毎日釣りのことばかり・・ -98ページ目

青春のガソリンスタンド(その1)

ボクが車の運転免許を取ったばかりの18のころ、吉祥寺をぶらついたいた時に「アルバイト募集」の看板をとあるガソリンスタンド(GS)で見つけた。

バイトを探していたボクは、そのGSに飛び込み、
「あのー、バイトしたいんですけど・・」
と切り出した。
当時の所長に簡単な面接をされ、
「じゃ、明日から頼むよ!」と言われるまでに10分も掛からなかった。

次の日からGSでのバイトが始まる。
最初は、給油、窓拭き、洗車、など簡単な作業からはじめたが、慣れてくるにつれオイル交換やクーラント(ラジエーターに入れる液体)の交換などもやらせてもらえた。

もともとクルマ好きだったボクは、結構ここのGSでクルマのことも、そして働くことの意味も身に着けることが出来た。

何よりよかったのがメンバーだ。
所長、主任(25歳、後に所長になる)、社員のM君(18歳)に、東北から就職してきたK君(18歳)。
それからベテラン社員のIさん。

みんな個性的で楽しい思い出がたくさんある。

ここのGSは吉祥寺という土地柄か、老舗の商店や会社、そして周りの高級住宅地にお住まいの外車にのった方々・・。そう、一見のお客様より固定客が多かった。
そして、もう一つの特長は夜になると改造車に乗ったお客様(元族??)がよくいらっしゃった。

というのも、当時主任もIさんもクルマの改造が得意で、エンジンの載せ替えは当たり前。ボアアップやターボキットの装着。もちろん電装系の改造まで請負っていた。
さながら夜はレーシングガレージの様。
エンジンの分解や洗浄などを手伝うことも出来たし、寒い日や暑い日の洗車やワックス掛けはつらかったけど楽しいバイト先だった。

おかげで本業の大学の出席日数が減り、5年間通うことに。
GSではフルには働かなかったが、18から23まで、半分の日々はこのGSで過ごすことになった。

さて、こんな話を書き出したのは、つい先日当時の主任に再会したから。
何回かに分けて、この「青春のガソリンスタンド」のことを書いてみたい。

*本も、つりも最初は関係なさそうだけど、今に出てきます。

チルソクの夏

チルソクの夏(期間限定) ◆20%OFF!

数年前ローカル映画の秀作として話題になった「チルソクの夏」をDVDを買い求め日曜日に観た。

過去の評判どおり、秀逸。
キャスティングもストーリーも、絵も、細かなところまで行き届いた演出。
主演の水谷妃里の好演もさることながら、いまやトップスターになった上野樹里も魅力たっぷり。
そして山本譲二がいい味を出していて作品にアクセントを与えていた。

高校時代の淡い恋を、陸上競技に掛ける青春、そして釜山と下関、日本と韓国、という当時の微妙な関係を絡めながら創られている。

久々にさわやかで切ない気持ちにさせてくれた。
もう、このような恋はできないのだろうと寂しい確信をしながら・・。

仕立てでマダイ??

11月28日(土)。友人のお仲間が予約した仕立船、金沢八景の黒一丸 に乗せていただくことになった。

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マダイ五目、って釣りものはたいていアジ、サバを持ち帰ることになりマダイの二段引きを堪能できる機会は過去の経験から確率が低い。
だが、一週間前ながらマダイを釣る気満々。

聞いた話によると、あんまり「釣ってやるぞ!」の気合を入れるぎるとそれがマダイに伝わり避けられるトカ。
マダイがかかればめっけもの、くらいでビシと仕掛けをゆっくりひそかに扱ってやるといいとか。

さて、週末によい報告がココでできるかご期待ください。

桐野夏生「OUT」

日本のサスペンス、ミステリーの傑作といえば桐野の「OUT」でしょうね。
エドガー賞のノミネートまでいって受賞できなかったのは残念だけど、海外でも高評価されてる。

Out(上)



Out(下)

この本は、釣り仲間のmasaさんから紹介され貸していただいて読んだもの。
「すごいよ、ぐいぐい行っちゃうよ」
の言葉に半信半疑になりながら、平日ほとんど眠らずに読了しました。

おまけに、その後2回読んだ。

実は、主人公(香取雅子)がかつて勤めていたというT信用金庫はどう考えても我が家のメインバンク。
毎月住宅ローンをこの信金に収めてます♪

てなことはさておき、ロケーションが我が家の近くなので東大和のデニーズも邦子が(?)を捨てた、K公園(小金井公園)も日常の生活範囲。

そんな意味もあって、一介のパートのおばさん(ごめん)の裏の顔。
金のためには、ここまでやる。
でも手にした金の価値は手をする前より変わってく。

桐野の作品はこの後何作か読んだが、残念ながらこれを超えられない(って無理か)。
ドラマ化、映画化されたらしいけど、見てないのでそのことは語れない。

「OUT」は読まれた人がほとんどだと思うけど、もし、まだだったら是非。
文学的な価値より、ドラマとしての価値は最大限あり。保証する。

エルマーとりゅう

ここ数回のブログで、昔語りをしてしまった。
読者には悪いが、この一連の話を書くにつれ昔を振り返る時間が深夜に流れた。

本好きになったのは、いつ頃か、、、?
昔何を読み何を思ったか、、?
ボクにとっては貴重な回想だと思ってる。

子供のころ、いろんな本を読んだ。
姉が二人いたし、親は本を買い与えるのに、今思えば寛容だった。
おもちゃはなかなかGETできなかったけどね。

思い出すのは「エルマーとりゅう」のシリーズ。
エルマーとりゅう


エルマーと16ぴきのりゅう

これが、絵本を超えた自分で読みふけた最初の作品だと思う。
「水の子トム」 のように、図書館で借りた本かもしれない。

時間を忘れて、読み込んだ。
エルマーが食べるオレンジが、やたらうまそうに感じたことを思い出す。

この本は、実はうちにある。
息子が小学校低学年の時に買い与えたのだ。
幸いにして、息子もちゃんと読了してくれた。

心に何が残ったかは知る由もないが・・。


【異邦人】アルベール・カミュ

ソルジェニーツィンは、読了できなかったボクだが、中3のころ読みふけったのがカミュだ。
中でも異邦人。
異邦人改版

サルトルの「実存主義」・・「我思うところに我あり」に触発されて、自分が五感で感じるもの、自分の五感は自分のものでしかないこと、、、
自分の今の後ろでは何が起こってるかわからない、(なにが起こっていてもおかしくない)ことを思春期のそのころ考えた。

だから、この「異邦人」は、15歳のボクに結構な衝撃を与えた。
考える、信じる、存在する。
相手がアル、相手はイナイ。
ジブンシカイナイ。

カミュを読み耽るボクに興味を持った女の子はいなかったようだが、ちょっとマセタ読書癖がこのころインキュベートされてたのかもしれない。

だが、いまは俗っぽいものばかり、決して哲学系の本には手を出さなくなったのは・・なぜだろう。

また、カミュ、サルトルでも読んでみるか・・今度。

煉獄の中で

会津金山町の鉱山も、あえなく閉山した。
父の勤めていた会社は、鉱石の産出を海外にもとめたからだ。
結果、父はアフリカへの長期海外赴任を強いられることになる。

で、ボクが中学1年の3学期にはまた思いで深い金山町を去ることになった。

次の引越しの地は、東京都田無市(現西東京市)。
住まいはまた会社の社宅だけど東京だから3Kの狭い団地だった。

転校したはもちろん学区内の中学。

数年前と同じように、新しい担任の先生から「○○くんです。みんなヨロシク」
と紹介された。

用意された席につく。
驚いたのは、前に座っていた女の子が振り向きざま「私、川本弥生(仮名)、ヨロシクね」
と微笑んできた。メチャかわいい。

見渡すと、東京の中学生女子はみんなかわいく見えた。
おしゃれだし、髪は整ってるし、そう、垢抜けて見えた。
そりゃしょうがないだろ、会津の山奥でサルみたいな連中に囲まれてたんだから・・。

田舎から出てきたボクは、まず、馬鹿にされないように気をつけた、つもり。
ちょっと斜に構えたかも知れない。

イロイロいやなことはあったけど、イジメることも、イジメられることもなく、中学3年生になった。

このころは、夏目や鴎外や白樺派の山本有三なんかを読んでいた。
いつ頃からか知らないが、読書はボクの趣味になっていた。

宮本賢治、高村光太郎などの詩集も読んだ。
なぜかって、、それはそれがカッコよく思えたからでもある。

同級生に、これもかわいい多美さんって言う子がいた。
伊藤左千夫の「民さんは野菊のようだ」にぴったりの女の子だ。
恋をしたわけではないが、彼女は休み時間中、いつも文庫本を読んでいた。

何を読んでいるのか、聞いてみたところ。
ソルジェニーツィンの「 煉獄の中で」
ソルジェニーツィン 「煉獄の中で」 全2巻


だった。

共通の話題を持ちたかったボクは、早速その本を買い求め、読んでみた。
さっぱりわからない。

教室の中で、さりげなく自分の席でソルジェニーツィンを読み耽る少女。
ドキドキした。
でも、当時のボクにはソルジェニーツィンは、読了できなかった・・。

もちろん、卒業後、「野菊のような君なりき・・」に合う機会も・・残念。

<<無視>>遠い日の「イジメ」の重い思い出

大江町から引っ越した場所は福島県大沼郡金山町
ここにも銅鉱山があった。

京都の大江町と同様。村の子供の中に鉱山の子供が混じっていた。
ボクが転向してきた時(小学2年3学期)は、ボクがはじめての転校生。
京都弁が標準語と思い込んでいたボクは、最初に新しい担任の先生との会話がぎこちなかった。
教室で紹介され、同級生に囲まれたが、
「にしゃねえちゃんいんのが?」
が「おまえ、ねええさんはいるのか」に聞けるまで間があった。

それでも村の子供たちはみな(いまで思えば)純粋でいいやつが多かった。

鉱山が整備されるにつれ、社宅も増え、転校生も増えてきた。
小学4年生になるころには、学年一クラス30人ほどのクラスのうち、なぜか男子ばかり5人の鉱山っ子がそろった。
社宅に住んでいるわけだから、(あ、当時の社宅は土地が広かったからみな一戸建て)みな隣近所。
当然、遊びも一緒。仲良しグループが形成された。
だが、村の子供たち(同級生)と仲が悪かったわけではない。

鉱山っ子5人の中で、リーダー格のMくんという友達がいた。
彼は勉強も出来たし、親は管理職だし、こんな田舎に住んでいるのは不釣合いな家庭だったと記憶している。

彼とも、村の子供たちとも山や川でそれこそ田舎の子供の生活をしていたんだ。

「けいちゃんと話をするのはやめようぜ」
あるとき、Mくんはボクを含めた3人にそう言った。
何の理由もない、ただ、これも遊びなんだと。

それから、鉱山っ子4人は、もう一人のけいちゃんを無視した。
話をしない、目をあわさない、そう「無視」する。
それがMくんが考えた「ムシ」という遊びだった。

何でそんなことをするのか、正直わからなかった。
でも、一人をはずして4人で連携することに面白さを覚えたのは記憶にある。

3ヶ月ほどたったころ、Mくんはけいちゃんにこう言った。
「こんどはまあくんのばんな」
次の日から「ムシ」の対象はまあくんに移った。

多分いやな思いをしただろうけいちゃんも、それに従った。

そして2ヶ月、次のターゲット「やっちゃん」が選ばれ、その後案の上、ボクの番がきた。

目を合わさない、話をしない、「ムシ」をされた・・。

でも、記憶としてはさほど苦しくなかった。
遊ぼうと思えば他の同級生たちと遊べた。
他の同級生(鉱山の子ではない子達)は「なんでそんなことするのか」と不思議がっていた。
それと、ボクの中では一人でいること、無理に付き合わなくてもいいこと、合わせなくてもいいこと、
それがなぜか心地よくもあった。

不思議なことに、ボクへの「ムシ」は1ヶ月もたたずに終わった。。。

次は、Mくんを「ムシ」することを他の3人に持ちかけた。
もちろん「次はMくんのばんな」と3人は賛同した。

でもやつも、つらそうじゃないんだ。
俺らと遊ばなくても、無視されても・・。

こうして一巡して「ムシ」の遊びは終わった。

当時は「いじめ」なんて言葉はなかった、と記憶している。
でも、これは・・すくなくとも最初のけいちゃんに対しては今では「いじめ」と言われても仕方がない。
この事件は、保護者会でも話題になったという。
なんで、そんなことをするのかと・・。
その話を聞いたとき、当時のボクは、「ただの遊びだよ」と母に言いたかった。

でも、今思えば完全なイジメ。
そして、友達とつるむことと、一人で遊ぶことを覚えられた貴重な経験。
決して首謀者のMくんを悪いやつだと思ってない。

子供は子供の世界があり、その中の暗黙のルールや雰囲気の中で小さな社会を作っている。

いま、そのあたりを書かせるとうまい作品を出しているのが「重松清」だろう。
彼はボクと同年代。
いじめに関する小説は多数彼の作品にあるが、今回はその代表作「ナイフ」を紹介しておこう。

ナイフ

水の子トム(水の子供たち)

水の子どもたち(上)
水の子どもたち(下)

昨日のブログで、ボクの産まれた土地の話を書いたのは、実は今回の伏線。
大江町に住んでいたころ、2年生3学期まで通った私の小学校は「物成(ぶっせい)小学校」と言う。

もうずっと前に廃校になったこの小学校で、同窓会が行われたのは、10年ほど前の夏のことだった。

小学校1年生の時(今から30数年前)、結構大きな火事に見舞われたので全焼した一部の校舎(体育館以外)は当時建替えられ今は地域の公民館になっている。

まだ幼かった子供二人と妻を連れ、電車で大江の駅(丹後鉄道)に降立った。
同窓会の待ち合わ場所は物成小学校跡地。
町内バスに乗り、そこを目指すと懐かしい風景が目に飛び込んでくる。
「パパはここで遊んだんだよ」なんて会話を娘としていると、バスの運転手が、「あんた鉱山の方かね?」と聞いてくる。
今日、小学校の同窓会があって、閉山になった鉱山の(当時の)子供たちがやってくることをこのバスの運転手は知っていたのだ。
「あのころはよかった・・私もそこで働いていた・・」そんな話をその運転手はしきりにしていた。

小学校跡地に着く。何十年ぶりだろう。
いまは公民館になっている当地は、火事で建替えられた校舎も、校庭も、私が逆上がりを練習した鉄棒も当時の面影を残していた。

当時はなかった25メートルプールがあったので、早めに着いた私は娘と一緒にひと泳ぎすることにした・・。
すると、管理人さんらしい人がやってくる・・
「あんたらあかんよ、ことわりもなく」
「すんません、きょうここで同窓会があるもんで、、、えーと、ボクここの出身者なんです・・」
「えー、なにさんっていうの?」
「○○ですけど」
「ってことは△△子の弟さん」
「そうですけど・・」
「なんやはよういってえや、そんならかまへん、好きに泳いどき」
管理人は私の姉の当時の担任の先生だった。

そうこうするうち、「あそこで泳いでんの誰や」と同窓会メンバー当時の同級生や担任の先生が集まってきた。
メンバーがそろうと記念撮影。
そして校内を見学させてもらうことにした。

幾つかの教室は当時のまま残されていた。
40年近い時間が経っているのに、バスの運転手さんも、姉の元担任も、そしてこの雰囲気も、時間をゆっくりと過ごしてきた感じがした。

そして廊下には、図書室にあったはずの本がたくさん書棚に納められていた。
幾つかの書棚に並ぶ本の背表紙を指でなぞってみる・・

「水の子トム」・・これはよんだ覚えが・・。
手にとって裏表紙を開く。貸し出しカードが入っている。

あった、自分の名前が、小一の時自分が書いた自分の名前が・・。

こみあげてきた。
涙はこらえたけど、、
確かにボクはここにいたんだ。


**参考**
「水の子トム」チャールズ・キングスレィ作
今は、「水の子どもたち」という題名で売っているようだ。
(上記リンク参照)





私の生まれたところのコト

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京都府加佐郡大江町大字仏性寺
ここが私の出生地だ。
「鬼退治」伝説。
そして和泉式部の娘、小式部内子が「大江山いくののみちもとおければまだふみもみず天橋立」と詠んだ和歌でも有名。

だが、この地は自然が豊かないわゆる「ど」がつく田舎だった。

私のすでに亡き父は、鉱山技術者を仕事としていた。
当時この大江町にあった銅鉱山に赴任したのがこの地との関わり合いになる。
赴任中に産まれた私にとっては出生地とはいえ、墓も親戚もこの地にはない。
ただ、生まれてから小学校2年生の3学期まで過ごし、故郷といえる場所ではある。

「田舎」と書いたが、私が暮らしている当時は鉱山に勤める社員、取引業者、そしてそれらの家族で2,000人を超える町が形成され
ていたと後日聞いた。
当時の雰囲気は炭鉱の町を思い描いていただければいい。
供給所と呼ばれる商店、共同浴場、散髪屋にパーマ屋、保育園、医院など生活に必要な施設は十分に整い、周辺には多くの社宅が連なっていた。

小学校は歩いて小一時間掛かる距離にあったが、行きはともかく帰りはまっすぐ帰るわけがなく、沢蟹を取ったり山に分け入ったり、いわゆる道草のし放題。
遠い通学路も苦痛には思えなかった。
夏には二瀬川で泳ぎ、冬にはそこら辺の雪の斜面でスキーをして遊んだことを思い出すと、この地は私の幼少時代を過ごすのに恵まれていた環境だったいえる。
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楽しい思い出、美しい風景、よい印象しか思い出せない土地、そこが大江町だった。

この地を去ることになったのは、鉱山の閉山によるもの。
通っていた小学校の当時児童の半分以上は親が鉱山に勤めていたから、この閉山によってこの地域は一気にさびしくなった。
父の転勤は周りの同僚と比べ遅いほうだったようで、また一人、また一人と転校していく友達を見送った記憶がある。
そしてとうとう我が家の引越しの日が来たわけだが、その日が寂しかったのかどうかは思い出せずにいる。

それから30+数年間、いまだに年賀状のやり取りを当時の担任先生としている。
今年いただいた年賀状には、
「この1月1日から大江町は福知山市に合併されました。大江町がなくなるのは寂しい思いです」
と記されていた。