NHKBSでやっていたので録画しておいたのを見た。ポルターガイストという単語は知っていたが、肝心の映画を見ていなかったので。ホラー映画としては、スタンリー・キューブリックの『シャイニング』の方がよほど怖かった。キャストの顔が半端なくこわかったから背筋が凍った。こちらのキャストたちは、それなりに怖がってはいたが、まあまあ普通の顔であった。

 そういえば『リング』というホラー映画の貞子がテレビから出てくるのはこわかった。ストレートの黒髪を見ると貞子を思い出す。

 

 なお、ポルターガイストという現象は私も経験したことがある。伯父が亡くなり、49日の納骨と法要をしに伯母たちとお寺に行ったのだが、お骨を持ってくるのをすっかり忘れていたので皆でタクシーで取りに帰った時、風もないのに、家じゅうが地震のようにガタガタ揺れていたのだ。伯母たちが「あにさん、勘弁、勘弁」と声をかけると、ガタガタは静まったのだ。この伯父の霊は、伯母たちが法事の御斎をどうしようかと相談していたときにも騒いだ。「うちうちだからこれくらいでいいかね」と伯母が言うと、まるで異を唱えるかのように襖がガタガタ揺れて、「もっと高いのにしろと言っているわ」と、御斎の値を上げたら揺れが治ったのだ。伯父は商家の旦那で、自分の葬式は立派にやってほしかったようだ。3人の伯母も、末っ子の私の母も、このポルターガイストについては涼しい顔をして話している。成仏していない霊は自己主張するのであり、身内の人の霊はこわくないのだ。

 通訳ガイドの知っておくべき一般教養として、読んでみることにした。GHQがなぜ焚書扱いにしたのかも知りたかった。メモる。

 教科書では判然としなかった明治維新期の政治家たちの姿が浮彫になった。西郷、大隈、伊藤、芝居がかっているような偉人たち、まるで小説を読んでいるような、ドラマを見ているような気がした。明治日本で、いかにして郡制が整い、憲法がつくられ、不平等条約が改正され、日清戦争がいかに行なわれたかを知ることができた。

 

 第1章 廃藩置県: 日本では封建制度の打破が比較的スラスラと行なわれた。西郷隆盛は廃仏毀釈が行なわれたことに憤った。その他、明治政府のやり方を嫌厭した者は多く、明治維新は建武の中興の二の舞になりかねなかった。

 朝廷には兵力も財力もなかった。公義政治ではだめで、薩長二藩の実力により妨害勢力を一掃せねばならぬと、大久保利通は意見書を出した。

 西郷隆盛の人気と信頼は絶大であった。西郷は参議に就任すると、新兵を設置し、封建勢力を抑圧しようとした。廃藩置県の断行。

 

 第2章 征韓論決裂: 岩倉一行による欧米視察。征韓論について; 韓国王家は甚だしい欧米嫌いであり、開国した日本を蔑視していた。西郷は道を正して使節を派遣し、使節が危害を受ければ征韓の名分が立つから討伐すればいいと言った。西郷はその遣韓大使となることを切望した。だが征韓には大戦争の覚悟がいると、非征韓派が優勢であった。閣議は決裂し、西郷は故郷に帰った。

 内閣改造。岩倉の帰朝を待つ。内務省を創設し、産業を奨励。榎本武揚を大使としてロシアに派遣、樺太問題にあたらせる(千島・樺太交換条約)。

 不平士族による佐賀の乱が勃発。大久保は台湾出兵をやり、戦後の談判に清国に乗り込んで李鴻章とわたりあい、償金を得て、台湾征討を認めさせた。

 

 第3章 マリア・ルーズ号事件: 新政府の外交官は外交事務に不慣れで、英国公使パークスに威嚇恫喝されるという屈辱的が状況であった。外務省に米人2名が顧問として招聘され、副島種臣を補佐することとなった。そしてマリア・ルーズ号事件(奴隷として搬送しようとしていた破損船にいた中国人225名を日本政府が解放した)が勃発。南北戦争で奴隷が解放されたアメリカでは労働力が不足し、中国から奴隷を輸入していたのである。阿片売買とともに西欧人が中国に対して行なった非道の事例である。清国政府は日本に感謝した。

 

 第4章 西南戦争: 中央政府に対する西郷王国の反乱。

 

 第5章 十四年の政変: 西郷、木戸、大久保という維新の三傑が他界し、大隈、伊藤が登場。この二人には暗黙の闘争があった。

 明治14年(1882年)、大隈重信および大隈派は参議を罷免された。これは大政変であった。大隈一派は政党を組織して自由民権論を掲げ、三菱の財力をバックに福沢諭吉ら三田派と結び、薩長に対して反撃に出た。原因は、北海道開拓使官有物払下げ問題であった。黒田清隆、伊藤博文らは、大隈らの排斥駆逐を図ったのである。

 この事件は、国会開設運動へと発展した。大隈は「立憲の政治は政党政治なり、故に国民の輿望を有する多数党をして政府を組織すべし、速やかに憲法を制定して、・・・国会を開設すべし」と唱導した。薩長は大隈を恐がっていた。この事件の副産物として国会開設の時期が定まった。この政変には伊藤の暗躍があった。開拓使官有物払下げ事件で大隈の人望が増し、薩長横暴の声が天下に満ちていたからである。こうして、政府は薩長の独壇場となり、自由民権論者の恨みは骨髄に沁みた。

 

 第6章 自由党と改進党: 国民皆兵、四民平等、を思案した板垣退助の述懐。日光東照宮を戊辰戦争の戦禍から救ったのも板垣退助であった(神橋の手前、金谷ホテルの前方に銅像がある)。

 議会政治思想は、漢文の翻訳から江戸時代に始まり、福沢諭吉の「西洋事情」、加藤博之の「立憲政体略」などが出版され、大政奉還、五箇条の御誓文となった。

 征韓論の決裂は、土佐の板垣や副島、後藤、江藤ら土佐人を下野させたが、自由民権思想を醸させ、自由党を創設させることとなった。「自由は人の天性なり、自由を保つは人の大道なり・・・」と趣意書冒頭にある。自由民権論が魅力となったのは、当時の官僚が威張り散らしたことに対する反抗であった。

 板垣岐阜遭難事件; 殺されそうになり、「板垣死すとも、自由は死せず」と発した。そのとき、傷を診察したのが後藤新平であった。

 大隈(肥前出身) の大芝居。明治15年に立憲改進党を結成した。こうしてわが国の二大政党が出来上がった。両方とも薩長に抗して立ち上がったのであった。両方とも、明治23年(1890年) の国会開設までは間があるので拍子抜けの観がある。

 

 第7章 国軍の建設: 大村益次郎による日本陸軍の創設。この人が暗殺された後の混乱を収拾し、軍制の基礎をつくったのは山県有朋であった。山県は、戊辰戦争の後、西郷従道とともに洋行し、ドイツの軍制軍備に感嘆し、帰国後、御親兵を組織した(後の近衛兵)。廃刀とし、洋式隊を組織した。

 兵部省が陸軍・海軍に分かれ、山県の徴兵論が採用され、全国徴兵[sistema di coscirizione generale]の詔が煥発された。(ほかに山県は、地方自治制と教育勅語においても功績があった。) 軍人勅諭; 軍人たる者、忠節、礼儀、武勇、信義、質素をゆるがせにすべからざること。これを引き継いで大革新をし、将校の指揮能力を高揚させたのは白面の桂太郎であった。この桂と、川上操六は外遊させられ、コンビで軍政改革を断行した。ドイツの参謀少佐メッケルが日本に派遣され、日本陸軍に猛訓練を授けた[この時学んだ兵站が第二次大戦でいかされていたならば・・・]。

 薩摩人で占められていた海軍の不幸は人材に乏しいことであった。

 

 第8章 憲法発布: 自由党の板垣、改進党の大隈らは、英米風の自由民権的な憲法が必要だと信じていた。国会が成立しても、憲法がなかったのだ。参議、伊藤博文は先進国の制度を調査すべく、欧州へと発った。伊藤はプロシアに入り、憲法学者グナイストの講義を受けた。夏にはウィーンに行き、シュタインの講義を受けた。そして、イギリス風の政党内閣は君権を危うくすると確信した。伊藤はドイツから3人の顧問を連れ帰ることとなった。岩倉は、日本独自の憲法を願いつつ(外務卿の井上馨に)、伊藤の帰国前に、甚だしくるい痩し、ベルツ博士に看取られた。

 憲法の起草は、横須賀湾の夏島の別荘に籠って極秘裡に、明治19年から始まった。伊藤のほか、憲法と皇室典範を井上毅、議院法を伊東巳代治、選挙法を金子堅太郎の4人があたり、ドイツ人顧問ロエスエルが意見した。

 起草された76条は、赤坂離宮内に設けられた枢密院の憲法会議にかけられ、明治天皇が臨御、御検討あそばされた。枢密院議長に伊藤がなったので、総理大臣には黒田清隆がなった。1889年、発布された。この日、文部大臣森有礼が暗殺された。発布の式典には全国の府県会議長が国民代表として参列した。

 これを日本が和気藹々たるうちに作り上げたことを筆者は誇りだと述べている。

 [第一条に「大日本帝国は万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」とある。男系の血筋であっても女性が天皇になれない仕組みとなったのは「皇室典範」が制定された明治22年のことである。]

 

 第9章 大隈と条約改正: 当時の政治家は誰しも、日本を世界列国と比肩できるものにしたいという一心であった。それは不平等条約を改正したいという思いであった。最恵国条款[Clausola della nazione più favorita]、治外法権[Extraterritorialità]、関税自主権の欠如[Mancanza di autonomia tariffaria]の撤回をめざしたのである。日本の税官吏が阿片を密輸しようとしたイギリス人をみつけても英国領事はこれを無罪にした。かくして鹿鳴館、欧化政策が採られる。

 明治21年(1888年)、伊藤は大隈の入閣を懇請し、大隈は外相の印綬を帯びると、鹿鳴館など猿芝居だと、条約改正に邁進した。抵抗を示した英国には威嚇を示し、成功するかに見えたが、大審院に外国人を任用することが憲法違反だという問題が国内世論から起きて努力は水泡に帰す。かくして、大隈は馬車で外務省内にある官邸の門に入ろうとした時、右足を撃たれた。刺客はその場で自害。右足は切断されることとなった。その2ヶ月後、大隈は辞職し、条約改正は御破算となった。改正が成ったのは10年以上後、陸奥宗光、小村寿太郎の奮闘によることとなる。地外法権撤廃は明治32年(1899年)、関税自由権を得たのは明治44年(1911年) のことであった。

 

 第10章 日清戦争前記: 日本は、朝鮮半島がロシアや中国に占領されたら脅威だと考えていた。朝鮮は相変わらず清国を宗主とみなし、西洋模倣の日本を蔑視している。森有礼と李鴻章は、朝鮮は自主の邦か、清国の属国か、について議論した。1882年、暴徒が京城(ソウル) の日本公使館を襲撃、放火した。だが、朝鮮には開化をめざす親日派もいた。そしてその開化派がクーデターを企て、これに袁世凱率いる清国軍が介入した甲申の乱により日本人男女40余人が惨殺され、公使館は放火された。

 翌年(1884年)、政府は伊藤博文を清国に派遣し、談判させた。相手は海千山千の李鴻章(天津談判)。日本を侵略国とする李鴻章に、伊藤は元寇を以て応じて史論を展開。李鴻章は、大約10年内外にして日本の富強見るべきものがあろう、と述べた。

 金玉均について; 甲申の乱に敗れた後、朴泳孝とともに日本に亡命し、福沢諭吉のもとに身を寄せたが、刺客に脅かされ、日本政府に国外退去を命じられ、逃避を重ねたあげく、1894年、上海で閔妃一派の刺客に暗殺された。

 東学党の乱: 1894年、官吏の腐敗に抗して全羅道に乱民が蜂起し、忠清道、慶尚道に波及す。その鎮圧に、李氏朝鮮は清国に援軍を要請。2ヶ月後、それに対し、日本は、朝鮮の独立、清国の膺懲を目的に掲げ、本能のままに出兵することとなる。

 

 第11章 陸奥外交の功罪: 外務省にある陸奥宗光の銅像。この豪傑の人となり。土佐立志社の反政府運動に加わり、投獄されていた陸奥を世話し、外遊させ、将来に期待したのは伊藤であった。それに応え、驚くほど勉強をした陸奥は、駐米特命全権大使となってキャリアを重ね、外務大臣となる。

 東学党の乱に清国が出兵するとともに陸奥の肚は(日清戦争)開戦に決まった。大本営幕僚長、川上操六はそれに応じる。海軍の西郷従道も然り。電光石火の宣戦布告。外国に干渉の暇を与えず、中国を叩いて戦果を拾う、これが伊藤陸奥の作戦であった。欧米列国で日本に同情するものは皆無であり、清国はロシアに頼ろうとした。イギリスは、ロシアが極東で得意の火事場泥棒をやるのを警戒していた。日本は清国を瓦解させ、無政府状態にしては講和の相手がいなくなってしまうので、頃合いを注視した。

 軍事と外交の一致により時局を収拾する。そして旅順大勝。

 下関談判(1895年): 伊藤と陸奥は、李鴻章一行を下関に迎える。老獪な李との対談は宛然(まるで)機智の投げ合い。退出した李が狙撃され、左眼窩下に重傷を負うという事件が起きた。テロリストの青年は直ちに逮捕された。 下関条約締結; 中国は朝鮮に対する宗主権を放棄する。台湾、澎湖諸島、遼東半島の割譲。二億両の賠償金。

 

 第12章 三国干渉: 下関条約締結の3日目、外務省にロシア公使ヒトロヴォーが現われ、遼東半島を放棄すべきだというロシア政府の意向を告げてきた。ドイツ公使もやってきた。この干渉の黒幕は、ロシア蔵相ウィッテであった。ウィッテは大陸から日本を駆逐すべきことを力説していた。そして英、仏、独、3国に共同干渉を申し込んだ。イギリスはしかし、日本の進出よりもロシアの南下を脅威とみなした。イギリスは、インドでもアフガニスタンでもクリミアでもロシアと戦争をしていたのだ(のちのちの日英同盟のもととなる)。

 日本は御前会議を奏請。拒否か容認か、列国会議の開催を求めるか。遼東半島を放棄することとなった。世論は政府を攻めたが、これよりほかに仕方なし、と伊藤。陸奥は『蹇々録』(けんけんろく)に、これは予測していたことだと書いている。

 著者はしかし、露独仏三国に対し、将来その地を合併もしくは租借せざることを約束させなかったのか、と苦言を呈している。ロシアは数年後にそこを租借することになったからである。大隈は、遼東半島を要求すべきではなかったと言っている。

 日支相提携して白人の侵略に当るというのは明治新政府の基調であった。著者は、この日清戦争を通して、陸奥の腹の中にある権道(けんどう)の匂いを感じられてならない、と述べている。

 

 これを読んだだけでは、なぜGHQが発禁にしたのかわからなかったが、欧米列強がアジアを侵食していたことがあからさまに書いてあるからだろうか。

 二村高史氏は、日伊教会の常任理事であり、鉄道オタクのようで、列車旅の著作が多々ある。この本は、イタリアを公共交通機関を用いてボヘミアンな個人旅をした記録である。ツアーに乗っかる旅は面白みに欠けるから、言葉が通じるところはできるだけ個人で旅行するに限る。二村氏の冒険旅行を覗いている。メモる。

 

 「はじめに」にかえて: 「公共交通機関を使うと、地元の人と同じ空間を共有することで、その土地土地の空気を味わうことができるのがいい」「統一されたのは明治維新とほぼ同時代だから、イタリアを北から南までまわることで、まるで世界旅行をしている気分にさえなってくる」と著者。

 

 1. シチリア島の裏街道を鉄道&バス乗り継ぎ旅〜シチリア州: パレルモ空港から市街地の中央駅まではイタリア鉄道が走っている[私はいつもバスに乗っていたので使ったことがない]。中央駅には白いメトロの全線も発着する(2015年に運行開始だが、路線は観光客にはあまり縁がない)。

 トラーパニで魚介のクスクス。エガディ諸島のファヴィニャーナ島へ。マッタンツァ。レヴァンツォ、マレッティモへも。エリチェへも日帰り。

 マルサーラへ鉄道(ミヌエットというディーゼル列車)で行く。Cernia(ハタ)を食す。

 シャッカへ。サルヴァトーレ・ルミア社のバスにて。温泉事情。Via della Stazioneの廃線跡。

 アグリジェントへ。やはり同社のバスにて。

 ラグーサへ(SAL社のバスにて)の途上、パルマ・ディ・モンテキアーロに行っておくべきだったと思う。その母教会について。リカータ〜ジェーラを経由。コミゾ、ヴィットーリアを経てラグーサに到着。二村氏もタヴィアーニ兄弟の『カオス・シチリア物語』を見ていたのだ!! イブラの美しさ。

 モディカへ。国鉄駅で戸惑う。アステカ時代の製法を守るボナイウートのチョコ。La Gazza Ladra というレストラン。

 シクリ。「新しい町に着いたらまず高いところに登る」と著者。岩山斜面の住宅跡。

 ノート。バスで。カフェ・シチリアに行きそびれ、後々再訪する。葬儀。

 シラクーサ。アルキメデスにちなみ、「歩き愛でる町」と著者。

 メッシーナ。海峡の鉄道連絡船でアランチーノを食した著者。

 

 コラム① イタリアの国鉄は2001年に民営化されてグループ会社となり、TrenitaliaとRFI(Rete Ferrovia Italiana) などに分離された。傘下にはバスなど多くの会社がある。

 

 2. イオニア海沿いを走る鉄路に沿って乗り継ぎ旅〜カラブリア州: アルバニアや南仏から来た人たちの集落がある。Merito di Porto Salvo に泊まり、ロッカ・フォルテ・デル・グレーコへ。そこから7,5kmの道を、大洪水で廃墟となった町ログーディへ。

 ペンテダッティロは18世紀の地震で廃墟になった村。

 山上に残されたギリシア文化の町ボーヴァ。路線バスはなくタクシーで訪ねた。

 Grecanico はギリシア語のカラブリア方言。ベルガモットのジャム。

 ジェラーチェ。ロクリから内陸へ7km。ロクリはンドランゲタの本拠地[ロクリ・エピゼフィリの遺跡はすばらしかったのにパスした?]。

 スティーロ[ここは私も訪れたことがある]。モナスティラーチェからバスに乗る。カットーリカの教会堂。

 カタンザーロ。カタンザーロ・リドから私鉄のカラブリア線に乗る。ラックレール鉄道; アプト式。鉄道はそこからコセンツァまで続いている。Trenitaliaのカタンザーロ駅もあるが、辺鄙な荒野にある。駐車場からのフニコラーレもある。

 クロトーネ。ピタゴラスの移住した町。Capo Colonna。穏やかな住民。

 

 3. ローカル私鉄に乗って半島めぐり旅〜プーリア州: Sud-Est鉄道(2016年にFSの傘下に入った。日祭日はほぼ運休)で。バーリが起点。旧市街は安全な観光地となった。

 アルベロベッロ。ロコロトンド。チステルニーノ。マルティーナ・フランカ。オストゥーニ。チェリエ・メッサーピカ。[ポリニャーノ・ア・マーレの洞窟もすてきだ。]

 ターラント。タランテッラという踊りピッツィカ・ピッツィカ。[考古学博物館があるのだけれど。]旧市街は今でも危ない。

 レッチェ。ガッリーポリのマレキアーロで生貝を食す[私はムール貝を食べて1日下痢に悩まされた経験がある]。

 オートラントは最東端の町。大聖堂のモザイク床。オスマン帝国の来襲と800人の斬首。オスマン帝国に抗したアルバニアの英雄的君主スカンデベルグ

 

 4. 狭軌の私鉄と小さな路線バスで奇岩の田舎町をめぐる旅〜バジリカータ州: 山上の州都、近代的なポテンツァ(標高819m) が起点。Trenitalia、アプロ・ルカーネ鉄道。エスカレーターとエレベーターが各所にある。イルピニア地震後に再建された。

 カステルメッツァーノ。奇岩に抱かれた町。Piccolo Dolomiti Lucane. レストランはAl becco della Civetta. 

 ピエトラペルーザ。2時間のハイキングコースでスイテルメッツァーノから行ける。ジップラインもある。

 コラム③ AVはAlta velocità(高速).  ICはIntercity(都市間特急), FBはFreccia Bianca. RVは Regionale Veloce(快速). 

 

 5. アペニン山脈の別世界の廃線跡をバスで乗り継ぎ旅〜アブルッツォ州、モリーゼ州: アブルッツォ州の田舎町巡りの拠点は、高原の町スルモーナ(標高405m)。ローマから2時間半。2009年のラクイラ地震の被害は少なかった。駅前は殺風景。ローマ詩人オウィディウスの生地。コンフェッティの老舗ペリーノ。中世の水道橋。コスパのよいチェジーディオという食堂。ラ・カンティーナ・ディ・ビッフィというワインバー。名物は羊肉をクレメンテという店にて大盛りの夕食。

 アンヴェルサスカンノセチナーロ(標高859m)。カステルヴェッキオ・スベークオ、カステル・ディ・イエーリまで歩く。

 ペットラーノ・スル・ジーツィオ。

 モリーゼ州へ。1960年代にアブルッツォ州から分かれた。カステル・ディ・サングロへ。カルピノーネへ。州都カンポバッソ、カルピノーネ、イゼルニアには鉄道が通っている。ナポリとの間には一両編成のディーゼルカー。フェラッツァーノへタクシーで。カンポバッソにはマフィアがいない。旧市街は階段だらけ。ダ・ネローネというピッツェリーアでトウモロコシ生地を敷いた野菜のミネストラ。FIAT 500の集会。

 イゼルニアは連合軍の空襲にあった町、県都。ペスケ。親父軍団。

 ミランダのカラフルな家々。おじさん天国のバール。

 

 6. アルプスのふもとの小さな町をローカル鉄道VS路線バス乗りくらべ旅〜ヴァッレ・ダオスタ州: ローマ遺跡。アオスタではバスの車内で切符が買える(切符なしだと50ユーロの罰金)。治安がよい。バール(Bard)城砦は聖ヨハネ騎士団の休息所、エレベーターで登れる。鉄道の切符も車内で買える。

 フェニス。古城。ヌス(Nus)。

  西側へのローカル線、最終駅プレ・サン・ディエエへ(老朽化のため2015年に運休となった)。

 国境地帯のクールマイヨールへ。モンブラン・トンネルを通ってフランスのシャモニーへ行ける。そこを筆者はフランス側から入った。トンネルは狭く、中央分離帯がない。Coppa dell'amicizia. 

 ルヴローニュ: クールマイヨールからアオスタへの途上にある町。第二次大戦中にドイツ軍とファシスト軍により襲撃されたパルチザンの町。

 

 7. 伝統と神秘の不思議な島、鉄道&バス乗り歩きの旅〜サルデーニャ州: カリアリからスタート。旧市街は週末に賑わい、著者は夕食難民となりそうになった。ス・クンピドゥ・マーレという店で魚介料理を堪能。フレーゴラというパスタ。ヤギのミルク入りリモンチェッロ。[民俗学に興味がある人には必須の地。]

 arst社のローカル線に乗る。一部はライトレール化されている。

 なんの変哲もない町ドリアノーヴァ。マンダスからアルバタックスへ行きそびれた。

 ポルト・フラーヴィアの廃鉱見学ツアーに参加し、ゴムボートに乗り、鉱石積み出し口を見学する。

 マコメールからヌオーロへ。ヌラーゲについて; 大小7000ほどある先史時代の遺構。グラツィア・デレッダの生家。🫏に乗った中年男性は、サルデーニャ語の研究者、菅田茂昭先生を知っていた。

 マモイアーダのカーニバルと地中海仮面博物館; マムトーネスカント・ア・テノーレオルゴーゾロの壁画。フォンニの壁画。筆者、オルビアから帰国便に。

 

 8. イタリアの中にあるドイツ「南チロル」を再発見する旅〜トレンティーノ-アルト・アディジェ州、ボルツァーノ自治県: 北イタリア、南チロルのドイツ語圏。筆者はポーランド航空で、ミュンヘンからインスブルックを経て、ブレンネーロ峠を通り、イタリア入り。オーストリアが南チロルをイタリアに割譲したサン・ジェルマーノ条約について(未回収のイタリア)。まずビピティーノへ; 500m四方の小さな村。

 ボルツァーノ。1991年に発見された冷凍ミイラ、アイスマン、エッツィの博物館。3つあるお勧めクラフトビール屋の1つ、マルコの店に入り浸る著者。本屋はドイツ語とイタリア語、それぞれ別フロア。ラディン語の文化圏もある。

 レノン鉄道でコッラルボへ。FLIRTという列車でメラーノ近郊のティローロ城へ。

 ワイン街道のカルダーロへ。フリーパス「南チロルモバイルカード」を買う。メンドーラ峠のケーブルカーに乗る。ワイン博物館。サロルノ城(トレントの北側)と古い街並み; 城にはクラフトビールと炙り肉のレストランがある。

 

 二村氏はビールがお好きな鉄道マニアのようだ。ワインも1人で半リットル飲むようだ。レンタカーを借りたらその楽しみは失われる。

 

イタリアの最も美しい町のリスト▼

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%9C%80%E3%82%82%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E6%9D%91

 

 去年から読んでいるラフカディオ・ハーンの作品の影響で、こんどはケルトの妖精の話を読んでみたくなった。著者のイエイツはノーベル文学賞を受けている。ハーンは彼の著作を読んでイエイツに手紙ほ出していたとのこと。

 アイルランドの民俗文化には昔の日本のそれに通じるものがあるようだ。それ以前に、イギリス、アイルランド、ガリア、ケルト、ブリトン・・・歴史的・民族的な関係、宗教問題をも認識する必要がある。南仏のガリア人も、ブリタニアのブリトン人もスコット人もケルト人なのだが、ブリテン島にゲルマン系のアングロ・サクソンが入り、さらにノルマンの征服があった。なぜアイルランドがブリタニアと異質なのかを考えねばならない。下にいくつかのサイトを貼らせていただく。メモる。

 

 魔女、妖精学者: アイルランドでは酪農に携わる農民が多かったようだ。そして、彼らの暮らしを脅かす存在が、赤毛の老女の姿をした魔女であったとある。魔女はうさぎなどの小動物に化ける。魔女から農民を救うのが妖精で、巫女のように様々な呪術を用いた。

 

 常若の国: ティル・ナ・ノグは妖精の棲み家。オドノフーという賢明な君主とその統治についての伝説。いろいろ。

 

 聖者、司祭: 賢い少年が司祭となり、無神論を説き、魂の存在も否定していたが、余命いくばくもない時になって、ある子供と出会い、神を信ずることとなった。その人が死んだ時、蝶が彼の頭の上をひらひらと飛んでいた。二百年前に死んだ修道士が同じ僧院に現われて、告解し、免罪を受けた話。王様が可愛がっていた鵞鳥が年老いた時、その鵞鳥を聖ガヴィンが若返らせた話。

 

 悪魔: これはどれも不愉快な逸話であった。

 

 巨人: とは、異教の英雄たちのこと。いまいち。

 

 王と戦士: 少年の時、騎士に叙勲されたク・ホリンという英雄の話。機織りが王によって乗竜卿に叙勲され、一番大きな竜である王女を娶った話。

 

 王妃様、王女様、王子様、盗人などの話: 十二羽の鵞鳥の話: お妃が王女を望んで得ると、十二人いた兄たちは鵞鳥となり、王女は彼らを救うためにあぶら萱で十二枚のシャツを編む。コン・エーダという王子が継母の王妃に打ち勝った話。その他、この章の話はまあまあ面白かった。

 

 幽霊: この世に未練を持っていて成仏できていないタヴシー(幽霊) の話は東洋に通ずるものがあり、それなりに面白かった。夜に水を撒く時、それが霊魂にかかると危険だという話。「輝く子供」を見た者は最高の権力を手に入れるが非業の死を遂げるという話。けっこう迷信的。フランク・マケナが野兎を追い、コックスティックを投げ、雪の中で死亡したが、仲間に新しいズボンを奪われまいと牛飼いの娘のもとに現われて頼み事をした話。

 

 悪霊: これらもやや不愉快な話。

 

 : 吟遊詩人シャンハンの話。母の遺言に従って金を手に入れ、王の目を治し、幸運を手に入れたオウニーと、彼のことを貶めようとして破滅したずるい従兄弟オウニー・ナ・ピークの話。

 

 

 

 

 

 毎週日曜日に放送されるTBSの『世界遺産』でコインブラを取り上げていた。その中で、「薩摩のベルナルド」というイエズス会士への言及があった。1549年、フランシスコ・ザビエルによって洗礼を受け、1551年、ザビエルとともに日本を出てゴヤに至り、1553年、そこからポルトガルに渡り、コインブラの修道院で過ごし、1554年にイタリアに招かれ、ローマ教皇パウルス4世に謁見した。1556年、再びコインブラに戻り、翌年の四旬節にそこで他界したとのこと。

 天正遣欧使節団の少年たちよりも前にローマ教皇に謁見した日本人がいたとは知らなかった。メモっておく。

 しばらく前からイスタンブールに行きたいと思っている。書庫に陳舜臣の書いた本があったので再読した。メモる。イスタンブールという都市についてのみならず、歴史を概観することもできた。文庫には地図がないので wordpress.com のサイトの地図にカキコミ(青)をしたものを貼っておく。

 

 

 1. 天翔ける征服者: メフメット2世の記念碑。1453年5月29日、この人は21歳の時、コンスタンティノープルを陥落させた。このモニュメントがある地もファティフ(fatih 征服者)という。黄金時代を築いたのはスレイマン1世。王朝最後はメフメット6世。

 陥落させた奇策: 72隻の艦隊をトプハネから山越させて金角湾カスムパシャ海岸側に侵入させた。

 コンスタンティヌス帝がこの地(ギリシア人ビュザスとアンティスが建設した植民市)をコンスタンティノープルとしたのは330年5月11日であった。

 新市街ベイオウル区[金角湾の北側、トレビゾンド帝国の息子の意味]は、ビザンツ時代、ジェノヴァ人の居住区であった。

 1919年5月19日、ケマル・アタチュルクは連合軍を撃退し、新生トルコ共和国を誕生させ、初代大統領に就任した。

 メフメット2世(生母はキリスト教徒)は、12歳のとき王位に就いたが、イエニチェリ軍団(もとキリスト教徒の子弟よりなる選抜親衛隊)の信任を得られず、2年後に復位したムラト2世により、マニサ[小アジア側]に謹慎させられた。この頃、オスマン帝国の首都はアドリアノープル(現エディルネ) にあった。復位5年後に父王が他界すると、メフメット2世はコンスタンティノープルの征服を実現すべく、ルメリ・ヒサル[ ローマ側の要塞という意味]を築造[小アジア側に曽祖父が築いたアナドル・ヒサルの対岸にあたる]し、ボスフォラス海峡を制圧した。この両要塞は、征服後は不要となった(ルメリ・ヒサルの塔からは第2ボスフォラス大橋の景観を楽しめる)。

 コンスタンティノープルは全長16kmの城壁で囲まれていた。その西側はテオドシウス城壁で、5632m、高さ平均11m、外側に堀をもつ。南端にあるのは、五角形の砦をもつエディクレ(7塔の意味)。中央のロマノス門は征服後、トプカプ(大砲) 門と改称された。このエディクレは財宝収蔵庫→処刑場および監獄→博物館となった。

 

 2. 聖ソフィア聖堂、千七百年の歴史: メフメット2世は、征服したコンスタンティノープルへハリシオス門(戦車競技の青組の頭領にちなむ)から入場した。この門は、エディルネからの街道が至るので今はエディルネ門と呼ばれている。そして、聖ソフィア大聖堂(360年に奉献され、404年に焼失して415年に再建、ユスティニアヌス1世の時代、532年のニカの乱で再び炎上、537年に3度目の竣工: 東西77m、ドームの直径32.96m、高さ54m、東西に半円蓋をもつ)をモスクに改造することを命じ、アヤ(ハギア=聖)・ソフィアとなった。オスマン・トルコ時代に4本のミナレット(礼拝を呼びかけるアザーンを発する塔)が建てられた。18世紀には図書館が設けられ、学校、天文台を含む学術センターともなった。(洗礼堂は、17世紀のスルタン、ムスタファ1世の霊廟となった。)

 そのモザイク画を塗りつぶしたのは16世紀、スレイマン1世の時。ただし、当時のモザイク画は8〜9世紀のイコノクラスム(聖像破壊運動) によって破壊され、今見られるモザイク画は10世紀に制作されたものである。(ちなみに、11世紀以降における、東西教会の分離もあり、1204年の第4次十字軍はコンスタンティノープルを大略奪した。) 

 モザイク画: 南入口に『キリストと、平伏する皇帝レオン6世』、左右の丸に聖母と大天使ガブリエル。/西南入口の拝廊上部には、聖母子、聖堂奉献者ユスティニアヌス1世と都市建設者コンスタンティヌス1世』(10世紀後半?)。/南側2階廊東端には、キリストと、コンスタンティノス8世の娘ゾイとその夫となった皇帝の図(コンスタンティノス9世は3人目で、最初の夫ロマノス3世あるいは2人目のミカエル4世の時のモザイクを改竄したものか?/内前廊に入る扉の上には、聖母子12世紀皇帝ヨハネス2世コムネノス夫妻。これらのモザイク画は16世紀、スレイマン1世が漆喰で塗り込めてしまった。20世紀前半それが剥がされ、聖堂は国立博物館となった。しかし2006年、トルコ政府は、博物館内の小部屋をキリスト教徒やイスラム教徒のスタッフが祈りを捧げる場所として使えるよう許可を出し、エルドアン大統領は2019年、アヤ・ソフィアをモスクとする大統領令に署名し、アヤソフィア・ジャーミイとなった。ただし、モスク化後も観光客の立ち入りは認められており、礼拝以外の時間帯は観覧できる。

 ビザンツ時代の遺物: アト・メイダン(馬の広場: 競馬場 10万人収容、400×120m)に3つ並んでいる。北から、テオドシウスのオベリスク、蛇の円柱、コンスタンティヌスのオベリスク; オベリスクはエジプトからのもの、円柱はデルフィのアポロン神殿にあったギリシアの戦勝記念碑であった。競馬場の門に飾られていた4頭の青銅の馬は今ヴェネツィアのサン・マルコ寺院の上に飾られている。

 イリニ聖堂(アヤ・イリニ)について: コンスタンティノープル最古の教会堂。アヤ・ソフィア博物館に属すビザンツ建築の博物館となっている。

 トプカプ宮殿敷地内の考古学博物館には、アレキサンダー大王の石棺(?)がある。

 

 3. ビザンティン残影: エディルネ門から聖ソフィアに至る道はフェジブ・パシャ通りという。コーラ修道院(カーリエ博物館): 城壁に近い地域にあり、モザイクとフレスコ画が重要。 創建は不詳。モスクに転用されていた。

 ミフリマ・ジャーミイ: 名建築家シナンの建設。もとはアギオス・ゲオルギオス修道院が建っていたが、面影はない。

 ファティフ・ジャーミイ: もともとは聖使徒教会であった。当初は総主教座を聖使徒教会に移すことにが、総主教はそれをパンマカリストス教会に移した(16世紀にはアギオス・デミトリオス・オ・カナピス聖堂に移された)。メフメット2世はこれを解体し、新たなモスクを建設した。これは、18世紀の地震で倒壊したあと、再建された。

 1603年、総主教座聖堂となったアゲオス・ゲオルギオスのあるファナリ地区と、その東側のバラット地区(ファナリ/フェネルは灯台のこと)にはギリシア人が多く住んでいたようだ。カンル・ジャーミイ(流血教会)について。

 ヴァレンス水道橋: 北西郊外の水源地から全長551kmに及ぶウァレンス水道の最末端の一部約800m。スルタンアフメト地区にある地下の大貯水池へと給水した。その貯水池は「地下宮殿(イエレバタン・サライ)」と呼ばれている観光名所である。長さ138m・幅65m、容積78,000m3。高さ8mの大理石の柱336本により支えられている。奥まったところにメデューサの顔が逆さに置かれている。

 托鉢僧の館: 聖フランチェスコの壁画をもつカレンデルハネ(托鉢僧)・ジャーミイとキリセ・ジャーミイ。

 ガラタの塔: 旧市街は「スタンブル」と呼ばれている。金角湾の北側は「ガラタ」といい、ビザンツ時代後期、ジェノヴァ人の居留地ペラ(あちら側の意味) であり、そこを城壁で囲み、見張りの塔を建設した。オスマン・トルコ侵攻に際して、ヴェネツィア人はビザンツ側についたが、ジェノヴァ人は、征服後の権益を考えて、中立的な姿勢をとっていた。征服後の待遇は決して甘くはなかった。今では観光スポットの一つとなっている。ガラタとは牛乳を意味し、かつてミルク市場であったようだ。ベイオウル区にあったトレビゾンド帝国はメフメット2世に降伏した。

 イスタンブールのヨーロッパ側は、北をベイオウル、南の旧市街をスタンブルといい、対岸のアジア側は、北をウスキュダル、南をカドゥキョイと呼んでいる。新市街の中心地はタクシム広場、オスマン・トルコ時代の西欧人居住区。これらは現在、地下鉄網によって結ばれている。下に貼る。旧市街から新市街のカラキョイ埠頭へは、跳ね橋(午前2時〜4時のみ開く)のガラタ橋が渡っている(初代の橋は1845年に開通、1994年の建設が最新)。橋は二層で、下はレストラン街。

 トルコ帽: フェス地方の帽子。ケマル・アタチュルクはこれを禁止した。チャドルも禁止した。

 

 4. 聖域エユプ: 7世紀、ウマイヤ朝のムアウィヤは、コンスタンティノープルを包囲したが、預言者マホメットのアンサールであったアブー・エユーブはその陣中で死亡し、城壁の外に葬られた。その聖者の墓が征服後に発見され、聖廟の建設が行われた。金角湾の奥。それに隣接してエユプ・スルタン・ジャーミイも建設され、18世紀末に再建された。トルコ国内最高の巡礼地。墓所の内部は美しいタイルで飾られている。

 メフメット2世は多言語を操る国際人であった。イスタンブールを復興発展させるべく、住民の強制移住をはかり、ユダヤ人も多く受け入れ、 人口を増大させ、宗教別の自治を認めた(ミッレト制)。だからこそ、イスラムの聖者の霊廟エユプをつくらねばならなかったのである。メフメット2世はイスラム化される以前のトルコ、遠祖のオグズを切り捨てたかったと思われる。

 [今日、イスタンブールの人口は15,750,000人である。東京都より多い。]

 

 5. トプカプ逍遥: メフメット2世は最初バヤジットに宮殿を構えた(現イスタンブール大学の構内。今はそこにバヤジット2世のモスクがある)。これが1541年に火災にあった後、新しいトプカプ宮殿を、1000年前にギリシア人がアクロポリスをつくった高み(第一の丘)に建てた。トプは大砲、カプは門を意味する。門に大砲が置かれていたからだと思われる。征服して19年後、1472年着工、1478年竣工。ビザンツ時代の城壁と濠はそのまま利用できた。

 この宮殿(約700.000㎡≒紫禁城や明治神宮と同じくらい)は中国の様式に影響を受けたという説があり、北京の紫禁城に似ているというがシンメトリーは無視されており、遊牧気質を感じると筆者。第1の門(帝室門: バーブ・イ・フマーユン)を通ると公的な部分があり、第2の門(敬礼門: バーブ・ウ・セラーム) 博物館の入口となっている。左手に三角屋根の塔(正義の塔)。塔の下に議事堂。その南西に厩舎。その反対側には、大きな厨房(今は陶磁器展示場で、中国や日本の陶磁が10358点)。第3の門(至福門: バーブ・ウ・サァダト)を入ると内定、つまり私的生活空間があり、アフリカ系宦官の控室があった。謁見の間、文人スルタンであったアフメット3世の図書館、西側にはハレムがあった。第3の中庭東側には宝石展示館(もとは征服者の間)があり、有名な宮殿のシンボルの短剣がある。歴代スルタンは宝物を相続しなかったので多くある。さらに北側に、第4の中庭があり、タイルの内装と眺めがみごとなレヴァン館とバグダッド館、池と亭、チューリップの花苑がある。ラーラは医師、ラーレはチューリップ、医師先生の庭がチューリップの庭となったとのこと。右の隅の建物はレストランとして使われている。

 なお、スルタンの宮殿がドルマバフチェ宮殿(今は迎賓館)に移ったあと、トプカプ宮殿の北側で1863年に火災があり、その罹災地跡にシルケジ駅が建設され、1883年、オリエント急行がここまで開通した。

 今のイスタンブールには尖塔が多い。それは遊牧民の好みか、と筆者。

 ハレム(禁断の場所を意味するアラビア語ハリームが語源)について。入場券は別売り。部屋の数は250〜300あるいは800ほど。16世紀後半、ムラト3世(オスマン・トルコ第12代皇帝、スレイマン大帝の孫、妃はヴェネツィア出身)の頃から成立という説あり。ハレムのムラト3世館は第建築家ミマル・シナンの作品。この頃より、ハレムの女性たちが後継争いに権謀術策を弄したとのこと。

 メフメッド2世の息子、バヤジットと弟ジェムシドあるいはジェムの後継争いについて。ヨーロッパを巻き込む長期戦となったが、弟を殺してバヤジッド2世となる。

 大宰相ムラト・パシャについて: 半世紀にわたり無能なスルタンを支えた大宰相。

 

 6. 大スレイマンの光と影: オスマントルコの黄金時代を築いた第10代皇帝スレイマン1世。36人の皇帝のうち、最も長く(46年間)統治し、大帝と呼ばれる。

 スレイマニエ・ジャーミイ: 第建築家ミマル・シナンの建築。救貧院、無料給食接待所、病院などが付属しており、金角湾を見渡す丘の上に建つ。界隈は下町的。イスタンブール大学の近く。大帝はここに葬られることを望んだ。

 愛妃ロクソラン・フルレムについて: スラブ系ロシア人。モスクの複合施設キュリエを建造。皇太子メフメットのためのモスク、ジェザーデ・ジャーミイ。水道橋の南側。

 大スレイマンの父、セリム1世について: ヤウーズ(冷酷) と呼ばれた。その業績は多大で、230万㎢の領土を650万㎢余にして息子のスレイマンに引き継いだ。

 フルレムの産んだ4人の息子のうち、残ったのはセリムだけとなったので即位継承にかかわる紛争はなかった。立法者と言われるように国家の法体系をつくった。海軍力も充実させた。オスマン海軍を率いるカプタン・パシャ、ハイレッデン・バルバロスという海賊について。シナンはこの人の墓所を設計した。

 オスマン・トルコはフランスと同盟関係を結び、ハプスブルク朝を苦しめた。

 リュステム・パシャのモスク; この人は、大スレイマンの娘ミフリマの夫で、姑フルレムのために画策した。タイルの内装がすばらしい。1561年頃の建立。

 ミフリマの名を冠したモスクはイスタンブールに2つある。対岸のウスキュダルと、エディルネ門の近く(19世紀の再建)に。いずれもシナンの建築。シナンの建てたモスクは134あると言われている(大きなモスクをジャーミイ、小さいのをマスジドと呼ぶ)。シナンの建てたジャーミイは83あるとのこと。

 大帝の後継者、セリム2世について; 酒飲み酔っ払いであったとのこと。キプロスを攻略した。1571年、レパントの海戦で、キリスト教連合軍に敗れた。

 1579年、宰相ソコルル・メフメット・パシャが暗殺されると、帝国は支柱を失った。

 

 7. モスクとバザール: ブルー・モスクと呼ばれるスルタン・アフメット・モスクについて; アフメット1世(1590〜1617年) は、スレイマン大帝の曾孫(孫の孫、やしゃご)。トプカプ宮殿に近い土地には貴族や宮廷人の邸宅が多くあったが、これらを買収して建てた(1616年竣工)。分不相応なモスク。6基のミナレットをもつ。内部の青いタイルが美しい。

 アフメット1世の没後、後継をめぐり帝国は揺れ動いた。

 スルタナフメト界隈; シナンが設計したロクソラン・フルレムの浴場がある(今は絨毯の展示場)。聖ソフィアの裏、トプカプ宮殿の城壁に沿った坂道に風情がある。

 イエニ・モスク(新しいモスクの意味); 観光用ではないヴァーリデ・モスク(皇帝メフメット3世の母、ヴェネツィア出身のサフィエ・ハトゥンの発願、メフメット4世の母トゥルハンが事業を継続)。ヴァーリデとは「皇帝の母」を意味する。

 バザール: 香料市場(ムスル・チャルシュ=エジプト市場)。今では香料専門店は6軒のみ。イスタンブールで第2のバザールだが庶民的。

 グランバザール: 街路は65筋。3万㎡。3300の店を擁す。食糧(アバー)と場所(ザール)の合成語。高い天井をもち2階3階もあり、地元ではカパル・チャルシュ(屋根付き市場)と称す。宝石・貴金属を売るベデステンは、警備のため囲いがある。同業組合組織(ギルド) をエスナーフ・ロンジャスゥと呼び、それは700以上あった。1589年、1618年、1660年、1695年、1701年の大火、1766年の地震をはじめ、幾度もの火災を経験している。モスクと礼拝堂、7つの泉池、21の商館(ハン) もある。

 チチェク・パサジ(花市場) : ガラタ塔に向かうイスティクラル通り。

 ウスキュダルには大露天市がある。

 ガラタ橋の下のレストラン街。

 観光クルーズ: ボスポラス海峡の左右に寄港しながら2時間ほどで黒海ちかくまでいく。寄港地の近くには露天市がある。

 トプカプ門外の長距離バスターミナル付近にも、古着市が形成されている。

 

 ヌルオスマニイエ・モスク(オスマンの光のモスク) : バロック様式を取り入れた18世紀中頃(無能なスルタンが続いた宰相の時代)にできたモスク。

 カラ・ムスタファ: 第二次ウィーン大包囲作戦を率いた宰相にして総司令官。敗戦の責を問われ、ベオグラードで処刑された。以後、オーストリア、ロシアが勢いづいた。 

 ムスタファ2世は1703年、反乱が起きて退位させられ、1703年、同母弟のアフメット3世が即位した。耽美的でチューリップ時代(ラレ・デウリ)と呼ばれる時代となる。大宰相イブラヒム・パシャは風雅の士であった。チューリップは「トルコ帽」が語源。時の抒情詩人アフメット・ネディムについて。

 1730年、反乱が起きて、スルタンは退位し、宰相と詩人は処刑された。

 

 筆者は教会巡りをする。東方正教会の総主教座は1603年以来、ファナル(灯台区) のアギオス・ゲオルギオス聖堂に移されていた(1720年に再建)。

 14世紀末以降、ギリシアを含め、バルカン半島全体はオスマン帝国の支配下に置かれ、それは、1820年に始まったギリシア独立戦争後、1830年のロンドン議定書まで続いていた。スルタンたちは、ギリシア人を追放もせず、改宗を迫りもしなかった。ところが、20世紀になってから住民交換が行なわれ、トルコにおけるギリシア系住民の数が激減した。第一次世界大戦に敗れたオスマン・トルコは解体・分裂の危機に追い込まれ、ギリシアの首相ヴェニゼロスは、アナトリアもギリシアだと主張し、トルコに出兵した。これをケマル・アタチュルクが撃退した(1922年)。こうして、ギリシア領内に住んでいた90万人のトルコ人、トルコ領内にいた200万人のギリシア人が居住地を交換したのであった。

 パクス・オスマニカ(オスマンの平和) の時代には、今日あるような中東の紛争はなかった[第二次対戦後、1948 年にイスラエルが建国されたこともある]。

 イスタンブールの花市場にはアルメニア正教会もある。アルメニア人は、ロシア・イラン・トルコにはさまれ、祖先の土地に住むことができずにきた。トルコによるアルメニア人の大虐殺(1915〜1916年)について: イスタンブール在住の60万人の犠牲者をだした(wikipediaは100万人以上としている)。

 筆者は、ユダヤ人のシナゴーグ(ガラタ塔の前の坂を下りる途中)をも訪れた。パレスチナ・ゲリラを警戒し、入るのは難しかった。ユダヤ教徒はイスラム圏ではおだやかに暮らしてきた。それが今では、不倶戴天の敵のようになっている。

 

 8. 海峡の彼方: ボスポラス大橋を渡ったたもとにある避暑の別荘、ベイレルベイ宮殿について。19世紀に建てられたもの。その北の方には、キュチュックス離宮がある。

 対岸のウスキュダル地区について[今は海底鉄道マルマライ線で行ける。]; 埠頭はシェムシ・パシャ。ミフリマ・モスクの後ろに、イエニ・ヴァーリデ・モスク(18世紀) がある。その西側には、シェムシ・パシャ・モスク(1580年、詩人のために建てられた)もある。

 南下すると、カドゥキョイ地区となる。ガラタ橋のたもとのエミノニュからフェリーで15分で行ける。ギリシア人はここをカルケドンと呼んでいた。学校の多い文教地区である。アジア側の鉄道駅ハイダルパシャ駅があり、長距離バスのターミナルでもある。アジア側の田舎には、素朴な人々が住み、ヘレケやカイセリなどには絨毯(ファルシュ)工房があったりする。上質なものはカーリー(トルコ由来の言葉)、質のおちるものはゲリームという。絨毯は遊牧民の必需品であった。礼拝も絨毯の上で行なう。

 ササン朝ペルシアの大王ホスロー2世と、ビザンツ帝国の皇帝ヘラクレイオス1世について; ホスロー2世、ビザンツ領への侵攻し、イェルサレム占領と聖墳墓教会から聖十字架を持ち去る。ニネベでの戦いでビザンツ軍がペルシア軍に勝利する。(聖十字架は、ホスロー2世の息子カワード2世が、ビザンツとの関係修復のため聖十字架を返還した)[現在 Santa Croceはローマなど各地に分散している。]

 カルケドンの公会議について; 単性論が排斥され、両性説といわれる説が採用された。キリストは唯一の位格の中に人性と神性を有するという思想である。キリストの位格は1つではなく、神格人格との2つの位格に分離されるというネストリウス派の主張 nestorianesimo があらためて斥けられ、異端とした。聖職者の妻帯を認めるなどより人間的であり、中国ではこれを景教と呼び、日本にも伝わった。

 

 9. ドルマバフチェ百年: 19世紀半ばに建設された王宮、ドルマバフチェ宮殿について。それを建てたアブドゥル・メジド1世について。

 その父、マフムト2世の果断な事業: イェニチェリ軍団を廃絶し、新軍隊に編入するという改革が行われるとイェニチェリは宰相官邸を襲撃し、反撃されて虐殺された。このスルタンは、ヨーロッパ式の近代的な軍隊をつくろうとし、ターバンの代わりにトルコ帽を採用した。54歳で他界すると、アブドゥル・メジド1世が即位し、西欧化政策を引き継いだ(1839年)[なんだか日本の幕末維新に似ている]。改革のためギュルハネ勅令が出された。それは臣民の信教の自由と平等を謳っていた。この西欧化政策の一端が、ドルマバフチェ宮殿の造営だったのである。そこで五年足らず過ごして他界し、異母弟のアブドゥル・アジズ1世が即位した。文武両道に優れた偉丈夫であったが、財源を無視した出費のため、歳費の財政破綻をもたらし、退位させられて殺された。甥のムラト5世が擁立されたが、宣帝派のクーデターにより退位させられた。

 ムラト5世の異母弟アブドゥル・ハミト2世が即位し、即位翌年より二院制議会政治を始めた(1877年)が、一回きりですぐに専制政治に戻した。猜疑心が強く、やや海から離れたユルドゥズ離宮に移り、改革派、自由主義者を弾圧粛清し、[流血のため]「赤いスルタン」と呼ばれた。ロシアとの戦争に敗れて、ルーマニア、セルビア、モンテネグロを失い、キプロス島をイギリスに割譲した。赤字財政は銀行からの借入で賄った。汎イスラム主義により非イスラム教徒の敵愾心をあおった。

 青年トルコ党による革命: [イタリアのリソルジメントにおいてマッツィーニらが率いた青年イタリア党や炭焼き党に似ている。]サロニカ[現テッサロニキ]を本部とし、そこから1909年、イスタンブールに進駐して赤いスルタンを退位させた。ちなみに、トルコの軍艦エルトゥールル号が遭難した事件が起き、被災者を日本の軍艦で送還した1890年は、この赤いスルタンの時代であった。

 代わって即位した異母弟のメフメット5世はドルマバフチェ宮殿に戻った。政治の実験は、サロニカの蜂起を指導したエンヴェル・パシャが握った。汎テュルク主義、親ドイツ主義であり、誤った方向へと祖国を導いた。1918年、第一次大戦に敗れて降伏するという悲報の数ヶ月前にメフメット5世は他界した。

 異母弟のメフメット6世が即位した。アブドゥル・メジド1世の末子であった。連合国はオスマン・トルコ帝国の分割を画した。このとき登場したのがムスタファ・ケマル(のちのアタチュルク)であった。革命地下組織とつながっていた。黒海南岸のサムスンに着くと、連合国とイスタンブール政府に対して戦闘を宣言し、すべてのギリシア軍を撃破した。メフメット6世はケマル逮捕を命じ、保身のため、イギリスに国を売った。このセーヴル条約の内容がもれ、憤った国民はケマルとともに解放戦争を始めることとなった。孤立したスルタンは廃された。1923年のローザンヌ講和会議でアナトリアはトルコに戻り、ギリシアとトルコの住民交換が行われることとなった。同年10月20日、連合軍はイスタンブールを去った。

 アタテュルクの改革: ケマルは「トルコの父」と呼ばれ、新しい共和国の初代大統領となった。脱イスラム的思考にもとづき、政教を分離し、太陽暦を採用し、フェスとチャドルを禁止した。国際化を促す一方、トルコ歴史教会を発足させ、イスラム以前の歴史も研究されるようにした。そしてドルマバフチェ宮で執務し、他界した。

 

 

 

 先日、仕事をさせていただいたイタリア人が、今 Shou Ishida の Un gatto per i giorni difficiliという本を読んでいると言っていた。検索したら、京都の本大賞を受賞した本であり、舞台は京都の裏路地。ならばと私も読んでみることにした。各国語に訳されているようだ。

 

 まず、京都市中京区麩屋町通上ル六角通西入ル富小路下ル蛸薬師通東入ル、を地図検索してみた。今度仕事で京都に行ったら散歩してみよう。私のホテルは、中京区新椹木町通二条上ル・・・だから近いではないか!!  赤く囲ったところ(▼)に、そのへんな「中京こころのびょういん」というメンタルクリニックはあるかしら? 化け猫の医者と看護婦に会ってみたい。京都の路地裏と化け猫病院!!  楽しみだわ。

 

 フレーメン反応? 勉強になった。

 保護猫センターか。私の友だちもS区のそこで猫をゆずってもらった。かわいい。

 事故物件、幽霊がでる?

 またたび茶で酔う? 医師も看護婦も。やはり人間ではないのか?

 サビ猫、アメリカンショートヘア、ラグドール、スコティッシュフォールド、おもわず画像検索してしまった。三毛猫と虎猫しか知らなかったから。

 祇園花見小路に住んでいる芸妓とそっくりの看護婦、いいなあ。

 

あらすじなどはこちら▼

 

 

 これは『日本の面影』といっしょに購入し、既に読んでいたが、メモっていなかったので、改めて目を通す。

 

 弘法大師の書: ひらがなは弘法大師空海がはじめて日本人に教えたという俗説を書いている。弘法大師が中国にいたときの伝説なども。五筆和尚。空に字を書く、紀ノ百枝の夢、小野道風の夢、「美福門」と「光華門」[平安京の御所にあったのだろう、探したが見つからず]の扁額の修復など、すべて真鍋晃[学僧だったようで、松江入りした後に姿を消す]が語った話。

 

 鎌倉・江ノ島詣で: 寂寥の思いが重くのしかかってくるような興廃した村落[明治時代は今とはかなり異なっていたが、北鎌倉はなおも鄙びている]とあり、古の御仏たちは、朽ち果てたまま、寺院の深い沈黙の中に住まわれている。ハーンは円覚寺、建長寺を訪れ、描写している。

 曽我貞義という浪人の妻が三日後に生還した話; 生前、絹を紡いでいたが、お地蔵様に頭巾をこしらえた人。

 閻魔堂と呼ばれる古い禅宗の寺、円応寺を訪ねる。運慶蘇生の話。

 露座のままの大仏について。柔和で夢見るような無心の表情と安らぎ。

 長谷の観音について。十一面観音を拝む。

 荒廃した無数の神社仏閣を見るにつけ、死せる都、鎌倉の往時の栄華と広大さをひしひしと思い知らされる。

 江ノ島。片瀬という村で人力車を乗り捨て、潮が引いていたので歩いて渡る[まだ橋がなかったのだ]。坂道、石段、多くのみやげ物、貝細工を買い込む。江ノ島には、霊的な、名状しがたい魅力が潜んでいる。弁天様の物語。

 

 盆市: [横浜の元町にて]死者の祭りであるお盆のために必要なものを売る市。お供物、盆提灯、蓮の花と葉、かわらけ、盆灯籠、しきみの枝、みそはぎの枝。十五日の施餓鬼供養。精霊舟を浮かべることは最近禁じられるようになって残念。翁町[今の横浜市中区]にあったアキラの宿。仏壇。戒名。きりぎりす。海藻でできた棒。つくり花。

 

 美保関にて: [松江市東部の海辺の町]美保関の神様は、船乗りの守護神であり、卵、鶏、ひよこがお嫌い。理由について、事代主神にまつわる言い伝え。近くの安来では反対である。細い神のお札。米粒を入れた紙袋。宝寿寺の飾り物。舟唄。賑やかな夜。無作法ではない。暴力沙汰はない。

 

 日御碕にて: 日御碕神社を訪ねる。天照大神と素戔嗚尊を祀る二つの神社。漁船に乗る船旅。岸壁の描写。経島。干しイカ。立派できらびやかな神社の財源は所有地からの収入だという。宮司の屋敷。検校の歴史について: 1661年、松平綱隆の時の事件

 

 八重垣神社: 佐草の八重垣神社を訪ねる(松江の南方4km)。縁結びと愛の神、八岐大蛇から櫛名田比売を救った素戔嗚尊と子供の左草命を祀る。『古事記』。〜八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を〜。八重垣の玉椿。夫婦雛の入っているお守り[もうないようだ]。背後の森の中にある池に棲む井守の黒焼きの粉末は惚れ薬。一厘銭を載せて池に浮かべ、井守が近づけば吉。

 

 : 稲荷神社の狐について。稲の神だが、富の神として、女郎にも崇拝されている。怒らせると不幸をもたらす。狐憑きについて。妖怪狐は人をたぶらかす。

 

 二つの珍しい祭日: 動植物の意匠が意味するものについては、百科事典が一冊書けるくらいである。

 中でも二つの祭日について; お正月の風習と飾りについて。注連縄、注連飾り。日の丸、門松。松の象徴的な意味; 生命力、竹は節、そして梅。注連縄の起源。日本では、左は清浄なので、注連縄は左捻りであらねばならない。吊り下がっている藁は三本、五本、七本。御幣。シダの葉、ダイダイ、ユズリハ、木炭の束などは、子孫繁栄を意味する。神棚には、二段重ねのお餅、注連飾り、蕪、大根、鯛、スルメ、ジンバソウ、昆布。餅花。勝栗、海老、黒豆、お餅などを三方に載せる。

 節分について。旧暦によれば一年の始まり。鬼やらいの儀式。白豆を撒き、あとで集めて、春の雷鳴を聞いたら煎って食べる。家の戸口に、ヒイラギの葉と鰯の頭からなる魔除けを置く。人形(ひとがた)を神社で買って、それで自分のからだを撫で、祝詞をあげて神社に戻す。神主はそれを火にくべ、無病息災を約すとする。

 

 伯耆から隠岐へ: 隠岐へ行くことにした。もっとも知られていない土地だから。後醍醐帝と後鳥羽帝の配流地であるというほか、情報が少ない。出雲から60km沖の島二つの群島より成る。手前の島前には知夫里島、西ノ島、中ノ島、主島の島後は大きく、45の町村がある。山がちで耕地は少なく、漁業を生計としている。冬は本土との行き来はほとんど絶える。島の人口は三万強。

 松江から伯耆の堺港へ。そこから翌朝、小舟から汽船に乗る。煙突から煤煙。西瓜による試練の航海。西郷に泊まる。西洋料理も注文できる宿であった。肥料に使う魚の腐臭。魚の干物に隠れて島から脱出した後醍醐帝の話。プライバシーのない日本の生活。それでもハーンは感動し、喜びを味わった。

 

 幽霊とお化け: 雪の朝、親戚の金十郎とともに神社へ化け物を見に行く。雪女の話。薮村の薮神社は風邪の神を祀る。見せ物のお化け小屋。人形と人間が混在している。たぬき坊主。三つ目入道。山姥などなど。二銭払って地獄めぐり。芝居がかった幻灯[トーキー映画のようなものか]。金十郎の話は面白いとハーン; 墓を掘り返し、子供の死骸を食わせる姫君、それはお菓子であり、姫は求婚者の中から勇敢な者を選んだのであった。/戦争に行った許嫁は遅れて帰郷し、許嫁は死んだと思っていたが、生きていたので結婚して子もなした。嫁の両親と再会した時、妻はやはり死んでおり、位牌となっていたが、子供はすやすやと眠っていた。

 

 思い出の記 小泉節子: [これはほとんど『ばけばけ』のとおりである。]宿屋の娘が目を患っていたのを治してあげた話。北堀の屋敷で、山鳩や蝦蟇に親しんだ話。伯耆の宿での話、加賀浦の潜戸に旅して泳いだ話、西田と杵築に行った時の話(盆踊り、君が代)、出雲の寒さに閉口した話、熊本で墓場を散歩した話、隠岐での見物騒ぎ; 宿屋のひさしが落ちたこと、境港の勇ましい盆踊り、備後山中の寂しい宿が気に入った話、東京は地獄、東京の薄気味悪い広い家を「面白いの家です」と気に入ったが、あとで聞くと化物屋敷であったという話、「面白いのお寺」と気に入った瘤寺。寺の木が伐られたときの話。西大久保の日本風の広くて静かな田舎家を買うことにした話。ただ想像してものを書くのが楽しみで、交際は嫌いだったという話。怪談が大好きで、セツはそれらを古本屋でさがし、ただし本を見ずに、ランプの心を下げて夜に怪談を話し、まるで発狂した人のようであったこと。笹の音を壇ノ浦の波の音だと言ったこと。大学をやめてから『日本』を書いたが、「この書物は私を殺します」と言っていたこと。その校正を見て数日後に他界したこと。江ノ島で買った法螺貝のこと。

 上野の展覧会にはよく出かけ、気に入った絵は金に糸目をつけずに買ったこと。京都でお寺を気に入ると十倍もの拝観料を払おうとしたこと。呉服屋で浴衣の反物を三十反もまとめて買ったこと。

 西洋風のものが嫌いで、日本的なものが大好きであったこと。浦島太郎の話が好きだったこと。西向きの部屋が好き。だまされやすい善人であったこと。長男に毎日1時間教育したこと。夜半まで執筆していたこと。弱者にひどいことをする事に怒っていたこと。自分も妻子のためにいろいろと我慢したこと。電車、電話などが嫌い。

 好きなものは、西、夕焼け、夏、海、遊泳、芭蕉、杉、淋しい墓地、虫、怪談、浦島、蓬莱、マルティニークと松江、美保の関、日御碕、焼津、ビフテキ、プラムプーデン、煙草。などなど。あっけない死[狭心症]。瘤寺で葬式、雑司ヶ谷の墓地に埋葬。

 

  ラフカディオ・ハーン略年譜: 他界前に書いた『日本 一つの試論』は、没後に出版された。

 

 訳者あとがき: この本は、アンソロジーである。もともと二巻本で700頁に及ぶ大作。ハーン入門といえる。

[紀行文でありながら、文化論でもある。たいへん面白い。]