鎌倉時代 栄西の影響で、中国の禅のブームが起こります。
中国の南宋の径山寺に3代将軍、源実朝の菩提を弔う為と禅の教えを習得するため
心地覚心(法燈国師)は、高野山から中国に渡ります。
そこで、麹つくりを持ち帰る計画を試みて、見事に成功します。
かれは、日本の庶民の為に技術を惜しみなく伝えました。
これが、金山寺味噌(紀州由良町から湯浅町一帯にひろがりました。)
そのたまりが 湯浅醤油となるわけです。
心地さんが、中国より帰国して、母を信州に迎えに行き、和歌山の興国寺に呼び寄せた事が
記載されています。
中瀬賢次 著より 抜粋
心地覚心(法燈国師)は、直裰を着用し、母(十九歳から会っていない母に60歳まで一度も会っていなかった)にお伴して、神恩を謝すため熊野権現に御礼詣でを行った。そのあと由良の興国寺に帰り
門前の西の谷に、かねて用意していた庵室に母を導き、日夜孝養の誠をつくされた。後の人が本朝二十四孝を選ぶに当たり、国師をその一人に数えているのは当然のことと云うべきであろう。
国師が在宋中に径山寺において未醤の製法を研究し、
はるばる揚子江をさかのぼって江蘇省鎮江府の金山寺にのぼり、典座和尚に懇請して豆豉の製法を学ばれたのも、母にこれをすすめて孝道を尽くしたい一念からでもあったわけである。
「いぬる健長中、国師海を越えて宋域にあり、径山に癡絶和尚に参じ、止留二年。ここにて未醤というものの製法を学び給ふ。得法の後は、日本に帰りて、母儀にもすすめたてまつらんためなり。鎮江府金山寺に又別の豆豉法あり。天下第一のむね、日本国の僧、覚儀・親明の二人よりうけたまわりて一夏金山寺に投じ、典座に懇請してこれを習い、詳しくしたためて帰朝」
「西方寺の庫院にて試みたまうに、宋地の未醤よりも優れて風味好し、国師大いに悦びて、これを仏に供え人にもすすめ給ふ。水質の良きにや、はたまた国師至誠のいたすところが、母儀を迎えたてまつりしよりこのかた、両粥一斎のうち、粥には金山寺豆豉をすすめ、斎には径山寺未醤法による汁をつくりて、これをすすめ給ふ」
「未醤の汁に四季よりよりの野菜をまじへ添えたてまつるなり。母儀もとより高齢にましせば、御腹をあたたむるために、熱き湯に未醤すこしばかりを加へてすすめ給う。母儀いかにの喜悦ましまし、文永四年丁卯四月十一日いふに、八十余歳にて眠るがごとくかくれまします。」
「お墓を寺の東南結界の地にしつらひ、宝篋印塔とまうすを建てて供養しまします。これより入滅九十二歳の十月に至るまで、日々足を跣にして墓前に詣で、朝には粥と未醤、夕には醤をまじえし湯を献じたまふ。光明真言・宝篋印陀羅尼を念誦したまふ。ありがたき次第なり」
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