ずるずると道・郷・話を愛でる

ずるずると道・郷・話を愛でる

房総半島から栃木県北部を中心として、
街と街を結ぶ県道・国道・峠道を巡回しながら、
持続可能で成長する日本の未来の為に成すべき事を考えます。
日々の個人的な興味について書くこともあります。

 

実は今のままで現状維持を基本に続ければ、何も問題もなく10年後が迎えられるのではないかという希望は、全くないのである。

 

小池都知事が再選され、個人的には都民ではないのにもかかわらず、違う候補の都知事当選を夢見ていた口ではあったが、それは、夢であって、夢のまま終わってしまった形である。コロナ感染の拡大の兆候があったが、なぜか100人を超えたぐらいのところでうろうろしている状況である。特に東京都が何をしたわけではなく、ただ、深刻そうな顔をしてその数値を都知事が報告していただけであった。

 

https://president.jp/articles/-/36834

 

 

ツイッター界隈では、わざわざ情報を発信するような人は、小池都政の問題点に気が付き、それを解消しようとしているほかの候補者にも注目していた。ただ、それ以外のところでは、旧来の右翼だのサヨクだのというところで、レッテルを張ったうえで考えるのをやめ、なんやかんや言っても、現職で、「そんなに問題を起こしていない」と思える小池いったくだろうということを考えていたわけである。

 

これは国政の安倍政権にも共通することである。

見た目は何かうまくやっているということを見せる。その場で見せる、ということが大事なのである。その場で見せなかったことについては、過去のことである。過去のことは「今をうまくやっていること」に比べたらどうでもいい、忘却の彼方の出来事だというのである。

 

今が、派手な動きをしていたら、それだけでざわざわしてしまう。むしろ、いつものようにやっている感じのする政治を見たいというのが、多くの人たちの気持ちだったというのだ。当然、それは、死にそうになるとか、生活がどうにもならないということに陥っていないことが条件であろう。幸か不幸か、コロナ感染拡大のために急減した経済活動でも、まだまだ、問題がなく過ごせている人々が多い。都市部においては、自治会も形骸化したようなところも多く、隣が何をする人なのかよくわからないことも多い。ましてや自分の住処から少し離れたところで起こっていることなどは、わかりようもない。仮に、貧困化が進んでいたとしても、自分の身であったり知り合いにそういうことが起こらない限りは気が付かないのである。

 

貧困化や治安の悪化が身に迫らないと気が付きようがないのである。そうすれば、テレビやメディアでなんとなくやっている感を表しておれば、それを横目にして生活している分にはそれで満足だったりするのである。自分の生活、そういう社会に対して、ミクロな世界ではそういう感覚となるのだ。社会は、空気のようなもので、わざわざ自分が考えなくても勝手に回っているという感覚である。

 

政治が影響を及ぼすのは、社会である。自分の周りだけのミクロな視点しかなく、その直感から抜け出さないままに、社会を見ると、なんと平和な社会に見えてしまうだろう。要するに、自分の見えているものをそのまま薄く広げたものが社会という背景画として見えるということである。そうなってしまえば、毎日見るテレビであったり、大手のネットニュースで見聞きする範囲でうまくやっていることを演出すれば、それで、十分魅力的な政治に見えてくるということなのである。

 

しかし、気が付いてしまえば、そんな社会は既に存在しないといってもいいだろう。自然災害一つとっても、山々のメンテナンスがなされていないが故の川の氾濫という面もある。インフラの期限切れのものの整備が行き届いていない状況も同じようなものだろう。そして、もっと身近には、そもそも日本は、食料をはじめ製品やあるいはサービスに至るまで、自分の国でやれることが相当少なくなっているということだ。何もやれなくなってきているのである。今のところは大丈夫な気配ではあるが、そのうち外国人の働き手が増えていくが、その来日者は彼らの祖国の中でも低い賃金の人たちが大挙してくることになる。日本は、作れないことによって、衰退しているため、仮にそういう外国人を呼ぶにしてもそのような人しか来ないような国になっているのである。

 

一部のカネばっかり扱うような金持ちと、物も大して作れない多くの貧困者があふれるような社会は、特に魅力的な文化をはぐくむ余裕も度量もない。これまでの先人が築き上げてきた遺産をむしばみ続けて、ボロボロになるのが落ちである。結局のところ、このような危機的な状況に目を向けるのが遅れれば遅れるぼど、気が付いた時のショックは大きくなるばかりであろう。その大きさは、一挙に社会が崩壊するレベルになるかもしれない。

 

元号が変わってもまだ平成時代の気分でいるとすれば、それは、現状がそれを許さない状況が進んでいることをあえて無視し、ただ座して崩壊を待っている状態であるといえるだろう。

 

小池都政や安倍政権を消極的に支持する限りはその破綻が生きているうちに訪れるのは回避しようがない。いつも考えていることの上に、その危機感を合わせて感じていただき、どういう選択を普段からすべきかということの習性を図っていく必要があるだろう。

 

 

 

 

https://twitter.com/sivaprod/status/1279423268655513600 より

やってみたらとんでもなかったということを無理に冷静になってみることもないだろう。

 

コロナの感染は、緊急事態宣言を通しての国民の活動変容の結果、だいぶ終息したことになっていた。しかし、6月の下旬より再び感染拡大の兆候が見られることが最近の東京都の感染者の報告や全国の報告者数で明らかになってきている。ただし、死者数の報告は明らかに少なくなっており、重症から死亡に至ることが少なくなってきていることも見て取れる。これに対して、明らかに感染者数が増えた東京都は、不要不急の移動の自粛を要請することとなり、相変わらず、国民任せなやり方ではあるが、その発信自体は、国民がやばいと感じて外出を控える行動に変わるという形にはなっていくだろう。やはり、3月のころの危機感のなさの時よりは、実際に死者数が積みあがっている現実を考えれば、自衛的な行動の動機付けがなされていると見て良いだろう。

 

こういう行動に対する結果として、経済活動が抑制されるということになる。それに対して、ロックダウンと呼ばれる、方弼に基づく強制力で外出を制限することはしなくても、国民の自衛的な行動変容は多かれ少なかれ避けられないし、それに対する非難も筋違いである。要するに、そのことは、コロナの対応としては、ある意味避けがたいものである。

 

このような経済活動の抑制に関しては、事業が継続できなかったり生活が困窮することに陥ることになっている人々が続出している。もちろん、そこまで至っていない人が多いのであるが、その影響はじわじわと広がっており、半年後1年後までを考えると、何の手立てもしない状況では、より多くの人々が、経済的なこんな状況に追いやられてしまうのである。

 

事が起きてから、対応するのでは遅い。まだ問題になっていないときから対処しなければならないのである。コロナの対策に対しては、感染拡大を防ぐという直接の対応に関しても、コロナウイルスの感染ということ自体が、すぐには見えない(感染しても無症状が1~2週間続くことが多い。その後発熱などの症状が現れることがある・・という性質)ことと、経済困窮で追い込まれることも、会社などが持ちこたえている分、その問題が現れるのは、3か月先か半年先かというタイムラグがあるのである。

 

それにたいして、対策にカネをかけたくない、と思っている政府や自治体は、一部は予防的な対策を打つが、その目の前の実感のなさに乗じて対策を少なめに行うことが多いように見える。受ける側の国民も、現在の状況としてはそこまで悪くないと映り、正常性バイアスも手伝って、こんなものかと受け入れてしまうという側面もあるのだ。

 

あらゆるものが一挙に崩壊する、カタストロフィの状態になっていないのは、先人が積み上げてきた分厚い遺産のおかげであるが、それがかえって問題の対処の遅れをもたらしているというのは以下のも皮肉である。このことは、コロナ以前の日本の経済停滞の時にも起こっていた現象であり、衰退を止められていなかった結果にもつながっている。

 

人間はごまかせてもコロナは人間のようにうまく空気を読んでくれるわけではない。広がらないようにするのは、人間の間の感染を防止するしか手はないのである。それは目の前でわかるわけではなく1~2週間後に現れるという、毎日試験を受けて数週間後に結果を見ることが続いているようなものである。その結果は、日本経済の状況よりもダイレクトに感染報告者数という形で見えてきた。それによってもたらされる危機感は具体的で、行動変容には相当な影響力があったということである。国民にとってその感覚はこれまで実は忘れていたものではなかっただろうか。危機はそこにある、それに対して対応しなければ、どうしようもない、ということ。

 

東京都知事選挙では、特に何も実現してこず、現在の既得権益に便宜を図ることを消極的に容認してきた現職が再選されたが、これからの対応は、国政と同様に良い結果も悪い結果もコロナ感染症が収束していない限り、はっきりと表れてくる。それを後追いで対応するか、先んじて対応するかでもその結果(悪い結果)のひどくなり様が変わってくるということは、避けがたい状況なのである。有権者は、それに対して、危機感を持っていることを、多くの人々の共通認識として持っていくこと、それを、普段から批判という形であらわすこと、そういうことが大切であるということはこれまでもそしてこれからも変わらない。そのことによってはじめて、選挙の機会における政治の選択肢の現れ方や、実際にそれを選択する意識も変わってくるのである。すべてが意識が高いことはあり得ないのである。空気のような意識は、普段から作りこむしか方法はない。

 

 

 

見た目怖いものに見えて、これも一体何が起こっているのだ!という叙述トリックではあるが、2重にも3重にも意味が重なってきて、面白いのである。(青春ブタ野郎はゆめみる少女の夢を見ない)

最近テレビを見てないせいか、たまにテレビを見ると、ものすごい違和感がある場合が多い。その違和感のある意見が、とめどもなく早口で幕して建てられ、テロップが表示されこれでもかと繰り返し送り込まれている感じがする。人間の思考を挟む暇がないうえに、効率よく物事をやろうとすればするほど、そのような情報に頼ろうとする感じがしてしまう。大量の情報の割には、何か残るものが多くないのは気のせいだろうか。

 

【ミンスサポ憤死】山里亮太「やることなす事 全て反対…」→ 中居正広「野党だね!」 ネット「ド正論」「普通の日本国民の率直な感想

 

https://fate.5ch.net/test/read.cgi/seijinewsplus/1593903430/

https://sn-jp.com/archives/997

 

 

 

野党というのは、与党のやり方に対して、補正をかけていく議論をする団体という認識でいるが、一方、与党との対決を意識する必要があり、その差をもって、次回の機会に政権を交代する機械を得ようとするということを目的としていることも確かだろう。しかし、そういう崇高な目的があったにせよ、その戦略を練る時点で、与党の反対ばかりをすればいいということにはならないのは確かなことだとう。反対するにしても、何が問題で反対なのかを言う必要がある。

 

あとは、その優先順位も大切である。スキャンダルや政治規制法関連の虞犯行為を責めるというのは、わかりやすい態度ではあっても、政治そのものの取り組みではない点は、政治の場で行う議論としては重要なポイントだろう。ましてや、スキャンダルだけを前面に出し続けて批判をしていても、野党がやろうとしていることが何か、ということが見えてこない。そこも力を抜かずアピールしなければ、せっかくの反対の意味も意味をなさなくなり、むしろ、与党の狂った政治に対して、目が行き届かなくなるという状況を作り上げてしまっているのだ。結果として、上記の記事のように、「反対している」という印象だけが残る。そうなれば、外国人労働者(低賃金)受け入れも、消費税増税も、頑張ってやっているのに、なんで反対するんですか、という、問題の本質より、それをやっていることを邪魔されることの「悪さ」に印象が残ってしまうのである。与党の有力議員がいみじくも言ったように、こんな制度を作り上げるのにどれだけ苦労したか!と言われれば、「廃さすがですね・・ご苦労されたんですね。大切にありがたくその制度に乗っかります」という感想さえ生まれてしまうのである。

 

もちろん、これは受け手側の感性の問題でもある。野党がどんなに的が外れたことをやっていたとしても、与党の悪辣な政治の結果が、許されるはずはない。単純にそれを悪辣なことだと認識できない状態が、問題には違いないのである。ただ、野党には、このように間接的に与党の悪辣な政治をのさばらせ続けてきた環境の維持担当を行ってきたという認識は持ってもらいたいものである。国民はそういうものに流されやすいものだということを認識して、崇高な目的があるのであれば、そういう性質も考慮して、国民に降りかかっている問題が何か、それをどうするのがいいのか、ということを、米国一極集中の時代が去っている現代社会を踏まえて考えてもらいたいところである。強固な古臭いイデオロギーとか、何とか政経塾で覚えたネオリベな考え方とか、そういうことに対して、現実を反映してバージョンアップしていかないと与党の悪辣な政治の本質はいつまでもちゃんと批判できないのである。

 

もちろん、それがやり切れるためには、国民の方も少し賢く・・・というか、10センチぐらい政治のことを考えてみることは大切であろう。それによってあげられる国民の声がフードバックして、野党の活動にも影響を与えていくだろうし、場合によっては、与党が棄民政策(国民の大多数を無視してパトロンの財界の実を優先した政策)を見直す可能性さえある。

 

現在の苦境から脱すことができない状況について、平成時代を通じて、そもそもあるべきものが人々から吸い取られてスッカスカになってしまったのだろうか。(ド級編隊エグゼロス)

 

 

梅雨前線が日本列島に停滞している中、大気が不安定で、各地で大雨が降っている。そして、熊本県では、大雨により球磨川が増水し、沿岸の各地で反乱が起こっているという。SNSでも現地の被害者からの動画がアップrされるなど、川沿いであったり、山間の各地では、大量の雨水による街中への水の流入であったり、一面が濁流になっているところさえある。自衛隊も出動しているようである。

 

初動は、なんとかなっている可能性があるが、自然災害の対応はのちの復興まで含むものである。自助の範囲は相当限界があるので、国や自治体が復興のために動くための金銭的なものを主体にしっかり対応する必要がある。まさかとは思うが、コロナ対策に、緊縮財政の観点から及び腰な政府は、この甚大な自然災害に対して迅速な災害対応とその後の復興の対応をしてくれないことはないことを信じたい。そうしてもらわないと困るのである。

 

そして今年は特別なことがある。避難所に関しても、コロナ感染の予防の観点から配慮しなければならないという、従前から指摘されていた問題があるのだ。普段よりもより多くの対応が必要なこの状態において、先手で、多めの対応が繰り出されるかは、国民が大きく注目するものである。当然このような災害は、ほかの場所でも起こりえるものであり、他人事ではないからである。決して国民を見捨てないその対応は、緊縮財政などというばかばかしいこだわりよりも、当然優先するところを見せなければ、あるべき政治ではないのだ。

 

東京都知事選挙の投票が行われることになるが、東京都民はこのような状況についてもよく見知っておき、自分たちの自治体がどのようにあるべきかを考慮して投票してもらいたいところである。首都である東京の結果は、全国的に大きな影響を与えるものなのだ。

 

 

大丈夫かな…と思いながら、まだ大丈夫だろう、と構えてられる状態ではすでになくなっている。無関心でいられるほど余裕がなくなっている。その、平時の選択はうまくことが動かないことを知る必要があるだろう。役に立たなさそうなことがたいして問題でなかったのは、単に余裕があった、というだけのことである。

 

 

そろそろ、都知事選挙も終盤で、投票日が目の前の日曜日に差し掛かった状況であるが、その空気を読むこともなく東京都の感染者数は、タガがはずれたかのように、緊急事態宣言中の数に匹敵するぐらいの報告数があげられている。発症が報告されたところの感染経路をたどって検査しているというやり方は基本的に変えていないため、あくまでも氷山の一角ではあるが、発症の報告が増えているという傾向は明らかなことであろう。それに対して、都や国がとろうとしているやり方はなんであったか。

 

東京都は、もう財源がないという理由で、行動制限の要請をしないという。現職の東京都知事がそう言っていた。行動制限の要請はしないから、東京都は全くそれに関与しないです、コロナは怖いので自主的にやってください。それで経済的に損害を受けたところで、それは、あなた方の自由意志なんですから、しっかりご自身で責任を取ってくださいね、と刺しゅう入りのマスクをした姿で訴えているようなものだ。当然、ホイホイと東京に行く人は、このことを知って、その責任を負うことを認識したうえで、それを実施するはずであろう。入れてから知らなかったというのはなしである。

 

https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4018682.html

 

 

 

 

国もそれに合わせるかのように、行動制限をやらないという。その会見で西村担当大臣は、「緊急事態宣言は、いやでしょう?だからやらない。」というような旨のことを言っていた。やるべきことを、「いやだと思うから」やらないという、小学生の会話のような判断でやらないというのは、そもそもコロナ対策を政府がやる気がない、いや、やったときの批判に対する責任を取りたくないから、放棄するといっているのである。東京都も国も、コロナ対策に対する態度は似たようなものである。責任を取りたくない、そして、パトロンである、財界やら外国勢力やらにはやたら気を使って、経済経済言っているのである。本来政府や自治体が気にするべき経済は、そんな大企業の金もうけの話ではない。結果的にそれがつながるかどうかであって、それだけを目的にしても全く意味がないのである。

 

それはなぜか。単純に、国民が全体として豊かにならないからである。一部の国民がカネを手元に持てるという意味で豊かになったとしても、その金で享受できるモノやサービスは、国民が担うことになるのだ。それをするためには、国民が総じて豊かにならないと意味がないし、そうしたことで、モノはサービスが広く売れることになり、国内経済の好循環がおこり出すのである。さらに、現在はコロナ対策が必要な時期であり、経済活動の抑制が必要不可欠な状況である。そんな状況でも、経済を回すための能力は保持する必要があるので、しっかり経済被害の補填をする必要があるのだ。

 

それは、こんな言葉で表されるだろう。将来にツケを回さないためにすると。

 

実はコロナ以前にかなり将来(あるいは、今)にツケが回されている状況が出来上がっている。平成時代の30年をかけた、将来の付け回しである、緊縮財政、それに従って動いた民間の活動、国境の出入りの規制緩和の積み重ねが、すべて将来の付け回しとなって、いまわれわれの上にのしかかっているのである。あるべき能力がだいぶ失われている。単純に、モノを作る力であったり、安定的な電力供給であったり、小さな問題のくせに、道徳的に訴えやすいという理由で進められてきた、全く意味のない財政再建や、あるいは、相対的に小さな環境問題に対して、優先的に対応してきたために露呈してしまった、破たんに近い状態である。

 

破たん破たんといっておそれていた財政破綻は程遠いのに、近隣諸国との国力の相対的な関係という意味で破たんが近い状況となっている。破たんというと定義定義という声もあるだろうが、単純に、パワーバランスが失われて、日本国内が安心安全な地域でなくなることを指すことにしよう。そういう本来恐れなければならない破たんを避けるためには、政府が国債発行を通じてカネを調達して使い、国内の国力を高めるためにやってきてなかったことをやることそれだけである。必要な仕事は、毀損した国力を考えてできるだけ多くのことをやり始める必要があるだろう。

 

 

 

 

 

内容がよくなければ、気を使って下手にフォローするより、素直にいってしまうことの方がよい場合もある。もちろんその伝え方は臨機応変であるべきであるが。すくなくとも、自分で見て感じたことが何かを素直に理解することが前提である。(僕の小規模な失敗)

 

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20200701/k10012491121000.html

 

 

タイトル見ただけでもうおなかいっぱいである。コロナ対策のために、傷ついている経済に必要もない打撃を与えるだけで、復興の逆にしか効果のないことをこの政治家はこともなげに言い放ってしまう。これが、与党あるいは立憲もそうかもしれないが、責任ある政治の正体らしい。竹中という新自由主義者が導入したプライマリーバランスをとるという、国家経営にとっては特に意味のない目標にこだわり、増税して、コロナ対策の支出を補おうとするその態度は、国債を実質的に返したことがない日本の状況や世界の国債の扱いを考えてもおかしなことである。基本的な情報として円建ての国債が返せなくなることはない。しかも国家は概念上寿命がないので、償還期間が終わっても借り換えすらできるものである。

 

そういう従来の経済のとらえ方でも十分理解できる基本的なところすら考えることをやめて、税収を増やす仕組みを入れようとするのは、実際はどうしようもない愚かなことであることは、消費税や復興税が、経済成長や復興に役に立ったのか、結果として税収が多くなったのかということを考えれば、わかることである。むしろ税収は減ってしまっている。もちろん、税収そのものにはそれほど意味はない。結果としての国内経済の名目の成長は、微々たるもので、国際的に見れば、相対的には衰退している状況である。

 

コロナ災禍は、相当な経済活動のブレーキになっている。必要な政府や自治体の補償が思うようになされずその実施も滞っている状況で、経済は打撃をうけ、事業の継続をあきらめた多くの零細企業が出てきている。一度なくなったものを取り返すには相当な時間と人的なエネルギーが必要である。したがって、その事実よりは想像以上に未来の日本経済に禍根を残す状況が広がっているということである。そんな状況で、増税を画策しても、経済復興には何の役にも立たないどころかその足を引っ張るだけなのである。カネなどは国債を通じて借りて使えばよいだけのことなのだ。増税では、疲弊した経済構造に対して、全く復興には役に立たないのである。

 

 

 

 

 

次々に提示される楽しそうなことの数々に目を奪われていたら肝心なことを見過ごしてきた。それが平成から令和の初頭に続く日本の政治やそれに伴う経済の状況であった。我々はみんなが豊かになれたのか、振り返ることは大事だろう。(絵はリトルバスターズリフレイン)

 

今の時点で、オリンピックに対して、ぜひやらなければならない!コロナはそこのころまでには絶対に終息する、そのようにできるに決まっている、と思っている人はどれぐらいだろうか。実はけっこういたりするのではないかと思ったりする。そうでないと、雰囲気では、いい風なことをやっている風に喧伝しながらも、実際のところ、相当多くの国民を痛めつけ貧困化させながら支配層にカネばかり回すような政治をやりつつけながらも、景気も言うだけならだれも攻めようがない形で、回復する詐欺を発信し続け、今後日本国内でのモノづくりを放棄することを推奨するがごとくに、中国への生産の移転や、中国系の外資に国内の会社を支配させるようなことをみすみす見過ごすということもしていないだろう。

 

https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20200701-00000134-jij-pol

 

 

 

安倍晋三首相は1日、自民党2020年オリンピック・パラリンピック東京大会実施本部の遠藤利明本部長と首相官邸で会い、大会成功へ必要な予算確保を求める決議の申し入れを受けた。
 首相は「開催に向けて全力を挙げていきたい」と述べた。
 遠藤氏は「コロナ禍を乗り越え、歴史に残る大会を作り上げることは開催国としてのわが国の責務だ」と強調。首相は「スポーツの持つ力は大きい。そういう意味でも成功させたい」と応じた。  

オリンピックのお題目もころころ変わる。こんなに簡単に変わるようであれば、もともと大した意味づけもなかったのだろう。あるとすれば、インバウンド観光の宣伝とか、あるいは、政府に近い広告代理店が広告や放映権の収入を得るなどの利益誘導ぐらいなのではないだろうか。そういうことをやることが悪いというよりは、そういう事しかないことがまずいのである。

 

もともと言っていたはずの、東北の復興の象徴というのであれば、東北を復興させることがオリンピック前までの課題だったはずだが、碌に予算を付けない中で、そのような限られた中での取り組みに終わっているため、思うように復興成されていないことも確かである。簡単に言えば、生産拠点が多くできそれをコアにして地域の経済が活発になるということであろうが、必要な優遇措置やインフラの整備もままならない状態では、どうしようもないことは目に見えている。

 

やることをやらないで、復興とは荒唐無稽だったのである。

 

コロナ災禍がおこり、一つのヤマを乗り越えて小休止しているときに、コロナを終息させる希望的観測だけで、コロナ対策を中途半端にしておきながら、その後のことに具体的に動くというのは、いかにもずれた対応を言わざるを得ない。コロナ災禍は今起こっていることであり、少し先に起こるかもしれない感染拡大の防止策が喫緊の課題であり続けている。

 

それを録にできないからといって、ご欠かすために、できるかわからないことにリソースを策というのは、まじめに国政に取り組んでいないと断言してよいだろう。同様なことに、突如沸いた9月入学騒動というものもあった。ただでさえ、公務員が少なくなって、多忙な仕事のわりに給料が抑えられている現状では、こんな「無駄な」公務員の使い方もないだろう。足らない公務員を追加で雇って対応しなければならない、コロナ対応が多くある(10万円給付ですら、完了していないのである)。そして、補助金や補償金にかかわる業務、あるいは、医療方面の対応などその他の必要なコロナ対応についても、終わりではなく、まだ続くのだ。

 

コロナの対応をなおざりにして、別の餌を見せてごまかす作戦は、安倍政権やそれに倣った自治体行政の定番であったが、我々はそんなことにごまかされてはならない。今は余裕があったとしても、状況の悪化は続いており、いつ切り捨てられるかわからない状況が作られているのである。そういう行政を行っていることは、未来に不安しか残さず、活力のある。成長をする生活や経済を実現しようもなのである。

 

 

 

与党の重鎮・ベテラン議員が、消費税減税なんて無責任なことはできない、とか言っているらしいが、そんなところ(減税すること)に責任などない。むしろ、減税措置をやめるとか、減税をしないことの責任の方があるのである。それは、国民の豊かさを妨害するという意味でである。

 

 

今はコロナ災禍真っただ中である。緊急事態宣言は、いろいろな意味で、国内のいろいろなことに対して緊張感をもたらしたものであったが、それが5月の下旬に解除されて以来、6月は、コロナ災禍そのものが大部分解消されたかのような空気が流れていた。抑圧されていたことに対する解放感は、普段気を付けるものすらも、軽いものと感じさせるだけの気持ちになるのは仕方がないことかもしれない。しかし、そういう空気を読んでコロナウイルスがふるまってくれる可能性は基本的にないことは覚えておかなければならないことだ。

 

コロナ災禍の自粛によりそれまでの経済活動は大きくブレーキをかけられたことは確かなことだろう。自殺者が昨年より減っているという事実は、経済的に立ち行かない人と、会社勤めによるストレスをため込んでいた人がそれぞれ別にいるということを示唆している。そんな新しい発見もあったりするが、だから、未来が明るいかということとはまた別の話であることは、理解できることである。

 

日本は、経済衰退を突き進んでいる。そもそも自国で作れるもの、作るものが減り続け、モノやサービス、あるいは需要に至るものまで、近隣の外国に頼るという体たらくが加速しているのである。そんな状況にコロナがかぶさってきた、ということは、何度繰り返してもいい足らないぐらいに重要なことである。コロナの休業要請に対する補償金としての国民1人当たり10万円の給付は、これまでの、行政の人減らしの結果、いまだに完了しないという体たらくである。基本的には、カネを出したくないというオーラを出したこの取り組みのおかげで、出すカネは予定より減らしたいという気持ちがあふれた制度設計ゆえの、時間のかかりようだという面もあるだろう。

 

しかしそれでも、行政そのものの存在価値を否定しようとする新自由主義的な発想の首長の自治体(大阪市、名古屋市)が人口を勘案しても給付の官僚率が低すぎるという結果になったのは、つくづく、平時の感覚で行政をしてはいけないことを、いやというほど見せつけている。それに対して全く反省がないことも、重要な指摘事項である。

 

コロナの対策もままならないまま、コロナ以前に決定した、消費税の増税を緩和する措置である。ポイント還元が6月で終わってしまった。そして、同時に、環境保護という名目で、目の敵にされてきたレジ袋について、強制的な有料化が実施されたのである。一部の店舗では、レジ袋を工夫することで無料を続けるようであるが、「エコ」とかそういう抽象的なイメージで、マーケティング的な影響を考えることが重要な経営判断だと思われている現代日本では、そうやって逆らうこともなく大方実施されるのである。これまでにやっていることと変わらないのに買い物の際に余計にカネを払う必要がある。そういう状況が起こっているのである。それは、実質的に増税と同じような効果をもたらすことは確実なことであろう。寄りにもよって、余裕のないコロナ災禍のもとで行われているのである。

 

言い訳としては、決まっていることをそのまま実行したまで、ということであるが、それは本当に政策として正しいものなのだろうか。別の言い方をすると国民を豊かにするため、あるいはコロナや経済格差のため経済困窮を救うために必要な政策であるかどうか、ということであろう。普通に考えれば、単に、政府の都合であったり、環境なんちゃらの空気のため、ということになる。それは、国民の生活のために向いているとは全く言えないことである。何もしないことが悪いこともあることを我々は思い出さなければならない。やるべきでない決定はひっくり返して、実施しないように変更するということが当然必要なのだ。

 

 

 

平時のように見せかけられて、あるいはそうだと思い込みたいときでも、分解して一つ一つを見直せば、平時でないとわかる。そのようなときにはこういう予定調和もそのまま通しておく道理が引っ込むこともあるだろう。

 

戦後の平和主義は、それまで勝ち続けてきた戦争に負け、それが敗戦というどうしようもなく自信を無くすことを受け入れる代わりに、戦勝国に乗り移ることにより、反省のないまま突き進んできた考え方の集大成である。そのことは、当然よい面もあった。戦後の高度成長は、平和主義とともにくやしさを実感として持っていた戦中世代を中心にがむしゃらに仕事をやり続け、家庭を支えてきた結果もたらされた部分は大きかっただろう。それが急激であったが故の公害問題も多く引き起こしたこともあった。

 

その無理についても、何のためにこういうことをやってきたか、という目的意識が薄いままであったがゆえに、ただ引っ込めればよいという結論になってしまったのがポスト高度成長の時代から始まった、新自由主義が台頭してきた時代だったのではないだろうか。もともと、平和主義を強調していたサヨクと同調する部分と、国の行く先は、成長を捨てた衰退の事態に入るという中で、いかに利益を確保するのかということにまじめに取り組んだ結果が、平成時代の低迷につながっている。

 

そもそも、国の行く末を先導するはずの政府が国内に投資することをやめてしまったのが1997年の橋本行革であり、それから基本的な路線は大きくは変更されていない。当初は残っていた国内で作るというこだわりも、小泉・竹中「改革」以降ははっきりと、国内の経済を切り捨て、すべてを外国に頼るという路線になっていったのである。これでは、日本国内でものを作り出すことは、政府が投資を増やさない中、当然、長年のそのような政策の下、国内での仕事をまじめに地に足をつけてやろうとしなくなった民間にもできるはずもない。

 

平成時代はその名前のイメージ通り、「平時」のように見え続けた時代であったが、それは、戦後に作られた日本が独立国としてまともにやらなくても構造がかろうじて残っていたがゆえに保持されていた、ぎりぎりの平時であった。その集大成が今も続く安倍政権の7年間である。モノを作るところは日本ではなく、中国であったり、東南アジアであったりインドであったりする。引退寸前の技術者技能者は、国内にいる技術者でなく、そちらの方の外国に技術を教えに行くのである。それは、国際貢献だといって正義に感じてやっていることもあるだろうが、結果として残るのは、モノを作れる外国とそれに隷属する未来の日本なのである。

 

そのような状況で、金融センターとしての東京は虚栄をし続け、カネを儲けるという意味では、これまでにないぐらいカネを儲けている連中も出るようになった。そういう連中は、資本主義の制度が自分たちの富をもたらしていると感じ、国の政策に関しても、その制度の原則の範囲内でしか考えられない、衰退する日本の範囲内でしか考えが及ばない視野の狭い人間である。そういう人間たちを首相の経済の諮問会議のメンバーとして、政府の経済政策の事実上の決定機関としてしまった、民主制の議論をしなくしてしまったのもこの政権の特徴である。日本が衰退することが変わらない状況が固定されてしまっている。

 

こんな状況で、平時といいながら、実は救いようがない経済状況・国力の衰退を迎えている状況が昨年の10月の消費税増税10%の状況であったのだ。相変わらず景気は回復基調にあるというような内容を、政府は発表し続けていたが、そもそも、衰退する日本の範囲でしか経済の可能性を考えられない連中からすれば、相対的に回復していると見えていたのだろう。現実の世界としては当然衰退しているのにである。

 

そんな中のコロナ災禍の到来である。ほとんど有事なのに、平時を装っていた状況で、強力な有事がやってきたのだ。しかも、支配層が当てにしていた中国をはじめとする外国もろともその災禍から逃れられない状況である。明らかな有事なはずなのに、平和主義にとらわれた支配層はそうではないと心の中では思って行動している。わかりやすい形で人がバタバタ死ぬわけではない、マスコミやネットにおいても医療崩壊やコロナによる経済停滞による経済困窮などの状況を巧みに隠蔽できるという状況において、平時を装うことに終始しているのである。有事を有事と認められないその反応はもはやこの国の国民を豊かにするという以前に、暮らしを保っていく意思もないと見えても仕方がないところである。

 

それに対して批判の声を上げることは、最後に国民に残された行動だろう。都知事選挙やそれ以降の各種選挙においてどのような行動をとるか。それは、国民が自分たちの有事を有事として見極めてそれに応じた行動をとれるかどうかのポイントとなってくるのである。

 

 

 

同じことを繰り返して聞かされると何かそれに対して疑わない方がよいのかな、という思いに至ることがあるかもしれない。あるいは、何かそれで成功していて、身の回りの全部がうまくいっているときには、そればっかり頭の中の思考として使い続け、それが世界の正義だと思ったりすることもあるだろう。しかし、たいていは、それは、別に事実が変わったわけではなくて、単に見ている世界が狭いだけで、そのように考えた方が楽だからとして思考がそれに合わせて止まったというだけのことが多い。(絵は福満しげゆきの作品)

 

 

日本政治において、イデオロギー対立というものがある。よく、右とか左とか言われるものであるが、日本においては、右は資本主義と結びついており、左は共産主義に結びついているとされているようだ。政治家を名乗っている人たちも明示的にあるいは心のどこかでそういう気持ちはあるだろう。かなりざっくりとした分け方なので、決してそんなことはないという意見もあるだろうが、これまでに作られたイメージとしてはそんなものである。そして、平和主義が正義で、アメリカが正義という敗戦後のイデオロギーが付いてくる。

 

それは、国際政治はアメリカとそれ以外という見方になり、それ以外はアメリカというフィルターを通してみることになる。中国であってもそうだろう。今の中国は、もともと、アメリカが民主化すればきっとアメリカの子分となって、アメリカの資本家を大いに儲けさせてくれるだろうという見込みからとられた政策に対して、日本が「国際協調」というアメリカ追従政策によって、実際に、生産力をつけてしまい、当然のように軍事力や国際的な発言権を高めていったのである。そして、中国は、地政学的にアメリカをしのぐ強力な脅威となって存在することとなる。しかし、アメリカの資本家と同じく、中国は金儲けの場という感覚も持ち合わせるので、敵になるのか味方になるのか、どっちつかずの蝙蝠のような動きを見せているのが日本の現状であろう。

 

とかく経済経済という連中がいる。経済とは日本語的には経世済民の略語から来たはずの言葉であるが、ただのカネの融通でカネを増やすという全く国の豊かさとは関係ない活動のことを言うことが主流になってしまった。平成時代の日本では、その傾向が頂点を極め、実際に国を運営するのに必要な各種インフラ(人につく技術や、教育、コンクリートと称される必要な構造インフラ、エネルギーインフラ、それを土台とする交通インフラなど。文化という社会の強靭化には欠かせないものも含めていいだろう)を、国債を発行したくないという一心で、次々に放棄していくという、愚行をし続けた。それは、無駄を省く、というおよそ現実が見えていない言葉で強行されて行ったのである。その横で反映し続けたのが、資本主義というものだった。

 

資本主義は、それまでは、社会の慣習に「捻じ曲げられ」不純な形で運用されていたが、そもそも、カネ持っている奴(株主)がカネを儲けるための仕組みとして、その制度を厳密に運用していこうという流れをインフラの放棄と対照的に進められたものである。これは、資本主義が目的であれば誠に良い話であるが、その目的が我々の豊かさをはぎ取り、一部の金持ちにカネを集めるだけという全く、国力とは無関係なところにあることが問題なのである。要するに、それは我々が掲げるべき目的ではないのだ。別の言い方をすれば、手段に過ぎない。本当の目的は、国民を豊かにし続けることであって、決して、会社が金儲けを究極的につき進めることではない。それは、制約なしに行えば、真逆の結果をもたらすということは、日本の現実をよく見ればわかるのことである。同様に今の制度を守ることは目的ではない。守ることが大事といういい方はいいようにとられてしまう。

 

守るべきは、国民の豊かさをもたらすやり方であって、それが崩されている今は、むしろ修正する必要があるのだ。それはおそらく、主流の政治家や財界人が言うような「改革」ではない。その先にある目的を見極めて、やるべき修正かどうかを見なければならないのである。