(再録)クソゲーの条件・②(加筆修正) | せいぜいひまつぶしの小話

せいぜいひまつぶしの小話

5年目から創作系ブログとして新装開店しました。
色々と思うところ書いてます。講談社への抗議不買は一生続けます。
2022年12月からは小学館もリストに加わりました。
「人を選ぶ」とはつまり「自分は選ばれた」ということです。

クソゲーの条件

①、 ③、 ④、 ⑤、 ⑥、 ⑦、 ⑧、 ⑨、 ⑩、 ⑪、 

 

どんな作品にも良い所と悪い所があり、その比率は決して等分ではありませんが
欠点だらけだったとしても、それだけでクソゲーだと思ったことは一度もありません。
単なる欠点あげつらって何でもかんでもクソゲー呼ばわりなんぞ愚か者のすることです。
それは単なる“欠点”であって『クソゲーの条件』ではありません。

自分にとってのクソゲーは“遊ぶ自由”の無いゲームですが、でもだからといって
何でも出来ればいいとか他はどうでもいいとか、そういうわけではありません。
それはそれでまた別の話ってだけです。また前回では、出来ていたことを出来なくする
下方修正のテコ入れを散々にブッ叩いてきましたが、カードゲームや格ゲーのような
対人対戦要素を含むゲームでは、「お前が使わなければいい」での性善説な対応なんか
まったく期待出来ないどころかむしろ逆効果です。
野放図な“自由”の拡大がすべてを解決するわけではないのは、テレビゲームも同じです。

ただ、自分がゲームをやっててムカつくのは大抵“遊ぶ自由”を侵害されていることが
多いように思えます。対戦バランスの崩壊したゲームも“多様な遊び方が出来ない”という
意味では“遊ぶ自由”が無い、と言えるかもしれません。

何の分岐もしない、シナリオ一本道のゲームには“遊ぶ自由”が無いのでしょうか?
そんなことはありません。
RPGなら、シナリオの進行が許す範囲内であれば、どこでレベル上げしようが自由です。
シナリオ序盤に何百時間もかけてレベルをMAXにしようが、初期装備だけでも裸でも、
あるいはパーティーメンバー1人だけで最後まで戦い抜こうがプレイヤーの自由です。

解き方が1つしか無い謎解きゲームにだって“遊ぶ自由”はあります。
たとえ答えが1つしか用意されていなくとも、そこに到るまでの試行錯誤は、
あくまでプレイヤーの手に委ねられています。

ゲームは“ルール”で出来ています。アナログもデジタルも、そこは変わりません。
そしてどんなゲームにも“ルール”がある以上、出来ることと出来ないことがあります。
デジタルなテレビゲームは特にそうです。出来ないことは絶対に出来ません。
しかしたとえプレイヤー側にやれることが少なかったとしても、ただそれだけのことで
“遊ぶ自由”が失われたり、損なわれたりするわけではありません。

ただしそれは最初から“分かるように”作られていればの話です。

事前の提示や伝達が十分に行われることなく、実際はプレイヤーの認識以上の規制や制限が
ルールとして存在し、ただ出来ることをやっているだけなのにアレはダメ、コレはダメと、
後出しで強制されたとしたらどうでしょう?
そんなゲームに“遊ぶ自由”があるとは思えないし、楽しいと思えるヤツの気が知れません。
客にいちいち食い方を指図するメシ屋と同じで、ただうざったいだけです。

なので『どうぶつの森』のリセットさんみたいな奴は、昔から大嫌いでした。
遊んだことは一度も無いので絶対に相容れない存在、と言った方がいいでしょう。

うるさいモグラ

後に“事業仕分け”とやらで後付け仕様にされたのは当然の報いであり、
フリーズ起こしてリセットしただけの無実の人間にまで噛み付いて

反省文まで書かせるキチガ〇イを支持する連中含め、

まったくもって理解に苦しむ状況でした。

 

だいたい「現実の世界にリセットボタンは存在しない」からといって、
ゲームの世界までそれに準じなければならない理屈がどこにあるというのでしょう?
“現実に出来ないことをゲームに求める”のも現実の世界の発想ではないのでしょうか?
“現実”を持ち出しながらそれを否定することなんか誰にも出来ないはずです。
ましてやゲームの分際で自分を否定したいのかと。

ゲームは“遊ぶもの”であって“遊ばされる”ものではありません。
 

“遊ぶ自由の無いクソゲー”と、

“いちいち食い方を指図するメシ屋”は、どちらもよく似ています。

〈続く〉