盛者必衰は歴史の理(ことわり)であり、例外はない[日本もアメリカもロシアもやがて衰退するのだろうな]。塩野さんは、その速度を人智によってできるだけゆるやかにすることに成功したのがヴェネツィアだと言う。
第4巻: この巻の表紙は、ヴェネツィア派の最高峰とも言えるティツィアーノの「手袋をもった男」である。ルーヴル美術館にある。
第8話 宿敵トルコ: 塩野さんは初めてイスタンブールを訪れた時、閉鎖されていた海軍博物館を特別許可をとって訪れたのに、あまりにお粗末な展示に落胆したという。オスマントルコについて: 14世紀初頭に誕生して小アジアのブルサを征服し、西へと進み、ビザンツ帝国を脅かす。皇帝は西欧に援軍を要請しても無駄なことであり、トルコは進撃を続け、ビザンツは風前の灯。1402年、オスマントルコはモンゴル軍に敗れ、ビザンツは20年間安堵する。
その間、ヴェネツィアは本土 Terra ferma への拡張を進めた。増えた自国民のために食糧の確保が必要だったこと、ヴェネツィアに集まる商人たちのために安全な陸路を確保する必要があったからである。折しも、ミラノのヴィスコンティ公の他界とお家騒動により、北イタリアの各地方が自発的にヴェネツィアの傘下に入ることを望み、ヴェネツィアはそれに対して大幅な自治を認めることで、ヴェネツィアの領土はベルガモからフリウリまで広がることになった。ヴェネツィアは経済大国となり、塩野さんは、戦争回避を訴えた元首トンマーゾ・モニチェーゴの選挙演説を引用する。
そして1422年、オスマントルコは再びコンスタンティノープルを包囲し、ビザンツはそれに屈して貢納の義務と軍務を負う属国となる。1451年、スルタン・ムラードの没後、マホメッド二世が即位する。この若いスルタンは、アナトリアで起きた反乱を鎮圧すると、多数の工夫を徴収し、ボスフォロス海峡のビザンツ領内ヨーロッパ側に要塞を築く。この海峡を支配し、通行税を徴収するためである。払わねば砲撃し、乗組員の首を刎ねた。ビザンツは、援軍を求めるにもカトリックに屈するのは否であった。そしてコンスタンティノープル攻城戦が始まる。西欧は手をこまねいていた。援軍は国としてのものはなく、ヴェネツィアの5隻を含むわずか16隻であった。それでも53日間を耐えたが、1453年、陥落し、古代ローマの名残は消えた。最後の皇帝の名は建設者と同じコンスタンティヌスであった。
マホメッド二世は無人の街と化したコンスタンティノープルに強制移住を行ない、非トルコ人にキリスト教の礼拝を許したが、聖堂の大半をモスクに改造させた。
ヴェネツィアはトルコと友好通商条約を結んだ。自由通商を認められたが、関税(売上の2%)を払わねばならなくなった。スルタン・マホメッド二世はアレクサンドロス大王と同じ栄光を望む人であった。彼には情報収集に四つの情報源があった: スルタンの宮廷に出入りする西欧の古代研究家知識人、その代表はチリアコ・ダンコーナ。そして、ギリシア正教会の僧侶たち。「売り込み」を図る裏切り者たち。フィレンツェのメディチ家を後ろ盾にするスパイ: 一例はベネデット・デイ。マホメッド二世はフィレンツェを好んだ。このようにヴェネツィアとオスマントルコの確執攻防は執拗なものであった。
1463年、トルコはヴェネツィア領アルゴスを落とし、レパントやモドーネ辺りをも脅かす。ヴェネツィアはハンガリーと対トルコ同盟を組み、アルバニアのスカンデルベクも共闘し、アルゴスを奪回する。トルコに立ち向かったのはこの三国だけであった。1468年、スカンデルベクが他界する。トルコはさらにヴェネツィア領ネグロポンテ(エーゲ海)を狙い、1470年、これを陥落させた。この攻防戦を指揮した提督をヴェネツィアは追放刑に処した。その後、ヴェネツィアはスルタンの義母(父の妻)であるセルビアの王女マーラに取りなしを頼むも、スルタンの講和条件はとうてい呑めるものではなかった。ヴェネツィアはスルタンの暗殺を企て、主治医のヤコポ・ダ・ガエタに白羽の矢を立てた。その連絡を請け負ったのは、フィレンツェのアルビッツィ家のランドであるが、出発後消息を断つ。そしてマホメッド二世は1481年まで生き延びる。その間、トルコはペルシアと戦争をし、アルバニアに侵攻する。1479年、講和条約が成立。ヴェネツィアは、トルコの陥落させたネグロポンテと、スクータリを含むアルバニア一帯をトルコ領と認めたが、コルフ島、モドーネ、コローネ、クレタ島などの海外基地をヴェネツィア領と認めさせた。しかし、スルタンに通商料(年に1万ドゥカート)を支払う。住むところを失ったアルバニア人は、南イタリアやシチリアの内陸部に移住した。
講和後、スルタンはヴェネツィア一の画家を要請してきた。ジェンティーレ・ベッリーニ一行が「文化使節」として国費で派遣される。彼はトプカピ宮殿にて、スルタンの肖像画[今はロンドン・ナショナル・ギャラリーに収蔵されている]を描いた。洗礼者ヨハネの斬首の絵の写実性についてのエピソード。画家が1481年に退出した3ヶ月後、スルタンは他界した。1482年にはフェラーラ戦争が起こる。なお、キプロスの王に、ヴェネツィア貴族コルナーロ家の娘カテリーナが嫁ぎ、1489年、キプロスはヴェネツィアに譲渡されることになる。
ヴェネツィアはその後もトルコの脅威から逃れることはできなかった。陸地型の国家はほんの小さな土地であっても自領の拡大に執着するものだ、と塩野さんは言う。[この本が上梓された1980年当時、ウクライナはまだロシアから独立しておらず、1991年に独立したものの、2022年にロシアから侵攻を受け続けていることを思わずにはいられなかった。]
第9話 聖地巡礼パック旅行: 1480年、ミラノ公国の官吏サント・ブラスカ35歳の例。まずパヴィアの僧院を見学する。クレモナ、マントヴァ、フェラーラを経て、キオッジャからヴェネツィアへ。ヴェネツィアは国ぐるみでこの観光事業に取り組んでいた。ヴェネツィアの聖遺物に参拝すると「完全免罪」を得ることができる、という特権をヴェネツィアは教皇庁から与えられていた。この人は、聖遺物を拝むだけでなく、「ヴェネツィアと海の結婚」を見るなど、世俗的祝祭にも参加し、パラッツォ・ドゥカーレのようなモニュメントや造船所をも見学した(この人が見学したベッリーニ兄弟による天井画や壁画は1577年の火災で焼失し、今はティントレットやヴェロネーゼによるものとなっている)。アンドレア・ロレダンの艦隊の帰還も見学した。
トロマーリオ[イタリア語の辞書にない言葉]という観光事務員について: 外国から来る巡礼者の宿泊から観光、渡航にかかわる各種手配まで、観光事業一般の世話をやく役員がおり、巡礼は団体化、パック化されていた。巡礼に必要な三種類の証明書: パスポート、聖地巡礼認可証、イスラム教徒側からのビザであるが、ヴェネツィア政府は、そのうち二つの取得を代行してくれた。ヴェネツィアには、万が一に備えた、旅行保険のようなシステムもあったので、マルセーユからよりもヴェネツィアからを選ぶ人は多かった。ラテン帆を張った帆船で行なう船旅の苦難いろいろ。ペストの流行。港町ヤッファ(ノアの息子が建設したという)にて下船し、洞窟で眠る。ラーマまで12マイル(19km強)をろばで進む。荒れた山地を進み、イェルサレムを望む。アラブ人は、イエス・キリストを預言者とみなしていたが、神の子とはしていない。巡礼たちは12日間滞在し、イェルサレムとその近郊の各聖所を、ユダヤ教の聖所も見てまわる。イェルサレムの聖跡は四つの派のキリスト教僧によって管理されている: カトリック、ギリシア正教、アルメニア、エティオピアである。7マイル離れたベツレヘム、キリスト生誕の地をも訪れる。ユダヤの山地をろばにまたがり、旧約の聖所ヘブロンも。キリスト受洗の地ヨルダン河へも。しかし危険が伴うのでイェルサレムに残る人も少なくなかった。マグダラのマリアやラザロにゆかりの地ベタニアへも。帰路はアレクサンドリア経由をとる者もいる。ヤッファを発ち、ヴィーナス生誕の地キプロスに寄港して見学。ここで熱病にかかり死ぬ者もいた。水も腐る。異教の女神の罰だという者もいた。ロードス島は、トルコ軍が撤退した後とあって、寄港することができた。それは聖ヨハネ騎士団の島である。棘の冠のトゲの聖遺物を参拝する。クレタ、モドーネ、コルフを経てアドリア海へ。この年の夏、トルコに襲撃されたオトラントの話がでる。嵐に襲われ、その後、サンタ・マリア・デ・カゾーポリに詣る。レジーナ、パレンツォ、そしてヴェネツィアへ。サント・ブラスカは、3日間眠り続けてから、パドヴァ、ヴィチェンツァ、ヴェローナを観光してからミラノに戻った。足かけ72日間の旅であった。彼の旅行記は翌1481年に出版された。組織的な観光事業は現代だけのものではなく、昔からあったのである。
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私はまだイスタンブールに行ったことがない。イタリアへは70回ちかく行っているのに、いまだに計画すらしていないのだ。オットが興味をもたないからというのも理由のひとつであるが、どうしたものだろう。イェルサレムは難しいだろうなあ。
