べると、10歳以前からアメイジング・グレイスは知っていて、10代の頃に「日曜日よりの使者」を知り、そして成人してから「Will the Circle Be Unbroken?」を知ったという流れになる。

 

メロディは兎も角として、かつて私は、この曲を聴くたびに、ちょっとした疑問を抱いていた。

それは、なぜ「日曜日からの使者」ではなく「日曜日よりの使者」という曲名なのだろうかという疑問である。

「(名詞)からの」という表現は頻繁に見聞きするが、「(名詞)よりの」という表現を見聞きする頻度は高くない。

助詞「より」ではなく名詞「寄り」であれば「右寄りの政治家」などといった例が容易に浮かぶものの、「からの」という意味で「よりの」が使われている例は現代の日本語において珍しいのではないだろうか。

 

「より」は、破裂音であるカ行の「か」を伴う「から」と比べて、歌声の響きが柔らかく聴こえるなどといった理由なのかなと考えていたのだが、興味深い記事があった。

 

「日曜日よりの使者」とはいったい誰なのか?|サトシ

 

この曲を書いた甲本ヒロトと親交のある山本正之は「星よりの使者」という曲を発表しており、「日曜日よりの使者」という曲名は、その曲名に影響を受けているのではないかという説である。

「日曜日よりの使者」と「星よりの使者」の歌詞を以下に示すが、確かにメロディの終わりに「星よりの使者」を繰り返すという歌詞の構成は、「日曜日よりの使者」と共通している。

 

 

 

 

 

〇「日曜日よりの使者」歌詞

※このまま どこか遠く 連れてってくれないか

君は 君こそは 日曜日よりの使者※

(※繰り返し)

たとえば 世界中が どしゃ降りの雨だろうと
ゲラゲラ 笑える 日曜日よりの使者

きのうの夜に飲んだ グラスに飛び込んで
浮き輪を浮かべた 日曜日よりの使者

適当な嘘をついて その場を切り抜けて
誰一人 傷つけない 日曜日よりの使者

△流れ星が たどりついたのは
悲しみが沈む 西の空△

□そして東から昇ってくるものを
迎えに行くんだろ 日曜日よりの使者□

(※繰り返し)

たとえばこの街が 僕を欲しがっても
今すぐ出かけよう 日曜日よりの使者

(△繰り返し)
(□繰り返し)

 

 

 

 

 

〇「星よりの使者」歌詞

嵐の砂漠を二人で越えて

たどりつけば地上絵に 船が降りてくる

ここで添えない運命ならば

連れてって連れてって 星よりの使者

 

幾億光年 移り棲むところ 

水も空気もあらずとも 心咲き擾れ 

光の速度でワープをすれば 

夕ごはんを持ってくる 星よりの使者 

 

タダイマ、オカエリ、シアワセデスワ 

愛しい子供たちに お話をします 

円い枠の中 陸と海との

懐かしい線ばかり 星よりの使者 

 

オリオン、カノウプス、北洛師門 

数え切れない時を過ぎ いつかもう一度 

遠い空へと旅立つことを 知っているのね

そうなのね 星よりの使者

 

二人は石になり そして風になり 

やがて宇宙の夜になり 姿消えようと 

愛しているからね 愛しています 

連れてって連れてって 星よりの使者


嵐の砂漠を越えたあの日まで
たどりつけば地上絵が果てに続いてく
そこで出会える運命だから 

あなたこそ 君こそは 星よりの使者

あなたこそ 君こそは 星よりの使者

 

 

 

〇考察と補足

この2曲はメロディ自体が似ている訳ではないが、メロディの構成が似ている。

「日曜日よりの使者」は「流れ星が たどり着いたのは 悲しみが沈む 西の空」というサビのメロディを除けば、一つのメロディを繰り返すことで曲が構成されている。

「星よりの使者」も「嵐の砂漠を二人で越えて たどりつけば地上絵に 船が降りてくる ここで添えない運命ならば 連れてって連れてって 星よりの使者」のメロディを6回ほど繰り返すことで曲が構成されている。

 

記事の執筆者は<そしてこれは証拠を示せないけれど、「日曜日よりの使者」の曲調は山本正之の曲に似ています。初めて「日曜日よりの使者」を聴いたとき、ザ・コーツ時代の「セッション」のように山本正之が楽曲提供したのかと思ったほどです>と述べているが、証拠や根拠を示すならばメロディ(歌メロ)の構成が挙げられるだろう。

J-POPは「Aメロ・Bメロ・サビ(・Cメロなど)」というメロディ構成が多い。つまり大体3つ(か4つ)ほどのメロディを組み合わせて構成されている。

それに対して、洋楽はJ-POP同様に3つ(か4つ)ほどのメロディの組み合わせで構成されている曲もあるし、「Aメロとサビだけ」という構成の曲も珍しくない。Aメロとサビだけで構成されている場合、その曲は2つのメロディの組み合わせで構成されていると言える。

だが、「星よりの使者」は、たった一つのメロディだけで構成されている。

「日曜日よりの使者」はAメロとサビだけで構成されている曲であり、たった一つのメロディだけで構成されている曲ではないが、実際に「日曜日よりの使者」を聴けば分かるように、「流れ星が たどり着いたのは 悲しみが沈む 西の空」のメロディが歌われている2か所を除けば一つのメロディの繰り返しとなっている。

山本正之の代表曲「燃えよドラゴンズ!」も一つのメロディの繰り返しで構成された曲であり、雰囲気が「山本正之の曲に似てい」ると感じられるのも自然なように思う。

 

この2曲の共通点は、曲調やメロディ構成だけではない。

メロディの終わりに「星よりの使者」や「日曜日よりの使者」という歌詞が来るという共通点は前述したが、「日曜日よりの使者」の歌詞を見ると、「連れてって」というフレーズや、動詞「たどりつく」、名詞「空」など、「星よりの使者」と共通する語句が含まれている。

歌詞全体を見ても、隔たりについて歌われているという共通点を見出すことが出来る。

「星よりの使者」の歌詞は「星から嵐の砂漠を越えてゆく」などといった空間的な隔たりを感じさせる。

「日曜日よりの使者」の歌詞は「日曜日以外の曜日にいる僕を日曜日へ連れてゆく」などといった時間的な隔たりを感じさせる。

 

因みに、「星よりの使者」は1990年12月発売のアルバム『才能の宝庫』に収録されており、一方の「日曜日よりの使者」は1995年10月発売のアルバム『THE HIGH-LOWS』に収録されているので、「星よりの使者」が先に発表されている。

 

「Will the Circle Be Unbroken?」のメロディと「日曜日よりの使者」のメロディが似ている理由についてだが、ザ・クロマニヨンズのインタビューで甲本は自身の作詞作曲スタイルを語っている。 

 

 

 

甲本 作曲とか作詞という経験がないといっていい。「ある」んですよ、詞と曲というか歌が。それは生活してると、ポンと思い浮かぶんですよ。作るぞ!と思うんじゃなくて、ハッと思いつくんです。それは、いつ思いつくかはわからないんで、締め切りがあったら大変なことになるんですけど、ハハハ。

ーー自ずと溢れるままに?


甲本 溢れもしない、あ、溢れる時もある。1番の歌い出しから3番の最後まで、3分間の曲が3分間でズルズルズルーッとでてきて、はいできた!という時もあるし。できたじゃないな、あった。そういうときは不安になるんですよ。もしかしたら、どこかで聞いた歌かもしれない。と思って一生懸命思い出すんですけど、ああこれ僕のオリジナルだって。それをスタジオに持って行く。だから、わかんないですね、どうやってできてるのか。だからそれを文字に起こしたときに、整合性のない、なんだこれ意味わかんない、というのはよく言われます。

ーーそれは本人にも理解できないんですか?


甲本 うん、僕は考えて作ってるわけじゃないから、適当なんです。

ーーでも作詞作曲のクレジットは入るわけで。


甲本 うん、僕はそれを味見をするんです。美味しいか美味しくないか。美味しい!と思ったら、それが意味が通っていようがいまいが、みんなに分けてあげようって思う。

 

 

 

つまり、甲本はコード進行からメロディを考えて作曲するのではなく、気づいたら詞と曲が頭に浮かんでくるというスタイルで作詞作曲をしている。

このスタイルだと、インタビュー中の台詞にもあるように自分が考案したメロディと他人が考案したメロディが混じってしまうことも起こりうる。

もちろんB'zのように洋楽から意図的に剽窃しているならば著作権などといった問題が生じるだろうが、「Will the Circle Be Unbroken?」は既に著作権が切れており、その点の問題はない。

 

最後に文法面の話を述べる。

現代の日本語において「星よりの使者」よりも「星からの使者」のほうが自然な表現に聞こえるのは、助詞「より」と助詞「の」の組み合わせが不自然とされるためである。

個人的には「星よりの使者」は「『星より』の使者」と捉えるべきなのかなと思っている。

手紙やメッセージ文で「(名詞)へ」や「(名詞)より」という表現が多用されるように、隔たりのある相手とのやり取りでは「(名詞)へ」や「(名詞)より」などといった表現が用いられやすい。

本曲は空間的な隔たりを感じさせる歌詞となっており、その影響で「『星より』の使者」というフレーズが誕生した可能性は否定できず、「(名詞)への」という言い回しがあるのなら「(名詞)よりの」という言い回しがあっても良いと山本正之が考えた可能性もあると筆者は考えている。

〇昭和生まれのコンテンツが持つポテンシャル

昭和の時代、巨人・大鵬・卵焼きという言い回しがあるほど、野球は多くの子供に親しまれていた。

だが、今の日本では二極化が進んでおり、野球を深く知っている子供と野球を殆ど知らない子供とに二極化している印象を受ける。

平成生まれの筆者も確かに「野球を殆ど知らない子供」だった。

筆者が野球のルールを一通り把握できるようになったのは22歳ごろで、それまでは「エースで四番」というフレーズを聴くたびに「1なのに4って変だな」と本気で感じていたし、野手や安全進塁権などといった初歩的な用語すら知らない(ピッチャーやキャッチャー等は流石に知っていたが、ショートやセンターと言われても、どのポジションなのか全く分からない)ほどだった。

筆者は子供のときドラえもんや、ちびまる子ちゃんなどの有名キャラが登場する学習漫画をよく読んでいた。

「ドラえもん」は昭和生まれのコンテンツであり、野球との親和性が高い。

「ドラえもん 野球」で調べると打順や守備ポジションが載った画像などが容易に見つかった。

 

現在、筆者は主人公「野比のび太」が野球を本格的に始めていくストーリーの漫画・アニメを考えている。

筆者は野球漫画をあまり読まないのだが、商業誌に載っている野球漫画の大半は「読者が野球のルールをそこそこ知っていること」を前提にしている印象がある。

「野球のルールを全く知らない人」でも、読んだり視聴したりするだけで、いちから野球のルールを学んでいける漫画・アニメは子供に野球の魅力を伝える効果があると言えないだろうか。

今後そういった漫画・アニメを公開するのか否かは未定だが、本記事では「野比のび太」らキャラの設定や個人的なイメージ、そして現時点での構想などを紹介する。

 

 

 

〇参考リンク

2014-6.pdf (fc2.com)

『ドラえもん』のおはなしをドラチャン探偵団が徹底調査!|ドラえもんチャンネル (dora-world.com)

ジャイアンズ誕生までの歴史/藤子Fのベースボール④|藤子Fノート (note.com)

 

 

 

〇打順の一例(ネットにあった画像からの引用)

1 左 ドラえもん
2 二 源(静香)
3 三 出木杉
4 投 剛田(ジャイアン)
5 中 骨川(スネ夫)
6 一 安雄(スリムなモブキャラ)
7 右 はる夫(太った子)
8 捕 ジャイ子
9 遊 のび太

 

 

 

〇個人的に想像したキャラの設定

・ジャイアンズ(ジャイアンとジャイ子が創設した野球チーム)

ジャイアン 三振おおめだが長打あり コントロール悪めだが剛速球 足は普通

ジャイ子  ジャイアンと以心伝心 太っておりキャッチングは得意 足は遅い 打撃は苦手

ドラえもん 小柄なためストライクゾーンが狭く打撃は少し得意 足は少し遅い

のび太 打撃が壊滅的 ゴロや飛球をとるのが苦手 ピッチングは球速こそ並みだがコントロールは凄く良い

出木杉 野球脳に優れる 足が凄く早い 打撃もピッチングも優秀だが毎試合に出たいため投手ではなく内野手を志望している

スネ夫 長打すくなく出塁率が高い 足は少し早い サインや相手選手の癖を盗むのが上手く盗塁が得意 守備は少し得意

源静香 長打すくなく出塁率が高い 足は少し早い サインや相手選手の癖を盗むのが上手く盗塁が得意 守備は凄く得意

安雄  打撃は普通 足は少し早い もともと野球経験あり 守備は普通だが守備範囲が少し広い
はる夫 打撃は普通 足は少し遅い もともと野球経験あり 守備は普通で守備範囲も人並み

 

マナブ(野田まさし) 教育ママの子供 強打者 野球にハマっているところがママに見つかり途中で退団

スネ夫のいとこ コントロールの良い投手だがエース投手のポジションを奪われたくないジャイアンが追い返してしまう

 

 

・その他

ドラミ 登場してもよさそうだし登場しなくてもよさそうなキャラ

のび太の担任 野球関連になると教え子に凄く優しくなる 球審などもこなす

 

 

 

 

 

〇設定

・のび太は試合で役立たず扱いされるもチームの雑用を積極的にこなし「なんだかんだ良い奴」と扱われるようになる。

 

・一塁コーチや三塁コーチは出木杉やスネ夫や安雄などが交代で担当。

 

・担任はドラえもんのことを「野比のび太くんの友達」と捉えており、「子供の草野球チームに猫型ロボットがいること」に違和感を持っていない。更にいえば作中において「草野球チームに猫型ロボットがいること」を異常と認識しているキャラは皆無である。

 

・のび太の担任は普段、宿題などに厳しいが、草野球チームの子供に対しては敢えて居残りを十数分ほどさせて、そこで宿題を終えさせておくことで、試合後に「宿題が終わってなくて大変」という状態になるのを防ぐなど、優しさを示す。

 

・担任は年金暮らしの老人数名と仲が良く、この老人数名は塁審や怪我人などによる一時的な代役を担ってくれたりもする。

 

・担任は従来のトーナメント戦で顕著な勝利至上主義(目先の勝利だけを優先し勉学を手抜きしたり才能ある投手がアマチュア時代に消耗されてしまったり等)に不快感を持っていたが、リーグ戦や球数制限などが行われているジャイアンズたちのリーグに好感を持つ。

 

・のび太はルールを覚えていき、打撃・守備・走塁などの練習を重ねるも打撃は依然として苦手なまま終盤を迎える。だが、そこそこの頻度で球をバットに当てられるようになり、バントの成功率は8割をこえるようになる。

 

・「なんで撃つのは得意(銃撃は得意)なのに打つのは苦手なの?」と問われた野比は「だって銃撃は標的を定めたあと引き金を引くだけだけど、バッティングはバットを動かすのと同時に、前へ向かってくる球とバットを合わせなきゃいけないじゃないか!難しすぎるよ」と答えている。

 

・飛球やゴロへの処理はまだ人並みとまではいかない野比だが、キャッチボールはそこそこ出来るようになり、送球を受けての刺殺などはスムーズにできるようになる。

 

・リーグ戦は7回制の場合も9回制の場合もある。

 

・のび太の母は「野球より勉強のほうが大事」と内心、思っているようだが、野比の父や、源静香・スネ夫・ジャイアンの親はジャイアンズに好意的で、しばしば練習や試合のサポートをしてくれる。

 

 

 

〇ストーリーの私案

偉大谷奨平(いだいたに・しょうへい)という日本人野球選手が世界的に注目され、のび太の担任も野球マニアとなり、少年野球に熱を入れ始める。

ジャイアンズという草野球チームに着目した担任は、ジャイアンズなどといった草野球チームに所属している児童を依怙贔屓し始め、のび太、ドラえもん、源静香、出木杉などが(本格的に)ジャイアンズに入団する。

(かつて「スネ夫のいとこ」を追いだしたジャイアンだったが、出木杉の入団は拒否せず歓迎した)

 

そのころジャイアンズは地元の草野球チームとのリーグ戦で散々な順位だった。

また、新参メンバーのうち、のび太とドラえもんは野球の基礎的な能力に問題があると分かる。

だが、出木杉(や担任ら)の指導により、のび太とドラえもんたちは野球のルールを学び、野球の技能なども成長していく。

当初、左翼を守っていたドラえもんは(のび太ほどではないが)イージーなゴロを後ろにそらすことが目立ち、一塁を守るようになる。

練習の成果もあり、ドラえもんは(相変わらずぎこちないものの)一塁手としては最低限の守備力を得ていく。

 

リーグ戦は平日の放課後に実施されることが多いが、土日や長期休みや雨天延期などで連戦となることもある。

そのため、出木杉などジャイアン以外のメンバーがマウンドに立つことも次第に増えていく。

キャッチボールはそこそこ出来るのに、いざマウンドに立つとキャッチャーミットに向けて投げられない野比に疑問を持った出木杉は、野比が高低差のある状況でのキャッチボールに慣れていないことに気づく。

まず、出木杉は野比をマウンドの「目の前」にある「平らな場所」に立たせ、二人でキャッチボールしたあと、少しずつ野比をマウンド側へ近づかせながらキャッチボールを続けていった。

しばらくして野比はマウンドからキャッチャーミットのほうへ投げる感覚をつかみ、球速こそ並みだが、制球力の高い投手となってゆく。

 

また、ジャイアンズで練習や試合を繰り返しているうちに、のび太には「もっと野球が上手くなってチームに貢献したい」という思いが芽生えるようになっていく。

そして「打撃が酷すぎる以上、投手(や遊撃手)など打てなくても許容されるポジションを極めよう」と覚悟を決め、ピッチングやフィールディングの練習に、もっともっと注力するようになる。

 

 

 

〇最初期のスタメン

投手 ジャイアン

捕手 ジャイ子

一塁 はる夫

二塁 静香

遊撃 安雄(出木杉の守備範囲が広くてセカンドベースカバー以外は意外と忙しくない)

三塁 出木杉(草野球レベルだと引っかけた打球が多く遊撃手より三塁手のほうが打球が来やすい)

左翼 ドラえもん(足が少し遅く球を後ろにそらすことが目立ち一塁へ)

中堅 スネ夫

右翼 のび太(足が並みなのに球を後ろにそらすことが目立ち遊撃へ)

 

 

〇中期以降のスタメン

投手 ジャイアン

捕手 ジャイ子

一塁 ドラえもん

二塁 静香

遊撃 のび太

三塁 出木杉

左翼 安雄(のび太の守備の穴を埋めるため普通に忙しい)

中堅 スネ夫(のび太の守備の穴を埋めるため普通に忙しい)

右翼 はる夫(ドラえもんの守備の穴を埋めるため少し忙しい)

 

 

〇打順パターン(数字は守備番号ではなく打順)

投手 ジャイアン 4 

捕手 ジャイ子 8

一塁 ドラえもん 5

二塁 静香 2

遊撃 のび太 9

三塁 出木杉 3

左翼 安雄 6

中堅 スネ夫 1

右翼 はる夫 7

 

 

〇中期以降の勝ちパターン(ジャイアン降板後に出木杉がクローザーとして登板など)

投手 出木杉

捕手 ジャイ子

一塁 ドラえもん

二塁 静香

遊撃 のび太

三塁 安雄

左翼 はる夫

中堅 スネ夫

右翼 ジャイアン

 

 

〇中期以降の負けパターン(ジャイアン降板後に野比が敗戦処理として登板など)

投手 のび太

捕手 ジャイ子

一塁 ドラえもん

二塁 静香

遊撃 出木杉

三塁 はる夫

左翼 安雄

中堅 スネ夫

右翼 ジャイアン

 

 

 

〇注意

『ドラえもん』というコンテンツの著作権等は藤子・F・不二雄プロにある。

また、上記の構想案やストーリー案は筆者の個人的な空想に過ぎず、その点について本記事の読者の方はご留意ください。

 

〇動画

It Could Have Been You - Journey
 

 

〇和訳

[Verse 1]
We were so close yet so far away
I'd reach out, you'd be gone
Moments that still take my breath away
There's so much more to life than loving you
You don't need me, no
私たちはとても近くにいたのに、とても遠くにいた

私なら手を伸ばすだろう、君ならいないだろう
今もなお息をのむ瞬間が複数ある
君を愛することよりも人生にはもっと沢山のことがある
君は私を必要としていない



[Chorus]
I can't wait all my life, on a street of broken dreams
It could have been you my love (where are you now)
Oh I...still wonder if you remember the night
It could have been you

壊された夢の街路で、一生、待つことなんて私には出来ない

これは愛しき君だったのかもしれない(今どこに君はいるの)

君はあの夜のことを覚えているのだろうかと今なお思っている

これは君だったのかもしれない



[Verse 2]
Time washes over, memories
I can't look back no more
Change has forsaken, our promises
There's someone else for you to hold again
So please stop your crying

時が記憶を洗い流していく

私はもう振り返れない

変化は私たちの約束を見捨てた

君が以前と同じように抱きしめるべき人は他にいる

だから泣くのをやめてくれないか


[Chorus]


[Outro]
Remember, remember, girl I remember
I...can't wait all my life, on a street of broken dreams
It could have been you my love (where are you now)

覚えている、覚えている、少女よ、私は覚えている

壊された夢の街路で、一生、待つことなんて私には出来ない

これは愛しき君だったのかもしれない(今どこに君はいるの)


Oh I...still wonder if you remember the night
It could have been you (where are you now)
Should have been you my love (where are you now)
It could have been you my love, (where are you now)
Remember...remember...remember

君はあの夜のことを覚えているのだろうかと今なお思っている

これは君だったのかもしれない(今どこに君はいるの)

これは愛しき君であるべきだった(今どこに君はいるの)

これは愛しき君だったのかもしれない(今どこに君はいるの)

覚えている、覚えている、覚えている

 

 

 

 

 

 

 

 

〇原詞

[Verse 1]
We were so close yet so far away
I'd reach out, you'd be gone
Moments that still take my breath away
There's so much more to life than loving you
You don't need me, no

[Chorus]
I can't wait all my life, on a street of broken dreams
It could have been you my love (where are you now)
Oh I...still wonder if you remember the night
It could have been you

[Verse 2]
Time washes over, memories
I can't look back no more
Change has forsaken, our promises
There's someone else for you to hold again
So please stop your crying

[Chorus]

[Outro]
Remember, remember, girl I remember
I...can't wait all my life, on a street of broken dreams
It could have been you my love (where are you now)
Oh I...still wonder if you remember the night
It could have been you (where are you now)
Should have been you my love (where are you now)
It could have been you my love, (where are you now)
Remember...remember...remember

2014年ごろゴー宣ネット道場と適菜収の間で行き違いのようなものが起こっていた。

そのときのリンクは今も残っているのかなと気になり、グーグル検索してみたところリンクが複数ヒットした。

 

2014.02.15 脱原発に対案がないという思考停止 (yoshinori-kobayashi.com) ※ゴー宣ネット道場でも同じ内容の文章が掲載

2014.02.15 小林よしのりさんって、こんな人だったっけ?

2014.02.20 駄々っ子哲学坊や、適菜収こそ完全B層!! | ゴー宣DOJO

2014.02.21 適菜収がニセモノ哲学者である理由 | ゴー宣DOJO

2014.02.21 中学受験不合格レベルのエセ哲学者・適菜収! | ゴー宣DOJO

 

検索結果の詳細は本記事の末尾に「適菜収とゴー宣ネット道場に関するリンク集」としてまとめた。

 

この5つのリンクを読んで分かったことがある。

小林よしのりやトッキー(時浦兼)は「たしかに脱原発を唱えたときに、対案を示さないのは無責任以外のなにものでもない」を「たしかに原発反対派が脱原発を唱えているときに対案を示していないのは無責任以外のなにものでもない」と読んでしまっているのだ。

 

これは当時、産経新聞が原発に肯定的だったことが影響している。

2014年2月15日に小林が「脱原発に対案がないという思考停止」という記事を投稿したのは、適菜収が産経新聞に<すぐに「対案を示せ」と言う人がいる。「解決策を示さないのは無責任」というわけだ。たしかに脱原発を唱えたときに、対案を示さないのは無責任以外のなにものでもない。しかし、対案や解決策を示すことが無責任になるケースもある。>から始まる記事を寄稿したことに由来する。

 

小林やトッキーは「産経新聞は原発に肯定的であり、それに寄稿している適菜収も原発に肯定的なのだろう」という先入観を持っていたのではないだろうか。

だが、この先入観は誤っており、適菜は2012年の段階で「私は原発推進派でも反対派でもありません」と述べている。

つまり「たしかに脱原発を唱えたときに、対案を示さないのは無責任以外のなにものでもない」は「たしかに或る人が脱原発を唱えたときに、その人が対案を示さないのは無責任以外のなにものでもない」という意味であり、「たしかに原発反対派が脱原発を唱えているときに対案を示していないのは無責任以外のなにものでもない」という意味ではない。

 

なお、トッキーは適菜本人から誤解を指摘された後「駄々っ子哲学坊や、適菜収こそ完全B層!!」や「適菜収がニセモノ哲学者である理由」や「中学受験不合格レベルのエセ哲学者・適菜収!」という記事を投稿した。

 

駄々っ子哲学坊や、適菜収こそ完全B層!!」によると、「自分が書いてないことについて捏造したり誤読したりするのは辞めていただきたい」という至極当然のことを訴えている適菜は駄々っ子哲学者であるらしい。

 

適菜収がニセモノ哲学者である理由」には<適菜は、自分の立場について「脱原発派でも原発推進派でもありません」といっており、安倍晋三も山本太郎も批判しているそうです。つまり、自分の立場を一切明らかにしてもいないくせに、勝手に自分を高みに登らせて、全ての人を批判して、悦に入っているだけなのです。要するに、「何も言っていないオレ様が一番エライ!」と主張してるのです。一番卑怯な態度です。ゴー宣的には、こういうのを「高見猿」と呼んでいます。>という文章もあった。

だが、この文章は事実と異なっている。

 

例えば、適菜は選挙制度に関して「中選挙区に戻すべき」と公言し、労働制度に関して「労働者派遣法の規制は強化すべき」と公言している。適菜は古典などに肯定的な立場をとる一方で、首相公選制や道州制などに否定的な立場をとっている。

 

『日本をダメにしたB層の研究』に「原発もTPPもプラスの側面とマイナスの側面を持つ。また、議論の大半は専門的知識が要求される領域です。私のような原発問題やTPP問題の素人に質問しても意味はありません」とあるように、適菜は「原発は専門性の高い事柄」と考えている。

つまり適菜は「専門性の高い事柄の是非を軽々しく語るのは良くない」と考えているから「私は原発推進派でも反対派でもない」と述べているのであって、「勝手に自分を高みに登らせて、全ての人を批判して、悦に入っている」のではない。

 

ちなみに<一番卑怯な態度です。ゴー宣的には、こういうのを「高見猿」と呼んでいます。>という箇所は、小林らの或る思想に基づいている。

小林らは「戦後民主主義は価値相対主義であり、『いろんな意見があっていいよね』という考えは自己欺瞞である」という思想を有しており、「自身らが重要だと考えたトピックに対して賛否を表明しない人」を嫌悪する傾向にある。

脱原発派でも原発推進派でもない適菜とは違って、小林らは<いまだに原発を続けたいと言う者たちには、「破防法」を適用して、集会・結社の自由を奪うべきである>と述べているほど急進的な脱原発派だった。

 

この世界には「人それぞれ」で済ましてよい事柄もあれば、「人それぞれ」で済ましてはならない事柄もある。

ただし、一般論として、人は或る事柄について詳しく知っているほど、その事柄について正確に判断できる。

或るトピックに詳しくない者が「自分はそのトピックについて詳しくないので、それに対する判断は保留する」という態度をとるのは卑怯であるどころか、視野狭窄に陥ったり的外れな意見を持ったりするのを防ぐうえで非常に重要なことである。

 

自然科学に詳しくないと、疑似科学に染まるリスクが高まる。

歴史学に詳しくないと、史実に基づかない陰謀論を真に受けるリスクが高まる。

自分が詳しくない事柄に対して判断したり賛否を表明したりするのは「誤りを犯すリスク」が高く、基本的にはしないほうが良いのだ。

 

 

中学受験不合格レベルのエセ哲学者・適菜収!」に国語の問題文が載っている。この問題を作成したのはゴー宣ネット道場の読者(hiroponn)である。

 

 

これ、テストに出すとしたら
こんな感じでしょうか?
 
「脱原発を唱えたときに、
対案を示さないのは無責任以外のなにものでもない。
しかし、対案や解決策を示すことが無責任になるケースもある。
その代表が哲学だ。」
 
この文章から読み取れる筆者の考えは下記のうちどちらか。
 
A:脱原発を唱えることは、
対案や解決策を示さないので
無責任になるケースのひとつである
 
B:脱原発を唱えて対案を示す人もいるし、
対案を示さない無責任な人もいる
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
これを「B」と答えるようじゃ、
中学受験も通らないでしょうね。
 
中学受験レベルの国語力もない
自称哲学者、それが適菜収!!

 

 

しかし、これは選択肢問題として成り立っていないように思う。

この問題文は選択肢が2つしかないが、Aは「筆者(適菜)はそんなこと全く述べていないという選択肢」だし、Bも「筆者(適菜)は実際にはそう考えているが、出題者(hiroponn)が抜粋した箇所だけから直接的に読み取ることは出来ないという選択肢」である。つまり、AもBも正解選択肢として相応しくないという状況になっている。

 

正確には以下のようにすべきだろう。

 

「脱原発を唱えたときに、
対案を示さないのは無責任以外のなにものでもない。
しかし、対案や解決策を示すことが無責任になるケースもある。
その代表が哲学だ。」
 
この文章から読み取れる筆者の考えは下記のうちどちらか。
 
A:脱原発を唱えることは、
対案や解決策を示さないので
無責任になるケースのひとつである
 
B:対案を示さずに脱原発を唱えるのは無責任だが、

哲学などのように対案や解決策を示すことが

無責任になるケースも存在する

 

 

なお、「適菜収とゴー宣ネット道場に関するリンク集」を読めば分かるように、ゴー宣ネット道場の執筆者は、どのようなときも適菜に否定的という訳ではない。

寧ろ記事によっては適菜に賛同しているものも見られる。

それだけに、2014年ごろゴー宣ネット道場と適菜の間で発生していた誤解は凄く残念なことだったように思う。

 

 

 

 

 

※適菜収とゴー宣ネット道場に関するリンク集

2012.06.12 石原都知事にハシゴ外された「B層」ネトウヨ | ゴー宣DOJO

2013.11.15 バカを嗤うドバカ、自称哲学者の適菜収こそB層だ! | ゴー宣DOJO

2014.02.15 脱原発に対案がないという思考停止 (yoshinori-kobayashi.com) 

2014.02.15 小林よしのりさんって、こんな人だったっけ?

2014.02.20 駄々っ子哲学坊や、適菜収こそ完全B層!! | ゴー宣DOJO

2014.02.21 適菜収がニセモノ哲学者である理由 | ゴー宣DOJO

2014.02.21 中学受験不合格レベルのエセ哲学者・適菜収! | ゴー宣DOJO

2014.03.28 籾井を批判した適菜氏は正しい | ゴー宣DOJO

2015.05.20 東京では大阪都構想の分析をメディアが伝えなかった | ゴー宣DOJO

2015.06.26 安倍首相は国のためには死ねない | ゴー宣DOJO

2016.03.01 新潮45の適菜収の主張に同感する | ゴー宣DOJO

2017.06.30 ゆきりん・もくれん淑女我報#19 「適菜収『安倍入門』を読む」 配信! | ゴー宣DOJO

2017.06.30 第19回 適菜収『安倍入門』を読む | ゴー宣DOJO

2017.08.21 だ、大東亜共栄圏の再来? | ゴー宣DOJO

2018.01.22 「安倍向け安倍」になびかない | ゴー宣DOJO

2018.01.23 「新潮45」特集を読んでみました | ゴー宣DOJO

2018.09.26 新潮45、休刊の虚しさ | ゴー宣DOJO

2021.03.26 よしりん・もくれんのオドレら正気か?#57 「煽りマスコミとの苛烈な戦い!」 保存版動画配信! | ゴー宣DOJO

 

 

 

 

 

中高のころゴー宣ネット道場というブログをときたま眺めていた時期があった。

筆者は小学生ぐらいから社会や政治経済や漫画などに関心を持っており、そのブログは無料で読めたこともあって、気が向いたときにアクセスしていたものだった。

ゴー宣ネット道場は、小林よしのり、高森明勅、笹幸恵、泉美木蘭、トッキーなどによる記事が載っていた。

それらを読んで、頷ける意見だなと感じることもあったし、そう感じないこともあった。

 

2016年の秋、倉持麟太郎という人物がゴー宣ネット道場で記事を投稿するようになった。

倉持氏がどんな記事を書いていたのかは、今となっては僅かしか思い出せない。

しばらくして倉持氏と山尾志桜里氏の不倫関係を疑う報道が見られるようになったが、2017年前後のゴー宣ネット道場では山尾志桜里氏や倉持氏に肯定的な内容の記事が多数アップされていた記憶がある。

 

そのころ筆者はジャーニー(Journey)の楽曲を幾らかYouTubeで聴いていた。

最初に知ったジャーニーの曲は「Don't Stop Believin'」で、2015年前後にNAVERまとめで産業ロックに関連した記事を見かけたことがきっかけだった。

YouTubeには「あなたへのおすすめ」欄があって、筆者は主に、この欄を経由して一曲ずつジャーニーの曲を知っていった。

それらの中には「The Party's Over (Hopelessly In Love) 」という曲もあった。

 

「The Party's Over (Hopelessly In Love) 」の歌詞の和訳

 

この曲は一人の男の失恋を歌った内容となっており、The Party's OverすなわちThe party is overは「パーティー(のように楽しい時間)が終わった」という意味である。

ただし、中高の英語の授業等でも習うように、名詞partyには「宴やお楽しみ会などといったパーティー」という意味のほかに「政党」という意味もある。

丁度そのころ、山尾志桜里氏がいた民進党は解体・解散・解消の雰囲気が漂っていた。

当時は、倉持氏や山尾志桜里氏に関する情報を見聞きするたびに、「The Party's Over」という曲のメロディが筆者の頭に浮かんできたものだった。

 

2017年の秋、民進党が事実上、解党し、立憲民主党が誕生した。

このとき民進党というParty(政党)は終わりを迎えたのだった。

民進党が正式に消滅した2018年、山尾志桜里氏と山尾恭生氏の間で離婚が成立した。

筆者は山尾元夫妻や倉持元夫妻などについて詳しく知っていた訳ではないし今もそうなので断定は出来ないが、山尾恭生氏が山尾志桜里氏(菅野志桜里氏)と出会ったころ彼は「パーティーのように楽しい時間」を過ごしていたと思われる。

 

筆者がゴー宣ネット道場を殆ど読まなくなってから7年ほど経つ。

ゴー宣ネット道場がゴー宣DOJOと改名されていたことも、この記事を書いているときに知った。

だが、2014年ごろゴー宣ネット道場と適菜収氏の間で行き違いのようなものが発生していた件などは、今でも印象に残っている。

 

なお「The Party's Over」について調べていくと、この曲の邦題が「ブルースカイ・パーティー」であるらしいことが分かった。

「ジャーニーはカリフォルニア州で結成された。カリフォルニア州といえば青空。だからブルースカイ」という発想で「ブルースカイ・パーティー」となってしまったのだろうが、この曲の歌詞において青空といえるような要素は皆無である。

英語圏の方が「この曲は日本では"Blue Sky Party"というタイトルで発売されていた」と知ったら驚愕するのではないだろうか。

 

音楽を制作するにあたっては、ドラムソロの曲や一部のラップ音楽などを除いてメロディを考案する必要がある。

筆者の場合、自作曲のメロディは、日常生活を送っているときに浮かんできたパターンと、指板や鍵盤などに触れているときに浮かんできたパターンとがある。

 

色と平和」の場合、最初は「作詞作曲しよう」とすら思っていなかった。

Aメロの1番にあたる箇所の文章を書いていたら、2番の文章が頭に浮かび、1番と2番の文章を眺めていたらメロディが浮かんできた。

そのメロディを自宅で歌っていたらサビにあたるメロディとかも浮かんできて、サビの歌詞を考案するに至った。

そして「伴奏を考えよう」と思い、指板に触れていると伴奏のメロディや、リフと間奏のメロディも浮かんできて、気づくと曲が完成していた。

ただ、自分の場合、歌詞から曲ができていくことは余り多くない。

どちらかと言えばメロディから曲ができていくことが多い。

 

日常生活を送っているときにメロディが頭に浮かんでくるパターンは10代の頃と今とでスタイルが殆ど変わっていない。この記事を書いている今日も、あさ歩いているとき一つの自作メロディが浮かんできたが、「日常生活を送っていたら今まで聴いたことのないメロディが頭の中で流れてきた」というのは10代の頃と同様である。

だが、指板や鍵盤などに触れているときに浮かんでくるパターンは、今と数年前とで変わっている点がある。

(「カリンバ ソロ」はカリンバに触れているときにメロディが浮かんできたのだが、カリンバは指板とも鍵盤とも言えないだろうので、この記事では話題から除外する。)

数年前までは指板経由でメロディを考えることが多かったのに最近は鍵盤経由でメロディを考えることが増えているという変化がある。

 

筆者は中高のときYouTubeで音楽を聴くという習慣ができた。

その音楽は「ボーカル・ギター・ベース・ドラム(・鍵盤系の楽器)」という楽器編成のものが殆どだった。

最初はドラムに関心が湧いたが、次第に(エレキ)ベースに関心が移った。

ポップ音楽やロック音楽は派手だったり大衆的だったりする印象があったため、安物のイヤホンでは聞き取りづらいことも多い楽器がしばしば用いられていると知って意外に思った。

大学に入って、ネットでエレキベースの指板を調べると、4弦の場合、開放弦の音は一般的に太いほうからEADGであると知った。

筆者はこれを「Eat dog(犬の肉を食べる)」で暗記した。AからGまでのアルファベットだけを拾えば「EAt DoG」となり、「EADG」が浮かび上がる。

なおドがCであり、レがDであるなどといった初歩的な知識を知ったのは大学に入ってからで、それまではパワーコードがどういった和音なのかすら知らなかった。

指板やフレットなどといった用語の知識すら乏しかったほどだった。

 

筆者はマイケル・ジャクソンの曲をたくさん知っている訳ではないが、ビリー・ジーンやスリラーは流石に知っており、20歳前後の頃この2曲のベースラインを自宅でなぞったことがある。

そして「2曲とも、ベースの主な旋律が、長方形の角のように配置された4つの音から構成されている」と気づいた。

 

Bass Solo 1 ベース ソロ 1 【オリジナル曲】

 

Bass Solo 2 ベース ソロ 2 【オリジナル曲】

 

Bass Solo 3 ベース ソロ 3 【オリジナル曲】

 

Bass Solo 4 ベース ソロ 4 【オリジナル曲】

 

筆者はベースソロのインスト曲を幾らか書いているが、1~3は指板経由でメロディを考案していった。

 

1は、指板に触れているときに「或る弦の0と3と5」を鳴らすと自然な旋律になることがあるという発想をディープ・パープルのSmoke on the WaterやクイーンのAnother One Bites the Dustのリフなどから得ていて、この発想をもとに考案していった。

2は、ビリー・ジーンやスリラーのベースラインをなぞって気づいたことをもとに「らんらら、らんらららー」あたりの部分を考えていった。冒頭のほうのメロディは半音でもメロディを作ってみたいなと思って出来た記憶がある。

3は、たった4つの音でインスト曲を作ろうという発想に基づいて出来た。E2A0E2(E2は「E弦の第2フレットの音」という意味)のあとにA2A0E2E0と音を低くしていくと良さげなリフ(のようなメロディ)が出来たので、E0以外の音から始まる別のメロディを考案しようと思った。

そしてE2A0を繰り返したあとE0A2を繰り返す動きを考案し、同じ音から別の組み合わせを考えE2A0A0E2A0A0E2A0のあとE0E0A2E0E0A2E0A2と鳴らしていく動きを考案していった。

当初は「E2A0E2A2A0E2E0→前者のメロディ→E2A0E2A2A0E2E0→後者のメロディ→E2A0E2A2A0E2E0」で並べようと思っていたのだが、前者のメロディはかなりシンプルなものだったこともあり、最初のリフ(実質的なイントロ)の直後にくるメロディは後者のメロディにした。

ただ「E2A0E2A2A0E2E0→前者のメロディ→E2A0E2A2A0E2E0→後者のメロディ→E2A0E2A2A0E2E0」のままでも良かった気はする。

 

1~3の作曲時期は2020~2022年ころであり、これらの時期から少し後に書いた4は鍵盤経由でメロディを考案していった。

鍵盤経由での作曲は指板と違って異弦同音がなくコードの音も考えやすいというメリットがある。

その一方で、指板での作曲にもメリットはある。

たとえばドレミファソラシドを演奏したあと、半音上げで演奏する状況を考える。

ギターやベースの場合、A3からD10までの動きをフレット一つ分だけずらすだけで容易に演奏できるが、鍵盤の場合は「白い鍵を左から右へ順に鳴らすだけの動き」が「白い鍵と黒い鍵の混じった鍵を左から右へ鳴らしていく動き」となり、少なくとも初心者にとっては難しい。

 

キンクスがYou Really Got Meを鍵盤経由で書いたのか、それとも指板経由で書いたのかは寡聞にして知らないが、この曲はFGGFGがGAAGAとなり、そしてCDDCDとなっていく。

つまり「或る音を1回ならしたあと、その音より半音2つ分高い音を2回ならし、最初にならした音を1回ならして半音2つ分高い音を1回ならす」という行為の反復によって曲が構成されている。

ギターやベースでYou Really Got Meを演奏する場合は、この行為をFから始めたあと、フレット二つ分ずらして同じ手の動きをして、最後に隣の弦で同じ手の動きをすればよく、鍵盤と指板だったら後者のほうがYou Really Got Meという曲の構成を直感的に掴みやすいと個人的には感じている。

 

最後に、指板由来と鍵盤由来の両方で曲が完成したケースを紹介する。

たとえば2019年頃に作詞作曲した「Nevada Song」は、2019年の冬頃に一つのベースラインを指板由来で考案したことに由来する。

Aメロとサビのメロディは歌詞を書いているときに頭に浮かんできた。

その後、伴奏のメロディと間奏のメロディを鍵盤由来で考案し、アウトロの韻文を考案して曲が完成した。

 

この「Nevada Song」は筆者が人生で初めて作詞作曲した曲だが、厳密には中高のときに「らっらら、ららららー、ららら、はんとうはー」という歌をほぼ即興で考案してみたことがある。

だが、これは単に歌メロを考えてみただけという域を出ていないし、歌詞も今となっては「らっらら、ららららー、ららら、はんとうはー」などと断片的にしか覚えていない。

だから「らっらら、ららららー、ららら、はんとうはー」という歌は作詞作曲という段階には達していなかったと思われる。

筆者が人生で初めて作詞作曲した曲は、やはり「Nevada Song」で間違いないのだろう。

そのときの記憶が不鮮明なので何とも言えないが、現在そのように筆者は考えている。

 

 

 

 

 

 

小学校と中学校の間の春休み、筆者は家族に連れられてエジプトに行った。

その道中の飛行機は席ごとに液晶パネルがあって、パネルを操作すると映画や音楽を鑑賞することができた。

まず筆者は映画の欄をタッチし、黒澤明による『羅生門』のサムネイルを見て「黒澤明という人物が『羅生門』を制作し、世界的に評価されたらしい」という話を思いだした。

「有名作品だし、映画に詳しくない自分ですら名前を知っているほどの映画だから、白黒だけど視聴してみよう」と考え、筆者はクリック(もしかしたらクリックではなくタップだったかも)した。

筆者は「主人公の男が老婆と会話し、老婆の言動に影響されて老婆から衣服を剥ぎ取る」といったストーリーの映画なんだろうなと予測していた。

だが、映画を観て何分たっても、そのようなストーリーは出てこない。

早送り機能のような操作をして飛ばし飛ばし視聴しても、主人公の男が老婆と会話したり主人公が老婆から衣服を剥ぎ取るといった展開は現れなかった。

本映画はタイトルや設定こそ『羅生門』に由来するが、ストーリーは主に『藪の中』に由来する。

当時の筆者はそのことを全く知らなかった(そもそも『藪の中』という芥川龍之介作品すら知らなかった)ため「よく分かんない映画だな」と困惑した記憶がある。

 

その後、筆者は映画の欄から音楽の欄へ移り、音楽を聴くことにした。

筆者は「外国の曲なんて分からないから日本の項目をクリックしよう」と思い、日本の項目を見た。

その項目を見ても自分が知っているアーティストは殆どなかった。

ただ「福山雅治」という人名だけは知っていたので、その人名をクリックし、一曲きいてみた。

その曲は確かサビあたりに「らららー、ららら、らっらっらー」というメロディがある歌で「ふーん」と感じた。

メロディはサビあたりの箇所しか記憶に残っておらず、歌詞に至っては全く覚えていないほど自分の耳には響かない歌だった。

その曲を聴いたあと、筆者は「到着まで時間がまだあるし、別の曲も聴こう」と感じ、音楽の欄にあった他の曲を聴いていった。

そして一つの衝撃的な曲に辿り着いた。

男性ボーカルの曲で、歌詞は外国語だった。

だから何を歌っている曲なのかは分からなかった。

心に響いたのはメロディだった。

当時の筆者は音楽の知識が非常に乏しくAメロやサビ(英語圏でいうchorus)などといった語彙を知らなかったが、いわゆるAメロの部分があっという間に通り過ぎていく曲だと当時の筆者は感じた。

その部分のメロディが通りすぎると、今後は「はろーはろーはろーはろーはうろお」という呪文みたいなメロディが流れてきた。

それが終わると、叫びのようなメロディが筆者の鼓膜を襲ってきた。

なんて曲なんだと思った。

気づくと、筆者は何度も何度も、その曲をリピートしていた。

飛行機を降りた後も、ときたま頭の中で、その曲のメロディが流れてくるぐらいには筆者の印象に強く残っていった。

 

中学校に入ると、週一で美術の授業があった。

授業中、筆者は先生の話を聴きつつ美術の教科書を流し読みしていた。

或るページを開いていたとき、一つの絵が筆者の興味を惹いた。

段ボールの切り抜きでヘルメットなどが表現されている絵で、学習漫画や『はだしのゲン』やセル画や「青い鳥文庫」の挿絵などといったイラストの絵柄からはかけ離れている画風の絵だった。

底抜けに明るい絵ではないが、露骨に暗い絵でもなく、非常に興味深く感じられた。

筆者は美術の授業のたびに、この絵を凝視していたが、凝視しているとき何故か飛行機で知ったあの曲のメロディが頭の中で流れてきたものだった。

曲名も分からないのにメロディが頭から離れない外国の曲と、見慣れぬタッチで描かれた外国のイラストは、本来は無関係なはずなのに筆者にとってはセットのようなものとなっていた。

絵の制作者と絵のタイトルを見ると「ジャン・ミシェル・フォロン 世界人権宣言」とあり、筆者は「正直、覚えにくい人名だな」と感じた。

筆者は家に帰って、その人名を検索したが、Wikipedia日本語版に彼の項目はなく、彼に関する日本語での情報は僅かしか見当たらなかった。

中高のとき「ジャン・ミシェル・フォロン 世界人権宣言」や「ジャン゠ミッシェル・フォロン 世界人権宣言」などの語句をネット検索したことがあったが、美術の教科書に載っていた例の絵は検索結果に現れなかった記憶がある。

そのころヤフーでネット検索すると、かなりの頻度で上位に表示される「まとめサイト」があった。

それは「NAVERまとめ」であり、情報量の乏しさからネット民から嫌われることも少なくなかったサイトだった。

NAVERまとめは何年も前にサイト自体がサービス終了しており、今となっては魚拓サイトに一部の記事の痕跡が残っている程度だが、そのサイトは有名曲のYouTube動画の埋め込みリンクをまとめた記事などもあり、筆者がヴァン・ヘイレンやABBAやAC/DCなどを知るきっかけの一つとなった。

 

中高あたりになると音楽の知識も少し増えていたため、リフという用語も知るようになっていた。

ある時、自宅近くの店で、あの曲のメロディがBGMとして流れていた。

もしスマホを持っていれば、その場で音楽検索アプリを使って曲名を特定することもできただろうが、当時の筆者はスマホを所有していなかった。

帰宅後、あの曲を探そうと「ロックでリフが印象的な曲」などといったタイトルの記事を幾つかNAVERまとめで探していき、埋め込みされたYouTube動画を一つずつ再生していった。

そして、遂にNirvanaの「Smells Like Teen Spirit」という動画に辿りついた。

「まさか曲名を知る日が来るとは……」と感慨深くなったが、12歳の頃と違って筆者は英語の知識が飛躍的に増えていたので、さっそく歌詞を調べることにした。

サビのほうに「えびちゃいなーす」という箇所があると12歳の頃から思っていたのだが、ここの箇所の歌詞はなんと「entertain us」であった。単語や文法が中学英語レベルのフレーズであっても聞き取りが容易であるとは限らないのだなと実感した。

Nirvanaはフォロンと違ってネットにおける日本語での情報が豊富にあり、このバンドに関する知識を増やすことは難しくなかった。

時は流れ、2024年8月、筆者は横浜へ行こうと私鉄に乗った。

列車内に入り、座ったが、列車が動き出す時刻まで数分ほどあった。

ふと、開かれたままの列車のドアから駅のホームのほうを眺めていると、或るギャラリーのポスターが掲示されていた。

そのポスターには「空想旅行案内人 ジャン゠ミッシェル・フォロン」という文字があった。

気づくと筆者は手元にあるスマホでフォロン展のことを調べていた。

数日後、筆者はJRで東京駅へ行き、東京ステーションギャラリーへ入っていった。

フォロン展に足を運び、フォロンは幅広いジャンルの作品を制作していると分かった。

白黒のペン画や、水彩画、そしてコラージュ作品、更にはブロンズ像やアニメ作品までもが展示されていた。

彼が矢印や疑問符を作品のモチーフとして多用していたということはフォロン展に行くまで知らなかったため、彼の人生について学ぶことが出来たうえに彼の作品の大まかな雰囲気を掴むことも出来た。

政治色の強いイラストや、海外の有名雑誌の表紙イラストも展示されており、彼は作品の幅が広い芸術家だったのだなと感じた。

彼がスティーブ・ジョブズ等の大物にも注目されていたクリエーターだったと知ったときは「なんで、こんな偉大な芸術家が日本では余り知られていないのだろう」と言いたくなった。

リトル・ハット・マンなどからは和田誠作品のようなシンプルさも伝わってきた。

なお、フォロン展における作品解説の文章や、「FOLON:AGENCE DE VOYAGE IMAGINAIRE」という本人の名刺を読み、「ジャン・ミシェル・フォロンやジャン゠ミッシェル・フォロンを簡潔に言い表したいときはフォロンと表現すればよいのだな」と気づいた。

 

フォロン展を歩いているうちに、筆者は例の絵が置かれた壁と出会った。

館内は撮影が禁止されていたため、その壁を撮影した写真が載っているサイトを紹介する。

 

【レビュー】空想旅行案内人フォロンと既成概念を吹き飛ばそう! 現代を生きる私たちに響く普遍的なテーマも 東京ステーションギャラリーで9月23日まで – 美術展ナビ (artexhibition.jp)

 

余談だが、このサイトは2024年9月に筆者が「フォロン 世界人権宣言」や「ジャン゠ミッシェル・フォロン 世界人権宣言」とグーグル検索して辿り着いたものである。

例の絵が検索画面の上位に現れるようになったのは、いま開かれているフォロン展の影響であろう。

彼の素晴らしい作品群を瞠目できたことを筆者は嬉しく思っている。