(再録)クソゲーの条件・⑤(加筆修正) | せいぜいひまつぶしの小話

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5年目から創作系ブログとして新装開店しました。
色々と思うところ書いてます。講談社への抗議不買は一生続けます。
2022年12月からは小学館もリストに加わりました。
「人を選ぶ」とはつまり「自分は選ばれた」ということです。

クソゲーの条件

①、 ②、 ③、 ④、 ⑥、 ⑦、 ⑧、 ⑨、 ⑩、 ⑪、 

 

人を選ぶw・1

 

人を選ぶw・2

 

存在の確信はあったものの、改めて探し出すのにもう少し手こずるかなと思ってましたが、
3分もかからないどころかその間に3つも見つかりました(笑)

もちろん同じサイト同じ作品から、評価の高い順に、それぞれ別の投稿を、
調べた結果のものです。2つしか載せていませんが、3つ目は表題として見つかったので、
プライバシー保護の観点からここでの掲載は見送らせてもらいます。あとは自分で調べてください。
ウルトラマンじゃありませんがあんなモン見続けるなんてぶっちゃけ3分が限界です。
それ以上は確実に精神汚染で発狂しますので、くれぐれもご注意ください。

さてそもそも“人を選ぶ”というのは、どのような作品に対する評価・表現なのでしょうか?
粗削りでピーキーで好き嫌いが極端に分かれるような、万人受けしない作品に対してでしょうか?

結論から言いますと、それは違います。

少なくとも現状ではそんな使われ方なんかされていないし、それならそれでもっと別の
相応しい表現が他にもありますので、実は使い所の無い言葉だったりします。

絵でも文章でもなんでも、何かを表現する、ということの本質は“主観”です。
感情丸出しであろうが、あるいは客観的な事実と証拠に基づいて主張を展開する、
書評や解説のような感情を排した文体であろうが、その表現が“主観”と“客観”の
どちらに傾くかといえば、やはりどこまでいっても“主観”であることからは逃れられません。

好き嫌いが極端に分かれるものに対し、自分はそれを好きだと思っているなら、
「オレは好き」とでも言うでしょう。わざわざ“人を選ぶ”なんて言葉は使いません。
嫌いならその逆です。とはいえ嫌悪感丸出しの直接的な表現は避けるでしょうから、
「自分には合わなかった」という言い換えの形で見聞きすることが多くなるでしょう。
粗削りでピーキーなら、普通にその部分を事実として説明するだけになります。
それが面倒なら「もっと良くなる」とか「改善の余地あり」とか、他に適当な言い回しが
色々とある中で、わざわざ“人を選ぶ”なんて言葉を使う必要があるでしょうか?

ついでに言えば、分かるヤツにだけ分かればいいという突き放すような意味で使われて
いるのでもありません。作品を作った作者自身の発言ではないからです。
それに昔のレトロゲームは、容量の関係でゲームのルールや設定説明に関しては取説に
全て丸投げしてきましたので、取説ナシでやると分からない人には全く分からない、
完全アウェーの状態で放り込まれるわけですが、それを“人を選ぶ”と言うでしょうか?

表現することの本質は“主観”です。そしてその手段が文章や言葉であり、
種々の表現媒体を通じて自身が体験・体感する“作品”を対象としたものであるならば、
自分の“主観”的な感覚を中心として、自分を(あるいは自分を代表する何かの形を借りて)
主語にした表現や言い回しが、必ずどこかに隠れているものです。

ですがもちろん“主観”に傾いていることは悪いことでもなんでもなく、
むしろこういうことは“主観”でなければいけません。
でなければ、自分で知りもしないことを何も知らないまま書くハメになりますし、
自分の好き嫌いの感情を無視すること、その正反対の行動としての表現はすなわち、
自らを偽り、自らの心が訴える“良心”と“心の真実”を踏みにじることにつながります。

問題なのは“主観”であることではなく、
“主観”であることを隠し、偽ることです。

ここで改めて“人を選ぶ(作品)という言葉について考え直してみましょう。
個々のプレイヤーが自分の判断で作品“を”選ぶ、ということでなければつまり、
作品(≒作者)が“(遊ぶ)人を選ぶ”ということで、プレイヤーの立場と視点で見れば、
この場合は“選ばれる”“選ばれない”かのどちらかになります。

ゲームは基本的に自分が主体となって遊ぶモノですから、自分は“選ばれなかった”とは
あまり考えないでしょう。前述した通り「自分には合わなかった」とでも言うはずです。
“人を選ぶ”とはつまり“(自分は)選ばれた”と考えている人間の言葉です。
(自分)という主語を隠しながら、です。

人を選ぶ 自分は選ばれた であり、

自らの傲慢と思い上がりを覆い隠す、嘘と欺瞞に満ちた忌むべき言葉です。
そんな言葉を使う発言者の批評はもちろん、その人間性は信用どころか軽蔑に値します。
自分の人生を台無しにされたくなければ、そんな人間と作品には関わらないことです。

ネットの外でこの話をすると、もちろんこんな回りくどい言い方はしていませんが、
「人を選ぶ(作品)=自分は選ばれた」だけでも“あるある”として確実に笑いが取れます。
あるあるネタで取れる笑いというのは決して大爆笑ではなく共感を含んだ笑いなので、
明らかにリアクションが違うからすぐに分かります。皆本当は気付いているんですよね。

自分のやり方や考えが絶対に正しいと信じて疑わず、それどころか自分以外をバカだと思って
見下してるから、理解を得るための工夫はもちろん、自分以外の“視点”や“思考”“意思”の
存在には考えも及ばない。

客も客で、狭い世界の中でしか通用しない単なる理不尽と不合理と嫌がらせに順応してる自分を、
実際は正常な感覚がマヒしているだけなのに、その辺の有象無象とは違う
一段高い所にいると思い込みながら誰も幸せになんかなれない不自由と不愉快にしがみついて、
寄り集まった同類同士でも上っ面だけのお仲間ごっこと相互監視に批判の弾圧と足の引っ張り合い
なんかしていれば、作者も客もつけあがるだけで、そんなものが何ひとつ良くなるはずもありません。

それでは“遊ぶ自由の無い”クソゲーになるのも当然です。

人の好きなものをバカにするのは良くないことです。
純粋な“好き”の気持ちは本来素晴らしいものであり、たとえそれが自分の理解の及ばない
ものであったとしても、お互いに認め合い尊重し合い、敬意を払うべきものです。

ですが“好きな自分”を自慢する奴は別です。
誰に何と言われようがそれを貫く信念も無く、自分の言葉で語れるだけの真っ当な見識の
積み重ねも無い、批判への反論は想定問答集から一歩も外に出ることが出来ない中途半端で
幼稚な自尊心と承認欲求を満たすためだけにニッチな趣味に逃げ込むオタク根性は、
思う存分踏みにじってやりましょう。

さらにもう一つ、ぶった斬ってやらなきゃどうにも気が収まらない、
人生で最もムカついたクソゲーとクソゲー会社のことを書きます。
この題材の再録はもっと後にするつもりでしたが、急遽前倒しでの再録を決意したのは、
最近のswitchで性懲りもなくダウンロード販売が復活したからです。
性懲りもなく湧いて出た最低最悪のクソゲー
もちろん、このクソゲーのレビューにもありましたよ“人を選ぶ”って。
↓ほらねw

人を選ぶw・3

 

人を選ぶw・4

 

〈続く〉