生命の科学 VOL5 | 不幸のブログ 

不幸のブログ 

三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここからが本題です

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「見えることしか信じることができない。」


そんな意識の人間こそが地球の支配者にとって
とても都合の良い人間である事は言うまでもありません。


私たちの社会の中には目に見えないけれども
確実に私達に影響を与えているものが沢山あります。


私たちが視覚だけに頼っている状況では、
彼らはその様な物を利用できるのです。


今でこそウイルスなども認識できる時代となっていますが
例えば一方では目に見えないエネルギーとしての電磁波は
一切私達にその効果を認識させる機会もありません。


それを闇政府が利用していることも言うまでもありませんし
その一方では一般市民はその実態を
目に見えないものと言う事で認識する手立てもありません。


天国と地獄も目には見えませんが
ここでは宗教や一種のマスコミ等による洗脳効果で
都合よく信じ込まされてもいます。


目に見えないものしか信じられないはずの人間達であっても
その時の闇政府の都合により
存在を信じ込ませたり存在を認識できなくされたりと言う


彼らの術中に嵌っているからこそ
私達は正しく物事を認識する事が出来ないのです。


今、地球社会では思考能力の低下させられた人間
もしくは右脳の機能の低下させられた人間で溢れていると思います。


(携帯・TVのマイクロ波、家電の低周波、電線の超低周波
更には食品や空気中の薬品の影響、
便利すぎる生活環境の影響もあると思います)


見えないだけでなくて、見えない物をイメージする事すら
彼らは妨害しようとしているわけです。


その一方では戦闘意識や誤った価値観だけは
軍隊や宗教や民族意識やイデオロギーを利用しては
しっかりと植えつけてきてもいます。


まったくその影響を受けない人間は殆どいませんが
その影響を直撃されている人間達もいます。


そしてまんまと闇政府の傀儡となるのは
その影響を直撃されている人間達。


目で見たものしか認識できないだけでなくて
闇政府の望み通りの価値観を
その脳裏に植えつけられている人間たちなのです。


しかし覚醒できた人間達は何よりもその誤りに気がついているはずです。


私達が真実に到達すためには
彼らに植え付けられた先入観を排除するとともに
一方では目では認識できないもの。。。


視覚の影響下にある”心”では認識できないけれども
もともと私達の持っている神の意識である”精神”であれば
認識できるものこそを認識しなければならないのです。


困った事にこの精神の器があまりにも濁っていると
それは困難になります。


魂に地球の価値観と言うコケが一杯張り付いている人間は
真実の欠片も理解しようとしない人間達は
いつまで経っても普遍的真理にたどり着く事は出来ません。


つまり一番厄介な人間達は、
心の価値観に凝り固まりそれを変更する意識すら
まるで持っていない人間達。


そして物事を自分の頭で考えて
自分で判断しようとしない人間達と言うことになりそうです。


それは誤った価値観に囚われて
それを正しいと信じ込んでいる人間達であり
欲やエゴや圧力に捕らわれてそれから逃れることのできない人間達です。


アダムスキーの生命と科学より引用します。


繰り返しになりますが、
アダムスキーは”心”と”精神”でなくて
”心”と”意識”と触れていますが


日本語での引用で”意識”なるものを
私は別の意味で頻繁に使用しますし


”心”と”精神”と言うことでこれからも
説明をさせて頂くことになりますのでご了承下さい。


”意識を意識する”では説明に困ってしまうので
その辺はご理解して頂けるかと思います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

そこで我々は一つの結果(現象)を見るときに
一体となって現れている原因と結果を見るように
自分自身を訓練する必要があります。


われわれは肉眼でもって結果から結果へという形で
物体を見ます。


しかし心は意識を通じて原因に気づくようにならねばなりません。


あなたの目が一物体をチラリと見る瞬間、
意識は其の物体の(または生き物の)内部に生命があると言う印象を
心に与えることでしょう。


そうするためには人間はイエスが言ったように
誠実になる必要があります。


心でもって現象が見られ、意識が其の原因をもたらす時
我々は同時に眼に見えるものと目に見えないものとを見ます。


たとえばあなたが紙の上に図面を描いて
家を建てようと言う計画を始めるのならば


意識的な印象によって心にやってくる最初の結果を
あなたは生み出しつつあるのです。


貴方は一体化した意識と心とを用いているのです。


このとき意識は家のデザインがどうあるべきであるかについて
心に注意します。


設計図が描かれたと後、あなたは家に関して持っていた経験に従って
色々変更の手を加えるかもしれません。


其のときでさえも、貴方が知っている限りの家には存在しなかった
改良点があることを意識は指摘するでしょう。


これは心の知能的な発達といって良いでしょう。
背後に意識を持たない物で
貴方がやれる物事は存在しません。


貴方の心は心の知性に頼ったり、または其の知性の指導をいかにうまく
受け入れるかによって、良い結果、または悪い結果のいずれかを求めて
印象を変えたり修正したりするかもしれません。


しかし良い結果を生じさせるには心は意識を完全に信用し
心が意識によって導かれるようにする必要があります。


「盲目的な信念に従いたくはない」と貴方は言うかもしれません。


しかし、「自分でやれる」と貴方の内部の奥深く感じる物事を達成するには
右の方法を応用する必要があります。


一体盲目的な信念とは何でしょう?


貴方が其の家はコンクリートやブラスターによる完成した
建造物として未だ存在していないからです。


貴方が生活で何をなそうともそれは盲目的な信念でもって
遂行されます。


その結果がどのようになるかは全然判らないからです。


歩こうと車に乗ろうと、
その他何をしようと貴方は全てうまくいくことを望みますが
確信はもてません。


実際我々の生活の99%は盲目的な信念に頼っています。


一パーセントは過去の経験に頼るのですが
それでも過去と同じ結果が生じるかどうかについては確信はもてません。


信念はあらゆる現象化の基礎です。


信念の無い人は舵または船長の欠けた船のようなものです。


一度貴方の心が信念に頼るならばそれは意識の指導に頼ることになり
こうして意識と心は一体化して働くようになります。


すると原因である神の意識と結果である人間の心は融合する事になります。


そして生命最大のなぞは氷解することにもなるのです。


--------------------------
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

”心”と”精神”を同時に使用した状態として
アダムスキーは設計図を作成する事を例にして説明してくれています。


建物の設計図を作り上げるには、完成した建物の姿と
それを作り上げるための詳細の描写と言う
両方の作業を同時に行う事になります。


完成した家は”現象”や”結果”として捉える事になるものですし
それが完成するに至る過程が”原因”として捉えられるものとなります。


其の作業は”心”(完成品に対して)と”精神”(設計に関して)を
同時に意識している事になりますし


全ての現象に関してこのような意識を持って見つめることが
私達が万物を深く理解するための練習になりますし
その結果、精神を感じやすくなるのだと思います。


初歩は”精神”=”神の意識”と言っても
それはイマジネーションに近いものだと言えます。


なぜかと言えば、私達のような精神の進化が伴っていない人間の場合
必ずしもその精神を意識した事による原因や過程という見えない情報が、
正しいとは限らないからです。


しかし、少なからずそんな意識を持つことは、
私達の行動の改善にも役に立つようです。


より良い結果を導き出すためにも精神を意識する事が出来れば、
結果を想定して行動を改善し変更する事が出来るからです。


例えば設計図を作り上げた時に完成した家を見た時に、
その天井に大きな窓を付けて星空を眺めたいと思いつけば


其の完成した状態を念頭に
今度は其の設計図を変更していく事になります。


結果や現象は、それがいつも最良の物とは限りませんので
私達は精神を利用する事で
結果の改善を図ることが必要になるのです。


この場合は”原因”と過程が変更されますし
それによって、自分にとってより望ましいと感じる”結果”としての”家”が
完成した現象として認識される事になります。


設計の変更を精神で行う事によってです。


料理での例えが楽なので、
カレーを作る行為を考えて見ます。


普段作っている其のままのカレーを”結果”や”現象”とした時に
それは自分にとって一番美味しい状態に出来上がっているとは
いえないかも知れません。


この時に自分好みの辛いカレーを作ろうと意図したとします。


私達はカレーがより美味しくなった状態を
”結果”として想定し
其の調理方法を変更する事になります。


普段作るのカレーの辛さが物足りないと考えているのであれば、
ここではそれよりも辛いカレーが”結果”として心に完成品として
捉えられる事になるわけです。


其の結果を出すためには、
製造過程ではカレー粉を余計に入れるとか
甘さを控えるためにネギを減らす。


と言った行動を私たちは想定する事になるはずです。


この変更過程が”精神”が使用される場面であると
考えて頂ければと思います。


料理の場合も、その結果が必ずしも想像通りになるとは限りませんが
作る度に試行錯誤してはその過程を変更することで


結果なる完成品は限りなく自分の希望に近い
より良い”結果”へと近づく事になるはずです。


カレー粉を多めに入れたり
辛口のカレールーを使用したりたまねぎを減らすことで
出来上がったカレーは以前よりは辛いものとなるわけです。


ここでは確かに心と意識を同時に使用しています。


何も考えることなしに、
何時も通りのカレーを作り上げるのであれば
そのような創意工夫は必要とはしません。


結果を改善するために結果と併用して精神を使用する事の例えですが
却って判りにくいでしょうか。


これは説明のための例ですが、
更に、現実に私達の思考を考えた時に


私達の行動は心だけによって行われる場合と
それが精神を意識することで行われる場合では
その結果が異なってくる事があるという例を考えて見ます。


食事をすると言う行為ひとつとっても、
いつものように単にお腹がすいたから食事をしようと考えたのなら
そのままカレーだけを何杯も平らげれば良いのでしょうが


「最近野菜不足でビタミンが欠乏しているかな?」


という意識が入り込むと
カレーと一緒に野菜を食べようと言う行動が生まれます。


精神を使用したことで食事のメニューに野菜が増えたわけです。


これは精神が行動の変化を齎すという説明になると思います。。


一方道徳的な行為に関してほど
精神と心の行動は大きく異なってくると思います。


私たちは心と精神がかけ離れているがゆえに
心ばかりを意識して行動することは
其のエゴを反映させた結果を導きやすい事にもなりますし


どうやら精神なる意識には物事を”改善”するとか
より良い結果に導くと言う意図が存在しているようです。


もしもその結果をより良い物に改善したいと考えるならば
結果ばかりを見つめている心にばかり頼るのではなくて


同時に精神に頼ることで其の原因や過程と言った物を意識し
それが結果に結びつくと意識する事で殆どの行動は改善することが出来る。


アダムスキーはここではそのような事を私達に伝えているのだと思います。


そしてこれを日々実践する事で行動を変化させて
行動の結果がより宇宙意識に近いものとなるように
私達は意識する必要があるようです。


そしてその心と精神が同時に働かせる事が出来る状態になると
その結果は限りなく正しいもの(宇宙的真理に近い結果)へと
近づくと言う事なのだと思います。


人間の行動心理や、ゲームの理論とも似ていますね。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


私達は心ではなく精神を盲目的に信じることが大切だと
アダムスキーは触れています。


其の”精神”なるものは想念の影響や”閃き”とも
類似していると思うのですが


元々の精神なるものは神の意識、宇宙の意識として
私達誰もが本来共通して感じる事の出来るものと言うことなので、


精神は、そのまま無自覚の状態で神から答えを受け取ったり
アカシックレコードから最良の結果を引き出せるような物かもしれません。


それは限りなく真理に近いものであるはずなので
それに従えば無自覚のうちにその行動も
結果としては宇宙的真理に近いものになるわけです。


そして何らかの行動をとろうとした時に私達の精神は
普遍的真理の中から其の答えを引き出してきては
無自覚な私達に語りかけているのかもしれません。


ここではアダムスキーは盲目的な信念が大切であると触れています。


正直、理解不足でうまく説明できませんが
私なりの解釈をして見ます。


私達は行動するに当たり、結果がどうなるかに関しては
必ずしも確信を持つ事は出来ませんが


精神の意識を信じてそれを信じて行動をする事で
最適な結果へと誘導される事になると言う事だと思います。


私達が何らかの行動を起こそうと言う時には
必ずそこには意思の働きかけがあります。


其の時行動を起こし続けている私達は
必ず何らかの信念に乗っ取って結果を予測して行動をしている事になります。


一応結果は想定しているものの
それが未だ現象として出来上がっていない状態の時に


私達はその結果に到達するのだと信じて
其の行動をとり続けているはずです。


其の時私達が持っているのが盲目的な信念であると言う事のようです。


例えば、そのままそこを歩き続ければ
何時かは青森に到着すると信じて
東北に向かう道を進んでいるようなものでしょうか。


ここでは表札が行き先を示してくれますし
方向的に北に進んでいればその道を進んでいれば
目的地の青森に到着すると信じて行動しているわけです。


アダムスキーによるとこの盲目的な信念を頼ることで
それが”精神”(意識)の指導に頼ることになると言います。


この信念なるものは私達の無意識の働きでもありますし
行動や意思を強化するものであると私は認識しています。


そしてその信念は元々は自分の行動が正しいと
信じる意識でもあると思います。


だとすればこれは、他人に左右されて影響を受けるべきものではなくて
精神と言う”神の意識”を持つ人間としての
私たち一人一人の確固たる意思であると思います。


そして其の意思に従う行動は無自覚のうちに
精神の基づいて行動していることに繋がっていく


他人の意見や誘導に影響を受けることなくそれを貫くことで
限りなく真理に近い行動をとることができる。


そういう意味だと思います。


一旦行動を起こしたら神の意識を持った自分の事を信じて
突き進めと言う意味かもしれません。


その結果が予測と異なった場合には
今度はそれを知識と経験として次には行動を変えれば良いと思います。


そして私達はそこから何かを学べばよいのだと思います。


信念のない状態で行動もしないで、結果何も学ばないよりは
盲目であっても突き進み、
そこから何かを学ぶ事の方が私達の精神の成長にも役立つと思います。


そして信念というのですから
他人に誘導されてふらつくような意識ではなくて


私達一人一人が他人の影響を受けることなく
持ち続けるべき意思とでも理解すれば良いのかもしれません。


続く

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
P.S.


私は以前、山で遭難しかけた事があります。
原因は過去記事で触れていますので触れませんが


その時は自分の直感を只管信じて山の中を進む羽目になりました。


秋も深く、明け方には氷点下寸前と言う山の気候だったこともありましたし
ましてその時は既に午後2時過ぎ、


早い山の夕暮れがやってくれば
足元も見えなくなります。


私にとっての悲劇はその場所は
長いこと誰もが訪れていない場所だったらしいことと


秋の枯葉のために以前は人が通っていたかも知れない道が
まるで見えなくなっていたことでした。


私は沢に降り、川伝いに只管進むことを当初考えていたのですが
一時間以上進んだ後に何となく尾根に上りたくなり


今までの場所から上に進み暫く行くと
遥か向こうに舗装された道路を見つけることになりました。


その後はその道路に接近する事だけを考えて歩き続け
日暮れ前に山の舗装道路に出ることが出来た。。。


そんな経験があります。


もしもそのとき延々と川に沿って歩いていたならば
少なくとも明るいうちに歩道に出る事はできなかったはずです。


その時に尾根に上がると言う選択をしなければ
その後の展開は大きく変わったはずでもあります。


晩秋の山の気温を考えると
体温を奪われる事もありえました。


私は自分の閃きを信じて進んだ結果
事なきを得たわけです。


結果からすれば二時間半程度
山の中を進み続けたと言うだけの話になりますし


当初から道がわかっていれば
沢のハイキングでもその程度の苦労はありがちです。


しかし状況的には厳しいものでしたし
その間殆ど休む事なく、しかも早足でひたすら歩き続けましたし
その時も本気で死を覚悟する羽目にもなりました。


考えてみれば自分の勝手な思い込みや閃きを頼りに
只管進んだだけの話ですが、
確かにそこには信念があったのだと思います。


場所によっては急な場所を駆け下りて進みましたし、


道路を見つけた後に更に進んで人工物の丸太橋を見かけたときは
危うく注意を怠り谷底に落ちそうな目にも遭いました。


普通に歩くとゆれが凄まじく立って居られないような丸太橋で
しかも中間点には釘が出ていて歩くことを妨害していました。


最初、嫌な予感を感じ警戒して歩いたのですが、
数歩ゆっくり進んだところでトランポリンのごとくゆれだして
慌ててしゃがみこんだと言う経緯もあります。


その直前に見つけて渡った人工の丸太橋はしっかりしていただけに
そのままの先入観で普通に歩いて進んでいたら


道路まであと僅か(10分程度)と言うところで
私は谷へ落ちていたと思います。


立ったままで歩いていたら間違いなく谷底。。


と言う状態を回避したのも私の妙な運でした。


更に最後に到着した場所は、
道路に向かっての急な舗装の壁で
そこをストレートに降りていても怪我は間逃れなかったと思います。


直進的で猪突猛進な性格の私が
やっとたどり着いた道路を目の前にして冷静になれたのは
ある意味奇跡でもありました。


考えてみれば、自動車道を見つけることが出来たのも
危ない人工橋から落ちないで住んだのも


最後に落ち着いて迂回道路を見つけることが出来たのも
落ち着いて自分の閃きや直感を信じて行動をしたからだと思います。


もしかしたらこれだって無自覚のうちに精神を感じて
それを信じて突き進んだおかげなのかもしれません。


私達が潜在的に持っている直感や閃きというものは
恐らくは精神に直結していて


それは私達が冷静になれば認識できるものかもしれないと
今となっては考えるようになりました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
勘の良い人間や勘の働く時期と言う物も存在していると思います。
私は子供の頃は時にはくじ運がとても良い人間でした。


駄菓子やで一回50円で一等賞が小型ラジオのくじを
駄菓子屋で4回引いてラジオを二台当てたことがありましたし


スーパーマーケットの福引で
10回程度の抽選で上位商品独占したこともあります。
(もちろんそれぞれ複数の商品が用意されてましたが)


お年始のおみくじは不思議といつも大吉。


そんな事もありました。


しかし今はと言えばおみくじで大吉すら
引くことはありませんし


くじや抽選と言われる物すべて当たったためしがありませんし
当たる気もしません。


その頃の自分の直感が強くて
今はそれがなくなっているのかもしれませんし


運を子供時代にすべて使い果たしたのかもしれません(苦笑)


ただ、気がついていることは
不思議と何か閃く時はその閃きに自分の行動を任せるのが
良いらしいと言うことです。


そしてそれを信じる気持ちも大切なのかもしれません。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー