映画『NO』/Sting - "They Dance Alone (Cueca Solo)" | Down to the river......

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様々な用件に時間を取られていて、ブログの更新がご無沙汰しております。

久しぶりの更新ですが、最近観た映画について簡単に記します。





偶然の巡り合わせから、ある意味〝たまたま〟映画『NO』を観ました。

もう一つの 9.11」と呼ばれる「チリ・クーデター」から15年——。

1988年のチリを舞台とし、「ピノチェト」軍事独裁政権の是非を問う国民投票における反対派のキャンペーン活動を描いた映画です。




映画『NO ノー』予告編







誰もが無理だと思っていた。多くの人があきらめていた。独裁政権下のチリで、そんな空気をひっくり返すべく立ち上がったのは、ひとりの若い広告マンだったー

歴史を大きく変えた実話に基づく映画『NO(ノー)』の舞台は、1988年の南米チリ。

当時のチリは、1973年の軍事クーデターにより政権を奪ったピノチェト将軍による、軍事独裁国家でした。不当な逮捕や人権侵害が相次ぐ軍事政権は国際的な非難を受け、信任を問う国民投票を行うことに。

しかし、政治的な自由を奪われてきた状況下では、国民投票も対外的なアリバイのために行われるもの過ぎないと考える国民がほとんどでした。どうせ出来レースだろうということで、関心は高まらなかったのです。そんな状況に対して数ある野党は団結し、独裁政権を終わらせるキャンペーンを張ります。

キャンペーンで使えるメディアは、ピノチェト信任陣営と反対陣営それぞれに与えられた15分のテレビ放送枠。この限られた時間を最大限に活用するために声をかけられたのが、新進気鋭の広告クリエイターのレネでした。

〔中略〕

この映画は、過去のドラマとして楽しめるのはもちろん、いま日本に生きる私たちにも考える材料を与えてくれます。「NO」陣営で起こる、ドライに結果を求めるレネと原則論にこだわる堅物の重鎮たちとのわだかまりは、イデオロギーや立場にこだわりがちな野党の選挙戦を象徴しています。

また一方で、独裁政権側の「YES」陣営による恐怖を煽るアプローチは、対外的な不安を煽るいまの日本政府の姿勢に通じるものがあります。そしてなにより、無気力と無関心が広がり投票率が下がりつづけている日本で、政治を熱くするヒントに満ちています。

レネが牽引した「NO」キャンペーンの鍵は、怒りを抱えながらも抑えつけられることに慣れていた国民に、カジュアルに「NO!」と叫ぶきっかけをつくることでした〔強調:引用者〕。

拳を振り上げ、怒りにまかせて反対の声を上げるのではなく、「自分たちの一票で、自由で開放的な暮らしをつくっていけるんだ」というイメージを、まるでコーラのCMのようにポップなトーンで発信した〔強調:引用者〕のです。

日本を代表するコピーライターの仲畑貴志さんはこう評します。


NOの広告キャンペーンに分があったのは、南米チリの国民の心に自由や公平を希求する思いが十分に育っていたからである。1988年時の、あのピノチェト体制に対して国民が充足していたら、レネの広告キャンペーンではそよ風も吹かなかっただろう〔強調:引用者〕。


2012年の総選挙で自民党が政権与党になって以来、特定秘密保護法の制定や集団的自衛権公使の容認など、それまで考えられなかったような強権的な動きが続いています。

しかしその自民党も、前回の衆議院議員選挙での得票率でみると小選挙区で24.67%、比例代表で15.99%しか獲得していません。それに対し棄権した人の割合は全体で約40.68%。20代ではなんと62.11%、30代でも49.9%もの人が投票に行っていませんでした。(東京新聞と総務省による)

多くの人々が無関心になっている状況が変わり、ひとりひとりが社会の主人公なんだという意識を強く持つようになれば、この国の政治をめぐる状況も大きく変わっていくかも知れません〔強調:引用者〕。

〔後略〕






2011年の 3.11 の大震災と原発事故の後、日本に起こった〝新しい市民運動〟を動画で撮影し始めた僕としても、支持の輪を広げるには「怒りではなく喜び」の表現だと主張する主人公の広告(CM)マンの、所謂マーケティング戦略に非常に興味を感じました。

対権力の運動の大半は、世界的にも現在のデモでの表現の主体は「怒り」そのものなのですから……。

しかし、この映画の〝最もまともな〟解釈の仕方は、上記の観点では「片手落ち」なのを、次のレビューから教えられました。





2012年の第25回東京国際映画祭のコンペティション部門で上映された「NO」(マジックアワー配給)が、やっと公開される。「ハンナ・アーレント」(イズムでも紹介)と並んで、一昨年の東京国際映画祭で評判の作品であった。グランプリは、フランスのロレーヌ・レヴィ監督の「もうひとりの息子」で、これも優れた作品だったが、もし、審査員の立場だったら、文句なしにこの「NO」をグランプリに推しただろう。

1988年、チリのピノチェト独裁政権の是非をめぐって国民投票が実施される。メディアまでも、ほぼ手中におさめている政権だが、国際的な批判をかわすかのように、国民投票までの27日間、深夜のテレビで、政権にノーを唱える反対派のキャンペーンを流すことになる。もちろん、政権を支持する賛成派にも、同様の機会が与えられる。反対派に、レネという、若いけれど腕利きの広告ディレクターが協力することになる。もともと、勝ち目のない、形式だけの国民投票だが、レネは新しい感覚で、楽しい、明るいキャンペーン番組を作り、これが評判となっていく。

1973年、チリのアジェンデ政権を転覆させたピノチェトは、アメリカの支援で大統領になる。いかなる政権交代であったかは、1976年に公開されたエルヴィオ・ソトー監督の傑作「サンチャゴに雨が降る」や、1982年のコスタ・ガヴラス監督の「ミッシング」などの映画で、詳しく描かれている。

軍事独裁である。虐殺され、犠牲となった人は多い。世界じゅうから、批判が出る。映画の舞台は、ピノチェト政権が発足して15年後の1988年、チリのサンチャゴ。反対派、賛成派ともに、1日わずか15分のキャンペーン映像合戦が展開する。レネは、次々と、新鮮な映像を送り出していく。楽観していた政権側は、しだいに形勢の不利を感じる。当然、政権側はレネたちを監視、露骨ないやがらせが始まる。ラスト近く、おお、と驚く、ノー派のキャンペーン映像が出る。お楽しみに。

映画は、格別、レネを英雄視していない。レネは、変化しつつある民衆の思いを、広告で誘導しようとする現実的な考えの持ち主だ。政治的に熱狂するわけではなく、常に醒めていて、まるで傍観者のような視線で、ことの成り行きにつき合っていく。ただ、広告で人を動かそうとする信念は揺るがない。国民投票が控えていても、政権派の上司と、ちゃんと次の仕事を準備しているほどだ。

〔中略〕

見ている間中、広告とはいったい何だろうと思い続けていた〔強調:引用者〕。いろんなメディアに氾濫する広告。そもそも、ほとんどのメディアは、広告の存在なくして、成り立たない。広告の数々の手口のひとつが反復、繰り返しの効果だろう。サブリミナル効果の恐ろしさもあるが、何度も何度も、連日、反復される広告もまた、恐ろしい〔強調:引用者〕。商品なら、不要のものまで、いつのまにか、買ってもいいかなと思い、買ってしまう。受け手は、広告主の意のままに誘導され、商品を買い、極端な場合は、思想まで左右される。

一般の人は、広告のさまざまな手法に、蹂躙される。政府、国家への批判を無くすように、国民の目を、映画やファッション、スポーツなどに向けさせるのは情報操作だが、これまた一種の広告だろう。国家による情報操作について、だまされるほうが悪い、という説もあるが、だまされないでいることは、かなり難しい。歴代の戦争の歴史をひもとけば、明らかである。だから、広告とは、情報ではあるが、実は、たいへん恐いものと思う。

そう、映画「NO」からは、広告の持つ恐ろしさがじわりと伝わってくる。広告によって、人は動くし、この映画のコピーに「CMは世界を変えられるのか!?」とあるが、もちろん、世界を変えられると思う。国家規模の広告、情報操作で、戦争の歴史、人間の歴史を積み重ねてきたのだから。

ちゃらちゃらしたコピー、広告が氾濫している現在、作り手も送り手も、広告の持つ意味、恐さについて、深く考えているとは思えない。なにが真実か、受け手である私たちが、深く、広く、考え、判断するしかない。

映画「NO」の提示した問いは、さまざまなメディアやネットなどで氾濫する広告、情報に対して、私たちがどう立ち向かえばいいのかを暗示している
〔強調:引用者〕。

〔後略〕







補足として、映画評論家の「町山智浩」さんの解説もご紹介します。

現代では権力側(政治家、政府等)が「広告的手法」を駆使している、という彼の指摘には、国民側も十分注意しなければいけないと思います。




町山智浩がチリ映画『NO』を語る





なお、主演の「ガエル・ガルシア・ベルナル (Gael García Bernal)」について興味を持った方は、彼のデビュー作である『アモーレス・ペロス (Amores Perros)』について書いたエントリーがあるので、よろしかったら参照してみて下さい。



【関連エントリー】

◆ 『アモーレス・ペロス (Amores Perros)』|Down to the river......







スティング (Sting)」は、チリ・クーデター後のピノチェト軍事独裁政権による反対派への大量虐殺・弾圧を批判したプロテスト・ソングを作っています。

1987年発表と言うことは、チリでの国民投票が実施される前年です。




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手抜きで申し訳ありませんが、「They Dance Alone (Cueca Solo)/孤独のダンス」名付けられたこの曲については、次のリンク先の解説を参考にして下さい。

ちなみに、ここで明記される「They」とは、ダンスのパートナー(夫、息子=男性)を失った「彼女(女性)たち」という意味です。




◆ チリ、スティング、「孤独のダンス」、ピノチェト|毎日エデュケーションの「社会的責任と行動」ブログ





They Dance Alone (Cueca Solo)/孤独のダンス」を収録した上記アルバムを最初に聴いた時、歌詞の意味も分からなかったにもかかわらず、一番印象に残ったのがこの曲でした。

テーマの主眼が「怒りではなく」悲しみを表現した鎮魂歌だからこそ、僕の心に響いたのでしょうか?

大変考えさせられます……。




Sting - "They Dance Alone (Cueca Solo)"