第十一話 猫の絵(25歳 男 大学院生)
「わぁ、これ見て! かわいい~」
骨董市の中をぶらぶら散歩していた時、マナカが急に声を上げた。
僕の住まいにほど近い神社で毎月第三土曜日に開かれる骨董市は、僕とマナカの散歩コースになっている。
いつも露天の店先を冷やかしては、結局何も買わずに通り過ぎるのが常だ。それでも、見たこともない変わった装飾や古めかしい味のある家具を見て歩くのは楽しい。
マナカが足を止めて大きな声を上げたのは、境内に入ってすぐの左脇、参道から少し奥まったところにある、あまり活気のない店の前だった。
「何が可愛いって?」
近づいて見るとその店には、夥しい数の猫で埋め尽くされていた。
丸い顔をした猫の石像、魚釣りをする木彫りの人形、張り子や陶器製の招き猫、埃まみれのぬいぐるみなど、どれも薄汚くて地味だが、とにかく猫、猫、猫だ。
僕を振り返って、マナカは店の真ん前にある棚のひとつを指差した。
「ほらこれ、この絵」
古い、少し厚めの紙に描かれた、猫の絵だ。
白と黒の斑...のようだが、よく見ると、うっすら赤っぽい色が混じっている。三毛猫というのだろうか。
赤く太い首輪をしていて、鈴も付いている。
ちらりと上を流し見る様子は、確かに愛らしい...と言えなくもない。
「かわいいねえ」
とマナカは言う。僕は正直、どう反応していいか判らない。
「おじさん、これいくら?」
マナカは店の奥にいる、ベレー帽を被った男に声をかけた。
今時珍しい、真ん丸の瓶底のような眼鏡をかけ、ごま塩のような無精ヒゲを生やしている。口には、細長い...キセル、というのだろうか...を咥えて、スパスパとやっている。
「何だい? ああ、国芳の...。そうだな、五万ってとこか」
「五万!?」
僕はびっくりして、思わず大きな声を出してしまった。
「こんな小汚い絵が五万!?!?」
「小汚くて悪かったな」
店の主人と思しきその男は、面倒臭そうに立ち上がり、片頬で笑った。別段気分を害したわけではないらしい。
「そいつは歌川派の絵師一勇斎国芳の作といわれる錦絵だぞ。中でもとりわけ有名な『鼠よけの猫』だ」
「へえ、ネズミよけ?」
マナカが身を乗り出した。
「そうだ。それ、詞書にもあるだろ」
主人は薄いセロハンのような袋に入ったその絵を掴むと、絵の上に書いてある文字を読み始めた。
此図は猫の絵に妙を得し
一勇斎の写真の図にして
これを家内に張おく
時には鼠もこれをみれば
おのずとそれをなし
次第にすくなくなりて
出る事なし たとえ
出るともいたずらを
けしてせず 誠に
妙なる図なり
「へえ...。そんな魔力が」
マナカは楽しそうだ。
「迷信に決まってるだろ、こんなの」
「ほう、兄ちゃんはこの手の話が嫌いかい」
「嫌いっていうか...。いい加減じゃないですか」
「それがそうでもないんだ」
主人はまた元いた場所にゆっくりと腰を下ろすと、話を始めた。
「国芳てえのは猫が好きな絵師でね、それまで美人の添え物でしかなかった猫を、絵の主役にしちまった。黄表紙の挿絵から大判錦絵まで、実にたくさんの猫を描いたそうだ」
「じゃあ自分でも猫を飼ってたのね、きっと」
「そのようだね。弟子たちにも絵の手本として猫を描かせたという話もある。江戸の町では国芳の猫の絵が評判を呼んだのさ。こんなに上手く猫を描く絵師はいない、ってね」
「ああ、なるほど!」
ぽん、とマナカが手を打った。
「そんなに上手く描かれた猫なんだから、本物に勝るとも劣らない働きをするに違いない、と!」
「まあ、そういうことだろうよ」
「なんだやっぱり迷信じゃないか」
「おいおい、今も昔も、信ずる者は救われるんだよ」
主人は笑いながら言った。
「猫の数は、江戸時代にはそれほど多くはなかったんだ。江戸中の商人全てが猫を飼えたわけじゃない。人間の多くは視覚に頼って生きているからな。眼に見えるものに期待するのさ」
「ヴィジュアルの力ね」
マナカは納得しているらしいが。僕は少し反論してみた。
「でも、それなら、もっとこう神通力とか超能力とか、呪いとか、そういう力がかかってるもののほうが、受けがいいように思えるけど。所詮一介の絵師でしょ」
「だからさ、別にこういう『鼠よけの猫』は、国芳のオリジナルじゃねえんだよ。それ以前に似たようなモデルがあったんだろうさ。神通力とか超能力絡みのやつが」
「そうなんですか?」
「例えばこれさ」
主人は、店の奥から、同じような袋に入った絵を取り出した。
「うわあ...」
マナカはのけぞった。凶悪そうな面構えの猫が、ネズミに齧り付いている。なかなかに怖ろしい。
「どうだい、これは効きそうだろ」
主人は楽しそうだ。
「まあそうですけど...。でも、これは国芳の絵より古いんですか?」
「いや、恐らく明治から大正にかけての、売薬版画さ」
「バイヤクハンガって何?」
「まあ、薬屋のおまけみたいなもんだな。全国を行商して歩く富山の薬売りが、家々に配って歩いたものさ」
「こんなものを配るんですか」
「わざわざ刷って配るってことは、そりゃ、ニーズがあったってことだろ」
と、主人は缶コーヒーをぐいっとひと飲みした。喉が渇いたらしい。
「明治から昭和の初め頃まで、絹糸の輸出が日本の主な外貨獲得手段だったってことは知ってるか?」
「ああ、殖産興業ってやつ?」
「まあ、その一環だな。絹糸の原料生産、つまり養蚕の手法自体は弥生時代には大陸から伝わっていたといわれるし、戦乱で技術が衰退したとはいえ、江戸時代には今の福島や群馬、長野などで養蚕と絹糸の生産が盛んに行われていた。明治以降、貿易に力を入れたい政府は技術開発や生産アップに力を入れた。結果、養蚕は農家にとって重要な品目となった」
「へえ...」
「んで、カイコを飼う養蚕農家が常に頭を悩ませたのが、ネズミの食害だったのさ」
「カイコって...あの、蛾の幼虫ですか?」
「それを食べちゃうの? ネズミが??」
「食べるというより、囓るんだな」
主人は、何かを掴んでカジカジと囓る様を真似して見せた。
「それで、鼠害を減らすために、猫を飼う農家が増えた。ただ、やはりどの家も猫を飼うというわけにはいかない」
「それで、この絵...なのか」
「でも、これは明治以降の絵なんでしょ? 国芳の方が先じゃない」
「だからさ」
主人はまた缶コーヒーを飲んで、息を継いだ。
「ここに詞書があるだろ。この絵は、弘法大師の猫の絵を写したものだ、と書いてあるんだ」
「弘法大師か...これまた大物が」
「弘法大師の神通力てえ代物が、明治時代に突然ひょっこり現れると思うかい? 弘法大師は何時の人だ?」
「えっと...空海は...確か平安時代」
「そうだろ。彼の伝説や立ち寄ったとされる場所は数知れない。膨大な伝説が全国に残ってる。つまりは、これに似た代物がもっと古い時代にあっても不思議はないだろう?」
「そうですけど...。江戸時代以前の実物が残ってないと、説得力がないなあ」
「じゃあこれはどうだ?」
主人は、また店の奥から、額に入ったたくさんのお札を持ってきた。
そのお札には、どれも猫の絵や、「猫」「猫地蔵」「鼠除」」の文字が書いてある。「弘法大師」の文字が書かれているものもあった。
「わあー、猫だらけ! かわいいー!」
「このお札は、鼠よけとして神社やお寺で配られたものだ。中には今でも手に入るものがあるぞ。新潟の八海山とか...」
「そうなの? 行こう、行こうよ八海山!」
「こらちょっと待てって。つまり、こういうお札が、国芳の猫や、さっきの怖い猫の絵のルーツってことですか?」
「そういう考え方も出来るだろうよ。これらのお札がいつ頃作られるようになったかなんて、なかなか追い切れないからな。養蚕が盛んになりつつあった江戸時代の、遅くとも後期以前には、こういう猫絵をネズミ除けとする信仰や慣習が既にあって、それに国芳が乗っかった、と考えるほうが自然だ」
なるほど、とマナカは相槌を打った。
「そう考えると、国芳の絵はやっぱり都会的よね。江戸のお洒落な人達にも受け容れられたんだろうって気がするわ」
「そうだろ、こいつはいい絵だぞ、買うか?」
「うー、でも五万かあ...」
可笑しいことに、マナカは本気で悩んでいる。僕が止めないと本気で買いかねない。
「いくらなんでも高すぎるだろ。それに、これ、版画なんでしょ? ほんとに本物なんですか?」
「さあね」
「さあねって....」
「版木さえ持っていれば、後刷りは簡単に出来ただろうな。それにこれは刷りがあまり良くない....」
「ほら。だったら偽物かもしれないじゃないですか」
「おい、俺はこれを『ホンモノ』として売りたいわけじゃない。だいいち俺だって鑑定家じゃないからな。状態も見たとおりだ。これで買う方がいいと思えば、それで取引成立だ」
「まあ、それはそうですけど...」
「それにな、もし国芳の真作と思しき美品ならば、五十万は下らないぞ」
「五十万!」
「それを知らせた上での商売だ。どうだいフェアだろ?」
「まあね...。でも五万はないでしょ...」
「そうよねえ...持ち合わせもないし」
「そうかい、残念だな。こっちの怖い弘法大師さんの猫は五千円でいいぞ」
「えー、いいです! コワイから!!」
「ははは、じゃ、またおいで」
「お邪魔しましたー」
「猫の絵かあ」
マナカは随分興味を持ったようだ。
「あんまり散財するなよ。それでなくても、家は猫グッズで溢れてるんだから」
「えへへ...でも...面白いねえ、猫絵」
「そうか?」
「うん。少し調べてみようかな」
「おい...大丈夫か? 修論抱えてるんだろ?」
「だーいじょうぶ! 猫のためならー、ふふんふーん」
何やら訳の判らない鼻歌を歌いながら、マナカはスキップで僕の先を進んでいった。
やれやれ...。これに付き合わされることになるのかな...やっぱり。
そう、僕の悪い予感は、当たるのだ。
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