鎌倉時代 栄西の影響で、中国の禅のブームが起こります。
中国の南宋の径山寺に3代将軍、源実朝の菩提を弔う為と禅の教えを習得するため
心地覚心(法燈国師)は、高野山から中国に渡ります。
そこで、麹つくりを持ち帰る計画を試みて、見事に成功します。
かれは、日本の庶民の為に技術を惜しみなく伝えました。
これが、金山寺味噌(紀州由良町から湯浅町一帯にひろがりました。)
そのたまりが 湯浅醤油となるわけです。
これが、この本に載っています。
中瀬賢次 著より 抜粋
国師は他行中の宋国滞留中、習得した味噌・醤油の製法を、その弟子門流に口授、伝授した。
味噌・醤油の製法が日本全土の底返にあえぐ人々に普及し、米麦と並んで日本民族の健康を維持してきたことは、申すまでもないが。国師の徳に帰依し、国師不在中、国師の母堂妙智尼のそばに会って奉仕して、何くれとなく世話してきたお生と立子は、国師が帰日後正嘉二年(一二五八)紀伊由良の西方寺(のちの興国寺)において国師自らの手によって得度落飾して尼となった。お生は覚性尼、立子は覚悟尼とおくり名された。その一人覚性尼は公文阿念の息女であり、湯浅の人で後年世にいう湯浅醤油の元祖とされる人である。
国師は、これらの人々に自ら親しく手を取って未醤の製法を教えるとともに、日々参陣する弟子達にも口授した。また国師はこの未醤と豆豉の製法二通を手書きして紀州由良の西方寺(のちの興国寺)の宝蔵に保存した。(後年焼失)、直弟子である覚勇は、これを筆写して京都の明光寺に収納したのであるが、写本はまだ見当たらないのである。
法燈一派は、この本書の主人公法燈円明国師に奉ずるため古来から“朝味噌夕醤湯”(あさみそゆうしゃんとう)と称し、毎日の献粥のとき、朝は必ず味噌に菜を添え、夕は熱湯に醤油数的を和して国師の御前(寿像)に献供することを恒例とし、今にして倦むることなくこの敬虔な気持ちを堅く守り続けていると云われている。
(湯浅醤油と金山寺味噌の歴史0)みそ・しょうゆ 始祖 法燈円明国師
(湯浅醤油と金山寺味噌の歴史1)心地覚心(法燈国師)の生立ちと味噌・醤油の普及
(湯浅醤油と金山寺味噌の歴史2)覚心書
(湯浅醤油と金山寺味噌の歴史3)味噌・醤油の開発で本朝二十四孝の一人
(湯浅醤油と金山寺味噌の歴史4)未醤の研究に没頭 宋地における国師の事跡 金山寺味噌が最高!
(湯浅醤油と金山寺味噌の歴史5)朝 味噌 夕 醤湯 法燈一派の敬虔な気持ち
(湯浅醤油と金山寺味噌の歴史6)朝 味噌 夕 醤湯 その讃仰の詩に日く
(湯浅醤油と金山寺味噌の歴史7)味噌の主産地長野県 「味噌寺」 「みそ神社」
(湯浅醤油と金山寺味噌の歴史8)醤油の勃興・関東西で営業化
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