この番組は時々見る。ブラタモリ的であり、面白い企画があったりする。先日の東京駅から歌舞伎座まで地下を歩くというのも面白かった。ブラタモリが高低差とか、重箱の隅をつつくような内容になりつつあるのに対し、博覧強記の石原良純と、ボケ凡人代表の小泉孝太郎のコンビがみごと。江戸城跡をまわる企画はガイドとしてもたいへんタメになったのでメモっておく。案内人の後藤宏樹氏の著書もそのうち読んでみようと思った。

 

 1. 清水門: 天守の北側にあった北の丸、武道館の東方にある。御三卿(田安、清水、一橋)の屋敷の門の一つ。高麗門を張った枡形の左手に堀があり、その向こうに鉄砲蔵が控えていた。枡形から城内に入るとUターンするようになっており、ランダムな石段がある。

 北の丸には、江戸時代初期、千姫、春日局などの女性の屋敷があった。江戸時代の中頃には、8代将軍 徳川吉宗によって定められた分家、徳川御三卿の屋敷となった(一橋家は内堀の外、北東)。

 

 2. 九段坂: 高低差18m、江戸時代は坂が4m高かったが、関東大震災後、1933年に緩やかになった。

 田安門: 1636年、家光の時代の建設。台地の際で崖と水堀(牛ヶ淵と千鳥ヶ淵)に囲まれており、最も高いところにある。その西側にある千鳥ヶ淵はダム湖であった。江戸城の南方は海だったので、飲料水確保のために堰き止められた(淵とは水瓶のこと)。

 

 3. 半蔵門: 大手門の真逆、江戸城の裏門。今の皇室の出入り口。甲州街道に面している。その街道沿い、四谷門までは番町、徳川家の大番組、同心・与力など、幕臣エリアが守っていた。八王子界隈は千人同心が守りを固めていた。大久保には鉄砲百人組が守護していた。

 

 4. 桜田門: 桜田濠はダムだった。1860年、桜田門外の変(井伊直弼がピストルで暗殺された)。国会前庭に彦根藩邸があった。前方に警視庁。大手門に次いで重要な門。枡形の3面が堀に囲まれている難攻不落の門。この門の外、今の皇居外苑には、老中・若年寄の屋敷が建ち並んでいた。

 

 5. 二重橋: 江戸時代には、石橋の背後に、二重の桁をもつ木橋があった。

▲ 日刊 おっさんの語り継ぎたい歴史 というブログより借用した古い写真

 

 6. 大手門: 参勤交代で江戸に来た大名がここから登城した。月に3回登城した。100人の重臣はほとんど外で待つ。10万石以上の大名でも城内に入れるのは6人くらい。370年前のオリジナル門。枡形を石狭間が囲っている。武者隠しもある。

 下乗門の手前には堀があった。お供は4人となり、大名は下乗する。(徳川慶喜は江戸城に入っていない。)同心板書の先には百人番所があり、甲賀や伊賀の鉄砲衆百人が詰めていた。石垣は瀬戸内海からの御影石。権威を示すべく、370年前に伊豆石から取り替えた。

 

 7. 中之門をくぐり、本丸へ。大番所。大名と3人の家来のみ、中雀門に入る。幕末に起きた4回の火災の名残がある。本丸御殿の玄関は2本の大木の間にあった。南側に本丸、その北に中奥、北側、天守閣の近くに大奥があった。玄関で脇差のみになった。将軍に対して頭を上げることはできない。松の廊下(全長55m、幅5m) は西側にあった。ご休息所前多聞(武器庫; 富士見多聞)があった。石室: 大奥の貴重品を収納していた。(8代将軍のために、ベトナムから1400km、象が江戸城に招かれた。)

 お鈴の廊下: この先には将軍しか入れなかった。大奥(本丸の北半分)は広大な芝生。11代将軍の頃には2500人の女性が住んでいた。女性たちは不浄門でもあった平川門を使用していた。

 

 8. 天守台: 今ある天守台の上には天守閣は建たなかった(1657年に焼失してから、保科正之の進言により、町の復興を優先した)。石垣の石は瀬戸内海産の御影石(前田家による)。積み方は遠近法。

 

 9. 二の丸: 家康時代の白鳥濠。10mの高低差。復元された庭園。1968年まで非公開であった。池にはインドネシアのヒレ長鯉とニシキゴイの混血が飼われている。

 

 本丸休憩所の売店で、皇居財布は抽選販売。

 

 幕末の火災で本丸は焼失していたので、西の丸が皇居となった。

 

 ※国宝五城: 姫路城、彦根城、松江城、松本城、犬山城。

 

 先日、9月11日、クリストファー・ノーランの『オデュッセイア』初日、朝一番の回を見た。春にこの映画の情報が入った時は、たいへん期待し、公開を心待ちにした。だが、大男の鎧軍団が迫る画像を見るに及び、これはいったい何か、もしかしてノーランは話を創作したのだろうか、といういやな予感がし始めた。

 実際に見てみると、ギリシア的な部分はほとんどなかった。各地で大々的にロケをしたので、画面はみごとであったが、ツッコミどころは満載であった。それで私は、松平千秋訳の岩波文庫を引っ張り出し、読み直すことにした。

 

 第1歌: オデュッセウスはカリュプソの島に7年間足止めされていた。一方、ポセイドン以外の神々は、オデュッセウスの帰還について話し合いをし、ヘルメスをカリュプソの島へ遣わすこととする。アテネは、イタケへ赴き、遠方からの客、タポスの王メントスの姿をとって館に入り、オデュッセウスの息子テレマコスに勇気を吹き込む。そして、ピュロスに行きネストルに父の消息を尋ねるよう、さらにスパルタへ行き、金髪のメネラオスを訪ねるように言う。

 

 第2歌: テレマコスはイタケ人の集会を催す。アンティノオスが、ペネロペイアが舅ラエルテスの葬いの衣装を織りあげられないのは、夜になるとほどいていたからだと告げる。テレマコスはスパルタとピュロスへ行き、父の消息を尋ねたいので船と水夫を用意してほしいと言う。メントルに姿を変えたアテネが出発の手筈を整え、テレマコスも旅立ちの食糧など、準備をし、メントルとともに船出する。

 

 第3歌: テレマコス、ピュロスにてネストルに会う。ピュロスではポセイドン祭の宴に遭遇する。ネストルはトロイア戦争後の退却時に起きた出来事、オデュッセウスが引き返したこと、アガメムノンが謀殺された様子、他の戦士が帰国した様子、女神アテネが明からさまにオデュッセウスを心にかけていた様子などを語る。

 あまり遠くに長旅をするのはよくないが、スパルタへはぜひとも行くよう勧められる。一同は、アテネの姿を目にして驚愕する。ネストルの息子ペイシストラトスがテレマコスに同行してスパルタへ向かう。

 

 第4歌: テレマコスとネストルの息子ペイシストラトスはメネラオスとヘレネ夫妻のの息子と娘の婚礼を祝う宴に参列する。ヘレネはテレマコスがオデュッセウスに似ていると言い、身元が明かされる。トロイアにおけるオデュッセウスの活躍、神々への生贄が不足したためにメネラオスも帰国が難儀であったこと、海の翁プロテウスとの格闘、この海神から聞いた他の武将の消息などが話題となり、オデュッセウスはカリュプソのもとで身動きとれずいることが語られる。

 一方、テレマコスの船出を知ったイタケの求婚者たちは、彼を待ち伏せて討ちとってしまおうと悪巧みをめぐらす。息子の旅立ちを知ったペネロペは不安に嘆き、うろたえる。アテネが彼女を宥めるために幻を送る。[ノーランの映画では、テレマコスたちはピュロスで襲撃されることになっていた。]

 

 第5歌: 神々の会議で、カリュプソのもとにいるオデュッセウスの帰国を叶えてやることが決定する。ゼウスの使者となったヘルメスはカリュプソにその決定を伝え、カリュプソによって木材と工具を与えられたオデュッセウスは筏をつくり、島を離れる。だがポセイドンが海を掻き回し、オデュッセウスは筏を失う。女神レウコテエがそれを認めて激励し、アテネは彼がパイエケス人の国に着くよう計らった。河口に漂着したオデュッセウスはオリーヴの茂みの下で落ち葉にくるまり、眠った。

 

 第6歌: アテネは、アルキノオスの屋敷へ行き、王女ナウシカアの友達に扮して河に行き洗濯をするよう促す。アテネの計らいで、目覚めたオデュッセウスは体を洗い、町へ導かれ、しばし待機してから屋敷を訪ねるよう、ナウシカアに言われる。[ノーランの映画では、パイエケス人の国の部分はすべて省かれている。]

 

 第7歌: オデュッセウス、若い娘の姿となったアテネに案内され、アルキノオスの屋敷へ行き、王妃アレテの膝にすがり、嘆願する。オデュッセウスは自分の身の上について、カリュプソの島以降のことのみを語り、アルキノオス王は客人を国許へ送り届ける手立てを考えることにしようと言う。[カーク・ダグラス主演の『ユリシーズ』では、オデュッセウスが記憶喪失になっていたりしたが、そんな話は原作にはでてこない。]

 

 第8歌: 翌朝、オデュッセウスはパイエケス人の集会所へ連れていかれる。大観衆のもと、競技会が催され、挑発されてオデュッセウスは参加し、円盤投げの腕を披露する。王は客人を国許に送り届けることとしたと言い、デモドコスなる楽人に歌わせる。アレスとアフロディテの情事が詠じられ、皆おおいに楽しむ。オデュッセウスはトロイア戦役終盤の木馬の場面を所望し、それを聴きながら悲しげに呻く。それに気づいた王は、客人に素性を尋ねる。

 

 第9歌: それに応えたオデュッセウスは名を名乗り、悲惨な旅の数々を語ることとする。まずキコネス族の町での略奪と闘争、海路での遭難と漂流、ロトパゴイ族の国について、キュプロクス族の国での出来事: 洞窟で人肉を食う一つ目の巨人(ポリュペモス) と出会い、閉じ込められたが、酒を飲ませて酔い潰し、焼いたオリーブの木を錐のようにして一つ目を潰し、羊の腹にぶら下がって脱出した話をする。その巨人はポセイドンの息子であったため、帰国できないよう呪いをかけられた、と。

  ◀︎ ポリュフェモスの群像

 

 第10歌: 不壊の城壁をめぐらせたアイオリエの島で、風の司アイオロスの屋敷にて丸ひと月のあいだもてなされ、トロイア戦争のことを語る。アイオロスは西風以外の風を封じ込めた革袋を餞別にくれた。中に金銀財宝が入っていると思った部下たちが袋を解いてしまったので、故郷を目前にして逆戻りしてしまい、ライストリュゴネス族の町に着いた。住民は巨人族に似ており、それが大挙して攻めてきたので、死の恐怖から懸命に逃げたが、一艘以外の船は壊されてしまった。[ノーランの鎧さん軍団はこの話のつもりだったのか?]

 次はアイアイエの島に着く。そこに二日二晩横たわった後、奥地を偵察しに行かせると、キルケの屋敷があり、周りの山には、狼や獅子が住んでいた。これらの動物はキルケの魔法で姿を変えられた者たちで襲ってきたりはしなかった。オデュッセウスの部下たちも豚に変えられた。ただ一人、キルケの誘いに乗らなかった部下が報せに戻り、オデュッセウスはそこに赴くこととする。途上、少年に扮したヘルメスがキルケの魔法から身を守る薬草モーリュを手渡してくれた。[「その美しさ女神たちの中にも立ち勝る」と形容されているキルケは、ノーランの映画ではただのあばら屋に住む中年のおばさんであった。]ここでしばらく過ごした後、帰国を望むオデュッセウスにキルケは、冥界に住む盲目の預言者テレイシアスに会って帰国の前にすべき行き先を尋ねよ、と告げ、冥界への道筋をおしえ、生贄の牡羊と黒い牝羊をつけてくれた。

 

 第11歌: 冥府へ: オケアノス河の涯に着くと、雲と霧に包まれてキンメリオイ族[極北の住民のイメージ]が住んでいた。流れに沿って歩き、穴を掘ってすべての亡者に犠牲獣を献じた。闇の底から亡者たちの大群が現われる。そして、帰国についてテレイシアスの予言を聞き、どのようにして帰還すべきか、注意や犠牲について教えてもらう。亡くなった母の霊とも言葉を交わした。アガメムノンの霊も現われ、いかにして死んだかを語る。アキレウスもアイアスも現われた。さらに無数の亡者が現われたので恐ろしくなり、冥府を後にした。

 

 第12歌: 一行は、キルケの住むアイアイエの島に戻って休み、英気を養う。キルケはセイレンの近くを漕ぎ抜けるときはその声に惑わされて落命せぬよう注意する。その先にある二つの進路は自分で選べ、プランクタイという岩礁がある方を通り抜けることは不可能、もう一つはスキュレの棲家である大岩が立ち並び、6つの首で6人の船乗りを喰らうが、戦ってはいけない。カリュブデスの渦潮は吸ったり吐いたりするが、が吸い込むときにいてはいけない。それを過ぎたらトリナキエの島に至るが、そこの家畜に危害を加えれば、破滅が下る、とも告げる。セイレンの所では部下たちの耳に蜜蝋を詰めさせ、オデュッセウスは自分だけが彼女たちの美声を聴いた。

◀︎ セイレンのアッティカ壺(大英博物館蔵)

 陽の神の島トリナキエに近づくと、テレイシアスとキルケの忠告を部下たちに話したが、丸一月の間足止めをくらうに及び、オデュッセウスが寝ている間に部下たちが牛を屠ってしまった。陽の神ヒュペリオンは怒り、そのために部下たちは時化で難破し、落命した。オデュッセウスは9日間漂流し、カリュプソの住むオギュギエ島に漂着した。

 

 第13歌: オデュッセウス、パイエケスの王から多くの餞別をもらい、イタケに送ってもらう。彼を送り届けた船は、ポセイドンの怒りにより、石に変えられてしまい、王は親切にしたことを後悔する。オデュッセウスはアテネの加護により、危難を免れる策を示される。テレマコスはスパルタに向かう。

 

 第14歌: オデュッセウスは豚飼いエウマイオスを訪ねるが身分を明かさず、異国人のふりをし、作り話をする[映画ではそうではない]。

 

 第15歌: テレマコスはスパルタを発ち、ピュロスで乗船する。その時、アルゴスを逃れようとしていた予言者テオクリュメノスが乗船させてほしいと言うので、受け入れる。海上で待ち伏せする求婚者の手先をはぐらかし、無事に帰還すると、テレマコスは自分だけは農場に立ち寄り、従者たちのみを町に入らせる。テレマコスの右手を鷹が飛んだ。吉兆である。

 

 第16歌: テレマコス、豚飼いに自分の帰還を母に告げに行かせる。その留守に、オデュッセウスはアテネの配慮によりテレマコスに父の名乗りをあげ、無礼な求婚者たちを討ち取る計画を立てる。[屋敷にある武器を「天井の高い庫の奥にしまう」とあるが、ノーランの映画では、天井裏に武器をしまうようになっていた。おそらく英語訳の間違いをそのままセットにしたのであろう。]

 豚飼いが戻る前に、アテネはオデュッセウスを再び老人の姿に変える。豚飼いはなおもオデュッセウスを異国人だと思ったままである。

 

 第17歌: テレマコスは屋敷に帰る。乳母も母のペネロペイアもその帰還を喜び落涙する。テレマコスは旅の報告をする。予言者テオクリュメノスは、オデュッセウスはすでに帰国しており、求婚者どもに鉄槌を下さんとしておいでになると告げる。

 一方、オデュッセウスと豚飼も町へ向かう。山羊飼のメランティオスが憎まれ口をたたく。飼犬アルゴスが主人をそれと認めるとすぐに死ぬ。物乞いの姿をしたオデュッセウスが屋敷に入り、アテネに促されて求婚者たちの良し悪しを見分けることにする。アンティノオスは、物乞い姿のオデュッセウスに対して口汚く悪口を並べ立てる。それを聞いたテレマコスは報復を念じる。

 妃は、他国から来たという人の話が聞きたいので呼んでほしいと豚飼に言う。

 

 第18歌: 地元の乞食イロスが、オデュッセウスに悪口雑言を浴びせる。それを見た求婚者たちは二人を闘わせようとけしかける。ぼろを腰にまいて身構えたオデュッセウスの身体をアテネはたくましくしてやる。乞食のイロスは叩きのめされて負ける。

 アテネは、ペネロペイアを求婚者たちの前に出させ、求婚者たちにこの家の資産を食い潰すのではなく、贈り物をするように言わせる。侍女の中にはメラントのように乞食姿のオデュッセウスに悪態を吐く者がおり、それに対してオデュッセウスは威嚇の言葉を浴びせる。テレマコスは無礼な求婚者たちを立ち去らせる。

 

 第19歌: オデュッセウスとテレマコスは広間の武器を奥の納戸へ片付ける[ノーランの映画では屋根裏に片していた。そのようなセットはおかしいと思う]。ペネロペイアは、オデュッセウスが扮している異国の人から話を聞きたいと望む。オデュッセウスはなおも他人のふりをして、オデュッセウスに会ったことがあると作り話をする。

 妃はエウリュクレイアに客人の足を洗わせる。老女はオデュッセウスの古傷に気付き、動転すると、オデュッセウスは黙っているよう制す。ペネロペイアは、大鷲が飛んできて20羽の鵞鳥を殺すという夢を見たと客人に話し、客人はそれは吉兆であると夢解きを告げる。妃は、12の斧を射通す競技を催すことにしたと話す。

 

 第20歌: 前室に横たわるオデュッセウスは思いをめぐらせ、寝付けずにいたが、アテネが援助を約し、眠りを注いでやる。夜明けにはゼウスの雷鳴を耳にし、喜びに躍った。求婚者たちが屋敷に現われ、いつものように驕慢な態度を示す。テオクリュメノスがこの人たちが無惨な憂き目にあうであろうと予言し、立ち去る。

 

 第21歌: ペネロペイアは、求婚者たちの前に現われ、オデュッセウスの使っていた弓を示し、これを張り、12の斧を射通した者に嫁ぐを告げる。彼らは試みるが張ることができない。オデュッセウスは座を外し、豚飼と牛飼に正体を明かし、復讐の計画を打ち明け、協力させる。座に戻り、オデュッセウスは自分も弓競べを試みたいと言う。皆は反対するが、ペネロペイアは試させよと言う。テレマコスは、弓競べの権限は自分にあるからと母と女たちを下がらせ、エウリュクレイアに扉を閉めさせる。

 オデュッセウスは苦もなく弓を張り、弦を弾くと、矢を手に取り、斧の柄を挿す穴[ノーランの映画では、2つの斧を交差させた菱形の隙間を射抜かせていた。それでは簡単すぎるのでは?]を全て射抜く。テレマコスがその傍らにすっくと立つ。

 

 第22歌: オデュッセウスは自らの弓矢で、アンティノオスを斃し、正体を明かす。言い逃れをしようとしたが居直ったエウリュマコスも射抜かれる。そして、テレマコスと、忠実な豚飼・牛飼は、アテネの援助を受けて求婚者たちと不忠者を悉く誅殺する。オデュッセウスは乳母に不忠の侍女12人を連れて来させると、遺体の搬出と広間の清掃を指示し、その上で斬り殺させ、硫黄を燃やして屋敷を浄めさせる。

 

 第23歌: 乳母のエウリュクレイアは女主人にオデュッセウスの帰還と求婚者たちの誅殺を知らせる。だがペネロペイアはなかなか信じない。本人を目にしても疑った様子で、老女に寝室の外に寝台を運び出すよう命じる。それを耳にしたオデュッセウスは、寝台の支柱は生えているオリーヴの株を利用しているのだから根本でも掘り返さない限り移動できないはずだと言い、妃の疑いをはらす。愛を交わし、長かった旅について語らう。夜が明けると、オデュッセウスは惨劇の後始末に向かう。

 

 第24歌: 討たれた求婚者たちの霊は冥府に降り、アガメムノンやアキレウスらの霊に会い、語らう。一方、オデュッセウスはラエルテスの農園に赴き、父との再会を果たす。父は息子の帰還を容易には信じなかったが、足の傷を見せてようやく信じた。

 討ち果たされた求婚者の遺族たちは憤り、オデュッセウスに対して戦を仕掛ける勢いであったが、アテネ、そしてゼウスの執り成しにより、和解が成立する。

[ノーランの映画では、ラストにオデュッセウスとペネロペイアが、船で西方へ弔いの旅に出るところで終わっている。原作にこんな場面はない。ノーランはここに何らかのメッセージをこめたのか? もしかして次は『アエネイス』でも撮るつもり?]

 

 先日、NHKの歴史探偵を見ていたら、桓武天皇の平安京遷都と、平安京のインフラについて取り上げていた。京都に行くと、堀川という地名があり、それが掘削された運河であることは知っていた。それが北から南へゆるやかに傾斜している(高低差は38m)京都では流れさせるのに都合がよかったとのこと。なるほどと思った。それでも不衛生には変わりなく、疫病の原因になったのだ。

 ひと昔前の現代でも、十分にインフラの発達していない地域には、排水路としてどぶ川があったが、古代・中世のどの都市にもどぶ川があったのだ。

 平安貴族は漆塗りのおまる(樋箱)を使っていたとして、庶民は道端のどぶ川で用を足していたのが「厠(かわや)」の語源のようだ。日本に下駄という履き物があるのは、道端の排泄物で着物が汚れないようにするためだったと知って、合点がいった。

 江戸時代には、下水奉行がいたらしいけれど、都市部だけの話であろう。農家の人が人糞を肥料にするため、便所に汲み取りに来ていたのはそう大昔の話ではないし、前世紀にはバキュームカーなるものが排泄物を回収していたのだ。

 と、ここで、イタリアのエトルリア都市ではすでに暗渠化された下水道がインフラとして整備されていたこと、ローマにも前600年頃に建設され、今日も使われ続けている大下水道(Cloaca Maxima) があったこと、水源地から引いた上水道(最初の上水道は前312年に執政官アッピウス・クラウディウスによって建設されたAqua Appia)があったことを思い、ため息がでた。もっと思い巡らせたら、14世紀に書かれたボッカッチョの『デカメロン』では、馬を買いにナポリへやってきた若い商人アンドレウッチョが、排泄物が溜まった肥溜めに落ちるという場面があったことも思い出した。パリでもおまるの排泄物を窓から外に捨てていたのだ。昔は不潔で不衛生であった。

 

 

 

 

 

NHKの番組についてよくまとめている方のブログを見つけた→

 

 

 

 

 神道については、インバウンドの通訳案内士として、いつも考えている。この書物の著者は、駒込武、高木博志。メモらせていただく。

 全体的な印象は、これは学者の論文であり、一般的な読み物ではないということである。神道はもともと祖霊崇拝から発した先史時代よりの信仰であり、それとアニミズムが結びつき、共同体の住民に共通の神社信仰、さらに明治時代以降に天皇家を日本民族の祖神として崇める国家神道という考え方が政治的な権力と結びついた。この書籍はあくまでも、その国家神道についての研究書であり、特に明治時代に皇室祭祀に国家権力からの強力なサポートがあった点を明らかにしている。台湾、朝鮮における神道の強要についての指摘もある。いずれも明治・大正・戦前の昭和時代における国家神道についての研究書である。

 令和天皇の即位式の報道を興味深く視聴した記憶が新しいが、大嘗祭が天皇に神性を与える儀式であることを改めて認識することとなり、それが国費で行われたことの可否も考えさせられた。

 伊勢神宮による真姿顕現運動の項目もたいへん興味深かった。

 靖国神社についてのコラムはひじょうにためになった。

 また、天皇制反対、神道反対の朝日新聞的、反体制的な思想の執筆者が多いように感じられた。神道は、仏教が導入される以前からあった伝統なのだから、明治から昭和にかけての軍国主義の時代に高揚されたので、今の時代にも警戒すべきものだとしている。現代の日本人は誰も天皇が神だなどとは考えていない。だが、今の日本人の大半は、共和政の国々のように国家元首が選挙でころころ変わるよりは、神道によって国の安寧と国民の幸福を祈祷してくれている神官でもある天皇が象徴としての国家元首であり、男系であろうが女系であろうが、万世一系であるのは貴重なことだと思っているのではないだろうか? 少なくとも令和の天皇御一家のことを違憲だとか目くじら立てている日本人は少数派なのではないだろうか。

 

 総説 国家神道の現代史、あるいは身体感覚としての天皇制: 正月の初詣という浸透儀礼は明治時代になってから広まった。子供達は学校に集まって正月の頌歌を歌った。日露戦争(1904〜1905年)後、1920年代になると、神社と公教育の間合いが詰められていき、国家神道という言葉が身体的感覚としてイデオロギー的に共有されるようになった。宗教とナショナリズムが公権力を介して結合という現象である。

 戦後の連合国占領下、国家神道に対する公的支援は取り除かれたが、今の日本は無宗教の仮面をかぶった宗教国家なのではないか、と著者[そうだろうか?]。

 「国家神道」という言葉はGHQの発した神道指令に因む。

 第二次大戦前、神社神道は「非宗教」とされていた。道徳として学校で教育されることを合法化するためであった。

 1963年に、日本遺族会が中心となり、「靖国神社国家護持に関する委員会」を設け、靖国神社国家管理について議論がなされたが、廃案となった[これは知らなかった]。

 天皇崇敬とは、天皇皇后の御真影に拝礼することである。

 明治期、皇室祭祀と神社は「非宗教」「国家の祭祀」として特別な保護を受けた。明治憲法では信仰の自由をうたっていたいたので、1900年に内務省社寺局を神社局と宗教局に分け、神社を「非宗教」と明確化した。そして、神道と道徳を接近させ、「道徳 educazione della molarità 」は公教育が担うものとされた。一大家族である日本国民の家長として天皇を崇敬することは国民道徳の基礎とすべきという考え方があった。

 一方、台湾、朝鮮のような植民地において、神社参拝を強要する動き(国家暴力)が生じたが、神道の信仰を強要することは憲法違反だという美濃部達吉のような憲法学者もいた。美濃部の唱えた「天皇機関説」に対し、これは国体に背くという説が生じ、さらに天皇を現人神として打ち出す動きも出た。

 ホトルム(アメリカの民俗学者で、神道研究者)は、戦後のGHQによる神道指令には、聖性と権力・権威を結びつける要素を欠いていると批判した。

 今日でも、戦没者を慰霊するのは当然という考え方があるが、子安宣邦(思想史家)は、戦争を行使する主権国家は「英霊」を祀る国家でもあった、と述べている。

 

〈第1部 国家神道と皇室祭祀と神社〉

 第1章 伊勢論 − 神宮・神話・日本人: 歴代天皇の祖神とされる天照大神を祀る伊勢神宮と、それを権威づける神話は21世紀の今、どうなっているのか? 

 式年遷宮は神社界が憧憬する対象。1945年、神道指令は、神宮を宗教法人とした。国との関係を断ち切られ、天皇とも公的関係をもてなくなった。そのため神宮は、真姿顕現運動[伊勢神宮や神社を、本来あるべき国家や皇室との深いつながりを持った姿へと戻そうとした運動]を開始し、戦前的な関係を多少取り戻した。2013年の遷御儀礼はその成果を表していた。内閣総理大臣安倍晋三も参加した。戦後初のことである。内閣は、安倍本人の個人的参拝とした。この年は、900万人の人々が伊勢神宮を参拝した。おはらい町やおかげ横丁の整備など、観光地化も増大要因の一つである。マスメディアによる遷宮の報道も参拝を煽った。遷宮資金は自己資金、寄付、神宮大麻の初穂料であった。

 近代的神宮にとって画期的であったのは、1869年に明治天皇が伊勢を参拝したことであった。その後、この神宮は、天皇家の祖神を祀る大廟となった。

 維新前、神宮の諸経費は徳川幕府が負担していた。神宮と民衆の間には世襲の神職である御師がおり、参詣の手配や御祓大麻を配布していた。お伊勢参りは、男性が圧倒的に多く、彼らを惹きつけたのは、伊勢の古市遊郭であった。これら風俗的なものは、維新以降一掃され(御師も廃止)、抜本的な改革が行われた。天皇は皇居西の丸の賢所で遥拝を行ない、大祭(神嘗祭と新嘗祭)を年中行事として行なった。

 1886年には神苑会という民間組織ができて内宮・外宮の神苑が整備され、宇治山田市の参宮鉄道や路面電車が敷設された。こうして伊勢の大廟が国家神道の装置として整備されていった。1929年の遷御儀礼の演出により、伊勢神宮は国家権力に関わる装置として革新された。終戦前の日本では96%の世帯が毎年神宮大麻を購入していた。

 

 補論 世界遺産と天皇陵問題: 日本の世界遺産条約は1992年に締結され、1993年には法隆寺と姫路城が、1994年には宇治平等院鳳凰堂が登録された。2019年に登録された百舌鳥古市古墳群49基のうち29基が宮内庁の管轄である。世界遺産の登録には、国内法での推薦が必要である。大山古墳を仁徳天皇の古墳とみなすことは、以下2点の問題がある。天皇陵とみなすことは、史実と神話の区別という点からふさわしくない。文化財として扱われていない。これを世界遺産に推薦した委員と、国内研究者たちの認識にズレがある。だが、第16代仁徳天皇の皇霊は大山古墳と皇居においてなおも皇室祭祀が行われているのだ。

 

 第2章 神社「公の宗教」論の地域社会史: 地域社会と神社・祭礼の関係性について、信教の自由、政教分離に関する考察。神社崇拝を国民全体に強いることはできない。神社は公の宗教ではない。GHQの神道指令は信教の自由の確立と軍国主義の排除、国家神道の廃止、政教分離を目的としているのだから、神社の祭礼への参加を上から権力的におしつけてはならない。

 

 第3章 神々の「昭和維新」− 「理念としての天皇」の行方: [昭和維新という言葉があることを私は知らなかった。]天皇の親政を求める戦前の右翼的思想を表す言葉だという[なぜか私は、ギリシアにて民主主義が崩壊した後、軍隊の擁立によって現われた僭主制を想起した]。

 

 コラム 靖国の現代史 − 慰霊、顕彰そして追悼: 著者のジョン・ブリーンは神道の研究者。靖国神社は、第二次世界大戦後、国家の管理を離れて宗教法人となった。この神社では、戦没者を祭神・英霊として祀り、霊璽奉安祭と慰霊祭という儀礼を行なう。前者は、戦没者の身元が明らかになると、本殿左相殿(あいとの)から本殿正床へ神霊を奉遷する儀礼である。春と秋の例大祭では、天皇から派遣された勅使が登場する。この例大祭では、あの大戦が凄惨暴虐なものであったこと、餓死した軍人が多かったこと(餓死者は戦没兵士230万人の半数以上であったこと、戦没者は軍国主義であった日本国の犠牲者であったこと、が忘れられている。

 今、日本遺族界、戦友会、ともに高齢化のため消滅しつつある。1998年に、靖国神社崇敬奉賛会が設立された。それは、靖国を追悼の場としてきた前者とは目的が異なる。7月のみたま祭の盆踊り、花見などでも人は集まる。8月15日には、戦没者追悼中央国民集会が開かれ、正午に黙祷する。

 2024年の全国戦没者追悼式における天皇のお言葉「終戦以来78年、人々のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、多くの苦難に満ちた国民の歩みを思うとき、誠に感慨深いものがあります」には、戦後の日本の平和と繁栄を築いたのは、戦没者ではなく、戦後の日本人であったとの主張が見られる。一方、岸田文雄首相は同じ式典にて、今日の我が国の平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであることを私たちは片時も忘れません、と述べた。裕仁天皇は、1975年を最後に、靖国に参拝していない。1978年に宮司がA級戦犯を合祀したことに対する抵抗(富田メモによっても明らか)のためである。明仁天皇も参拝しなかった。小堀宮司の退任←天皇は靖国を潰そうとしているという言論。

 

〈第2部 国家神道と学校教育〉

 第4章 国民道徳と神道の関係史: 国体思想に基づく教育勅語は、皇祖皇宗の遺訓を方針とする道徳の教えであった。戦後に失効した。ただし、皇祖は誰か? 天照大神か、瓊瓊杵か、神武天皇か、見解は不統一であった。起草した井上毅は、神道の宗教化に一貫して反対しており、天皇を宗教に超越する絶対的存在としようとしていた。よって、皇位継承の始まりを、神武天皇が即位した紀元前660年とした。

 1935年から、学校教育における宗教的情操教育の導入が議論されるようになった。自由主義的憲法学者の美濃部達吉による天皇機関説が物議をかもし、国体明徴声明が出るに及び、「日本における統治権の主体が天皇にあることは、日本の本質であり、そして大日本帝国臣民の絶対不動の信念である」となった。

 修身の教科書では神道を優先することが方針となり、敬神こそが国民道徳の絶対的な基軸となったのであった。

 

 第5章 「厳粛」な帝国 − 学校における天皇・皇室崇拝: 異民族を包摂する北海道、沖縄、朝鮮、台湾などにおいて、皇室祭祀、神社神道と国体論を結びつけ、学校生活において天皇崇敬が日常的に行われていたかどうかを考察する。

 1890年以降、御真影が公的機関に配布され、学校儀式などで奉掲し、最敬礼を行わせ、君が代斉唱を求められ、教育勅語を奉読することなどがあった。伊勢神宮の大麻礼拝も行われた。ただし、植民地においては御真影は下賜されなかった。

 敗戦後、それらは回収されたが、国旗掲揚、国歌斉唱はなくなっていない。

 

 第6章 小学校児童の伊勢神宮旅行: 1930年代には、小学校児童の修学旅行に伊勢神宮の参拝が行われていた。東京では旅費が高くなるが、保護者会と区による負担があった。経費的に実施困難となり、1939年をピークに減少していった。

 戦後は神道指令により禁止された。

 

〈第3部 国家神道と象徴天皇制の現在〉

 第7章 神かくし時代の大嘗祭 − 近現代の歴史的特質: 天皇就任儀礼である大嘗祭は、即位した天皇への神性付与の儀式である。

 [著者が記している、江戸時代の国学者が記紀神話を「発見した」というのは間違いである。日本書紀はずっと読まれてきた。一方古事記の方は文体が難しく隠れた存在であったので、国学者たちにより、解読されて読めるようになり、武士や一般庶民にも読めるような書物となったのである。]

 [また、初詣、七五三、神前結婚式、地鎮祭は明治時代につくられたとあるが、明治時代に作られたのは神前結婚式(明治33年)のみ。初詣は平安時代にはもう行われており、七五三は江戸時代に始まったもの、地鎮祭はそれよりはるか以前7世紀から存在していた。ただし1872年にグレゴリオ歴が採用され、正月が1月1日となり、三が日に初詣する習慣が広まった。]

 主基斎田抜穂(すきさいでんぬきほ) の儀について。2019年に行われた。大嘗祭は、天照大神の再生の儀式(共食を通じて神になること)、天皇による全国統治の服族儀礼であり、その儀式次第をそのままに、現代では農耕祭祀となった。これを筆者は虚偽であり、「神かくし」であり、政教分離を誤魔化しているので違憲だとしている。

 これらの儀式に京都府知事らが公金を用いて臨席したことは、政教分離を旨とする憲法違反だとする。

 

 第8章 全体主義の時代における国家神道体制: 敗戦前、台湾や朝鮮において神社を参詣するよう圧力をかけ、威嚇したことがあった。1930年代は特に、皇室祭祀や神社にかかわる儀礼が、世俗的な公教育との結合が促進され、国家神道体制のもとで、宗教的・民族的マイノリティへの暴力的迫害があった。国家神道体制を解体することは、現代人の責務である[なんと大袈裟なことか!! ]。

 

 第9章 日本国憲法における天皇制と政教分離原則: 日本では敗戦後、GHQの占領下、象徴天皇制、政教分離を謳う憲法が制定された。この原則をふまえ、2019年に行われた即位の礼、大嘗祭などが合憲かどうかは注視すべき問題である。

 

 コラム 現代の国家神道 − 弁護士の視点: 昭和天皇没後の即位の礼・大嘗祭違憲訴訟、小泉靖国参拝違憲訴訟、合祀イヤです訴訟など、いくつもの政教分離訴訟を手がけた弁護士による、国家神道に対する警戒的視点の文章。

 

 先日、JFGの研修で、高木博志先生のお話を聞いた。今のエレガントな京都とはぜんぜん違う、100年前まで遊女が稼いだ花街と、穢多非人・在日朝鮮人の部落であった崇神地区など、興味深かったので、もう少し、京都の裏話を知りたくなったのである。

 この本のすべてが面白かったわけではないが、新京極、先斗町、祇園について、知らなかったことが多々あり、読んでよかったと思った。メモる。

 

 はじめに: 京都へは2014年当時、5500万人の観光客が訪れ(50年前は2000万人だった)、アメリカの旅行雑誌 Travel + Leisure は世界で最も人気の観光地に選んだとのこと。 三人の著者たちは、近代につくられた京都のイメージではなく、地方史、女性史、部落史の視点も必要だと説く。

 

 第Ⅰ部 都市に生きた人びと

  第1章 室町と山鉾の道: 京都御苑の西側を走る室町通は、足利将軍の室町第(むろまちだい) があった所から南に延び、上京と下京を結ぶ目抜き通りであった。室町第は応仁の乱で全焼した。室町通には町家が建ち並び、現在も7月の祇園祭[悪疫退散の御霊会]の山鉾が33基立ち並ぶ。この界隈の裕福な商家の後援によるものだ。御池通が拡張されたことにより、祇園祭の賑わいは南に留まってしまった。

 室町通の一本東を走る烏丸通は1910年に拡幅され、目貫通となった。錦小路のあたりにあった明倫小学校は教育と裕福さの証しであり、その跡地は今、芸術センターとなっている。その北の三条通は、東海道の西の入り口。了頓図子。観音堂図子(撞木の辻子)。いずれも今は飲食店街となっている。

 

  第2章 開化と繁華の道: 京都の文明開化は、芝居小屋などの立ち並んだ新京極と、ホテルや西洋料理店に外国人の集まった円山公園から始まった。

 1872年、西本願寺、建仁寺、知恩院の3会場にて京都博覧会が催された。これにあわせて、祇園新橋の「松の屋」にて都をどりが始まった。祗園甲部の井上流の踊りである。千宗室による立礼式の茶の湯も考案された。知恩院の門前に骨董街が発展し、娯楽興業施設を集めたモダンで大衆的な繁華街、新京極がつくられた。誠心院(じょうしんいん) と蛸薬師堂。錦天満宮。女性説教師の養成所であり、芸人に信奉されている誓願寺。金蓮寺(こんれんじ) は時宗四条派の総本山であったが衰微して移転した。安産の染殿地蔵。その他、この寺町界隈には多くの寺院があった。

 祇園御旅所。かつて公許の遊郭であった先斗町では鴨川をどりが始まった。矢尾政レストランは戦中西洋料理が禁止されたので、中華料理の東華菜館となった。

 四条大橋について。南座について。北座は四条通拡張により撤去された。

 祇園は、祇園社の参詣道にあった花街。1956年の売春防止法以前、公娼制、人身売買という歴史的な現実があった。祗園甲部は芸妓・舞妓が多めで娼妓が少なめ、祇園乙部は娼妓が多めであった[七条新地、島原などは娼妓がたくさんいた]。祇園女紅場について。芸娼妓解放令について。明治時代の女紅場(にょこうば)について。京都五花街について。

 円山公園: もとはいくつかの神社仏閣の境内であったが、廃仏毀釈により明治政府に没収され、1886年に公園となった。安養寺の塔頭があったあたりには茶店や料亭があって賑わっていたが、明治時代には外国人を泊めるホテルや洋食屋ができ、文明開化の象徴となった。周辺には京都ホテル、都ホテル、世阿弥ホテルができ、美術商が骨董を商った。

 

  第3章 清水坂の歴史と景観: 五条坂・松原通の界隈は、清水寺への参詣路でもあり、病や飢えに苦しむ人びとの居住地でもあった。松原橋は旧五条橋。中世以降、そのたもとには長棟堂(ながむねどう) というハンセン病や疥癬病の収容施設 lazaretto があった。17世紀になるとそれは清円寺となった。

 坂を登ると、冥界への入り口、六道の辻にある六道珍皇寺がある。さらに登ると、三年坂、五条坂との合流地点となる。仁王門の手前にあった子安の塔は1911年、本堂南方に移動された。

 

  第4章 キリシタンの道: 京都にも南蛮寺があった。ガスパル・ヴィレラ神父が足利義輝から允許を得たのである。だが1596年のサン・フェリペ号事件以来、キリスト教布教は弾圧を受ける。→26聖人の殉教。耳削ぎの刑。京都にかくれキリシタンの墓碑が発掘されている。大阪府茨木市の下音羽地区は隠れキリシタンの地。

 

  第5章 鴨東開発の舞台: 京都市動物園にあった法勝寺八角九重塔は11世紀に建てられ、高さ80m以上もあった。1890年に琵琶湖疏水が引かれ、平安遷都1100年の博覧会が行なわれ、岡崎の地は発展した。南禅寺の水路閣。

 

 第Ⅱ部 京の歴史が動くとき

  第6章 大礼の道: 烏丸通は、京都御苑への行幸路として拡張整備された。鹿苑寺は15世紀に外国使節を迎える御所であった。鴨川沿いでは多くの貧民が亡くなった。

 廃仏毀釈により多くの寺院が困窮した。

 大正大礼の時(1915年)、京都御苑で即位式。大嘗祭が行われることとなり、それを契機に東京駅(1914年)、京都駅、行幸通などが整備された。

 江戸時代の京都観光では、公卿門の傍らにあった檜垣茶屋に陣取り、異形の公家たちの参内を見物する人が多かった。武士は御所の正門であった中立売御門から参内した。今は、丸太町の地下鉄駅に近い閑院宮邸跡から入るのがお勧め。

 

  第7章 「日本国王」の道: 足利義満は将軍職を子の義持に譲ってから、京都北山に北山殿を建てた。平安京となる以前、この地はもともと秦氏の開発地であった。北山殿には110m(?)の七重大塔があったが、1416年に落雷で焼失した。

 北野天満宮について: 10世紀の創建。足利義持が千本の桜を植え、桜の名所であった。足利将軍家の庇護(宗教的・政治的・経済的な複数の理由から)により荘園が増大した。社殿は豊臣秀頼による再建。

 等持院には歴代足利将軍の木像が安置されている。足利三代の木像梟首事件: 幕末、尊王攘夷派が足利尊氏、義詮、義満の3人の首とその位牌を奪し、三条河原にさらした事件があった。犯人たちは幕府により逮捕された。

 

  第8章 災害の痕跡を歩く: 鴨川の河原は、洪水、飢饉、疫病で死んだ人々の死体が累積する場であった。白河上皇は、天下三不如意の一つが「鴨川の水」とした。三条大橋を、五条大橋とともに石柱の橋にしたのは豊臣秀吉(これらの橋桁は平安神宮の神苑に再利用されている)。河原の居住環境は劣悪であった。飢えた人々が集まり、死体が集積し、死者は四条、五条の橋のたもとに埋められた。祇園御霊会(祇園祭)は、疫病を退散させる牛頭天王(スサノオの本地とされた)を祀る祭礼。

 

  第9章 志士の道: 京の豪商、角倉了以が開削・支配した高瀬川は、米や薪・炭を運ぶ高瀬舟のための運河であった。樵木町(こりきちょう)などの町名が生まれた。20世紀になると、都市計画議論の中で、高瀬川の舟運が廃止されたが、保存運動が起こり、三条以南の木屋町通が形成された。三之船入、四之舟入。

 六条河原には、埋葬や清掃、皮革業などを営む被差別民の集落(六条村) があった。七条通の南東部にあたるこの集落には生活困窮者や在日朝鮮人なども蝟集し、崇仁神社にちなみ、崇仁地区(27ヘクタールに一万人ぼと)と呼ばれ、ガス・水道などのインフラ面などでも差別され、そのため自分達で設立した柳原銀行があったが、居住者は団地に移転し、京都芸大のキャンパスが移転してきて、状況は改善されている。

 

  第10章 学都京都を歩く: 京都御苑周辺にあった公家や皇族の邸宅は今、同志社大学などの学校に変わっている。鴨川左岸の文京地区: 今出川通の南側には1893年に京都帝大ができた。新進堂。

 

 第Ⅲ部 人が行きかい、物がめぐる

  第11章 朝鮮通信使の道: 豊臣秀吉の朝鮮出兵と、徳川政権の講和。朝鮮通信使の宿舎は当初、大徳寺[その塔頭、総見院は織田信長の菩提所]であった。捕虜7000人が返還されたが、数万に及ぶ捕虜の一部に過ぎなかった。1636年からの宿舎は、当時は五条上ル、西本願寺に近かった本圀寺となった。一行は、方広寺大仏殿と耳塚に案内された[悪趣味!?]。

 

  第12章 牛馬の道: 東海道についてなど。

 

  第13章 古典文学と嵐山・嵯峨野の近代: 嵯峨野は『平家物語』『源氏物語』を追体験する古典文学の世界とみなされている。

 大堰川岸のソメイヨシノは近代の桜。嵐山の山桜は王朝文化時代に起源する。天龍寺の歴史は9世紀の檀林寺にさかのぼり、鎌倉時代に後嵯峨天皇が亀山殿を築き、14世紀半ば、足利尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため天龍寺を建立した。

 清涼寺は、源融の別荘であったところに、奝然が建立を企て、弟子が11世紀に建立した。応仁の乱の後、15世紀に再興された。

 祇王寺は、平清盛の捨てられた白拍子の祇王と妹、母、祇王が追い出された原因となった白拍子の仏御前の4人が隠棲した寺。明治時代に京都府知事北垣男爵により再興された。

 野宮神社は、『源氏物語』の10章「賢木」の舞台。

 落柿舎は、松尾芭蕉の弟子の別荘。

 

  第14章 幽棲と共生の里を歩く: 叡山電鉄鞍馬線(1929年開通) の岩倉という土地について。京の七口の一つ、大原口にあたる出町柳は、洛中から洛外への抜け口であった。岩倉具視が、大政奉還まで謹慎させられて幽棲した家があり、密かに維新の志士らが訪れていた。大雲寺について: その香水は狂人や眼病に効くとされた。→私立岩倉癲狂院の設立(1884年)。

 

  第15章 「京都らしさ」と宇治: 宇治平等院、宇治上(がみ) 神社。茶畑の景観。中村藤吉本店。橋姫神社。『平家物語』と『源氏物語』宇治十帖の舞台。壬申の乱にもかかわっていた。幕府への宇治茶を献上する行列: お茶壺道中について(1867年まで行われていた)。

 

 増上寺には、二代将軍秀忠の霊廟があった。三代将軍家光が建立したもので、第二次大戦の空襲により焼失したのであるが、その模型が明治時代に制作され、1910年にロンドンで開催された日英博覧会に出品後、英国王室に贈呈された。これは分解されて行方知れずとなっていたが、建築史家ウィリアム・コールドレイク氏により20年がかりで再び組み立てられ、英国側から今増上寺に貸し出され、徳川家康没後400年を記念して、本堂地下にて公開されている。

 ちなみに、日光東照宮の1/10の模型は今、高山の屋台会館付属の日光桜山館にある。日光東照宮を「日本の美と飛騨の高度な建築・彫刻技術の象徴」として国内外の博覧会で広く紹介・公開する目的で大正時代に15年かけて製作されたもので、第二次戦後アメリカに渡り、長い間アメリ力全土を巡回公開された後、再び日本に戻り、こちらに設置された。こちらもすばらしい作品である。

 

 

 

 

 

 

 

 この本は児童文学として子供の時に読んだような気がしていたが、去年、竹山道雄を岳父とすることを誇る平川祐弘先生の自伝を読んでから、きちんと読まねばと思っていた。1947年から翌年にかけて童話雑誌「赤とんぼ」に連載され、1948年に中央公論社の単行本として出版され、同年毎日出版文化賞を受賞、1950年に文部大臣賞を受賞した。1956年と1985年に市川崑監督により映画化された。

 あらすじはWikiに掲載されているので省く。

 

 この文庫本の巻末には、著者による「ビルマの竪琴ができるまで」、「あとがき」、さらに中村光雄による解説、平川祐弘による「『ビルマの竪琴』余聞」が載っている。ビルマでの激戦で30万の死者とあった。これを書き始めた時は創作で、書きながら取材と肉付けをしていったとはびっくりである。ビルマのニシキヘビ、悪夢に出てきそう。著者は、音楽が好きで、子供の頃にインコかオウムを飼っていたようだ。

 ともあれ、これは誰もが読むべき、不朽の小説だと改めて思った。

 

▼ Youtubeで見られるかなと思ったら、なぜかイタリア語の吹き替え版しかなかった。

 

 上巻より続く。

 

 第13章 川上操六と師団増設: 日清戦争と、痛恨たる三国干渉の後、軍備拡張は輿論であった。問題は財政であった。ロシアを仮想敵国とした場合、兵力は不十分であった。山県有朋は、東洋の盟主を以て任ぜんとするならば、兵力の拡張を要す、と奏聞した。

 三国干渉の某主をロシアとみなした大本営幕僚主席、川上操六は、プロイセンの陸軍軍人モルトケと比較された(川上はドイツ留学でモルトケに兵学を学び、軍は政治の党派や潮流から独立していなければならない、熟慮してから断行、と説かれた)。その人物評。伊藤博文からも贔屓にされた。三河平野にて陸軍特別大演習の実施。日清戦争(1895年) 後の軍備拡充計画。

 川上、河野弘中に、1ケ師団兵数倍増計画に基づく6ケ師団増設計画を6年で完成させると話す。実際は5年で完成させるとし、河野に協力させる。

 政府はこの陸軍海軍拡充案は議会を通過する。その成果は、北清事変に現われた。川上は1898年、陸軍大将となるも、1899年、52歳で病死する。諜報を重視し、広瀬武夫をロシアに派遣したのも川上であった。川上の対露作戦を継いだのは、田村恰与造(いよぞう) 中将、児玉源太郎中将であった。

 

 第14章 北清事変: 日清戦争後、列強は猛然と牙を剥き出し、中国の弱みにつけこみ、利権獲得に乗り出した。ロシアは、ウラジオストックまでの鉄道敷設圏を得、旅順・大連を租借し、極東侵略を露骨にしてきた。ドイツは膠州湾を占領し、青島経営に乗り出した。フランスは中国南部において安南鉄道の延長や雲南・広東などの鉱山採掘権を獲得し、広州湾の租借権を延長させた。イギリスは、威海衛と[香港の]九龍を租借し、その他、鉄道や税関における特権を得た。アメリカも然り。

 このような列強の蚕食に対して猛烈な排外「仇教、滅洋」の風が起きる。義和団の乱である(1900年〜)。

 北京籠城: 3万の匪賊に包囲されながら、公使館区域を死守した出来事。公使館の書記生が殺害されるなど、各国の救援隊がやってくるまで、食糧尽きての籠城は60日間に及んだ。柴五郎は匪賊の一人(張徳麟)を密偵として雇い、天津の救援軍に連絡を入れ、成功した。列強は日本軍を頼りにした。日本は第五師団を動員した。北京開城とともに西太后は西安に逃亡した。北京に入城した各国兵は略奪をした。西洋の兵隊は、戦争を日本にやらせ、自分たちは分捕り専門にかかった、特にひどかったのはフランスの兵隊であった、フランス兵による通州での婦女暴行は人間業とは思えなかった、日本軍は軍規厳正、精錬であり、「日本軍は支那人の保護者にてありき」、正直すぎたとの評はしばしば耳にした、日本軍の品位は列国の間に無言の中に重んぜられていた、支那民衆の間に大きな信頼の念を植えつけた、日本への賠償は各国への賠償の1割にも満たなかった、とのこと。

 着々と侵略の歩を進めるロシアの南下は、ここに日本の決定的な決意を要求したのである。

 

 第15章 対露強硬論と七博士: 陸軍参謀本部は、ロシアの動きをひじょうに憂慮していた。特に、対馬海峡に面した釜山のあたりにロシアが軍港を得たら日本は必敗だと考えていた。事実、ロシアが鎮海湾に近い馬山浦を狙っていることがわかると、日本は商人にその界隈の土地を買収させ、阻止した。ロシア膺懲の世論は高まった。

 外務省の山座円次郎は、軟弱外交の親玉、伊藤博文を叩き殺さにゃいかんと放言したほどである。明治36年末の第19議会開院式では、車駕親臨のうち、議長の盤洲河野広中は、桂内閣弾劾の奉答文を読み上げ、可決した。蜂の巣をつついたような大騒ぎ。これをロンドンタイムスは、ロシアに対する明白な警告だと評した。

 民間では対露同志会が結成され、ロシアとの対戦論を謳っていた。

 これに歩調をあわせ、対露強行論を推進したものは「七博士」であった。帝大と学習院の法学者たちが桂首相に建議書を提出し、首相に意見し、新聞に寄稿し、輿論を煽ったのである。日露戦争における溌剌たる団結は、上からのものではなく、国民の間から盛り上がった組織であった、と筆者は述べる。

 

 第16章 日露開戦: 明治37年(1904年)2月、仁川沖にて、日本の連合艦隊はロシア艦隊コレアツ、ワリヤーク号を撃沈、日露戦争が始まった。それに至るには、日英同盟、満洲還附条約など、外務当局の折衝と工作が先行していた。だがロシアが撤兵するとは思えなかった。伊藤博文と桂太郎内閣の妥協。そしてロシアは朝鮮に侵略の手を伸ばしてきた。日本は朝鮮では絶対に譲ることはできなかった。明治天皇に裁可を仰ぐ一方、イギリスから軍艦2隻を購入する。ロシア側は、朝鮮に中立地帯を設け、互いの縄張りを決めようと回答してきた。残る問題は勝算の有無であった。

 国力は明らかに不足していた。ロシア側は対日戦争を始めるという情報が入り、参謀総長大山巌は明治天皇に軍の態度を伏奏した。御前会議が開かれ、満場一致で、ロシアに国交断絶の旨を通達することとなった。陸海軍人は翌日勅諭を賜る。

 財政問題は、内債の募集と外債の成立により解決を計った。

 金子堅太郎伯が、日本の立場をアメリカ世論に訴えるべく派遣された。伯はルーズベルト大統領とハーバード時代の学友であり、媾和のための予備交渉にあたるに適任と思われたからである。その金子伯に、陸軍の勝算は六分四分、海軍は五分五分と答えた。伊藤博文は、伊勢への戦勝祈願に際し「臣は是れ忠狂、世疑うこと勿れ」と詠じた。日本国民は皆、忠狂[主君や国家への忠義、またはその情熱が度を越している様子]であった。

 

 第17章 児玉総参謀長: 1903年、優れた戦略家、参謀次長田村恰与造(いよぞう)が肺炎のために他界、大山巌(蝦蟇入)のためと、その後任に児玉源太郎がなる(台湾総督を兼任のまま)。内務大臣であったのだから降格であった。それからは連日、対露作戦会議。ドイツから招聘された兵学教官メッケルの児玉評価[台湾では官紀粛清を断行し、後藤新平長官のもと台湾の開発計画を推進した]。

 明治37年(1904年)、日露国交断絶。仁川沖海戦、鴨緑江会戦・・・乃木希典、第三軍司令官に親補され、旅順を目指す。乃木と児玉の親交について[坂の上の雲で、高橋英樹の演じた児玉源太郎と、柄本明の乃木希典を思い出す]。

 満州軍総司令部の設置: 1904年(明治37年)年6月、大本営の指揮下に作戦軍の高等司令部として設置され、総司令官には大山巌が、総参謀長には児玉源太郎が就任した。

 第三軍の旅順攻撃は第一次第二次とも失敗していた。金州南山の防備は固く、砲弾が不足し、兵站船は撃沈されていたのである。乃木希典、日本を発つ。ただ、28センチの巨砲のみが頼みであった。この移送を求めた伊知地幸介について。この海岸防衛用の巨砲を内地の沿岸部から移送し、設置するのだ。

 二百三高地(二子山)について。その必死の攻防戦。2度奪回されつつも、屍山血河の争奪戦。6艦を撃沈。敵の死者5400、味方の死者3200、負傷者8000、28センチ砲は2300発を放った。1905年、司令官ステッセルは開城を乞うた。

 陣歿将士の慰霊祭。乃木将軍の息子たちも戦没していた。第三軍の生き残りは北進を続け、軍司令部は旅順を去った。

 

▼ 下記のサイトにある日露戦争の経緯を示した地図を貼らせていただく

 

 第18章 奉天会戦: 北満の地、奉天の南方で日本軍の砲弾(28センチ榴弾砲=11インチ攻城榴弾砲)が音を立て、奉天戦の始まりを告げた。日本軍の兵力249000、ロシア軍兵力367000、ロシア砲1219門、日本砲992門。日本軍は劣勢なるも不敵に包囲殲滅戦を採る。日本軍は少ない兵力でロシアの右翼を迂回。これは予想外。翌日、日本軍の砲声は奉天の背後に響く。クロパトキンは乃木を神経衰弱のように警戒しており、ロシアの左翼に現われた新編成の鴨緑軍を乃木の第三軍だと思い、兵をそちらに移動してしまった。乃木軍はしかし、ロシアの右翼を迂回し、奉天城を後方から包んだのであった。第三軍の迂回運動は猛烈な旋風であった。それを、攻撃が鈍いと児玉に叱咤された。一方、クロパトキンは敗戦を予知し、退却を決心した。退却列車が次々に北上。黄塵の吹き荒ぶ中、きな粉餅のようになって追撃戦。奉天が陥落したのも知らずに、第三軍は戦い続けていた。ロシア側の死傷者は96000、日本軍は70000。敵の捕虜は21000。寡兵と弾薬不足の中、勝ち取った戦果であった。東洋人が西洋人を叩きのめしたことは意味の深いことであった。

 

 

 第19章 日本海海戦: 1905年、ロシアは極東において戦艦7隻、装甲巡洋艦10隻、その他小艦艇を加えて計199000トンを擁していた。それが仁川で巡洋艦を2隻失い、旅順口で戦艦3隻を失った。そこで、バルト海にあった精鋭艦隊を極東に派遣することを決めた。さらに石炭を満載した汽船数十隻を配置した。バルト海を出たこの艦隊は、英国船に対する誤砲問題を起こして監視並航され、日本に動きを知られた。

 50隻の大艦隊が、日本海に面したウラジオストックの軍港に向かい、疾走する。東郷平八郎は、島村と秋山に、バルチック艦隊はどこを通ると思うかと聞かれて「それは対馬海峡よ」と言い切っとされているが、東郷は敵が対馬海峡を通ると確信していたわけではなく、島村らの意見を聞いて津軽への出発(密封命令)を1日延期していた。

26日午前零時5分、「バルチック艦隊の運送船が25日夕刻に上海近くに入港した」との電文が大本営に入ったため、待ち伏せ場所を津軽沖とする密封命令は破棄された。

 5月27日午前5時、日本の哨艦がロシア艦隊を発見。司令官は東郷平八郎。「天気晴朗なれども波高し」の第一報が大本営に飛ぶ。海上は濛気のため5浬[9260 m]とは視界がきかなかったが、第五戦隊、第六戦隊が敵艦隊と接触し、逐一敵の模様を詳細に報告してきた。日本海海戦における丁字戦法(左右両舷に6~7門ずつある副砲の方が命中率が高く、間を置かずに撃てるという秋山の作戦だが、日本海軍の定石であった)。連合艦隊の旗艦「三笠」が敵前回頭(東郷ターン)、その3分後に旗艦「スウォーロフ」が距離7000メートルで三笠を砲撃、だが東郷はギリギリまで接近しつつ、標的とならない距離を保って回頭したものであった。バルチック艦隊の主力艦はみな高波に弱かった。27日の夜戦は日本の奇襲艦隊の独り舞台であった。日本海海戦は一昼夜で終わり、ロジェストウェンスキー司令長官は重傷を負い、捕虜となり、佐世保に移送された。海上権力を失ったロシアは媾和を覚悟する。

 

 

 第20章 ポーツマス会議: 明治38年(1905年)、6月、日本政府はルーズベルト米大統領の媾和提議を受諾した。会議と調印は、英国ポーツマス軍港の小都市で行われた。全権委員は外務大臣小村寿太郎(ハーバードに留学し、驚異的な記憶力の持ち主)。ロシア側のウィッテはまるで戦勝国の代表然として、威張っており、ロシア本国も同様であった。媾和決裂は必定とみえたが、日本政府は媾和を成立させるべしと言ってきた。その後の会議で、樺太半分、賠償抛棄をウィッテは承認する。

 結果、日本は、樺太島(サハリン島)の南半分、満洲南部の鉄道及び領地の租借権、大韓帝国に対する排他的指導権などを獲得したものの、戦争賠償金を獲得することができず、世論から嵐のごとき避難攻撃を受けた。

 そしてアメリカには日本に対する警戒心が生まれた。

 ハリマン協定: ロシアから得た南満州鉄道の共同経営をアメリカの鉄道王ハリマンが提案してきたのを政府を受けてしまっていた。小村はこれを叩き潰すことを決意。諸元老を説得し、これを破棄させた。ハリマンは猛烈なる復讐を現わす。

 

 第21章 明治の終焉: 日露戦争の勝利は、東アジアにおける日本の指導的地位を全世界に示すこととなった。日清・日露の戦争により、日本は、大韓帝国(朝鮮) の独立を保護し、半島に伸びる第三国の魔手を脅威として、国運を賭して戦ったのである。日本は韓国の宗主国となると、インフラ整備や産業促進、学校教育の促進など、この国の近代化を図った。

 日本の外国政策、大陸政策の将来について、伊藤博文と後藤新平は談論した。後藤は伊藤に西太后に会って、自衛の目的から大アジア主義を説き、東洋の再建を図るよう進言した。中心勢力を失った支那よりもむしろ、ロシアのココツェフと会うのがよいという話になった。こうして、伊藤はココツェフと会うべく、出発したが。7月15日、ハルビン駅で凶弾を受けて他界した。

 [1910年に日本は朝鮮を併合することとなる。]

 

 今さらながら、西欧列強のアジア蚕食を食い止めるべく、明治時代の日本人がいかに粉骨砕身したか、GHQが焚書としたこの本により思い知ることができた。