筆者は18歳になってから選挙があるたびに毎回、投票しているが、選挙日に投票することはあまりなく、大抵は期日前投票をしている。

期日前投票をするときに強く感じるのが「身分証とかが無くても投票できるのだな」ということだ。

自治体にもよるのかもしれないが、今の日本の選挙では郵送された投票所入場券を持って行かなくても、名前や住所などを手書きすれば投票できる仕組みになっている。

事実、筆者が期日前投票するときに身分証の提示を求められたことは現時点で一度もない。

「なりすましのリスクとかヤバくないか」という不安を感じるが、その一方で「今の日本は、そのことが大きな問題にならない国なのだろうな」とも感じられてくる。

手ぶらでも投票できる日本の選挙制度の背景には、治安の良さと投票率の低さがあるのだろう。

海外では選挙の際に軍隊が出動する国も存在するが、日本は治安が凄く悪い国であるという訳ではない。

また、近頃の日本は、選挙の投票率が悲しい数字となっている。

国政選挙で5割前後。地方自治体の選挙では4割前後ということも多い。

つまり日本では有権者の約半数が投票する権利を自ら捨てているのだ。

選挙を管理し運営している組織の関係者に「多少なりすましのリスクがあったとしても、気軽に投票できるようにすることで、投票しに行く人を何とか増やしたい」という思いを抱いている人がいたとしても、個人的には驚かない。

たった今、投票でのなりすまし事案についてニュースサイトで検索してみると、2023年4月の大阪府の選挙で他人になりすまして投票しようとした2名の男が逮捕されたという記事が見つかったが、数か月前の選挙で筆者が期日前投票したときも手ぶらで投票できたので、「手ぶらでも投票できる」という選挙制度は今後も続くのだろう。

 

最後になるが、選挙の結果が国や地方自治体の政治に影響を及ぼす事例は枚挙にいとまがない。良き政治のためにも選挙の時期は積極的に投票しに行くことが大事だと筆者は強く考える。

 

 

 

 

 

動詞は状態動詞と非状態動詞に大別される。

状態動詞は「主に状態を表す動詞」と説明され、動作動詞とも呼ばれる非状態動詞は「主に動作を表す動詞」と説明される。

例えば、英語だと、knowやbelongなどが状態動詞であり、runやeatなどが非状態動詞である。

動詞knowは「知っている」という状態を表し、動詞belongも「所属している」という状態を表している。

一方で、動詞runは「走る」という動作を表し、動詞eatも「食べる」という動作を表している。

英語にはliveという動詞がある。

この動詞は「生きている」や「住んでいる」と和訳され、一般に状態動詞とされる。

 

日本語にも「ある」や「いる」や「値する」などといった状態動詞がある。

では、「生きる」は状態動詞なのだろうか。それとも非状態動詞なのだろうか。

個人的には、「生きる」は状態動詞としても用いられるし非状態動詞としても用いられると考えている。

人類は未だに不老不死を実現できていないため、全ての人は「生きている状態」のあと「死んでいる状態」を迎える。

そのため、例えば「或る人物が、いま生きているのか、それとも死んでいるのか」に重点がある場合は、状態動詞として「生きる」が用いられることになる。

その一方で、生きるということを、「我々ひとりひとりが、いま生きているのは、呼吸を絶やしていないからであり、この一瞬も血が流れているからだ。呼吸が停止し、血液の循環が失われれば、あっという間に我々は死ぬことになる」などといった視点で捉える場合は非状態動詞としての側面が強くなる。

 

このように、動詞「生きる」は、「生きている状態」というニュアンスが強い場合は状態動詞として用いられ、「この瞬間を生きる」というニュアンスが強い場合は非状態動詞として用いられる。

 

現代の日本語には「(場所)に生きる」という表現と、「(場所)で生きる」という表現がある。

試しに蔵書検索が出来るサイトで「国に生きる」や「国で生きる」が含まれる書籍名を調べていくと、前者の例としては『ソ連と呼ばれた国に生きて』や『クリスチャニア 自由の国に生きるデンマークの奇跡』などがあり、後者の例としては『この国でそれでも生きていく人たちへ』や『私とあなたのあいだ いま、この国で生きるということ』や『日本列島回復論 この国で生き続けるために』などがあった。

助詞「に」と助詞「で」の違いを踏まえれば、状態動詞として「生きる」が用いられているときは「(場所)に生きる」となり、非状態動詞として「生きる」が用いられているときは「(場所)で生きる」となるのだろう。

 

状態動詞と非状態動詞の違いは英文法で重視される事柄だと認識している日本人は少なくないが、実は日本語においても状態動詞か否かの違いは軽視できるものではないと、筆者は考えている。

 

2025年4月中旬、新千歳空港にある映画館のほうを歩いていると、『機動戦士Gundam GQuuuuuuX(ジークアクス)』のポスターが視界に入ってきた。

その数日後、或る記事をネットで見かけた。

 

森川ジョージ氏、「ガンダム」最新作への「すごい違和感」投稿に反響 (ヤフコメ

 

筆者はガンダムに疎いのだが、このアニメの舞台設定は未来っぽさを余り感じさせないデザインとなっているらしく、『はじめの一歩』を連載中の漫画家である森川氏がそのことに違和感を表明したという。

これに対するSF作家の高千穂遙氏のコメントを紹介する。

 

ちょっと失礼します。SF作家をやってますから、その違和感は、すごくよくわかります。でも、いくら未来的にデザインしてもだめなんですよ。必ず外れます。いい例が衣装デザイン。むかしは21世紀等の未来を描くと、全身ぴちぴちタイツとかそういうのを着せていたんですが、まったくそうならなかった。

 

未来予想は的中することもあるが、外れることも多い。例えば1930年ごろにケインズは「2030年に人間の労働時間は週15時間になるだろう」と予想したが、そのような社会が来る気配はない。

 

結局、絵的には、いまの服装やテクノロジーをちょいとアレンジしたあたりがちょうどいいんです。作品の賞味期限も50年程度ですし。それ以上は、どんなに未来的に描いても、古びます。なので、いまはわざわざすごく未来的にはしません。いまの視聴者に馴染みのあるデザイン、テクノロジーを狙います。

 

真に優れた作品であれば何十年、何百年たっても愛され続けるように思うが、時の試練(test of time)を乗り越えられる作品は確かに多くない。「どんなに未来的に描いても古びてしまう」という言葉には重みがある。

 

ヤフコメを見ると、「はじめの一歩やガンダムが長寿コンテンツであることに言及したコメント」や「宇宙世紀は現代よりもはるか未来の話で、本来ならスマホなんてはるか昔の技術の世界というコメント」があった。

 

松本零士アニメもガンダムも詳しくないため、このコメントがどのくらい妥当なのかは分からないものの「松本零士アニメだと未来の都市は奇抜な形の大きなビルがたくさん並んでいる。ガンダムは同時期でありながらそういった事でなくニューヨーク市でもわりとシンプルなビルやドーム球場だったり現代と変わらない。ミハルやアムロが住んでいた地球での家も木造で未来にしてはクラシック。どういう意図なのか分からないけどガンダムが古びない名作である要因の一つかも知れない」という声もあった。

 

或るコメントに「SFものって映像や世界観的にはいまだにブレードランナー的なものから壮大に進歩してるかってそうでもないし、現実世界でもわかりやすく言えば70年の万博と今の万博で壮大な進歩を現実世界で行われているかと言えばそこまで?って感じ」という意見があった。

 

このコメントに限らず、本記事のヤフコメでは「世界観」という名詞を作品世界という意味で用いているものが多数ある。

たまに「世界観を作品世界という意味で用いるのは言葉の誤用だ」と主張する日本人を見かけるが、筆者は「或る言葉の意味が派生して新たな意味が生じることと、言葉の誤用は異なるものなのでは」と考えている。

世界観は元々「世界をどう観ているのか」を指す名詞である。

「或る作品の登場人物が作品内で、自分自身のいる作品世界をどう観ているのか」が「その作品世界がどのようなものなのか」を反映していることを踏まえれば、名詞「世界観」に作品世界という意味が現れていくのは自然なことだろう。

去年、筆者が日本科学未来館に行ったときもガンダムを解説する文章で世界観が「作品世界」という意味で用いられていた

 

世界観に関する私見はさておき、この意見のキーワードを考えるならば「壮大さ」が挙がるように思う。

筆者が小学生のころアポロ計画のことを知って或る疑問を抱いた。

「1970年ごろ人類は月に到達した。あれから何十年もたった今、人類は火星とかに到達していてもおかしくないはずだ。しかし、現在ためしに宇宙に関するニュースを調べても、スペースシャトルやSELENE(かぐや)など、有人の月面着陸に比べればスケールの小さい出来事ばかり報じられている。1970年ごろと今だったら、今の方が科学技術は発達しているはずなのに、宇宙開発がしょぼくなっているのは変だ」と本気で感じていたものだった。

 

1970年の大阪万博では月の石が展示されて全国的な話題となっていたが、現在おこなわれている大阪万博で全国的な話題を呼んでいる宇宙関連の展示物があるかと言われれば微妙なように思う。

 

結局のところ、ガンダム最新作の舞台設定がそこまで未来っぽくないのは、2020年代を生きる我々人類が未来に対して壮大なサイエンスやテクノロジーの成長を余り期待しなくなったことが大きいのではないだろうか。

〇経緯

筆者が『School Days』というアニメの存在を知ったのは小中の頃だと思う。

そのときは「前代未聞のアニメが放送されていたんだ、ふーん」程度に感じていたが、のちに一連のエンディング・シーン(「かなしみの向こうへと」という歌声が流れるシーンや「中に誰もいませんよ」のシーンや「やっと二人っきりになれましたね」のシーンなど)を実際に見て衝撃を受けた。

実際に見たといっても、それらは数分か10分ほどの断片的な動画に過ぎず、筆者は今年の3月になるまでキャラクター数人の名前と一連のエンディング・シーンぐらいしか知らない状態だったが、「Nice boat.」などの伝説はネット経由で把握しており、このアニメのことが強く印象に残っていた。

機会があれば全12話を視聴したいとずっと感じていたのだが、今年の3月にYouTubeを眺めていると、『School Days』全12話が期間限定で配信されているのを知り、さっそく全12話を視聴した。

そして、「やはり凄まじいアニメだったのだな」と感じた。

「かなしみの向こうへと」から始まる曲「悲しみの向こうへ」をきちんと聴いたのも初めてで、それまでは歌詞も大して把握していなかったのだが、じっくりと聴いたところ、しみじみとした良曲であることに気づいた。

以下に、全12話のレビューを記す。

 

 

〇第1~2話

桂言葉に恋心を抱いている伊藤に対して「伊藤の片思いが実るように応援するね」と宣言する西園寺。

第1話を観終わってようやく、桂と西園寺と伊藤が日本の首相の苗字なことに気づいた。

初デートのときに、セクシーな女性のグラビア写真が載っている本を立ち読みする伊藤誠。

てか、挨拶でキスは流石におかしいと思う。欧米とかなら兎も角、ここは日本なのだし。

桂は豪邸っぽい家に住んでいる模様。

桂の入浴シーンで胸が動いていたけどエロ描写で男性視聴者を露骨に釣ろうとしすぎ。

どうやら桂には妹がいるらしい。裸の姉がいる浴室の扉を開けることに一切ためらいのない妹。

そこまで仲が良い訳でもないのに桂の胸を突然もみはじめる西園寺。

なお、第2話の終わりのほうに、西園寺世界と思しきシルエットがあった。

このアニメが第12話ではなく第2話で終わっていれば、伊藤が自分の身勝手さを反省するというエンディングになって良い終わり方だったように思う。

 

 

〇第3話

妹の名前は心というらしい。

それにしても胸を強調した描写が多くね、このアニメ。

「姉妹で変わった名前なんですね」って伊藤は間違ったこと言ってないけど、桂言葉本人に対してそう無神経に言い放てるのは凄まじい。

西園寺の台詞のお陰で「にぶちん(にぶい人)」というスラングを知ることが出来た。

西園寺世界ってファミレスでバイトしているらしいけど、バイトの服装にしては露出度が高くないか。

夕方ぐらいの時間帯なのに別れ際の挨拶が「おやすみなさい」となっており、違和感のようなものが湧いた。

 

 

〇第4話

「ノックもしないで入ってこないで」って、妹は裸の姉がいる浴室の扉をノックもしないで開けていた記憶。

このアニメは、こういう露骨なセクシー描写が割と多く、キャラの瞼の描線が特殊なように思う。

入浴時に乳輪(にゅうりん)や乳首(にゅうとう)が普通に描かれていた。

個人的には乳房程度で規制するのは馬鹿げていると思うので、このシーンが規制を受けていないこと自体は良いことだと思う。

西園寺の「あげちゃってもいいかもって感じ、女の子だったら無い?」は「初めて(処女)をあげちゃっても」という意味であろう。

 

 

〇第5話

眼鏡かけながらプール入る人って、どのぐらいいるんだろう。

西園寺と伊藤が家でいちゃつきあっており「桂言葉が可哀想だな」と感じた。

 

 

〇第6話

授業中の教師の声を聴いていると、西園寺と伊藤は理系ではなく文系なのかなと一瞬、感じたが、第2話で化学の教師の声があったのを思いだした。

この回は最後のほうで不調和音が流れている。

 

 

〇第7話

電子機器の暗証番号が誕生日というのはありがちだろうけど、なんで刹那が誠の誕生日を知っているのかが気になった。

 

 

〇第8話

刹那というキャラ、人気投票したら普通に上のほうの順位になりそう。

 

 

〇第9~10話

桂言葉が赤い体液を流しているシーンがあった。これは多くの先行作品で使われてきたような描写であろう。

それにしても、なんで伊藤ってこんなにモテるんだろう……。

隠し撮りって普通に犯罪な気がするのだが、この女子バスケ部いろいろとヤバくないか?

因みに、カメラの存在は第10話より前の回できちんと提示されている。

これに限らず、このアニメは割と伏線がしっかりしている印象を受ける。

 

 

〇第11話

「べつに」という黒田光の台詞を聴き、沢尻エリカとかいう芸能人を思いだした。

沢尻エリカの「べつに」騒動は2007年らしいけど、このアニメも2007年放送らしい。

黒田は西園寺の家へ行き、「世界がいないと伊藤も、ほら浮気するかもしれないし」と西園寺に告げているけど、「そりゃあ黒田本人も伊藤と肉体関係を結んで、浮気に手を染めてるしな」とツッコミを入れたくなった。

桂言葉が可哀想すぎるのは確かだが、何度も何度も「言葉と伊藤は恋人じゃない」と伝えられているのに、「私は誠くんの彼女ですから」と壊れたラジオスピーカーみたいに言ってて、桂言葉も常軌を逸しているように思った(もっとも伊藤は、その夜以降、言葉と親密な関係を取り戻すのだけど)。

「誠、そんなこと言うキャラじゃなかったよね」という台詞が物語っているように、このアニメのヤバいキャラは元から常軌を逸していた訳ではないように見える。

元はまともな性格だったのに、伊藤らは気づいたらヤバすぎる性格になっていたというのが、このアニメの重要なポイントなのではないだろうか。

 

 

〇第12話

素朴な疑問なんだけど、伊藤らは高校生なのだから、普通に親とかに相談すればよくないか?

妊娠したかどうかという重大な事態なのに、当事者の親たちの存在感が全然、伝わってこない。

結局、伊藤と言葉は高級そうなレストランで食事をしたのか否かが気になっていたのだが、西園寺が言葉を平手打ちするなどの修羅場をみていると、そんなことがどうでもよく感じられてきた。

因みに、第7話で刹那が誠の誕生日を知っていた理由が第12話で明かされている。

既に削除もしくは非公開となっているらしく今は視聴できない様子だが、或る動画で安藤チャンネル安藤さんが「伊藤誠は女性に対して病院へ行くことを勧めるなど、女性に寄り添っている描写もある。だから誠は悪くないっすね」と語っていたのを思いだした。

これには二つの可能性がある。

一つは、安藤さんが「病院」が中絶手術という意味であることを知ったうえで、ギャグとしてそう語っていた可能性である。

もう一つは、安藤さんが「病院」の意味を知らなかった可能性である。

安藤チャンネルはギャグ動画が多いことを踏まえれば前者の可能性が濃厚だが、安藤さんは案外ピュアな側面もあるので後者の可能性も低くないと個人的には思う。

安藤さんのことを思い出しながらアニメを見ていると、長い改行メールのシーンが流れ始め「ついにエンディングが始まるのかあ」と感慨深くなった。

長い改行メールのシーンを以て、このアニメは恋愛アニメから猟奇アニメへと変貌を遂げていく訳だが、「西園寺が殺人に手を染める経緯」が(筆者が想定していたよりかは)突飛なようにも感じた。

もっとも、ただでさえ中絶手術を提示されて苦しんでいるとき(ただし後に桂言葉が西園寺の子宮を裂いた際、子宮内に胎児は確認されなかった)に、自分のつくった料理が捨てられているのを見て、殺意がわくという流れはそこまで不自然ではないとも言える。

だから、あくまで「少し突飛かもしれない」というレベルであり、「非常に突飛である」というレベルではないとも考えられる。

西園寺は目の前で伊藤と桂言葉が熱いキスをしているのを見させられており、「誠を刺殺する経緯は突飛ではない」と感じる視聴者も多いように思う。

屋上の流血シーンは知っていたものの、屋上が伊藤と西園寺と言葉にとって思い入れのある場所だったというのは全12話を見るまで知らなかった。

西園寺はポケットの中に刃物を忍ばせている訳だが、そのことを示す伏線が丁寧に張られており、やはり脚本はしっかりしているなと実感した。

 

 

 

〇総評

このアニメは凡作とは真逆の作品であると言わざるを得ない。

筆者は、小説やアニメや漫画や映画を問わず、ぶっとんだ作品に凄く惹かれる。

凡庸で無個性な作品を読んだり視聴したりするぐらいなら、完成度の高低に関係なくぶっとんだ作品を鑑賞するほうがいいとすら感じることが多い。

このように全12話を視聴できたことを筆者は嬉しく思っているが、筆者の脳裏には「このアニメで最も可哀想なキャラがいるとすれば、それは桂心なのではないだろうか」という考えが浮かんでいる。

桂心の境遇を整理するならば、「裕福な家庭に育ち、優しい姉のもとで暮らし、伊藤誠という年上の男子に淡い恋心を寄せていたのに、伊藤誠は他殺され、姉も犯罪者になってしまった」となる。

西園寺世界を刺殺するという犯罪に手を染めたのは桂言葉であって桂心ではないのだが、世間では加害者の家族というだけで差別や偏見を受ける可能性が高い。

最終話以降の作中世界において、桂心が体験することになる未来は過酷なように思う。

2005年発売の原作ゲームは全然知らないため、原作ゲームがどうなのかは分からないが、アニメに関してはガラゲーが重要なモチーフとなっているように感じられる。

長い改行メールもガラゲーならではの描写だし、CMとCMの間の映像(アイキャッチ)でも二頭身と化したキャラがしばしばガラゲーに触れていた。

日本でスマホが本格的に普及したのは2010年代前半なので、2007年当時の携帯電話事情が窺える。

最後になるが、このアニメは企画段階では「いかにバッドエンドを回避するか」という方向性で議論されていたという。

だが、アニメーション制作会社TNKの「とにかくショッキングに行きたい」という案が採用された結果、あの伝説的なエンディング・シーンが誕生するに至った。

安易なエンディングにしなかった制作スタッフたちの勇気は並々ならぬものがあると思うし、このアニメをまだ見ていない方がいるのならば、第1話から最終話まで一気に視聴することを強く推奨する。

 

小学生のころ「トイ・ストーリー」三部作が話題になっていた。

「トイ・ストーリー」シリーズと聞いて頭に浮かぶキャラは、主人公の少年と、カウボーイ人形と、宇宙飛行士っぽい男と、熊のぬいぐるみ程度で、『トイ・ストーリー』や『トイ・ストーリー2』に関する記憶は殆どないに等しいのだが、『トイ・ストーリー3』は視聴した記憶がある。

『トイ・ストーリー3』の全体的な粗筋は記憶に残っていないものの、「玩具は子供が大人になると遊ばれなくなる」というテーマや、大人になろうとしている主人公の男が年下の子供に玩具を手渡すエンディングなどは印象に残っており、『トイ・ストーリー3』を視聴し終わった直後、子供ながら「いい感じに三部作の物語が完結しているな」と感じたのを覚えている。

 

大学生になり、<映画『トイ・ストーリー2』、いつの間にかセクハラシーンを削除>という記事を見かけた。

まず「あんなに美しく完結した『トイ・ストーリー3』に続編が出るらしい」と知って驚いたあと「『トイ・ストーリー2』に、そんなシーンがあったんだ」と思った。

記事によると、『トイ・ストーリー2』にはプロスペクターという悪役キャラが登場しているそうで、プロスペクターがバービー二人(若い女性キャラ)に「僕なら君たちを『トイ・ストーリー3』に出してあげられるよ」と持ちかけるも、カウボーイらの視線に気づいたプロスペクターが言い繕うシーンがある。

 

ネットで調べると該当シーンが見つかったので、プロスペクターの台詞を引用する(拙訳も付記した)。

 

(プロスペクターが二人組のバービー人形を見ながら)

And so, you two are absolutely identical? 

それで、君たち二人は完全に同じなんだね?

You know, I'm sure I could get you a part in Toy Story 3.

君らも分かると思うけど、私は君らをトイ・ストーリー3に出演させることが出来ると思う。

 

(カウボーイらの視線に気づいたプロスペクターが言い繕って)

Oh, I'm sorry. Are we back?! Lovely talking with you. 

おお、ごめん。我々は撮影中の状態に戻っているのか?!君らと会話できて楽しかったよ。

Yes, any time you'd like some tips on acting, I'd be glad to chat with you. 

ああ、演技のヒントが欲しいなら、どんなときでも私は喜んで君らにしゃべるさ。

All right. Off you go then. 

いいよ。もう行っていいよ。

 

映画等のプロデューサーが(特に新人の)女優を自分の部屋に呼び、親密な関係(セクハラ行為の許容や、疑似恋愛や、肉体関係など)となることを交換条件に、映画等の役や契約をその女優に与えることを、キャスティングカウチというが、このシーンはキャスティングカウチを暗示したブラックジョークとなっている。

 

前述した記事を引用する。

 

最新作『トイ・ストーリー4』の公開を前に再リリースされたDVDからこのシーンが削除されているという。ディズニーはこれについて正式には発表していない。

ハーヴェイ・ワインスタインの事件をきっかけに起きたセクハラ告発運動「#Me Too」ムーブメントでキャスティングカウチの実態も明るみになったハリウッド。ワインスタインだけでなく、他の映画会社重役やプロデューサーが同様の行為をしていることを女優たちが語っている。ちなみにこのムーブメントの中でディズニーのプロデューサー、ジョン・ラセターもキャスティングカウチではないけれど、社員へのセクハラが告発されディズニーを退職するという騒ぎに発展した。

ディズニーアニメにこのようなシーンが登場するのは、『トイ・ストーリー2』が作られた1999年にはキャスティングカウチをジョークにしても問題ないと男性主導のハリウッドが考えていたことの表れ。それから約20年経ち、これが冗談ではないという考え方が浸透してきたよう。「ようやく」という感もあるけれど、ハリウッドのセクハラに関する意識は確実に変わってきていると言えそう。

 

 

「明るみになった」は「明るみに出た」という意味だろうが、「ディズニーアニメにこのようなシーンが登場するのは、『トイ・ストーリー2』が作られた1999年にはキャスティングカウチをジョークにしても問題ないと男性主導のハリウッドが考えていたことの表れ」というのは少し違うと思う。

というのもブラックジョークは批判や非難や風刺や告発の意義がこめられているケースも多いからだ。

このシーンで「I'm sure I could get you a part in Toy Story 3.」と語っているのが、作中で善とされる側のキャラではなく悪役であるという点、そしてカウボーイらの視線に気づいたプロスペクターが即座に言い繕っている点などから判断できるように、このシーンを制作したスタッフはキャスティングカウチを良くないこととして描いている。

つまり、本作のスタッフはキャスティングカウチを肯定したり笑い話として扱ったりするためにこのシーンを制作した訳ではない。

 

だが、或る空間や作品でブラックジョークが存在しうるか否かは表現の自由度に大きく依存する。

例えば、金正恩を風刺したブラックジョークを人ごみの中で語るという行為は、金正恩を非難しても政治的に弾圧されない日本や英国などの国では容易に出来るだろう。

しかし、そのようなブラックジョークを平壌の人ごみの中で語るとなれば話は別である。

このように、表現の自由度が低い空間ではブラックジョークが存在しづらくなってしまう。

ポリコレやキャンセルカルチャーの勢いが凄まじい米国では、現在と異なる時代に制作された作品に対して攻撃的な人が目立っており、表現の自由度が大幅に低下している。

このことは例のシーンが削除された要因の一つだと考えられる。

 

もう一つの要因は、大々的に報じられている事故や事件への自粛である。

例えば、2015年に「イスラム国」とみられるグループが日本人二人を拘束し、殺害を予告する事件が起こった。

この事件を受けて、フジテレビはアニメ『暗殺教室』第3話の放送を自粛した。

『暗殺教室』は謎の生物が担任教師を務める中学校を主な舞台とした作品である。

作中には中学生が暗殺目的で特殊なナイフを振り回す場面などがあり、こういったことが放送自粛につながったという。

記事にもあったように、2010年代後半は、ワインスタインの事件をきっかけに起きたセクハラ告発運動「#Me Too」ムーブメントでキャスティングカウチの問題に注目が集まっていたばかりかジョン・ラセターのセクハラ疑惑が報道されていた。

2019年の記事で米オンラインメディアのVoxが考察しているように、当時ピクサーがセクハラ関連のシーンに関して敏感になっていたのは確かである。

 

ブラックジョークのシーンの削除が2025年以降も続くのかは分からない。

ポリコレ等のウォーキズムに否定的なドナルド・トランプが再選したことを踏まえると、このシーンの削除がディズニー社で見直される可能性はある。

結局のところ、大きな事故や事件が起こったときに作中の或るシーンを自粛すべきか否かは、主に具体性で判断すべきなのではないだろうか。

ネットで安倍晋三銃撃事件の前に発表されたと思しき漫画を見かけたが、例えば、この漫画は「安倍晋三狙撃」という語句を含んでおり、具体的な人名が登場している。

政治家が狙撃されること自体は今も昔も数えきれないほど発生している訳だが、「安倍晋三狙撃」で連想される出来事となれば、やはり2022年7月に奈良県で発生した例の事件が多くの人々の脳内で真っ先に浮かぶであろう。

その一方で、削除されたブラックジョークのシーンはワインスタインなどといった人名を全く含んでおらず、本作のアニメーターたちがワインスタインらの問題を念頭においてこのシーンを制作したのかは不明である。

 

子供も見る作品であったとしてもブラックジョークは一定の範囲内であってよいはずだし、ワインスタインらの問題を直ちに連想させるシーンではない以上、このシーンを永遠に削除するのは過剰な反応であると考える人は多いのではないだろうか。

 

 

翻訳は直訳と意訳に大別される。

日本の学校における英語教育では直訳が重視されている印象を受ける。

しかし、一部の翻訳者たちは、状況に応じて、あえて直訳しないという手法を用いることがある。

本記事では筆者が興味深いと感じた意訳の具体例を挙げてゆく。

 

南北戦争は米国においてThe Civil Warなどと呼ばれている。

形容詞civilには「公民の、民間の」という意味の他に「内政の、国内の」という意味があり、Civil Warを直訳するならば内戦となる。

アメリカ独立戦争から2025年現在に至るまで、この一度しか内戦が起こっていないとされる米国では、The Civil Warだけで南北戦争のことだと通じるのである。

南北戦争が米国で発生したことを強調するためにAmerican Civil Warという名称もあり、この名称を直訳するならば「アメリカ内戦」などのようになるが、日本や中国では14世紀や5~6世紀に実在した南北朝時代のイメージから「南北戦争」と意訳され、この名称が歴史用語として定着している。

この意訳は米国が南部の勢力と北部の勢力に分かれて戦闘していたことを端的に表現しており、分かりやすさという点で優れている。

 

南北戦争とは対照的に民主主義という訳語は元の意味が分かりづらくなっており、誤解を招きやすい意訳と言えるかもしれない。

名詞democracyはdemoとcracyから構成されている。aristocracyが貴族制・貴族政・貴族政治などと、bureaucracyが官僚制・官僚政治などと、gerontocracyが長老政治・長老支配などと訳されることを踏まえれば、democracyは民主制や民主政や民主政治などと訳すのが自然である。

だが、接尾辞がismではなくcracyとなっているにもかかわらずdemocracyは民主主義と訳されることが多い。

この背景には「民主政や民主政治が行われているのは民衆による政治が相応しいからだ」という価値観があるのだろう。

世界の国々をみても実質的な独裁国家ですら「民主主義人民共和国」と称している例が存在するほど「民衆による政治を是とする価値観」は支持されている。

確かにdemocracyが民主制とも民主政とも民主政治とも民主主義とも訳せるケースは豊富にあり、例えばenemy of democracyは「民主制の敵」とも「民主主義の敵」とも訳すことが出来る。

ただし、democracyという単語が含まれる英文があって民主制や民主政治と訳すのが妥当なときに、民主主義という訳語を採用してしまうのは誤訳であると思われる。

 

筆者は映画に疎いのだが、『地獄の黙示録』や『アナと雪の女王』などといった邦題は有名である。

『地獄の黙示録』の原題は『Apocalypse Now』であり、これは1960年代にヒッピーが主張していた「Nirvana Now(今こそ涅槃を)」をもじったものである。

涅槃は「煩悩が消えた悟りの境地」を意味する仏教用語であり、『Apocalypse Now』を直訳するならば「今こそ黙示録を」などとなる。

だが、日本人の多くは「Nirvana Now(今こそ涅槃を)」というフレーズを知らないため、「今こそ黙示録を」だと本作がどういう雰囲気の映画なのかが伝わりにくい。

『地獄の黙示録』という邦題は「キリスト教や米国のヒッピー文化に詳しくない観客」に配慮した意訳だと考えられる。

因みに、本映画はコンラッドの小説『闇の奥』が原作となっているが、この小説の原題は『Heart of Darkness』であり、小説のほうもタイトルが意訳されている。

名詞heartは「心」や「心臓」なので、『Heart of Darkness』を直訳するならば「闇の心」や「闇の心臓」などとなる。

 

アニメ映画『アナと雪の女王』も原題は『Frozen』であり、作中キャラの人名を前面に出した邦題とは大きく異なっている。

 

筆者は小学生の頃から『宇宙大戦』という作品(英題は『The Great War of the Worlds』となる予定)を構想している。

この作品は小説として完成するかもしれないし、もしくは戯曲や漫画やアニメなどとして完成するかもしれないが、このタイトルはハーバート・ジョージ・ウェルズの『宇宙戦争』に由来する。

『宇宙戦争』も実は意訳であり、原題は『The War of the Worlds』である。

これを直訳するならば「世界同士の戦争」となり、このタイトルは「地球人の世界」と「火星人の世界」の間で戦争が発生するという粗筋を表している。

だが、「世界同士の戦争」という直訳では本作がSF作品であることが伝わりづらい。

日本で『宇宙戦争』という邦題が100年以上にわたって定着しているのは、漢字四文字という完結さや、SF作品であることが伝わりやすいというメリットによるところが大きいのだろう。

 

これまで英語から日本語に意訳された例を紹介してきたが、フランス語から日本語に意訳された例もある。

フランスの作曲家オリヴィエ・メシアンは1940年ごろ『Quatuor pour la Fin du Temps』という曲を発表した。

この曲は『時の終わりのための四重奏曲』や『世の終わりのための四重奏曲』という邦題で知られており、前者が直訳に近いタイトルで後者が意訳に近いタイトルである。

終末論として知られる新約聖書『ヨハネの黙示録』が曲想となった作品であり、『時の終わりのための四重奏曲』の「時」は「時代」というニュアンスが強いと思われる。

簡潔に言えば、終末論は「この世の終わり」や「この世界の終わり」を扱った記述のことである。

『時の終わりのための四重奏曲』と『世の終わりのための四重奏曲』であれば、多くの日本語話者にとって曲のイメージが伝わりやすいのは後者だろう。

 

人文学や社会科学とは異なる領域でも意訳は散見される。

例えばアインシュタインはマックス・ボルンへの手紙で「Jedenfalls bin ich überzeugt, daß der Alte nicht würfelt.」と述べている。

この一文を直訳するならば「いずれにせよ、私は、古きものはサイコロを振らないと確信している。」などとなる。

つまり「神はサイコロを振らない」というアインシュタインの有名台詞は「古きもの」を「神」と置き換えた意訳である可能性が高い。

 

意訳は誤訳と隣り合わせであるというリスクを伴うが、直訳では汲み取りづらいニュアンスを如実に表現できるという魅力がある。

機械翻訳の精度が高まりつつある21世紀、意訳の重要性は増してゆくのかもしれない。

 

将棋界には棋士と呼ばれる方々がいる。

誰であっても棋力が高ければ性別に関係なく棋士となれるが、棋士を志す者が棋士の地位に至るハードルは非常に高い。

競技人口の差などもあって将棋界は男女間の実力差が大きいとされており、2025年元日現在、棋士の座を掴んだ女性は皆無である。

マスメディアなどで女流棋士という職業を見聞きした方もいるかもしれないが、女流棋士と棋士は別物である。

女流棋士となった女性は今も昔も大勢いるが、棋士となった女性(いわゆる「女性棋士」)は今のところ一人もいない。

 

棋士を志す者が棋士になる経路は二つある。

一つは奨励会と呼ばれる組織に入り、その組織内で行われている三段リーグで一定水準以上の順位となることである。

もう一つはプロ棋士編入試験の受験資格を得て、プロ棋士編入試験に合格することである。

2022年に里見香奈先生という女流棋士がプロ棋士編入試験を受けたが、合格とはならなかった。

その2年後の夏、西山朋佳先生という女流棋士がプロ棋士編入試験の受験資格を得て、プロ棋士編入試験を受けると発表した。

西山先生のプロ棋士編入試験は去年の9月に始まり、現在2勝2敗という経過をたどっている。

2025年1月下旬に5局目となる対局(試験官は柵木幹太先生)が実施される予定で、西山先生がこの最終局に勝てば将棋の歴史で初めて女性棋士が誕生することとなる。

昭和の時代から多くの将棋関係者が女性棋士の誕生を夢みてきた。

令和7年正月の現在、この夢はあと一歩のところで現実になろうとしている。

そもそも西山先生の試験の結果に限らず、棋士を目指す女性がいる限り、女性棋士が誕生する可能性はあり続ける。

仮に女性棋士が誕生したら、どのような事態が起こりうるかを考えてゆくこととする。

藤井聡太旋風のときのような将棋ブームが起こるだろう。

快挙を知って将棋に関心を持つ若い女性が出てくるだろう。

そして、女性棋士の誕生は将棋漫画の世界に大きな影響を及ぼすだろう。筆者はそう考える。

 

筆者は将棋漫画をたくさん読んでいる訳ではない。

将棋のルールを覚えたのは小学校の図書室にあった学習漫画『スグわかる!まんが将棋入門』だったが、この本を隅から隅まで読んだとは言い難く、駒の動かし方や美濃囲いの組み方が載ったページとか漫画ページとかを集中的に読んだ感じだった。

それ以外に読んだことのある将棋漫画は『ものの歩』や『龍と苺』や『永世乙女の戦い方』ぐらいだが、『ものの歩』は『週刊少年ジャンプ』にアクセスできたときの回しか読めなかった記憶があり、『龍と苺』や『永世乙女の戦い方』もファンの方々に比べれば読みこみがまだまだである。

 

だが、そんな筆者でも予測できることがある。

それは、女流棋士というキャラの立ち位置が女性棋士の誕生以前と以後とで結構かわってしまうだろうという予測である。

萌え豚しか読まない漫画や、腐女子や夢女子しか読まない漫画などを除けば、男性キャラしか登場しない漫画や、女性キャラしか登場しない漫画は珍しい。

大抵の将棋漫画では、将棋に熱中する男性キャラと将棋に熱中する女性キャラの両方が登場しているように思う。

 

或る将棋漫画でメインのキャラたちが棋士を目指しており、そのキャラたちの中に女性キャラがいるとする。

彼女がどんなエンディングを迎えるのかは漫画家の意向によるが、以前であれば「最終的に彼女は女流棋士となり、女流棋士の世界で無双状態となりました」などといったエンディングでもノープロブレムだったであろう。

しかし、今後、現実世界で女性棋士が誕生するようになると、そのようなエンディングでは読者の一部が「あの女性キャラって作中では棋力が凄く高いとされていたけど、よくよく考えれば棋士になれない程度の棋力だったってことだよね」などと感じてしまうケースが出てくる。

 

これはサッカーに置き換えて考えると分かりやすいかもしれない。

日本人サッカー選手が海外の名門リーグで活躍するようになる前の時代であれば、「サッカーが得意な主人公が大人になったあと、国内リーグで無双し、主人公の所属チームが国内リーグで優勝するというようなエンディング」でも「この主人公すげーじゃん!」と容易に読者を興奮させられたであろう。

だが、海外の名門リーグで活躍する日本人選手が現れるようになった今の時代だと、「大人になった主人公が国内リーグで無双」というだけでは、多くの読者が「海外の名門リーグでも無双していないなら、この主人公は国内リーグでしか無双できない井の中の蛙じゃね」などと感じるはずである。

 

個人的には、今後の将棋漫画は『龍と苺』のように女性棋士の座を掴む女性キャラが豊富に登場する作品が増えていくのかなと思っている。

 

最後になるが、『スグわかる!まんが将棋入門』をたったいまネットで調べてサンプル部分を読むと内容の深さに気づかされる。

理解がおいつくならば、どんどん読み進めるべき学習漫画であると今なら分かる。

有名手筋や終盤の戦い方なども解説されており、読んで損のない学習漫画なので、子供だろうが大人だろうが将棋を指したいという方は全てのページを熟読すべきだと筆者は考える。

 

〇曲名の謎

私がハイロウズの「日曜日よりの使者」という曲を知ったのは10代の頃だと思う。

当時からアメイジング・グレイスとメロディが似ていると感じていたのだが、調べてみると「Will the Circle Be Unbroken?」がメロディの元ネタらしいと分かった。

時系列で並べると、10歳以前からアメイジング・グレイスは知っていて、10代の頃に「日曜日よりの使者」を知り、そして成人してから「Will the Circle Be Unbroken?」を知ったという流れになる。

 

メロディは兎も角として、かつて私は、この曲を聴くたびに、ちょっとした疑問を抱いていた。

それは、なぜ「日曜日からの使者」ではなく「日曜日よりの使者」という曲名なのだろうかという疑問である。

「(名詞)からの」という表現は頻繁に見聞きするが、「(名詞)よりの」という表現を見聞きする頻度は高くない。

助詞「より」ではなく名詞「寄り」であれば「右寄りの政治家」などといった例が容易に浮かぶものの、「からの」という意味で「よりの」が使われている例は現代の日本語において珍しいのではないだろうか。

 

「より」は、破裂音であるカ行の「か」を伴う「から」と比べて、歌声の響きが柔らかく聴こえるなどといった理由なのかなと考えていたのだが、興味深い記事があった。

 

「日曜日よりの使者」とはいったい誰なのか?|サトシ

 

この曲を書いた甲本ヒロトと親交のある山本正之は「星よりの使者」という曲を発表しており、「日曜日よりの使者」という曲名は、その曲名に影響を受けているのではないかという説である。

「日曜日よりの使者」と「星よりの使者」の歌詞を以下に示すが、確かにメロディの終わりに「星よりの使者」を繰り返すという歌詞の構成は、「日曜日よりの使者」と共通している。

 

 

 

 

 

〇「日曜日よりの使者」歌詞

※このまま どこか遠く 連れてってくれないか

君は 君こそは 日曜日よりの使者※

(※繰り返し)

たとえば 世界中が どしゃ降りの雨だろうと
ゲラゲラ 笑える 日曜日よりの使者

きのうの夜に飲んだ グラスに飛び込んで
浮き輪を浮かべた 日曜日よりの使者

適当な嘘をついて その場を切り抜けて
誰一人 傷つけない 日曜日よりの使者

△流れ星が たどりついたのは
悲しみが沈む 西の空△

□そして東から昇ってくるものを
迎えに行くんだろ 日曜日よりの使者□

(※繰り返し)

たとえばこの街が 僕を欲しがっても
今すぐ出かけよう 日曜日よりの使者

(△繰り返し)
(□繰り返し)

 

 

 

 

 

〇「星よりの使者」歌詞

嵐の砂漠を二人で越えて

たどりつけば地上絵に 船が降りてくる

ここで添えない運命ならば

連れてって連れてって 星よりの使者

 

幾億光年 移り棲むところ 

水も空気もあらずとも 心咲き擾れ 

光の速度でワープをすれば 

夕ごはんを持ってくる 星よりの使者 

 

タダイマ、オカエリ、シアワセデスワ 

愛しい子供たちに お話をします 

円い枠の中 陸と海との

懐かしい線ばかり 星よりの使者 

 

オリオン、カノウプス、北洛師門 

数え切れない時を過ぎ いつかもう一度 

遠い空へと旅立つことを 知っているのね

そうなのね 星よりの使者

 

二人は石になり そして風になり 

やがて宇宙の夜になり 姿消えようと 

愛しているからね 愛しています 

連れてって連れてって 星よりの使者


嵐の砂漠を越えたあの日まで
たどりつけば地上絵が果てに続いてく
そこで出会える運命だから 

あなたこそ 君こそは 星よりの使者

あなたこそ 君こそは 星よりの使者

 

 

 

〇考察と補足

この2曲はメロディ自体が似ている訳ではないが、メロディの構成が似ている。

「日曜日よりの使者」は「流れ星が たどり着いたのは 悲しみが沈む 西の空」というサビのメロディを除けば、一つのメロディを繰り返すことで曲が構成されている。

「星よりの使者」も「嵐の砂漠を二人で越えて たどりつけば地上絵に 船が降りてくる ここで添えない運命ならば 連れてって連れてって 星よりの使者」のメロディを6回ほど繰り返すことで曲が構成されている。

 

記事の執筆者は<そしてこれは証拠を示せないけれど、「日曜日よりの使者」の曲調は山本正之の曲に似ています。初めて「日曜日よりの使者」を聴いたとき、ザ・コーツ時代の「セッション」のように山本正之が楽曲提供したのかと思ったほどです>と述べているが、証拠や根拠を示すならばメロディ(歌メロ)の構成が挙げられるだろう。

J-POPは「Aメロ・Bメロ・サビ(・Cメロなど)」というメロディ構成が多い。つまり大体3つ(か4つ)ほどのメロディを組み合わせて構成されている。

それに対して、洋楽はJ-POP同様に3つ(か4つ)ほどのメロディの組み合わせで構成されている曲もあるし、「Aメロとサビだけ」という構成の曲も珍しくない。Aメロとサビだけで構成されている場合、その曲は2つのメロディの組み合わせで構成されていると言える。

だが、「星よりの使者」は、たった一つのメロディだけで構成されている。

「日曜日よりの使者」はAメロとサビだけで構成されている曲であり、たった一つのメロディだけで構成されている曲ではないが、実際に「日曜日よりの使者」を聴けば分かるように、「流れ星が たどり着いたのは 悲しみが沈む 西の空」のメロディが歌われている2か所を除けば一つのメロディの繰り返しとなっている。

山本正之の代表曲「燃えよドラゴンズ!」も一つのメロディの繰り返しで構成された曲であり、雰囲気が「山本正之の曲に似てい」ると感じられるのも自然なように思う。

 

この2曲の共通点は、曲調やメロディ構成だけではない。

メロディの終わりに「星よりの使者」や「日曜日よりの使者」という歌詞が来るという共通点は前述したが、「日曜日よりの使者」の歌詞を見ると、「連れてって」というフレーズや、動詞「たどりつく」、名詞「空」など、「星よりの使者」と共通する語句が含まれている。

歌詞全体を見ても、隔たりについて歌われているという共通点を見出すことが出来る。

「星よりの使者」の歌詞は「星から嵐の砂漠を越えてゆく」などといった空間的な隔たりを感じさせる。

「日曜日よりの使者」の歌詞は「日曜日以外の曜日にいる僕を日曜日へ連れてゆく」などといった時間的な隔たりを感じさせる。

 

因みに、「星よりの使者」は1990年12月発売のアルバム『才能の宝庫』に収録されており、一方の「日曜日よりの使者」は1995年10月発売のアルバム『THE HIGH-LOWS』に収録されているので、「星よりの使者」が先に発表されている。

 

「Will the Circle Be Unbroken?」のメロディと「日曜日よりの使者」のメロディが似ている理由についてだが、ザ・クロマニヨンズのインタビューで甲本は自身の作詞作曲スタイルを語っている。 

 

 

 

甲本 作曲とか作詞という経験がないといっていい。「ある」んですよ、詞と曲というか歌が。それは生活してると、ポンと思い浮かぶんですよ。作るぞ!と思うんじゃなくて、ハッと思いつくんです。それは、いつ思いつくかはわからないんで、締め切りがあったら大変なことになるんですけど、ハハハ。

ーー自ずと溢れるままに?


甲本 溢れもしない、あ、溢れる時もある。1番の歌い出しから3番の最後まで、3分間の曲が3分間でズルズルズルーッとでてきて、はいできた!という時もあるし。できたじゃないな、あった。そういうときは不安になるんですよ。もしかしたら、どこかで聞いた歌かもしれない。と思って一生懸命思い出すんですけど、ああこれ僕のオリジナルだって。それをスタジオに持って行く。だから、わかんないですね、どうやってできてるのか。だからそれを文字に起こしたときに、整合性のない、なんだこれ意味わかんない、というのはよく言われます。

ーーそれは本人にも理解できないんですか?


甲本 うん、僕は考えて作ってるわけじゃないから、適当なんです。

ーーでも作詞作曲のクレジットは入るわけで。


甲本 うん、僕はそれを味見をするんです。美味しいか美味しくないか。美味しい!と思ったら、それが意味が通っていようがいまいが、みんなに分けてあげようって思う。

 

 

 

つまり、甲本はコード進行からメロディを考えて作曲するのではなく、気づいたら詞と曲が頭に浮かんでくるというスタイルで作詞作曲をしている。

このスタイルだと、インタビュー中の台詞にもあるように自分が考案したメロディと他人が考案したメロディが混じってしまうことも起こりうる。

もちろんB'zのように洋楽から意図的に剽窃しているならば著作権などといった問題が生じるだろうが、「Will the Circle Be Unbroken?」は既に著作権が切れており、その点の問題はない。

 

最後に文法面の話を述べる。

現代の日本語において「星よりの使者」よりも「星からの使者」のほうが自然な表現に聞こえるのは、助詞「より」と助詞「の」の組み合わせが不自然とされるためである。

個人的には「星よりの使者」は「『星より』の使者」と捉えるべきなのかなと思っている。

手紙やメッセージ文で「(名詞)へ」や「(名詞)より」という表現が多用されるように、隔たりのある相手とのやり取りでは「(名詞)へ」や「(名詞)より」などといった表現が用いられやすい。

本曲は空間的な隔たりを感じさせる歌詞となっており、その影響で「『星より』の使者」というフレーズが誕生した可能性は否定できず、「(名詞)への」という言い回しがあるのなら「(名詞)よりの」という言い回しがあっても良いと山本正之が考えた可能性もあると筆者は考えている。

〇昭和生まれのコンテンツが持つポテンシャル

昭和の時代、巨人・大鵬・卵焼きという言い回しがあるほど、野球は多くの子供に親しまれていた。

だが、今の日本では二極化が進んでおり、野球を深く知っている子供と野球を殆ど知らない子供とに二極化している印象を受ける。

平成生まれの筆者も確かに「野球を殆ど知らない子供」だった。

筆者が野球のルールを一通り把握できるようになったのは22歳ごろで、それまでは「エースで四番」というフレーズを聴くたびに「1なのに4って変だな」と本気で感じていたし、野手や安全進塁権などといった初歩的な用語すら知らない(ピッチャーやキャッチャー等は流石に知っていたが、ショートやセンターと言われても、どのポジションなのか全く分からない)ほどだった。

筆者は子供のときドラえもんや、ちびまる子ちゃんなどの有名キャラが登場する学習漫画をよく読んでいた。

「ドラえもん」は昭和生まれのコンテンツであり、野球との親和性が高い。

「ドラえもん 野球」で調べると打順や守備ポジションが載った画像などが容易に見つかった。

 

現在、筆者は主人公「野比のび太」が野球を本格的に始めていくストーリーの漫画・アニメを考えている。

筆者は野球漫画をあまり読まないのだが、商業誌に載っている野球漫画の大半は「読者が野球のルールをそこそこ知っていること」を前提にしている印象がある。

「野球のルールを全く知らない人」でも、読んだり視聴したりするだけで、いちから野球のルールを学んでいける漫画・アニメは子供に野球の魅力を伝える効果があると言えないだろうか。

今後そういった漫画・アニメを公開するのか否かは未定だが、本記事では「野比のび太」らキャラの設定や個人的なイメージ、そして現時点での構想などを紹介する。

 

 

 

〇参考リンク

2014-6.pdf (fc2.com)

『ドラえもん』のおはなしをドラチャン探偵団が徹底調査!|ドラえもんチャンネル (dora-world.com)

ジャイアンズ誕生までの歴史/藤子Fのベースボール④|藤子Fノート (note.com)

 

 

 

〇打順の一例(ネットにあった画像からの引用)

1 左 ドラえもん
2 二 源(静香)
3 三 出木杉
4 投 剛田(ジャイアン)
5 中 骨川(スネ夫)
6 一 安雄(スリムなモブキャラ)
7 右 はる夫(太った子)
8 捕 ジャイ子
9 遊 のび太

 

 

 

〇個人的に想像したキャラの設定

・ジャイアンズ(ジャイアンとジャイ子が創設した野球チーム)

ジャイアン 三振おおめだが長打あり コントロール悪めだが剛速球 足は普通

ジャイ子  ジャイアンと以心伝心 太っておりキャッチングは得意 足は遅い 打撃は苦手

ドラえもん 小柄なためストライクゾーンが狭く打撃は少し得意 足は少し遅い

のび太 打撃が壊滅的 ゴロや飛球をとるのが苦手 ピッチングは球速こそ並みだがコントロールは凄く良い

出木杉 野球脳に優れる 足が凄く早い 打撃もピッチングも優秀だが毎試合に出たいため投手ではなく内野手を志望している

スネ夫 長打すくなく出塁率が高い 足は少し早い サインや相手選手の癖を盗むのが上手く盗塁が得意 守備は少し得意

源静香 長打すくなく出塁率が高い 足は少し早い サインや相手選手の癖を盗むのが上手く盗塁が得意 守備は凄く得意

安雄  打撃は普通 足は少し早い もともと野球経験あり 守備は普通だが守備範囲が少し広い
はる夫 打撃は普通 足は少し遅い もともと野球経験あり 守備は普通で守備範囲も人並み

 

マナブ(野田まさし) 教育ママの子供 強打者 野球にハマっているところがママに見つかり途中で退団

スネ夫のいとこ コントロールの良い投手だがエース投手のポジションを奪われたくないジャイアンが追い返してしまう

 

 

・その他

ドラミ 登場してもよさそうだし登場しなくてもよさそうなキャラ

のび太の担任 野球関連になると教え子に凄く優しくなる 球審などもこなす

 

 

 

 

 

〇設定

・のび太は試合で役立たず扱いされるもチームの雑用を積極的にこなし「なんだかんだ良い奴」と扱われるようになる。

 

・一塁コーチや三塁コーチは出木杉やスネ夫や安雄などが交代で担当。

 

・担任はドラえもんのことを「野比のび太くんの友達」と捉えており、「子供の草野球チームに猫型ロボットがいること」に違和感を持っていない。更にいえば作中において「草野球チームに猫型ロボットがいること」を異常と認識しているキャラは皆無である。

 

・のび太の担任は普段、宿題などに厳しいが、草野球チームの子供に対しては敢えて居残りを十数分ほどさせて、そこで宿題を終えさせておくことで、試合後に「宿題が終わってなくて大変」という状態になるのを防ぐなど、優しさを示す。

 

・担任は年金暮らしの老人数名と仲が良く、この老人数名は塁審や怪我人などによる一時的な代役を担ってくれたりもする。

 

・担任は従来のトーナメント戦で顕著な勝利至上主義(目先の勝利だけを優先し勉学を手抜きしたり才能ある投手がアマチュア時代に消耗されてしまったり等)に不快感を持っていたが、リーグ戦や球数制限などが行われているジャイアンズたちのリーグに好感を持つ。

 

・のび太はルールを覚えていき、打撃・守備・走塁などの練習を重ねるも打撃は依然として苦手なまま終盤を迎える。だが、そこそこの頻度で球をバットに当てられるようになり、バントの成功率は8割をこえるようになる。

 

・「なんで撃つのは得意(銃撃は得意)なのに打つのは苦手なの?」と問われた野比は「だって銃撃は標的を定めたあと引き金を引くだけだけど、バッティングはバットを動かすのと同時に、前へ向かってくる球とバットを合わせなきゃいけないじゃないか!難しすぎるよ」と答えている。

 

・飛球やゴロへの処理はまだ人並みとまではいかない野比だが、キャッチボールはそこそこ出来るようになり、送球を受けての刺殺などはスムーズにできるようになる。

 

・リーグ戦は7回制の場合も9回制の場合もある。

 

・のび太の母は「野球より勉強のほうが大事」と内心、思っているようだが、野比の父や、源静香・スネ夫・ジャイアンの親はジャイアンズに好意的で、しばしば練習や試合のサポートをしてくれる。

 

 

 

〇ストーリーの私案

偉大谷奨平(いだいたに・しょうへい)という日本人野球選手が世界的に注目され、のび太の担任も野球マニアとなり、少年野球に熱を入れ始める。

ジャイアンズという草野球チームに着目した担任は、ジャイアンズなどといった草野球チームに所属している児童を依怙贔屓し始め、のび太、ドラえもん、源静香、出木杉などが(本格的に)ジャイアンズに入団する。

(かつて「スネ夫のいとこ」を追いだしたジャイアンだったが、出木杉の入団は拒否せず歓迎した)

 

そのころジャイアンズは地元の草野球チームとのリーグ戦で散々な順位だった。

また、新参メンバーのうち、のび太とドラえもんは野球の基礎的な能力に問題があると分かる。

だが、出木杉(や担任ら)の指導により、のび太とドラえもんたちは野球のルールを学び、野球の技能なども成長していく。

当初、左翼を守っていたドラえもんは(のび太ほどではないが)イージーなゴロを後ろにそらすことが目立ち、一塁を守るようになる。

練習の成果もあり、ドラえもんは(相変わらずぎこちないものの)一塁手としては最低限の守備力を得ていく。

 

リーグ戦は平日の放課後に実施されることが多いが、土日や長期休みや雨天延期などで連戦となることもある。

そのため、出木杉などジャイアン以外のメンバーがマウンドに立つことも次第に増えていく。

キャッチボールはそこそこ出来るのに、いざマウンドに立つとキャッチャーミットに向けて投げられない野比に疑問を持った出木杉は、野比が高低差のある状況でのキャッチボールに慣れていないことに気づく。

まず、出木杉は野比をマウンドの「目の前」にある「平らな場所」に立たせ、二人でキャッチボールしたあと、少しずつ野比をマウンド側へ近づかせながらキャッチボールを続けていった。

しばらくして野比はマウンドからキャッチャーミットのほうへ投げる感覚をつかみ、球速こそ並みだが、制球力の高い投手となってゆく。

 

また、ジャイアンズで練習や試合を繰り返しているうちに、のび太には「もっと野球が上手くなってチームに貢献したい」という思いが芽生えるようになっていく。

そして「打撃が酷すぎる以上、投手(や遊撃手)など打てなくても許容されるポジションを極めよう」と覚悟を決め、ピッチングやフィールディングの練習に、もっともっと注力するようになる。

 

 

 

〇最初期のスタメン

投手 ジャイアン

捕手 ジャイ子

一塁 はる夫

二塁 静香

遊撃 安雄(出木杉の守備範囲が広くてセカンドベースカバー以外は意外と忙しくない)

三塁 出木杉(草野球レベルだと引っかけた打球が多く遊撃手より三塁手のほうが打球が来やすい)

左翼 ドラえもん(足が少し遅く球を後ろにそらすことが目立ち一塁へ)

中堅 スネ夫

右翼 のび太(足が並みなのに球を後ろにそらすことが目立ち遊撃へ)

 

 

〇中期以降のスタメン

投手 ジャイアン

捕手 ジャイ子

一塁 ドラえもん

二塁 静香

遊撃 のび太

三塁 出木杉

左翼 安雄(のび太の守備の穴を埋めるため普通に忙しい)

中堅 スネ夫(のび太の守備の穴を埋めるため普通に忙しい)

右翼 はる夫(ドラえもんの守備の穴を埋めるため少し忙しい)

 

 

〇打順パターン(数字は守備番号ではなく打順)

投手 ジャイアン 4 

捕手 ジャイ子 8

一塁 ドラえもん 5

二塁 静香 2

遊撃 のび太 9

三塁 出木杉 3

左翼 安雄 6

中堅 スネ夫 1

右翼 はる夫 7

 

 

〇中期以降の勝ちパターン(ジャイアン降板後に出木杉がクローザーとして登板など)

投手 出木杉

捕手 ジャイ子

一塁 ドラえもん

二塁 静香

遊撃 のび太

三塁 安雄

左翼 はる夫

中堅 スネ夫

右翼 ジャイアン

 

 

〇中期以降の負けパターン(ジャイアン降板後に野比が敗戦処理として登板など)

投手 のび太

捕手 ジャイ子

一塁 ドラえもん

二塁 静香

遊撃 出木杉

三塁 はる夫

左翼 安雄

中堅 スネ夫

右翼 ジャイアン

 

 

 

〇注意

『ドラえもん』というコンテンツの著作権等は藤子・F・不二雄プロにある。

また、上記の構想案やストーリー案は筆者の個人的な空想に過ぎず、その点について本記事の読者の方はご留意ください。

 

〇動画

It Could Have Been You - Journey
 

 

〇和訳

[Verse 1]
We were so close yet so far away
I'd reach out, you'd be gone
Moments that still take my breath away
There's so much more to life than loving you
You don't need me, no
私たちはとても近くにいたのに、とても遠くにいた

私なら手を伸ばすだろう、君ならいないだろう
今もなお息をのむ瞬間が複数ある
君を愛することよりも人生にはもっと沢山のことがある
君は私を必要としていない



[Chorus]
I can't wait all my life, on a street of broken dreams
It could have been you my love (where are you now)
Oh I...still wonder if you remember the night
It could have been you

壊された夢の街路で、一生、待つことなんて私には出来ない

これは愛しき君だったのかもしれない(今どこに君はいるの)

君はあの夜のことを覚えているのだろうかと今なお思っている

これは君だったのかもしれない



[Verse 2]
Time washes over, memories
I can't look back no more
Change has forsaken, our promises
There's someone else for you to hold again
So please stop your crying

時が記憶を洗い流していく

私はもう振り返れない

変化は私たちの約束を見捨てた

君が以前と同じように抱きしめるべき人は他にいる

だから泣くのをやめてくれないか


[Chorus]


[Outro]
Remember, remember, girl I remember
I...can't wait all my life, on a street of broken dreams
It could have been you my love (where are you now)

覚えている、覚えている、少女よ、私は覚えている

壊された夢の街路で、一生、待つことなんて私には出来ない

これは愛しき君だったのかもしれない(今どこに君はいるの)


Oh I...still wonder if you remember the night
It could have been you (where are you now)
Should have been you my love (where are you now)
It could have been you my love, (where are you now)
Remember...remember...remember

君はあの夜のことを覚えているのだろうかと今なお思っている

これは君だったのかもしれない(今どこに君はいるの)

これは愛しき君であるべきだった(今どこに君はいるの)

これは愛しき君だったのかもしれない(今どこに君はいるの)

覚えている、覚えている、覚えている

 

 

 

 

 

 

 

 

〇原詞

[Verse 1]
We were so close yet so far away
I'd reach out, you'd be gone
Moments that still take my breath away
There's so much more to life than loving you
You don't need me, no

[Chorus]
I can't wait all my life, on a street of broken dreams
It could have been you my love (where are you now)
Oh I...still wonder if you remember the night
It could have been you

[Verse 2]
Time washes over, memories
I can't look back no more
Change has forsaken, our promises
There's someone else for you to hold again
So please stop your crying

[Chorus]

[Outro]
Remember, remember, girl I remember
I...can't wait all my life, on a street of broken dreams
It could have been you my love (where are you now)
Oh I...still wonder if you remember the night
It could have been you (where are you now)
Should have been you my love (where are you now)
It could have been you my love, (where are you now)
Remember...remember...remember