私は紅白歌合戦をたまにしか見ていない。

年末に本番組をフルで視聴したことは人生で数回ほどだと思う。

だが、そんな私でも近年の紅白歌合戦に関して気になっていることがある。

それは、男女対抗という形式と、短縮バージョンでの歌唱・演奏が多すぎる点である。

 

出場アーティストの大半が演歌歌手やシンガーソングライターなどで占められていた時代であれば、女性アーティストを紅組に、男性アーティストを白組に割り振るだけで良かったのだろう。

だが、男女混成のバンドや音楽グループが多く出場するようになり、LGBTなどといった概念が社会に普及するようになると、紅組か白組かの二択がややこしいというケースも増えてゆく。

この問題点への解決策を考えるならば、紅白歌合戦を男性部門・女性部門・視聴者部門のそれぞれでMVPを一つ(一人)ずつ決める大会に変更する案などが挙げられるかもしれない。

男女混成のバンドや音楽グループ、そしてLGBTのアーティストなどのために、男性部門でも女性部門でもない部門として視聴者部門という新たなカテゴリーを新設すればよいのではないだろうか。

余談だが、視聴者部門というネーミングは「既存の男性部門・女性部門ではなく、視聴者のための新たな部門」というイメージに基づくものであり、それ以外の意味は特にない。「第三部門」や「新規部門」や「新設部門」というネーミングでも別に良いと思う。

 

ちかごろジャニーズ事務所が消滅するという出来事があったが、それ以前は大量のジャニーズファンが視聴者投票に参加し、白組に票を投じるという現象が問題になっていた。

このような票の偏りも「紅組全体と白組全体で競争する現行システム」から「紅組・白組・第三部門のそれぞれで最優秀賞を選ぶシステム」にすることで大幅に緩和されるであろう。

 

また、番組に出場するアーティスト数を絞るかわりに、歌唱・演奏を短縮バージョンではなくフル・バージョンで流すことも検討すべきだと思う。

今や、自分が興味を抱いているアーティストの曲は動画サイトや配信アプリを使えばフル・バージョンで聴くことができる時代だというのに、年末にテレビをつけて紅白歌合戦をみても短縮バージョンしか聴けないというのは色々と問題があるかもしれない。

 

以上で紅白歌合戦のリニューアル案を述べたが、「紅白歌合戦で最も重要な要素は歌や演奏である」という大前提だけは見落とすべきでないと私は考える。

「けん玉のギネス世界記録チャレンジ」のように本番組でなくでも出来るような企画に熱を出すよりかは寧ろ、本番組で最も重要な要素を最大限いかせるような番組作りに熱を出すほうが視聴率はあがるのではないだろうか。

 

 

2022年の秋、筆者は北海道にいた。

人生で一度も入ったことのなかった札幌ドームに足を運んだり回転寿司を食べたりした。

札幌ドームでスポーツ観戦していると、隣の席に香山リカとそっくりな女性がいて「もしや香山リカご本人様かも……」と気になった思い出がある。

そして月曜日の早朝、筆者は羽田空港へ向かう飛行機に乗っていた。

機体の後方から液体が流れるような音が聞こえてきたので後ろを見ると、飲み物の提供を終えたCAたちが或る行為をしていた。

最後列の客席の背後にはトイレや倉庫のようなスペースがあり、そのスペースには排水溝があったのだが、その排水溝に向かってCAたちが紙パックに残った飲み物を素早く捨てていたのだった。

飲み物の種類にもよるのだろうが、リンゴジュースやミックスジュースは1リットルほどのサイズの紙パックに入っている。そして、紙パックから紙コップへ注がれたあと客に提供される。

紙パックの量が前述したように1リットルほどで、紙コップに注がれる量が250ミリリットルほどならば、紙パック一個で紙コップ4回分という計算になる。

一回のフライトで紙コップに注がれる回数が4の倍数であるのならロスは生じないだろう。

しかし、紙コップの回数が4で割り切れない場合は余りが生じることとなる。

一度開封してしまった紙パックは衛生面などの理由で、そのフライトのうちに使い切る規則となっているのだろう。

普通に考えて、あのCAたちは規則通りの作業を行っていたに過ぎない。

だが、開封されて一時間も経っていない飲み物が余りにも淡々と廃棄されている光景を見て、複雑な感情が生じたのは確かだった。

 

 

今年の2月に入って、ヤフーを開くと<勤務先の「スーパー」でアルバイトの子達が勝手に「廃棄予定」のお弁当や総菜を持って帰っています。捨てるものなので問題ないのでしょうか?>という記事のタイトルが画面に映っていた。

ネットニュースを何年も読んでいると、記事のタイトルだけで記事の内容が大まかに推測できてしまうというケースが増えていく。

「無断だと法的に色々まずいはずだし『勝手に』という表現がついていて『問題ないのでしょうか』という文体になっている以上『廃棄予定であっても無許可で持って帰ってはならない』みたいな内容が書かれているのだろうな」と思いながら記事の本文を読み始めると察した通りの内容が書かれていた。

「廃棄予定の食品を持ち帰る場合は必ず店の許可をもらおう」など、記事の内容は無難なものだった。

 

ヤフコメを覗いてみると、様々なコメントがあった。

 

 

wert****:昔、デパートでバイトしていた時は、帰りの時間に従業員用の通用口で地下食料品売り場の残りもの(ケーキとかお弁当類)を安く売っていました。 持って帰らせるわけにはいかないので、捨てるより、少額でも売り上げになったほうがいいからだと思うけどいい取り組みだな、と思っていました。 スーパーも、廃棄ではなく、安価で、欲しい従業員がいたら買わせたらいいと思います。

筆者もいい取り組みだと思う。

 

 

f*****:廃棄するぐらいなら…この緩みが大きな被害になり得る事があります。早めに半額に見切り売り切るようにしないといけないと思うのは、25年スーパーで働いてきた者の考えです。廃棄するのは企業にとってはマイナス金ですが、無料で持ち帰られるという緩みが積み重なると従業員としての気持ちも緩みます。自分が持ち帰りたいものを売り場に出さないとか、自分は廃棄物をもらっているとポロリと口を滑らせ、問題になったことも見てきた自分には、持ち帰りは反対です。売れないものをどうするか?それは企業努力です。持ち帰りを当たり前と捉えてはいけない。

こういう「大きな被害が出ちゃうかも」って思考が食品ロス問題の解決を遠ざけていると考えることは出来るのではないか。従業員が売れ残りを持ち帰りやすい店はそうでない店よりも従業員の気持ちが緩んでいるという統計があるのかは微妙だし、「自分は廃棄物をもらっているとポロリと口を滑らせ、問題になった」に至っては単に黙認の意味が分かってない頭の悪い従業員がいたってだけの話。「持ち帰りを当たり前と捉えてはいけない」とあるが、そもそも「従業員による持ち帰りを許可・黙認している店とそうでない店の両方があるってこと」を知らない人は余りいないはずであり、持ち帰りを当たり前だと捉えている人自体ほとんどいないと思われる。ただ、食品ロス問題の解決策としては「早めの半額見切り」という方法も挙げられる訳で、そのことが言及されているのは妥当だと言える。

 

 

gtl********:高校生の時、近所の個人経営のパン屋でアルバイトしてたけど、家族だけで今日中に食べるように、と店長がよく売れ残りをくれた。家族で団子屋をやってたお婆ちゃんも、売れ残りの団子やいなり寿司をよく持って来てくれた。昔は、自分が作った物を捨てたくない、捨てるくらいなら誰かに食べて欲しい、食べ物屋が食べ物を粗末にしたらバチが当たるって言う人ばかりだった。勝手に持ち帰るのは良くないけど、あげるのがダメなら割引して売り切り、食品ロスを無くして欲しい。食べ物は、作った人や自然や犠牲になってくれた動物達に感謝して、残さず有難く頂く物です。

心の清らかさが伝わってくるコメント。

 

 

btt********:学生時代にスーパー・コンビニ(深夜含)でバイト経験があります。とくにコンビニバイト初日の廃棄の際に『心苦しくなるかもしれないけれど、すぐに慣れるから』と言われたのを覚えております。でも、そんなの慣れたくないしそうはいかないのが人情ってもんですよね。廃棄持ち帰りを容認してもしなくても、バックヤードに隠して廃棄時間を待つ輩もいる。

しょうがない」とか言いながら食べ物大量廃棄の構図に順応しようとする人よりも、その構図に疑問を抱き躊躇するような人のほうが倫理性は高い。飢餓の過酷さを知っていれば、そのような行為に慣れてしまうことの深刻さは容易に理解しうるはずである。食品ロス問題は環境問題や生命倫理の問題も含んでいる。「人情」という語句よりも「道徳心」という語句のほうが正確なようにも感じられる。

 

 

そして2024年4月7日の夜、筆者は2年前の秋と同様に羽田空港への飛行機に乗っていた。

飛行機の機種は2年前と同じであり、航空会社も同じだった。

周囲を見ると、飲み物が載った台車は既に止まっており、片付けの準備が進んでいた。

そのとき、一人のCAが開封されたリンゴジュースの紙パックを持ちながら「リンゴジュースをお飲みになる方はいらっしゃいませんか」と通路を歩き始めた。

筆者の席の付近にいた乗客2人が手を挙げ、CAはその2人にリンゴジュースを注いだあと空になった紙パックを折りたたんで機体後方へ歩いて行った。

素朴であり、温かいものが感じられる光景だった。

 

その十数日後、筆者は一つのニュースを読んだ。

 

セブン―イレブン、おにぎりや弁当の「値引き」タイミングを本部が通知へ…食品ロス削減狙い : 読売新聞 (yomiuri.co.jp)

 

大手コンビニ会社が食品ロス削減の取り組みを強化していると窺えるニュースだった。

ニュースの本文には「昨年5月から行った実証実験では、店舗の1日あたりの売上高が伸び、廃棄量は減少した」と書かれており、このような食品ロス対策は売り手側と買い手側の両方にメリットをもたらすと考えられる。

食品ロス削減のための取り組みが法的にも衛生的にも問題なく行われていけば、環境面や経済面や倫理面などにおいて望ましい社会が期待できるのではないだろうか。

 

 

(5月19日追記)

筆者は5月12日にも新千歳空港から羽田空港への便に乗っていたのだが、5月12日は奇跡的な一日となった。筆者はこの日の体験を「2024年5月12日の奇跡 地獄から天国へ」という動画にまとめた。

大江健三郎は『職業としての作家』で難解なセンテンスを書いている。

 

いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機をあたえられつつ考えることは、作家みなが全体小説の企画によってかれの仕事の現場にも明瞭にもちこみうるところの、この現実世界を、その全体において経験しよう、とする態度をとることなしには、かれの職業の、外部からあたえられたぬるま湯のなかでの特殊性を克服することは出来ぬであろう、ということにほかならないが、あらためていうまでもなくそれは、いったん外部からの恩賜的な枠組みが壊れ、いかなる特恵的な条件もなしに、作家が現実生活に鼻をつきつけねばならぬ時のことを考えるまでもなく、本当に作家という職業は、自立しうるものか、を自省するとき、すべての作家がみずからに課すべき問いかけであるように思われるのである。

 

この一文を見て私は「一文で、この文字量かあ。多いなあ」と感じた。

 

一通り読んだ後、私はこの文が「いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機をあたえられつつ考えることは、作家みなが全体小説の企画によってかれの仕事の現場にも明瞭にもちこみうるところの、この現実世界を、その全体において経験しよう、とする態度をとることなしには、かれの職業の、外部からあたえられたぬるま湯のなかでの特殊性を克服することは出来ぬであろう、ということにほかならない」と「あらためていうまでもなくそれは、いったん外部からの恩賜的な枠組みが壊れ、いかなる特恵的な条件もなしに、作家が現実生活に鼻をつきつけねばならぬ時のことを考えるまでもなく、本当に作家という職業は、自立しうるものか、を自省するとき、すべての作家がみずからに課すべき問いかけであるように思われるのである」に分けられると気づいた。

 

そして、「大江は野間宏の仕事に影響を受けて『作家という職業の特殊性を克服すること』や『作家という職業は本当に自立しうるものかということ』などについて思索しているらしい」と感じた。野間宏の仕事というのは簡単に言えば全体小説のことである。

 

この文はどのように解釈されているのかをネットで調べると、二つのサイトが見つかった。

 

一つ目はQuoraというサイトで、本田勝一『日本語の作文技術』における図や、「日本の言の葉」というユーザーによる図などが載っていた。このサイトでも全体小説が言及されている。

 

二つ目はnoteというサイトで、天才🐾文学探偵犬と名乗るユーザーの記事だった。この記事は何故か大江健三郎とは直接的な関係のない漫画『鬼滅の刃』が後半に突如あらわれるなど独特な内容となっている。

正直に言って、この記事はこじつけが疑われる箇所が複数ある。

たとえば<「全体小説」は金稼ぎのための小説なのです。金+人+本なのです。>は「親は立+木+見なのです」と書くのと同レベルのシュールさだし、<「克服」と実存主義的な言葉を使っていますが、いつまでもぬるま湯に浸っていたいに決まっているのです。作家は働きたくないでござるのです。克服したくないでござるのです。>は「天才🐾文学探偵犬」氏の主観でしかないようにも思われる。

 

ただ、一点だけ目を引く箇所があった。それは「明瞭にもちこみうる」がどの語句に係るのかという点である。記事では二通りの解釈が取り上げられており、「天才🐾文学探偵犬」氏が解釈Aを採用する一方、本田勝一氏は解釈Bを採用している。

 

解釈A:いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機をあたえられつつ考えることは、作家みなが全体小説の企画によってかれの仕事の現場にも明瞭にもちこみうる「この現実世界をその全体において経験しようとする態度」をとることなしには、かれの職業の、外部からあたえられたぬるま湯のなかでの特殊性を克服することは出来ぬであろう、ということにほかならない。

 

解釈B:いま僕自身が野間宏の仕事に、喚起力のこもった契機をあたえられつつ考えることは、作家みなが「全体小説の企画によってかれの仕事の現場にも明瞭にもちこみうるこの現実世界」をその全体において経験しよう、とする態度をとることなしには、かれの職業の、外部からあたえられたぬるま湯のなかでの特殊性を克服することは出来ぬであろう、ということにほかならない。

 

天才🐾文学探偵犬」氏は<「明瞭に」と限定があるのに、全体小説の企画と現実世界の関係が全く不明瞭だから解釈Bは意味が通らない>と主張しているが、「全体小説を企画すること」が「人間を、それを取り巻く現実とともに総合的・全体的に表現しようという試み」であることを踏まえれば「明瞭に(もちこみうる)」という表現が「この現実世界」に係っているとしても意味が通るのではないだろうか。

 

ただ、大江が敢えて2通りの解釈ができるように、この長い文を書いた可能性はあると思う。

というのも、大江は1994年に「あいまいな日本の私」という題のノーベル文学賞受賞記念講演を行っているからだ。

これは川端康成の1968年のノーベル文学賞受賞記念講演「美しい日本の私」を模倣したタイトルとなっている。

「美しい日本の私」は本文を読めば<「美しい日本」の私>という意味だと分かるが、タイトルだけでは<「美しい日本」の私>とも<美しい「日本の私」>とも読めてしまう。

 

『職業としての作家』は『別冊・経済評論』1971年春季号で発表されたようで、時系列としては川端康成が1968年にノーベル文学賞受賞記念講演「美しい日本の私」を行った後に書かれた文章と見られる。

「あいまいな日本の私」が<「あいまいな日本」の私>とも<あいまいな「日本の私」>とも読めるような構造になっているのは論を俟たない。

 

この一文は解釈Aでも解釈Bでも意味が通るし、大江が意図的に二通りの解釈が成り立つような文を書いた可能性もあると私は考えている。

 

最後に、本サイト「An Anonymous Author Analyzes Art Articulately」の本記事や「雑談 大江健三郎の村上春樹評の一文」を読んで「大江って長ったらしい文章ばかり書いちゃう作家なのかな」と感じた読者もいるかもしれないので言っておくと、大江は短いセンテンスで紡がれた作品も普通に書いている。長いセンテンスの作品はどちらかといえば彼が若かった時期に多いとされているが、興味のある方は大江作品を読むために書店などへ足を運んでみても良いのかもしれない。

2024年2月17日、H3ロケット2号機が発射され、JAXAは打ち上げに成功した。

その翌日、宇宙開発のニュースを読む機会の多い筆者は一つの記事を発見した。

記事では、宇宙に向かって飛んで行く2号機を観察する一般人が取り上げられており、記事を読んだ筆者は鹿児島県に南海日日新聞という新聞があることを知った。

その記事は南海日日新聞の公式サイトに載っており、そのサイトの「月別アーカイブ」という欄の真下に7つのバナーがあったので、上から順にクリックしていった。

すると7つの内1つだけ「404 Not Found」となっているものがあった。

それは「本紙・電子版 購読のお申込」というバナーで、クリックすると「お探しのページは見つかりませんでした。」という表示が視界に入ってきた。

新聞社は少しでも購読の数を増やすことに拘っているはずだと考えられるため、筆者は意外に思った。

キャッチコピーの分野において、Intel insideと「インテル入ってる」の対応関係は余りにも有名である。

 

「虫は無視」というフレーズをよく見聞きするが、

If you are correct, you will ignore many an insect.

と訳せば英語でもダジャレになる気がする。

 

イギリス英語のmugには間抜けという意味もあるので、

If you are not a mug, then you must ignore many a bug.

と訳すことも出来る。

 

野球では敬遠のことを「歩かせる」と言うが、これは英単語walkに由来する。

喫煙(きつえん)はsmokeであり、敬遠(けいえん)はintentional walkなので、これもダジャレが成立している。

筆者が10歳にも満たない頃、或る新書が日本で話題となっていた。

書籍名は『国家の品格』であり、著者は藤原正彦であった。

小学生だった頃、父が持っていた本書を手に取って表紙や裏表紙(のカバー)をよく眺めていた記憶がある。

「表紙はタイトル名や著者名を強調した簡素なデザインだな。裏表紙は著者の紹介文と顔写真が載っているな」などというのが第一印象だったかと思う。

筆者は小学生になるまで殆どの漢字を書くことは出来なかったが、日常生活で頻出する漢字の多くをルビに頼らずに読むことは出来たので、本書の裏表紙(のカバー)に載っていた程度の文章を読むことは出来た。

ただし、筆者は10代前半の或る年齢になるまで、文章だけの本を最初から最後まで一気に読むということに苦手意識を感じていたので、成人からすれば大した文字量でもない本書を読み通すということは当時しなかった。

どれぐらい苦手意識を持っていたかと言うと、小学校の図書室に図鑑があったときに、図やイラストに付記された文章が1行や2行程度であれば読むものの、4行や5行を超えるような文章は読み飛ばしていたほどだった。

文字量が重要なファクターであり、長文を読むことに対して疲労感のようなものを感じることもしばしばだった。

 

因みに、この苦手意識は筆者を星新一のショートショートに没頭させる結果となった。

星新一のショートショートは短い作品の場合は見開き1面(和田誠の挿絵を含めても2~3頁ほど)で完結するくらい文字量が少なく、そして内容も面白いものが多かった。

小学校の休み時間、図書室にいることが少なくなかった筆者は、図鑑や学習漫画(『はだしのゲン』も含む)や星作品を読むことが多かった。

文字中心の児童書は星作品に比べれば読む頻度が少なかった。

それらを読むにしても、本の最初の方の章や最後の方の章だけを読むなどといった特殊な読み方をしていた。

文字だけの本や文字中心の本を読むことに対する心理的ハードルは、それぐらい高かった。

 

中学生となった筆者は、或る長期休暇、祖父母の家へ帰省することとなった。

午前に出発し午後に到着する長距離バスに乗り、本書をバスの座席に持ち込んだ。

本書は数ページごとの短い節に分かれた構成となっており、その頃には節の一つを断片的に読む程度のことは出来るような年齢になっていた。断片だけでも「結構この本、読み応えありそうだな」と判断することは容易だったし、父の書架から手に取って節の一つを流し読みすることは中学に入って以降すでに何度かあった。

バスが動き出し、筆者は本書を手に持ちつつ葉加瀬太郎の「ひまわり」のメロディを思いだしたり窓からの景色を眺めたりしていた。

高速バスといっても車輪が停止している時間や、乗り物酔いしない程度の速度で動いている時間は当然ある。

そのようなタイミングで筆者は本書の真ん中あたりのページから本文を読んでいった。

気づくと奥付のページまで進んでいた。

「あれ?最後のページまで来てしまったが…?」と驚きを伴いつつ、今度は最初のページから読み進めていった。

カバーの袖には本書を紹介する文章があり、その文章は7~8行ほどだったかと思うが、その文章もスムーズに読み終わり、目次や本文を開いてゆくと、時の経過を強く感じた訳でもないのに、読み始めた箇所のページまで到達してしまった。

むろん流し読みをしていた訳ではないし、藤原正彦の主張も頭に入っている状態だった。

そのうえで筆者は最初に開いた箇所のページをめくっていただけに、家族や知人も周囲にいない座席にて唖然たる面持ちとなった。

間もなく筆者は自分が一冊の新書や文庫本を部分的にではなく一冊通して読むことが出来る人間になっていたということを悟った。

目的地まではまだ時間もあったので、乗り物酔いを警戒しつつ本書の最初のページから最後のページまで読んでいった。

難解な語彙は殆どない文体であり、熟読といえるほどのことなのかは分からないが、熟読に近いくらい本文をじっくり読んでいったにも拘らず、筆者は大した疲労感もなく本書を読み尽くすことが出来た。

 

筆者個人にとって、本書は文字中心の本を読むという点において余りにも大きな意味を持っている。

書かれている内容も斬新で、未成年だった当時の筆者にとって刺激的なトピックが多数あった。

アングロサクソンと一緒くたにされがちな英国と米国の違い。

論理を駆使する職業である数学者の藤原が論理の限界に気づいていったこと。

ナショナリズムとパトリオティズムを峻別することの重要性。

ラマヌジャンの生い立ちや彼のような天才を産む風土。

桜と薔薇のコントラスト、俳句という独特な日本の文化や精神性などなど、本書では古今東西の話題が豊富に展開されている。

 

その中でも特に印象に残った箇所がある。

その箇所において藤原は「資本主義が共産主義に勝ったのではなく、単に共産主義が机上の空論すぎただけ。現行の資本主義でさえ欠陥だらけの主義」と主張していた。

つまり「資本主義も共産主義も欠陥だらけのシステムだが、共産主義が机上の空論すぎたから先に滅んだだけで、資本主義もいつ滅びるか分からない」という趣旨のことが書かれていた。

中学生ころの筆者は今以上に経済学に疎く、資本主義と共産主義を英語で言えないほどだったが、それでもこの主張には妥当性のようなものを感じ取った。

藤原は資本主義の欠陥として「貧富の差が大きくなりすぎること」とデリバティブを例示したうえで「資本主義の論理を追求していくと、次第に資本主義自体が潰れかねない状況となる」と論じており、当時の筆者は藤原が提示したケース以外の具体例を明示できなかったにも拘らず、「共産主義が机上の空論すぎたから先に滅んだだけで資本主義もいつ滅びるか分からないというのは凄く正しそうだな」という直感を抱いた。

 

成人して数年経つ今の筆者であれば、藤原が提示したような事例よりも端的な具体例を挙げて、資本主義の持続困難性を論じることが出来る。

 

資本主義社会では市場化が進み、資本の自己増殖が加速してゆく。

市場化とは今まで金銭の授受を介する必要のなかった「人と人との交流」に金銭を介在させることと考えうるが、市場化が進むと個人は共同体のためよりも自分自身のために自分の労力や時間を費やすようになる。

たとえば出産や育児は共同体の人口動態を維持するうえで死活問題と言えるほど重要なものであるが、出産や育児に自分の労力や時間を費やすよりも、キャリア形成のために自分の労力や時間を費やすほうが自分の所得や社会的地位は上がりやすい。

結果として資本主義社会では少子化が起こりやすくなり、現状を見渡してみても、移民大国や宗教色の強い国などを除いて多くの資本主義国家は人口減少に苦しんでいる。

人口減少は国内市場の需要の減少に繋がって長期的な不況をもたらし、資本主義が成立するうえで必要不可欠な市場そのものを衰退させてゆく。

このように、資本主義が高度に発達すると次第に資本主義自体が潰れかねない状況となってしまう。

 

『国家の品格』は2005年頃の新書であるにも拘らず、英国王室が男子優先の王位継承権のルールを撤廃したことが絡む箇所などを除き、その殆どが令和の現代日本においても通用する内容となっている。

現在さまざまな賛否を読んでいるポリコレ(ポリティカリー・コレクトやポリティカル・コレクトネスの略称)に言及している箇所などは先見の明がありすぎるとさえ感じる。

本書はハードカバーではなく、手ごろな値段で買うことが出来る。

未読の方は目を通してみても良いと思う。

 

知り合いに「オーストリアの首都はどこだ」というクイズをしてみたところ「シドニー!」という自信満々なアンサーが来た。

 

 

自分が小学生だったときのことを思い返すと、こんなことを呟いていた知り合いもいた。

「体育とか勉強とかが優れているのって4月とか5月とか6月生まれとかが多いじゃん。僕は3月生まれで色々と不利だなって思う。早生まれの同級生が羨ましいし僕は4月1日に生まれたかった」

勿論これも二重の誤りを含んでいる。

 

 

余談だが、名詞「誤り」や動詞「誤る」を人生で最初に聞いたのは幼稚園に通っていた年齢あたりだったかと思う。

NHKのニュースをみていたときにアナウンサーが「誤って転落…」と述べているのを聞き、当時の私は「この人はアイムソーリーなどと言いながら転落していったのかな」と不思議に感じてしまった記憶がある。

ヤフーのトップ画面に<YouTuberはもう食えないのか 「子どもの憧れ」のはずが迷惑系、暴露系、私人逮捕系、そして逮捕者も>という記事があった。

 

数年前、子どもにとってあこがれの職として挙げられるようになったYouTuber。だが最近は過激な行動を撮影してインターネット上に公開する人も登場し、逮捕者まで出てしまった。

数年前というのは2019年の「小学生の将来就きたい職業ランキング」を指しているのだろうが、子供向け動画を多数あげているヒカキンさんが「好きなことで、生きていく」というYouTubeのテレビCMに出演していたのが2014年であることを考えると、YouTuberは数年前よりも前の段階から子どもにとってあこがれの職だったと考えられる。

 

 

しかし2020年ごろからは、へずまりゅうさんらに代表される「迷惑系」YouTuberが出現。22年にはガーシーこと東谷義和さん(現在は刑事被告人)をはじめとする、「暴露系」と呼ばれるジャンルが確立された。そして、今年相次いだ私人逮捕系YouTuber。それぞれ過激な行動や言動が一定の注目を集めた一方、必ずしも品位があるとは言えない状況が生まれ始めた。

2010年代の時点で炎上系と呼ばれるユーチューバーは多数いた記憶がある。

 

 

収益化の条件に満たなくなったYouTuberは、そもそも動画を公開しても報酬が支払われません。また、YouTubeの広告単価が以前に比べて低い傾向にあるため、収入が減ったYouTuberが増えていると言えるでしょう

筆者もYouTubeで動画投稿しているが、収益などを狙ったことはない。最初から収益目的で動画投稿している者にとっては過酷な時代になっているのだと思う。

 

 

この2年ほど、YouTuberには新たに『教育系』『学び系』といった新ジャンルが誕生するなど、ジャンルの新設には勢いがある一方、(閲覧)ユーザー数の伸びはそれほどでもありません。その結果ユーザーが分散し、動画を公開して再生数が跳ねるということは、5年前に比べると相当起きづらくなってしまっています

ジャンルや好みの多様化は社会のどの領域でも見られるが、YouTubeでも起こっているらしい。

「ひき肉です」などのように突発的な人気発生による「再生数の爆発的な上昇」は近年でも散見されるが5年前に比べると頻度が下がっているとのこと。

 

 

世間の人々の「留飲を下げさせる動画」の過激化が、私人逮捕系を生み出したと言えると思います

報道によると私人逮捕系ユーチューバーは盗撮犯や痴漢や転売ヤー(と動画内で認定された人々)などを攻撃していたという。盗撮犯や痴漢や転売ヤーを憎む庶民は多く、彼らが攻撃を受けて困惑している光景を見て悦に浸る視聴者は少なくなかったと言える。

 

 

 

篠原修司と徳力基彦のコメントも載っていた。

 

 

篠原修司:煉獄コロアキ氏の場合は、「稼げないから過激なことをする」というよりも「過激なことをするやつがYouTubeでも過激なことを始めた」といった方があっているでしょう。
また、YouTuberが稼げないからみんな過激なことをするわけではありません。
たしかに長く続けられているYouTuberほどボリュームというか、企画が大きくなっていく傾向はみられますが、全員がそうではありませんし、少し主語が大きいように感じます。
今回の事例で「過激なことをするとYouTubeからBAN、または収益が剥奪されて結局稼げない」ことが(過去の事例も含めて改めて)わかったわけですから、このことが広めれば今後、迷惑行為をしてお金を稼ごうとする人は減ることでしょう。

 

徳力基彦:迷惑系YouTuberの収益が下がっているのは今に始まったことではありません。
すでにYouTube側では質の高いYouTubeに単価の高い広告が集まる傾向が始まっており、プラットフォーム全体で質を重視する流れになっています。
一方で世の中には収入とは関係なく目立つためだけに迷惑行為を行う人がいるのは、残念ながら年始の回転寿司への迷惑行為でも証明されてしまっています。
今後は、こうした迷惑行為とその対策がプラットフォームの中でもイタチごっこが続くと思われますが、社会的に法的対応を厳しく求める声は強まることになりそうです。

 

 

ユーチューブの広告収益はチャンネル登録者数や公開動画の再生時間などのハードルを超える必要があるが、広告収益停止までには基本的にタイムラグが生じるというのがポイント。つまり、そのタイムラグが長ければ限定的な期間であることに変わりはないものの稼ぐことは出来てしまう。

篠原は<今回の事例で「過激なことをするとYouTubeからBAN、または収益が剥奪されて結局稼げない」ことが(過去の事例も含めて改めて)わかったわけですから、このことが広めれば今後、迷惑行為をしてお金を稼ごうとする人は減ることでしょう>と楽観的な見解を示しているが、この見解は実態に余り即していないように感じられる。

個人的には<世の中には収入とは関係なく目立つためだけに迷惑行為を行う人がいる>と述べる徳力のほうが本ニュースへのコメントとしては的を射ているように思う。

 

 

 

 

ネットで一つの記事を読んだ。

 

梅宮アンナ、50日滞在してわかった「大好きだったアメリカ」の悲惨な現状。育児にベストな国ってどこなんでしょうね|OTONA SALONE[オトナサローネ] | 自分らしく、自由に、自立して生きる女性へ

 

定期的に渡米する生活を長らく送ってきた梅宮アンナは今年の5月に渡米して昨今のアメリカの社会状況を目の当たりにする。

 

サンフランシスコに行って、驚きました。言い方は悪いですけど、町中がゴミとジャンキーだらけなの。あの美しかったサンフランシスコが、どんよりとした町になっていて。


駐車場に止めてある車の窓が軒並み開け放してあるんですよ。なんでかなと思ったら、ガラスを割られて車上荒らしにあうからあえて窓を開けておくんですって。LAだって、あの治安のいいオレンジカウンティで人が撃たれたりして。衝撃でした。

 

アンナは信じがたいほどアメリカの治安が悪化していると述べる。

 

 

私は10代からアメリカに通い、長い間アイラブアメリカ!と言い続けてきました。でも、目が合えばハイ!と挨拶を交わす人々の温かさが、こんなに急になくなるの?と、信じられない思いで50日を過ごしました。人々がどこか殺伐として余裕がなくて、そこかしこでけんかも見かけて。悲しくなって帰ってきて、それからはアイラブジャパン!です。あまり語られませんが、これが現在のアメリカの状況だと思います。

 

「渡米経験のなかった日本人が初めてアメリカを訪ねたことでアメリカに抱いていた幻想を失った」のではなく、「10代の頃から渡米しアメリカ好きだった日本人が最近になってアメリカの現状を悲しく思うようになった」というのがポイントな気がする。

 

 

では、わが子はどの国にいれば将来にわたって安全かつ安心なのか? 日本円がこれだけ弱くて、日本そのものの先行きも明るくない。いっぽうのアメリカだって、このように世紀末みたいな状態です。

 

日本は日本で深刻だし、米国は米国で深刻ということを述べているのだろう。

 

 

わが家は娘を小学生からインターナショナルスクールに進学させました。私、梅宮家をお金持ちと思ったことはなかったけれど、お金に大きな苦労もない家でした。でも、インターはお金持ちのケタが違いました。たとえば学費が年間1人350万かかりますが、そんな学校に子どもを3人4人と通わせているお家が普通にあるんです。

 

資本主義社会では貧富の格差がどうしても発生してしまう。日本でも若い世代を中心に親ガチャというスラングが流行するようになっている。

 

 

そんな環境にいると、勘違いを始める子どももいます。「お母さんたちはお金持ちだけど、それは親のお金であって、子どもたちのお金ではないよ、別の話だよ」ときちんと教育できればいいけど、それはなかなか難しいんですね。

 

どういう意味で「勘違いを始める子ども」と表現しているのかは詳しく書かれていないが、流石に「親たちのお金は全て子供たちのお金である」と思っている子供はいないのではないか。

先進国では児童労働が禁止されているため子供たちは生きるのに必要なお金を稼ぐことが基本的に出来ない。

よって子供は親などといった養育者から衣食住やお金を受け取って生きることとなる。

「親たちのお金は全て子供たちのお金である」は誤りだが、「親たちは自分の資産の一部を子供のために使う義務がある」は正しい。

 

 

たとえば、お母さんたちはファーストクラスに乗っても、子どもは必ずエコノミーに乗せるような、親は親という教育が必要。それが徹底できたお家は、お互いが納得していい親離れ、子離れをしていたなと思います。

 

子供に不必要な贅沢をさせないというのは真っ当だし、自分も可能な限り質素に育てた方が良いと考えている。ただ、自分がこの親の立場なら家族全員でエコノミークラスに乗るかなと思う。子供の年齢にもよるが、空の旅は何時間もかかることが多いし、子供のことが好きな親であれば成るべく子供のそばにいたいと思うはずなので。

 

 

精神的な面での親離れが難しかったケースも見ました。たとえばお友達の中には、厳しいママの言う通りに必死で努力して、アメリカのいい大学に進学した立派な子がいます。でも、親の言うがままに努力するのは得意だったけれども、自分で決めて選ぶ経験はしてこなかったから、いざ親元を離れると自分が何をすればいいのかも、何をしたいのかもわからなくなってしまって。結局うつ状態に陥り、もう退学して日本に帰りたいと言っていました。

 

こうした例は子どもの教育費に糸目をつけない、裕福なお家の子に多い傾向でした。自分の人生を生きていないとでもいいますか。うつの原因を一つに決めつけるのはよくないことですが、「自分で自分の人生をコントロールできていない」と感じる場合はリスクが上がるのだなと思いました。

 

アメリカの名門私立大学は学力があまりなくとも親の資金力次第で入れると聞いたが、「必死で努力」とあることから、その立派な子の家庭はそこまでの富裕層ではなかったのかもしれない。

もしくは「アメリカのいい大学」というのはアメリカにある公立大学のことなのかもしれない。

なお、その子は「自分が何をすればいいのかも、何をしたいのかもわからなくなっている状態」とのことなので、「自分で自分の人生をコントロールできていない」というのは「自分で自分の人生をどうコントロールすればいいのかが分からない」という感じだったのかなと思う。

 

 

父を何度も怒らせ、手も上げられましたが、それでよかったといま自分で痛感しています。だって、私、親をなめたことがないんだもん。怖いから。私には生きる姿勢そのものを示す「父という正解」があり、それが答えを自分なりに導き出す助けになりました。

 

周囲を恐れさせる者は、畏敬される者と、面従腹誹される者とに分かれる。アンナにとって父は前者だったらしい。

 

 

この時代、どんどん親が怒らなくなっています。自己肯定感という面でそれはいいことかもしれませんが、子どもは怒られ慣れてないから、社会に出たときにおかしいことになってしまう。親は口を出さず「姿勢を示す」ことが大事なのかもしれない。また、他人の目ではなく、子どもの目に自分がどう映るのかを意識すべきなのかもしれないです。

 

叱ると怒るは違うという話をどこかで聴いたことがある。「怒られ慣れる」というパワーワード。子供が自分の親は立派と感じている親は、子供に対して「姿勢を示す」ということが出来ているというのは確かに正しそうだ。

 

 

 

なお本記事では「勘違い」というワードが出てきたが、恐ろしいのは強ち勘違いだとは断定できないことだと思う。

 

「勘違いを始める子ども」という表現を見て筆者は鄭ユラ氏のことを連想した。

ユラ氏は「能力がないならお前の両親を恨め。私の親のことでつべこべいうな。カネも実力だよ」とフェイスブックで主張したり、学校での欠席の多さを指摘した教師に「お前なんて教育相に言って代えてもらえる」と罵声を浴びせたりしたことで知られている。

見落としてはならないことがある。ユラ氏がこれらのような行動に走ったのは、ユラ氏が「自分は親ガチャに成功している」と勘違いしていたからではなく、実際に親の力の恩恵を受けることが出来ていたからである。

 

無論ユラ氏の事例は親が人としてろくでもないモンスターだったケースと言える訳だが、そうでないケースであっても親が死んだ場合、余程のことがない限り、子供は親の資産の一部を相続してゆくこととなる。

また、どんなに質素な教育方針の家庭であっても、基本的に親たちの住む住居と子供たちの住む住居は同じはずである。

つまり、富裕層の親に生まれた子供たちは基本的に富裕層の親が住むような豪邸で暮らすこととなる。

端的に言ってしまえば、富裕層の親に生まれた子供たちが豪邸に居住できているのは、生まれが良かったからである。

富裕層の親に生まれた子供がそうでない子供より色々と恵まれた生活を送れるというのは、ただの事実に他ならないのだ。

 

以上のことを踏まえると、アンナは「勘違い」よりも「思い上がり」と表現した方が正確だったのかもしれない。

 

地方自治体の図書館や学校の図書室は数十年前の本が置いてあることも多い。

私が通っていた小学校の図書室もそうであった。

休み時間に、本棚に並んである古めの本を流し読みしていると、「口がきけない」というフレーズが目に入った。

文脈などから「話したり喋ったりすることができない」という意味だろうと類推できたものの、このフレーズは私を困惑させるのに十分だった。

「『きけない』って『聞けない』ってカンジだよな。でも耳じゃなくて口となっているんだよな・・・」と疑問符が湧いた。

中学に入ったあたりで「口が利く」や「気が利く」などの「利く」に着目して漸く「口がきけない」という言い回しへの違和感が解消された。

 

小学生のとき「シンガーソングライター」という単語を見て「すごく変だな」と感じたことがある。

当時からシンガーが歌手で、ソングが歌で、ライターが書く人だという程度の英語の知識はあったので、「シンガーソングライターはシンガー・ソング・ライターと分けられるけど、歌手・歌・書く人って何かがおかしい」と困惑してしまった。

中高で英語の知識が深まるとともに「シンガーソングライターはシンガー・ソングライターと分けるべきで、この分け方なら『歌手』・『歌を書く人』となり、意味が通る」と納得できるようになった。

 

もう一つ紹介しよう。小学生向けの社会のテキストに歴史という分野があった。自由民権運動というテーマのページに「建白書」という単語があり、「国会と白色って何か関係あるのかな」と不思議に思った。

父に「白色というのは不思議だね」とコメントすると父は「この白は白色という意味ではないだろ」と呟いた。

この呟きに当時の私は「え?」と感じたが、今の私であれば「告白や自白の白という意味だったのだな」と納得できる。

 

『ツァラトゥストラはかく語り』を読み進めていくと、「自分は日本人なのに日本語の訳文を完全には読めていないのではないか」という不安を感じることもある。

日本語の言葉が持つ複雑さと奥深さは魅惑的であり、蠱惑的でさえある。