生命の科学 VOL3 | 不幸のブログ 

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三次元と四次元の狭間 に関しての記事と生命の科学と宇宙の法則
について語ります。


今日二つ目の記事です。


一つ目の記事は

地球製アセンションに関してです。


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やはり頭への攻撃の一つは精神の汚染のような気がします。


寝ているときの刺激のためかもしれませんが
私を自分達と同じような意識へと
引き戻そうという意図が見えるのです。


つまり意識を低くされている可能性があります。
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昨日の宇宙の法則読んで頂けましたでしょうか?
今の私の脳は常に何らかの干渉を受け続けているために
フル回転しているわけではないので


あれでも精一杯の記事となっています。


アダムスキーの生命の科学から引用します。

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この第一講は本講座中で最も重要です。


読者は結果ばかりでなく原因についても同時に研究していると言うことを
今後の本講座全体を通じて知らねばなりません。


今後本講座を読んで研究するにつれて、貴方の研究を完全に
知覚するためにかならず心と意識の両方を用いるようにしてください。


そうすれば結果とその奥になる原因が一体化しているのを
見ることが出来るようになります。


この両方とも楽しい物事を得るのに必要です。


最初このことは容易ではないでしょう。


なぜならわれわれはこれまで心でもって探求するように
教えられてきたために、想念の奥にある意識すなわち宇宙的な衝動に
殆ど気づいていないからです。


しかしこれに気づいて、それがあらゆる物事に応用されるとき
理解力は急速に増進します。


そして完全な知覚力をもつようになるならば
初めは二人の自分が存在するような気がします。


心の活動と意識の指令の二つです。


過失を犯すことを恐れてはいけません。


過失を犯した事に気づいたならば
できるだけ早くそれを訂正しなさい。


そうしないと進歩の障壁になります。


常に記憶しなければならないのは
失敗は誤った応用の結果であり

それによって我々は正しい方法を学ぶと言うことです。


体験は知識の拡張に必要なのです。


われわれは善とか悪とかに分類しているけれども
そのいずれにしてもあらゆる行為は完全であると言うことを記憶しなさい。


なぜならあらゆる行為は貴方の心、肉体、意識の完全な釣合いを
必要とするからです。


したがって人間は行為と体験によって完全な方向へ成長していくのです。


イエスでさえも多くの不愉快な体験を経なければなりませんでしたし
大神殿から両替屋を追い出したときは一つのあやまちを犯しました。


「他人を裁くな」と教えていたからです。


しかし過ちに気がついた時に彼は神殿の前にひざまずいて
父に許しを請うたのでした。


現代の我々はもっと大きな責任を有しています。


何故なら、昔の時代に生きていた人々よりも
多くの物事で争っており
多くの誘惑物を持っているからです。


したがってわれわれが生まれた目的を理解し、
それを遂行しようとすれば
より大きな用心深さと決心とを必要とします。


ここまで。
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以前何かの記事で触れましたが、
アダムスキーが説明してくれていた話では
私達の”心の価値観””個人的真理”を作り上げているのは


視覚、聴覚、味覚、嗅覚、と言われる
物理的な現象を知覚する機関と


”触覚”のうち、想念や宇宙エネルギーを感じること以外の、
硬さや柔らかさ、暑さや寒さ、と言った物理的感覚を
私達に感じさせている機能であるという事でした。


次回の記事でアダムスキーが触れた内容をとりあげますが、、
私達の”心”はそのような感覚が”心地良い”と感じる事が
その行動の中心となっていて


心は無自覚の内に、そのような器官の召使いとなっているそうです。


例えばおいしい物を食べたいと言う意識は、
味覚が脳に送る、”心地良い感覚”を得るための動機になりますし
それに拘ると美食や食べるものに対する執着心も進む事になります。


性的な欲求は脳の本能とも関わってくるのでしょうが、
これも心地良い感覚を体験すると言う
触覚の物理的働きの一部に基づくものだと思います。


私達の脳へと常に何らかのメッセージを送り続けているそれらの感覚のうち
私達が脳で感じることが出来るのは
これらの器官で直接認識できるものに限定されていますし


”想念”を意識する事のない私達は”精神”を感じる機会もないので
どうしてもそのような物理的心地良さを脳に齎すものにばかりに
動機を見い出し


結果的にはそれらの器官の心地良いと感じる事を
無自覚のうちに行動の基準や価値観としているのだと思います。


見たいものを見る、欲しい物を買う、
食べたいものを食べ、したい事をする。


当たり前の行動の様ですが、これらは全て心が心地良いと感じるものや
心(エゴ)を満足させるものとなっているようです。


そして、それらの感覚が脳に与える心地良さは
そのまま本能に通じる物ともいえます。


私達は放って置けば常に心を満たすように
行動する存在となっているのですから、
そんな意識が時には衝動や暴走の原因にもなると思います。


誰もが心地良い事を好むと言う事は
私達は自分でも自覚できると思いますし、
他人を眺めていてもそれと察する事が出来るはずです。


そしてそれらは、全てまとめて、
私達の”心”を中心とした働きであると
認識することが出来るようです。


一方私達には無自覚の”精神”なるものが存在しています。
(アダムスキーは”意識”と読んでいますがご了承下さい)


こちらは以前から繰り返している”神の意識”
”宇宙の意識”からのメッセージという事のようです。


私達はそれを殆ど感じる事が出来ていない事もあり
その”精神”を行動の基準にし難くなってもいます。。


勿論、私達の殆どはその神の意識とはかけ離れた価値観を持っていますので
心と精神はまったく別の行動指針を示す事になるはずです。


前回触れましたが、
この”精神”は私達にとっての”理性”にも繋がるものだと思います。


そして”精神”を自らの行動基準として認識する事になると
私達の中には二つの行動基準が存在することになります。


例えば人通りの無い場所で
”道に札束が落ちているのを見つけた”時に
それを拾って警察に届けようとする意識が”精神”の意識で


それをそのままネコババしたいという意識が
”心”の意識であると例えればわかり易いかと思います。


「落とした人間がいて困っているだろうな
早く届けよう。」というのが精神の意識で、


「しめた。得したぞ。黙って貰っても誰にもばれないだろう」
と言うのが心の意識と言うことになります。


心の傾向で考えれば
「拾ったお金を着服しそれを使用すれば物を買ったり、したい事が出来る」
という心を満たす行為ができる事になります。


精神の傾向で考えれば
そこでは「他人が物を落として困っているのを助けなければ」
という意識が働くことになります。


アダムスキーが話してくれている
自分の中に二つの自分が存在している気分になるという例えは


その時に葛藤があったとすれば
その葛藤している二つの意識そのものだと思います。


私のようにエゴの強い人間ほど
その両者の意識のギャップは大きいと思いますし、
そんな時に葛藤も起きるのでしょうが


逆に元々の”心”が”精神”に近い人間であれば、
そこまでの感覚を感じずに済むという事かと思います。


(言っておきますが私は札幌時代にも
拾った集金かばんを届けて感謝された事もありますし
決して着服はしません(苦笑))


いずれにしてもこの二人の自分の存在の意識のギャップは
私達が精神の働きを正しく理解して使用出来るようになり
心と精神のギャップが縮んでいく事で克服される事になるようです。

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アダムスキーはブラザーズの話と同様に
何事も体験が大切であると教えています。


私的意見を言わせて頂ければ
私も”百聞は一見に如かず”という格言は
まさにその通りであると考えます。


例えば何かを自ら体験し認識する事と、
それを他人から伝えられそれをそのまま受け止める事では
私達に及ぼす影響は異なると思います。


犯罪行為含めて即座にそれが誤りであると認識できるものは別として、


そうではなくて、体験を持ってそれが良い事なのか
良くない事なのかを自ら判断すべき事柄や、


単に知識として受け入れるだけでは十分ではなくて
経験という物が存在して初めて身に付く事柄もあると思います。


先入観や他人からの価値観をそのまま受け止めたのでは
正しく判断できない事だって存在しています。


経験するという行為は、
結果的に知識として教えられる内容と同じ結果を齎したとしても


そこで私達が体験するのは、”心”が認識する”結果”や”現象”だけでなくて
"精神”で認識すべきその”過程”や”原因”でもあるわけです。


聞くことで現象(結果)を知って、


物事の善悪を完全に判断できたとすれば
人からの受け売りの知識でも誤った行動をとる事もありませんが


この第一章での”精神”と”心”で説明すれば
体験の伴わない知識は心だけで認識する行為ですし、
そこには精神の意識は伴わないのです。


つまりは”原因と結果を一体化して現象というものを理解する”という
宇宙意識にとって一番大切な体験が出来て居ないと言う事になります。


一方私達は完全な存在ではありませんし
”行動”をとる事によって過ちを犯す事もあります。


私のように出来の悪い人間で在れば
それは日々山のように積もりあがるかもしれません。


ただ、そこでアダムスキーが触れているように
過ちを繰り返さないよう意識すること、


過ちは過ちであると自ら反省することで
自分の行動は変えていく事も可能になります。


そしてそこで意識する事になるのは”精神の存在”であり、
心と精神が正しく働いた事による”結果”だと思います。


経験することで得た知識、学んだ現象は
心だけでなく精神を利用することで、


他人から知らされた知識とは異なる
奥の深い理解を私達に与える事になるのだと思います。

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ここではイエスキリストの聖書での記述に触れていますが


イエスキリストが声を出して神に反省して見せたのは
意図的にそのような姿を弟子や信者の目に訴えることで


このような反省する意識が大切なのであるという事を
弟子達に示してくれたのではないかと思います。


”罪を悔い改める”と言う本当の意味は
単に懺悔を口にして神に許しを求める行為を指しているのではなくて


おそらくはその罪に関連して”原因と結果”の関係まで追及して
自分の意識を変えていくという行為を伴うものであると思います。


誰もが失敗や過ちは犯す事になるけれども
それはその後反省と言う行為


(原因と結果を分析したときに
その行動の基準が誤っていたと言う事を分析する行為)


によって私達の精神の進化のきっかけになると言う事を
イエスキリストは実践して示してくれたものではないでしょうか。


そこで大切なことは勿論、単に
”自分の罪を許したまえ”と神へ許しを請うという行為ではなくて


その行為を齎すに至った誤った行動をとる事になった原因を追究し
それを分析してその事が間違いであると
自分の意識で自覚する事ではないでしょうか。


その結果ブラザーズが日々意識しているように
同じ過ちを繰り返すことも減っていくと思います。


私達の行動は改善されることになります。


その意味では同じ過ちを延々と繰り返している人間は
幾ら懺悔をしようとその意識は変わっていないことになりますから
魂は成長していない事になります。


幾ら懺悔をしても意味は無いと思います。。


懺悔という行為は
謝罪することで神に許されると言う行為ではなくて


心と精神を利用して、反省と理解を促すために
自分の中の罪を曝け出すための行為とすべき物ではないでしょうか。

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以前私が宇宙の法則の記事で触れたように
私達の身の回りには多くの誘惑要因で満ちています。


それは憎しみや争いを齎す意識でありますし
私達のエゴを増徴させたり本能に走らせたり
誤った価値観を私達に持たせる事となる沢山の要素です。


そしてアダムスキー時代以上に私達の周りの環境は
あらゆるエゴを増徴させるための要因で満たされても居ます。


その上に意図的にエゴに走るように誘導している
闇政府のような人間達も存在して居ます。


その中で私達が自分が生まれてきた意味を理解し
宇宙の法則に目覚めると言う事は容易ではないと思います。


現に私のブログに書かれた主張を
全員が理解してくれているわけではないでしょうし、


(読んでくれている人間の何割が宇宙の法則の存在を
信じてくれているのか不明ですし。。)


巷には、誤った価値観や
イデオロギーに囚われている人間が大勢居ます。


更にはそれ以前に神とは縁もゆかりも無いという
意識を持った人達もいますし
道徳など無縁だと言う人間も居ます。


多種多様な価値観を認めると言うこの社会の中で
私達の”心”の価値観は多様化する一方


”精神”を感じる機会が激減していると言うのが
私達人間の実態なのだと思います。


まして困った事に”普遍的真理”は
個人的真理を追究する特定の人間達にとっては
疎ましい存在でもあるようでうし


ここまでの状況になれば宇宙の法則を理解するには
アダムスキー時代を遥かに凌駕する困難と直面する事になると思います。


そして、いつも繰り返していますが、
地球の価値観に囚われている人達を一人でも多く覚醒させて


私達と共に普遍的真理の道を進むよう誘導する事が
私達、地球の法則から覚醒した人間の使命で在ると思います。


日本と言う国はその可能性を秘めている。


特定の宗教に揃って染まる事なく
特定のイデオロギーに偏る事なく
多種多様な価値観でばらばらになっている日本であるがゆえに


逆に真理へと辿りつける可能性を
全ての人間が持っているのではないでしょうか。


私達は積極的にその為の奉仕者となって行きたいです。


万物に対しての奉仕は
結果的に自分に奉仕として帰ってくることになる。


そう考えれば、そう理解できれば
奉仕は決して無駄ではないと思えるはずです。


そして皆で揃って地球の法則から卒業して行きたいです。


続く
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P.S.


私が結果的に批判的なことを書いている相手のサイトは
メーソン系のニューエイジに繋がるものが多いことに
気がついてくれているでしょうか?


意識しているわけでなくて
結果的にそうなってしまっているのです。


ニューエイジ系やメーソン系に繋がる意識は
私も正直惹かれるものがあるのです。


しかしその中に猛毒が混じっていることに気がつくことになり
そのたびに嫌悪感が増すことにもなっています。


それに宗教の多くがメーソン系の人間達に支配される中
そこで管理できなかった人間を捕まえるのが
ニューエイジの目的の一つでもあります。


覚醒の近い人間も多いと思いますし
どうしても意識せずにいられないのです。

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時々、私と同じような価値観をもっている様な方が
宇宙の法則や道徳に乗っ取った書き込みをしているのを見かけたりすると


とても嬉しい気分になって
パソコンの前で同意して頷いている事があります。


人に言われなくても判っている道徳と
無自覚に感じているかもしれない宇宙意識が
(全てがあって自分が居るという意識)


大震災がきっかけで日本中で広がっているのかもしれません。


日本は、昔ながらの神道を心に道徳として持っていて
儀式的に仏教を受け入れてきたと言う傾向の強い国です。


その上にキリストの誕生日まで文化として吸収し
独自の行事として受け入れています。


意識を偏らせる事が少ない人間が
この社会には揃っているのだと思います。


最近こそ宗教意識が強い
独自の価値観を持った組織が増えていますが


元々は特定宗教に執着して信仰する事もありませんでした。


おかげで闇政府、メーソンに操られている現在のキリスト教が
大きく広まることもありませんでした。


キリスト教圏やイスラム教圏のように、
たった一つの思想や宗教で一つの国家が組織されている場合


それがもしも宇宙意識とかけ離れたものであったとしたら
変更する事は容易ではないと思うのです。


日本は多種多様な価値観ゆえに、どこにも偏ることなく
時には色々試行錯誤しても軌道修正するうちに


何が正しいのかと言う方向性を
自ずから見つけていけるのではないでしょうか。


私は曹洞宗のお寺に生まれ、
バプテストの教会に一年足らずかよい
学生時代の知り合いからの勧誘含め色々な宗教勧誘もうけました。


日月神示やチャネリングサイトも読みましたし
自分では精神世界も含めて色々な情報を眺めてきました。


昔、時々考えていたのは”真理”って
一体何なのかと言うことでもあり、
その真理は私達の生きている目的でもあると思っていました。


しかしその答えなど見つかるわけも無く
延々だらだらと人生を送り続け


組織的犯罪の被害者であることを自覚し、
その後、闇政府策略に気がつき


色々な情報を集めているうちに最終的に達したのが
”宇宙の法則”でした。


20年前に藤原さんの書いたアダムスキーに関する本は
既に読んでいたので、覚醒のチャンスはあったのですが
その時は私に理想社会を与えてくれるきっかけにはなった物の


アダムスキーの著書を読むに至らず、
宇宙の法則への目覚めはありませんでした。


でも試行錯誤があったからこそ
今、宇宙の法則を知って、
それこそが真理であると確信する事にもなったのだと思います。


多くを体験し知識として知って
尚且つその意識が偏ることが無ければ
いつかは宇宙の法則こそが普遍的真理であるということに


ここを読んでくれている全員が
たどり着いてくれると信じています。


そして覚醒した人間は皆揃って
宇宙の法則の伝導者となってくれる事を希望します。