知り合いに「オーストリアの首都はどこだ」というクイズをしてみたところ「シドニー!」という自信満々なアンサーが来た。

 

 

自分が小学生だったときのことを思い返すと、こんなことを呟いていた知り合いもいた。

「体育とか勉強とかが優れているのって4月とか5月とか6月生まれとかが多いじゃん。僕は3月生まれで色々と不利だなって思う。早生まれの同級生が羨ましいし僕は4月1日に生まれたかった」

勿論これも二重の誤りを含んでいる。

 

 

余談だが、名詞「誤り」や動詞「誤る」を人生で最初に聞いたのは幼稚園に通っていた年齢あたりだったかと思う。

NHKのニュースをみていたときにアナウンサーが「誤って転落…」と述べているのを聞き、当時の私は「この人はアイムソーリーなどと言いながら転落していったのかな」と不思議に感じてしまった記憶がある。

ヤフーのトップ画面に<YouTuberはもう食えないのか 「子どもの憧れ」のはずが迷惑系、暴露系、私人逮捕系、そして逮捕者も>という記事があった。

 

数年前、子どもにとってあこがれの職として挙げられるようになったYouTuber。だが最近は過激な行動を撮影してインターネット上に公開する人も登場し、逮捕者まで出てしまった。

数年前というのは2019年の「小学生の将来就きたい職業ランキング」を指しているのだろうが、子供向け動画を多数あげているヒカキンさんが「好きなことで、生きていく」というYouTubeのテレビCMに出演していたのが2014年であることを考えると、YouTuberは数年前よりも前の段階から子どもにとってあこがれの職だったと考えられる。

 

 

しかし2020年ごろからは、へずまりゅうさんらに代表される「迷惑系」YouTuberが出現。22年にはガーシーこと東谷義和さん(現在は刑事被告人)をはじめとする、「暴露系」と呼ばれるジャンルが確立された。そして、今年相次いだ私人逮捕系YouTuber。それぞれ過激な行動や言動が一定の注目を集めた一方、必ずしも品位があるとは言えない状況が生まれ始めた。

2010年代の時点で炎上系と呼ばれるユーチューバーは多数いた記憶がある。

 

 

収益化の条件に満たなくなったYouTuberは、そもそも動画を公開しても報酬が支払われません。また、YouTubeの広告単価が以前に比べて低い傾向にあるため、収入が減ったYouTuberが増えていると言えるでしょう

筆者もYouTubeで動画投稿しているが、収益などを狙ったことはない。最初から収益目的で動画投稿している者にとっては過酷な時代になっているのだと思う。

 

 

この2年ほど、YouTuberには新たに『教育系』『学び系』といった新ジャンルが誕生するなど、ジャンルの新設には勢いがある一方、(閲覧)ユーザー数の伸びはそれほどでもありません。その結果ユーザーが分散し、動画を公開して再生数が跳ねるということは、5年前に比べると相当起きづらくなってしまっています

ジャンルや好みの多様化は社会のどの領域でも見られるが、YouTubeでも起こっているらしい。

「ひき肉です」などのように突発的な人気発生による「再生数の爆発的な上昇」は近年でも散見されるが5年前に比べると頻度が下がっているとのこと。

 

 

世間の人々の「留飲を下げさせる動画」の過激化が、私人逮捕系を生み出したと言えると思います

報道によると私人逮捕系ユーチューバーは盗撮犯や痴漢や転売ヤー(と動画内で認定された人々)などを攻撃していたという。盗撮犯や痴漢や転売ヤーを憎む庶民は多く、彼らが攻撃を受けて困惑している光景を見て悦に浸る視聴者は少なくなかったと言える。

 

 

 

篠原修司と徳力基彦のコメントも載っていた。

 

 

篠原修司:煉獄コロアキ氏の場合は、「稼げないから過激なことをする」というよりも「過激なことをするやつがYouTubeでも過激なことを始めた」といった方があっているでしょう。
また、YouTuberが稼げないからみんな過激なことをするわけではありません。
たしかに長く続けられているYouTuberほどボリュームというか、企画が大きくなっていく傾向はみられますが、全員がそうではありませんし、少し主語が大きいように感じます。
今回の事例で「過激なことをするとYouTubeからBAN、または収益が剥奪されて結局稼げない」ことが(過去の事例も含めて改めて)わかったわけですから、このことが広めれば今後、迷惑行為をしてお金を稼ごうとする人は減ることでしょう。

 

徳力基彦:迷惑系YouTuberの収益が下がっているのは今に始まったことではありません。
すでにYouTube側では質の高いYouTubeに単価の高い広告が集まる傾向が始まっており、プラットフォーム全体で質を重視する流れになっています。
一方で世の中には収入とは関係なく目立つためだけに迷惑行為を行う人がいるのは、残念ながら年始の回転寿司への迷惑行為でも証明されてしまっています。
今後は、こうした迷惑行為とその対策がプラットフォームの中でもイタチごっこが続くと思われますが、社会的に法的対応を厳しく求める声は強まることになりそうです。

 

 

ユーチューブの広告収益はチャンネル登録者数や公開動画の再生時間などのハードルを超える必要があるが、広告収益停止までには基本的にタイムラグが生じるというのがポイント。つまり、そのタイムラグが長ければ限定的な期間であることに変わりはないものの稼ぐことは出来てしまう。

篠原は<今回の事例で「過激なことをするとYouTubeからBAN、または収益が剥奪されて結局稼げない」ことが(過去の事例も含めて改めて)わかったわけですから、このことが広めれば今後、迷惑行為をしてお金を稼ごうとする人は減ることでしょう>と楽観的な見解を示しているが、この見解は実態に余り即していないように感じられる。

個人的には<世の中には収入とは関係なく目立つためだけに迷惑行為を行う人がいる>と述べる徳力のほうが本ニュースへのコメントとしては的を射ているように思う。

 

 

 

 

ネットで一つの記事を読んだ。

 

梅宮アンナ、50日滞在してわかった「大好きだったアメリカ」の悲惨な現状。育児にベストな国ってどこなんでしょうね|OTONA SALONE[オトナサローネ] | 自分らしく、自由に、自立して生きる女性へ

 

定期的に渡米する生活を長らく送ってきた梅宮アンナは今年の5月に渡米して昨今のアメリカの社会状況を目の当たりにする。

 

サンフランシスコに行って、驚きました。言い方は悪いですけど、町中がゴミとジャンキーだらけなの。あの美しかったサンフランシスコが、どんよりとした町になっていて。


駐車場に止めてある車の窓が軒並み開け放してあるんですよ。なんでかなと思ったら、ガラスを割られて車上荒らしにあうからあえて窓を開けておくんですって。LAだって、あの治安のいいオレンジカウンティで人が撃たれたりして。衝撃でした。

 

アンナは信じがたいほどアメリカの治安が悪化していると述べる。

 

 

私は10代からアメリカに通い、長い間アイラブアメリカ!と言い続けてきました。でも、目が合えばハイ!と挨拶を交わす人々の温かさが、こんなに急になくなるの?と、信じられない思いで50日を過ごしました。人々がどこか殺伐として余裕がなくて、そこかしこでけんかも見かけて。悲しくなって帰ってきて、それからはアイラブジャパン!です。あまり語られませんが、これが現在のアメリカの状況だと思います。

 

「渡米経験のなかった日本人が初めてアメリカを訪ねたことでアメリカに抱いていた幻想を失った」のではなく、「10代の頃から渡米しアメリカ好きだった日本人が最近になってアメリカの現状を悲しく思うようになった」というのがポイントな気がする。

 

 

では、わが子はどの国にいれば将来にわたって安全かつ安心なのか? 日本円がこれだけ弱くて、日本そのものの先行きも明るくない。いっぽうのアメリカだって、このように世紀末みたいな状態です。

 

日本は日本で深刻だし、米国は米国で深刻ということを述べているのだろう。

 

 

わが家は娘を小学生からインターナショナルスクールに進学させました。私、梅宮家をお金持ちと思ったことはなかったけれど、お金に大きな苦労もない家でした。でも、インターはお金持ちのケタが違いました。たとえば学費が年間1人350万かかりますが、そんな学校に子どもを3人4人と通わせているお家が普通にあるんです。

 

資本主義社会では貧富の格差がどうしても発生してしまう。日本でも若い世代を中心に親ガチャというスラングが流行するようになっている。

 

 

そんな環境にいると、勘違いを始める子どももいます。「お母さんたちはお金持ちだけど、それは親のお金であって、子どもたちのお金ではないよ、別の話だよ」ときちんと教育できればいいけど、それはなかなか難しいんですね。

 

どういう意味で「勘違いを始める子ども」と表現しているのかは詳しく書かれていないが、流石に「親たちのお金は全て子供たちのお金である」と思っている子供はいないのではないか。

先進国では児童労働が禁止されているため子供たちは生きるのに必要なお金を稼ぐことが基本的に出来ない。

よって子供は親などといった養育者から衣食住やお金を受け取って生きることとなる。

「親たちのお金は全て子供たちのお金である」は誤りだが、「親たちは自分の資産の一部を子供のために使う義務がある」は正しい。

 

 

たとえば、お母さんたちはファーストクラスに乗っても、子どもは必ずエコノミーに乗せるような、親は親という教育が必要。それが徹底できたお家は、お互いが納得していい親離れ、子離れをしていたなと思います。

 

子供に不必要な贅沢をさせないというのは真っ当だし、自分も可能な限り質素に育てた方が良いと考えている。ただ、自分がこの親の立場なら家族全員でエコノミークラスに乗るかなと思う。子供の年齢にもよるが、空の旅は何時間もかかることが多いし、子供のことが好きな親であれば成るべく子供のそばにいたいと思うはずなので。

 

 

精神的な面での親離れが難しかったケースも見ました。たとえばお友達の中には、厳しいママの言う通りに必死で努力して、アメリカのいい大学に進学した立派な子がいます。でも、親の言うがままに努力するのは得意だったけれども、自分で決めて選ぶ経験はしてこなかったから、いざ親元を離れると自分が何をすればいいのかも、何をしたいのかもわからなくなってしまって。結局うつ状態に陥り、もう退学して日本に帰りたいと言っていました。

 

こうした例は子どもの教育費に糸目をつけない、裕福なお家の子に多い傾向でした。自分の人生を生きていないとでもいいますか。うつの原因を一つに決めつけるのはよくないことですが、「自分で自分の人生をコントロールできていない」と感じる場合はリスクが上がるのだなと思いました。

 

アメリカの名門私立大学は学力があまりなくとも親の資金力次第で入れると聞いたが、「必死で努力」とあることから、その立派な子の家庭はそこまでの富裕層ではなかったのかもしれない。

もしくは「アメリカのいい大学」というのはアメリカにある公立大学のことなのかもしれない。

なお、その子は「自分が何をすればいいのかも、何をしたいのかもわからなくなっている状態」とのことなので、「自分で自分の人生をコントロールできていない」というのは「自分で自分の人生をどうコントロールすればいいのかが分からない」という感じだったのかなと思う。

 

 

父を何度も怒らせ、手も上げられましたが、それでよかったといま自分で痛感しています。だって、私、親をなめたことがないんだもん。怖いから。私には生きる姿勢そのものを示す「父という正解」があり、それが答えを自分なりに導き出す助けになりました。

 

周囲を恐れさせる者は、畏敬される者と、面従腹誹される者とに分かれる。アンナにとって父は前者だったらしい。

 

 

この時代、どんどん親が怒らなくなっています。自己肯定感という面でそれはいいことかもしれませんが、子どもは怒られ慣れてないから、社会に出たときにおかしいことになってしまう。親は口を出さず「姿勢を示す」ことが大事なのかもしれない。また、他人の目ではなく、子どもの目に自分がどう映るのかを意識すべきなのかもしれないです。

 

叱ると怒るは違うという話をどこかで聴いたことがある。「怒られ慣れる」というパワーワード。子供が自分の親は立派と感じている親は、子供に対して「姿勢を示す」ということが出来ているというのは確かに正しそうだ。

 

 

 

なお本記事では「勘違い」というワードが出てきたが、恐ろしいのは強ち勘違いだとは断定できないことだと思う。

 

「勘違いを始める子ども」という表現を見て筆者は鄭ユラ氏のことを連想した。

ユラ氏は「能力がないならお前の両親を恨め。私の親のことでつべこべいうな。カネも実力だよ」とフェイスブックで主張したり、学校での欠席の多さを指摘した教師に「お前なんて教育相に言って代えてもらえる」と罵声を浴びせたりしたことで知られている。

見落としてはならないことがある。ユラ氏がこれらのような行動に走ったのは、ユラ氏が「自分は親ガチャに成功している」と勘違いしていたからではなく、実際に親の力の恩恵を受けることが出来ていたからである。

 

無論ユラ氏の事例は親が人としてろくでもないモンスターだったケースと言える訳だが、そうでないケースであっても親が死んだ場合、余程のことがない限り、子供は親の資産の一部を相続してゆくこととなる。

また、どんなに質素な教育方針の家庭であっても、基本的に親たちの住む住居と子供たちの住む住居は同じはずである。

つまり、富裕層の親に生まれた子供たちは基本的に富裕層の親が住むような豪邸で暮らすこととなる。

端的に言ってしまえば、富裕層の親に生まれた子供たちが豪邸に居住できているのは、生まれが良かったからである。

富裕層の親に生まれた子供がそうでない子供より色々と恵まれた生活を送れるというのは、ただの事実に他ならないのだ。

 

以上のことを踏まえると、アンナは「勘違い」よりも「思い上がり」と表現した方が正確だったのかもしれない。

 

地方自治体の図書館や学校の図書室は数十年前の本が置いてあることも多い。

私が通っていた小学校の図書室もそうであった。

休み時間に、本棚に並んである古めの本を流し読みしていると、「口がきけない」というフレーズが目に入った。

文脈などから「話したり喋ったりすることができない」という意味だろうと類推できたものの、このフレーズは私を困惑させるのに十分だった。

「『きけない』って『聞けない』ってカンジだよな。でも耳じゃなくて口となっているんだよな・・・」と疑問符が湧いた。

中学に入ったあたりで「口が利く」や「気が利く」などの「利く」に着目して漸く「口がきけない」という言い回しへの違和感が解消された。

 

小学生のとき「シンガーソングライター」という単語を見て「すごく変だな」と感じたことがある。

当時からシンガーが歌手で、ソングが歌で、ライターが書く人だという程度の英語の知識はあったので、「シンガーソングライターはシンガー・ソング・ライターと分けられるけど、歌手・歌・書く人って何かがおかしい」と困惑してしまった。

中高で英語の知識が深まるとともに「シンガーソングライターはシンガー・ソングライターと分けるべきで、この分け方なら『歌手』・『歌を書く人』となり、意味が通る」と納得できるようになった。

 

もう一つ紹介しよう。小学生向けの社会のテキストに歴史という分野があった。自由民権運動というテーマのページに「建白書」という単語があり、「国会と白色って何か関係あるのかな」と不思議に思った。

父に「白色というのは不思議だね」とコメントすると父は「この白は白色という意味ではないだろ」と呟いた。

この呟きに当時の私は「え?」と感じたが、今の私であれば「告白や自白の白という意味だったのだな」と納得できる。

 

『ツァラトゥストラはかく語り』を読み進めていくと、「自分は日本人なのに日本語の訳文を完全には読めていないのではないか」という不安を感じることもある。

日本語の言葉が持つ複雑さと奥深さは魅惑的であり、蠱惑的でさえある。

2023年9月25日に発表された「適菜収のメールマガジン vol.217」で哲学者の適菜収さんはタレントの茂木健一郎さんを酷評した。

冒頭にある「系譜で読む」というコラムは系譜の重要性を論じた内容となっている。

 

 

―系譜で読む
前回このメルマガの「読者からのお便り」コーナーで鮨屋の系譜の話を少ししたが、どのジャンルでも系譜を追うことは大事だと思う。たとえば読書をするときに系譜のようなものが頭の中にあれば、次になにを読めばいいか、おのずとわかってくる。歴史の中に位置づけられていないピンポイントの知識は、実際にはあまり役にたたない。
たとえば大衆社会について考えるときに、フロムの西欧近代の分析を読んで面白かったら、ホルクハイマー、アドルノ、ベンヤミン、マルクーゼを読むことになる。フランクフルト学派という括りなら、第3世代~第4世代まで含めれば膨大な量になる。
『道徳の系譜』を書いたのはニーチェだが、その影響を受けたフーコーは「系譜」そのものを扱った。
系譜を理解していないと、足元をすくわれる。
卑近な例で言えば、先日、脳科学者を名乗る茂木健一郎が、「ジャニーズにだまされる人は、芸術の教養が根本的に欠けている。クラシックからロック、ポピュラーまで、音楽のほんものに触れていれば、SMAPや嵐には騙されない。ジャニーズを聴くんだったら、モーツァルトやビートルズ、ボブ・マーリーを聴いた方がはるかに深く世界に通じる教養が身につく」とツイート。一昔前に流行った「中2病」ってやつですね。
某音楽家が「この方、解散騒動の時はSMAP絶賛してたよね。今はモーツァルトと比べて蔑む。炎上か、風見鶏か、ダブスタか知らないけど、芸術教養の前に品が無いなと感じます」と茂木を批判していたが、たしかにそれ以前の話。モーツァルト、ビートルズ、ボブ・マーリーという並べ方自体が頭悪そう。
音楽も系譜で聴いたほうが楽しいと思います。

 

 

このコラムを読み、まず「足元をすくわれる」という誤記に気づいた。

筆者が「足元をすくわれる」の誤記を本で初めて見かけたのは父方の実家の本棚にあった森一郎の『試験にでる英単語』だった。

『試験にでる英単語』の日本語の文章に「足をすくわれる」とすべきところを「足元」とする誤りがあり、「学習参考書でもこういった誤記はあるのだな」と当時10代だった筆者は軽く驚いた。

誤記の中には典型的というべきものがあり、「単刀直入」を「短刀直入」とする誤り、「掛けがえのない」を「欠けがえのない」とする誤りなどは見かける機会も少なくない。

 

「足をすくわれる」は「隙を突かれて失敗に追い込まれる」という意味の慣用句であり、「こんなようでは足をすくわれる!」と考えている書き手自身が日本語を正しく用いることに失敗しているという状況は何とも言えない印象を受ける。

 

適菜さんは「モーツァルト、ビートルズ、ボブ・マーリーという並べ方自体が頭悪そう」とも述べているが、モーツァルトはクラシック音楽家であり、ビートルズは世界的に有名なロックバンドである。これらを踏まえるなら、「モーツァルトやビートルズ、ボブ・マーリー」という箇所は「クラシックからロック、ポピュラーまで」と対応しているのかなと判断しうる。

 

もっと系譜にそって音楽家を列挙すべきだったというのは間違っていないが、ツイートには字数制限などもある。

レゲエはポピュラー音楽の一ジャンルと捉えうるが、ボブ・マーリーと聞いて直ちにポピュラー音楽を連想する人は多くないだろう。

ボブ・マーリーよりも、キング・オブ・ポップで知られるマイケル・ジャクソンなどの人物のほうが読み手にポピュラー音楽を連想させやすく無難だったように思う。

民放のゴールデン番組でエガちゃんが下品なことをしていたとする。

これをみて民放に苦情を入れる人がいたとしてもおかしなことではない。

 

YouTubeチャンネル「エガちゃんねる」でエガちゃんが下品なことをしていたとする。

これをみて「エガちゃんねる」に苦情を入れる人がいたとしたら驚くべきだろう。

少なくとも、そういった頭のおかしいことをする「頭のおかしいやつら」はいないはずである。

 

 

5ちゃんねる嫌儲板に「子供の時、よくこういう旅館に連れて行かれてワクワクしたわ」という一文から始まるコピペがある。

 

 

77 :番組の途中ですがアフィサイトへの転載は禁止です (ワッチョイW 7ee5-ET9P):2020/12/21(月) 00:15:54.74 ID:Iw2fnhuj0
子供の時、よくこういう旅館に連れて行かれてワクワクしたわ
あの頃といえば親もまだ薄給で、精一杯の家族サービスとして無理してこういう旅館連れて行ってくれた
まあ会社の福利厚生のボロ施設なんだけど
うちの母ちゃんもなんだか本当に幸せそうで、普段着ない浴衣姿で妹と合わせてトランプとかやってさ
早く寝るんだけど、その時の静けさと障子越しの月明かりがなんとも言えない雰囲気
朝は早々に起きて、近くの観光地巡って、お昼はそば食べて
でも、有給は長くないから2日で家に戻っちゃう
とても楽しいけどすぐ終わる旅
両親と違って俺はそういう家庭は築けてないし、築けそうもない
俺もあんなふうに誰かを幸せにしたかった

 

 

「子供の時、よくこういう旅館」の「こういう旅館」とは一体なんなんだろうと思い、このコピペの初出を調べていくと、<【画像】「男の子って……こういうのが好きなんでしょ……?」 5.8万いいね 俺も好きだわ>というスレッドが見つかった。

 

「俺もあんなふうに誰かを幸せにしたかった」という結びで知られる名コピペが、下らない釣りスレッドから生み出されていたというのは意外だった。

 

ハッカーという外来語は本来「コンピューターについて深い専門知識を持ち、寝食を忘れるほど没頭している人」という意味である。

しかし、「深い専門知識を使ってコンピューター犯罪に手を染める人」のことをハッカーと呼ぶケースが目立ったためなのか、現在はハッカーと言えば「コンピューターについての深い専門知識を持ち、寝食を忘れるほど没頭している悪人」のことをイメージする者が多い。

そのため、犯罪に手を染めていないハッカーのことを、わざわざ「ホワイトハッカー」と称する風潮すら見られる。

 

クレーマーという外来語においても似たような現象が起こっている。

クレーマーは本来「クレームを言う人」「苦情を述べる人」という意味である。

しかし、「執拗にクレームを言う人」や「店側に大した問題がないにも拘らずクレームを言う人」のことをクレーマーと呼ぶケースが目立ったためなのか、現在はクレーマーと言えば「執拗にクレームを言う迷惑な人」のことをイメージする者が増えてしまっている。

本来の意味を考えるなら「常識の範囲内にあるクレームを言う人」も「執拗にクレームを言う迷惑な人」もクレーマーと呼ばれるはずなのだが、現代の日本では後者のみをクレーマーと呼ぶことが多い。

 

ハッカーに関して言うと、「深い専門知識を使ってコンピューター犯罪に手を染める人」のことはハッカーではなくクラッカーと呼ぶべきだという声があがっているようである。無論、これはホワイトハッカーという表現と関連している。

クレーマーに関してもホワイトクレーマーに類するような造語があってもよいのかなと個人的には思う。

 

2022年10月ころ筆者がTwitterを眺めていると「蛙化現象」というトレンドを見かけた。

そのトレンドをクリックすると「蛙化現象」の意味を図解したツイートなどが視界に入った。

そして「片想いの相手が自分に好意をもったり振り向いてくれて両想いになったりした途端に相手のことに興味が無くなってしまったり冷めたり嫌いになってしまったりする女性」がいると知り、驚いた。

 

だが、2023年に入ったあたりで「蛙化現象」を別の意味で使っている人が見られるようになった。

その時期を境に「恋人のちょっとした行動や様子が原因で急に覚めてしまうこと」を「蛙化現象」と呼んでいる若者が散見されるようになったのである。

2023年4月公開のニュース記事(CBCテレビ「チャント!」4月13日放送)でも意味の変遷が指摘されている。

 

YouTubeで検索すると2021年10月の動画2022年12月の動画で「恋人のちょっとした行動や様子が原因で急に覚めてしまう」という意味で使われているのが確認できた。

 

気になるのは意味の変遷の早さである。

前述した2022年9月15日の記事では「恋人のちょっとした行動や様子が原因で急に覚めてしまう」という語釈は載っていない。仮に2022年9月頃は、一部のユーチューバー界隈などを除き、新たな意味が定着していなかったとするならば、たったの数か月で「蛙化現象」が新たな意味で使われるようになったということとなる。

言語学の世界では「言葉の意味は時代によって変わってゆく」とよく言われてきた。

だが、「蛙化現象」の意味の変遷は短期間で発生しており、「時代によって変わってゆく」と表現できる範囲を超えている。

 

短期間で意味が変遷した要因としてはネット文化の伝達速度の速さが挙げられるやもしれない。

一部の動画投稿者が「蛙化現象」を本来とは別の意味で使った動画が、動画サイト内で拡散され、「蛙化現象って、恋人のちょっとした行動や様子が原因で急に覚めてしまう現象のことなんだ」と認識してしまった若者が短期間で多数あらわれ、動画サイトの外部でも新たな意味が広がったという可能性がある。

そもそも筆者が「蛙化現象」という用語を知ったのもTwitter経由であり、Twitterにトレンド機能がなければ筆者は未だにその単語を知らないままだったかもしれない。

 

ネットの歴史を振り返っても「中二病」「壁ドン」「同人ゴロ」など意味が変わっていった用語は多い。

 

意味の変遷は元の意味を知っている者からは誤用とみなされうる。

誤用は「檄を飛ばす」や「にわかに」や「破天荒」や「流れに棹さす」など「少し古風だったり現代人にとって馴染み深くなかったりする言葉」に起こりやすいと思われがちだが、「蛙化現象」などのように比較的モダンな単語でも普通に起こりうるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2023年の或る日、YouTubeで『クレヨンしんちゃん』に関する一つの動画を見かけた。

 

みさえ(母)が便秘に苦しんでおり、ひろし(父)が「しんのすけ」に「いいかくれぐれも、みさえを怒らせるようなことは言うなよ。たとえば『尻がたるんでる』とか『しわが増えた』とか『便秘怪獣うんこマン』とか」などと忠告したところ、ひろしの背後にみさえがいて、みさえがひろしを連続でビンタするという動画であった。

ビンタの被害を受けたひろしは両頬が膨れ上がるほど腫れてしまっており、鼻血も出ていた。

 

コメント欄を見ると、「連続ビンタ…面白過ぎます」などといったコメントが多かった。『クレヨンしんちゃん』はギャグアニメだし、このシーンもギャグシーンとして製作されたのだと思われる。

 

これを見て私は或ることに気づいた。それは、これが男女逆だったらギャグとして成り立たないのではないかということである。

みさえが「しんのすけ」に「くれぐれもパパを怒らせるようなことは言わないこと。たとえば『安月給マン』とか『靴下悪臭野郎』とか」などと言ってるのを聞いたひろしが、みさえを連続でビンタするシーンが仮にあったなら、このシーンで大笑いする視聴者はいないはずである。

 

これはキャラの性格が影響しているのかもしれないし、便秘という題材のおかしさが影響しているのかもしれない。

 

もし「女性が男性に暴力をふるうのは社会的に容認されやすいという傾向」が存在するのであれば残念だし、この傾向が『クレヨンしんちゃん』のこのシーンと無関係でないのならば更に残念だと個人的には思う。