千利休について知りたくて手にとった。しかし、初っ端から困ってしまった。この作品は、三井寺の本覚坊という千利休の弟子の手記とおぼしいものを井上靖が書き改めたのだというが、三井寺を検索すると、琵琶湖畔の園城寺のことと出る。近江とか、修学院という地名も出てくるので、とりあえず京都の左京区なのであろうと想像して読み進んだ。戦国時代の武将は常に死と向き合って生きていたこと、そのような人々の邪念を祓い、精神を浄化する場として侘茶がうまれたのだと悟らされた。侘茶を表した言葉「枯れかじけて寒かれ」が頭に残った。自分も最期はこのようなさっぱりとした境地であの世に行きたいものだ。以下、購読により学んだことをメモする。
一章では東陽坊について語られる。紅葉の名所として知られる真如堂の塔頭にあった住職、長盛(1515〜1598年)のことである。千利休の弟子のひとりで、侘数寄者[簡素を好む茶人]。この人の茶室、東陽坊は今、建仁寺の境内に移築されているようだ。利休から、黒釉の今焼[手捏ねで成形し、低温で焼成した、今でいう「楽焼」のこと。京の陶工、長次郎を創始者とし、当時は前衛的なものと見なされていた]を贈られた。しりぶくらの茶入れ、ばけ者の水指[腰の張り出した不識水指]、よほう釜[胴部が立方体の茶釜]、みしま茶碗[三島暦に似た文様を持つ白っぽい高麗茶碗]、ふのやき[小麦粉を使った焼き菓子]・・・知らないことだらけ!!
大徳寺の古渓: 織田信長の法要を行ない、葬儀の導師隣、菩提寺として転生時の創建を秀吉に委任されたが、その勘気に触れて九州に配流されたり、山門の利休像のことで責任を問われたりした僧。虚堂: 虚堂智愚のこと。12〜13世紀、南宋の臨済宗の僧。筆勢の強い素朴な墨跡が愛された。
二章では、岡野江雪斎[板部岡 江雪斎のこと。北条家の重臣、秀吉にも家康にも気に入られ、近侍した]の来訪を受け、北条家に匿われた山上宗二[堺の豪商、利休の高弟、秀吉に茶匠として仕えたがしばしば怒りを買い、最後は耳鼻を削がれて打ち首となった]が記した茶の奥義書[茶道具の秘伝書]を預かり、転写する。その中に記されている、侘茶を表した言葉「枯れかじけて寒かれ」に言及。これは、茶人で連歌師、利休に影響を与えた武野紹鴎のものとのこと。
三章は、古田織部のこと。秀吉の勘気に触れた利休が京を去る時に見送ったのはこの織部と細川忠興であり、二人は師の削った茶杓を形見に贈られていた。大井戸茶碗 須弥 十文字くらいしか知らなかったが、にわかにこの人となりをイメージすることができるようになった。大坂の陣で茶杓用の竹を探している時に鉄砲の弾に当たって負傷し、最後は豊臣側に内通したという廉により自刃させられた。私は彼がキリシタンだったのではないかと考える。なお、二条城の庭を作った小堀遠州は、織部に、戦争を知らない子供扱いされている。
四章は、織田有楽のこと。織田信長の弟であり、今の有楽町のあたりに屋敷を賜り、その茶室、つまり数寄屋が数寄屋橋の語源だというくらいしか知らなかったが、大柄ののびのびとした武人だったようだ。晩年は建仁寺の塔頭、正伝院を再建して隠居し、茶室を営んだ。その茶室も本人の別名も如庵(ジョアン)とは、この人もキリシタンだったのだろうか? 井上靖は、茶道とキリシタンについては一言も述べていないが、お点前の所作はカトリックのミサを彷彿とさせる。井戸茶碗とは、文禄慶長の役に際して韓国から持ち帰ったもので、「一井戸、二楽、三唐津」と言われた国宝級の名器だという。
五章は、利休の孫、千宗旦(究極の侘茶を追求、京都の左京区に一畳台目の不審庵を営んだ)が、本覚坊を訪ねてきて、秀吉が催した茶会についての話を所望する。1584年、大阪城での口切の茶会: 9人の御茶道衆(おさどうしゅう)が9つの茶壷の口を一斉に切る宴。その5日後に、やはり大阪城の大広間で茶会。1587年の新年の茶会: 道具が非常に豪華であり、秀吉の衣装と出で立ちが派手で異様であったという。同年秋、北野天満宮境内で催された北野大茶湯: 庶民も大名も参加可能とした。黄金の茶室も持ち込まれた。茶頭は、秀吉、千利休、津田宗及、今井宗久の4人。10日間の予定であったが、1日だけで打ち切りとなった。原因は肥後の国の一揆勃発か? 宗旦は、利休の賜死事件の原因を数え上げる。大徳寺の山門事件、茶器の売買、石田三成との権力闘争、堺商人の代表格になったこと、半島出兵についての自重派と通じたこと、など。キリシタンだったかどうかには言及していない。ともあれ、1591年2月28日、利休の首は秀吉のもとに届けられ、大徳寺の利休像に踏ませるようにしてそれを戻橋にて晒し首[= 獄門]にするよう命じた。
終章では、本覚坊が老衰の域に入り、夢と現を行ったり来たりしている様子。大山崎の妙喜庵[利休が宗易であった時に作った侘茶の世界、待庵がある]は二畳の小さな茶室であるが、本覚坊はそこに秀吉を見る。そして家康、前田利家・・・次から次へと他界した戦国武将がそこに入っていく。そして利休が自刃し、最後に入った山上宗二が血を浴びている、ここで目が覚めた。
侘茶とは、死を覚悟した戦国武将の簡素を極めた境地だったのだなと悟った。