(湯浅醤油と金山寺味噌の歴史4)未醤の研究に没頭  宋地における国師の事跡  金山寺味噌が最高! | 世界一の醤油をつくりたい 湯浅醤油有限会社 社長 新古敏朗のブログ

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湯浅醤油の社長、新古敏朗が想いを綴ります。
和歌山県の情報の発信、イベント情報などの掲載
日本の醤油の発祥の地から世界のトップもしくは、本当に醤油にこだわっている人に知ってもらいたいと思っています。

丸新本家湯浅醤油有限会社の新古敏朗です。

 

鎌倉時代 栄西の影響で、中国の禅のブームが起こります。
中国の南宋の径山寺に3代将軍、源実朝の菩提を弔う為と禅の教えを習得するため
心地覚心(法燈国師)は、高野山から中国に渡ります。
そこで、麹つくりを持ち帰る計画を試みて、見事に成功します。
かれは、日本の庶民の為に技術を惜しみなく伝えました。
これが、金山寺味噌(紀州由良町から湯浅町一帯にひろがりました。)
そのたまりが 湯浅醤油となるわけです。

 

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みそ、醤油の始まりが記されている本

 

心地覚心(法燈国師)さんが、宋に着いて、径山寺味噌(金山寺味噌)の素晴らしさ、

美味しさを知り庶民の為に 天下一の味を持ち帰りたいという行動が載っています。
「世界一の醤油」は、ここが始まりですね。

現在、中国には金山寺味噌の製法は、無く日本にのみ残っています。
また、日本の醤油は、中国で教えてもらった、味噌のたまりから開発された

日本独自の、醤油つくりでもあります。

 

 

 

中瀬賢次 著より 抜粋

 

宋地に渡り三年昼夜坐禅工夫に精進し、黄麻衣(こまい)1枚で畳一枚の広さに趺坐(ふざ)して、入宋以来まだ一度も横臥したことがない。

「ここは人多く集まれど、この程度の研究では日本僧にもざらにいる。それより毎日出てくる彼のうまい未醤の製法を探る事の方が気がきいている。」

日本では輸入によって貴族の間で貴重な調味料とされていたことは、天平、平安の昔からの事である。国師は醸造技術に秘訣があると考え典座の多忙も重なり手伝い詳しく教えてもらい金山寺の豆鼓法(豆と塩とを和して造る食品)も鎮江府金山の竜遊江寺で作る三種の精饌(膳立)の中にはこれよりうまいものがあった。

金山寺に入って典座に秘法の伝授を請うたが、容易に承知してくれず、日本には豆も塩も豊富にあるが庶民の生活は貧しい。せめて費用も少なくて済む豆豉の醸法だけでも普及して栄養のある調味食をと拒んでいた典座も熱意にほだされて懇切な指導を応諾したのである。

 

 

正覚山妙光寺にある乙壇雑紀(原本美濃版五十三枚)には、「精饌には白絲こう(そうめん)鹹豉(こくかんし)糖豆粥(とうずじゅく)の三種あるが、そのなかでも金山寺鹹豉は天下一」「宋では数種の鹹豉を造り豆豉には二種あり、淡は湯薬用・鹹は食用に使う。」

 

国師が奥義を極めたのは、豆に花をつける操作で、うまい金山竜遊江寺の豆豉の秘訣こそ味噌のはじまりとなり、径山の未醤が醤油の美しい香りと味を醸し出す基となった。

「覚心が我が国のために広める事を求め、典座は丁寧に秘法を伝えた。覚心感涙の衣をぬらし、礼拝して下山した」

 

 

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