塩野さんは3冊目の表紙にカルパッチョの描いたコンパーニョ・テッレ・カルツェ Compagnie della calza というクラブの若者を選んだ(アカデミア美術館にある Vittore carpaccio, miracolo della Croce a Rialto)。第7話で当時のヴェネツィアの風俗について述べているからだろう。
第6話 ライヴァル、ジェノヴァ: まずイタリアの海軍旗についている四つの旧海洋国家の国章の話。中世の地中海はサラセン人の海賊とこの四つの海洋共和国のものであった。それぞれなぜに海運国となったかについて: アマルフィは海に出るしかほかに生きる道がなかったから。ジェノヴァは、男たちに船乗りの血が流れていたから。等々、それぞれについて説明。
アマルフィ: 東洋で発明された羅針盤を改良した。6世紀に既に司教区であった。その黄金期は10世紀半ば〜11世紀半ばであり、コンスタンティノープルには教会も、二つの修道院も有し、イスラム教徒とローマ教会の仲介役をなし、教皇庁とモンテ・カッシーノの僧院を相手にしていた。マウロという商人はオリエント貿易で財をなし、イェルサレムに聖ヨハネ騎士団を創設した。アマルフィとこの騎士団の紋章が同じなのはそのためである。衰退したのは、十字軍に参加しなかったから。それは1073年、ノルマン人によって母国が征服されてしまったから。
ピサ: 成立したのは前90年頃。4世紀初めには司教区となった。9世紀から10世紀まで、ピサは海上でサラセン人と戦っていた。コルシカの領有をめぐり、ジェノヴァと敵対し、海港を必要とするフィレンツェに狙われた。皇帝派という旗色を鮮明にしたことも、敵対する教皇派の両国に大義名分を与えることとなった。アラビア数字の紹介による数学発展の基礎という文化的功績もあったが、皇帝フェデリーコ二世の没後は衰退が始まり、1284年のメロリア沖海戦でジェノヴァに敗れ、海洋国家としては姿を消した。
ジェノヴァ: 国家に対する忠誠心のあったヴェネツィアと真逆であったのがジェノヴァで、それは「個人主義のるつぼ」であったと塩野さん。その一例としてベネデット・ザッカリーアを挙げる: ニカイア帝国のパレオロゴス皇帝によって与えられたフォカイアの地に明礬の鉱脈があり、それで事業を起こした。海上保険の会社も設立した。彼の船は Dovozia (富裕)と称した。彼は海軍の軍人としても優れ、メロリア沖の海戦でピサを破り、西地中海の覇者となった。また、カスティーリアの傭兵としてジブラルタル海峡を確保し、大西洋航路を切り開いた。
塩野さんはジェノヴァの内ゲバを説明する: その共和国は、ドーリア、スピノラ、フィエスキ、グリマルディの四つの家系が二派に分かれて政争に明けくれていた。
ジェノヴァとヴェネツィアの確執: その端緒となったのは、アッコンにてヴェネツィア商人がジェノヴァ商人を殺害し、その復讐としてヴェネツィアの居留区が襲撃された事件であるが、第四次十字軍以降にくすぶっていた怒りをジェノヴァが爆発させたものであった。ジェノヴァはアッコンの港を封鎖し、ヴェネツィアはガレー船艦隊を送り込んでこれを突破し、港を占拠し、ジェノヴァの船と倉庫を襲撃した。そしてジェノヴァ側は反撃すべく、春を待って大艦隊を送り込む。半日後の激戦のすえ、ヴェネツィアが圧勝し、ジェノヴァは再びティロスへ逃げ込んだ。この時の戦利品である二本の石柱 due pilastri di Acriは聖マルコ寺院の脇に今も見られる。次はジェノヴァの「しっぺ返し」: ニケーア帝国のミカエル・パレオロゴスがビザンツ帝国を再興させるのに協力し、コンスタンティノープルをヴェネツィアから締め出すことに成功する。ヴェネツィアは後退し、ネグロポンテとクレタ島を死守する。そのうち、1268年、パレオロゴス朝の皇帝はヴェネツィア商人のコンスタンティノープル復帰を許可したが、居留地は以前の半分であった。ジェノヴァは、ヴェネツィアのように船団を組まず、軍船を海賊用に活用した。グリッロというジェノヴァの提督の話: 偽情報を流して船団警護の艦隊を遠ざけ、ヴェネツィア船団を襲撃して莫大な積荷を奪う(1264年)。その後、フランス王ルイ九世の仲介により、両国は休戦協定を結ぶ(1270年)。その間に活躍したのが、前述したベネデット・ザッカリーアであった。ヴィヴァルディ兄弟の話: ジブラルタル海峡を抜けてアフリカ沿岸を南下し、インドを目指したが消息を絶った。マルコ・ポーロもこの頃の人であり、アドリア海沿岸の海戦でジェノヴァの捕虜となり、その獄中で語った体験記をピサ人が書き留めたのである。ジェノヴァ人は自分たちの冒険を秘し、書き残したりしなかった。
黒海沿岸はジェノヴァの開拓した市場であったが、そこにヴェネツィアが進出してきたために確執が起こる。だが、ジェノヴァは内紛のために艦隊を送り出すことができなかった。一方、ヴェネツィアは艦隊のみで海賊行為をするようになった。それが1298年には決戦となり、アドリア海のクルツォラの海戦でまみえることとなる。ジェノヴァが勝利し、その捕虜の中にマルコ・ポーロがいたことは既述のとおり。ヴェネツィア艦隊の提督アンドレア・ダンドロは敗戦の責任からか獄中で石壁に頭を打ちつけて自殺した。この敗戦にめげず、ドメニコ・スキアーヴォという船乗りはモナコを根城とする海賊としてジェノヴァに意趣返しをした。両国は争い疲れた。1300年に締結された講和は50年も続いた。この間、航海技術の改良により海洋交易市場が広がり、ジェノヴァは内紛の果て、1353年、ミラノのヴィスコンティ家に政権を奪われた。
1350年、両国はペスト禍の痛手を負いつつも確執を再燃させる。当時、トルコの脅威にさらされていたビザンツ帝国がヴェネツィアに防衛を依頼し、ヴェネツィアは黒海からジェノヴァを追い出すことを条件に引き受けたからである。だがヴェネツィアは、アドリア海の制海権維持に苦労する。ハンガリーがダルマツィアを征服したからである。ジェノヴァとはキプロス島での優位を巡って争い、キプロス王の信頼を失うことになる。クレタ島でも反乱が起きた。その首謀者はクレタに移住したヴェネツィア貴族たちであった。これは、大艦隊を送り込んで鎮圧した。ヴェネツィアの軍事費はかさみ、国債の強制割り当てに対する不満が高じてきた。
第四次ヴェネツィア・ジェノヴァ戦役: キオッジャの戦いで生まれた二人の英雄: カルロ・ゼーノとヴェットール・ピサーニについて、塩野さんは嬉々として筆をとる。カルロ・ゼーノは神学生になりそこね、志願兵としてテネドス島でジェノヴァ人を撃退し、ヴェネツィア海軍の司令官となった男。ベットール・ピサーニは海の男たちの間で人望があり、1378年、ヴェネツィア海軍総司令官に任じられ、わずか14隻のガレー船を率いてティレニア海で華々しい戦果を挙げた。そこからキプロスへ。そしてポーラで越冬している時、ジェノヴァ艦隊の潜入を受けて敗戦。ハンガリーが北から、西からパドヴァが、ジェノヴァはキオッシャを占拠する。このように封鎖されたヴェネツィアには食糧さえ入らず、完全に孤立する。このような危機に瀕して、船乗りたちはベットール・ピサーニに対する政府の処置(終身追放)に不満でサボタージュ(怠業)をきめこみ、政府はピサーニを釈放する。ピサーニは機が熟すのを待つ。その間、カルロ・ゼーノはティレニア海でジェノヴァの船を襲撃し続けた。それが彼の任務であったのだ。それに飽きると東地中海でテネドスとクレタを根城に暴れ回る。そしていよいよキオッジャの戦い。ピサーニの指揮下、ヴェネツィア海軍が出動する。南にジェノヴァの注意を引き付けている間に、外海の出口に石を積んだ船を沈めてバリケードを築き、ジェノヴァを港内に封じ込める。そこへ、カルロ・ゼーノの艦隊が帰国し、キオッジャの南を突き、大砲を放つ。翌春、姿を表したジェノヴァ艦隊は仲間を救うことができず、退却する。キオッジヤに閉じ込められたジェノヴァ軍は無条件降伏を受け入れるより手がなく、四千人以上が捕虜となった。アドリア海に潜んでいたジェノヴァ艦隊を駆逐してからようやくヴェネツィアはアドリア海の制海権を奪回した。1381年、ハンガリー、パドヴァ、オーストリアが加わって講和が成立した(トリノの講和)が、さほどヴェネツィアに利する内容ではなかったが、ヴェネツィアは国民全体の一致という戦果を得たと塩野さんは述べる。
トリノの講和以降の30年間はヴェネツィアにとって実りある時期となり、15世紀前半、ヴェネツィアはまたしても全盛期を迎え、独立国であり続ける。一方、ジェノヴァは政情不安のあげく、フランスの支配下に入り、スペインの保護領となり、やがてイタリア王国に統合される。とはいえ、コロンブスという大航海者を輩出する。レパントの海戦(1571年)に際して、ジェノヴァのジャンアンドレア・ドーリアはスペイン王の海将として参戦した。15世紀に残った海洋共和国はヴェネツィアだけであった。社会組織力の力がものをいったのである。
第7話 ヴェネツィアの女: 塩野さんは『ルネサンスの女たち』で、ヴェネツィア貴族の娘からキプロス王妃になったカテリーナ・コルナーロを取り上げた。ヴェネツィアには政治的影響力をもった女が一人も存在ぜす、このカテリーナは母国ヴェネツィアの思いのままに操られた。
歴史上、「共和国」と称しながら、一個人に権力が集中していた例は多々あり、そのような国では暗殺の陰謀があったが、ヴェネツィアでは終身の元首でさえもその権力はひじょうに制限されていたので、政治的暗殺は意味をなさなかった。ヴェネツィア国内に軍隊は駐屯せず、武器の携帯は禁じられていたので、誰もが無防備で街を歩けた。また、ローマ教皇パウルス二世の妹が政治的策謀に手を染めたところ、その教皇の没後、彼女は国外追放の刑を受けている。キプロス王と政略結婚して女王になったカテリーナ・コルナーロは、母国の指示に従い、キプロスをわせ國に譲渡した。このようにヴェネツィア女は皆母国に従順であった。例外はチェチリア・バッホである。海賊に襲われて、スルタンに献上され、ハレムで29年間を過ごし、寵妃となり、王子を産む。ヴェネツィアは宝石商に扮したスパイを介して彼女に接触した。スルタン・セリムはワイン好きが高じて、キプロス島の征服を思い立つ。キプロスがトルコに征服されてすぐにレパントの海戦が起こり、チェリチリアの息子ムラードがスルタンになる。以後、彼女は母后としてトルコ帝国の動きに通じるようになる。宰相ソコーリを目の上のたんこぶとした彼女は宰相殺害を策す。これが冤罪であったことは明らかになるが、誰もヴェネツィア共和国の関与を疑わなかった。よって秘話である。
ヴェネツィアの男は単身赴任などで家をあけがちであったから、そのような女性をエスコートする役目の派手な若者たちがいた。コンパーニェ・デッレ・カルツェ Compagnie della calzaである。女性たちはめいっぱいのおしゃれをして、彼らに伴われ、宴会に出たり、散歩したりした。黒人に倣ってイヤリングをつけるようになったのもヴェネツィアの女たちだったと塩野さんは言う。テラスで日光を浴びての金髪の作り方も。娼婦をまねて胸もとを晒していたことも、コルセットを発明したのも。一方、壮年の男たちの装いは長衣を着て地味で堂々としていた。その長衣の色は官職によって違っていた: 元首の金、聖マルコ監督官の紫、官房長官の赤、元老院議員の黒、など。
ヴェネツィアの娘たちの教育はほどほどであり、教養が高かったのはコルティジャーナ(高級芸者)であった。貴族の娘は不自由であったが、庶民はかなり自由であった。娘の親が反対する結婚に対して、若者は公衆の面前でキスするか、教会でハンカチを奪う手段をとった(『オセロ』の例)が国外追放や投獄などを覚悟せねばならなかった。ビアンカ・カペッロは例外。男子は、平民とでも誰とでも結婚できたが、女は自分より下の身分の男と結婚するのは難しかった。ジュデッカ島の尼僧院での事件: 聴聞僧が19年におよび、尼僧たちの肉体を弄んだ醜聞。この司祭は絞首刑と焚刑に処せられた。
ヴェネツィアの政治家は無給であったが、国家公務員は有給の終身雇用であった。それになるためにはかなり難しい教育を受けねばならず、貴族よりも官僚の方が知識的に優れていた。15世紀までヴェネツィアに大学はなく、学びたい若者はパドヴァ大学に進み、ヴェネツィア政府はこれを後援した。それは自由を旨とし、ガリレオ・ガリレイが招かれたりもした。
塩野さんは、フィレンツェのヴェッキオ宮殿と、ヴェネツィアのドージェの館のつくりを比較する。前者は牢獄のようで、後者は開放的で優雅だ、と。ヴェネツィアには異国情緒が漂う。夫人をエスコートする「奉仕する騎士 Cavaliere servante」制度について。
解説文は渡辺靖教授が書いている。ヴェネツィアは「実用の共和国」であり、古代ローマ精神の継承者であった、と。渡辺靖氏は手放しで塩野さんを絶賛している。