中瀬賢次 著より 抜粋
信州(長野県)で味噌が造られるようになったのは、武田信玄が川中島の合戦のとき兵たん(姑)食料として奨励金まで出したことで全信州にひろがった。
有名な川中島たまり(溜)由来となった。
これがため信濃の国(長野県)では水内の黄大豆をはじめ大豆類の増産へと拍車がかけられた。
この信州味噌の配合率は、川中島地方では、
大豆三斗、塩一斗五升、麹十五升、伊那地方は大豆三斗、塩一斗五合、麹十斤
という仕込法で徳川末期まで続けられてきた。
明治に入って人口増加による米麦の不足となり、
山間地方では次第に味噌玉にして一カ月程度軒端につるして山紫水明、
オゾンの多い信州の空気にさらし、不純物の少ない天恵のカビを利用して発酵させることを
覚えたことが、今日信州みそがとくに風味の点において賞味される所以である。
(上記は、韓国系の味噌の作り方なので、麹技術を捨てて天日に吊す味噌造りは、味噌造りでは技術を落とす事になるためちょっと違う気がします。 おそらく別ルートで入ってきた味噌技術だと推測)
新古敏朗説
風林火山で有名な武田信玄の旗じるし「疾如風徐如林侵掠如火不動如山」は、
群青(ぐんじょう)の絹布に金泥(金の粉をにかわに溶き混ぜた絵の具)で書かれた軍旗が、
今もなお山梨県塩山の雲峰寺に伝えられている。
早きこと風の如く、静かなること林の如し、侵略すること火の如く、動かざること山の如し。
字句は、兵法の聖典「孫子」の一節、筆は、恵林寺の禅僧快川紹喜である。
この軍旗に示すとおり信玄の策略ぶりは正に戦国の典型ともいうべきであろう。
その深謀術策の一つの現れとして考えられることは、住民の食糧増産と貯蔵を奨励するために、三年味噌や四年保存の大根など特別価格に買い上げて、保護育成しました。
いまでも長野県下の一部地方には、
”味噌どんぶり、三年味噌、四年大根、とても喰わぬで、秋さつき、まずまず一貫(くわん・お金)貸し申した、貸した“という手まり歌が残っている。
これは味噌その他の食糧を高く買い上げて貰った有難さを、伝えてきたものであろう。
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