舟木昭太郎の日々つれづれ -74ページ目

雪に立ち向かう桜の蕾/国家国民のため己を捨てる/他

・雪に立ち向かう桜の蕾

 
・汚れっちまった悲しみに

 
・国家国民のため己を捨てる

 
・薄っぺらな絆

 
・高森篤子さんの誕生パーティ

 
・畠を耕す意味 

 

 

舟木昭太郎の日々つれづれ

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雪に立ち向かう桜の蕾
 
 2月の終わりの日に、東京は早暁から雪となった。都心でも3センチの積雪となった。昼過ぎになって雪掻きをしたが、夕刻には路面の雪も、あらかた溶けてなくなった。東京に降る雪で積もるのは稀だ。
 
 早朝の5時半頃大山公園をウォーキングしたら、グラウンドも白銀の世界で、雨傘は忽ち雪の重さを感じた。公園内の桜の木々の枝は、風に揺れるて、寒そうに震えていた。
 
 だが、よく目を凝らして見ると、桜の小枝のまだ硬い蕾は、イリュージョンだろうか、街灯に浮かび上がって、かすかなピンク色を放っているのがおぼろげながら分かった。有るか無きかの淡い、それはさながら霞のような桃色だった。
 
 
汚れっちまった悲しみに
 
 立ち止まって近寄り、もう一度桜の木を仰ぎ見て確認すると、幻想ではないと確信した。あたかも、それはやがて訪れる春に向かって「さあ、来い雪!」と雄叫びを上げ、身構える蕾のファイティングポーズのように捉えられた。
 
 来る春に咲き遅れまいとして、降りかかる雪に必死で挑むかのような佇まい、神々しいまでの生命の息吹を感じさせた。気が付いたら私はいつの間にか、中原中也の詩を吟じていた。
 
 
 汚れっちまった悲しみに
 

 今日も小雪の降りかかる

 
 汚れっちまった悲しみに

 
 今日も風さえ吹きすぎる
 

  
 
国家国民のため己を捨てる
 
 半導体DRAM製造で世界3位エルピーダメモリが倒産(負債総額4500億円)したり、パナソニックやソニーなど日本を代表する企業が軒並み巨額の赤字決算。国の借金も凡そ100兆億円、我が日本は何処へ行くのだろう。
 
 震災、原発事故、円高、国会の混迷…出口の見つからない水族館の水槽の中で、四六時中回遊している秋刀魚の群れに似た…重要課題を悉く決められない、お粗末な政治には暗澹たる気分になる。
 
 夏目漱石の言葉に「則天去私」がある。今こそ政治家は己を捨て国家、国民のため与野党問わず、国難に立ち向う勇気と覚悟を持たなくてはならないと願う。繰り返す、只、己を捨てよ。
 
 国を救うキーワードは「ゼロ、空」である。全ての国会議員が己を空しくして、ゼロになって天下国家、国民のために、何をなすべきかを考えて行動すれば、自ずと答は出てくる。徒な駆け引きは無用である。
 
 
薄っぺらな絆

 

 いま日本は存亡の危機にある。この時に、解散総選挙などもっての外だ。一刻の猶予も許さない時期に莫大な選挙費用遣い、加えて政治の空白期を作る愚行は、どんな理由があろうとも許されない。
 
 いまなお仮設住宅に住む人は25万余、我々は一時もこの人々を忘れてはならない。絆、絆と叫んでいる一方で、被災地の瓦礫は引き受けない。同情は寄せるが、自分に関わる物はお断り。
 
 いやはや、薄っぺらな絆である。そんな中でも東京と山形は早々と受入を表明した。私は都民として嬉しい。被災地の悩み苦しみは同じ国民が等しく分かち合うべきだ。
 
  
高森篤子さんの誕生パーティ
 
 3月3日はお雛様の日、この日が誕生日な方に故梶原一騎先生夫人高森篤子さんがいる。その恒例の誕生パーティが、4日午後1時から、六本木のディスコ「ナバーナ」で今年も開かれた。
 
 招待状には「感謝の心を軸として沢山の笑顔にお会いしたいので」と心の籠った言葉が綴られていた。食べ物だけは参加者が持ちよりで、アットホームなバースデーパーティである。
 
 私は今回先約があり、開場前に細やかな食べ物を持参した。丁度会場の近くで、車でやってきた夫人に偶然お会えした。失礼をお詫びして別れた。
  
 夫人も私と同様に昨年4月、脳梗塞を患っている。梶原先生の膨大な著作権を一手に管理しているのも、あるいは心労に繋がっているのかも知れない。お元気になってディスコで踊る姿を梶原先生は、天国の割れ目から眺めて、さぞや安堵していることだろう。
 
 会社を始めてから私が最もお世話になっている方である。健康に注意なさって、いつまでもお元気でいてください。誕生日、おめでとうございます。余談だがかのキックの鉄人・藤原敏男さんも3日が誕生日。似あわない~、ホントだね。
 
 
畠を耕す意味
 
 2,3日の両日は露地栽培の畠の土を掘り返した。寒い時期に土を耕すことで、虫や土の殺菌になるという訳で、根詰めたら、体の芯までへこたれた。
 
 4月には胡瓜、茄子、トマトなどの苗を植えるための準備期間で、今年は堆肥も十分作ってある。特にトマトに至っては、イタリアなどの珍しい種類にも今年は挑戦してみたい。
 
 何事も入念な準備が要る。飛行機がTAKE OFF(離陸)するには、長い助走が必要であることと同様である。去年より今年は満足のいくものを作りたい。細やかな願望である。

 
大山公園の雪景色(29日、3時半頃)
舟木昭太郎の日々つれづれ

自宅前の通りも雪が積もった。

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健康は体を動かすことから/他力本願の意味は?/他

・健康は体を動かすことから


・先ず正しい歩き方を身に付ける

・他力本願の意味は?

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健康は体を動かすことから
 
 東京マラソンは26日に行われ今年も大盛況で幕を閉じた。参加者は市民ランナーを含め35,000人余という。沿道の観衆は150万を超えて、もはや日本一のマラソン大会に成長した。
 
 私も都庁前からのスタート風景をテレビで見たが、壮観だった。紙吹雪が舞う中、続々と出発する人の群れは、あたかも生命の躍動体として目を奪われ、我心に広がった。
  
 走りたいという一般の申し込みが殺到したらしい。大小様々な市民マラソンが、どこでもこうした人気で、世は空前のマラソンブームになっている。
 
 東京マラソンは2007年に第1回大会が始まり、早くも6回を重ねすっかり定着した。先輩格のニューヨークマラソンは、50%は外国人ランナーで、世界各国から走者が集まって観光収入にも寄与しているとのこと。
 
 東京もやがてはニュ―ヨークのように国際的になってもらいたいものだ。市民が運動に興味を持つことは、国家のためでもある。体を動かす、運動することは健康増進に繋がる。よって膨張する医療費も少なからず減少するはずだ。
 
 
先ず正しい歩き方を身に付ける
 
 そういう観点から、私は国民総ウオーキング、ジョギングの勧めを提唱したい。人間の体は50%は筋肉でできている。70㌔の人なら35%だ。使わなければ筋肉は衰退して、病気の原因にもなる。
 
 先ずは歩くことから始めよう。「長く座っていると疲れる、少し歩くと疲れるのは、筋肉不足のせい」とは、理学療法士田中尚喜先生。毎日歩くことによって、この種の疲れは解消すると分析する。
 
 それには中高年の人は特に姿勢をただして、正しい歩き方を学ぶことが重要であると。即ち背筋を真っすぐ伸ばし、前足はかかとをしっかりと地面に着き、後ろ足は拇趾で地面を蹴る、これが正しい歩き方だと田中先生はとなえる。
 
 中高年からは歩数を稼ぐよりは、正しい歩き方を身に付ける方が健康への効果あるという。現代人が病気になり易く軟弱になったのは、二足歩行人間の基本的な営み「立つ、歩く」の行為の減少にあるらしい。
 
 それは何よりも車などの発達で、歩くことが少なくなっていること最大の原因のようだ。私は時々田中先生の「百歳まで歩く」~正しく歩けば寿命は延びる~(幻冬舎文庫457円+税)を読む。大いに為になり、本を参考に、毎日ウォーキングに勤しんでいる。
 
 お蔭でいまの所は風邪ひとつ引かないし、食事も酒もすこぶる美味しい。他にラジオ体操から帰宅すると、タオルを冷水に浸し絞って上半身裸になって、ゴシゴシとやる。
 
 タオル摩擦というやつだ。もうかれこれ1カ月続いている。忽ち体が温まり薄着でもポカポカする。これが舟木流健康法である。生来懶惰な私だが、ウォーキング、ラジオ体操、タオル摩擦は不思議に続いている。健康万歳!サプリメント無用!
 
 
他力本願の意味は?
 
 「他力本願」という言葉があって、我々は極普通に「他力本願じゃだめだよ、自分の力を信じなくては」などと口にする。どうやらこの言葉遣いは、本来の持つ意味からすると間違いであるらしい。
 
 本来の意味は「阿弥陀(如来)の本願の力で、成仏すること」だそうで、国会の代表質問などでも「○○大臣、そういう他力本願の考えじゃだめなんですよ!」なんて、叱り飛ばすのをテレビでしばしば見受けるが、たちまち本願寺の方から、クレームがくるらしい。
 
 「入れこむ」という言葉も「入れあげる」の誤用であると。スポーツなどでではしばしばこの「入れこむ」という言葉が遣われる。例えば競馬がいい例で、馬がなかなかゲートインせず興奮状態にあるとき「大分入れこんでいますね」とアナウンサーは声高に言う。
 
 だが、正しくは「入れあげる」と言わないといけないという。いずれも作家・司馬遼太郎さんが指摘している。私も初めて知った。これから注意しよう。
 
 因みに「入れこむ」は、一般的には、電源を入れる、耳に入れる連絡をいれる―の意味らしい(ネット調べ)。う~ん、日本語は難しい。参考までに。

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【マイク・ベルナルド哀悼記】~群雄割拠の時代~、~神に召されて虚空になった~、他

・マイク・ベルナルド哀悼記
 ~群雄割拠の時代~
 ~神に召されて虚空になった~
・W.ヒューストンの急逝
・音楽と読書
  

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マイク・ベルナルド哀悼記
 
 マイク・ベルナルド(南ア)の死亡を15日に知った。突然の情報に驚愕した。41歳だというではないか。若すぎる。アンディ・フグの死を思い起こさせる。フグは35歳で白血病で亡くなっている。
 
 私は’95年K-1GRANDPRIXで初来日したときのマイクを思い出した。開幕戦で優勝候補のアンディ・フグを3RTKOしたあのシーン。K-1にニューヒーロー誕生の瞬間を。スキンヘッドの破壊者は、当時鳴り物入りのスタン・ザ・マンもをKOして、ベスト4まで駆け上がりK-1を震撼させた。
 
 同時期ジェロム・レ・バンナも衝撃的なデビューだった。このバンナとマイクが準決勝戦で、激闘したのだからたまらない。強烈な個性を持つ二人の戦いは、まさに肉を切らして骨を断つの白兵戦で、K-1の神髄を味わった気がした。
 
 勝ったのは蹴り技に一日の長があるバンナ。荒れ狂う猪の如く突進するマイクに、ローキックをヒットして2R3分KOしたが、両選手の果敢なファイトには、勝敗を超えた極上の風味が残った。
 
  
~群雄割拠の時代~
 
 アンディ、佐竹、ホーネスト、アーツ、ミルコそしてバンナ、ベルナルド…振り返れば錦絵のように豪奢極まりない男たちの戦場だった。K-1を創始した石井館長も、次々にニューヒーローが誕生して法外な美酒に酔ったことだろう。昇竜の勢いとは当時のK-1そのものだ。
 
 さてマイクに話を戻そう。彼は元々が国際式(ボクシング)の出身であるために、パンチの切れは他の追随を許さなかった。’96年には得意の豪打で、あのK-1の帝王アーツに3連勝(1反則を含む)を飾っている。
 
 彗星のように現れたマイクの存在は確かに注目をあつめたが、この頃は、群雄割拠のど真ん中。我こそは戦国の覇者、最強であると誰もが咆哮していた。一騎当千の強者共が鎬を削る時代であった。
 
 そんなわけでマイクのファイテング・スタイルはやがて、蹴りの標的となる。ボクサー出身の宿命で、パンチに頼る短調な戦法は戦いを重ねるうちに通用しなくなった。キックでもK-1でもボクサー出身は王座を手に入れることはできない、それがジンクス。
 
  
~神に召されて虚空になった~
 
 マイクの全盛はほぼ’00年までと思われる。’99年にGP開幕戦でミルコに1RKO負けしたが、’00年GP福岡では1RKOでリベンジしているが。その後は、ワットに1RKO(’01年)されたりレイ・セフォー(’02年GP)に判定敗、グッドリッジにも同年のラスベガスで1RTKOを食った。
 
 さらに同型のハントにも敗れて、もはやベルナルドの時代ではないこと私は感じた。’04年ジャパンGPでは無名の富平辰文にハイキックを食って1RKO敗、凋落の一途を辿り、遂に2006年引退。
 
 無冠の帝王と呼ばれ、一度もK-1GRANDPRIXの栄冠に輝くことはなかったマイク・ベルナルドだが、K-1の戦場を颯爽と駆け抜けた数々の戦闘は我が脳裡から離れるものではない。天晴れな荒武者振りであった。
  
 近年は鬱病に悩んでいたとは風の便り。敬虔なクリスチャンでもあるマイクは、神に召され天国に旅立った。彼は虚空となって大空をわたりK-1の再興をアンディ・フグと共に願っているはずだ…。アーメン。
 
 
W.ヒューストンの急逝
 
 アメリカのシンガー、ホイットニー・ヒューストンさんが11日急逝した。享年48歳、こちらも若く、その突然死は惜しまれる。私にとって彼女が最も印象深いのは、’91年第25回スーパーボウルで、アメリカ合衆国国歌を斉唱したシーン。
 
 改めてYOUTUBEで見ると涙が止まらない。スタジアムを埋め尽くした大観衆を圧倒した。恰もモーゼが海を真っ二つに裂いたように、彼女の歌には他にない、鋭い剃刀の切れ味の響きを含んでいる。そう、大空さえも割ってしまいそうな。聴く者のハートを射ぬくのは、正しくその声の響きにある。
 
 このとき唄った国歌は、10年後の同時多発テロの際にチャリティー盤としてリメイクして売り出された。ヒューストンについて私は、齧った程度で余り詳しくないが、改めてその透き通るよう声に痺れる。
 
 "All at once"などはいいな。ケビン・コスナーと共演した「ボディー・ガード」はDVDを探して見よう。親日家で10回も来日していて、昆布が入ったおにぎりが好きだったそうな。ネットに出ていた。
 

  
音楽と読書
 
 私の小さなポータブルプレーヤーには彼女の"All at once"が収めらられた。これを聴きながら、ご冥福を祈ろう。彼女以外では、私の大好きなダイアナ・ロスの「If we hold on together」も入っていて、早朝のウォーキングの折に欠かさず聴いて、幸せな気分に浸っている。
 
 読書と音楽は両立する。すこぶる相性がいい。音さえ大きくしなければ。先週読了したジェフリー・アーチャーの「大統領には知らせますか?」には夢中になった。大統領暗殺を狙う、しゃれたミステリー小説、アーチャーにハマりそうだ。いや、もうそうなっている。
 
 今週は「物語ユダヤ人の歴史」(R・シェンドリン著)「もう一つの風塵杪」(司馬遼太郎×福島靖夫往復書簡)「お神酒徳利」(山本一力著)「十四の嘘と真実」(J・アーチャー著)を読む。いずれも図書館で借りたものである。
 
 その合間に、芥川龍之介全集もコツコツ小さな字を追って読んでいる。私の読書はスクランブル交差点のような乱読。次々に交代していく読み方で、途中からでも話の筋は分かる。だから心配ない。無上の幸せ。

 

台所の窓際に咲く花、すみれの一種だろうか。
葉っぱを土の上に置くだけで根付きどんどん増えていく。
舟木昭太郎の日々つれづれ
 
咲き終わった花を、根気よく1年かけて妻が育てたシクラメン。
W・ヒューストンに捧げる。
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業界の旧友と一夕飲み会/私の酒遍歴/他

・業界の旧友と一夕飲み会

 
・恰好よかった嵐田社長
 

・私の憩のひととき

 
・私の酒遍歴

 
・焼酎は伊佐美、酒は菊姫

  

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業界の旧友と一夕飲み会
 
 9日は新宿のすし店「加賀」で顏馴染みの神村栄一、榎本浩、それにお店を紹介してくれた、お世話になっている同じ福島出身の引地昭一の各氏が集い、気の合う者同士で一夕を愉しんだ。
 
 神村、榎本の両氏は昭和45年当時からの知己であり”戦友”である。プロモーターと取材方で共に仕事を通じて鎬を削った仲。かつてキックボクシングが盛んだったころ協同プロモーション(嵐田三郎社長)という業界に二人は籍を置いていた。キックの興業を主宰する会社である。
 
 沢村忠を擁する野口プロモーション(野口修社長)はTBSと組んで一大キックブームを起こしていた。これに追随したのが協同プロで、こちらはNTVと組んだ。同じく岡村プロモーション(岡村光晴社長)が創設されて、東京12(現テレ東)と手を組んだ。各テレビ局がゴールデンタイムにキックボクシングを競った。嘘のような時代だった。
 
 やがて協同と岡村両プロは全日本キックボクシング連盟という統一団体を作りその一翼を担っなった。昭和46年のことである。因みに当団体の初代コミッショナーに就任したのが石原慎太郎さん。
 
 昭和45年~47年は振り返ればキックの黄金時代だった。TBSに追いつき追い越せと全日本系は牙を剥き、負けじとTBSは沢村を旗頭に、ビックマッチを連発して火花を散らした。
 
 私はフリーのライターを経て日本スポーツ出版社に入社(46年)し、希望通り格闘技専門誌ゴングに配属された。キックボクシングが三度の飯より好きだったので、本願成就のおもいであった。
 
 ボクシングやプロレスも取材したが、担当はキックとボクシングで毎日が楽しくお盆も正月もなく取材と編集に明け暮れた。思えば私のサラリーマンの躍動期であった。旧懐の情なお強しだ。
 
 因みに神村さんは大山空手(極真空手の前身)創成期の重鎮、協同プロを経て、新空手組織を立ち上げた。K-1を旗揚げするときに、石井館長に乞われその名称(K-3という名称で大会を開催していた)をあっさりと譲った。但し一隅にあったK-3を石井館長は、K-1として開花させた。
 
 
恰好よかった嵐田社長
 
 話は戻り、こういう私の躍動の時代に付き合いを頂き、かついままで変わらずに友達付合いができるのは、まさに素晴らしきかな人生である。この夜は杯を重ねて、キックの来し方行く末を大いに語り合った。
 
 余談だが、協同プロの親会社はキョードという音楽家やタレントの呼びや(招聘元)で、ビートルズなど大物タレント、スポーツ選手は悉く同社の手になるものだ。
 
 フアッションモデルのツイッギーが羽田に来日(S43年10月)した際に、タラップ下まで行って、ミニスカートのこの妖精をエスコートしたのは他でもない嵐田社長。
 
 テレビで見て嵐田さんは恰好いいな、と感じたが、その後何度かお会いした。いつもニコニコした紳士だった。日本全体が活力ある、良き時代であったと思う。
 
 
私の憩のひととき
 
 代々木上原駅の構内”アコルデア”の一角にあるスターバックスは私の好きな場所である。睡魔が襲う午前中にふらりと出掛ける。大概、山本一力の文庫本を手にする。
 
 ここの従業員の挨拶は極めてよい。客をもてなす挨拶も心がこもっていて、すこぶる気持ちが和む。私はいつもアメリカン(ホット=320円)をオーダーする。
 
 するときっちり「氷を少し入れるんですね」と覚えていてくれる。ホットに氷を落とす変わり者が、吾一人なのか無愛想な私も「有難う」と思わず相好をくずす。
 
 コーヒーの味も美味しい。私はストレート派なので、アメリカン以外は苦くて堪えられない。1時間ほどいて、本を読んで帰ってくる。たまに河岸から帰ってくる田吾作の親方と落合う。読書は倦むことがない。
 
 320円の贅沢、我家では味わえない至福の時間である。今年は何も仕事をしていない。世阿弥に「時の間にも、男時(おどき)と女時(めどき)とてあるべし」という有名な言葉がある。
 
 つまり「女時」には何をやってもダメだから、「男時」が来るのを待って、その時が来たら一気に勝負に出ろ、こんな意味だと察する。能の世界も戦いなのだ。そうは言っても、そろそろ出撃しなくちゃ。
  
  
私の酒遍歴
 
 生家が雑貨屋で、煙草以外は何でも売っていた。酒は村一番売る店で小学校時代から自転車で配達に回った。焼酎はアルコール臭く販売していながら、こんな不味いお酒を飲むのかと、馬鹿にした。
 
 今日のように麦や芋を何%というような美味しい代物ではない。販売業者は大きな樽で置いてくから、移し替える作業は一苦労だった。ゴム管を樽に入れて、口で吸い上げねばならない。巧く吸い上げると、あとは自力で焼酎は上がってくる。
 
 お客さんは空の一升壜を持参してくるので、母が忙しいときには私も代行した。巧くできないとゴボッと焼酎が口に溢れて飲んでしまうことがあった。この苦い経験が元で私は、26歳頃まで酒を受付なかった。
 
 日本スポーツ出版社に入ったときコップ一杯のビールも飲めず、先輩にからかわれた。当時編集部で下戸だったのは竹内宏介氏と私だけで、あとは酒豪揃いであったことで、いつしか調教された。
 
 いまは何でも、どんな種類の酒でも飲める。かれこれ30年になるかと思うが赤ワインに凝って、拙宅には似合わないワインセラーまで購入してしまった。ワインのオークションにもでかけ、有り金を叩いて、シャトーマルゴーの’61年ものをゲットして妻に叱られた事もある。
 
 その後シェリー、芋焼酎に凝った。森伊蔵などは天馬(水道橋にあった割烹料亭)で、ごく普通に飲んでいたら急にブレイクして手に入らなくなった。
 
 
焼酎は伊佐美、酒は菊姫
 
 一度プロレスの取材で、当時新日本プロレス坂口征二副社長を同店にお招きしたら、伊佐美(鹿児島の芋焼酎)が棚にあるのを見つけ「これこれが一番好きなんだ」と叫んだから頼んだ。取材中から飲んで結局1本空けた。それから私も伊佐美党になった。
 
 最近は日本酒で、なかでも「花泉」(福島・会津)が好みで、ぬる燗や冷酒でほどよく飲む。特に辛口は絶品でやはり会津は米と水がいいからだと得心する。山形の「出羽桜」もずーっと好きだったが、最近は入手難で行きつけの焼き鳥屋に置いていないのが寂しい。
 
 菊正の樽酒もいい。何といっても美味しいのは石川県白山市の「菊姫」である。週刊ゴングで、天竜源一郎と阿修羅原選手が対談にも天馬を選んだ。この時にお二人が飲んだのは「菊姫」の大吟醸、2升。私もこの時に初めて口にした酒で、天使のような味だった。以来飲んではいない。
 
 後日件の料亭から請求書が来て流石に私は唸った。35万円也!、でも経理に持って行ったら、スンナリ降りた。私も既に編集局長だったし、当時週刊の売り上げも良かったから。そんな時代もあった。♪回る回る時代は回る~♪
 

 
飲み会で、手前より神村、榎本、引地の各氏、後方私。
舟木昭太郎の日々つれづれ
 
お酒「花泉」は私が最近富に気に入っている。

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盛大に真樹久佐夫先生を偲ぶ会/男の美学を通した/愛のジェラシー/他

・盛大に真樹久佐夫先生を偲ぶ会 
・男の美学を通した  

・その夜の梶原夫人からの電話       
・愛のジェラシー  
・かくて永遠の和解
 
 

 

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盛大に真樹久佐夫先生を偲ぶ会
 
 1月2日に急逝された真樹日佐夫さんの偲ぶ会が4日午後1時から青山葬儀所で行われ私も参列した。この日は立春、いくぶん寒さもゆるみ空は晴れて、それはあたかも故人が天国から采配したような慈悲に満ちた天候だった。
 
 故人を知る者にとって、外見から受ける印象が、実際お付き合いして
余りにも違うことに驚くのだが、いかつい、怖いという外見からは想像できないほど繊細で気配りの人であった。確か前にも述べた。
 
 だからこそ参列者の長い列が延々と続いたのだろうと察す。偲ぶ会を開催したのは、真樹日佐夫一門、謂わば空手の関係であるために、格闘技関係の人が多かったが、著書や生き様に共鳴した一般のファンの参列も多く見られた。故人の仁徳だろう。
 
 正門を入って記帳に向かうと吉田豪さんが目に付いたので、目礼した。少し先にいった処で舟木さ~んと呼ぶ声がした。元キックの王者藤原敏男会長だった。キックの現役時代からの長いお付き合いだ。
 
 梶原一騎未亡人高森篤子さんには、会場の中で鉢合わせした。高森さんは指定の席に係員に誘導されていて、慌ただしくて、お互い挨拶もできなかった。
 
 
男の美学を通した
 
 会場中央の祭壇には白菊の花に包まれて大きなパネルが飾らていた。それは1年前古希の祝いの時に撮った遺影で、実にいい微笑であった。式の司会は馴染みの徳光和夫さんで、故人の経歴、実績を紹介してから「男の美学をまっとうして、人生を駆け抜けたひとだった」と心に沁みる言葉で称え、式典を進めた。流石、この人は司会が上手い。
 
 式が始まって最初に挨拶したのは初代タイガーマスクの佐山聡、兄梶原一騎からの深い繋がりを持つ。佐山さんは故人との思い出を切々と伝え、親のように可愛がれたこと、今後も天国から梶原先生と共に見守ってくださいと結んだ。
 
 映画「愛と誠」の三池崇史監督も、故人の助言で監督に抜擢されたこと、本人から多くを学んだ先生だったと明かした。
 
 盧山初男極真館館長は極真時代に組手の相手をしてもらって練磨したことを伝え、友人代表の添野義二士道館館長は、友人であり同志である掛買いのない友を失った悲しみと、今後の真樹プロダクション及び真樹道場の運営について触れ、いずれも実弟が継承することが付け加えられた。
 
 本来なら私は普段は会えない人たちと故人の思い出話などしたかったが、告別式のようなもので献花だけでお別れした。でも大勢の参列者が式典に集まって、真樹先生も黄泉の世界で、さぞや喜んでいるいるに違いない。
 
 記事中以外の主な式典出席者。
新日本坂口征二相談役、猪瀬直樹東京都副知事、ノア丸藤正道副社長、シュートボクシングシーザー武志会長、ジョニー大倉、空手家角田信朗、新日本棚橋弘至、他
 
 
その夜の梶原夫人からの電話
 
 青山葬儀所から自宅に帰り、この夜は妻も倅も外出して独りでうどんを茹で、温かいままどんぶりに入れ、鰹節に醤油とレモンを垂らし夕食とした。田舎から新に送ってきた日本酒「花泉」(辛口)の冷酒をショットグラスに注ぎ、うどんを肴にNHKBS「エベレスト登頂」を見た。
 
 少々酩酊した頃、梶原一騎先生の未亡人高森篤子さんから思いがけず携帯に電話が鳴った。今日会ったばかりだけど、多分挨拶できなかったことで掛けてきたのだ、と思った。
 
 夫人の話は今日会場で会って、私が元気だったこと、真樹さんが亡くなり改めてその存在の大きさを感じているとの心境で、「愛のジェラシー」(リナ・パーク)という歌の意味が、やっと分かったと、歌の一節を口遊んだ。
   
  
愛のジェラシー
 
 兄弟愛には喩え兄嫁でも入る余地がなかった、義弟に夫を独占されてるような感じであったと、真樹さんが亡くなって初めて、兄弟の絆の強さを思い知ったと、夫人はしんみりと私に説いた。
 
 その夫婦愛を超えた兄弟愛を妬み、夫人は永年に亘り「真樹を嫉妬してきた」というのだ。だがいまはそれも自然に受け入れられたと。「愛のジェラシー」知っていますか。聞いたことありますか。
 
「梶原が死んで25年で、梶原から離れ真樹は自己を確立した思う。近年の真樹を見ていると、そう感じるの」と、 去年3月、夫人の誕生パーティーにも初めて出てくれたこと、御主人の23回忌の食事会にも出席して、夫人の子供たちと睦まじく話していた事を挙げた。
 
「男って心残りな事を、最後に全部済まして行くのね」。死を予感していたかのような真樹さんの行為の数々を顧みて、愛しむかのように一語一語語りかける夫人の声音に、いつしか私の胸も詰まった。
 
 梶原一騎死の直後から真樹さんと夫人はタイガーマスクの版権を巡り骨肉の裁判を繰り広げたのは承知の事実。しばらくはお互いに絶縁状態だった。結果は夫人側が勝訴したが、しこりは重く残った。
  
 兄嫁と義弟のこのような凄絶な確執を経て、時間が経つにつれ、氷が
ゆっくり溶けるように二人の心は開いていったようだ。私には志賀直哉の時任謙作と祖父との確執を描いた「暗夜行路」と「和解」の小説をふと思い浮かべた。仲直りで一番ほっとしたのは天国の梶原先生ではあるまいか。
  
  
かくて永遠の和解
 
 「今はライバルを失った心境で、存在感のある梶原と真樹が居なくなりポッカリと穴が開いたようだわ。これからの人生つまらなく思えてきた…真樹は元々梶原似でシャイでピュアな男だった、つくづくそう思う。真樹が居たからこそ私にも張りがあった。」
 兄嫁と義弟はかくて、永遠の和解を果たした。
 
 一代の快男子も心の奥底ではいつも兄を恋う、少年のように瑞々しい心の持ち主だったと、梶原夫人の話から私は推察する。今頃は大山倍達総裁を囲み兄(梶原一騎)と三人で、空手談義に花を咲かせていることだろう。素晴らしいエピソードなので、夫人に断らず敢て紹介した次第。
 
 夫人のこんな心温まるお話を電話で会話できたことは実に果報者であり、私はつくづく幸せだと感じ、心で手を合せた。夫人の体調もあまり優れないと聞いている。その反面私の脳梗塞の後遺症をいつも心配してくれている。
 
 暖かくなったら一緒に食事することになっている。春はまだ遠い。今夜の酒はいやに涙味がする…。
  

 

青山葬儀所に並ぶ長い参列

舟木昭太郎の日々つれづれ

会場前には多くの供花者の名前が…。
舟木昭太郎の日々つれづれ  

 

式場では遺影が微笑みかけて

舟木昭太郎の日々つれづれ

 

 

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ありがとう、そしてさようなら山下書店/真樹先生を偲ぶ会の日程/他

・後楽園 山下書店の閉店に寄せて
 
 ~山下書店がゴング週刊化に一役~ 
 ~創刊はしてみたけれど~ 
 ~山下書店への10ゴング~
 
・真樹先生を偲ぶ会の日程
 
・東京鮫川会に出席して

 


舟木昭太郎の日々つれづれ

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後楽園・山下書店の閉店に寄せて
 
 後楽園ドーム園内で永年親しまれた山下書店が、1月29日店を閉じた。後楽園と言えば、巨人のフランチャイズ、ドーム球場、格闘技のホール、そして競馬の場外馬券売り場を持つスポーツの一大テーマパーク。
 
 山下書店はこれらのスポーツ専門書を網羅した店としてそれぞれのマニアには重宝がられた。私は格闘技ゴングの編集者として約30年余に亘り携わってきたので、閉店には人一倍感慨が深い。
 
 週刊ゴング、ワールドボクシング、ゴング格闘技といずれも創刊をプロデュースしてきたが、創刊号が出た日は必ず山下書店に足を運んで、店頭に高々と平積されている自社本を見ては、感激したものである。
 
 会社が白山で後楽園は近いこともあり、日によっては2回も3回も覗きに行き、売れ行きを見定めては一喜一憂した。プロレスのビックマッチを速報した増刊号は、特に気になって足を運んだ。
 
 出勤前に立ち寄っては、ライバル誌(週刊プロレス)と自社(週刊ゴング)の置いてある部数を目算しては、夕方またお互いの売れ具合を確認しにくるという、何だか子供染みた事もした。
 
 
~山下書店がゴング週刊化に一役~
 
 1984年(S59年)4月に週刊ゴングは創刊したが、ここで後楽園山下書店は、我社(日本スポーツ出版社)に歴史的な役割を果たす事になるが、余人は知らない。週刊を創刊するかどうか社内では連日、小田原評定を繰り返す中、創刊を決める手立てとなったのが実は山下書店であった。
 
 ’84年に自社ビルを新築した我社は、会社の稼ぎ頭だった月刊ゴングと別冊ゴングが週プロの出現で、売上はジリ貧の一途を辿っていた。別冊ゴングは隔週発売だったが、それでも週刊のスピードには敵わなわず、一刻も早い週刊化が急がれた。
 
 それでも社内の空気は「もし失敗したら会社が無くなってしまう」という守勢派が大勢を占め週刊化構想は宙に浮いていた。私は常々「柳の下にはドジョウは2匹いるが、3匹はいない。もし3番手になるようなら、編集長は引き受けない」と会社側に明言していた。
 
 当時「ビックレスラー」も週刊化を虎視眈々と狙っていた。このまままでは機を逸すると焦った私は、密かにアルバイトを雇って週プロの売れ行き調査を始めた。我が目で実売数を確かめその結果を役員会に提出し、具体的な数字で説得をしようと試みた。
 
 ここで登場するのが山下書店。調査対象書店のトップに挙げて、重点的にチェックさせた。アルバイトの学生は幸いにも店員に気に入れられたのか、お店側の協力で詳細な売上データを聞き出してきた。
 
 お蔭で、発売当日、3日後、そして1週間後の週プロの搬入数と実売数をほぼ完全に掴むことができた。かくして1か月間のデータが役員会に提出された。
 
 その数字は我々の予想を遥かに越えた良いものであったがために、反対していた役員もグーの音も出ず、一気に週刊化の流れに傾いた。書泉ブックマートなど5店舗に絞って行われた極秘の調査だったが、山下書店の調査報告が際立っていて、結果的にはこれが決め手になった。
 
 
~創刊はしてみたけれど~
 
 余談だがこうして難産の末に創刊された週刊ゴングだったが、いざ発刊してみると多難を極めた。半年で7000万の赤字を出した。反対派役員は、それ見たことかと冷笑した。
 
 1年先行した週プロは勢いを増しわが誌を寄せ付けず、週ごとに部数を落として行った。げに風前の灯だった。私は青くなった。されど神風が吹いた。
 
 長州維新軍が「全日本プロレスに参戦す」のスクープ記事を機に、雑誌は堰を切ったように売れ出した。全日に強いゴングは猛然と巻き返しに転じたのだ。
 
 12月決算で、それまでの7000万の累積赤字が、3000万の黒字に転じた。この時初めて私は勝負して良かったと胸を撫で下ろした。結局初代編集長は3年弱務め後任に託した。
 
 後はプロレスの権威竹内宏介率いるゴング軍団がそのプロレス本作りのノウハウを発揮して、やがて週プロと抜きつ抜かれつのデットヒートを展開して行った。振り返れば熱い、痺れるような黄金の日々であった。
 
 
~山下書店への10ゴング~
 
 思えば無我夢中だった。週刊なしには会社が存続しないとただ使命感に燃え突っ走った。雑誌が軌道に乗って、私の一世一代の勝負は終わったが、振り返れば、週刊化への引き金を引いた瞬間に私の役目は済んでいたのかも知れない。兎に角私に運があったとしか言いようがない。
 
 ’84年4月に創刊した週刊ゴングは’07年3月14日を最終号として休刊した。足掛け23年、残念な結果ではあるが、プロレス専門誌として一時代を築いた事は間違いない事実である。後楽園山下書店は閉店し、週刊ゴングも既にない。この話はもう時効である。
 
 少々長くなったが我社と我命運をも左右した後楽園山下書店の閉店は、かくの如き秘話をもってしても、他人事と思えない。

故に、ありがとうそしてさようなら、山下書店よ!


私はあなたのために、心からの10ゴングを鳴らします。
 
 
真樹先生を偲ぶ会の日程
 
 去る1月2日逝去した真樹日佐夫氏の偲ぶ会が2月4日13時~15時に東京・青山の青山葬儀場で行われることが決まった。主催は国際空手道連盟一門。突然の同氏の死亡はいまだ信じられないが、当日は真樹先生にゆかりのある方が各方面からくるだろうから、大いにかたり合い偲んできたい。
 
供花についの問合せは、佐久間本店へ。
電話03-3482-1467 FAX03-3484-4848。
 
 
東京鮫川会に出席して
 
 28日(土)、我村福島県鮫川村の新年会を兼ねた「東京鮫川会総会」が新宿住友ビルホールで開かれた。私は12年ぶりに出席した。拙宅の近に住む中学時代の恩師小滝陽子先生と出掛けた。
 
 受付で村企画調整課の石井智子さんに声を掛けられた。メールではやり取りさせてもらっているが、言葉を交わすのは初めて。想像していたよりも背が高くスレンダーな美人方なので正直驚いた。
 
 石井さんは、一昨年と昨年「東京鮫川会会報」に私が記事を寄稿し、拙文を綺麗に纏めて下さった。優秀な職員で、常々私は頼もしく感じていた。初めてお会いしお話して、それが間違いないことを確信した。
 
 総会のアシスタントとしても議題進行役をテキパキとこなしていた。彼女のような能吏が村役場で働いているとは、誠に嬉しい。総会の後には新年会があり、村からバスで上京した村長や議員各氏と懇談した。
 
 中には村会副議長を務める中学時代の坂本君や、会の副会長市川君、監査役の生田目君も集いさながら同級会で、小滝先生を交えてしばし交歓した。まさに、故郷の訛懐かしの趣であった。

 

 

中学時代の恩師小滝先生と
舟木昭太郎の日々つれづれ

同級生の坂本君(左)と再会。

舟木昭太郎の日々つれづれ

 

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把瑠都の優勝の意味するもの/ダルのレンジャーズ入り/他

・把瑠都の優勝の意味するもの
 

・東京に久し振りの雪に気分高揚
 

・ひれ酒に酔う
 

・ダルのレンジャーズ入り

 
 ~選ばれしダルに恵みあれ~
 

・少年時代の秘密を吐露
 

・傘寿祝いタイ料理店へ
 

 

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把瑠都の優勝の意味するもの
  
 初場所で優勝した大相撲大関把瑠都(ばると)は、なかなかチャーミングな力士で、相撲に新風を吹き込む存在である。今場所は突き押に徹して無類の強さを発揮した。
 
 相撲に覚醒した感じがする。会得したともとれる。選手というものは或る日突然目覚め、一気に殻を破る時がある。まさに把瑠都がそれだ。長身198㌢、体重186㌔で体も柔らかい。腕力があり、優勝で慢心しなければ横綱は確実だ。いずれ白鵬&把瑠都時代が来よう。
 
 エストニア出身で、千秋楽ではスタンドに母親と夫人がいた。白鵬に敗れ全勝はならなかったが、引き揚げてくるとき手を上げて応えていた。いい笑顔だった。インタビューでも「母が居なかったら、いまここに僕は居なかった。ありがとう」と感謝を表した。思わずジーンときた。
 
 こういう言葉は日本人力士には恥じらいがあって出てこない。素晴らしい。と、私が褒めるそばから、相撲審議委員なる輩はやれ「品がない」と新聞紙上で、くさしている。
  
 どうやら花道を引き揚げてくるときに母親に手を上げて応えたことらしい。もしかしてあの笑顔も気に食わないのか。バカな、せっかく明るいキャラの力士が育ってきたのに。把瑠都から笑顔を奪ってはならない。
 
 元相撲記者の我が先輩加賀屋氏によれば「せっかく優勝したのだからエストニア国歌を流して、栄誉を称えるべきです」私もこの意見には大賛成!外国人力士が増えて、大相撲ももはや日本だけのものではない。
 
 
東京に久し振りの雪に気分高揚
 
 20日明け方より雪になった。傘を差していつものように散歩に出掛けた。豪雪で悩む地域の人には申し訳ないが、福島の山深い村に生まれ育った私は、雪を見ると童心に還る。
 
 大山公園は静まり返り、街灯の光が照明となり降りしきる雪を宝石のように映えらせた。時折吹く北風に、ブランコが独りでに揺れ思わず黒沢明監督「生きる」のワンシーンを思い浮かべた。
 
 牡丹雪降りしきる中、主人公役志村喬さんが癌で余命いくばくもない体で、完成した公園でブランコを漕ぐ姿…♪命短し 恋いせや乙女と切々と唄う。
 
 詩情溢れるあの名場面忘れることができない。公園を3周して帰宅したが、雪は勢いをまして結局夕方まで続いた。杉木立を揺らす吹雪、川面に舞う粉雪、鈍色の天空。色彩のない東北の冬に思いを馳せる。冬は何故か田舎が恋しくなる。
 
 
ひれ酒に酔う
 
 この日は気分が甚く高揚して、日本酒を飲み過ぎた。丁度故郷から日本酒2本が届いた。1本は会津の「花泉」もう1本は、地元の地酒「東豊国」。先ずは花泉を開けて、ひれ酒にした。
 
 ひれは「田吾作」の親方から頂戴したもので、大きく肉厚なのでよく焦がすと、じゅんわりと味が出てきた。美味くてとうとう3杯も飲んだ。
  
 家内も同じように酒杯を重ねた。冬の夜は日本酒が心暖める。夫婦でノスタルジィックな夜になった。花看半開、酒飲微酔、此中大有佳趣(花は半開きを看[み]、酒は微酔に飲む、この中に大いに佳趣あり)と菜根譚にあるが、凡人はなかなか微酔では止められない。
 
 
ダルのレンジャーズ入り
 
 ダルビッシュ有(25)のレンジャーズ入団が決まった。6年契約で約46億。入札契約金の39億を合せると85億円を超える。レンジャーズの期待の程が分かる。それほど破格の大型契約。サイ・ヤング(年間の最優秀投手賞)を取れば5年でFA(フリーエージェント)できる付帯条件も付いている。
 
 同球団は2年連続でワールド制覇を逃した。ダルを擁して今度こそ世界一への決意の表れだろう。196㌢、98㌔の体躯は、巨体揃えのメジャーにあっても互角以上だ。
 
 幾ら投球術が優れていても体力がなければ、それを活かすことができない。ダルは日ハム在籍中、これといったケガもなくその点でも、高く評価された。
 
 危惧することはなか3日の登板、地元テキサスは暑く野外の球場であること、試合数が多く移動が過酷であるということ。本拠地の球場はセンターが狭くホームランが出やすい事等々。
 

  
~選ばれしダルに恵みあれ~
 
 未知との遭遇は次々に待ち受けているが、ダルならやってくれそうだ。150㌔の速球に、相手に的を絞らせない多彩で鋭い変化球は、メジャーでも通用するはず。
 
 十分通用すると、分析したからこそ多額の契約金を球団は払って獲得した。ダルよ、君は選ばれし恍惚を背負って自信をもって、真っ向勝負すればいい。
 
 開幕が待たれる。全米を熱狂の渦に巻き込む快刀乱麻の活躍を早く見たいものだ。日本プロ野球の”至宝”がテキサスのユニフォームで第1球を投ずる歴史的瞬間、私は祈るだろう。神の恵みあれ!と。
 

   
少年時代の秘密を吐露
 
 故郷の「東京鮫川会」という会報の平成23年12月23日号に私の少年時代の”秘密”を綴った拙文が掲載され、面はゆいような気持ちである。いままで胸に秘めてきた事を初めて吐露した。
 
 6歳の頃、父のヤマメ釣りに連れられた折の思い出で、川辺の流砂が余りにも綺麗で、そこにウンチができずに漏らしてしまった話。その時の父と子の淡いやり取りを書いたものです。
 
 興味のある方は下記にメールして、私の部分だけを抜粋してもらいメールで送ってもらう方法もあるかも知れない。
<福島県鮫川村役場企画調整課>
E-mail;kikaku@vill.samegawa.fukushima.jp
 
  
傘寿祝いタイ料理店へ
 
 21日(土)は義姉の傘寿(80才)のお祝いの食事会を幡ヶ谷のタイ料理「セラドン」で7時から開いた。セラドンは、私のタイ語の恩師・吉川敬子先生が、推奨するお店である。
 
 素材、味には定評があり店内も瀟洒な造りになっている。当初タイ料理は80才の姉にはどうか心配したが、平成16年頃一緒にホアヒンに行って食べた経験があり、本人は「大丈夫、タイ料理は好き」というので安心した予約した。
 
 ヤムウーセン(春雨サラダ)、ピリ辛空芯菜、えび団子揚げ等を先ずオーダーして、妻はビール、私は赤ワイン、姉はウーロン茶、倅は二日酔いでハーブ茶を飲んだ。
 
 その後はココナツミルクのスープ、タイ風オコワ(私の大好きなもので、ナンプラー&唐辛子を少し点けて食べる)、湯そばなどを食べ十分満足した。姉も喜んでくれた。寒い夜の細やかな宴。
「タイ料理セラドン」 mail@cela-don.com
 
セラドンの入り口
舟木昭太郎の日々つれづれ
 
拙宅2階より見た20日雪の朝の風景

舟木昭太郎の日々つれづれ

 

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葛飾北斎「樽屋」の絵、樽廻船/ジェーン・バーキンさんの事/他

・葛飾北斎「樽屋」の絵、樽廻船
 
・下り酒のいわれ
 
・ジェーン・バーキンさんの事
 
 ~有名だからこそやらねばならぬ~

   
・風邪予防に体造り


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葛飾北斎「樽屋」の絵、樽廻船
  

 浮世絵師・葛飾北斎(1750~1849)は「富獄三十六景四十六図」を描いた人として、よく知られているが、司馬遼太郎さんの著を読んでハタと思い当たる事があった。
 
 「尾州不二見原」、別名「樽屋」は樽職人が大きな樽を作っていてその真ん中に職人がいる。遥か遠くには富士の姿が樽を通して見える風景は、見事なまでの遠近法で目に迫ってくる。
 
 この樽は酒樽となり大阪方面から樽廻船となって最大の消費地江戸に運ばれた。と、まあ、ここまでは驚く事はないのだが、その他に意外な用途があった。
 
 司馬先生によれば、コンテナなの役割を果たしたようだという。空樽に、色んな食品やものを詰め込んで運んだと。これによって積荷も簡素化し、輸送が飛躍的に発展したと。詰まりは今日のコンテナ船。商人たちの創意工夫は、今も昔も変わらなく逞しい。
 
 
下り酒のいわれ
 
 樽酒は私も好きで、浅草の藪そば「並木」は菊正宗の樽酒に、焼き味噌が付いてくる。これが絶妙な味で、酒が一段と旨くなる。そばは生醤油のようにしょっぱいつゆに、少しだけ触れて口に運ぶ。思わずうまい!となる。
 
 最近はとんと行かないが、私が最も愛する味である。何代目だったか、団十郎さんが死ぬ前にもう一度並木のそばを食べたいので、出前を頼んだら断られた、なんてエピソードもある。
 
 江戸時代の伊丹や灘など上方から江戸に運ばれる酒を「くだり酒」といって別格なものだったらしい。山本一力さんの作品には酒宴の場面ではよく出てくる。「これはうめぇや」「あたぼうよ、くだり酒だもん」。
 
 江戸の人はそのくだり酒を1年に一人7斗も飲み、さらに地の酒も1斗半位飲んだというから、恐れ入る。
 
 「朝によし、昼なほよし、晩はまたよし、飯前飯後、その間もよし」…小原庄助(のんべえの品格より) 
 
 
ジェーン・バーキンさんの事
 
 女性の方はよく御存じだと思うがジェーン・バーキン(Jane Birkin)さん、先般NHKBSで谷村新司さんと対談していた。東日本大震災に真っ先に行動をおこして、’11年4月6日には来日して復興支援のチャリティーコンサートを各地で開き今も世界各国を回っている。
 
 イギリス生まれながらフランスを母国にして活躍する女優で歌手。いまやフランスの顔といわれる。かくも有名な方が放射能も厭わず被災地を駆け回る姿には、ただただ感動を覚えるのです。
 
~有名だからこそやらねばならぬ~ 

 「有名だからこそ、それを生かして役立てなくてはならない」極自然の奉仕だと、なんだか私には神さまのように感じられた。ラフな服装に、高価な装飾品も一切身に着けず格好いいとはこのような人を指すのだろう。65歳、知性に満ちたナイスレディ、知性は美である。
 
 因みに超高級バックの「エルメス バーキン」は彼女の名前を付けたものだ。1個200万~300万円もするセレブ御用達で銀座のクラブホステスの垂涎のバックらしい。我が愚妻には縁のない話であるが…。 
 
 バーキンのバックを手にする人は、彼女のように心も豊かであって欲しいものである。
  
  
風邪予防に体造り
 
 早朝のラジオ体操も年明けからは、北風が一段と冷たくなっている。
そこで負けてはならないと、乾布摩擦を始めた。最初はタオルで上半身裸になって、ごしごし試みていたが最近は冷水に浸したタオルを使う。
 
 これだと衣類を着用した折に一段とぽかぽかとしてくる。来週からは外の寒気に触れながらパンツ一ちょうでやってみようと考えている。
風邪は引いたあとの心配より、如何に引かない体を作るかが重要だと私は思っている。

 


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真樹日佐夫さんの死を悼む/石井慧には興ざめ/他

・真樹日佐夫さんの死を悼む
 ~真樹さんとの最初の接点~
 ~外見とは違う繊細な人~
 

・大晦日の格闘技戦に感じたもの

 
・石井慧には興ざめ
 

・鎌倉で七福神巡り

 

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真樹日佐夫さんの死を悼む
 
 前回もお伝えしましたが、新年早々の真樹日佐夫さん(梶原一騎実弟)の突然のご逝去は衝撃と同時に人生の儚さを痛感しました。真樹さんに最後にお会いしたのは昨年11月、添野義二さんのご子息達一君のジム開きでした。
 
 赤坂のTBS近くにオープンする「NEXT」という多目的ジムのお披露目パーテー前夜、私が見学に行くとほどなく真樹さんも一人で現れました。例によって、長いマフラーを靡かせながら。
 
 私の姿を見つけると、おー、元気?といつものように声をかけてくれた。これがよもや今生の別れになろうとは、神のみぞ知るです。文筆家であり格闘家(真樹道場主宰)でもあった同氏の死去は、誠に惜しまれる。格闘技界にとっても損失は計り知れない。
 
  
~真樹さんとの最初の接点~
 
 私と真樹さんとのコンタクト(接点)は思いもよらない出来事から始まった。ゴングでは、私が入社(日本スポーツ出版社)してほどなくプロレス専門の別冊ゴングを発刊した。
 
 多分、昭和50年の春の頃だったと思うが、大木金太郎の「極真空手・大山倍達に挑戦」というインタビュー記事をこの別冊に掲載した。これに対して極真側は猛反発。発売と同時に会社には門弟達からの抗議の電話が相次いだ。
 
 当時の極真空手といえば梶原一騎の劇画「空手バカ一代」で飛ぶ鳥を落とす勢いで、大山館長は文字通り神聖で、侵すべからざる生きる伝説の人だった。謂わばこのドンに、刃向う記事を載せたというので矛先をゴングに向けてきた。
 
 中でも執拗に電話してきたのが当時本部で黒帯だった真樹日佐夫さん。ドスの効いた脅しに、事務の女の子は「マキ」という名前に怯えた。編集部でも電話を受けたがらなかった。結局私が電話を受けた。
 
 「ゴングの編集部か、極真を舐めているんじゃないぞ。これからそっちへ殴り込みに行くからな」これが真樹さんとの最初の接点。で私は少し上ずった声で「どうぞ」と返事した。
 
 この一語が真樹氏の怒りに拍車をかけてしまった。「何!お前なていう名前だ?何、フナキ、よしわかった。いまいくから待っていろ」電話をガチャンと切った。ざっとまあ、こんな経緯であった。
 
 幸い殴り込みには来なかった。以来私の中で彼は、許されざる格闘人だったが、或る日、赤坂の小料理店で、二人切りで飲む機会あった。そこで先の大木事件を真樹さんは持ち出した。
 
  
~外見とは違う繊細な人~
 
 「あのときは、ゴングにも意気のある男がいるんだなと正直感心したよ。以来あんたの名前は妙に忘れないでいたが、こうしてサシで飲むとはな、アッハッハ。まあ、宜しく頼むよ」
 
実際腹を割って話をしてみると、外見では想像できない繊細で、ピュアな精神の持ち主だった。小説現代新人賞を受賞しただけに文章も秀逸で、その原稿も几帳面で一字たりとも、マスをはみ出すことがなく鉛筆で綺麗に清書されていた。
 
 この一夜で、永年鬱積していた真樹さんへの嫌な気持ちは氷解、よく取材の後で飲み歩く仲となった。滅法お酒が強い人で、六本木では朝まで付き合わされ、ある時は最後はSMクラブに行きついたのには閉口した。
 
 巨体に長いマフラーをなびかせ、威風堂々と格闘技会場に現われる真樹さんの姿が、もう見られないのは寂しい限りだ。天国で大山総裁や実兄梶原一騎さんと今頃、語り合っていることだろう。お世話になりました。合掌。
 
 
大晦日の格闘技戦に感じたもの
 
 大晦日の格闘技は盛り沢山だった。先ずボクシング、井岡一翔×ヨードグン(WBC世界ミニマム級タイトル戦)は、見事なまでの井岡のスキル(技術)に陶酔した。
 
 わずか98秒のKO、凝縮された、まさにボクシングのエッセンス。無駄打ちがない、ゆったりした構えは、攻防いかなる対応もできる理想的なものだ。
 
 そのままの姿勢から、相手の懐に、さながらステルス機の如く入っていくから防御しようがない。しかも繰り出すパンチは鋭角度でコンパクト。右アッパーから左ボディーで態勢を崩し、止めは左フック。
 
 アマチュアで基本をしっかり身に付けたものが、プロで証明されている。亀田兄弟は、井岡のボクシングを参考にするとよい。
 
 内山高志×ホルヘ(WBAスーパーフェザー王座統一戦)は内山が11回TKOで4度目の防衛。この試合はボクシングパークで、内山のトレーニングを追いかけてきたので特に注目した。
 
 やはり右拳の手術後の経過が心配で、11カ月振りの試合で再発しないのかハラハラ見ていた。稽古では左を多用して、「今度は左で倒します」といっていたが、狙いどおり左フック一発でホルヘを仕留めた。
 
 ”KOダイナマイト”伝説は続きそうだ。研究心が旺盛で、ボクシングに打ち込む姿勢がいい。より高みを目指して、パッキャオのように米国で勝負してほしい。
 
 
石井慧には興ざめ
 
 総合の石井慧には興ざめだ。ヒョードルにパンチで狙撃され、無惨にあっさり砕け散った。あの北京のゴールドメダルから今年はロンドン。丸3年の歳月は一体、石井にとって何だったのか。
 
 同じ総合格闘技に転じた吉田秀彦と敢て比べるなら心構えも戦闘魂も月とすっぽんほどの違いがある。シウバ戦で見せたあの相打ちの覚悟、虎穴に入らずばの鬼気迫る吉田の覇気。
 
 こうしたものは石井には見られない。ヒョードルの前で、意味のないパンチを徒に繰り出すだけ。向かっていく気力がないのだから、ヒョードルは小鳥の首を捻るようなものだったろう。
 
 いまからでも遅くはない。石井よ、柔道界に頭を下げて戻れ。決して格闘技が落第というわけではない。殴ったり、蹴ったりすることに不向きだということである。
 
 柔道は君の天職であり、その資質も無尽蔵にあるように思える。金メダルを取ったから、柔道を会得したとはならない。まだ若い、総合に寄り道したことが、君の糧になるかも知れない。またそうして欲しい。
 
 
鎌倉で七福神巡り
 
 正月3が日は鎌倉のリゾートホテルに2泊し、七福神巡りで十分愉しんだ。2日朝10時からは、ホテル前海岸で、漁師が大漁と安全祈願のお祝いの行事が行われこれを見学した。その足で、七福神巡りに出掛けた。
 
 大漁旗を船上に靡かせた光景は、正月に相応しく華やいで、漁師たちがミカンや小銭を船上から蒔き、近所の住民が歓声を上げて群がった。
我々家族も童心に帰って参加した。
 
 収穫はミカン7個に50円が3枚、10円が2枚だった。3日の帰途は江の島に寄って、江島神社に御参り目出度く鎌倉七福神+江島神社の御朱印を印した。それにしても江の島の町の変わりようには驚いた。中学の修学旅行できた55年前はのどかな砂浜だったのに…。
 
 私の今年の座標は「静かに行く者は健やかに行く 健やかに行く者は遠くまで行く」です。作家・城山三郎が座右の銘として愛した言葉で、イタリアの経済学者パレートが言ったそうです。  
 
 今年は愚息も加わり、お天気にも恵まれ幸せな正月休暇だった。

 
 読者諸兄にとって、健やかな1年でありますようにお祈り致します。
 
 
正月グラフィティー: 

江島神社(3日)、鎌倉海岸の夕日(2日)
舟木昭太郎の日々つれづれ  舟木昭太郎の日々つれづれ
 

布袋尊と腹比べ(浄智寺)、
舟木昭太郎の日々つれづれ

漁師の大漁祈願のミカン蒔き

舟木昭太郎の日々つれづれ

 
鶴岡八幡宮の初詣客、江の島と富士

舟木昭太郎の日々つれづれ  舟木昭太郎の日々つれづれ

 
恵比寿様姿の女性たち(本覚寺)、拙宅の松飾

舟木昭太郎の日々つれづれ  舟木昭太郎の日々つれづれ

 

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【訃報】 真樹日佐夫氏死去

【訃報】 真樹日佐夫氏死去

 

 
 新春の最初のブログで訃報を伝えなくてはならないのは誠に残念でなりません。真樹日佐夫さんが1月2日17時34分急性肺炎のため亡くなりました。

 

 享年71才。突然の訃報に言葉もありません。

 葬儀はご遺族の希望で親族だけの密葬で行われたという。尚、後日改めて故人と親しかった有志によりお別れの会を催すということなので、当然私も出席します。

 

 梶原一騎先生の実弟、親しくお付き合い頂き真樹先生との思い出話も語りつくせぬものがあります。いずれこのコーナーで紐解きたいと思います。

 

 私も正月3が日を鎌倉で過ごして、3日夕刻帰宅したらFAXが届いており、思わず「なんで!!」と声を発してしまいました。早速添野義二氏(国際空手道連盟添野道場館長)に、電話しました。

 

 彼も驚き悲しみにくれ、「先ほどご遺体に会ってきました。まるでまだ生きてるような表情でした。信じられません」と嗚咽していました。

 

 ご冥福をただただお祈りするばかりです。今日はこの辺で。