周りには全く関係ない、極めて僕個人のことなので説明しませんが、久し振りに落ち込みました(_ _。)。
身体が疲れていると精神に影響して悪い方へ考えがちになるので、とりあえずブログのことを放っておいて休息していました(^^;。
今は少し前向きな気持ちが出て来たので、更新することにします。
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それとは別に、このブログに関して悪い事実に気が付き凹みました(´□`。)。
前にも書きましたが、アクセス解析の「検索ワード」についてです。
このブログのアクセス・アップの大きな要因である「涼木りらん」さんに関することですが(彼女には本当に感謝しております)、検索ワードの内で「涼木りらん エ○」のような類いが意外と少なくないのです。
前からあった傾向なので、試しにグーグルで検索すると、何とこのブログがトップに出て来るではありませんか_| ̄|○。
彼女に関することとは違う文脈において、所謂「下ネタ」系の言葉を使っている書き方が原因なので、自業自得と言うか、全て僕に責任がありますm(_ _)m。
気になって「涼木りらん」で検索してみたのですが、驚くことにこのブログに全くヒットしません(>_<)。
画像検索においても引っ掛かりません。
よく見ると、「セーフサーチ」(アダルト系フィルタリング?)なる機能をOFFにすると、このブログの彼女の写真が検索結果に出て来ます(@_@)。
「過去のエントリー」が「携帯からの閲覧禁止」のフィルタリング処置をとられたので、その影響かなとも思ったのですが、「ウェブ検索」には「セーフサーチ」機能はないのではっきりしたことは分かりません(x_x;)。
……しかし、「ダイアン・アー○ス」とか「ロバート・メイ○ル○ープ」といった歴史的偉業を残した写真家の名前が「NGワード」として、フィルタリングの対象になっているのは、未だに釈然としませんね(`ε´)。
しかも悪いことに、数は少ないですけど、涼木りらんさん以外のモデルさんでも同様な現象があるのです。
「(モデル名)パン○ラ」みたいな……Y(>_<、)Y。
涼木りらん さん
よく周りから、「若い女性ばかり撮っていていいね……」みたいなことを言われますが(^^;、ポートレート(人物)写真には他にはない独特な醍醐味があるのです。
良いモデルさんは大抵レンズに向ってポーズをとりながら無言で語りかけてくるものです。
「ここを撮って」とか「こんな感じはどうかしら」みたいな……。
こちらも相手(被写体)のリズムに合わせるのですが、見事にそのリズムが合った時の感覚は、他のものに代え難い高揚感があります。
これは経験してみないと分からない感覚かもしれません(^^;。
僕はペットの猫を撮ることから写真を始めたので、人物との違いがよく解るのかもしれません(^^ゞ。
サイバー空間でのヴァーチャルな感覚とは違う、生身の人間の間のリアルな手応えがあります。
要するにポートレート写真は、被写体となる人物と協力して成立する「共同作業」であり、単独作業では味わえない喜びもそこにあるのです。
それだからこそ、モデルになってくれた相手に対して、何かしら役に立てたらとのお礼の気持ちも自然に出てくるものです。
僅かながらも、閲覧者が彼女らに対して良いイメージを持ってくれれば、と写真をアップしていました。
今回のことは、彼女らのイメージにとって、プラスと言うよりもマイナスの方向に働いていることになるので、僕としてはとても不本意で不甲斐ない気持ちになりました。
いっそ「このブログを閉鎖」しようと、一瞬ですが思いました(>_<)。
そんなことで解決することではありませんが、う~ん、今後どう対処するか悩んでいます(^_^;)。
涼木りらんさんをはじめモデルの皆さんには、本当に申し訳ないと思っています<(_ _)>。
【2/19追記】
曖昧な表現で誤解されるかもしれないので、もう少し具体的に書きます。
どんな「検索ワード」を使用しようがその人の自由なので、僕は特段そのことを問題にするつもりはありません。
個人のブログと言えども、インターネットは「全世界」に繋がっています。
僕の意図とは無関係に、モデルさんの写真は「宣材写真」として、ある一定の閲覧者に対して機能する可能性は否定出来ません。
仕事上で彼女らに関心がある人は、ネット上の写真を参考にして仕事の依頼を検討するかもしれません。
その場合「(モデル名)」で検索するのが普通ではないかと思います。
その検索結果にこのブログが出てこない(閲覧されない)ということは、彼女らの仕事(活動)に少しもお役に立てない訳で、その点がとても残念で不本意であり、歯がゆさを感じているのです。
あくまでも可能性の話で、僕の写真が実際にお役に立てるものかどうかは別の次元(問題)ですが……(・_・;)。
しかし、ネット上には様々な(予期せぬ)可能性が存在しているのは間違いないはずです。
今週はそんなことを考えていたのですが、ふと次の作品の内容とリンクしました。
映画『ブレードランナー (Blade Runner)』の原作である「フィリップ・K・ディック (Philip K. Dick)」の小説『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』——。
映画の方は「カルト・ムーヴィー」として有名なので、僕がとやかく言う出番ではないでしょう。
基本設定こそ同じですが、独特な脚色・解釈に満ちた映画と原作は別作品との見方もあるので、原作小説に関して少しお話をしましょう。
この小説は、「人間とは何か?」という古くて新しい大きなテーマを扱っています。
ディックは「感情移入による共感」を最も大切な人間の能力だと考えていて、哲学的な高みにまで昇華させようとしています。
映画『ブレードランナー』の全体を貫くテーマとしても描かれていますが、まずはこの映画のさわりを拝見して下さい。
「ブレードランナー」 荻 昌弘の解説
「あなたがどんな姿をしていようと、あなたがどこの星で生まれようと、そんなことは関係ない。問題はあなたがどれほど親切であるかだ。この親切という特質が、わたしにとっては、われわれを岩や木切れや金属から区別しているものであり、それはわれわれがどんな姿になろうとも、どこへ行こうとも、どんなものになろうとも、永久に変わらない」——フィリップ・K・ディック
ディックは初期の短編について上記のようにコメントしていますが、その彼の哲学は『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』の重要なテーマでもあります。
つまり、アンドロイド(映画ではレプリカント)でも「感情移入による共感」が出来れば人間であり、人間でもそれがなければアンドロイドと同じだ、という訳です。
映画の中でも最後の方で、次の有名なシーンにおいて色濃く反映され、観客の心を強く揺さぶります。
Blade Runner - TEARS IN RAIN
字幕がないのでレプリカントのモノローグ(独白)の意味が分からないと思います。次に記します。
この映画の中の「名セリフ」として有名です。
「お前ら人間には信じられないようなものを、俺は見てきた。
オリオン座の近くで燃えた宇宙船や、タンホイザー・ゲートのオーロラ。
そういう思い出も時が来ればやがて消える。
雨の中の涙のように——。
死ぬ時が来た」
「雨の中の涙のように——」とは、レプリカントが死を悲しんで泣いているのか、ただ雨に濡れているのか、どちらとも受け取れる映像とシンクロしている名表現ですね。
すぐそこに死が迫っているレプリカントは、死の恐怖を感じている人間に感情移入し共感したからこそ彼を助けたのです——。
鳩が飛び立つところなんかは、レプリカントが人間になったことを象徴するようなシーンです。
モデルさんとカメラマンは……いや、人と人との間には「感情移入による共感」が何よりも大切だ、と感じさせられるシーンです。
この映画は「ヴァンゲリス (Vangelis)」による音楽もとても印象的です。
僕はここでもまた、映像と音楽は相性が良い、との思いを抱きました。
最後に僕の一番好きなこの映画の音楽をご紹介します。
子守唄代わりに聴くと、心が癒されると感じています(^^ゞ。
Blade Runner - Love Theme - Full version