筆者が10歳にも満たない頃、或る新書が日本で話題となっていた。

書籍名は『国家の品格』であり、著者は藤原正彦であった。

小学生だった頃、父が持っていた本書を手に取って表紙や裏表紙(のカバー)をよく眺めていた記憶がある。

「表紙はタイトル名や著者名を強調した簡素なデザインだな。裏表紙は著者の紹介文と顔写真が載っているな」などというのが第一印象だったかと思う。

筆者は小学生になるまで殆どの漢字を書くことは出来なかったが、日常生活で頻出する漢字の多くをルビに頼らずに読むことは出来たので、本書の裏表紙(のカバー)に載っていた程度の文章を読むことは出来た。

ただし、筆者は10代前半の或る年齢になるまで、文章だけの本を最初から最後まで一気に読むということに苦手意識を感じていたので、成人からすれば大した文字量でもない本書を読み通すということは当時しなかった。

どれぐらい苦手意識を持っていたかと言うと、小学校の図書室に図鑑があったときに、図やイラストに付記された文章が1行や2行程度であれば読むものの、4行や5行を超えるような文章は読み飛ばしていたほどだった。

文字量が重要なファクターであり、長文を読むことに対して疲労感のようなものを感じることもしばしばだった。

 

因みに、この苦手意識は筆者を星新一のショートショートに没頭させる結果となった。

星新一のショートショートは短い作品の場合は見開き1面(和田誠の挿絵を含めても2~3頁ほど)で完結するくらい文字量が少なく、そして内容も面白いものが多かった。

小学校の休み時間、図書室にいることが少なくなかった筆者は、図鑑や学習漫画(『はだしのゲン』も含む)や星作品を読むことが多かった。

文字中心の児童書は星作品に比べれば読む頻度が少なかった。

それらを読むにしても、本の最初の方の章や最後の方の章だけを読むなどといった特殊な読み方をしていた。

文字だけの本や文字中心の本を読むことに対する心理的ハードルは、それぐらい高かった。

 

中学生となった筆者は、或る長期休暇、祖父母の家へ帰省することとなった。

午前に出発し午後に到着する長距離バスに乗り、本書をバスの座席に持ち込んだ。

本書は数ページごとの短い節に分かれた構成となっており、その頃には節の一つを断片的に読む程度のことは出来るような年齢になっていた。断片だけでも「結構この本、読み応えありそうだな」と判断することは容易だったし、父の書架から手に取って節の一つを流し読みすることは中学に入って以降すでに何度かあった。

バスが動き出し、筆者は本書を手に持ちつつ葉加瀬太郎の「ひまわり」のメロディを思いだしたり窓からの景色を眺めたりしていた。

高速バスといっても車輪が停止している時間や、乗り物酔いしない程度の速度で動いている時間は当然ある。

そのようなタイミングで筆者は本書の真ん中あたりのページから本文を読んでいった。

気づくと奥付のページまで進んでいた。

「あれ?最後のページまで来てしまったが…?」と驚きを伴いつつ、今度は最初のページから読み進めていった。

カバーの袖には本書を紹介する文章があり、その文章は7~8行ほどだったかと思うが、その文章もスムーズに読み終わり、目次や本文を開いてゆくと、時の経過を強く感じた訳でもないのに、読み始めた箇所のページまで到達してしまった。

むろん流し読みをしていた訳ではないし、藤原正彦の主張も頭に入っている状態だった。

そのうえで筆者は最初に開いた箇所のページをめくっていただけに、家族や知人も周囲にいない座席にて唖然たる面持ちとなった。

間もなく筆者は自分が一冊の新書や文庫本を部分的にではなく一冊通して読むことが出来る人間になっていたということを悟った。

目的地まではまだ時間もあったので、乗り物酔いを警戒しつつ本書の最初のページから最後のページまで読んでいった。

難解な語彙は殆どない文体であり、熟読といえるほどのことなのかは分からないが、熟読に近いくらい本文をじっくり読んでいったにも拘らず、筆者は大した疲労感もなく本書を読み尽くすことが出来た。

 

筆者個人にとって、本書は文字中心の本を読むという点において余りにも大きな意味を持っている。

書かれている内容も斬新で、未成年だった当時の筆者にとって刺激的なトピックが多数あった。

アングロサクソンと一緒くたにされがちな英国と米国の違い。

論理を駆使する職業である数学者の藤原が論理の限界に気づいていったこと。

ナショナリズムとパトリオティズムを峻別することの重要性。

ラマヌジャンの生い立ちや彼のような天才を産む風土。

桜と薔薇のコントラスト、俳句という独特な日本の文化や精神性などなど、本書では古今東西の話題が豊富に展開されている。

 

その中でも特に印象に残った箇所がある。

その箇所において藤原は「資本主義が共産主義に勝ったのではなく、単に共産主義が机上の空論すぎただけ。現行の資本主義でさえ欠陥だらけの主義」と主張していた。

つまり「資本主義も共産主義も欠陥だらけのシステムだが、共産主義が机上の空論すぎたから先に滅んだだけで、資本主義もいつ滅びるか分からない」という趣旨のことが書かれていた。

中学生ころの筆者は今以上に経済学に疎く、資本主義と共産主義を英語で言えないほどだったが、それでもこの主張には妥当性のようなものを感じ取った。

藤原は資本主義の欠陥として「貧富の差が大きくなりすぎること」とデリバティブを例示したうえで「資本主義の論理を追求していくと、次第に資本主義自体が潰れかねない状況となる」と論じており、当時の筆者は藤原が提示したケース以外の具体例を明示できなかったにも拘らず、「共産主義が机上の空論すぎたから先に滅んだだけで資本主義もいつ滅びるか分からないというのは凄く正しそうだな」という直感を抱いた。

 

成人して数年経つ今の筆者であれば、藤原が提示したような事例よりも端的な具体例を挙げて、資本主義の持続困難性を論じることが出来る。

 

資本主義社会では市場化が進み、資本の自己増殖が加速してゆく。

市場化とは今まで金銭の授受を介する必要のなかった「人と人との交流」に金銭を介在させることと考えうるが、市場化が進むと個人は共同体のためよりも自分自身のために自分の労力や時間を費やすようになる。

たとえば出産や育児は共同体の人口動態を維持するうえで死活問題と言えるほど重要なものであるが、出産や育児に自分の労力や時間を費やすよりも、キャリア形成のために自分の労力や時間を費やすほうが自分の所得や社会的地位は上がりやすい。

結果として資本主義社会では少子化が起こりやすくなり、現状を見渡してみても、移民大国や宗教色の強い国などを除いて多くの資本主義国家は人口減少に苦しんでいる。

人口減少は国内市場の需要の減少に繋がって長期的な不況をもたらし、資本主義が成立するうえで必要不可欠な市場そのものを衰退させてゆく。

このように、資本主義が高度に発達すると次第に資本主義自体が潰れかねない状況となってしまう。

 

『国家の品格』は2005年頃の新書であるにも拘らず、英国王室が男子優先の王位継承権のルールを撤廃したことが絡む箇所などを除き、その殆どが令和の現代日本においても通用する内容となっている。

現在さまざまな賛否を読んでいるポリコレ(ポリティカリー・コレクトやポリティカル・コレクトネスの略称)に言及している箇所などは先見の明がありすぎるとさえ感じる。

本書はハードカバーではなく、手ごろな値段で買うことが出来る。

未読の方は目を通してみても良いと思う。