慣れって恐ろしいなと思う。

例えば電車に乗ると一部の車両が女性専用車両(女性専用車)になっていることがしばしばある。

米国などで、黒人による白人への犯罪が電車内で複数回あったことを理由に「有色人種が乗車できない白人専用車両」を運行する鉄道会社が現れたならば、大々的に問題視されるはずである。

ところが、日本の鉄道会社は「痴漢がいるからしょうがない」などといった常套句と共に女性専用車両を何十年以上も運行している。

女性専用車両という制度が法律や条例で公的に定められているのならば、このような差別に疑問を抱かない人が多数いたとしても不思議ではないだろう。

だが、そもそも日本の場合、女性専用車両という制度は法律や条例で定められているものではない。

司法も女性専用車両の導入は乗客の任意の協力の下でのみ実施されるという見解を示している。

女性が痴漢被害を警戒するのは全然おかしなことではないし、多くの女性乗客にとって女性だけの空間が「痴漢のリスクがほぼ無くて快適」に感じられるというのも分かる。

だが、その快適な空間は大半の男性乗客が「同じ運賃なのに特定の属性しか乗れないような車両」の存在を許容し、女性専用車両へ入るのを善意で控えているから成立しているに過ぎない。

ヤフー知恵袋で「体も心も女性」という方が隣の普通車両は満員電車なのに女性専用車は或る程度ゆとりがあることなどに関して女性専用車両への違和感を表明しているように、ジェンダー平等やポリコレの風潮が強まりつつある今後の社会では女性専用車両という制度が揺らいでいく可能性もある。

善意で成り立っている制度を「あって当然の制度」だと認識するのは冷静さを欠いている。

 

 

 

海外でも似たような状況が起こっている。

 

ビール飲むのもストレスたまる、米国流のチップが英国パブ文化を侵食(Bloomberg)

 

「心づけ」やチップは本来「素晴らしいサービスをしてくれた従業員に感謝の気持ちを伝える手段」に過ぎない。

ところが、欧米、特に米国では「チップは払って当然」という同調圧力が強くなっている。

従業員の雇用主は客の善意に胡坐をかいているという声があがっており、筆者も「従業員はチップ収入が仮になくとも生計を立てられるほどの賃金を雇用主から受け取っているのが望ましい」と考える。

 

 

 

日本には学校保健安全法という法律があり、学校健診(学校検診)が全国の学校で行われている。

学校健診は拘束時間が長い割には報酬が低く医者個人の視点でいえば儲からない仕事である。

だが、医者の中には子供の健康を守っていきたいという善意や理念を持った方が一定数いて、このような利他的な医師たちのお陰で学校健診という制度が成り立ってきた。

現行の制度では、虐待、漏斗胸、側湾症、皮膚病などを発見しやすくするため、男女ともに上半身を裸にして健診することが多い。

もちろん児童や生徒の中には上半身が裸であることや、同性でない医師が検診を行うことに羞恥心を感じる子もいるだろうし、子供たちへの配慮は重視すべきである。

しかし、医学的な必要性があって男女ともに上半身裸で健診しているにもかかわらず「善意で学校健診を行っている医師」に対して「猥褻だ」や「子供の人権を軽視している」などとバッシングする大人が現れている。

人間の善意は無限にある訳ではない。

学校健診という儲からない仕事を引き受けている医師たちも不当なバッシングが激しくなれば、やがて学校健診という仕事から離れていき、学校健診の制度自体が減ったり学校健診の精度自体が下がったりする虞がある。

現役小児科医の森戸やすみ先生は<子供は大人のミニチュアではありませんし、まだ発達の途中です。だからこそ、聴診だけではなく視診、触診もより大切になります。学校健診で服を脱ぐのは「子供の健康を守るために必要があって行うこと」だとご理解いただけたらいいなと思います>と述べていて、自分もその通りだと考えているが、利他的な医師たちの善意によって成り立っている現行の学校健診への風当たりは強くなってきているようにも感じる。

 

 

 

以上で三つの事例を挙げたが、この三つの事例には共通点がある。

それは、「善意で成り立っている制度の受益者は、その善意に慣れきっている可能性が高い」ということである。

日本で女性専用車に乗っている女性乗客の多くは、「この制度に法的な裏付けがある訳ではないという事実」を知らないだろうし、「女性乗客しかいなくて快適な空間」が多くの男性乗客の善意によって成り立っていることすら意識していない。

チップのお陰で従業員への賃金を節約できている雇用主の多くは客がルーティンワークのようにチップを払っていくことに慣れているのだろう。

学校健診の医師を不当にバッシングしている大人の多くも、「健康な子供が多い社会」と「そうでない社会」であれば前者を望んでいるはずである。

現行の学校健診のお陰で少なくない数の子供が健康になっている以上、間接的であるとはいえ彼らも学校健診という制度の受益者なのだが、学校健診のニュースが流れるたびに不当なバッシングを行う彼らにとって学校検診は余りにも見慣れている行事であり、その行事が形骸化したり消滅したりするリスクを軽く考えている。

 

日本において救急車は永らく無料で呼べてきた。

しかし、不要不急なのに119番通報する人々のせいで三重県松阪市などのように有料化の流れも進んでいる。

精神疾患などがある訳でも、急を要する訳でもないのに、119番通報を繰り返してしまう人々は恐らく「なぜ救急車は無料で呼べるのか」を考えたことがないのだろう。

今まで日本は「救急車を呼ぶのを躊躇って患者が重症化したり急死したりするのを防ぐために無料で即ち気軽に救急車を呼べるようにしよう」という善意に基づいて救急制度を整備してきたが、こういった善意で成り立っている制度を「あって当然だ」と思ってしまう人々が増えていけば、そのような制度も揺らいでいくこととなる。

 

他人の善意を当然と思うのは倫理的に問題がある行為であり、社会全体に害を及ぼしうる行為でもある。

他人の善意で成り立っている制度を当然だと思うのは大の大人として相応しいことではないと筆者は考えている。