前編で述べたように、功利主義やセカイ系などを掘り下げていくこととする。

 

功利主義は19世紀の英国で発達した思想であり、ジェレミ・ベンサムやジョン・スチュアート・ミルやピーター・シンガーなどといった哲学者が論じている。

各々の哲学者によって思想の内容に差異が見られるものの、どの功利主義者も幸福を人生や社会で最大の目的とする点で一致している。

現在の日本において、功利主義は「最も多くの人に最も多くの幸福をもたらす行為を正義とする考え」という意味で使われることが多い。

 

セカイ系は21世紀の日本で命名され、注目されるようになったジャンルのことであり、東浩紀は「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、『世界の危機』や『この世の終わり』などといった抽象的で大きな問題に直結する作品群のこと」と定義している。

本作では「主人公(ぼく)」が森嶋帆高に対応し、「ヒロイン(きみ)」が天野陽菜に対応している。

前述したように、主人公が認識する世界は故郷の新津島や東京中心部に限られており、主人公は具体的な中間項を挟むことなく「東京中心部の都市機能」すなわち「主人公にとっての世界」の崩壊をもたらしている。

東浩紀の定義が示すように、本作はセカイ系の作品である。

 

セカイ系は『新世紀エヴァンゲリオン』や「ギャルゲー・アダルトゲーム」に由来するとされるが、筆者は前者に関しては10年ほど前に旧劇を地上波で観た程度の知識しかないし、後者に関しては殆ど何も知らないに等しいので、これらへの具体的な言及は控えることにする。

 

ただ、「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性」を「数人や十数人の小さな関係性」と捉えるならば、セカイ系というジャンルの成立は時代の必然だったように思う。

というのも、科学技術の発達は一人から十数人ほどの少人数が世界に直接的な大打撃を与えることを可能にしたからだ。

具体的な事例がある。

セカイ系のジャンルが成立した21世紀初頭に、一つの衝撃的な出来事が公になった。

時は1962年。キューバ危機のさなか、ソ連軍は核攻撃が可能な潜水艦をキューバ近海に潜ませていた。

その潜水艦はモスクワとの連絡が取れず米国の民間ラジオ放送すら傍受できなくなっていた。そのうえ潜水艦のバッテリーが極度に低下し、高濃度な二酸化炭素や猛暑といった極限状態にあった。

実は、その潜水艦は上層部から「潜水艦内の士官3人全員がソ連と米国の間で戦争が発生したと判断した場合は核攻撃を米国側に対して行ってよい」という指示が出ており、士官3人のうち2人は核攻撃すべきだと主張していた。

しかし、ただ1人ヴァシーリー・アルヒーポフだけが核攻撃に反対し、最終的に潜水艦は核攻撃を行わずに基地へ帰った。

この出来事は、3人という小さな関係性が核戦争が起こるか否かという「抽象的で大きな問題」に直結していたことを示している。

 

本作は一人の少女が天候を左右できるという非科学的かつスピリチュアルな設定が登場しており、核兵器開発などといった科学技術の発達が作品の題材となっている訳ではない。

そのため、本作を考察するにあたっては、「主人公の少年と可愛い容姿のヒロイン」という関係性に注目し「ギャルゲー・アダルトゲーム」からの影響を重点的に検討すべきなのかもしれない。

しかし、科学技術の発達によって、「具体的な中間項がなくても少人数の関係性が抽象的で大きな問題に直結する事態」が生じるようになったことは、フィクション作品の作り手がストーリーを紡ぐ際に小さくない影響を及ぼしているように思う。

例えばSNSは科学技術の産物な訳だが、近頃は多種多様なジャンルでSNSを題材にした作品が増えており、それらの作品では得てして「主人公たち少人数の発信が世界にダイレクトな影響を与えるというようなストーリー」が展開されている。

 

 

先ほど、功利主義は「最も多くの人に最も多くの幸福をもたらす行為を正義とする考え」という意味で使われることが多いと述べたが、英米道徳哲学史に詳しい研究者の児玉聡は「功利主義には四つの特徴がある」と指摘する。

 

 

功利主義はいくつか特徴があり、その一つが帰結主義です。「帰結」とは「結果」のことです。ですので、行為の正しさを評価するには、行為の「帰結」を評価することが重要だ、と。道徳理論・倫理理論の中には「帰結」よりも「動機」の方が重要だという話もありますが、功利主義ではあくまでもその「帰結」が重要だ。ですから、この場合には、「五人が死んでしまうのか一人が死ぬのか」その帰結を考えなくてはいけません。

二つ目は、「帰結」といってもいろいろな結果があるわけですが、特に人々に与える「幸福」が重要である。これが二つ目の幸福主義という特徴です。幸福の内容もいろいろあるのですが、一つの説では快楽説、人々の快苦が重要だ、と。またの他には、欲求の充足、欲求を満たすことが重要だ、といったことが言われます。この場合、快苦にしろ欲求にしろ、五人も一人も死にたくないと思っているので、この人たちが死なないという帰結が重要だということになります。

三つ目の特徴として、「最大多数の最大幸福」ということが言われることがありますが、その総和の最大化、足し算の総和の最大化。功利主義というのはときどき「利己的な、ジコチューの説だ」と言われることがありますが、そうではなくて、全体の利益、この場合、全体の幸福、行為が全体の幸福に対して与える影響が重要だ、と。ですから、この場合では、五人か一人かということで、五人の一人一人の幸福を足し算して五人の方が幸福の量が多くなるから、そちらの方を助けるべきだ、とそういうことになると思います。

今の話の中にも半分含まれているのですが、四つ目の特徴として、これが最後の特徴で、公平性があります。全体の利益を考慮するさい、ひとによっては自分の利益が一番大切だとか、自分の家族の利益が大切だとか、そういう人もいるかもしれませんが、そうではなく、一人を一人として数えて誰も一人以上に数えない、そういうところが重要だ。ですので、たとえば、功利主義者の中でも意見が分かれる難しい問題ですが、この五人と一人の誰かが自分の家族であるとか兄弟であるとか子どもであるとか、仲の良い自分の親でけんかもしていない場合に、そのような状況でどっちを助けるか。功利主義の原則的には、一人は一人として助ける、と。自分のおじいちゃんだから五人分には数えない。こういうことが重要だということになります。

これが簡単な功利主義の説明になります。

 

 

本作のテーマ「主人公が一人を救うために東京水没をもたらしたこと」は「一人の少女の命」と「東京中心部の都市機能」の対比をイメージさせる。

主人公が結果的に後者よりも前者を選ぶというストーリーは功利主義を肯定するか否定するかという視点を観客に示しているようにも感じられる。

 

筆者が功利主義という言葉を知ったのは中高のときに読んだ『哲学用語図鑑』だったが、高校の倫理政経や世界史とかでも功利主義に関する記述はありそうなので、本作を観て功利主義を連想する人は筆者以外にもいるだろうなと思い、「天気の子 功利主義」などといった語句を検索すると、一つのnote記事がヒットした。

 

「天気の子」から見る功利主義の否定と抵抗権|ねおねお (note.com)

 

このnote記事へのレビューは最後に行うこととして、「ねおねお」なるネット民のように、「東京中心部よりも一人の少女の命を選ぶような功利主義は間違っている」と主張する者は多い。

 

確かに、本作において、東京中心部の巨大災害で人が死んでいるような描写はない。

それゆえ「東京中心部が沈んだって人が死ぬわけじゃない。だったら一人の少女の命を守るべき」と感じてしまう観客が散見されるのだろう。

しかし、あれだけの巨大災害が起こって、一人も犠牲者が出ないということは果たしてありうるのだろうか。

 

本作は現実の東京を極めて高い水準で再現した作品となっている。

小説版によると、主人公にかけられた嫌疑は刑法95条の公務執行妨害罪、刑法199条および203条の殺人未遂罪、銃刀法3条違反、鉄道営業法37条違反であるとのことで、法制度も現代日本を忠実に再現したものとなっている。

バニラカー、実在する東京の街の風景、就活に苦労する若者、「恋するフォーチュンクッキー」等の有名曲の登場、2021年(令和3年)という具体的な年号など、新海誠らは本作の舞台がリアルの東京となるよう努めていた。

事実、天候に関するスピリチュアルなフィクション設定を除けば、本作で描かれた東京中心部は現実空間にある東京中心部そのものである。

そうである以上、本作で起こった2年半もの巨大災害の実情を考えるにあたっては、まず、現実の東京中心部であのような巨大災害が起こったらどうなるのかを検討するのが自然だと思う。

 

災害や予期せぬアクシデントが起こったとき、そのダメージに関しては主に二つの意見がある。

 

一つは、ダメージはその地域の人全員に対して平等に生じるという意見で、具体例としては歌手のマドンナがコロナ渦の2020年3月末に「コロナウイルスにとってはあなたがどんなにお金持ちか、有名か、面白いか、賢いか、どこに住んでいるか、何歳か、素晴らしい話ができるかどうかも関係ない。このウイルスは平等をもたらす偉大なものよ」や「ウイルスのひどい点は同時に素晴らしい点でもある。ひどい点はみんなをいろいろな意味で平等にしたこと。素晴らしい点はみんなをいろいろな意味で平等にしたこと。私が毎晩『Human Nature』の終わりでみんなに言っていたように、私たちはみんな同じ船に乗っている。船が沈むときは一緒に沈むのよ」や「差別のないコロナウイルス」とSNSに投稿していた文章などが挙げられる。

 

もう一つは、ダメージは弱い立場の者に偏りがちであるという意見で、前述したマドンナの投稿には「仕事を休めずに働いている人や、具合が悪くても給料が減るのを避けるために働き続けなければならない人や、健康保険がない人などを考えれば、パンデミックで皆が平等になっているなんて言えない」という声があがっていた。

 

筆者は、どちらの意見も間違っていないと考えている。

例えば、コロナ渦ではトランプ大統領やボリス・ジョンソン首相などといった社会的地位の高い人物が新型コロナウイルスに感染し、様々な症状に苦しんでいた。

本作の水没にしても、沈んだ地域の家屋に住んでいた都民は所得の高低に関係なく家屋の喪失を余儀なくされた訳である。

だが、神奈川県の資料や、カリフォルニア州の複数の大学に在籍する研究者などが示しているように、パンデミックによる被害を最も受けたのは社会的に弱い立場の人たちであった。

また、水没という点で共通するタイタニック水難事故においても、一等客の生存率と二等客の生存率と三等客の生存率を比べると、客室のクラスが高いほど生存率が高いという残酷な事実が知られている。

 

結局のところ、前者の意見にも頷ける側面はあるが、それでも後者の意見のほうが正しいケースが多いと考えられる。

 

そのことを踏まえれば、東京中心部の水没で最も被害を受けているのは弱い立場にいる人たちだと言える。

単に新海誠らが本映画で描写するのを避けているだけで、実際にはホームレスなどの弱者の中には水没の被害を受けて亡くなった人たちがいるはずである。

「東京中心部が沈んだって人が死ぬわけじゃない。だったら一人の少女の命を守るべきだ」と主張するのは、実は不正確であり、この主張を正確に言い換えるならば「東京中心部が沈んで弱い立場の人たちが死ぬのだとしても一人の少女の命を守るべきだ」となる。

 

なお、本作はワクチン接種を題材にした作品では全然ないが、本作を観て「東京中心部よりも一人の少女の命を選ぶような功利主義は間違っている」と主張している者は、各国で実施されているワクチン政策をどう感じるのだろうか。

 

ワクチンは副反応が一定の確率で出てしまう。

副反応は微熱や発赤など軽微なものが多いとされるが、後遺症を伴う重篤なものもある。

それでも「ワクチン接種をしたことで生じる副反応の害」よりも「ワクチン接種をしないことによる害」のほうが大きいというエビデンスがあって、医療機関や政府などはワクチン接種を推奨している。

つまり、ワクチン政策は「副反応に苦しむ人も出てくるだろうけどワクチン接種を勧めたほうが社会全体でのメリットは大きいよね」というスタンスで行われており、このスタンスは功利主義と無関係ではない。

 

これまで述べてきたことを考えると、「主人公が一人を救うために東京水没をもたらしたこと」を賛美したり肯定したりする観客は、主人公や天野姉弟に感情移入し過ぎて、水没地域に住む住民のことを軽視しているように感じる。

主人公の行動を賛美し肯定する観客に、「貴方に息子さんがいるとします。その息子さんは家出をしたのち一人の少女を救うために東京中心部を水没させました。貴方は息子さんのこの行動についてどう思いますか」と尋ねたとき、胸を張って「息子を誇らしく思います!」と答える者はどれくらいいるのかなと思う。

主人公の行動を賛美し肯定する観客であっても、心の底から賛美や肯定をしているのかは疑わしく見える。

 

更に言えば、本作のストーリーを紡いだ新海誠本人も主人公の行動を全肯定しているとは限らない。

小説版のあとがきで、前作『君の名は』の予期せぬ規模のヒットと、前作に向けられた批判の数々に対して、新海誠は以下のように語っている。

 

そういう経験から明快な答えを得たわけではないけれど、自分なりに心を決めたことがある。それは、「映画は学校の教科書ではない」 ということだ。映画は(あるいは広くエンターテインメントは)正しかったり模範的だったりする必要はなく、むしろ教科書では語られないことを──例えば人に知られたら眉をひそめられてしまうような密やかな願いを──語るべきだと、僕は今さらにあらためて思ったのだ。教科書とは違う言葉、政治家とは違う言葉、批評家とは違う言葉で僕は語ろう。道徳とも教育とも違う水準で、物語を描こう。

 

これはその通りだと思う。

新海誠は「映画は(あるいは広くエンターテインメントは)」という表現を用いているが、映画やエンターテインメント作品に限らず、全てのフィクション作品は、正しかったり模範的だったり教育的だったりする必要なんてないと筆者も考える。

模範的なフィクション作品があってもいいし、模範的でないフィクション作品があってもいい。

教育的なフィクション作品があってもいいし、教育的でないフィクション作品があってもいい。

問題行動をしてしまうようなキャラクターを主人公とすることで生じる魅力だって存在するはずなのだ。

本作は少なくとも「ありきたりな長編アニメ作品」ではなく、一人の男による作家性が濃厚に感じられる作品である。

中身のないアニメ映画とは真逆の作品であり、RADWIMPSのファンにとって満足度の高い作品であろう。

ここまで作家性の濃いアニメ映画が多数の映画館で上映されていたというのは日本のアニメ文化の底力を示していると思うし、筆者は日本のアニメ文化が持続し、そして発展していくことを強く願っている。

 

 

 

 

 

 

 

最後に、「ねおねお」なるネット民によるnote記事のレビューを行おうと思う。

本記事は<論点><天気の子はいわゆる『セカイ系』><圭介という存在><功利主義の否定><ロックの抵抗権><結論>という節で構成されている。

 

<論点>

本note記事の執筆者は「功利主義の否定」や「ロックの抵抗権の推奨」という二つのキーワードを提示している。執筆者は『天気の子』を非常に高く評価しており、その理由として「既存のセカイ系という設定にアレンジを加えることで受け手にメッセージを訴えかけるための有効な思考装置に昇華させた点」や「帆高は自身の居場所に苦悩する思春期の少年、就活に苦戦する夏美はこどもから大人に変わるモラトリアム期の青年、圭介は理不尽を受け入れながら社会に適応しようと必死でもがく大人、というようにキャラクターそれぞれに各視聴者層に引っ掛るフックを大量に作っている点」などを挙げている。

 

 

 

<天気の子はいわゆる『セカイ系』>

この節には、<「天気の子」が一般的なセカイ系と異なるところは、陽菜と天秤にかけられる世界というモノが緻密に描写をされている点です>という一文がある。筆者はセカイ系に疎いのだが、この一文は「大抵のセカイ系作品は『世界の危機』や『この世の終わり』といったスケールの大きい問題が登場するものの、『世界の危機』や『この世の終わり』の描写が抽象的であり、緻密に描かれている訳ではない」という意味なのかなと推測する。

 

そして<通常のセカイ系は主人公を取り巻く限定的な環境(これを「世界」と対比して「セカイ」と称している)での出来事がそのまま世界の存続に直結します。その為に世界に対面している脅威や敵の正体、また主人公を取り巻く国家や組織の動向といった本来存在すべき社会の存在が最大限まで希釈、または触れられないという状況が珍しくありませんでした。しかし「天気の子」では帆高や陽菜の視点を通して多く描かれています。風俗のキャッチに心ない暴力を振るわれる帆高、両親を失い弟を養う為に風俗に身を売ろうとした陽菜。子供である二人には過酷な状況であることは言うまでもありません>と書かれている。これは「主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性」が「セカイ」に対応しているということなのだろうか。

本作では確かに家出少年の行方を追っている警察が登場するが、これを<主人公を取り巻く国家や組織の動向>と呼ぶのは幾分か大袈裟な気もする。そもそも本作は日本という国家の存在感がそこまで強くない作品なように思うのだが、執筆者は筆者とは異なる感想を抱いているようだ。

 

晴れ女のビジネスで人々に感謝をされ、ようやく社会に居場所を見出した二人でしたが、こんどはメディアに取り上げられた事で好機の目を向けられるようになります。その後は帆高を探す警察なども現れ、帆高を住み込みで働かせていた圭介からも「もう来ないでくれ」と一方的に別れを切り出されます。なんとか社会と繋がった二人は、再び社会から絶縁をされたのです。「天気の子」で描かれる『世界』とは、懸命に自分の居場所と繋がりを作る子供達に対して苦難を与え続ける存在でした>と執筆者は論じているが、主人公が東京中心部の交番に行くなり、故郷の神津島へ帰るなりすれば、「社会から絶縁」という状態はあっさりと解消されるのではと思う。

主人公が神津島にいる親から日常的な虐待を受けていた等の設定が観客に明示されているのならまだしも、本映画ではフェリーで東京中心部に向かっているとき主人公の顔にガーゼがあった程度の描写しかない。

そのため「本当に、苦痛を与える人しか主人公の周囲にはいなかったのか」と感じる観客はいるだろう。

 

 

 

<圭介という存在>

この節で、執筆者は「圭介は帆高と同じように社会に傷つけられながらも社会に適応しようと足掻いている人間だ」と論じている。「本当に、苦痛を与える人しか主人公の周囲にはいなかったのか」という疑問はともかく、主人公が東京中心部に到着し、陽菜にハンバーガーを恵んでもらうまでの間、主人公に親切なことをしてくれる都民は確かに登場していない。この意見は妥当だと言えそうだ。

 

圭介は物語の終盤で、陽菜を救うためにビルへと訪れた帆高に大きな壁として立ちはだかります。静止を振り切り陽菜の元へ行こうとする帆高を殴り圭介は言います>という文章があるが、「静止」ではなく「制止」が正しいように思う。

 

作中で陽菜を助ける為に線路を走る帆高を嘲笑する人々の姿がありました。彼らは線路を走るという社会から逸脱した行為を指して笑っているわけですが、なぜ帆高が線路を走らなければいけない状況になったか、そこまで思い至る人間はいません>という箇所に対しては、「騒音を撒き散らし、近隣住民に迷惑をかけている暴走族がいたときに『なぜ彼らは路上を暴走しているのだろうか』と思う人が殆どいないのと似たような理由なのではないかな」と感じた。

犯罪の疑いすらある非常識な行為をしている人が自分の視界に入ったとき、大多数の市民はその非常識さに圧倒されて当然だと思うし、その市民がその光景についてコメントすることに倫理的な問題があるとは言い難い。

 

この忙しい現代社会においてイレギュラーな行為を起こす他人の心情や動機を理解する余裕などない。仰る通りだと思います。しかし、この言説には大きな矛盾があります。他人の心情を推し量る余裕がない癖に、どうして他人の行動を笑うために足を止める余裕があるのでしょうか?>と執筆者は、さも鋭いことを指摘しているかのような雰囲気を出しているが、過労死した電通の高橋まつりさんの事例を考えれば、「大きな矛盾」ではないことが分かる。

東京大学を2015年3月に卒業し、同年4月に電通に入社した高橋さんは、東京本社デジタル・アカウント部に配属されてインターネット広告を担当していたが、同年10月1日付で本採用となってからは仕事量が急増し、数か月後の12月25日に社員寮から飛び降り自殺を遂げた。

過労に追われているさなか、高橋さんは<帝京大医学部の女の子がテラスハウス出てたけど、その肩書きがテロップに出てる限り「私はめちゃめちゃ馬鹿だけど、親に大金を払ってもらって医者になるよ!」って吹き出しに書いてあるようなものじゃん。>とツイートしている。

このツイート(現在は「ポスト」)は、過労死に至るほど激務な状況下であっても、「縁もゆかりもない人間」を嘲笑したり揶揄したりする程度の「余裕」は存在するケースがあることを示している。

筆者は余裕ではなく「余裕」と鍵括弧をつけている。

というのも、本来、余裕は過労死に至るほど激務な状況下では存在しないはずのものだからだ。

結局のところ、「他人の心情を推し量る余裕がない」は不正確であり、「他人の心情を推し量る動機がない」というのが実態に近いのだと思う。<この忙しい現代社会においてイレギュラーな行為を起こす他人の心情や動機を理解する余裕などない>は<現代社会では忙しさを感じている者が多いし、そもそも彼らには「イレギュラーな行為を起こす他人の心情や動機」を理解する動機がない>とするべきなのではないだろうか。

 

本当は余力がないわけではなく、知らないフリをした方が都合がいいからです。義憤、集団との一体感、自身の正義の実感、様々な自身の利益の為に彼らは知らないフリをするのです。さながら作中の警官なら「自身の労働負担の軽減」、大衆なら自分たちはマトモだという「集団の一体感」といったところでしょう。そうした社会全体の知らないフリ、無関心が個人の権利を脅かしていく誤った功利主義の根幹にある事を示唆しています>に対しては、本映画を視聴しなおした方がいいとすら感じる。

警官や大衆らは異常気象の理由や天野陽菜が巫女になったことについて「知らないフリ」をしているのではなく、単に知らないだけである。

車内で主人公は高井刑事に「陽菜さんは……陽菜と引き換えに空は晴れたんだ。みんな何も知らないで……こんなのってないよ」と泣き叫んでいるが、主人公や天野姉弟の事情を知っている我々観客と、その事情を知るよしもない警官達とでは、この非科学的なコメントへの受け止め方に差が出て当然だろう。

仮に自分が警官で、その車内にいたとしても「鑑定医いりますかね」と真顔で言うと思う。

 

 

 

<功利主義の否定>

この節は、第一段落と、第二段落と、<「まあ一個人が社会にそんな大きな影響を与える事ってまずないけどさ! 仮に! 仮にさ! もしそういう状況になったとして! 罪のない女の子の命と社会の利益、お前ならどっち取る?」そして私はこの雨による水没をロックの抵抗権の行使に通じるものがあると感じました。>という文章の三つから構成されている。

 

第一段落を読んで気になったのは、<もちろん提唱者のベンサムは個人の犠牲を良しとしない但し書きを設けましたが、(量的功利主義は)結果として前述のような全体主義的な誤った用法で用いられることが多いように感じます>という執筆者の感想のほうが誤っているのではないかということである。

あれだけの巨大災害が起これば(単に新海誠らが描くのを避けているだけで)災害による死者が数人以上でてしまうことを踏まえると、<個人の犠牲を良しとしない>の「個人」には「災害による死者一人一人」も該当するはずである。

執筆者の述べていることが正しければ、主人公が結果的に東京中心部を選ぶのもダメということになるし、主人公が結果的に一人の少女を選ぶのもダメということになる。

つまるところ「どちらかしか選べない状況」なのに「どっちもダメ」ということになってしまう。

 

この段落は「(量的)功利主義は全体主義的で誤っている」という論調が漂っているが、例えば功利主義が前提となっているワクチン政策は、全体主義国家だけで実施されているものではなく、世界中の大半の国で幅広く実施されているものである。

ワクチン政策が全体主義的だとは言い難く、功利主義に基づいた政策を全体主義的と捉えるのは無理がある。

 

また、功利主義者はベンサム以外にもいて、ベンサムの量的功利主義を質的功利主義に発展させたジョン・ステュアート・ミルは危害原則を唱え、「個人の自由は最大限みとめられるべきだが、その個人が他人に危害を加える恐れがある場合には制限される」と主張した。

本作では、スピリチュアルな自然のなりゆりによって一人の少女が犠牲になろうとしているのを止めるという自由が、「その自由の行使によって生じる災害地域の住民への危害」につながってしまっている。

つまり、危害原則が該当しうる構図となっている。

もちろん前編で述べたように、「主人公は意識的に選択した」と表現するよりも「主人公は結果的に選択した」と表現するほうが実態に近い訳だが、幸福量の計算よりも幸福の質に重きを置いたジョン・ステュアート・ミルの立場からしても、本作における主人公の選択を正当化するのは苦しいだろう。

 

第二段落を読んで、筆者は「人権は人が作り上げた仕組みに対して主張できるものであって、自然に対して主張できるものではないのでは」と感じた。

自然のスピリチュアルな力は人が作り上げた仕組みというよりも、むしろ自然に属するものだろう。

カルト集団や、民衆への弾圧を繰り返す独裁政権などに対して人権を主張するのは成立の余地があるが、大津波や大地震などに対して人権を主張するのは成立の余地がない。

大津波や大地震をもたらした自然に犠牲者の遺族が怒りや嘆きや絶望感といった心理を抱くのはおかしなことではないだろうが、それでも遺族たちが自然に対して人権を主張するのは、人権自体が自然には元々ないものであることが物語っているように、空虚な行為なのだ。

 

「まあ一個人が社会にそんな大きな影響を与える事ってまずないけどさ! 仮に! 仮にさ! もしそういう状況になったとして! 罪のない女の子の命と社会の利益、お前ならどっち取る?」は、「まあ権力者とか大富豪とかを除けば、一個人が社会にそんな大きな影響を与えることってまずないけどさ! 仮に! 仮にさ! もしそういう状況になったとして! 『罪なき女の子一人の命』と『罪なき女の子一人の命を救う代わりに、東京中心部を水没させて、その地域の罪なき住民らの暮らしを奪い、その地域で弱い立場にある罪なき人たちの命を危険にさらすこと』、お前ならどっち取る?」とするほうが正確だと思う。

 

この節の最後に「そして私はこの雨による水没をロックの抵抗権の行使に通じるものがあると感じました」という導入文があり、執筆者は次の節で哲学者ジョン・ロックの思想を紹介している。

 

 

 

<ロックの抵抗権>

執筆者はジョン・ロックの抵抗権という用語を説明したうえで<社会の機能不全により陽菜と帆高は社会に自身の権利を脅かされたことで抵抗権を行使する条件が満たされた。陽菜を助けることによってふたたび降り始めた雨は抵抗権という概念の可視化であり、その結果、東京は水没して首都機能を失った。転じて抵抗権の行使によって立法権と執行権が剥奪され、東京という社会が崩壊した>という持論を展開している。

この持論で気になるのは、「首都だの立法権だの執行権だのって近代思想そのものだろうけど、近代思想って前時代的な『自然のスピリチュアルな力』を想定してないんじゃないの」ということである。

近代以前の呪術的な「自然のスピリチュアルな力」が存在する世界で、抵抗権という概念が適応できるのかは不透明な側面がある。

確かに、警察や児童相談所が家出少年に寄り添ったり優しい態度をとったりしているのかは怪しい。

だが、警察や児童相談所が「スピリチュアルな自然のなりゆりによって一人の少女が犠牲になるのを止めたいという主人公の希望」に沿っていないからといって、それを機能不全と主張するのは論理が飛躍している。

警察や児童相談所は「自然のスピリチュアルな力」を想定して運営されている組織ではないし、そこで働いている者たちは法制度に反することを行いたい場合でも職務上の制約により行えないという立場にある。

 

執筆者は「行政が本来助けに入るべきところで機能を果たさず、関与しなくてもいいところで機能して邪魔をする構造、これはマートンが提唱した『官僚制の逆機能』に他ならないでしょう」と述べているが、これは官僚制に問題があるのではなく、今の日本の法制度が親権を強く設定していることによる問題だと思う。

たとえば、主人公がバイト先で年齢を18歳と偽っていたのは、労働基準法や民法などのせいで18歳未満の就労に大きな制限が存在することと関連している。

また、親権が及ぶのが18歳以下の子ではなく、15歳以下の子であったなら、主人公の親が警察に行方不明者届(旧捜索願)を出したとしても、警察は主人公の違法行為を把握するまで捜索に消極的な対応をとったであろう。

また、主人公は刑事に「ただまあ彼はまさにいま人生を棒に振っちゃってるわけでして」と指摘されるほど犯罪を重ねていた。

執筆者は「作中において警察や児童相談所といった行政が陽菜と帆高に恩恵をもたらした描写が一回でもあったのか」と問いかけているが、陽菜と児童相談所の件は兎も角、もし警察が犯罪行為を重ねている者に恩恵ばかりもたらしているとしたら逆に問題だと思う。

 

この節は<新海誠が若者に対してのメッセージを「天気の子」に仕込んでいるのは間違いないでしょう。そのメッセージの一つとして、これは親でも友人関係でも学校でも職場でもなんでもいいのですが、自身を守ってくれない、または脅かそうとしている上位存在に従順に迎合し続ける必要はないというメッセージの様に感じられました。実際、学生アルバイトを食い物にした労働法違反行為など無知な子供をターゲットにした違法行為は現実に存在しています。そうした理不尽に対して「でも、逆らったって仕方ないし……。自分にも落ち度はあるし……」と泣き寝入りをしてきた大人になってきたのが圭介です。しかしこのような慣習が続いていけば大人は子供たちに「いや、でも自分たちは受け入れて生きてきたから」と、理不尽や違反を受け入れさせようとするでしょう(前述の通り、圭介の大人になれよ発言はまさにこれです)。陽菜のような特殊能力は持っていないにしても、我々人間には生命や権利を脅かす相手に抵抗をする権利があるのだということを東京の水没という象徴的な結末で訴えかけているように思えるのです>という文章で結ばれている。

だが、これは、既存の法制度に則って抵抗するのか否かという点における一貫性が欠けているように思う。

 

執筆者は主人公の言動を肯定しているが、主人公は刑法95条の公務執行妨害罪、刑法199条および203条の殺人未遂罪、銃刀法3条違反、鉄道営業法37条違反などに抵触しうるような違法行為に手を染めている。

その一方で、執筆者は<実際、学生アルバイトを食い物にした労働法違反行為など無知な子供をターゲットにした違法行為は現実に存在しています……陽菜のような特殊能力は持っていないにしても、我々人間には生命や権利を脅かす相手に抵抗をする権利があるのだということを東京の水没という象徴的な結末で訴えかけているように思えるのです>と語っており、「違法行為という理不尽に対しては抵抗(をする)権(利)がある」という論調である。

これは違法行為を許容するのか否かという点での一貫性が欠落しているのではないだろうか。

 

 

 

<結論>

執筆者は<それ故に一部批評で見られる「天気の子は従来のセカイ系同様に、周りの見えていない子供が正常な判断を持たずにイタ恥ずかしい行動を美化した作品」という考察は、作品文脈の明らかな誤読であると断言します>などと語っているが、文法的に整った文章に修正するならば、<それ故に一部批評で見られる「天気の子は従来のセカイ系同様に、周りの見えていない子供が正常な判断を持たずにイタ恥ずかしい行動をするのを美化した作品」という考察は、作品文脈の明らかな誤読であると断言します>となるだろう。

筆者も「天気の子は従来のセカイ系同様に、周りの見えていない子供が正常な判断を持たずにイタ恥ずかしい行動をするのを美化した作品」という意見は正しくないと思う。

何故なら、主人公の行動は「イタ恥ずかしい行動」などという軽いノリのフレーズでは言い表せないほど深刻かつ重大な結末をもたらしているからだ。

主人公の衝動性や無鉄砲さは一つの大国の首都に大打撃を与え、数百万人もの民衆の故郷を消滅させるに至った。

 

なお、ここでいう「作品文脈」は、「新海誠が全くの異世界ではなく新宿という舞台を選んだのか」「なぜ圭介が帆高と似ているという情報を何度も残しているのか」「なぜ雨で東京を沈没させる展開にしたのか」といったことを指している。

 

文脈から作者の意図を想定し要素を勘案した結果、誤った功利主義の思想を用いて個人の権利を踏みにじる行為の批判と、相手が間違っていると自身が確信しているのなら異を唱えて抵抗をする権利があるのだというメッセージが込められていると結論付けました、以上>という締めの文章を読み、筆者は「執筆者は主人公や天野姉弟ばかりに目を向けるのではなく、水没地域で暮らしていた数百万人もの住民などにも目を向けてみると良いのかもしれない」と感じた。