生命の科学  VOL8 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


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ブログを読んで
これはまずいと思いました。


意味が違って取れるのです。


この内容です。

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もしもアセンション(昇天)週間に私が昇天した時には
其の続きを絶対に独学して下さいね。(苦笑)


いつか転生先のどこかで皆と会えて
話せることをいつも楽しみにしています。


(自分は転生出来るつもりでいるようです(苦笑))

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ちなみに先の文の昇天というのは
死んでしまうことをさしています。


殺されたりしたらと言う話です。


間違っても私がアセンションを信じているなどと
勘違いしないで下さいね。


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http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11048755339.html
生命の科学 VOL1
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11048756419.html
生命の科学 VOL2
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11049760569.html
生命の科学 VOL3
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11051776077.html
生命の科学 VOL4
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11057133562.html
生命の科学 VOL5
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11057137414.html
生命の科学 VOL6
http://ameblo.jp/uruseiblog/entry-11063450971.html
生命の科学 VOL7


前回までで一章が終わりましたので
今回からは第二章に入ります。


21世紀生命の科学の中のすべての文章を載せていますので
過去記事を読んで頂いて一章をしっかり理解して
その上で二章へと進んでください。


これは単なる記事ではなくて
ここでは私達が正しい思考をして、
普遍的真理へとたどり着くための手段を得ていると感じてほしいです。


それと私達が勘違いしてはいけないのは、
私達がここで学べるのは
”宇宙の法則”の中のほんの一部に過ぎないと言うことです。


ブラザーズでさえも皆が全てを理解しているわけではない
その普遍的真理を、私達が容易に取得することはできません。


ただ、私達はその第一段階への道すら進めていないと言う現状がありますし
このままでは地球の法則に捉われ続けた状態のままです。


アダムスキーも詳細には触れていませんが、
永遠の転生へと入るためのパスポートを得るために
心が試される試験があるとすれば、(勿論そんなものはありませんが)


そのための知識となる最低限のものが
ブラザーズからアダムスキーに与えられた
この”生命の科学”だと思います。


ここで普遍的真理の第一段階を理解し
実践できた人間は永遠の転生に入るパスポートを得ることができる。


私はそう信じてこの記事を書いています。


説明が遅くなりましたが第一章は”原因を知ること”
と言うテーマでした。


私達は常に心を使用しては”結果”(現象)ばかりを
見つめている存在なので


”原因”(精神)を意識することで物事を深く認識し
時には結果の改善をも図る方法を学ぶと言うのが
一章での目的でもありました。


第二章は”心とその成分”
と言うテーマになっています。


ここでは私達の心の動き、
心が持っている価値観としての恐怖、
心の限界を学ぶことになります。


例によってアダムスキー著書


21世紀生命の科学より引用します。

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【心は何か】


さて今度は感覚器官で成り立っている”心”なるものを分析してみましょう。


このセンスマインド(感覚器官の心。普通に言う心と同じ)は


実際には絶え間のない学習をつづけながら
創造されてゆく過程にあります。


それは結果(現象)の観察からは同を感受する感光版のようなものです。


そして大抵の場合、”心”の下す結論は自然の法則と一致しません。


心の活動を更によく理解するため、四人の異なる人々のように
それを四つに部分に分けて考える事にしましょう。


もっとも有力な部分は視覚です。
その次は聴覚で、続いて味覚と嗅覚と言う順序になります。


「触覚はどうだ」とあなたは言うかもしれません。


それは感覚器官ではなくて神経の衝動反応だと言って良いでしょう。


しかしそれは心に感覚器官の反応を伝えるのです。


各感覚器官はそれぞれ別個に働いているために
時として他の感覚器官と衝突することもあります。


例えば視覚は美しい花を認めるかもしれませんが
それが放つ匂いが嗅覚にとってきわめて不快なものであれば
嗅覚はそれを拒絶します。


ですから心の統一は既に破られています。


他の感覚器官についても同様の事がいえます。


ある感覚器官は何かを好むかもしれませんが
他の感覚器官はそれを嫌うかもしれません。


そしてこのことが起こっている間、
(人間の各感覚器官には長い間その状態が続いてきたのですが)
結果として苦痛と不愉快な状態が起きます。


二心では何をしてもだめだとイエスは言っています。


一感覚器官があることを好み、他の感覚器官が
それを好まない場合にはニ心ある状態です。


それゆえイエスはあらゆる点で誠実であれと教えています。


言い換えれば、四つの感覚器官を奉仕の目的のために
結束させることであって裁きに利用してはいけないと言うことです。


そしてこれは意識(精神)の指導によってのみ可能です。


何故なら意識の中には好き嫌いがなく
しかも意識はあらゆる現象の目的を理解しているのですが
心はそうではないからです。


あらゆる現象はまず意識の中ではらまれて
次に結果の世界へと生まれます。


それは丁度心が意識の中ではらまれて
その受胎の結果として生まれてくるのと同様です。


だから心が結果(現象)によって導かれるのが容易になるのです。
そして心はあらゆる結果(現象)が起こった理由も知識ももつことなく
好き嫌いの判決を下しています。


ここまで
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私達の魂の受ける感覚としての触覚を
完全に別なものとして説明してくれているので
それに準じて触れて行きたいと思います。


そして例によって、私はアダムスキーのいう”意識”を
区別の理由から”精神”と置き換えている事を
前提として読んで下さい。


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アダムスキーは、心を作り上げているのは
四つの感覚器官であると触れています。


私達が目で見たこと、耳で聞いたこと
鼻で嗅いだ匂い、舌で感じた味が、


全て私達の経験として蓄積されて
心を作り上げていると言うことです。


私達はそれに触覚を含めて通常五感と呼んでいますが


私達の脳への記憶の元となるものが
それらの器官の経験に基づくものであることは
理解して頂けるかと思います。


私達の行動の判断基準である心、
そして同時に好き嫌いの判断の基準でもある心は、


それらの器官から送られてきた情報を元に
人それぞれの価値観を作り上げていて、


百人居れば百人の経験は皆異なりますから
心の価値観も結果的に全て異なった物を持っていることになります。


そしてこの心を操縦している各器官同士は
必ずしも同じ嗜好を持つとは限らないようです。


それぞれの器官は好き嫌いを持っているそうです。


例えばチーズを食べるのが好きな人が
チーズの匂いを好きとは限りません。


匂いは嫌いだけど味が好きで食べていると言うこともあると思います。
匂いが嫌いなので口にするのも嫌だという人も居ます。


納豆やクサヤ含めてそんな食べ物は結構あると思います。


この場合の嗅覚は、
このチーズを正しく評価していると言うのでなくて
チーズを嫌っていると言う事になるようです。


これは味覚と嗅覚が衝突している状態ですが、
私達の感覚器官にはこのような事が頻繁にあるようです。


目で見る分には綺麗な花であっても、その匂いが嫌いであれば
それを部屋に飾ろうと言う気にはならないと思いますが、
これは嗅覚と視覚が衝突している状態と言う事だと思います。


外見で引かれた異性が居たとして、
話してみたところ想像と違って話し方や声が気に入らなくて幻滅した


などと言う話もありますが、
これは視覚と聴覚が衝突している状態と言う事になります。


つまり私達の四つの感覚はそれぞれが独自に好き嫌いの意識を持っていて
私達の心はそれに影響を受けているのだと言うことです。


アダムスキーは”認識”なる動作にも
これらの感覚器官が影響を及ぼすと言う例を別の機会に取り上げていました。


例えば真っ暗な道を歩いていたとして、
暗くて人の姿は見えないけれど人の歩く音が聞こえるような場合です。


視覚には人影は映りませんが、聴覚には歩く音が伝わってきます。


この場合は視覚は働かず聴覚は働く場合で、
本来同時に働くはずの両者の感覚が片方に制限されることで、
認識の誤りや認識不足から当惑や恐怖の原因にもなるようです。


私達は正しく認識できないものを恐れる傾向がありますが
このような場面では確かに不安を覚えるかもしれません。


更に突っ込めば、幻聴なるものが聞こえた時の
私達の反応もこれになります。


耳には人の気配や音が聞こえたはずなのに
目ではそれを認識することが出来ない。


そんな時には私達は本来認識できるべきものが認識できない

もしくは認識されるべきものでないものを認識することで
そこに不安や恐怖を覚える事になるようです。


殆どの心霊現象なども
このような状態に繋がる物だと私は想像しています。
(私は其の多くが想念と科学力による誤認だと確信しています)


そしてこのような各感覚器官の好き嫌いが
私達に”現象”を偏って捉えさせる事になっている。。。


アダムスキーはその事を私達に伝えているのだと思います。

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私達の四つの感覚器が”心”に直結するものであることは
理解して頂けたと思います。


ただ、私達の精神は好き嫌いで物事を判断することを
良しとはしないようです。


それは神の意識であり、正しく物を判断する意識ですから
心と同様なエゴ丸出しの物の見方をする事は無いわけです。


私達の社会の中では例えば見栄えの良い芸能人を見て
それに惹かれる人間が多く存在すると思います。


異性に惹かれる場合、いつも外見の美しさを重視して
結果的にその人間の性格なるものを軽視する人間も居ます。


これは言うまでも無く視覚の好き嫌いがそのまま
相手の人間を高く評価している事になると思います。


嫌いな男性のタイプをアンケートでとした時に上位に上げられている
太っている人とか汗臭い人という要素を考えてみると


太っているとか痩せているの判断は視覚ですし
汗臭いとか清潔であると言う判断は嗅覚の働きです。


確かに感覚器が人間の好き嫌いを
作り上げている事が伺えると思います。


そして確かに好き嫌いを判断するのには
私達の”心”が強く働いているという事が
このような例からも理解できます。


もしも私が視覚が無かったとしたら
異性と話していても認識できるのは嗅覚と聴覚が中心になります。


その時に相手の外見に拘って好き嫌いを判断する事はあり得ませんし
視覚が好き嫌いを訴える事が無いことで
内面を深く評価している事になると思います。


そのような場合は精神を多く使用して
相手を感じる事になるからではないでしょうか。


このように私達の他人の判断基準は
四つの器官によって大きく影響を受けていることが判ります。


とりわけ視覚の心に与える影響は大きいようです。


現実にも見た目を大事にする人間や
見た目を着飾る事を意識する人間が多いのも
そんな私たちの心の状態を理解しているがゆえの傾向と言えそうです。


一方”精神重視”といって異性を見つめる方も居ます。


そんな方は風貌に捉われることなく
相手の性格や自分との相性を重視することになります。


そんな人間はもしかしたら無自覚のうちに
精神を使って相手を正しく見つめている可能性が高そうです。


そしてアダムスキーは、四つの器官が争いあうことなく
正常に機能することが大切である事を


「言い換えれば、四つの感覚器官を奉仕の目的のために
結束させることであって裁きに利用してはいけないと言うことです。」


と取り上げて説明してくれています。


裁くと言うのは恐らくはここでは
”好き嫌いの判断をすること”を
指しているのだと思います。


四つの器官のどれかが自分の嗜好、価値観で好き嫌いを判断してしまうことで
他の器官の判断とあわせた時の物事の評価が大きく変わってしまうことになる。


その状態では、例えば対象が人間であれば
正しくその人間を理解することが出来ないと言う事になります。


人間であっても、物や事象であっても同様でしょうが
物事を正しく判断するためには、
結果や現象を正しく認識するためには、


四つの器官が調和して正しく機能することが大切で
それを精神によって導くことが大切であると言うことだと思います。


少し脱線しますが


意地汚いのに食欲が満たされていない私ゆえに、
ついつい食べ物の例えが多くなってしまうのかもしれませんが


私達の食欲を究極に引き出す演出と言うものが
存在していると思います。


料理は通常出てきた時に
目で見て、匂いを嗅いで、そして味わう事になります。


時々料理の演出で、
出来上がった料理を客の前に持っていて
そこで油などをかけて見せると言うものがあります。


目の前でジューと言う音を立てられることで聴覚を刺激される事になり
私達は四つの器官を全て利用してその料理を堪能する事になります。


ステーキなどが鉄板の上で焼かれている状態もそうですし、
焼肉を焼きながら食べる行為も同様だと思います。


もしもその時、音が無ければ、匂いが無ければ
私達の満足感はそれほどのものでは無いと思います。


四つの器官に対して訴える演出が
私達にとってのその料理への評価を高めさせている。


この場合は正しく評価しているという例えではなくて
四つの感覚を利用する事で
究極まで食欲を掻き立てられている事になりますが、


全ての感覚器を使用する事の例えとして
判りやすいかと思います。


この場合は心が誘導されているわけですが


結果や現象を眺める時には
意図的に四つの器官を正しく利用するようにすることで
より正しく深く認識する事が可能になるようです。


ただし、この時に先述の好き嫌いの意識が入り込むと
”結果”(現象)を正しく理解することの妨げになるので


そこでは精神を用いて正しい評価が出来るように勤めるべきだと
アダムスキーは言っているのだと思います。


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アダムスキーが最後に触れているのは
”心”は”精神”の中で育って”結果”として生まれてくると言う話です。


心が胎児であるとすれば、それは精神である母体の中で徐々に育ち
最後には母体から生まれてきますが


実際の出産を考えてみても、
現実に私達の目に見えているのは、その生まれてきた胎児の姿だけです。


そこに行き着くまでの過程を眺めることは出来ません。


そこで私達はその結果・現象としての胎児の姿を見て
そこから母体の中に存在していた胎児の姿を想像するわけです。


受精し、蛙の卵の中の受精卵のように変化し
更に育って手足がはっきりと確認できるようになり


へその緒が見えて、人間の子供らしい風貌に育ち
最終的には生まれると言う過程をです。


その一連の想像を、心と精神を同時に使って行うことが
物事を正しく深く捉える事に他ならないと
アダムスキーは説明してくれているのだと思います。


勿論ここでは想像力こそが大切になってきますし
想像が必ずしも正しいわけではありませんが


全ての物事についてそのような捉え方をすることこそが
大切であると言うことです。


以前の記事で大学試験の話を例にしましたが、


私達は合格と言う結果や不合格者という結果だけを心を使用して認識しては
その人間を評価する事になりがちですが


実はその合格はボーダーラインと一点差の合格だったかも知れないわけで
その不合格はボーダーライン一点差の不合格だったのかもしれません。


その時合格者と不合格者の間には
実質的に能力の差は無いともいえます。


もしかしたら合格した人間は解けなかった問題を一問
鉛筆を転がして回答したところ
それが当たっていて2点余計に得点して合格したかも知れませんし


不合格した人間はある問題を”記号で答えろ”とあるのを
言葉で書いてしまって2点落とした事で不合格となったかもしれません。


そんな過程は勿論私達は見る事は出来ませんが
そんな事だって二人を評価するに当たり
本当であれば加味すべきことなのかもしれません。


同じ不合格者にしても


それまで一生懸命勉強し続けたのに関わらず
一点足りなかった人間の努力と


まったく勉強せずまったくボーダーに届かず不合格になった人間とでは
本来は同じ評価ではいけないと思います。


それを認識しようとする意識が”精神”であり
心だけを利用して結果ばかりを見つめては
物事を正しく理解できていることにはなりませんよ。。。。


と言う事を”原因と結果の法則”は
私達に説明してくれているのだと思います。


しかし現実には合格と不合格という
二通りの”結果”しか見えないのがこの私達の社会ですし


この社会は如何に心(結果)ばかりに
拘っている社会であるかと言うことも判ります。


続く。


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P.S.


自分としては成長が足りないことを理解していますが、
こうやって記事を書くために理解しようと努力することが
地道に私を成長させる事にもなっているようです。


理解しなければ説明することは出来ない。


そう意識することで理解も
単に本を読む以上に深くなっている様な気がします。


皆も是非身近な信頼できる人間や
愛すべき人間に説明してみて欲しいです。


勿論一緒に地球から卒業していくためにです。


苦労して遣っている事は決して無駄ではなく
奉仕すれば奉仕を受ける。。


宇宙の法則を懸命に説明しようと努力することで
それを実感しています。


私達にとって
この宇宙の法則を理解しようとする大きな動機(モチベーション)
になるのは


やはり魂=神の意識を認識できるようになることであり、


それを意識することでフィーリングとして
想念を感じる事ができるようになる行為ではないかと思います。


なぜかと言えばそれは私達に宇宙の法則に対する
強い確信や信頼を齎す体験となるからです。


一番大切な事はこの法則の存在を常に深く意識するように
私達が変わっていく事だと思います。


そして宇宙の法則の存在を知って、それが正しいと理解できれば
私達は実践せずにはいられないはずです。


そうすれば誤った価値観だって
心から取り払うきっかけが出来るかも知れません。


勿論一方では、地道にこの”生命の科学”で
原因と結果から一歩一歩進めていくことが大切だと思います。


精神感応が体験できなくても
こちらは確実に精神を学び心を精神に近づける行為となります。


いずれは嫌でも精神が強く意識できるようになり
想念も感じることになるはずです。


動機としては精神感応の体験の方が大きなものがあるかもしれませんね。
しかし、CIAはそれを封じる手立てを開発していますし
実行している可能性もあります。


想念を感じにくい環境が出来上がっている可能性も高いのです。
(私の過去記事参照)


もちろん私としては生命の科学の勉強で一歩一歩前進しながら
同時に精神感応をも練習できれば一番だと考えてもいます。
(私は今は精神感応に関しては半ば中断しています)


とにかく急がしさや地球の法則のわずらわしさに誘導されて
挫折だけはしないで欲しいと思います。


私達の晒されている環境は徐々に危険性を増しているので
時間にも猶予はないかもしれないからです。


楽観光線が環境に蔓延するような事になると
私達は思考能力をも落とされるようなものだからです。


そうなってからではもしかしたら覚醒も
困難になる可能性が高いのです。


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私から一つお願いがあります。


私は正直言って最近は想念をとても感じにくい環境に
置かれています(今日はまだ随分ましですが)


更に私が感じれるのは
外を走ってく集スト自動車からの憎しみや困惑
更には身近な加害者達からの怒りと憎しみばかりなのです。


人工想念は色々な物を感じ取ることになっていますが
それは本来の想念ではありませんし


私の周辺は意識の低い想念で満たされているような気がします。


そして私は人間嫌いが更に進行中でもあります。
勿論加害者達や工作員達の誘導でもあると思います。


そんな中でどうしても人間愛のような意識を
持てないでいます。


練習がてら日本中に想念を送る練習をしている方も
いるかと思いますが、是非私にも
人間愛の想念を送ってやってください。


宇宙の法則とか生命の科学を広報しようと努力しながら
私だけが憎しみの想念に捉われて
落第では困りますので(苦笑)


是非ご協力お願い出来ればと思います。


私も出来るだけ皆や一般の人たちにも向けて
平和や覚醒を心で訴えていきたいと思います。


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CIAのマインドコントロール
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国家機密のマインドコントロールVOL8