織田信長と思想と実践主義 | 反新自由主義・反グローバリズム コテヤン基地

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はい、今日は雑感の号外。本日の本記事はこちら

安倍総理の年頭所感の矛盾

あのね~ブログランキングがなんとかかんとかギリギリ49位で保っているのですけれど、49位からの脱出ができません(´;ω;`)シクシク・・・・!?4949!?!

Σ(゚Д゚)コレカ!!

ピッタリと49位に張り付いております(笑)

 

まぁいいや(全くよくない)

私正月は実は29日~現在まで風邪です。咳が止まらない。だいぶマシにはなったのですが。

おかげで作る予定だったお節も作れず、寝正月となったわけですが、ただ寝正月を過ごしていたわけではなく、実は織田信長の研究をしておりました。

んで歴史学的にあったことだけを見て「こうかな?」と考えるのではなく、思想面からの論考をしておりました。

 

んでここでは詳しく述べませんが、どのような論考をしていたのか?の概要だけ述べますと、まずは戦国時代という状況が何故生まれたのか?

ここに地政学的変化が「かなり働いたのではないか?」という結論に達しました。つまり小氷河期の到来と飢饉です。

室町時代の守護大名やその他豪族たちが、どうにもならない地政学的変化に対して、つまり内政の行き詰まりを外征に求めたその結果が戦国時代、という解釈は非常に説得力があるように思えます。

世界史のなかの戦国時代〜異常気象 小氷河期が戦乱を生んだ - 田家康(日本気象予報士会東京支部長)

 

しかし今までの伝統や権威、習慣、習俗というものはいきなりガラッと変わるわけではなく、多くの大名や豪族、民衆もまだそれが生きていると思っていたのでしょう。

ところが織田信長という人物は実は「現状を正確にに認識し、論考し、判断する能力」に非常に長けた実践主義者であったという考察をしております。

(ココらへんについては、まとめるのが大変なので、今度触れます)

 

現在の織田信長像は常に「苛烈な改革者」として語られることが多いのですが、実は織田信長が改革したものというのは、さほど多くないことに驚かされます。

例えば楽市楽座のアイディアはもともと今川義元であった、というようなことが歴史学からは言われております。

また関所の廃止は勢力を拡大してからの話で、ある意味で「当然の結論」だと取れます。

 

また彼は将軍を伴って上洛したり、親王と親しかったり、軍備を持たない寺社などに対しては厚く保護したりと保守的な一面も覗かせます。

また講和などに関しては自分から破ることはなく、すべて相手が破った、という事実が示すように決して単なる戦好きというわけではなかったようです。

戦に明け暮れてはいましたが。

 

ということでココらへんはさらなる追求をしてみて、織田信長という人がどのような思想の持ち主だったのか?を探求してみたいと思います。

まとまりましたら、ちょっとした形で発表したいなと思っています。多分年内に・・・(汗)

2月中に多分完成1人プロジェクトで、結構忙しいんですよ(言い訳)

ちなみに私は織田信長より森家の戦キチガイっぷり、ド外道ぶり、あと蘭丸が好きです(笑)

と言うのは冗談(どこまでが?)で、実は徳川家康が一番好きな武将だったりします。ってまぁいいや。

 

話は変わりまして今「ケインズ 思想の奴隷」でググりましたところ、藤井聡教授の面白い文章が見つかりましたので一部引用してご紹介。

かなり面白いのでできれば、全文読んでいただいたほうが良いと思います。

【藤井聡】なぜ「思想の奴隷」になる輩がいるのか?

 

2014年の記事なのですが、以下「ぬはっ!言えてる!」という箇所を引用します。

 

この新自由主義の理論は、極めて単純な論理です。そこには、複雑性、豊穣性は全く無い。人間は単なる「消費者」であって、倫理的な問題に関心を抱くような事は一切無い、ということになっている。

法人だって、世間や買い手が満足することそれ自体を喜ぶ、と言うようなことは無い、ということになっている。しかも、全てのプレーヤーが完全な知識を持っているということになっているし、いろいろなプロセスは、一瞬で生じて、時間的な遅れは存在しない、ということになっている。

──もちろん、現実社会はそうなっていないことは誰もが知っている話なのですが、この新自由主義の理論の世界では、「そういう事になっている」のです。そして恐ろしいことに、ただ単に理論的に「そういう事になっている」に過ぎない架空の話を、新自由主義者達は、「本来は、現実はそうなっている」と真剣に信じているのです。

これはもう、ナチスドイツの「汎ドイツ主義」(ゲルマン民族が、最高の民族だ、という思想)を信奉していた当時のドイツ国民達と何も変わりがありません。現実は理論と明らかに違うのに、自分が信ずるイデオロギーを重視して、現実を見る事をやめているのです。

そのために、現実に目を向けさせてしまう自らの内に僅かなりとも残されていた「理性」を、完璧に隠蔽しようとする訳です。

 

ところで、新自由主義者の方々、とりわけ、学者、エコノミストの方々は、多くの場合、偏差値的な意味で「アタマが良い人」が多いのが実態です。

彼等は、アタマが良いが故に、より完璧に,彼の虚構論理を作りあげてしまうことが出来てしまうので、より完璧な思想イデオロギーの奴隷になれてしまうのです。

でも、一般庶民の感覚から言うと、そんな完璧なエリート奴隷は、単なる「アホ」にしか見えません(笑)。なぜなら、彼等は大まじめに「消費者は全ての情報を持ってるんだ!」とか「政府はムダなのだ!」などと、何をどう考えたって、狂人の主張としか思えないことを主張するからです。

それにツッコミを入れようものなら、「お前は、教科書も読んでないじゃないか。そんな素人に何が分かるというだ。ホント、経済学的思考が出来ないバカは、これだから困るんだよな」なんて、バカにバカにされるのがオチなんですね(笑)。

 

昨年、三橋氏ブログやここらへん界隈に「教科書読め」というあだ名でバカにされている、某誰かさんに似ているなぁ、まったく藤井先生の仰るとおりの現象が起きてる・・・・と藤井先生の慧眼に感服し、「教科書読め」という人物の愚劣さに思わず皮肉を言いたくなる私でしたとさ(笑)

 

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