大江健三郎は第81回1979年度上半期芥川賞の選評で名指しではないものの村上春樹に対してこのような評価を下している。

 

 

今日のアメリカ小説をたくみに模倣した作品もあったが、それが作者をかれ独自の創造に向けて訓練する、そのような方向づけにないのが、作者自身にも読み手にも無益な試みのように感じられた。

 

この一文を知人に紹介したところ、知人は「大江が村上に否定的な意見ってことは伝わるけど文章が分かりにくい」との反応を示した。

もし、この一文をより読みやすくするならばどうなるであろうか。

私案の一つをここに紹介する。

 

 

今日のアメリカ小説をたくみに模倣した作品もあった。しかし、その作品は作者を彼独自の創造に向けて訓練するような方向づけになかった。このことが作者自身にも読み手にも無益な試みのように感じられた。

 

 

なお、大江は第83回芥川賞の選評では村上に対し「前作につなげて、カート・ヴォネガットの直接の、またスコット・フィッツジェラルドの間接の、影響・模倣が見られる。しかし他から受けたものをこれだけ自分の道具として使いこなせるということは、それはもう明らかな才能というほかにないであろう」と述べており、村上に才能があると評している。

或る迷惑な集団がいたときに、世間では「そんなの無視すればいいじゃん」と主張する人が現れる。

しかし、それは「無視や無関心でも問題が生じないならば」という条件をつける必要がある。

例えば、或る国家に大切な家族の一員を拉致されてしまった方々は、恐らくその国家に憤りや悲しみといった感情を抱いていることだろう。しかし、どれ程その国家を気にしたくないと思っていたとしても、奪還という目的のためには、その国家の最新状況を追っていくことが重要となってくる。

このように「無視すればOK」や「無関心でOK」は相対的に恵まれた環境で成立する話かと思われる。

以上のことを踏まえると、「好きの反対は無関心」というフレーズは「無関心でいられるほど無害ではない対象に湧く感情は普通に考えれば嫌悪感などであり、あながち間違ってはない」と見做せるだろう。

カート・コバーンというミュージシャンは、洋楽好きには広く認知されているが、社会全体ではカートを知らずに生きてきたという人も少なからずいる。

カートを全く知らない人に対して、彼のことを説明するとしたら果たしてどのような説明が望ましいであろうか。

たとえば「カート・コバーンはニルヴァーナのギター兼ヴォーカルである」と真っ先に説明するのは妥当とは言えない。

何故なら、カートを知らない人は、ニルヴァーナというバンドも知らないだろうと推察されるからである。

「ニルヴァーナのギター兼ヴォーカルだよ」という説明では「カートって誰?」という疑問が「ニルヴァーナって何?」という別の疑問に置き換わってしまうだけだろう。

 

一方、「カート・コバーンはロック音楽の歴史に多大なる影響を及ぼしたミュージシャンである」などと説明するのはどうだろう。

流石に「ロック音楽という単語を知らない人」は幼児などを除いて居ないだろうし、「ロック音楽の歴史に多大なる影響を及ぼしたミュージシャンなのだ」と説明した上でグランジというジャンルや代表曲などを紹介していけば、説明の聞き手も理解しやすいように思われる。

 

もう一つ具体例を挙げよう。

今の日本では満年齢が一般的だが、かつては「数え年」も広く使われていた。

これに関して、例えば「数え年は元号と同じ」などと説明するのはどうであろう。

数え年について既に知っている人であれば「なるほど!確かにね!」と深く納得するかもしれない。

しかし、数え年について全く知らない人がその説明を聞いても、疑問が深まるだけであろう。

全く知らない人に「数え年は元号と同じ」という話を理解させたい場合は「元号って開始は0年じゃなくて元年すなわち0ではなく1から始まるよね。そして元号って元号が始まった日(令和であれば5月1日)ではなく1月1日に年の数が一つ増えていくよね。それと同じで、0歳から始まる満年齢と違って数え年は1歳から始まるんだ。また、自分の誕生日(2月29日生まれは例外)を迎えたら年齢が上がっていく満年齢と違って、数え年は1月1日を迎えたら年齢があがっていくんだ」と詳しく話していく必要がある。

 

このように説明には、良いものと良くないものとがあり、説明を受ける側がどの程度の前提知識を持っているのかによって、すべき説明も変わってゆくと考えられる。

数年前に私は相棒18最終回スペシャル「ディープフェイク・エクスペリメント」を視聴した。

私の記憶が正しければ、この回の辺りで「警察の映像分析技術を以てしてもフェイクと判定できないようなフェイク映像」が登場していた。

この回を見て私は不安に思った。

「今までの相棒では録音データが犯人確定の決め手となった事件が多数あった。しかし、このような高度なフェイク映像が技術的に可能ということになれば、その録音データも『もしかしたら偽造かもしれない』という疑いが生じることになる」との懸念が頭に浮かんだ。

だが、相棒20第3話で加西周明がQRコードを通して遺した録音データが犯人確定の決め手となったり、相棒20元旦スペシャルで袴田が「若槻は死んでいる」と述べている録音データが決め手となったりと、「もしかしたら偽造かもしれない」という疑いは今のところ『相棒』シリーズにおいて想定されないという約束事が存在しているようだ。

 

「警察の映像分析技術を以てしてもフェイクと判定できないようなフェイク映像」が相棒の世界観に実在しているのに、「警察の音声分析技術を以てしてもフェイクと判定できないようなフェイク音声データ」が相棒の世界観に無いというのは個人的には不思議なことのように感じられる。

 

自分がもし「ディープフェイク・エクスペリメント」の脚本を書いたのならば、「警察の映像分析技術を以てしてもフェイクと判定できないようなフェイク映像を合成できるのは、鬼石美奈代など世界で1人か数人しかいないこと」「犯罪技術は犯罪者側と警察側のイタチゴッコであり、現在の警察の映像分析技術ではフェイク判定が出来ないようなフェイク映像であっても、年月が経って警察の映像分析技術が進歩すれば、鬼石美奈代などの技術者が制作したフェイク映像もフェイクと判定できるようになる可能性があること」などを強調または言及するのではないかと私は考えている。

 

 

この文章を書いているのは2022年12月31日である。

普段あまり見ないテレビを筆者は眺めている。

画面に映る「NHK紅白歌合戦」を見て感じたことを述べていく。

 

まずNHKが少しでも多くの視聴者を集めるために必死となっていることが強く感じられた。

野球関係者やサッカー関係者を登場させることで、「NHKは普段みないが、プロ野球には日頃から関心を持っている層」や「NHKは普段みないが、W杯やサッカーが好きな層」を狙っているように感じられたし、東京ディズニーランドの協力を得てディズニー好き層を狙う戦略や、ジャンプ漫画のアニメを断片的に出すことでジャンプ漫画のファンを狙う戦略も感じられた。

大河ドラマにからめることで大河ドラマの固定層へのアピールも狙っていた。

もちろん主な視聴者層である老人層への配慮も忘れてはいない。

たとえば演歌歌手は例年と同じように登場しており、紅白歌合戦らしい演歌を披露している。

だが、演歌の途中であっても、なかやまきんに君や、高岸宏行が登場するなど、コミカル要素の強い人物を登場させるなどして、演歌に余り関心のない層であっても退屈にさせない工夫が見られた。

 

NHKは、YouTubeやTwitterなどでも紅白に関する企画を行っており、幅広い世代へのアピールが感じられる。

紅白歌合戦は昭和期のような圧倒的な視聴率を記録しづらくはなっている。しかし、それでも、番組の一部を断片的にでも視聴する層が一定数いるならば、番組開始から番組終了まで通して視聴するコア層が激減したとしても、完全なオワコンにはならないであろう。

 

最後になるが、最近のバンドや音楽グループは、男メンバーと女メンバーの両方が含まれる集団も多い。それらの集団では、白と紅(男性と女性)の区別をどのようにして行っているのか、少し気になった。

今のネット社会では、カジュアルに何らかのコメントをしただけで膨大な数の人々に影響を及ぼせる者が存在する。

 

知名度が高くない一般人がリアル空間やネット空間で何か発言をしたとする。

多くの場合、その発言で影響を受けるのは数人や数十人ほどだ。

しかし、それら一般人とは対照的に彼らは動画配信やSNSで気軽に出来る発信(スマホ等を操作するだけで出来る発信)を通して、数十万人・数百万人に影響を及ぼすことが出来る。

 

 

ネットが普及する前は、どんなに世間一般での注目度が高い者であっても、多くの人々に影響を及ぼすようなコメントを気軽にすることが難しかった。

何故なら、ネット以前は聴衆がいる場や、メディア関係者がいる場に足を運ぶという手間が必要だったためである。

メディア関係者を呼ぶにしても、側近や執事のような立場の者に伝言をするにしても、それら繋ぎ役をわざわざ用意する手間が必要であった。

 

しかし、インターネットが普及すると、状況が変化した。

多くの人々に影響を及ぼすような発信をする難易度が下がり、IT企業の経営者や、容姿に優れたインフルエンサーや、アルファブロガーなどと呼ばれる人たちが現れるようになった。

英語圏の社会では、これらの代表的な例として、イーロン・マスク氏などが挙がるかと思われる。

 

ネットニュースに自称「言論の自由絶対主義者」が買った「おもちゃ」とマスクが取り憑かれる思想という記事があり、その記事で元CIA工作員のグレン・カール氏がマスク氏を評している箇所があった。

 

マスクは子供っぽいナルシシストで、しばしば幼稚なツイートをする人物。表面的な知識と深い洞察力を混同している可能性がある。数百万人に影響を及ぼす立場の人間は発言を自ら律し、自分が理解しているテーマについてのみ話す(あるいはツイートする)べきだが、マスクにはそれに気付ける成熟度もない。

 

この箇所から窺えるのは、「カジュアルにコメントをするだけで多くの人々に影響を及ぼせる立場」を得るのに、品格や自制心などは必須ではないという示唆である。

確かに、マスク氏は自分の似顔絵を描いてくれた自身のファンに対して「Delete that shit and never pick up a pencil again」と言い放ったことがある。マストドン(Mastodon)というSNSを卑猥な造語で揶揄したツイートもネット上で波紋を呼んだ。

 

 

これは英語圏に限った話ではない。

日本でも(本人らの名誉のことなどを考えて実名を本記事で挙げることは避けるが)似たような人々を列挙するのは容易である。

たとえば或るユーチューバーは自分が詳しくない分野に関する情報をYouTubeやTwitter等で拡散し、数十万人・数百万人もの人々に影響を及ぼしている。

その人物の言動はネットニュースに取り上げられることも多く、日頃からネットニュースを読む習慣のある人だと、「見たい」「見たくない」などといった意志に関係なく、彼を取り上げたニュース記事が視野に映ってしまうことも珍しくない。

 

 

彼は不正確な知識をしばしば披露する。理系の知識に関して例を挙げると、位置エネルギーに関して初歩的な誤解※1をしていたり、古典力学において広く知られている三体問題を知らなかったり、日本脳炎に関して誤った認識を持っていたりする。

文系の知識に関して例を挙げると、très familierは仏語の語釈・辞書などでは「とてもくだけた(表現)、とても口語的な(表現)、とても平俗な(表現)」という意味なのに「とてもよくある表現」という意味だと主張したり※2、核保有五大国の一角である英国が核保有国であることを知らなかったり、ナポレオンのモスクワ遠征に関して誤った知識を持っていたりする。

 

もちろん人間だれしも軽微な事実誤認を有しているとも言える。

しかし、深刻なことに彼はその不正確な事実認識に基づいた持論を頻繁にYouTubeやTwitter等で拡散している。

SNSには各分野の専門家の方々も一定数いるので、事実誤認との指摘が入ることもある。

そのためか、彼は「おいらの言っていることに流されている人は頭が悪い」などと開き直ることすらある。

このような人間が未成年であるのなら、まだ救いようがあるのかもしれない。

しかし、恐ろしいことに彼は十数年後には還暦を迎える中年男性なのだ。

 

 

このユーチューバーやマスク氏に対して感じることが少なくとも一つある。

それは、自身がその立場を目指していたのか否かによらず、自身が「カジュアルにコメントをするだけで、数十万人・数百万人もの人々に影響を及ぼせる立場」にいる以上は、自身のSNSでの言動において一般人よりも相対的に大きい責任を持った方が良いのではないかということである。

いくら彼ら自身が「おいらの話を真に受けるのは愚かだ」などと予防線を張っていたのだとしても、数十万人・数百万人の中には彼らが予防線を張っていることを知らない人も多いはずであり、自身の言動のせいで誤った情報を得てしまう無邪気な人が大量に出現してしまう危険性が存在している。

当然、このような事態は望ましいことではない。

 

最後になるが、品格や自制心に乏しいことは或る企業の経営に向いていないことを必ずしも意味しない。本記事で例示したマスク氏はテスラ社の経営で手腕を発揮したとされており、マスク氏のTwitter事業に期待を寄せる声も大きい。

因みに、筆者はTwitter事業が吉と出るか凶と出るかを現時点で判断するのは難しいと考えており、それは2023年以降に段々と分かってくることだと考えている。※3

 

 

 

※1 彼の発言を引用する。

エネルギーっていうものは必ず質量に変換されるっていうのがあって、エネルギーって突然0になることはないんですよ。ところがどっこい、位置エネルギーって今この高さの問題で言いましたけど、 それがどんどん上がっていったらそのうち宇宙まで行っちゃうじゃないですか。 で、宇宙に行った瞬間にそれはもう落ちてこないんですよ。 要は、宇宙ギリギリまで成層圏とか上がると、落ちていったときはめちゃめちゃエネルギーでかいんですよ。ただ、めちゃくちゃエネルギーでかいんですけど、成層圏こえて宇宙まで行っちゃうと突然落ちてこなくなるからエネルギー0になるんですよ。「エネルギー0になっとるやん!」っていうのは、 今までの質量保存の法則と合わなくなるんすよ。 物理学上、質量保存の法則は矛盾するから、「位置エネルギーって本当は存在しないんじゃないの?」って話なんですけど、位置エネルギーが存在するという風に計算した方が計算しやすいものがあるんですよ。宇宙は無重力なので高さって概念が突然なくなって0になるんです。重力も0になるんでね。

 

 

 

※2 彼がtrès familierを「非常に俗っぽい」というニュアンスではなく「とても高い頻度で用いられる」というニュアンスで訳してしまった理由としては、機械翻訳の影響などが考えられる。たとえばbingという検索サイトで「très familier」と調べると「おなじみ」という訳例が登場するのが分かる。彼は「とてもおなじみの表現」というフレーズから「とてもよくある表現」というフレーズを考案してしまったのではないだろうか。

 

 

 

※3 Twitter社内での大規模な社員解雇を以てマスク氏を「有能」と称する声は多いが、優れたコストカッターであることは事業を長期的に成功させるのが得意であることを必ずしも意味しないため、その点を考慮する必要がある。

 

 

ネットニュースで<息子から「命令しないで」といわれた母親 切り返しの『正論』に「めっちゃ刺さった」>という記事を読んだ。

この記事では全4ページの漫画が紹介されていたが、作品名は見当たらなかった(もしかしたら有るのかも)。

漫画の作者は「ぬこー様ちゃん」とのこと。敬称が二つもついており、独特なペンネームだなと感じた。

漫画を読んだのだが、違和感を抱いた箇所が複数あった。

以下では、それらの箇所を述べていく。

 

 

1ページ目。

母親が主人公(=幼少期の「ぬこー様ちゃん」)に「あんた ちゃんと宿題せられえよ?」と呼べているが、絵から判断して、主人公は宿題と思われるテキストを開いているし、右手には鉛筆と思しき筆記用具がある。つまり、主人公はこれから宿題を行おうと思っているのではなく、既に宿題を行っているのである。

この母親は自分の息子のことをきちんと見ていないのだなと筆者は感じてしまった。

人は、肩に何か掛かっているなどといった特殊な場合を除けば、洗濯物を運んでいるときに首を動かすことが出来る。

息子に話しかけるときに、息子の方向を見ようともしない母親ってどうなのかなと少し思った。

歯磨きをしている最中の息子に「歯磨きしなさいね」と語り掛ける母親がいたら、或る者は「ギャグかよ」と感じるだろうし、或る者は「うわー」と感じるだろう。

 

 

 

2ページ目。

母親は主人公に命令することが多かったようで、「ぼく命令されると やる気なくなるから命令しないで」とお気持ち表明する。

それに対して母親は「はぁ?」「何ちばけたこというとんなら?」と怒り出す。

訛りによる影響は兎も角として、これらの台詞は子供への口調としては品がなさすぎるように感じた。

筆者は人生で初めて「ちばけた」というフレーズを見聞きしたが、今後の自身の生涯でこの語句を使うことは恐らく無いだろうなと感じられたし、このフレーズの意味を調べることもなかった。

なお、本漫画は母親が方言を話しているのに主人公は方言ではなく標準語を話しているというギャップがある。

 

 

 

3ページ目。

母親は主人公に以下の台詞を吐く。

「なんでもかんでもお膳立てしてもらって当たり前じゃとおもっとらんか?」

「何様じゃとおもうとんな?」

「誰もあんたのやる気に配慮して生きとらんけ」

「言われる前にやらんあんたが悪い」

「自分のやる気を人のせいにするな」

 

筆者はイライラしている母親の台詞を見て、「自分の思い通りにならないときに怒りをぶちまける人っているよなあ」と呆れてしまった。

「命令するのをやめてほしいと本音を打ち明けること」と「なんでもかんでもお膳立てしてもらって当たり前だと思っていること」は同義ではない。

何様じゃとおもうとんな?」は「あんた(主人公)は私(母親)に対して『何様じゃ』と思っているな?」という意味かと思われる(筆者は方言に疎いので正確性は保証できない)。

しかし、主人公は「せっかくのモチベーション(やる気)を無くさないため命令しないでほしい」と思っているにすぎず、「お母さん何様だよ」などと思っている訳ではない。

要するに「あんたは私に対して『何様じゃ』と思っているな?」という母親の想定は誤っている。

 

誰もあんたのやる気に配慮して生きとらんけ」との台詞に対しては、主人公に「私もあんた(母親)のやる気とか気持ちに配慮して生きてないよ」と切り返されたらどうするのかなと思ってしまった。(まあ、無言になるか怒りを増幅させるか暴行を加えるかのいずれかだろうと思われる…。)

 

言われる前にやらんあんたが悪い」とあるが、一般論として子供は成人よりも周囲の状況を把握する能力が低い。子供は周囲が期待していることを当然のごとく率先して行うものだと認識しているのであれば、それは間違っている。

自分のやる気を人のせいにするな」とあるが、これも「他者が自分の思い通りに動かないことを他人(ひと)のせいにしているのはどちらの側なのだろうか?」と筆者は疑問に感じてしまった。

この母親に限った話ではないが、ブーメラン発言をする者は自分がブーメラン発言をしていると気づいていないケースが多い。

 

 

 

4ページ目。

主人公は母親の威圧を受け、「お風呂お先にいただきます」と畏まった姿勢で言う。コマの左下に「おう」という吹き出しがあるが、これは母親の台詞であろう。

まともな家庭で育った方であれば判ると思うが、育児者は子供の前では言葉遣いに気を付ける必要がある。

品の良い口調と品の悪い口調であれば、子供との会話において望ましいのは前者である。

方言にもよるので断定はしないものの、女性が「おう」と言うのは品が良い口調とは考えにくいようにも思われる。

 

枠外には「感謝の心、大事だね!」との文章も付記されている。もちろん一般論として子供が親に感謝の気持ちを持つことは良いことだし、主人公がそのような心を持ったとしても、それは個人の自由である。

しかし、主人公が「お風呂お先にいただきます」と畏まった姿勢で言ったのは、母親の威圧によって「感謝の心の大切さ」を学んだからではなく、「機嫌の悪い母親の機嫌を良くするのに効果的な態度がどういったものなのか」を成長途上の頭脳で瞬時に考え、「このような言動をすれば母親の怒りが収まるだろう」と判断したからなのではないのか。そのように受け取った人がいたとしてもおかしくはない。

 

この漫画で描かれた体験から主人公が学習したことは「感謝の心」などというものではなく、「自分の母親が『あんたが悪い』などと喚くような他責的な人間であるということ」だと読み取ることも出来る。

 

 

ネットニュースの記事では「母親はほかの人たちにも都合がある現実を教えた」と書かれているが、これは疑わしい。仮に母親がそう教えたかったのならば「私(母親)は家族のために洗濯などの仕事を行っている。自分の都合だけではなく自分以外の都合も考えなさい」などのように述べれば済むだけのこと。ああいった品のない言葉を投げかける必要があったのかは疑問の余地がある。

 

記事には「誰かに命令される前にやるという対処法」とあるが、それって今の日本で様々な問題を引き起こしている「忖度」そのものだよねと感じないこともない。

 

最後になるが、世の中には待つということへの忍耐力が著しく乏しい大人というものが存在する。

筆者が街を歩いていると、子供の車の乗り降りが遅いというだけで、その子供に怒りをぶちまけている大人を見かけることがある。

直ちに乗降しないと事故の危険がある状況や、車内で急病人が発生している状況など、急を要する場合は別として、せいぜい10秒ほど待てば良いだけなのに「とっとと来いって言ってんでしょ」などと怒声を撒き散らしている大人たちを見るたびに、筆者は一人の大人として強く残念に思う。

本漫画の1ページ目の3コマ目において、お風呂がわいている絵が主人公の吹き出しに載っていることは、お風呂がわいた音が鳴ったなどといった出来事が直前に発生していた可能性を示唆している。

その場合、母親は主人公が浴室と思われる方向へ歩いていることから頭を働かせて「この子が浴室の扉を開けたのなら何も言わないでおき、この子が浴室以外の場所へ行ったのなら声掛けしよう」と判断することも出来たのではないか。筆者はそう考えている。

 

2022年10月、将棋の公式戦で佐藤天彦九段がマスクを長期間していなかったという理由で反則負けになったという事件が発生した。

 

佐藤天彦九段、マスク不着用「一発レッド」 条文に詳細記載なく疑問も | 毎日新聞 (mainichi.jp)

 

この事件に関しては、「日本将棋連盟の規定に、どれほどの時間マスクを外していたら反則に当たるのかやマスク不着用の時間が長いことへの注意喚起などに関する具体的規定が無いこと」を問題視する声があがった。勿論、これらの声は正しい。

 

個人的に、本事件で最も根本的な問題は、「将棋の対局に関する罰則が全か無かという両極端な制度になっていること」だと見ている。

将棋の公式戦では遅刻をすると、遅れてしまった分の時間に応じて元々の持ち時間が減らされるというルールがあるのだが、このルールを除けば、実は将棋における罰則は、厳重注意という「実質的なお咎めなし」か「即座の反則負け」の二つしか存在しない。

つまり、「実質的なお咎めなし」と「即座の反則負け」の間に該当する罰則が何一つ設けられていないのである。

 

その結果、現状では「もはや反則とは言えないかもしれないような著しく軽微なミスに対する罰則」が二歩などといった明白な反則行為と同じ重さの罰則となってしまうことも普通にありうる。

 

あくまで私見だが、「実質的なお咎めなし(厳重注意)」と「即座の反則負け」の間に該当するような罰則があっても良いのかもしれないと感じている。

 

 

 

 

 

ここ最近は『ツァラトゥストラはかく語り』を読む機会が多く、その過程で普段なにげなく使っている単語の正確な意味を確認する機会も増えた。

 

或る日、名詞「理性」を辞書で調べたところ、『新漢語林 第二版』など辞書によっては、その対義語が「本能」となっていることに気づいた。

或る雑誌の表紙でも理性と本能を対比的に捉えていると思しきフレーズが採用されている。

 

だが、「理性」の対義語を「本能」とするのは疑問の余地があると思う。

「父親の対義語は何?」と問われた時に「お母さん」と答えてしまうのは著しく不自然である。

「お父さん」の対義語であれば「お母さん」だが、「父親」の対義語であれば「母親」と答える必要がある。

「男性」の対義語を「おんな」と答えてしまうのも同様に不適切であり、「女性」と答えるのが正しい。

 

『明鏡国語辞典 第二版』で「理性」という名詞を調べたところ、以下のような語釈が載っていた。

 

本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力 「―で判断する」「―を失う」

 

「理性」という項目には対義語が示されていなかったので、今度は「理性的」という形容動詞の項目を読んでみた。

すると、「本能や感情に支配されず、理性に基づいて判断し行動するさま」という語釈と共に対義語として「感情的」という語彙が載っていた。

「理性的」の対義語を「感情的」とみるならば、「理性」の対義語は「感情」ということになるのであろう。

 

では、「〇性」(〇には漢字一文字が入る)という形で「理性」の対義語を考えるならば、どのような名詞が相応しいと言えるだろうか。

個人的には、「理性」の対義語としては「野性」が挙げられると考えている。

「野性的」という単語を複数の辞書で調べると、『広辞苑 第六版』に「動物的な本能をあらわに感じさせるさま。粗野で、力強くたくましいさま」と説明されているのが判る。

理性は「人間を人間たらしめ、動物から分かつもの」と定義される。

動物的な本能」というのは「理性」と対になっているし、「本能や感情に支配されず、理性に基づいて判断し行動するさま」という『明鏡国語辞典 第二版』の語釈にも適っている。

 

「男性」の対義語が「女性」で、「急性」の対義語が「慢性」で、「顕性」の対義語が「潜性」であるように、「野性」は「理性」の対義語の一つだと言えるのではないだろうか。

現在、『ツァラトゥストラはかく語り』解説プロジェクトを進めている私はELYZA DIGESTという長文要約AIの存在を知り、さっそく白木屋コピペを要約させてみることにした。

 

原文の「白〇屋」を「白木屋」と修正したこと以外は、そのままAIに入力した。

 

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白木屋が、貧乏浪人生で月20万稼ぐフリーターだったときのエピソードを語っている。

バイトの後輩に奢ってやって、言うこと聞かせるなど、目を輝かせて語っていたという。

バイトクビになったの聞いたとき、体壊したのもわかっていたとのこと。

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この要約結果を見て、私は笑ってしまった。