先月、永井路子の『この世をば』を読んで、なかなかよかったので、鎌倉幕府の勉強でもしてみようとこれを読むことにした。昭和40(1965)年に直木賞を受けている。読み始めたら、NHK大河『鎌倉殿』のキャストたちがまぶたに甦った。四つの章は馬車を牽く四頭の馬だと著者は述べている。なるほど、と思わせる構成である。メモる。

 

 悪禅師: この章は、源頼朝の弟、阿野全成(ぜんじょう)の巻。大河では、女形のような僧形の新納(にいろ)慎也が、宮沢エマと夫婦をコミカルに演じていたのを思い出す。1180年秋、醍醐寺に預けられて育った全成が兄に旗揚げを耳にして武州鷺沼(今の川崎あたり)の陣屋にやってきた。頼朝とともに、本拠に定めた鎌倉入り。ほどなく、平維盛の軍が駿河国へ押し出してくる。石橋山(今の小田原市南方)で、頼朝は敗れる。数日後、富士川の合戦にて頼朝が勝利。その後、異母弟の九郎(牛若)が頼朝に会いに来たという。九郎は全成にも会いに来た。

 全成、頼朝の勧めで、政子の妹、保子を娶る。保子はふくよかでお喋り、とある。新田義重の娘のことなど、噂話に余念がない。亀の前のことも牧の方[宮沢りえが演っていた北条時政の後妻]に喋ったことから、この女を匿っていた伏見広綱の家の打ち壊し事件となった。

 1181年、平清盛没。1183年、木曾義仲の入京。後白河法皇から頼朝に義仲追討の命が下る(1184年)。鎌倉からは源範頼、義経ら、京へ向かう。全成は選ばれなかった。鎌倉軍は義仲をあっけなく蹴散らし、一ノ谷(今の神戸須磨区)で勝利した。その捷報を受けた頼朝が、九郎の名声に翳りを見せたのを全成は感じた。

 頼朝は、武家の棟梁として、関東御家人の行賞権を一手に握る。九郎が、検非違使尉に任ぜられたという報せが入る。その後、屋島の戦い、壇ノ浦の戦い(1185年)、九郎の働きは目覚ましかった。平家追討が一段落すると、頼朝は、院によって無断任官した御家人たちを断罪に処す。九郎には目通りを許さず、刺客を差し向け、九郎は頼朝追討の宣旨を戴いて挙兵し、没落、逃避行、奥州で滅んだ。その首を送ってきて他意のないことを示した奥州藤原氏を頼朝は滅ぼす。

 1192年、政子が妊もり、先に孕っていた保子が生まれた子の乳母となることを全成は頼朝に申し入れ、聞き入れられ。後白河院の没後、頼朝は征夷大将軍に任じられた。全成と保子は政子の子、千万の養育にあたる。

 1199年、頼朝が死没。嫡男の万寿、頼家が跡を継ぐ。鎌倉の御家人たちは、ほどなく頼家から独裁権を取り上げ、訴訟はすべて、北条や比企らによる合議制によることとなる。さらに御家人たちの間に微妙な対立が生まれる。比企能員の梶原景時への敵意。有力御家人から景時弾劾の連署状が将軍に提出される様子。それが出されると景時は所領に退き、翌年には駿河で討ち取れられることとなった。残るは比企一族。将軍頼家は蹴鞠に興じている。全成は、謀反の疑いで逮捕され、常陸国に流罪となり、下野国に移され、ほどなく、その地の豪族により悪禅師として抹殺された。

 

 黒雪賦: 梶原景時[大河では中村獅童だった]の巻。石橋山の合戦で、木の洞窟に潜んでいた頼朝を見て見ぬふりをして救ったエピソードについて。敵方であった景時は、一年もしないうちに、有力御家人にのし上がる。だが景時はあの時のことは語らない。石橋山のあと、頼朝は箱根、土肥を経て、真鶴岬から安房へ渡り、坂東勢力を糾合し、武蔵から相模へ、そして鎌倉に新府を定めた。

 景時は、頼朝の女癖などに失望を感じたが、それでも頼朝のために動かざるを得なかった。上総介広常は頼朝に対して傲岸な態度をとったが、景時はこれをなんとかせねばならぬと感じ、双六をやりつつ広常を誅殺した。頼朝は自分の預かり知らぬことにしたので、景時は裏切られたように感じたものの、侍所の所司という要職に任じられた。

 木曾勢を蹴散らし、鵯越の奇襲で平家を追い詰める九郎義経について、景時は武将の才を感じた。だが高まる義経の名声と人気を頼朝が喜んでいないことを景時は感じ取った。このままにしておけば、義経は平家以上の手強い相手になると見る。義経討伐の経緯が、酒漬けにされた首実験まで、景時の側から語られる。奥州出兵の後も、頼朝の座を安定させるため、景時はあらゆることをした。源義資、御所の弟の源範頼もおそらく景時の計略により誅殺された。畠山重忠をも斥けようとする[大河で演じていた中川大志はいい人にしか見えなかった]。景時は、いつも目を光らせ、弱腰に見える頼朝を影で支えた。

 それなのに1199年、頼朝は落馬がもとであっけなく他界。享年53歳。二代将軍となった頼家をも支えるつもりでいたが、その軽率さ、気儘さに御家人の不満は募り、訴訟は御家人の合議制[鎌倉殿の13人ですね]となってしまう。その13人の御家人の間にも確執が生じる。66人の御家人の連署による景時への弾劾状。景時は自ら謹慎し、鎌倉を追放された。景時は息子の梶原景季に自分のしてきたことを話す: 自分の被った悪評のすべては疑り深かった御所の意志のためにしたことだと。そして、二代目は支える価値がない、と。景時は、京に上り、鎌倉追討の院宣を乞うつもりであったが、途上、地侍に襲われて落命した。

 

 いもうと: 北条政子の妹、保子の巻。政子、妹の高子(時子?)を下野の足利義兼と結婚させる。その妹の元子も、関東の豪族、稲毛重成に嫁がせた。そして保子には、御所の異母弟、全成法師を勧める。領地も持たぬ青年僧である。

 そして保子は妊娠し、次いで政子も孕もる(その万寿、つまり三幡は早逝する)。

 政子の長女、大姫が婿を迎える。木曾義仲の嫡男、義高である。二人は幼いながらも仲睦まじかったが、義仲が京へ進軍し、京で狼藉者とみなされ、後白河院は頼朝に義仲追討の院宣を出す。義仲敗死後、義高は殺されることとなる。政子は義高を女装させて逃すが、見つかって殺された。

 保子は四人目の子を産み、政子も男子を産む。保子はその頼朝の子、千万(後の三代将軍、実朝)の乳母となり、阿波局と呼ばれる。

 政子は、傷心の大姫を後鳥羽天皇の女御として入内させようとしたが、大姫は灯が消えるように命を終えた。それに続いて、政子は夫の頼朝を失い、尼御台となる。

 景時失脚のきっかけになったのは保子のおしゃべりであった。比企一族、比企能員の娘で頼家の側室となった若狭局についてのおしゃべりもした。それを聞かされた政子は、不出来な嫡男への苛立ちを比企一族への憎しみにすり替え、その企みに、保子の夫、全成を巻き込む。その密謀が漏れ、全成が頼家に捕らえられる。全成と保子が自分たちの育てた千万を将軍の位につけようと、頼家を引きずり下ろそうとしたとみなされたのだ。政子は結局、保子を御所に出頭させなかった。だが全成は、下野国で誅された。京で僧となっていた全成の息子、阿野頼全も殺された。

 その後、比企と北条の確執はさらに深まり、北条の謀略によって、家長の能員[大河では、歴史探偵の佐藤二郎が演じた]を失い、一万の館にこもった一族は皆焼き殺された。そして頼家は出家させられ伊豆へ追いやられ、12歳の千万が三代将軍 実朝となる。保子は今度、義母の牧の方が自分の実子の婿、平賀友雅を将軍にしようとした策謀を見抜く。

 政子は頼家の遺児、5歳になる孫の善哉に目をかけ、実朝の猶子にしようと考えた。その時はよもやこの善哉、後の公暁が養父を手にかけようとは考えてもみなかった。実際にその時になっても政子はそんなことを信じられずにいた。

 政子は将軍の継嗣を決めねばならなかった。結局、九条道家の子、まだよちよち歩きの三寅を迎えることとなった。その2年後、後鳥羽上皇が、北条泰時追討の院宣を出す。それに対する出陣に際し、政子は言葉をかける。

 

 覇樹: 北条義時の巻。ぬらりひょんのような存在[大河の小栗旬は敵役であった]。彼は頼朝の女々しい小細工を見抜いていたが、誰にも話さなかった。

 石橋山の合戦で、四郎義時は兄の三郎宗時[片岡愛之助はいつも脇役で大河に出ているイメージがある]を失った。頼朝は、和田義盛を侍所の別当に取り立てた。安房に逃れた時に侍奉行にしてほしいと頼まれていたからである。その頃の四郎にはまだ指導力があるようには見えていなかった。だからといって父の時政に従順というのでもなかった。平家追討では、義経の陰に隠れてぱっとしなかった。鎌倉に戻っても特にめざましい動きはなく、父の時政は歯痒かった。

 義時は頼朝に頼んで、御所の女房、姫の前を妻にもらい受けた。先妻との嫡男は後の泰時[坂口健太郎が演っていた]である。

 そんな四郎に転機をもたらしたのは、思いがけない頼朝の死であった。二代将軍 頼家のもとでの合議制。北条と比企の火花が散る。時政は13人の中に義時をねじ込む。だが寡黙であった。弟の五郎(後の時房、瀬戸康史ははまり役)は頼家とともに蹴鞠に興じている。だがその13人の合議制はほどなく崩れる。梶原景時が排斥された。その時も、比企討滅の時も、娘婿の阿野全成が糸を引いたようだが、その全成も、北条氏の誰かによって殺されることとなる。だが、比企を除く企ては密かに続いており、北条に招かれて持仏堂に入ろうとした比企能員は殺された[まったくこの鎌倉幕府ではいったい何人の人が殺されたことか!!]。四郎は時を置かず、比企一族の立てこもる小御所を襲撃し、火を放ち、滅亡させた[この章では、経緯が詳しく綴られている]。この時、四郎は尼御所におり、この焼き討ちの場にはいなかった。

 この比企事件より前に、「将軍頼家が薨じたために、千万を征夷大将軍に」という書状が京に向かっていたが、まだ頼家は生きていた。ともあれ、頼家は出家させられ、伊豆に流された。千万のもとで、四郎と五郎は政治の表舞台に躍り出る。

 そして畠山重忠父子のこと。それに続いて、平賀朝雅が在京の御家人によって誅せられ、時政と牧の方も権力の座を逐われ、落飾。執権の地位には四郎が就く。五郎は武蔵野守朝臣に。和田義盛はそれを見過ごせなかった。三浦義村は、義盛を裏切り、その敗北を決定的にする。四郎はさらに、侍所の別当となり、行政と軍事の両方を掌握する。

 今度は実朝と公暁のこと。この章はとても詳しく書いている。初夏、実朝は左大将に任じられ、勅使を迎え、鶴岡八幡宮で拝賀の礼が行われる。その様子を見る公暁。

 その年の暮れ、実朝は右大臣に昇進。翌年の正月に拝賀の儀式。雪の降る中、石段を昇る一行。四郎は気分が優れぬとして小町の館に退く。そして公暁が実朝の首をとる。源仲章は、たぶん四郎の代わりにやられたのかもしれない。四郎という人はいつもその場にいたためしがないのだ。その後、幼児の三寅が将軍に迎えられる。

 三浦義村[大河では、一癖ありそうな山本耕史が演っていた]は、四郎に、自分の弟、胤義が、後鳥羽上皇の誘いに乗せられて四郎追討を勧めてきた密書を渡す。これで義村は公暁事件の借りを返した。承久の乱。首謀者の公卿は斬罪か流罪に処され、後鳥羽上皇らは隠岐や佐渡に配流となった。今や武家の優位が確立された。

 だが義時は、若い側室とともに晩年を暮らし、承久の乱の翌年に没した。

 

 それぞれの章がそれぞれ魅力的であり、ぜんぶを読むと、鎌倉幕府の様子が立体的にわかるようになっている。さすが直木賞受賞作である。