イタリアでの夏休みの帰国便(ITA)の中で『La Città proibita』という2025年公開のイタリア映画を見た。ガブリエレ・マネッティ監督の力作である。 アクションでもあり、サスペンスのようでもあり、社会派ラブコメディーのようでもある。すばらしいとは言わないが、それなりに面白かった。

 映画の舞台となっている首都ローマのテルミニ駅南方、エスクィリーノ地区は今、カオスな移民地区となっており、ヴィットリオ広場では中国人が太極拳やカンフーをしているそうだが、私は自分の目ではまだその様子を見に行ったことはない。だが、かつてのイタリアンレストランの多くが中国人の経営する飲食店や衣料品店に変わっており、混沌としたアジア・アフリカ・アラブの移民地区と化しつつあるようだ。映画のタイトルは、この地区で中国人オーナーが経営する「紫禁城」というレストラン・賭博場・売春窟の総合施設の名前からきている。

 [今回の休暇ではローマに長く滞在しなかったので、その界隈に近づくことはなく、やはり市心や旧市街のカンポ・マルツィオを散歩して過ごした。この映画を入国便で見ていたら絶対に訪れていたことだろうが・・・]

 余談: 監督は折り紙の鶴を使っていたが、これって日本のイメージではないの?

 

 ▼ Wikipedia イタリア版 

https://it.wikipedia.org/wiki/La_citt%C3%A0_proibita_(film_2025)

 

 ストーリー: 主人公のメイは、一人っ子政策(1979年から2014年まで実施されていた)のあった時代の中国に生まれ、姉とともに親からカンフーを習っていた。娘が二人いることは秘密にされ、姉は成人するとイタリアに出稼ぎに出て行方不明になり、メイは姉を探しにローマにやってきて「紫禁城」へ潜入する。同じ地区には、アルフレードというイタリアンレストランがあり、オーナーは惚れた中国女(メイの姉) の身柄を自由にするために自分のレストランを手放すことにしたが、その契約の場に旧友が現われ、阻止しようとする[ネタバレなので書かない]。紫禁城のオーナーはその場で死んだアルフレードとメイの姉の亡骸を郊外に埋める。メイは紫禁城での格闘で傷つき、アルフレードのレストランの裏口で倒れていたため、アルフレードの息子マルチェッロのもとで傷を癒すこととなる。メイとマルチェッロは埋められていた彼女の姉と彼の父の遺体を掘り起こすことになり、「紫禁城」のオーナーに対する復讐を企てる。

 [ネタバレ; いちばん悪い奴、マルチェッロの仇は両親の友達であるアンニバルであった。この人はこの移民地区の移民たちをも牛耳っていたのだ。紫禁城のオーナーの中国人はただの親バカだったのに、ちょっとお気の毒かも]

 倒れていた彼女を見つけたイタリアンレストランのコックはアラブ人のようなインド人のような移民で、今のイタリアの混沌とした移民地区の様子がまさしくリアルに描かれている。メイが追う「紫禁城」の中国人オーナーの息子はイタリアで人気のラッパー歌手 Maggio という設定なのだ。マルチェッロとメイが仲良くなって、スクーターで夜のローマを走り回り、夜のフォロ・ロマーノに入り込む場面は、「ローマの休日」夜景版といったところ[ローマという都市は格別である。2800年の歴史が累積し、独特の魅力を放っており、夜に散歩するとタイムスリップ感がある。だが、2026年初夏現在は、ナヴォナ広場もヴェネツィア広場も、工事の足場が目立った]。

 

 でも、次にローマに行くことがあったら、Nuovo Mercato Esquilino、Giardini Nicola Calipari  (マリウスのトロフィーという古代遺跡がある) を訪れてみたい。

 あと、主人公メイの家があるのは、西逓村という(南京に近い安徽省)場所のようだ。世界遺産のようで、あまりにすてきなので、これも訪れてみたいと思った。

 トレーラーよりスクショ

 

 主人公のメイを演じた女優 Yaxi Liu (リウ・ヤーシー)はプロのスタントウーマンだそうだ。動きにキレがある。『キングダム』や『ムーラン』にも出たとのこと。

 

 日本でも先月上映されていたようだ。どこかで配信されることだろう。

 

 

 この展覧会は4月からやっていたが、ガイドの仕事が忙しくて見そびれていた。もうすぐイタリアへ行き、帰国は6月7日、展覧会は6日に閉幕である。なので気合いを入れて一人で見に行ってきた。結果は大満足であった。終盤にもかかわらず、たいへん混んでいて盛況であった。当日券購入には行列ができていたので、オンラインで買って入った。会場は広い。展覧会は5章建てとなっている。メモる。

 

 第1章 日本の森英恵 ヴァイタル・タイプ: 新宿のひよしや時代からの話。これは再現ドラマなどでもお馴染みの、映画の衣装や日本の芸能界とのことなど。

 

 第2章 アメリカの森英恵: ニューヨークへの進出は有名であるが、ここの展示で必見、感動ものであったのは、ニューヨークにおけるプロモートのため、1969年に制作されたPV 映像である。20分だが席を立つ気にならないほどすばらしい。写真家の奈良原一高、グラフィックデザイナーの田中一光、映画監督の成島東一郎による共同監督である。日本的な歌舞伎や和服の生地と森英恵の作品が交錯し、後半は森の衣装を着たモデルが、都内の高速道路をバイクで走り、工事現場の足場に乗り、ところどころ江戸城が映ったりするシュールでカッコいい作品である。

 

 第3章 ファッションの情報基盤を作る ー 出版・映像・表現の場作り: この頃はもう森英恵の企業はグループ会社となっおり、有名な流行通信のほか、長男の顯さんは、アンディー・ウォーホルと組んで STUDIO VOICE WWDジャパンを出版したり、株式会社インファスを立ち上げたりしていた。丹下健三のつくった青山のハナエモリビル(トイレが少なかったなあ)、定期的に来日しては、そのショーウィンドウのディスプレイを手がけたロバート・カリー、田中一光のデザインによる The Best FIVE のポスターやチケットもカッコよかった。アルマーニやフェレ、ビビアン・ウエストウッド、ベルサーチェらもハナエモリビル5階のザ・スペースでショーを行ったものであった。森英恵の会社はモード界を牽引し、あらゆるジャンルのクリエーターを統合して原宿・青山・表参道から文化を発信していた最も輝かしい時代であった。

 

 第4章 フランスの森英恵 オートクチュール: 森英恵がパリのオートクチュール組合に加入し、アトリエを構えたのは1977年である。皇太子殿下と結婚した雅子様のウェディングドレスは記憶に鮮やかである。[余談-私的つぶやき: 私は入社してまもない時に、パリに出張させてもらえた。午前中はショーを手伝い、午後はルーブル、ヴェルサイユ、フォーブル・サントノレ、クリニャンクールなど、パリの街歩きを楽しむことができたことを思い出す。そのためにフランス語教室にも通っていたのだが、ものにならなかった。]

 

 第5章 森英恵とアーティストたち: 写真家の奈良原一高、グラフィックデザイナーの田中一光、画家の横尾忠則、演出家の浅利慶太、ソプラノの佐藤しのぶ、多様なジャンルの方々とのコラボ。

 

 スポットで、インドや中国との仕事、 JALなどの制服、フランスのVOGUE誌のグラビアなど、さすがである。

 

 エピローグのコーナーでは、長男の森顯とその妻パメラと子供たち、ショーの演出家のマキシーン・ヴァンクリフ、クリエティヴ・ディレクターの小池一子などのトーク動画が流れている。これがけっこう面白かった。

 右側に森賢会長と顯さん

 

 

みなさんのnoteの記事、写真がきれいで、レポも面白い。

 

 

 

 渡辺真弓先生の『イタリア建築紀行』の中に、先生はシチリアへ行ったのにアグリジェントに行かなかったのは、この小説を読んで怖くなったからだとあった。そんなアホなことがあるものか、と読んでみた。フォースターは1879年生まれだから、遺跡の状態は今と少し違うかもしれないが、ピランデッロが生きていた頃と似ていたはずだ。

 旅の一行は、泊まりたかったホテルが満室のため、エンペドクレスというホテルに投宿したが、いまいちであった。遺跡でまどろんだあと、一行の一人が、前にここに住んでいたと言い出し、結局精神病院に入れられてしまう、という話である。作家が考古学をきちんと学んでいたことが、アグリジェントの神殿にはしっくいが塗られていたという行からもうかがえた。

 登場人物たちは典型的な嫌な感じの昔ふうスノッブなイギリス人たちで、この短編集を読破する気にはなれなかった。そういえば『眺めのいい部屋』もへんな映画であった。

 アグリジェントの良さは、神殿群が白大理石ではなく、地面と同じ色の砂岩系凝灰岩でできていて、田園風景に溶け込んでいるところではあるまいか。あの広大な遺跡はやはり歩いてみて初めて感慨深いものがあると思う。

 

 

 著者は西洋建築史、特にパッラーディオを専門とする研究者である。この本は、ゲーテの『イタリア紀行』の足跡を辿りながら7都市を巡るという企画とのこと。ゲーテは古代遺跡は好きだが、教会建築などは軽視するという思いっきり変わった、好き嫌いの激しい旅行者だから、ゲーテの旅行記は一般人向けではない。著者はそれを補い、現代の見どころについても多少言及している。建築や歴史に興味のある学生などには良い案内書となるであろう。

 

 序章 君知るや南の国: ゲーテのイタリア旅行について。ゲーテの生い立ちについて。父、ヨハン・カスパール・ゲーテと、その著書『Viaggio in Italia』について。

 森鴎外の訳した「君よ知るや南の国〜」で始まる「ミニョンの歌」。

 

 第1章 ヴィチェンツァ: ゲーテはミュンヘンから、ガルダ湖畔を経由して5日後にヴェローナに入った。私も何度か訪れており、アレーナで、ドミンゴが振った『アイーダ』を見に行ったことがあるが、豪雨が降ってきて上演中止になり、バッグの中まてせずぶ濡れになったことを思い出す。ゲーテはロマネスク様式のサン・ゼーノ聖堂をパスした。中世の教会嫌悪症なのだ。ゲーテの時代にはまだ「ジュリエットの家」という観光資源はつくられていなかった。あのバルコニーはカステルヴェッキオ(カルロ・スカルパの計画で博物館となった)にあった石棺を使ってつくったものとのこと。

 地形について: ヴェローナを流れるアディジェ川、ヴィチェンツァを流れるバッキリオーネ川、パドヴァを流れるブレンタ川は、いずれも南東へと流れ、アドリア海へと注いでいる。パドヴァの南方にはエウガネイ丘陵 Colli Euganei があり、ヴィチェンツァの南方には、パッラーディオのつくったヴィラが6つ点在するベリチ丘陵 Monti o Colli Belici がある。最も有名なのは、ラ・ロトンダである[20年くらい前に訪れたことがある]。

 ヴィチェンツァ: 国鉄駅前の緑地帯は、古代ローマの練兵場であった。ここを訪れ、1週間滞在したゲーテはパッラーディオの建築群を称賛している。パッラーディオについていろいろ; パドヴァの生まれで、父は石工であった。幼少期にヴィチェンツァに移住し、人文主義者ジャン・ジョルジョ・トリッシノの庇護を受けて、古代建築を学び、多くの古代風建築物を手がけることになった。女神パラス・アテナにちなむパッラーディオという苗字をこの建築家に与えたのもこの人文主義者であった。ポルティコをもつファサードのキエリカーティ宮。15世紀につくられたバシリカの外周を囲う古代ローマ風の広壮な開廊[フォロ・ロマーノを想像できる]。ポルト宮ラ・ロトンダについて: ゲーテは当初、イオニア式オーダーをコリント式と言い換える癖があったようだ(ご愛嬌?)。オクルスは当初塞がっていなかった。「ミニョンの歌」にこの建築からの着想が見られること。テアトロ・オリンピコについて: パッラーディオは着工以前に他界したので、工事はヴィンチェンツォ・スカモッツィが後任した(この建築家はパッラーディオの死後も嫉妬と対抗心を抱いていた。人柄が悪く愛されていなかったが、2003年に「建築は科学だ」と銘打った展覧会が開催され、見直しが望まれているとのこと)。初演はソフォクレスの『オイディプス王』であったので、スカモッツィは遠近法の立体的書割を加えた。彼はパッラーディオの弟子ではない。ゲーテが会ったのはオッタウケィオ・ベルトッティ・スカモッツィというパッラーディオの研究者であった。

 ヴィチェンツァの3人の作家について: グイド・ピオヴェーネの『イタリアの旅』(1957年)、『冷たい星』(1970年にストレーガ賞を受けた)。ゴッフレード・パリーゼもヴィチェンツァについて語っている。『優雅さは冷ややかなり』(182年、日本探訪記)という著作あり。ヴィタリアーノ・トレヴィザンの『一万五千歩』(2002年、ベストセラーとなった)。[いずれも邦訳は見つからなかった。]

 1958年に発足したCISAの存在(アンドレア・パッラーディオ建築研究国際センター)について。

 

 第2章 パドヴァ: パドヴァは16世紀に建設された城塞都市である。1777年にできた天文台(Specola) について; ゲーテはこの Specola(カステルヴェッキオの主塔 59m) に登った[今は博物館になっている]。古代にはローマの自治都市パタヴィウムであったが、建築物の石材はヴェネツィアに近いためにほとんど搬出されてしまった。アレーナの一部が市北のスクロヴェーニ礼拝堂周辺に残っている。

 パドヴァ大学の誕生について; ボローニャ大学から逃げ出した教授と学生をパドヴァが受け入れて1222年に誕生した。1405年、ヴェネツィア共和国唯一の大学都市となり、コペルニクスやガリレオが活躍した。16世紀に建物が建設されたが、そこはもともと屠殺場であり、Bovisという宿屋があったので、Palazzo del Bò と呼ばれている。

 同じ頃、聖フランチェスコの弟子アントニオ(ポルトガル出身)が伝道師としてパドヴァに送り込まれてきた。その死後、パドヴァは Città del Santo となり、大聖堂が建設されて聖地となった。(カルロ・マッツァクラーティの『聖アントニオと盗人たち』という2001年の映画について。) アントニオが送り込まれたのは、パドヴァ大学が異端の拠点にならぬようにフランチェスコ会が考えたためであった

 解剖学教室と植物園について。ポルティコについて: 個人の費用で建設されるが、その代わり、上に建物を張り出させてよいという制度により、13世紀頃からさかんに建設されるようになった。

 Prato della Valleについて; ゲーテが気に入ったものの一つ。半湿地帯であったものが、1775年に整備されたばかりであった。中央の島につくられた森は今はない。

 カフェ・ペドロッキについて; ジュッゼッペ・ヤペッリによる新古典主義のカフェ。通り抜けできる気軽なカフェを目指していたが、ファシストの集会所となってから、戦後は中高年の富裕層の溜まり場となった。

 ジオ・ポンティによるPalazzo Liviano について。

 中心部の3つの広場について; Salone (Palazzo della Ragione; 80×27m、天井の高さは40m)の南にあるPiazza delle Erbe、北側のPiazza dei Frutti、西側のPiazza della SignoriaにはPalazzo del Capitanoと時計塔。Saloneの下は市場になっている。

 ゲーテは、エレミターニ教会でマンテーニャのオヴェターリ礼拝堂を見ていた。これは第二次大戦の爆撃で破壊された。ジョットの礼拝堂は見なかった。

 

 第3章 ヴェネツィア: ゲーテはパドヴァからヴェネツィアへとブレンタ河を下った。ブルキエッロについて。4つの水門によってブレンタ川は運河となり、約40km、馬が船を曳航した。1345年、ヴェネツィア共和国は本土の土地の購入を許可したため、貴族たちは本土側に別荘をつくるようになり、そのためにこの運河が利用された。つくられた別荘の数は2000にのぼった。このことは、大航海時代が始まり、ヴェネツィア共和国が貿易以外に活路を見出したことと関係があった。ストゥラの Villa Pisaniには、時代の権力者たちが滞在した。パッラーディオの手がけた Villa Foscari ( La Malcontenta) の所有者遍歴について; フォスカリ家→ナポレオン→ユダヤ系のランズバーグ(パーティ)ら3人が購入→戦後、フォスカリ家の末裔アントニオがランズバーグらと知り合うもフィリモアに譲渡する→フィリモアはアントニオに管理を委ね、譲渡(アントニオが購入した?)。

 ヴェネツィア: その成立とラグーナについて。リアルトの語源はリーヴォ・アルト( Rivus Altus : canale profondo 深い運河)。聖マルコ・聖堂について; もとは総督宮の付属礼拝堂であり、ドゥオモはサン・ピエトロ教会であった。聖マルコともう一人の聖人は聖テオドロス。ピアッツェッタには、ワニのようなドラゴンに乗った聖テオドロス(アマセアあるいはテュロンの)が円柱に載っている。もう一方の円柱には、聖マルコの象徴である有翼の獅子が。

 プンタ・デッラ・ドガーナ博物館について; 安藤忠雄が改装した。

 エミリア・ヴェドヴァ・ギャラリー; Magazzino del Sale であったものを、ヴェドヴァ財団のためにレンゾ・ピアノが改装した。

 ヴェネツィアには400の橋がある。

 東端の埋立緑地帯ジャルディーニはヴィエンナーレの主会場となっている。

 西側のPiazzale Roma には大駐車場がある。2008年に完成した大運河にかかる4つ目のカラトラヴァ橋 (憲法橋 Ponte della Costituzione) には、一時期、OVOVIA (エッグウェイ) というゴンドラが取り付けられたが、2020年に撤去された。

 Ponte delle Tette (おっぱい橋) について; 政府が下級娼婦を集めた売春窟であったカランパーネ地区の橋。

 パッラーディオがつくったカリタ修道院 Convento della Carità をゲーテは、高尚だと称賛した。ゲーテの探訪後11年にしてヴェネツィア共和国は崩壊し、ナポレオンの支配下に入り、この修道院も廃止された。ほかに、ジュデッカ島に3つの教会をつくった; San Giorgio Maggiore(ベネディクトゥス派の修道院と聖堂),  Il Redentore(1576年のペスト終息に感謝して), Le Zittele(イエズス会によって設立された未婚女性のための慈善施設)。

 その他いろいろ慈善施設: 没落貴族のための Ca di Dio (今は老人ホーム)。

 ゲットーについて; 1516年、ヴェネツィアにつくられたユダヤ人隔離地区はもと、大砲の公共鋳造(ジェット、方言でゲト) 工場が語源で、全国に広まった[だが、ヘブライ語のget(分離)に由来するという説、ドイツ語のgehegt(閉鎖)に由来する説、古フランス語のgueat(警備)に由来する説、getto(埠頭、波止場)に由来する説などいろいろあり、これは1492年にスペインからのユダヤ人難民がジェノヴァ港に投げ込まれた場所にちなむ]。

 サンタ・ジュスティーナ教会について; 1571年、レパントの海戦の勝利を記念してミサが行われた。今はリチェオとなっている。

 ゲーテは、サン・ジョルジョ・マッジョーレ教会にあるヴェロネーゼの「カナの婚礼」を気に入った(これはナポレオンが持ち出し、返還されていない)。

 大運河沿いのパラッツォについて: カ・ロレダンカ・ファルセッティカ・ドーロカ・フォスカリパラッツォ・ピザーニ・モレッタにあるヴェロネーゼの「アレクサンドロスの前に跪くダリウス王の女系家族」(今はロンドン・ナショナル・ギャラリーにある)、パラッツォ・ヴェンドラミン・カレルジパラッツォ・グリマーニパラッツォ・グラッシ (2006年にオープンした現代美術館は安藤忠雄の計画) など。ヴェネツィア共和国黄金時代、16世紀の建物が多い。

 1902年に自然崩壊したサン・マルコの鐘楼について。

 

 第4章 アッシージ: ヴェネツィアを発ったゲーテは、フェッラーラとボローニャに立ち寄ったが、フェッラーラでは不快感におそわれた。ボローニャではアシネッリの塔に昇り、ポルティコについて書いている。道中、ペルージャへ向う教皇庁の一士官と同行した。フィレンツェには滞留せず、速やかに出た[帰路に立ち寄ることにしたが、その滞在について『イタリア紀行』には言及していない]。

 アッシージはローマ時代に起源をもち、ミネルヴァ神殿のファサードが残っている。中世に再建され、聖フランチェスコによって聖地となった。

 1997年9月の地震で、聖フランチェスコ聖堂の上の教会は倒壊し、2000年に復元された。最初に譲り受けた小さなポルツィウンクラ礼拝堂と 他界したトランジト礼拝堂は国鉄駅の裏手にある。

 エレーモ・デイ・カルチェリにあるフランチスコのグロッタについて。リーヴォトルトの小屋について。

 ミネルヴァ神殿について; アウグストゥスの時代(前30年頃)の建立。何世紀も経ってから出土した碑文によれば、おそらくヘラクレスに献じられたもの。コリント様式の柱の前廊をもつ。16世紀に、サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会となった。

 ゲーテはスポレートに寄り、水道の上に乗った(Ponte dei Torri)。いちおう中世(13世紀頃) の建造となっているけれど、ローマ時代の水道橋の遺構を利用してつくられたものだという説もかなり受け入れられている。長さ230m、高さ80m、10のアーチをもつ歩ける水道橋。ポン・ドュ・ガールよりも少し大きい。公開されている。

 

 第5章 ローマ: 1786年10月29日、ゲーテはローマ入りし、翌日、画家ティシュバインと同じコルソ通りの宿に住み着いた(今は「ゲーテの家」として公開されている)。著者は建築史家なので、古代ローマ建築の壁体の積み方、コンクリート、アーチなどについて説明している。ゲーテはトラヤヌスの柱に登ったが、いちおうその基部にはトラヤヌス帝夫妻の骨壷が置かれていたといわれているので、ハドリアヌス帝の墓廟に埋葬されたというのは違うかもしれない。ハドリアヌス帝の建築については、ローマ市内のもののみならず、ティヴォリの別荘についても言及している。そしてカラカッラ浴場、ディオクレティアヌス浴場についても。

 最初のサン・ピエトロ聖堂など、初期キリスト教時代のバシリカについての説明もある。ローマの七聖堂についても。

 中世についてはさらっと。15世紀に始まったルネッサンス建築については、ブラマンテ、ミケランジェロなどについて。そしてグロッテスク装飾とネロの黄金宮殿の発見にも言及している。

 パウルス3世、シクストゥス5世によるローマの都市改造計画、オベリスクを再利用したランドマークと直線道路の建設についても言及。

 バロック都市ローマの成立については、ベルニーニとボッロミーニに言及。

 7つの丘について。「永遠のローマ」という小見出しで、近世から現代の建築、新都市エウル、市北のオリンピック公園などに言及。

 

 第6章 ナポリ: ゲーテはローマで3ヶ月半過ごした後、ナポリへ移った。ヴェスヴィオ山やポンペイの遺跡などを愛で、途中シチリアへも出かけている。

 ナポリの成立について; ギリシア起源、パルテノペとネアポリスについて。

 中世から近世にかけてのナポリの歴史とモニュメントについて; サン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂地下の古代遺跡、サンタ・キアラ教会、カステル・ヌオヴォ、サン・マルティーノ修道院、王宮、カポディモンテ宮、カセルタの王宮と庭園と水道橋、建築家ルイジ・ヴァンヴィテッリ、貧民宿舎、サン・スルロ劇場など。

 ネルソン提督とレディー・ハミルトンについて。ブルボン王家について。

 ナポリのスラム街を舞台にした桐野夏生の小説『夜また夜の深い夜』を紹介している[私はさっそく読んでみて、もうスレをupした。もう一度サニタ地区に行き、今度はフォンタネッラの墓地に行ってみたいと思った]。

 

 第7章 パレルモ: 1787年4月2日、ゲーテはクニープとともに海路パレルモ入りした[いちばん良い季節ではないか]。クニープはカメラ代わりの画家である。

 パレルモ略史; 古代からアラブ・ノルマンの時代と建築、バロック時代の都市改造と建築まで。クワットロ・カンティの成立について。「概観するのは易しく、精通するのは困難な町」とゲーテは述べる。

 近郊バゲリーアのパラゴニア荘について。ナポレオンの時代にブルボン王家がシチリアに避難してきていたこと; パラッツィーナ・チネーゼのことなど。

 武谷なおみ先生らの訳した『ランペドゥーザ全小説』に言及[私もこんど読んでみようと思った]。テアトロ・マッシモについて。カルロ・スカルパが計画して州立美術館となったアバッテリス宮について。

 セジェスタの神殿について; ゲーテは劇場まで登り、くたびれたようだ[今はシャトルバスがある]。

 著者はアグリジェントをすっ飛ばしている。その理由の一つは、E・M・フォースターの短編小説『エンペドクレスの宿』を読んで恐かったからだとのこと。私もさっそく読んでみようと思う。

 ゲーテはエンナへは行ったが、シラクーサを省いた[何ということ!!]。ピアッツァ・アルメリーナのモザイクもまだ発掘されていなかった(今は必見)。カターニアには行った。メッシーナは当時、地震の被害が著しかったとある。著者は、1693年にシチリア南東部を襲った地震後のバロック建築による復興について説明している。

 

 終章 旅の余韻: その後のゲーテの足取り、ゲーテの晩年の家庭生活、1790年のヴェネツィア再訪、伴侶の死、『イタリア紀行』の刊行について。ゲーテの息子アウグストの紀行文が『もう一人のゲーテ』として2001年に邦訳が公刊された(法政大学出版局)こと。その息子はローマで客死し、ピラミデの近くの墓地に埋葬されたとのこと。

 旅、トラベルの語源はトラヴァイエ(骨折って働く)だそうで、旅にはトラベルがつきものとのこと。ゲーテは旅して30年も経ってから『イタリア紀行』をまとめた。[この事実は私にとっても少し刺激になった。]

 

 あとがき: 2015年2月に脱稿し、あとがきを書かれたようだ。

 

 私は思う。すでに10年が経過しているのでイタリアにもいろいろ変化は起きているが、ゲーテの紀行文は時空を旅する楽しみも提供してくれるのではあるまいか。同様、建築史家の視点による読み物として、イタリアを訪れる人にはとても親切な書物だと思う。

 

 

ヴェネツィアあたりの水遊びに▼

 

 この風変わりな小説があることは、渡辺真弓先生の『イタリア建築紀行』を読んで知った。ナポリのスペイン地区とサニタ地区。両方とも足を踏み入れるのを躊躇わせるスラム街である。私はオットがレンタカーを運転していて、一方通行でやむを得ず入り込んだスペイン地区で、バイクに乗った2人組のチンピラに車の扉を開けられて足もとに置いていたリュックを奪われ、放さなかったので10mか20mか地面を引き摺られ、メガネは吹き飛び、服は破れ、ひどく怪我をしたことがある。オットはかばんや車を奪われないよう下車することができず、「何もお金は入っていないから放して」と叫び、私はリュックを死守した。路傍にいて傍観していたた人々は立ちずさんで、最後に壊れたメガネのフレームを拾って手渡してくれた。ナポリの病院でレントゲンを撮ってもらい、その晩から歩けなくなり、オットにおぶってもらってホテルに戻り、打ち身で2週間くらい杖をつかねばならなくなった。この事件について、東京のイタリア政府観光局は、当時のナポリ市長バッソリーノにFAXを送った。その後、スペイン地区には警察官が配置され、かなり治安が改善された。

 サニタ地区は一度訪れたことがある。たしかサンタ・マリア・デッラ・サニタという教会にサン・ガウディオーゾのカタコンベを見に行ったのである。

 この本を読んでこのようなことを思い出したのであった。

 本の内容については、巻末に、金原ひとみがわかりやすく解説している。主人公は、わけありの母親が出生届をしなかったので国籍がなく、ずっと海外のスラム街に隠棲していて、学校にも通わせてもらっておらず、今はナポリのスラム街の狭い家に母と住んでいる。母はなぜかしばしば娘をほったらかしにして留守をし、何度も顔を整形手術で変えている。娘はしょぼい菓子屋で店番のバイトをしていたが、ある日、スパッカナポリにできたマンガ喫茶に出入りするようになる。そしてある日、家出をして、写真家の日本人のホテルの部屋に匿ってもらい、写真を撮られたことで自分も追われる身となる。ナポリの地下に住まう不法滞在者の女性2人と出会い、いっしょに暮らす。久々に家に戻ると母は消えていた。

 ネタバレしてしまうと、母は追われる身であり、潜伏していたのだ。主人公が好意を寄せていたマンガ喫茶を経営していた青年は、実は異母兄弟であった。彼らの父はいかさま宗教で詐欺と殺人を重ねた死刑囚であり、母はその愛人であったという。彼らに追っ手が迫る。主人公は日本に行くのか? 行けるのか? 日本という法治国家は治安が良すぎて、怪しい人々には息がつまるらしい。結末はさもありなん。人生はやり直せるのか? 結末は楽観的であった。

 

 けっこう面白くて数日で読了してしまった。ナポリのサニタ地区にまた行きたくなってしまった。『イタリア旅行』というバーグマンが主演したロッセリーニの映画で見て以来、ちょっと気になっていた骸骨が積み重なってぃ。「フォンタネッラの墓地」も一度は見てみたいし。

 

 

 今年の春、ダーチャ・マライーニの自伝を読み、ドキュメンタリー映画を見た。彼女が第二次世界大戦期の日本で家族ともども日本の強制収容所に入れられていたことは知っていた。そして帰国してからしばらくシチリアのバゲリーアに住んだこと、著作のためにそこを再訪したことについても書いていることを知ったので、読んでみようと思っていたのだ。

 

 ダーチャの一家は、戦勝国アメリカの船でイタリアに戻り、船でナポリからパレルモへ、馬車でバゲリーアに向かった(1947年)。そこに住む母方の屋敷に一隅にしばし住まう。日本の強制収容所で話題となっていたシチリアの食べ物を実際に口にする。茄子のパスタ、鰯のベッカフィーコ風Trionfo di GolaMinne di sant'Agata・・・。

 Villa Cattolicaが見える。戦後のシチリアでは、黒い服を着て喪に服す人が多い(父の死後7年、兄弟の場合は3年、夫の死後は生涯)。祖父エンリーコの書棚の古典を読み漁ったこと。祖母のソーニアについて。一家が住んだ屋敷はヴァルグアルネーラ荘である。当時の回想。一方でまた、神父や一家の友人など、大人の男たちにより、子供の時に受けたセクシャルハラスメントが彼女のフェミニズムのもとにあることもわかる。そして父フォスコ・マライーニが去った。

 バゲリーアという地名の由来: 風の扉 Bab el gherib を意味するアラビア語、海を意味するBahariah など。シチリアの過去を、古代や中世を回想する。蚕やダイコンを回想する。蚕と男性の性器の触感の類似について。Oreste Girgenti によるバゲリーアについての本について。

 [このくだりはおそらく再訪に関わる回想であろう]シチリア、バゲリーアの景観を破壊する不法建築、マフィアの横暴、それらに口をつぐむ住民、泥棒、などについて。Nicolò Giammanco (2012年に死亡) という悪人について。

 ダーチャの父方の祖母は、アイルランドとポーランドの血を引いていた。父への愛。

 ジルジェンティによるバゲリーアの歴史について。バゲリーアのアイスクリームについて: 西瓜アイス、チョコで包んだやわらかいアイスなど。縁切りをした一族の末裔、サレッタ叔母を訪ね、館を見せてもらった時のことを回想する。マリアンナ・ウクリーアの小説を書くために、である。この人物の肖像画を見る。

 シチリアでは、親族の男に性的暴行をふるわれることがある。女性の肉体を征服するのが男の肉体の性であり、それを濫用しても罪にはならない。マフィアによる残忍な報復。

 ダーチャが、ジャコバン主義のエレオノーラ・フォンセカ・ピメンテルの戯曲を書いたことについて。

 祖父の祖父母については、物書きであったフェリーチタ大叔母が『在りし日のこと』で語っている[この書物は見つからない]。有名なシチリアのワイン Corvo di Salaparuta をうんだ祖先、サラパルータ公 Giuseppe Alliata  に言及している。アッリアータ家について。

 母方の祖母ソーニアの性格に対する批判と憎しみが止まらない。父により自由を奪われた女に対する憐れみすらある。そこの家主である、好きになれないサレッタ叔母のこと。彼女が語る、ここに滞在したマリア・カロリーネ王妃の歪んだ性格、豪勢な食卓の料理に食器。ヴァルグァルネーラ荘の濃厚なジャスミンの香り。いつもペストのように避けてきたシチリアについて書く決心をしたダーチャの複雑な気持ち。閂のかかった扉をあけ、蜘蛛の巣をはらいのけ、亡霊の世界に入ることにしたのだ。聾唖であったマリアンナの肖像の前に夢窓にふけるダーチャ。

 フランチェスコ・アッリアータについて; ダーチャが書いているのは、1603年にモンテ・ペッレグリーノの聖女ロザリアの洞窟を修復した方だが、見つからない。

 

 『シチーリアの雅歌』は昔読んだし、映画も見たが、もう一度読んでみようかと思った。