(再録)クソゲーの条件・了(加筆修正) | せいぜいひまつぶしの小話

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5年目から創作系ブログとして新装開店しました。
色々と思うところ書いてます。講談社への抗議不買は一生続けます。
2022年12月からは小学館もリストに加わりました。
「人を選ぶ」とはつまり「自分は選ばれた」ということです。

クソゲーの条件

①、 ②、 ③、 ④、 ⑤、 ⑥、 ⑦、 ⑧、 ⑨、 ⑩、 ⑪、 

 

本当は一気に載せるつもりでしたが、予想以上に手間がかかってしまいました。
なんというか相当ムカついてたんだなと我ながら驚いております。
自分にとって“物事が正当に評価されていない”ことが、これほどまでに怒りを掻き立てる
ものなのかと思うと、アクセスが伸びなくても全然平気です(逆に伸びたら困る)。

過去に当ブログで、コミックボンボンの漫画雑誌としての失策をクソミソにけなしてみましたところ、

その後何年にも渡ってキチガ〇イ信者どもに粘着されたことがあったので、
『ユグドラユニオン』の存在もろとも日々氾濫する情報の中に埋もれることを、むしろ喜ばしく思います。
連中曰く「的外れ」ということだったのですが、何がどう的を外れているのか

具体的に何も言わないあたりが、批判されたくないくせに自分の言葉で何も語れない

オタクの想定問答集丸出しで、なんというか同じ生き物とは思えませんでした。

こんな具合で思い出したよーに粘着されてたんですわ(笑)

不幸になりたくなければココで打ち止めにするのが賢明です(任天堂発売カレンダーより)。

きゆづきさとこ以外何の取り柄も無いことに気付いていればね。

 

専門家ではないので電子ゲームの起源や詳しい歴史は知らないし語ることも出来ませんが、
少なくともファミコンが発売されてから40年近くも経っていることぐらいは知ってます。
それだけ経てば最適解としてのノウハウもそれなりに溜まってきているわけで、道の無い場所に
道を切り拓くようなことも減ってきているはずです。

過去に前例が無ければ理解を得られるのも必然的に難しくなり、時には自分の信じるものを
実現するため、自分の意見を強引に押し通さなければならないこともあったでしょう。
そのために相容れない人たちとの間で摩擦を引き起こすようなことがあれば、傍目には
“人当たりの悪さ”として映ることもあったかもしれませんが、それは決してその人の性格が
悪いわけではない、ということは少し考えれば分かるでしょう。
少なくともそういう人は、現場の人間やフォロアー(部下・客)といった自分の味方になって
くれる人に対してまで不遜な態度を取ってむやみにケンカを売るようなことはしないし、
する必要もありません。目的のための“手段”でしかないからです。

よく「才能と人格は別だ」などと言って、まるでその“才能”とやらの代償でもあるかのように
人格の欠陥とそれに伴う問題行動に目をつぶる例は、現実のあらゆる場面でよく見られますが、
そうした行為“それ自体”が、実はまったく別々に考えられていないことの

証明だということに、いい加減気付かなきゃなりません。

別であるなら、それぞれ“別の”問題として対処しなければならないはずです。
そもそも問題があるのなら、何の手も打たずに放置していいはずがありません。
別なのだから、両者を天秤にかけることそのものに意味がありません。

なのに現状はむしろ、別々どころか人格と才能を反比例で考えるヤツの方が多いくらいです。
ITのような新興産業はもちろん、人類史的に見ればまだまだ若い部類ではあってもいい加減
半世紀近くが経とうかというテレビゲーム業界でさえ、いわゆるクリエイティブ方面の産業では
いまだにそうした“信仰”が根強く残っているようで、それが遊ぶ人のことを考えない不自由で
不愉快なクソゲーを生み出す土壌となり、“価値の無い命”と断言してもいいくらいに
人格の破綻したク〇ソ野郎どもの温床にもなっています。

(善良な)人格は(優れた)才能を保証するものではありませんが、
(破綻した)人格もまた(優れた)才能を保証してくれません。
それどころか人格の問題は長く続ければ続けるほどに表面化して『馬脚を現し』
やがて『晩節を汚す』ことになります。
 

結局のところ、どんな“才能”があったとしても、周囲の人間がそれを認め、後押しする環境が
無ければ、それは“無能”であるのと変わりません。その謙虚さがあれば、わざわざ不遜な態度を

取って誰彼構わずバカにしてケンカを売ろうなんてことは、考えもしないでしょう。

いい加減そのことに気が付かないと、
『自分と相容れない周囲との摩擦や軋轢による問題』と、
『破綻した欠陥人格そのものによる問題』との区別もつかないまま、
プレイヤーはもちろんメーカー側も単なるクズをつかまされるハメになります。

そろそろ“普通”に“筋道立てて”考えられた創作というものを学び取るべきです。
優れた創作を、人知を超えた突然変異のように捉えていては、いつまで経っても先には進めません。

というわけでまとめます。

・“遊ぶ自由”の無いゲームはクソゲーである。

・ただ“人と違うだけ”のヒネたことなんかやろうとしない。

・人格は才能を保証しない。
 才能を人格の担保にしない。


・“人を選ぶ=自分は選ばれた”であり、
 作品への評価として最も忌むべき発言である。
 お前はカモに選ばれただけだ。


〈終わり〉