しばらく前からイスタンブールに行きたいと思っている。書庫に陳舜臣 の書いた本があったので再読した。メモる。イスタンブールという都市についてのみならず、歴史を概観することもできた。文庫には地図がないので wordpress.com のサイトの地図にカキコミ(青)をしたものを貼っておく。
1. 天翔ける征服者 : メフメット2世の記念碑 。1453年5月29日、この人は21歳の時、コンスタンティノープルを陥落させた。このモニュメントがある地もファティフ (fatih 征服者)という。黄金時代を築いたのはスレイマン1世。王朝最後はメフメット6世。
陥落させた奇策: 72隻の艦隊をトプハネから山越させて金角湾 のカスムパシャ海岸側 に侵入させた。
コンスタンティヌス帝がこの地(ギリシア人ビュザスとアンティスが建設した植民市)をコンスタンティノープルとしたのは330年5月11日であった。
新市街ベイオウル区[金角湾の北側、トレビゾンド帝国の息子の意味]は、ビザンツ時代、ジェノヴァ人の居住区であった。
1919年5月19日、ケマル・アタチュルク は連合軍を撃退し、新生トルコ共和国を誕生させ、初代大統領に就任した。
メフメット2世(生母はキリスト教徒)は、12歳のとき王位に就いたが、イエニチェリ軍団(もとキリスト教徒の子弟よりなる選抜親衛隊)の信任を得られず、2年後に復位したムラト2世により、マニサ[小アジア側]に謹慎させられた。この頃、オスマン帝国の首都はアドリアノープル(現エディルネ ) にあった。復位5年後に父王が他界すると、メフメット2世はコンスタンティノープルの征服を実現すべく、ルメリ・ヒサル [ ローマ側の要塞という意味]を築造[小アジア側に曽祖父が築いたアナドル・ヒサルの対岸にあたる]し、ボスフォラス海峡を制圧した。この両要塞は、征服後は不要となった(ルメリ・ヒサルの塔からは第2ボスフォラス大橋 の景観を楽しめる)。
コンスタンティノープルは全長16kmの城壁で囲まれていた。その西側はテオドシウス城壁で、5632m、高さ平均11m、外側に堀をもつ。南端にあるのは、五角形の砦をもつエディクレ(7塔の意味)。中央のロマノス門は征服後、トプカプ(大砲) 門 と改称された。このエディクレは財宝収蔵庫→処刑場および監獄→博物館となった。
2. 聖ソフィア聖堂、千七百年の歴史 : メフメット2世は、征服したコンスタンティノープルへハリシオス門 (戦車競技の青組の頭領にちなむ)から入場した。この門は、エディルネからの街道が至るので今はエディルネ門 と呼ばれている。そして、聖ソフィア大聖堂 (360年に奉献され、404年に焼失して415年に再建、ユスティニアヌス1世 の時代、532年のニカの乱 で再び炎上、537年に3度目の竣工: 東西77m、ドームの直径32.96m、高さ54m、東西に半円蓋をもつ)をモスクに改造することを命じ、アヤ(ハギア=聖)・ソフィア となった。オスマン・トルコ時代に4本のミナレット (礼拝を呼びかけるアザーン を発する塔)が建てられた。18世紀には図書館が設けられ、学校、天文台を含む学術センターともなった。(洗礼堂は、17世紀のスルタン、ムスタファ1世の霊廟となった。)
そのモザイク画を塗りつぶしたのは16世紀、スレイマン1世の時。ただし、当時のモザイク画は8〜9世紀のイコノクラスム(聖像破壊運動) によって破壊され、今見られるモザイク画 は10世紀に制作されたものである。(ちなみに、11世紀以降における、東西教会の分離 もあり、1204年の第4次十字軍 はコンスタンティノープルを大略奪した。)
モザイク画 : 南入口に『キリストと、平伏する皇帝レオン6世』、左右の丸に聖母と大天使ガブリエル。/西南入口の拝廊上部には、聖母子、聖堂奉献者ユスティニアヌス1世と都市建設者コンスタンティヌス1世 』(10世紀 後半?)。/南側2階廊東端には、キリストと、コンスタンティノス8世の娘ゾイとその夫となった皇帝の図(コンスタンティノス9世 は3人目で、最初の夫ロマノス3世 あるいは2人目のミカエル4世 の時のモザイクを改竄したものか?/内前廊に入る扉の上には、聖母子 と12世紀 の皇帝 ヨハネス2世コムネノス 夫妻。これらのモザイク画は16世紀、スレイマン1世が漆喰で塗り込めてしまった。20世紀前半それが剥がされ、聖堂は国立博物館となった。しかし2006年 、トルコ政府は、博物館内の小部屋をキリスト教徒やイスラム教徒のスタッフが祈りを捧げる場所として使えるよう許可を出し、エルドアン 大統領 は2019年、アヤ・ソフィアをモスクとする大統領令に署名し、アヤソフィア・ジャーミイとなった。ただし、モスク化後も観光客の立ち入りは認められており、礼拝以外の時間帯は観覧できる。
ビザンツ時代の遺物: アト・メイダン(馬の広場: 競馬場 10万人収容、400×120m)に3つ並んでいる。北から、テオドシウスのオベリスク、蛇の円柱、コンスタンティヌスのオベリスク; オベリスクはエジプトからのもの、円柱はデルフィのアポロン神殿にあったギリシアの戦勝記念碑であった。競馬場の門に飾られていた4頭の青銅の馬は今ヴェネツィアのサン・マルコ寺院の上に飾られている。
イリニ聖堂 (アヤ・イリニ)について: コンスタンティノープル最古の教会堂。アヤ・ソフィア博物館に属すビザンツ建築の博物館となっている。
トプカプ宮殿敷地内の考古学博物館には、アレキサンダー大王の石棺(?)がある。
3. ビザンティン残影 : エディルネ門から聖ソフィアに至る道はフェジブ・パシャ通りという。コーラ修道院 (カーリエ博物館): 城壁に近い地域にあり、モザイクとフレスコ画が重要。 創建は不詳。モスクに転用されていた。
ミフリマ・ジャーミイ : 名建築家シナンの建設。もとはアギオス・ゲオルギオス修道院が建っていたが、面影はない。
ファティフ・ジャーミイ : もともとは聖使徒教会であった。当初は総主教座を聖使徒教会に移すことにが、総主教はそれをパンマカリストス教会に移した(16世紀にはアギオス・デミトリオス・オ・カナピス聖堂に移された)。メフメット2世はこれを解体し、新たなモスクを建設した。これは、18世紀の地震で倒壊したあと、再建された。
1603年、総主教座聖堂となったアゲオス・ゲオルギオス のあるファナリ地区 と、その東側のバラット地区 (ファナリ/フェネルは灯台のこと)にはギリシア人が多く住んでいたようだ。カンル・ジャーミイ(流血教会)について。
ヴァレンス水道橋 : 北西郊外の水源地から全長551kmに及ぶウァレンス水道 の最末端の一部約800m。スルタンアフメト地区にある地下の大貯水池 へと給水した。その貯水池は「地下宮殿 (イエレバタン・サライ)」と呼ばれている観光名所である。長さ138m・幅65m、容積78,000m3 。高さ8mの大理石の柱336本により支えられている。奥まったところにメデューサの顔が逆さに置かれている。
托鉢僧の館: 聖フランチェスコの壁画をもつカレンデルハネ(托鉢僧)・ジャーミイとキリセ・ジャーミイ。
ガラタの塔 : 旧市街は「スタンブル」と呼ばれている。金角湾の北側は「ガラタ」といい、ビザンツ時代後期、ジェノヴァ人の居留地ペラ(あちら側の意味) であり、そこを城壁で囲み、見張りの塔を建設した。オスマン・トルコ侵攻に際して、ヴェネツィア人はビザンツ側についたが、ジェノヴァ人は、征服後の権益を考えて、中立的な姿勢をとっていた。征服後の待遇は決して甘くはなかった。今では観光スポットの一つとなっている。ガラタとは牛乳を意味し、かつてミルク市場であったようだ。ベイオウル区にあったトレビゾンド帝国はメフメット2世に降伏した。
イスタンブールのヨーロッパ側は、北をベイオウル、南の旧市街をスタンブルといい、対岸のアジア側は、北をウスキュダル、南をカドゥキョイと呼んでいる。新市街の中心地はタクシム広場 、オスマン・トルコ時代の西欧人居住区。これらは現在、地下鉄網によって結ばれている。下に貼る。旧市街から新市街のカラキョイ埠頭へは、跳ね橋(午前2時〜4時のみ開く)のガラタ橋 が渡っている(初代の橋は1845年に開通、1994年の建設が最新)。橋は二層で、下はレストラン街。
トルコ帽 : フェス地方の帽子。ケマル・アタチュルクはこれを禁止した。チャドルも禁止した。
4. 聖域エユプ : 7世紀、ウマイヤ朝のムアウィヤ は、コンスタンティノープルを包囲したが、預言者マホメットのアンサールであったアブー・エユーブ はその陣中で死亡し、城壁の外に葬られた。その聖者の墓が征服後に発見され、聖廟の建設が行われた。金角湾の奥。それに隣接してエユプ・スルタン・ジャーミイも建設され、18世紀末に再建された。トルコ国内最高の巡礼地。墓所の内部は美しいタイルで飾られている。
メフメット2世は多言語を操る国際人であった。イスタンブールを復興発展させるべく、住民の強制移住をはかり、ユダヤ人も多く受け入れ、 人口を増大させ、宗教別の自治を認めた(ミッレト制 )。だからこそ、イスラムの聖者の霊廟エユプ をつくらねばならなかったのである。メフメット2世はイスラム化される以前のトルコ、遠祖のオグズ を切り捨てたかったと思われる。
[今日、イスタンブールの人口は15,750,000人である。東京都より多い。]
5. トプカプ逍遥 : メフメット2世は最初バヤジット に宮殿を構えた(現イスタンブール大学の構内。今はそこにバヤジット2世 のモスクがある)。これが1541年に火災にあった後、新しいトプカプ宮殿 を、1000年前にギリシア人がアクロポリスをつくった高み(第一の丘)に建てた。トプは大砲、カプは門を意味する。門に大砲が置かれていたからだと思われる。征服して19年後、1472年着工、1478年竣工。ビザンツ時代の城壁と濠はそのまま利用できた。
この宮殿(約700.000㎡≒紫禁城や明治神宮と同じくらい)は中国の様式に影響を受けたという説があり、北京の紫禁城に似ているというがシンメトリーは無視されており、遊牧気質を感じると筆者。第1の門(帝室門: バーブ・イ・フマーユン)を通ると公的な部分があり、第2の門(敬礼門: バーブ・ウ・セラーム) 博物館の入口となっている。左手に三角屋根の塔(正義の塔)。塔の下に議事堂。その南西に厩舎。その反対側には、大きな厨房(今は陶磁器展示場で、中国や日本の陶磁が10358点)。第3の門(至福門: バーブ・ウ・サァダト)を入ると内定、つまり私的生活空間があり、アフリカ系宦官の控室があった。謁見の間、文人スルタンであったアフメット3世の図書館、西側にはハレムがあった。第3の中庭東側には宝石展示館(もとは征服者の間)があり、有名な宮殿のシンボルの短剣がある。歴代スルタンは宝物を相続しなかったので多くある。さらに北側に、第4の中庭があり、タイルの内装と眺めがみごとなレヴァン館とバグダッド館、池と亭、チューリップの花苑がある。ラーラは医師、ラーレはチューリップ、医師先生の庭がチューリップの庭となったとのこと。右の隅の建物はレストランとして使われている。
なお、スルタンの宮殿がドルマバフチェ宮殿 (今は迎賓館)に移ったあと、トプカプ宮殿の北側で1863年に火災があり、その罹災地跡にシルケジ駅 が建設され、1883年、オリエント急行がここまで開通した。
今のイスタンブールには尖塔が多い。それは遊牧民の好みか、と筆者。
ハレム(禁断の場所を意味するアラビア語ハリームが語源)について。入場券は別売り。部屋の数は250〜300あるいは800ほど。16世紀後半、ムラト3世 (オスマン・トルコ第12代皇帝、スレイマン大帝の孫、妃はヴェネツィア出身)の頃から成立という説あり。ハレムのムラト3世館は第建築家ミマル・シナンの作品。この頃より、ハレムの女性たちが後継争いに権謀術策を弄したとのこと。
メフメッド2世の息子、バヤジット と弟ジェムシドあるいはジェムの後継争いについて。ヨーロッパを巻き込む長期戦となったが、弟を殺してバヤジッド2世となる。
大宰相ムラト・パシャ について: 半世紀にわたり無能なスルタンを支えた大宰相。
6. 大スレイマンの光と影 : オスマントルコの黄金時代を築いた第10代皇帝スレイマン1世 。36人の皇帝のうち、最も長く(46年間)統治し、大帝と呼ばれる。
スレイマニエ・ジャーミイ : 第建築家ミマル・シナン の建築。救貧院、無料給食接待所、病院などが付属しており、金角湾を見渡す丘の上に建つ。界隈は下町的。イスタンブール大学の近く。大帝はここに葬られることを望んだ。
愛妃ロクソラン・フルレム について: スラブ系ロシア人。モスクの複合施設キュリエを建造。皇太子メフメットのためのモスク、ジェザーデ・ジャーミイ。水道橋の南側。
大スレイマンの父、セリム1世 について: ヤウーズ(冷酷) と呼ばれた。その業績は多大で、230万㎢の領土を650万㎢余にして息子のスレイマンに引き継いだ。
フルレムの産んだ4人の息子のうち、残ったのはセリムだけとなったので即位継承にかかわる紛争はなかった。立法者と言われるように国家の法体系をつくった。海軍力も充実させた。オスマン海軍を率いるカプタン・パシャ、ハイレッデン・バルバロス という海賊について。シナンはこの人の墓所を設計した。
オスマン・トルコはフランスと同盟関係を結び、ハプスブルク朝を苦しめた。
リュステム・パシャのモスク; この人は、大スレイマンの娘ミフリマの夫で、姑フルレムのために画策した。タイルの内装がすばらしい。1561年頃の建立。
ミフリマの名を冠したモスクはイスタンブールに2つある。対岸のウスキュダルと、エディルネ門の近く(19世紀の再建)に。いずれもシナンの建築。シナンの建てたモスクは134あると言われている(大きなモスクをジャーミイ、小さいのをマスジドと呼ぶ)。シナンの建てたジャーミイは83あるとのこと。
大帝の後継者、セリム2世 について; 酒飲み酔っ払いであったとのこと。キプロスを攻略した。1571年、レパントの海戦 で、キリスト教連合軍に敗れた。
1579年、宰相ソコルル・メフメット・パシャ が暗殺されると、帝国は支柱を失った。
7. モスクとバザール : ブルー・モスクと呼ばれるスルタン・アフメット・モスク について; アフメット1世 (1590〜1617年) は、スレイマン大帝の曾孫(孫の孫、やしゃご)。トプカプ宮殿に近い土地には貴族や宮廷人の邸宅が多くあったが、これらを買収して建てた(1616年竣工)。分不相応なモスク。6基のミナレットをもつ。内部の青いタイルが美しい。
アフメット1世の没後、後継をめぐり帝国は揺れ動いた。
スルタナフメト界隈; シナンが設計したロクソラン・フルレムの浴場がある(今は絨毯の展示場)。聖ソフィアの裏、トプカプ宮殿の城壁に沿った坂道に風情がある。
イエニ・モスク(新しいモスクの意味); 観光用ではないヴァーリデ・モスク(皇帝メフメット3世の母、ヴェネツィア出身のサフィエ・ハトゥンの発願、メフメット4世の母トゥルハンが事業を継続)。ヴァーリデとは「皇帝の母」を意味する。
バザール : 香料市場(ムスル・チャルシュ=エジプト市場)。今では香料専門店は6軒のみ。イスタンブールで第2のバザールだが庶民的。
グランバザール : 街路は65筋。3万㎡。3300の店を擁す。食糧(アバー)と場所(ザール)の合成語。高い天井をもち2階3階もあり、地元ではカパル・チャルシュ (屋根付き市場)と称す。宝石・貴金属を売るベデステン は、警備のため囲いがある。同業組合組織(ギルド) をエスナーフ・ロンジャスゥと呼び、それは700以上あった。1589年、1618年、1660年、1695年、1701年の大火、1766年の地震をはじめ、幾度もの火災を経験している。モスクと礼拝堂、7つの泉池、21の商館(ハン) もある。
チチェク・パサジ (花市場) : ガラタ塔に向かうイスティクラル通り。
ウスキュダルには大露天市がある。
ガラタ橋の下のレストラン街。
観光クルーズ: ボスポラス海峡の左右に寄港しながら2時間ほどで黒海ちかくまでいく。寄港地の近くには露天市がある。
トプカプ門外の長距離バスターミナル付近にも、古着市が形成されている。
ヌルオスマニイエ・モスク (オスマンの光のモスク) : バロック様式を取り入れた18世紀中頃(無能なスルタンが続いた宰相の時代)にできたモスク。
カラ・ムスタファ : 第二次ウィーン大包囲作戦を率いた宰相にして総司令官。敗戦の責を問われ、ベオグラードで処刑された。以後、オーストリア、ロシアが勢いづいた。
ムスタファ2世は1703年、反乱が起きて退位させられ、1703年、同母弟のアフメット3世 が即位した。耽美的でチューリップ時代 (ラレ・デウリ) と呼ばれる時代となる。大宰相イブラヒム・パシャ は風雅の士であった。チューリップは「トルコ帽」が語源。時の抒情詩人アフメット・ネディム について。
1730年、反乱が起きて、スルタンは退位し、宰相と詩人は処刑された。
筆者は教会巡りをする。東方正教会の総主教座は1603年以来、ファナル(灯台区) のアギオス・ゲオルギオス聖堂に移されていた(1720年に再建)。
14世紀末以降、ギリシア を含め、バルカン半島全体はオスマン帝国の支配下に置かれ、それは、1820年に始まったギリシア独立戦争 後、1830年のロンドン議定書 まで続いていた。スルタンたちは、ギリシア人を追放もせず、改宗を迫りもしなかった。ところが、20世紀になってから住民交換が行なわれ、トルコにおけるギリシア系住民の数が激減した。第一次世界大戦に敗れたオスマン・トルコは解体・分裂の危機に追い込まれ、ギリシアの首相ヴェニゼロスは、アナトリアもギリシアだと主張し、トルコに出兵した。これをケマル・アタチュルクが撃退した(1922年)。こうして、ギリシア領内に住んでいた90万人のトルコ人、トルコ領内にいた200万人のギリシア人が居住地を交換したのであった。
パクス・オスマニカ(オスマンの平和) の時代には、今日あるような中東の紛争はなかった[第二次対戦後、1948 年にイスラエルが建国された こともある]。
イスタンブールの花市場にはアルメニア正教会もある。アルメニア 人は、ロシア・イラン・トルコにはさまれ、祖先の土地に住むことができずにきた。トルコによるアルメニア人の大虐殺 (1915〜1916年)について: イスタンブール在住の60万人の犠牲者をだした(wikipediaは100万人以上としている)。
筆者は、ユダヤ人のシナゴーグ(ガラタ塔の前の坂を下りる途中)をも訪れた。パレスチナ・ゲリラを警戒し、入るのは難しかった。ユダヤ教徒はイスラム圏ではおだやかに暮らしてきた。それが今では、不倶戴天の敵のようになっている。
8. 海峡の彼方 : ボスポラス大橋を渡ったたもとにある避暑の別荘、ベイレルベイ宮殿 について。19世紀に建てられたもの。その北の方には、キュチュックス離宮 がある。
対岸のウスキュダル地区 について[今は海底鉄道マルマライ線 で行ける。]; 埠頭はシェムシ・パシャ。ミフリマ・モスクの後ろに、イエニ・ヴァーリデ・モスク(18世紀) がある。その西側には、シェムシ・パシャ・モスク(1580年、詩人のために建てられた)もある。
南下すると、カドゥキョイ地区 となる。ガラタ橋のたもとのエミノニュからフェリーで15分で行ける。ギリシア人はここをカルケドン と呼んでいた。学校の多い文教地区である。アジア側の鉄道駅ハイダルパシャ駅 があり、長距離バスのターミナルでもある。アジア側の田舎には、素朴な人々が住み、ヘレケやカイセリなどには絨毯(ファルシュ)工房があったりする。上質なものはカーリー(トルコ由来の言葉)、質のおちるものはゲリームという。絨毯は遊牧民の必需品であった。礼拝も絨毯の上で行なう。
ササン朝ペルシア の大王ホスロー2世 と、ビザンツ帝国の皇帝ヘラクレイオス1世 について; ホスロー2世、ビザンツ領への侵攻し、イェルサレム占領と聖墳墓教会から聖十字架を持ち去る。ニネベでの戦いでビザンツ軍がペルシア軍に勝利する。(聖十字架は、ホスロー2世の息子カワード2世が、ビザンツとの関係修復のため聖十字架を返還した)[現在 Santa Croceはローマなど各地に分散している。]
カルケドンの公会議 について; 単性論 が排斥され、両性説 といわれる説が採用された。キリストは唯一の位格 の中に人性と神性を有するという思想である。キリストの位格 は1つではなく、神格 と人格 との2つの位格に分離されるというネストリウス派の主張 nestorianesimo があらためて斥けられ、異端とした。聖職者の妻帯を認めるなどより人間的であり、中国ではこれを景教と呼び、日本にも伝わった。
9. ドルマバフチェ百年 : 19世紀半ばに建設された王宮、ドルマバフチェ宮殿 について。それを建てたアブドゥル・メジド1世について。
その父、マフムト2世 の果断な事業: イェニチェリ軍団を廃絶し、新軍隊に編入するという改革が行われるとイェニチェリは宰相官邸を襲撃し、反撃されて虐殺された。このスルタンは、ヨーロッパ式の近代的な軍隊をつくろうとし、ターバンの代わりにトルコ帽を採用した。54歳で他界すると、アブドゥル・メジド1世が即位し、西欧化政策を引き継いだ(1839年)[なんだか日本の幕末維新に似ている]。改革のためギュルハネ勅令が出された。それは臣民の信教の自由と平等を謳っていた。この西欧化政策の一端が、ドルマバフチェ宮殿の造営だったのである。そこで五年足らず過ごして他界し、異母弟のアブドゥル・アジズ1世 が即位した。文武両道に優れた偉丈夫であったが、財源を無視した出費のため、歳費の財政破綻をもたらし、退位させられて殺された。甥のムラト5世が擁立されたが、宣帝派のクーデターにより退位させられた。
ムラト5世の異母弟アブドゥル・ハミト2世 が即位し、即位翌年より二院制議会政治を始めた(1877年)が、一回きりですぐに専制政治に戻した。猜疑心が強く、やや海から離れたユルドゥズ離宮 に移り、改革派、自由主義者を弾圧粛清し、[流血のため]「赤いスルタン」と呼ばれた。ロシアとの戦争に敗れて、ルーマニア、セルビア、モンテネグロを失い、キプロス島をイギリスに割譲した。赤字財政は銀行からの借入で賄った。汎イスラム主義により非イスラム教徒の敵愾心をあおった。
青年トルコ党 による革命: [イタリアのリソルジメントにおいてマッツィーニらが率いた青年イタリア党や炭焼き党に似ている。]サロニカ[現テッサロニキ ]を本部とし、そこから1909年、イスタンブールに進駐して赤いスルタンを退位させた。ちなみに、トルコの軍艦エルトゥールル号が遭難した事件 が起き、被災者を日本の軍艦で送還した1890年は、この赤いスルタンの時代であった。
代わって即位した異母弟のメフメット5世はドルマバフチェ宮殿に戻った。政治の実験は、サロニカの蜂起を指導したエンヴェル・パシャ が握った。汎テュルク主義 、親ドイツ主義であり、誤った方向へと祖国を導いた。1918年、第一次大戦に敗れて降伏するという悲報の数ヶ月前にメフメット5世は他界した。
異母弟のメフメット6世が即位した。アブドゥル・メジド1世の末子であった。連合国はオスマン・トルコ帝国の分割を画した。このとき登場したのがムスタファ・ケマル(のちのアタチュルク) であった。革命地下組織とつながっていた。黒海南岸のサムスンに着くと、連合国とイスタンブール政府に対して戦闘を宣言し、すべてのギリシア軍を撃破した。メフメット6世はケマル逮捕を命じ、保身のため、イギリスに国を売った。このセーヴル条約の内容がもれ、憤った国民はケマルとともに解放戦争を始めることとなった。孤立したスルタンは廃された。1923年のローザンヌ講和会議でアナトリアはトルコに戻り、ギリシアとトルコの住民交換が行われることとなった。同年10月20日、連合軍はイスタンブールを去った。
アタテュルクの改革 : ケマルは「トルコの父」と呼ばれ、新しい共和国の初代大統領となった。脱イスラム的思考にもとづき、政教を分離し、太陽暦を採用し、フェスとチャドルを禁止した。国際化を促す一方、トルコ歴史教会を発足させ、イスラム以前の歴史も研究されるようにした。そしてドルマバフチェ宮で執務し、他界した。