失敗のとらえ方
このブログは月に1回の更新を基本としている。5月は前半のんびりしていたのに後半になって急に忙しさが増して、こんなものを書いている暇はないと思いつつも、別に基本にこだわる必要はないのに月末が近づいてまだ更新していないことが頭から離れない。一種の強迫神経症状態にあるので、その呪縛から逃れるために書いている。
たまたま今朝はスイミングスクールが休館日であり、予定が狂ったこともある。もっとも休館日であったことは実際に出かけて行って玄関のポスターで確認したことであるので,情けないと言うしかないのだが。
急に忙しさが増したのは、もちろん4月から管理職にされてしまい出席を要請される会議の数が急増したこと,授業の数も倍増したこと(他人に大きな声で言える数ではない。1コマが2コマになっても、8コマが16コマになっても倍増というのである)。これらに加えて書かねばならない原稿(学会抄録や雑文原稿)が溜って来たことにも多忙感は起因している。ここ数日は生活時間の配分に気持の余裕がない状態で、毎朝5時すぎから仕事をする体制になっている(高血圧者には望ましいことではないことは自覚済みである)。
実は、数日前までそれほど気持に余裕がなかったわけではなかったのだが、先週はじめに若い同僚から,「もう原稿を出されましたか」と質問されたのである。何のことかと聞き返すと,この同僚も執筆者になっている本の原稿の執筆案内に僕の名前を見たような気がするから、という。慌てて持参してくれた書類を確認すると、確かに執筆案内に僕の名前があった。締め切りは5月29日なので、あと数日しかないのである。大慌てで出版社に確認の電話をし、執筆要項が届いていないと言うと,担当者は「去年の9月に僕からの執筆OKのメールが来ています」という。メールを確認すると確かに僕は返事を出していて、執筆依頼と要項はそのメールに添付されていたのを見落としたのである。名大時代に比べるとインターネット・セキュリティのせいもあり,受信メールはかなり減っているのに、じっくりとメールを点検することを怠ったために生じたミスである。これは,注意配分についてのミスなので、確実に老化と関係している。
久しぶりに本当に焦ってしまい、おわびと本当の締め切りを確認したことであった。
実は,この事件の数日前に名古屋の非常勤先でコーヒーを飲みながら雑談していた折りに,何故かこの本の出版計画の話をしていたのである。昨年の8月頃に編者から依頼がきてOKと了解して連絡したが、その後執筆要項も送られて来ていないので,あの話はポシャッたに違いない、などと罰当たりにもほざいていたのである。その3日後の失敗発覚であり、不思議な気がする。実際に3年ほど前に某編者に原稿を送った神経心理学関連の本の原稿があり、その後何の音沙汰もないことがあるのだ。だから、昨今,出版社も大変なようだとか、せっかく書いたのでどこかに乗せたいものだなどという文脈で話題にしたのであった。
出版社の編集者との電話で7月末まで締め切りを延ばしてもらったので,現在はそれを書いている。ブログを書いている暇などないというのはそのことなのである。
僕は,これまでに締め切りを違えることは皆無に近いことを自慢して来た。表立った締め切りには若干の余裕があることを知らないわけではないので、今回はこれを活用することになる。こういう執筆者は編集者には困った人になるのを僕自身も本を編集した際には何度か経験しているので「ごめんなさい」と言うしかない。僕の号巻の編集は九大の先生である,借りができてしまった。ちなみに、僕の執筆する原稿は、北大路書房から認知心理学会編で講座シリーズとして7巻が同時に出版される計画の一部なのである(案内を見たら購入して下さいよ!)。
出版社の編集担当者の了解だけであるが、昨年の8月にこの話を引き受けた際にプロットをメモしてあったので、すぐに執筆に入れる資料は準備できている(一部の資料は,何故それをメモしたのか分からないものは当然あるが)。7月半ば迄に書き終えるつもりである。何とか滑り込みセーフという未来展望を抱いている。
それにしても若い同僚が知らせてくれなければ、7月頃に催促の連絡がきて「何のことですか?」では済まなかったと思うと,ぞっとする。九大の先生にも認知心理学会のメンバー面々にも合わす顔がない事態を招来するかも知れなかった。
まさに危機一髪であったのだが、「僕はついているなあー」と出版社への電話の後で直後に思ったことであった。同僚は偶然確認してくれたのだが、こういうのをツキがあると言うのだろう。感謝、感謝である。
このように、失敗をしても、ツキがあると思えるうちはまだ老化の程度も閾値に届いていないということかな?とそう考えることにしたという話です。それにしても失敗発覚数日前に話題に上がる(意識に上った)ことがあったのは不思議な気持がする。物事はポジティブに捉えなければ行けないのです。とくに高齢者はネ。
泳ぎに行けないと肩こりがひどくなる心配を抱えつつ,脅迫神経症的なブロガーは、まだ現役のつもりで生きているのです。
たまたま今朝はスイミングスクールが休館日であり、予定が狂ったこともある。もっとも休館日であったことは実際に出かけて行って玄関のポスターで確認したことであるので,情けないと言うしかないのだが。
急に忙しさが増したのは、もちろん4月から管理職にされてしまい出席を要請される会議の数が急増したこと,授業の数も倍増したこと(他人に大きな声で言える数ではない。1コマが2コマになっても、8コマが16コマになっても倍増というのである)。これらに加えて書かねばならない原稿(学会抄録や雑文原稿)が溜って来たことにも多忙感は起因している。ここ数日は生活時間の配分に気持の余裕がない状態で、毎朝5時すぎから仕事をする体制になっている(高血圧者には望ましいことではないことは自覚済みである)。
実は、数日前までそれほど気持に余裕がなかったわけではなかったのだが、先週はじめに若い同僚から,「もう原稿を出されましたか」と質問されたのである。何のことかと聞き返すと,この同僚も執筆者になっている本の原稿の執筆案内に僕の名前を見たような気がするから、という。慌てて持参してくれた書類を確認すると、確かに執筆案内に僕の名前があった。締め切りは5月29日なので、あと数日しかないのである。大慌てで出版社に確認の電話をし、執筆要項が届いていないと言うと,担当者は「去年の9月に僕からの執筆OKのメールが来ています」という。メールを確認すると確かに僕は返事を出していて、執筆依頼と要項はそのメールに添付されていたのを見落としたのである。名大時代に比べるとインターネット・セキュリティのせいもあり,受信メールはかなり減っているのに、じっくりとメールを点検することを怠ったために生じたミスである。これは,注意配分についてのミスなので、確実に老化と関係している。
久しぶりに本当に焦ってしまい、おわびと本当の締め切りを確認したことであった。
実は,この事件の数日前に名古屋の非常勤先でコーヒーを飲みながら雑談していた折りに,何故かこの本の出版計画の話をしていたのである。昨年の8月頃に編者から依頼がきてOKと了解して連絡したが、その後執筆要項も送られて来ていないので,あの話はポシャッたに違いない、などと罰当たりにもほざいていたのである。その3日後の失敗発覚であり、不思議な気がする。実際に3年ほど前に某編者に原稿を送った神経心理学関連の本の原稿があり、その後何の音沙汰もないことがあるのだ。だから、昨今,出版社も大変なようだとか、せっかく書いたのでどこかに乗せたいものだなどという文脈で話題にしたのであった。
出版社の編集者との電話で7月末まで締め切りを延ばしてもらったので,現在はそれを書いている。ブログを書いている暇などないというのはそのことなのである。
僕は,これまでに締め切りを違えることは皆無に近いことを自慢して来た。表立った締め切りには若干の余裕があることを知らないわけではないので、今回はこれを活用することになる。こういう執筆者は編集者には困った人になるのを僕自身も本を編集した際には何度か経験しているので「ごめんなさい」と言うしかない。僕の号巻の編集は九大の先生である,借りができてしまった。ちなみに、僕の執筆する原稿は、北大路書房から認知心理学会編で講座シリーズとして7巻が同時に出版される計画の一部なのである(案内を見たら購入して下さいよ!)。
出版社の編集担当者の了解だけであるが、昨年の8月にこの話を引き受けた際にプロットをメモしてあったので、すぐに執筆に入れる資料は準備できている(一部の資料は,何故それをメモしたのか分からないものは当然あるが)。7月半ば迄に書き終えるつもりである。何とか滑り込みセーフという未来展望を抱いている。
それにしても若い同僚が知らせてくれなければ、7月頃に催促の連絡がきて「何のことですか?」では済まなかったと思うと,ぞっとする。九大の先生にも認知心理学会のメンバー面々にも合わす顔がない事態を招来するかも知れなかった。
まさに危機一髪であったのだが、「僕はついているなあー」と出版社への電話の後で直後に思ったことであった。同僚は偶然確認してくれたのだが、こういうのをツキがあると言うのだろう。感謝、感謝である。
このように、失敗をしても、ツキがあると思えるうちはまだ老化の程度も閾値に届いていないということかな?とそう考えることにしたという話です。それにしても失敗発覚数日前に話題に上がる(意識に上った)ことがあったのは不思議な気持がする。物事はポジティブに捉えなければ行けないのです。とくに高齢者はネ。
泳ぎに行けないと肩こりがひどくなる心配を抱えつつ,脅迫神経症的なブロガーは、まだ現役のつもりで生きているのです。
NHK
新学期になって講義が始まると、講師としての自分の自己紹介をする。自己紹介は自己開示の王道だから、適切に行うと学生との親密度が増すはずで、親密度が増している講師への講義聴講への動機付けが高まるという仮説で行っている。ゼミなどの小人数では丁寧に行なうようにしているが、大規模の講義では自己紹介は、昨年開設したHPでのURLを紹介し,それを見て下さいということにしている(http://hatta-takeshi.com)。翌週に「HPを見た人?」と訊ねると皆無に近いので,年寄りの講義担当者への関心度はその程度のようであるらしい。教育というのは相手に合わせての情報提供だから、そういう学生たちであることを理解して仕事をせねばならないことになる。
しかし、ざわついている講義の始めに「実は先週TVの収録があってね」などというと学生の集中度は一気に増加する。マスメディアに露出することは学生との親密度を高める効果が大きいようである。マスメディアに登場している人物への親密度が異常に高いのは、品の良くない、ガキのような府知事に注意を向ける人が多い例だけでなく、昨年大学で行なわれた「××まわり先生」への講演に会場一杯に学生が集まり,サイン入りの本を奪い合うように購入していたという身近な現象からも明らかである(朝の散歩の道すがら何度も目にする自民党の選挙向けポスターに、小選挙区の出馬予定者とこの先生の大きい画像を見る度に,選挙向けに講演会が利用されたのではないかという疑念が彷彿として不愉快さがつのる)。
「学生との親密度を高める効果があるのなら」というわけで、マスメディアへの対応はできるだけ好意的と心がけている。別に親密度を増さなければ困るわけでもないが、嫌がられるよりはストレスは低くて済むというものである。また、勤務校の宣伝にも役立つかも知れないという気持もある(別に頼まれているわけではない,頼まれれば別の反応をするに違いないけどネ)。
先週たまたま話が来たので、NHK教育TVの収録に東京まで出かけた。昨今民放TVでは経費節減が急務ということで、3月ほど前の××TVの場合には、電話で大方の取材をして、顔だけ撮影にディレクターが一人でカメラを担いで来た。もちろん東京から日帰りで,新大阪で拾ったタクシーを待たせたままという慌ただしいものであった。疲れているディレクターは新幹線で寝てしまって新大阪でおりるべきところを岡山まで行ってしまったと約束の時間を大幅に超過して飛び込んで来た。帰路、新大阪までタクシーに同乗させてもらった車中で経費削減・労働実態を聞き、死なないように忠告したことであった、
予算の削減がないのかNHKではまずディレクターが来学し、話をしてそれを下に台本を書いて、出演者を東京に呼んで撮影という行程を辿った。もっとも台本は上京する3日前にメールで届き、スタジオでは第3稿に変わっているという慌ただしさであった。ただ、民放と違ってNHKの場合には前もっての調べが良くできていると言ってよい。
3年ほど前にNHKラジオにでたときにも感じたことであるが、放送作家はよく勉強しているのだ。本だけでなく、関連論文にも当たっている。講義ノートになりそうなレベルの台本であったという記憶がある(何事にも経費を惜しんではダメであるという教訓である。勤務校への皮肉を言っているわけはない)。
正確に覚えていないが、これまでにも何度かTVの取材を受けたが、今回は初体験の要素が多かったのでブログに取り上げようとしているのだ。従前では、質問への回答を僕が話すのを1台のカメラで撮影し、構成するというものであった。質問はたいていの場合はディレクターがして、それに回答するところを撮影する形式である。今回は、異なっていた。まず、僕のカラオケを収録した。共演するタレント達の歌のCDを聞いて、まず無伴奏で歌い、続いてカラオケバージョンを3回ほど録音した(ディレクターが歌い方の指示を変えるのであった)。シンコペーシヨンが入るポップス調であり、演歌が身に付いた世代では容易ではなかったが、この課題はクリアした。読者はすごいと感心すべきである。
その後は台本通りに撮影が行われた。カメラは3台ほどあったように思う。AKB48というグループのタレントさん達と絡む台詞がけっこうな数あり、スタジオ到着時に新しくなった台本を見た僕としては、覚えられないのは当然と開き直って、ディレクターの指示通り適当に演じることとした。まるでタレントのような仕事内容で3時間ほどを要した。最初からのディレクターとのやり取りや彼の対応が良かったので、好奇心に身を任せたという案配である。これがおそらく10~15分程度に構成されるのであろう。
どういう番組なんだ、と言う声が聞こえて来そうだが、中高生向けの科学番組(科学番組への誘い)で、きき手・きき耳・きき眼に関係する話題である。放映は6月中旬らしいが、タレントではないので是非見て下さいなどと具体的な日時は宣伝しない。冥土の土産に新しい経験をさせてもらい好奇心を満たしたということである。
しかし、ざわついている講義の始めに「実は先週TVの収録があってね」などというと学生の集中度は一気に増加する。マスメディアに露出することは学生との親密度を高める効果が大きいようである。マスメディアに登場している人物への親密度が異常に高いのは、品の良くない、ガキのような府知事に注意を向ける人が多い例だけでなく、昨年大学で行なわれた「××まわり先生」への講演に会場一杯に学生が集まり,サイン入りの本を奪い合うように購入していたという身近な現象からも明らかである(朝の散歩の道すがら何度も目にする自民党の選挙向けポスターに、小選挙区の出馬予定者とこの先生の大きい画像を見る度に,選挙向けに講演会が利用されたのではないかという疑念が彷彿として不愉快さがつのる)。
「学生との親密度を高める効果があるのなら」というわけで、マスメディアへの対応はできるだけ好意的と心がけている。別に親密度を増さなければ困るわけでもないが、嫌がられるよりはストレスは低くて済むというものである。また、勤務校の宣伝にも役立つかも知れないという気持もある(別に頼まれているわけではない,頼まれれば別の反応をするに違いないけどネ)。
先週たまたま話が来たので、NHK教育TVの収録に東京まで出かけた。昨今民放TVでは経費節減が急務ということで、3月ほど前の××TVの場合には、電話で大方の取材をして、顔だけ撮影にディレクターが一人でカメラを担いで来た。もちろん東京から日帰りで,新大阪で拾ったタクシーを待たせたままという慌ただしいものであった。疲れているディレクターは新幹線で寝てしまって新大阪でおりるべきところを岡山まで行ってしまったと約束の時間を大幅に超過して飛び込んで来た。帰路、新大阪までタクシーに同乗させてもらった車中で経費削減・労働実態を聞き、死なないように忠告したことであった、
予算の削減がないのかNHKではまずディレクターが来学し、話をしてそれを下に台本を書いて、出演者を東京に呼んで撮影という行程を辿った。もっとも台本は上京する3日前にメールで届き、スタジオでは第3稿に変わっているという慌ただしさであった。ただ、民放と違ってNHKの場合には前もっての調べが良くできていると言ってよい。
3年ほど前にNHKラジオにでたときにも感じたことであるが、放送作家はよく勉強しているのだ。本だけでなく、関連論文にも当たっている。講義ノートになりそうなレベルの台本であったという記憶がある(何事にも経費を惜しんではダメであるという教訓である。勤務校への皮肉を言っているわけはない)。
正確に覚えていないが、これまでにも何度かTVの取材を受けたが、今回は初体験の要素が多かったのでブログに取り上げようとしているのだ。従前では、質問への回答を僕が話すのを1台のカメラで撮影し、構成するというものであった。質問はたいていの場合はディレクターがして、それに回答するところを撮影する形式である。今回は、異なっていた。まず、僕のカラオケを収録した。共演するタレント達の歌のCDを聞いて、まず無伴奏で歌い、続いてカラオケバージョンを3回ほど録音した(ディレクターが歌い方の指示を変えるのであった)。シンコペーシヨンが入るポップス調であり、演歌が身に付いた世代では容易ではなかったが、この課題はクリアした。読者はすごいと感心すべきである。
その後は台本通りに撮影が行われた。カメラは3台ほどあったように思う。AKB48というグループのタレントさん達と絡む台詞がけっこうな数あり、スタジオ到着時に新しくなった台本を見た僕としては、覚えられないのは当然と開き直って、ディレクターの指示通り適当に演じることとした。まるでタレントのような仕事内容で3時間ほどを要した。最初からのディレクターとのやり取りや彼の対応が良かったので、好奇心に身を任せたという案配である。これがおそらく10~15分程度に構成されるのであろう。
どういう番組なんだ、と言う声が聞こえて来そうだが、中高生向けの科学番組(科学番組への誘い)で、きき手・きき耳・きき眼に関係する話題である。放映は6月中旬らしいが、タレントではないので是非見て下さいなどと具体的な日時は宣伝しない。冥土の土産に新しい経験をさせてもらい好奇心を満たしたということである。
帰阪パーティ
先月末に帰阪パーティを開催してもらった。私が大阪に戻ったことを祝っての旧大阪教育大学卒業生が中心のパーティである。近々に建て替えが計画されている四つ橋の厚生年金会館ホール内のレストランで行われた。土曜日の昼頃に玄関先で案内札に「帰阪」の文字を見つけたときには、なぜか嬉しい気持ちになったものである。14年間も名古屋大学に勤務したので、名古屋に帰属感があるのは言うまでもないが、大阪へのそれの方が強い気がしないでもない。暮らした時間の長さもあるが若い日のエピソード記憶が豊富なためであろう。この会合は僕のかつての指導学生達が僕へのFestschriftである、「Contemporary Issues of Brain, Communication, and Education in Psychology,ISBN978-4-946428-38-8, Union Press」の発刊出版記念パーティでもあった(お金に余裕のある人は購入してあげて下さい)。Festschriftを辞書で探すと原語はドイツ語で記念出版本のことであり、a book honoring a respected academic and presented during his or her lifetimeとある。また、A Festschrift contains original contributions by the honored academic's close colleagues, often including his or her former doctoral students. It is typically published on the occasion of the honoree's retirement, sixtieth or sixty-fifth birthday, or other notable career anniversaryとあるので、本の内容はともあれ条件は満たしている。
還暦のときに出来上がるはずのものであったのが遅くなったというわけである。この種の出版計画は2~3年の遅延が一般的なようで、以前に著名な先生の還暦記念出版の内輪話にも執筆者間でのやっかいな過程を耳にしているので、計画を聞いた時には止めたほうが良いと言った。出版社にも自分の論文もなかなか書けない連中なのにどだい無理な計画だと悪態をついていた。しかし、なんとか教え子達(といっても大概は大学教授や准教授なのだが)の力で出来上がったのは、それなりに彼らも育っているということなのであろう。敢えて英文誌にしたのもそれなりの矜持ということだろう。
今度のパーティには24人が集まってくれた。最高齢は56歳だから、とにかく長い付き合いではある。幸いなことに教え子に僕よりも先にあの世へというような不心得者はいない。何よりも嬉しいことである。もっとも、彼らの昔を知る僕にとって、パーティのご馳走が食べきれないという様子から、彼らが確実に高齢化していることは疑いようがない。
振り返れば、教え子の人たちにはこれまでにも何度もお祝いをしてもらった。35歳頃に学位を取得したといってお祝い会をしてもらったが、そのとき頂いた記念品の柱時計はまだ我が家で現役である。学位を取る者が稀であった時代の出来事で、いまでは想像がつきにくいことである。名古屋大学に移籍するときにも最終講義をさせてもらいパーティもしてもらったし、還暦のときにも名大の同僚や卒業生が祝ってくれた。昨年の3月には、一年早い退職であり本当は最終講義やパーティはしなくても良いのに計画してもらった、それに加えて今回の出版とパーティなのであり、本当に有り難いことであると思っている。
今回のパーティでは、高齢者は自慢をすることが前頭葉機能の低下を鈍化するので、これからも自慢しながら生きるつもりであることを宣言しておいた。認知症になった僕から自慢話を聞かされ続けるのは辛いというコメントもあったが、辛いのは認知症の八田をみることよりも、自慢話を聞かされることの方らしい(認知症患者に自慢話が出来るのかは談話分析をする価値のあるテーマである)。
最近あちこちで高齢者に自慢すべし、と言っている。自慢するには、音声言語を話す、古い記憶を検索する、ストーリーを構築するなど前頭葉の機能の関与なくしては成り立たない。つまり、コミュニケーションを続けることは前頭葉の機能維持に重要なのである。もちろん、同じ話を聞かせると相手は嫌がるから、つぎつぎと自慢のネタを生み出すことが大切である。自慢ネタが増えない場合は違う相手を探すという手もあることも付け加えている。若い人相手には、少々五月蠅くても年寄りの自慢話を聞くのは、年寄りが呆けて世話をさせられる期間の短縮につながるので、辛抱せよとも言っている。
パーティでは大阪教育大の頃の記憶をたくさん検索し、言語化することができたので、僕の前頭葉の機能は少なからず若返ったはずである。
先日査読した介護負担研究の論文に、「寂しい人は早く死ぬ」という一節があった。僕は早く死なないですむのかもしれない、と思えたことであります。
還暦のときに出来上がるはずのものであったのが遅くなったというわけである。この種の出版計画は2~3年の遅延が一般的なようで、以前に著名な先生の還暦記念出版の内輪話にも執筆者間でのやっかいな過程を耳にしているので、計画を聞いた時には止めたほうが良いと言った。出版社にも自分の論文もなかなか書けない連中なのにどだい無理な計画だと悪態をついていた。しかし、なんとか教え子達(といっても大概は大学教授や准教授なのだが)の力で出来上がったのは、それなりに彼らも育っているということなのであろう。敢えて英文誌にしたのもそれなりの矜持ということだろう。
今度のパーティには24人が集まってくれた。最高齢は56歳だから、とにかく長い付き合いではある。幸いなことに教え子に僕よりも先にあの世へというような不心得者はいない。何よりも嬉しいことである。もっとも、彼らの昔を知る僕にとって、パーティのご馳走が食べきれないという様子から、彼らが確実に高齢化していることは疑いようがない。
振り返れば、教え子の人たちにはこれまでにも何度もお祝いをしてもらった。35歳頃に学位を取得したといってお祝い会をしてもらったが、そのとき頂いた記念品の柱時計はまだ我が家で現役である。学位を取る者が稀であった時代の出来事で、いまでは想像がつきにくいことである。名古屋大学に移籍するときにも最終講義をさせてもらいパーティもしてもらったし、還暦のときにも名大の同僚や卒業生が祝ってくれた。昨年の3月には、一年早い退職であり本当は最終講義やパーティはしなくても良いのに計画してもらった、それに加えて今回の出版とパーティなのであり、本当に有り難いことであると思っている。
今回のパーティでは、高齢者は自慢をすることが前頭葉機能の低下を鈍化するので、これからも自慢しながら生きるつもりであることを宣言しておいた。認知症になった僕から自慢話を聞かされ続けるのは辛いというコメントもあったが、辛いのは認知症の八田をみることよりも、自慢話を聞かされることの方らしい(認知症患者に自慢話が出来るのかは談話分析をする価値のあるテーマである)。
最近あちこちで高齢者に自慢すべし、と言っている。自慢するには、音声言語を話す、古い記憶を検索する、ストーリーを構築するなど前頭葉の機能の関与なくしては成り立たない。つまり、コミュニケーションを続けることは前頭葉の機能維持に重要なのである。もちろん、同じ話を聞かせると相手は嫌がるから、つぎつぎと自慢のネタを生み出すことが大切である。自慢ネタが増えない場合は違う相手を探すという手もあることも付け加えている。若い人相手には、少々五月蠅くても年寄りの自慢話を聞くのは、年寄りが呆けて世話をさせられる期間の短縮につながるので、辛抱せよとも言っている。
パーティでは大阪教育大の頃の記憶をたくさん検索し、言語化することができたので、僕の前頭葉の機能は少なからず若返ったはずである。
先日査読した介護負担研究の論文に、「寂しい人は早く死ぬ」という一節があった。僕は早く死なないですむのかもしれない、と思えたことであります。
コンプライアンス:難しい問題
先週の日曜日に、所属する大学の別の組織が主催する学術集会に呼ばれ、教育講演を行った。依頼された時期にちょうどきき手の本が出版され、その本への書評が全国紙に掲載されたこともあって、きき手を題材にした研究を行う上での要点などを話すことになった。「左対右・きき手大研究、化学同人社刊」はそれまでにも読書欄に新刊案内としての記事を掲載してくれた新聞は複数あったのだが、書評(直木賞作家、三浦しをん)としての掲載は始めてで、気分が高揚していたのであろう、本来は作業療法学科がある専門学校の学術集会なので、中高年の高次脳機能や頭部外傷の話を期待されていたのだろうが、きき手の話題となった。その模様を紹介するのではない。そこでの質問に十分な回答を返さなかった気がしているので、ここに外部記憶として書いておいてこうというわけである。ついでに言うと書評はどれも褒めてあるので喜んでいたが、毀誉褒貶が混在する方が売り上げには貢献するようである。
講演後の質問は、「脳梗塞後、きき手が使えなくなった患者さんの訓練についてであり、患側を使えるように訓練すべきか、対側の手を使えるように訓練すべきか?」と言うものである。どちらでも良いが訓練が効果的な選択肢を勧めると回答したのだが、もう少し丁寧に対応すべきであった。
前者の選択肢は理学療法学の採用するアプローチであり、失われた機能を根気よく訓練することで元の状態に近づけようとする発想が背景にある。一方、後者の選択肢は作業療法学が採用する立場で残された機能の中でより良い適応を探そうとする訓練アプローチである。どちらもあり得ることは言うまでもないが、選択を決定する際の留意点を付言すべきであったと後悔しているのである。選択の意思決定の際にコンプライアンスに注意した方がよいと付言すべきであった。
コンプライアンス(compliance)は近年企業での法令遵守の意味で使われ、流行語のようになっているが、その語源は、動詞のコンプライ(comply)で「(何かに)応じる・従う・守る」を意味する。従ってコンプライアンスはもともと「(何かに)応じること、従うこと・守ること」を意味する。医療の現場では治療者側の指示に患者側が従うかどうかに関わる用語である。つまり、この薬を毎食後2錠飲みなさいという治療者の指示を患者側が守る場合はコンプライアンスが成立しているわけだが、食後は面倒だから思いついたら飲むとか、2週間分を一気に全部服用するなどは、成立していない証左である。
手指運動の訓練についても、訓練を指示通り続けられるかはコンプライアンスが重要になる。その成立の要件は、治療者側への患者の信頼度とその伝達効率が規定するはずである。信頼度は専門職の知識と経験の関数であり、伝達効率はコミュニケーション能力の関数である。専門的知識が豊富な方が、コミュニケーションが上手くいく方がコンプライアンスは成立しやすい。知識と経験が十分であっても、それらを上手に患者側に伝達する技能が不十分だとコンプライアンスは成立しない。そのような場合には、辛い訓練を中断し「あそこの病院はダメだ」と考えるだけでなく、それらを周囲に振りまくことになりかねない。場合によっては、治療施設への影響も甚大なものになってくる。
したがって質問には、十分なコミュニケーションにより、訓練をする患者側が自らの意思決定であったことを自覚(錯覚)できるように治療方針を決定し、患者が訓練モチベーションを持続させることに留意すべきであると付言すべきであった。
対人コミュニケーションは難しいことを新しい職場でも時々感じることがある。卒業研究の準備やゼミナールへの参加など、我々の時代の大学生では自明なことが、必ずしもそうではないことを思い知ることがある。昼食の際に時々、このような話題が上り、老年トリオはストレスを発散してはいるが、相手の認知スキームは自分のものや自分が知るものと類似していることを想定することから来る錯誤なのである。
講演後の質問は、「脳梗塞後、きき手が使えなくなった患者さんの訓練についてであり、患側を使えるように訓練すべきか、対側の手を使えるように訓練すべきか?」と言うものである。どちらでも良いが訓練が効果的な選択肢を勧めると回答したのだが、もう少し丁寧に対応すべきであった。
前者の選択肢は理学療法学の採用するアプローチであり、失われた機能を根気よく訓練することで元の状態に近づけようとする発想が背景にある。一方、後者の選択肢は作業療法学が採用する立場で残された機能の中でより良い適応を探そうとする訓練アプローチである。どちらもあり得ることは言うまでもないが、選択を決定する際の留意点を付言すべきであったと後悔しているのである。選択の意思決定の際にコンプライアンスに注意した方がよいと付言すべきであった。
コンプライアンス(compliance)は近年企業での法令遵守の意味で使われ、流行語のようになっているが、その語源は、動詞のコンプライ(comply)で「(何かに)応じる・従う・守る」を意味する。従ってコンプライアンスはもともと「(何かに)応じること、従うこと・守ること」を意味する。医療の現場では治療者側の指示に患者側が従うかどうかに関わる用語である。つまり、この薬を毎食後2錠飲みなさいという治療者の指示を患者側が守る場合はコンプライアンスが成立しているわけだが、食後は面倒だから思いついたら飲むとか、2週間分を一気に全部服用するなどは、成立していない証左である。
手指運動の訓練についても、訓練を指示通り続けられるかはコンプライアンスが重要になる。その成立の要件は、治療者側への患者の信頼度とその伝達効率が規定するはずである。信頼度は専門職の知識と経験の関数であり、伝達効率はコミュニケーション能力の関数である。専門的知識が豊富な方が、コミュニケーションが上手くいく方がコンプライアンスは成立しやすい。知識と経験が十分であっても、それらを上手に患者側に伝達する技能が不十分だとコンプライアンスは成立しない。そのような場合には、辛い訓練を中断し「あそこの病院はダメだ」と考えるだけでなく、それらを周囲に振りまくことになりかねない。場合によっては、治療施設への影響も甚大なものになってくる。
したがって質問には、十分なコミュニケーションにより、訓練をする患者側が自らの意思決定であったことを自覚(錯覚)できるように治療方針を決定し、患者が訓練モチベーションを持続させることに留意すべきであると付言すべきであった。
対人コミュニケーションは難しいことを新しい職場でも時々感じることがある。卒業研究の準備やゼミナールへの参加など、我々の時代の大学生では自明なことが、必ずしもそうではないことを思い知ることがある。昼食の際に時々、このような話題が上り、老年トリオはストレスを発散してはいるが、相手の認知スキームは自分のものや自分が知るものと類似していることを想定することから来る錯誤なのである。
年末の惨事
熱心にこのグログをチェックしてくれる読者から、しばらく間が空いているが体調を壊しているのではないかとのメールが届いた。久しぶりの入試センター試験監督での疲労からまだ立ち直れていないのだが、書かずには居れない。 いくつか書きたい話題はあるのだが、今も葛藤している年末の惨事から紹介しよう。読者にもいつか役に立つかも知れないからである。
12月の22日に、使用中のUSBから突然データが消えたのである。2ギガの容量のうち1.4ギガ分が記憶されているUSBである。USBのみならず、僕の頭も真っ白になった。その日の朝に書いた論文をPCに保存することをしていなかったためである。たいていのファイルはどこかのPCに(自宅のmac、大学のmac、大学のwindowsに乱雑に保存してある)コピーがあるはずなのだが、何が保存されていたかの情報がないので、混乱してしまったのだ。パニック状態になってしまった。その日の朝に書き足した尿漏れと前頭葉機能との関連を取り扱った論文は保存されてはおらず、USBにしかないのは間違いないのだ。大部分が書けており、考察の箇所を見直すレベルまで仕上がっていた論文のファイルが消えたというわけである(まだ、論文を書くという習性から逃れられていない)。
きっかけは、USBに保存してある画像を10枚ほど僕のHPを作ってくれた細谷君の会社に送っている途中で、容量が大きすぎると大学のmacが警告を出したので、小分けにすべくメールから一部の画像を捨てている途中で起きたのである。突然、USBからすべてのファイルが消えてしまったのである。細谷君にうろたえながら電話し、復活の指示を電話で教示してもらったのだが、復活できるのはPC本体の部分であって(PCは時間が戻せることを知った。できるなら僕も30歳代に戻れるといいのだが)、USBの復活はままならないことが判明した。PC本体は常時外付けのHDにバックアップが取れるようにしてもらっているのだが、今回のようなケースでは役に立たない。
3日後に名大に出向した際に壊れたUSBを渡し、細谷君に復活を試みてもらったが,無理ということであった。しかし、彼の関連会社に持って行ってもらった結果、大部分は復活できた。ファイル名は復活できないということであったのだが、読み出したファイルは正月3日にDVDで受け取ることができた。万歳!の想いであった。これで、書きかけの論文を書き終えられるという想いで年末を迎えた(最終の授業は25日であった.翌日には旧知の出版社の編集者が亡くなり通夜に出かけた)。かくて、一時は幸せな気分であったのだが、年賀状を書いたり、編集している本の初校を読んだり、大掃除のまねごとをしたり、正月になり、5日から授業が始まり,副査として13本の卒論を読んだり、査読をしたりで、USB関連の作業は何も手につかず仕舞いで、書きかけの論文の続きの作業は中断することになった(今もそのままである)。年末に無理をして窓のガラスを拭いたせいで、正月に温泉旅行をしたのだが、窓ふきで使わない筋肉を使用したこともあり、車の中ではコルセットが必要となる老体であることを自覚せねばならない、悲惨さを味わうことにもなりました。
やっと、2日ほど前から本格的にDVDの復活ファイルを見る作業に入ることが出来たのです。ところがこれが想像以上に大変なのであります。ワードの文章のファイルだけで1253本もあるのだ(excel 386, ppt 63, jpg 53, gif 117, pdf 68が他にある)。いちいち、ファイルを開いて,不要なものを除く作業は、DVDが読み取り専用なのでそのままできず、別のところへ移しながらという作業になるのだ。200本もファイルを開けて見ていると、眼がかすんで、意識はもうろうとする始末。
というようなことで、ブログを書く暇を見つけるのが大変だったということであります。
①USBも壊れることがある、②壊れても復活できないことはない,③復活したものからの元の状態への復活はとても大変な仕事、④こまめにバックアップを取り手間を惜しんではならない、ということを年末の惨事から学んだわけであります。
1月17日の神戸地震のニュースが盛んに報じられ、未だにその影響を受けている人々が少なくないことが伝えられる時期となり、当時の惨状を回想しながら、私のUSBのことなど取るにたらないことであると自戒し,まあまあ幸せな年末年始であったと思うことにしております。しかし、眼のかすむ作業はまだまだ続き、考察の箇所を再度チェックするworking memoryの状態に脳が戻るのにはかなりの時間がかかりそうであります。
12月の22日に、使用中のUSBから突然データが消えたのである。2ギガの容量のうち1.4ギガ分が記憶されているUSBである。USBのみならず、僕の頭も真っ白になった。その日の朝に書いた論文をPCに保存することをしていなかったためである。たいていのファイルはどこかのPCに(自宅のmac、大学のmac、大学のwindowsに乱雑に保存してある)コピーがあるはずなのだが、何が保存されていたかの情報がないので、混乱してしまったのだ。パニック状態になってしまった。その日の朝に書き足した尿漏れと前頭葉機能との関連を取り扱った論文は保存されてはおらず、USBにしかないのは間違いないのだ。大部分が書けており、考察の箇所を見直すレベルまで仕上がっていた論文のファイルが消えたというわけである(まだ、論文を書くという習性から逃れられていない)。
きっかけは、USBに保存してある画像を10枚ほど僕のHPを作ってくれた細谷君の会社に送っている途中で、容量が大きすぎると大学のmacが警告を出したので、小分けにすべくメールから一部の画像を捨てている途中で起きたのである。突然、USBからすべてのファイルが消えてしまったのである。細谷君にうろたえながら電話し、復活の指示を電話で教示してもらったのだが、復活できるのはPC本体の部分であって(PCは時間が戻せることを知った。できるなら僕も30歳代に戻れるといいのだが)、USBの復活はままならないことが判明した。PC本体は常時外付けのHDにバックアップが取れるようにしてもらっているのだが、今回のようなケースでは役に立たない。
3日後に名大に出向した際に壊れたUSBを渡し、細谷君に復活を試みてもらったが,無理ということであった。しかし、彼の関連会社に持って行ってもらった結果、大部分は復活できた。ファイル名は復活できないということであったのだが、読み出したファイルは正月3日にDVDで受け取ることができた。万歳!の想いであった。これで、書きかけの論文を書き終えられるという想いで年末を迎えた(最終の授業は25日であった.翌日には旧知の出版社の編集者が亡くなり通夜に出かけた)。かくて、一時は幸せな気分であったのだが、年賀状を書いたり、編集している本の初校を読んだり、大掃除のまねごとをしたり、正月になり、5日から授業が始まり,副査として13本の卒論を読んだり、査読をしたりで、USB関連の作業は何も手につかず仕舞いで、書きかけの論文の続きの作業は中断することになった(今もそのままである)。年末に無理をして窓のガラスを拭いたせいで、正月に温泉旅行をしたのだが、窓ふきで使わない筋肉を使用したこともあり、車の中ではコルセットが必要となる老体であることを自覚せねばならない、悲惨さを味わうことにもなりました。
やっと、2日ほど前から本格的にDVDの復活ファイルを見る作業に入ることが出来たのです。ところがこれが想像以上に大変なのであります。ワードの文章のファイルだけで1253本もあるのだ(excel 386, ppt 63, jpg 53, gif 117, pdf 68が他にある)。いちいち、ファイルを開いて,不要なものを除く作業は、DVDが読み取り専用なのでそのままできず、別のところへ移しながらという作業になるのだ。200本もファイルを開けて見ていると、眼がかすんで、意識はもうろうとする始末。
というようなことで、ブログを書く暇を見つけるのが大変だったということであります。
①USBも壊れることがある、②壊れても復活できないことはない,③復活したものからの元の状態への復活はとても大変な仕事、④こまめにバックアップを取り手間を惜しんではならない、ということを年末の惨事から学んだわけであります。
1月17日の神戸地震のニュースが盛んに報じられ、未だにその影響を受けている人々が少なくないことが伝えられる時期となり、当時の惨状を回想しながら、私のUSBのことなど取るにたらないことであると自戒し,まあまあ幸せな年末年始であったと思うことにしております。しかし、眼のかすむ作業はまだまだ続き、考察の箇所を再度チェックするworking memoryの状態に脳が戻るのにはかなりの時間がかかりそうであります。
師走の不可解
先週とその前の週は1週間に2回ずつ名古屋を往復した。木曜日の非常勤先と名大でのサービス授業の他に土曜日にも研究会があり、出かけたためである。新幹線を降りて地下鉄東山線に向かう通路は高島屋の1階を通り抜ける形になっている。2週間で4往復、都合8回に加えて,駅前のホテルに泊まり、そこから筏津さんの3回忌に合わせた食事会に出かけて戻る2回を加えて、合計10回通過した。時間帯でいえば10時前、午後2時頃、午後6時頃、午後7時頃と早朝9時前と時間的にも広く分布している。
何が不可解かというと高島屋の1階通路の片側に長い行列ができている光景に出くわすことである。行列の目当てはバウム・クーヘンを買うためのものであることが、ガラスに4~5人の若者が作業する姿を見せているために容易に分かる。20~30メートルほどの行列には30分待ち、45分待ちなどのプラカードを掲げた整理役の白いダッフルコート姿の若者が数人いる。この光景を10回の通過の際に毎回見たのである。実は過去2週間だけでなく、ここ数ヶ月間はそこを通る度に見かけるのである。
何故こんなに行列に名古屋人は並ぶのか、何故高島屋は行列を作らせるのか、そこまで並んで買うほど焼き菓子は価値があるのか、などなど私には不可解なのである。焼き菓子は東京で有名になったものらしいが、500円ほどの菓子を30分も45分も、店内ではなく吹きさらしの通路に並んでいて、通勤客を始めとする大勢の人に眺められているのが気恥ずかしくはないのだろうか。待つことの嫌いな私には不可解なのである。
行列をして米軍から食べ物を恵んでもらった時代の写真を数多く見て来たせいか、子ども心に行列をして食べ物を得る行動は屈辱の感情を惹起させる対連合ができている。30分も40分も、それだけの時間を費やして菓子を買うほど時間にもお金にも裕福なことを見せつけることに快感があるのかも知れないが、私は馬鹿じゃないのか、他にもっとすることがないのか、思ってしまう。店側にも「売ってあげている」意識を感じて、不快感が遭遇する度にこみ上げてしまうのは私のひねくれ度が高いせいなのかも知れない。一日中プラカードを持ち案内する数人の人件費も考え、整理券でも渡して所定の時間まで他での買い物に誘導する方が経営側からも有利で、消費者にも親切なような気がするのである。販売する側の魂胆はともかく不可解なのである。
もう一つの不可解な現象は、11月末から帰路に散見するクリスマス電飾である。屋根を覆うように大規模に電飾を張り巡らせている個人住宅がある。小規模な飾りもあるが近所では大規模なものが目立っている。外から眺めると晴れやかできれいな電飾ではあるが、それらは家の中から見えるはずがない。自分たちが電飾を楽しめる側にいないのに、なぜ一晩中電飾をつけているのだろうか。一晩中電飾は輝いているので防犯には有効性があるのかも知れないが、何のためにこのようなことをしているのかが不可解なのである。
電飾代金プラス電気料を含めて、それだけのお金を費やして他人に裕福なことを見せつけることに快感があるのかも知れないが、私のように、エコロジーの時代に何を考えているのだろうと怒りを伴う不可解さ感じている者もいる。
長時間を浪費して焼き菓子を買ったり,電飾を張り巡らす金銭的に余裕があるのであれば、最近急増している生活困難者への援助に回さないと、その人々の妬みが閾値を超えると真っ先に対象になるかも知れないのにと、余計な心配をしているのである。こんな記事を読むと、アンタこそ他人の楽しみにケチをつける不可解な人と言われるのかも知れないが、私には何か変だと思わないではいられない師走であります。
何が不可解かというと高島屋の1階通路の片側に長い行列ができている光景に出くわすことである。行列の目当てはバウム・クーヘンを買うためのものであることが、ガラスに4~5人の若者が作業する姿を見せているために容易に分かる。20~30メートルほどの行列には30分待ち、45分待ちなどのプラカードを掲げた整理役の白いダッフルコート姿の若者が数人いる。この光景を10回の通過の際に毎回見たのである。実は過去2週間だけでなく、ここ数ヶ月間はそこを通る度に見かけるのである。
何故こんなに行列に名古屋人は並ぶのか、何故高島屋は行列を作らせるのか、そこまで並んで買うほど焼き菓子は価値があるのか、などなど私には不可解なのである。焼き菓子は東京で有名になったものらしいが、500円ほどの菓子を30分も45分も、店内ではなく吹きさらしの通路に並んでいて、通勤客を始めとする大勢の人に眺められているのが気恥ずかしくはないのだろうか。待つことの嫌いな私には不可解なのである。
行列をして米軍から食べ物を恵んでもらった時代の写真を数多く見て来たせいか、子ども心に行列をして食べ物を得る行動は屈辱の感情を惹起させる対連合ができている。30分も40分も、それだけの時間を費やして菓子を買うほど時間にもお金にも裕福なことを見せつけることに快感があるのかも知れないが、私は馬鹿じゃないのか、他にもっとすることがないのか、思ってしまう。店側にも「売ってあげている」意識を感じて、不快感が遭遇する度にこみ上げてしまうのは私のひねくれ度が高いせいなのかも知れない。一日中プラカードを持ち案内する数人の人件費も考え、整理券でも渡して所定の時間まで他での買い物に誘導する方が経営側からも有利で、消費者にも親切なような気がするのである。販売する側の魂胆はともかく不可解なのである。
もう一つの不可解な現象は、11月末から帰路に散見するクリスマス電飾である。屋根を覆うように大規模に電飾を張り巡らせている個人住宅がある。小規模な飾りもあるが近所では大規模なものが目立っている。外から眺めると晴れやかできれいな電飾ではあるが、それらは家の中から見えるはずがない。自分たちが電飾を楽しめる側にいないのに、なぜ一晩中電飾をつけているのだろうか。一晩中電飾は輝いているので防犯には有効性があるのかも知れないが、何のためにこのようなことをしているのかが不可解なのである。
電飾代金プラス電気料を含めて、それだけのお金を費やして他人に裕福なことを見せつけることに快感があるのかも知れないが、私のように、エコロジーの時代に何を考えているのだろうと怒りを伴う不可解さ感じている者もいる。
長時間を浪費して焼き菓子を買ったり,電飾を張り巡らす金銭的に余裕があるのであれば、最近急増している生活困難者への援助に回さないと、その人々の妬みが閾値を超えると真っ先に対象になるかも知れないのにと、余計な心配をしているのである。こんな記事を読むと、アンタこそ他人の楽しみにケチをつける不可解な人と言われるのかも知れないが、私には何か変だと思わないではいられない師走であります。
連休の間に思うことなど
連休の前日に郷里の自治体で講演をした。中学生と老年者が対象で、焦点が絞り難いものであった。雑駁な話になってしまったのだが、中学生には先生や親への評価は簡単ではないので、ともかく持続して物事を進めるのがお薦めであることを自分の経験を交えて語った。
ある時点で行う評価は物事が複眼的に見られる年齢になると変わってくるということが言いたかったのである。自分の経験の例としてあげたのは大学時代のH先生のことである。僕は先生の実験動物であるネコの世話をしていた(自分用にはネズミの世話に明け暮れた)。ネコを可愛がって育てるというのではなく、海馬に電極を埋められる運命にある大勢のネコの世話である。毎日というわけではなかったのかも知れないが、古米を電気釜で炊いて市場で購入した魚のアラや缶詰と混ぜて与えるのである。当時はネコ用の固形飼料はなかった。近くの市場の魚屋では僕はアラしか買えない苦学生(もう死語である)と間違われていたふしがある。
H先生は、僕が大学院生の時期に2度に渡って少なくとも2年間はアメリカに出張されて留守であった。留学が眩しい時期であったのだが、H先生は自慢めいた話は学生相手でもされなかった。今日のように電子メールでの遠隔指導などは叶わない時代であり、僕は自分で工夫して研究するしか仕方がなかく、恨めしい気持に襲われたことがないわけではなかった(自分のやりたい研究をすることができたという側面もあるのだが)。
帰国された時には、当時羨望の対象であったパーカーの万年筆でも貰えるのではないかと,密かに期待していたがそれはなかった。そのときには論文の別冊を大量に貰っただけであった。正直なところ、「ケチだなあ」と思った。今にして思えば、3人の男の子がいる家族がアメリカ西海岸で暮らすに十分な賃金をアメリカの大学側から貰っていたはずはない。日本円が安かったのだから、学生にまで高価な土産など準備できるはずはないのだが、そういう知識はなかったので先生にはnegativeな評価をしていたのである。
H先生が僕のことを気にかけていなかったわけではないことは、大阪教育大学の公募に通り、博士課程2年目で就職が決まったときに初めて知ることができた。決まったことを連絡すると、近所の寿司屋「入船」でにぎり寿司をご馳走になった(カウンターで寿司を食べた始めての経験であったように思う)。君の就職を都立神経研の頼んでいたところだとやや気まずそうに言われたのを覚えている。
連休の初日には、大阪教育大学の同僚の叙勲を祝う会があった。近年叙勲の年齢が上がり,80歳での叙勲であり、足を悪くされている先生は気の毒にも東京での認証式には参加できなかったということであった。
その帰りに、先輩や旧同僚などと長い時間に渡って昔話をした。そのときに、僕の採用人事の内幕を聞いた。学閥のきつかった時代にその狭間を縫うような採用であったことは知っていたが。唯一の業績であった英文論文が決め手であったということであった。修論をまとめたものだったが、アメリカ心理学会誌に掲載されたものである。その頃、アメリカ心理学会誌のどれかに論文を掲載された日本人は極めて少なかったので、それが決め手になったということであった。誰も内容など分かりはしなかったということである。臨床心理学の助手の採用であったのだから、ネズミの脳の記憶がどうこうという話は関係がなかったはずであるのに採用された。英文論文のせいと運とが良かったのである。
思えば,この論文は僕が書いた拙い英語をH先生が手直しして、それをアメリカの友人に送って下さったものである。送り返されて来た論文の考察の一部には自分でも良くわからない箇所が書き足されていた記憶がある。何のことはない、思い返せばH先生とアメリカの先生の合作のようなものであったのだが、物事を知らない僕は連名にすることも知らずに単著の論文にした。その後、H先生がこのことやアメリカに送ったことに何も恩着せがましいことは言われなかった。その後、学会であっても「どうですか?」程度の質問を淡々とされるだけであった。少し猫背で布の袋を提げ,タバコを吹かしておられた姿が印象に残っている。定年後すぐに肺ガンで亡くなられた。
先生から貰った論文の別冊や未掲載の論文原稿は、R. Sperryらの離断脳に関するもので、僕は後年このテーマで30年間研究を進めることができた。日本で最も早い時期にラテラリティの研究に接することができたのはH先生のお陰であり、欲しかった万年筆よりも何倍も価値のある土産であったことを理解するのには、ずいぶんな年月が必要であったということになる。
というわけで、中学生には分からなかったかも知れないが、なかなか教師の教育活動を評価するのは難しいということである。読者諸姉は、昔の先生に想いを馳せて評価を再度試みられては如何であろうか。回想法は認知リハビリテーションにも有効ということでもあります。
そうそう、講演の老年聴衆者には自慢話を若者にすることを勧めた。ただし,相手に同じ話かと嫌がられないように、自慢できることを生み出し続ける必要があることを付け加えて。
このブログは月に一度のペースで書くことにしている。書くことが脳機能の老化に良いことは日頃から言っている。したがって、ペースを守って書くことが私の老化対策であり、実は自慢のネタ作りなのでもあります。
ある時点で行う評価は物事が複眼的に見られる年齢になると変わってくるということが言いたかったのである。自分の経験の例としてあげたのは大学時代のH先生のことである。僕は先生の実験動物であるネコの世話をしていた(自分用にはネズミの世話に明け暮れた)。ネコを可愛がって育てるというのではなく、海馬に電極を埋められる運命にある大勢のネコの世話である。毎日というわけではなかったのかも知れないが、古米を電気釜で炊いて市場で購入した魚のアラや缶詰と混ぜて与えるのである。当時はネコ用の固形飼料はなかった。近くの市場の魚屋では僕はアラしか買えない苦学生(もう死語である)と間違われていたふしがある。
H先生は、僕が大学院生の時期に2度に渡って少なくとも2年間はアメリカに出張されて留守であった。留学が眩しい時期であったのだが、H先生は自慢めいた話は学生相手でもされなかった。今日のように電子メールでの遠隔指導などは叶わない時代であり、僕は自分で工夫して研究するしか仕方がなかく、恨めしい気持に襲われたことがないわけではなかった(自分のやりたい研究をすることができたという側面もあるのだが)。
帰国された時には、当時羨望の対象であったパーカーの万年筆でも貰えるのではないかと,密かに期待していたがそれはなかった。そのときには論文の別冊を大量に貰っただけであった。正直なところ、「ケチだなあ」と思った。今にして思えば、3人の男の子がいる家族がアメリカ西海岸で暮らすに十分な賃金をアメリカの大学側から貰っていたはずはない。日本円が安かったのだから、学生にまで高価な土産など準備できるはずはないのだが、そういう知識はなかったので先生にはnegativeな評価をしていたのである。
H先生が僕のことを気にかけていなかったわけではないことは、大阪教育大学の公募に通り、博士課程2年目で就職が決まったときに初めて知ることができた。決まったことを連絡すると、近所の寿司屋「入船」でにぎり寿司をご馳走になった(カウンターで寿司を食べた始めての経験であったように思う)。君の就職を都立神経研の頼んでいたところだとやや気まずそうに言われたのを覚えている。
連休の初日には、大阪教育大学の同僚の叙勲を祝う会があった。近年叙勲の年齢が上がり,80歳での叙勲であり、足を悪くされている先生は気の毒にも東京での認証式には参加できなかったということであった。
その帰りに、先輩や旧同僚などと長い時間に渡って昔話をした。そのときに、僕の採用人事の内幕を聞いた。学閥のきつかった時代にその狭間を縫うような採用であったことは知っていたが。唯一の業績であった英文論文が決め手であったということであった。修論をまとめたものだったが、アメリカ心理学会誌に掲載されたものである。その頃、アメリカ心理学会誌のどれかに論文を掲載された日本人は極めて少なかったので、それが決め手になったということであった。誰も内容など分かりはしなかったということである。臨床心理学の助手の採用であったのだから、ネズミの脳の記憶がどうこうという話は関係がなかったはずであるのに採用された。英文論文のせいと運とが良かったのである。
思えば,この論文は僕が書いた拙い英語をH先生が手直しして、それをアメリカの友人に送って下さったものである。送り返されて来た論文の考察の一部には自分でも良くわからない箇所が書き足されていた記憶がある。何のことはない、思い返せばH先生とアメリカの先生の合作のようなものであったのだが、物事を知らない僕は連名にすることも知らずに単著の論文にした。その後、H先生がこのことやアメリカに送ったことに何も恩着せがましいことは言われなかった。その後、学会であっても「どうですか?」程度の質問を淡々とされるだけであった。少し猫背で布の袋を提げ,タバコを吹かしておられた姿が印象に残っている。定年後すぐに肺ガンで亡くなられた。
先生から貰った論文の別冊や未掲載の論文原稿は、R. Sperryらの離断脳に関するもので、僕は後年このテーマで30年間研究を進めることができた。日本で最も早い時期にラテラリティの研究に接することができたのはH先生のお陰であり、欲しかった万年筆よりも何倍も価値のある土産であったことを理解するのには、ずいぶんな年月が必要であったということになる。
というわけで、中学生には分からなかったかも知れないが、なかなか教師の教育活動を評価するのは難しいということである。読者諸姉は、昔の先生に想いを馳せて評価を再度試みられては如何であろうか。回想法は認知リハビリテーションにも有効ということでもあります。
そうそう、講演の老年聴衆者には自慢話を若者にすることを勧めた。ただし,相手に同じ話かと嫌がられないように、自慢できることを生み出し続ける必要があることを付け加えて。
このブログは月に一度のペースで書くことにしている。書くことが脳機能の老化に良いことは日頃から言っている。したがって、ペースを守って書くことが私の老化対策であり、実は自慢のネタ作りなのでもあります。
紅葉考
今朝は新聞の休刊日である。朝から活字に接していないと落ち着かない気分になる種類の人間にとっては、面白くない朝である。そう言えば最近休刊日が増えたような気がする、その割に新聞代金が値下げされたという話も聞かない、などと独り考えながらながら、いつもより長めのコースを歩くこととした。
ここ数日雨が降ったり気温が急に下がったりしたためか、気がつけば周囲の山は色づきが目立つようになっている。山の斜面は緑と黄色と赤とがまだら模様を呈している。自宅を出てすぐにある公園のケヤキは葉が落ち始め、踏みしめ歩く足もとからはカサカサと音がする。ケヤキは葉が落ちるので、今頃の季節から周辺の住民は自治会などを通じて役所に清掃の要請が増えるらしい。自分で掃けばよいものを(もっともかき集めた落ち葉で焚き火をして、焼き芋を作るなどの楽しみを禁じられるようになったせいかもしれないけど)、新緑の朝日に輝くケヤキの美しさがもたらしてくれたものを忘れているわけで、人間というものは勝手なものである。
急に紅葉が目立つなあ、と木々の様子に注意を向けると、途中で見かけたカキはすっかり落葉して、パーシモンレッドの柿の実だけがもがれずに残っている。早くもぎ取って食べろよ、とでもいうような落葉の仕方である。手入れがされていないので実は小さめである。カリンの木もすっかり落葉して、黄色い実だけが数個枝先にぶら下がっている。
墓地公園の坂道の脇ではサクラの紅葉とナナカマドの紅葉が目立つ。サクラはきれいな赤色とはなれずに黒や黄色のしみが混じっている。その点ではナナカマドは鮮やかな濃い赤色へと変色している。ナラの木やブナの木もあり、遅ればせながら黄色を増そうとしている段階である。
なぜ、木々によって紅葉の色が違うのだろうと急に知りたくなってしまった。調べなくてはと思いつつ坂を下ったことであった。地球が寒い時には針葉樹が優勢であったわけで、それらは落葉しない。スギなどは葉が小さいからである。なぜ、葉が小さいのだろうか。それは雪の重みで枝まで折れないためではあるまいか、などなどと疑問と妄想は次々と膨らむのであった。
帰宅して調べてみると、ナナカマドやモミジのように赤色になるもの(色素アントシァニンのため)、イチョウやカバの木のように黄色のもの(色素カロテノイドによる)、ブナなどのように褐色のもの(タンニン性の物質による)と、紅葉は樹木の種類によって3分類されるらしい。なぜ紅葉があるのかは葉の老化にともなう副作用ということである。紅葉の鮮やかさはアブラムシの寄生が決めるという。アブラムシが沢山ついた場合には鮮やかな色とはならないと書いてあった。未だ分からないことが多いらしいのは老化のことなど二の次だということかも知れない。
いつもなら気付かない散歩道の脇役を目立たせてくれたのは、いつもよりも長めに散歩したせいである。それは、新聞休刊日の効用(紅葉)ってことかな。もっと他の木々にも注意は行ったが、この文中言及の樹木は11種にとどめた。11月になったのである。
ここ数日雨が降ったり気温が急に下がったりしたためか、気がつけば周囲の山は色づきが目立つようになっている。山の斜面は緑と黄色と赤とがまだら模様を呈している。自宅を出てすぐにある公園のケヤキは葉が落ち始め、踏みしめ歩く足もとからはカサカサと音がする。ケヤキは葉が落ちるので、今頃の季節から周辺の住民は自治会などを通じて役所に清掃の要請が増えるらしい。自分で掃けばよいものを(もっともかき集めた落ち葉で焚き火をして、焼き芋を作るなどの楽しみを禁じられるようになったせいかもしれないけど)、新緑の朝日に輝くケヤキの美しさがもたらしてくれたものを忘れているわけで、人間というものは勝手なものである。
急に紅葉が目立つなあ、と木々の様子に注意を向けると、途中で見かけたカキはすっかり落葉して、パーシモンレッドの柿の実だけがもがれずに残っている。早くもぎ取って食べろよ、とでもいうような落葉の仕方である。手入れがされていないので実は小さめである。カリンの木もすっかり落葉して、黄色い実だけが数個枝先にぶら下がっている。
墓地公園の坂道の脇ではサクラの紅葉とナナカマドの紅葉が目立つ。サクラはきれいな赤色とはなれずに黒や黄色のしみが混じっている。その点ではナナカマドは鮮やかな濃い赤色へと変色している。ナラの木やブナの木もあり、遅ればせながら黄色を増そうとしている段階である。
なぜ、木々によって紅葉の色が違うのだろうと急に知りたくなってしまった。調べなくてはと思いつつ坂を下ったことであった。地球が寒い時には針葉樹が優勢であったわけで、それらは落葉しない。スギなどは葉が小さいからである。なぜ、葉が小さいのだろうか。それは雪の重みで枝まで折れないためではあるまいか、などなどと疑問と妄想は次々と膨らむのであった。
帰宅して調べてみると、ナナカマドやモミジのように赤色になるもの(色素アントシァニンのため)、イチョウやカバの木のように黄色のもの(色素カロテノイドによる)、ブナなどのように褐色のもの(タンニン性の物質による)と、紅葉は樹木の種類によって3分類されるらしい。なぜ紅葉があるのかは葉の老化にともなう副作用ということである。紅葉の鮮やかさはアブラムシの寄生が決めるという。アブラムシが沢山ついた場合には鮮やかな色とはならないと書いてあった。未だ分からないことが多いらしいのは老化のことなど二の次だということかも知れない。
いつもなら気付かない散歩道の脇役を目立たせてくれたのは、いつもよりも長めに散歩したせいである。それは、新聞休刊日の効用(紅葉)ってことかな。もっと他の木々にも注意は行ったが、この文中言及の樹木は11種にとどめた。11月になったのである。
三連休
文化の日を含めて3連休になることを数日前まで知らなかった。電子手帳に祝日の記載が出ないのはもちろんだが、部屋にかけているカレンダーはNational Trustの英国風景のものであるし、トイレのカレンダーも英国のホスピスの水彩画である。日本での祝日の印は当然のこととしてある訳がない。例年、3人の友人がクリスマスの時期に送ってくれるものを飾っているため3つの英国版カレンダーがあるのだ(僕の方からも日本のカレンダーを送っているので、彼らも同様の勘違いをしているかも知れない)。研究室のカレンダーは韓国の人が送ってくれたもので、これもまた三連休を教えてはくれない(韓国では旗日は少ない印象)。
数日前に同僚が「3連休だ」というから、「ソーカ!」と思った次第である。
今日は文化の日で、「文化勲章」を天皇が渡しているニュースで祝日であることを再確認した。文化勲章でもくれる知らせが前々から届いている人は三連休を忘れないだろうと、バカな考えが浮かんだりした。
もっとも、連休だからどこかに出かけたいという願望があり、それが満たされなかったと後悔している訳でもない。第一、家内がボランティアしている老人施設では連休には老人を預けにくるケースが多くて人手不足になるとかで,熱心に手伝いに行く。送迎が担当なのでこちらも出かけ難い事情が発生するのだ。
世間では景気が悪いそうなので、連休にはどこか温泉でも出かけてパーと散財すると社会貢献できたのかも知れないが、その機会は逃してしまった。しかし、散財(?)するという貢献はできたという話をしよう。
土曜日からノドの調子がおかしく風邪かも知れないと用心して朝寝をした。ウガイをヒンパンにして(寝ながら読んでいた椎名誠の本に風邪予防はウガイをあきれるほどの回数やるべし!とあった)、葛根湯を飲んだら少し気分が楽になったので、健康科学科の教員全員が執筆するテキストの原稿でも見ようという気持になった。来年から始まる予定の科目のテキストを作ろうという学部長の企みがあり、編集作業を担当しているためである。本当は彼と2人で書いた方が早いとは思うが、そこは学科教員の連帯感のジョーセイが狙いに含まれているのだ(とかく、管理職はいろいろ考えねばならないのダ。気の毒なので手助けをしているのです)
同僚の原稿は居間のパソコンに送信されているはずなので(締め切りを気にする律儀な同僚が多いはずなので)、それをフラッシュメモリに取り込んで、2階の自分のパソコンで読んで見るベシと考えたのである。そこで、居間のパソコンを立ち上げ2階から階段を踏み外さないように戻り、やれやれと風邪気味でボヤケル頭のまま椅子に座ったときに,お尻に何か変な感触がした。眼鏡を踏んだのである。恐る恐る手にしてみると、見事に眼鏡の片方のツルが千切れてしまっていた。20年前に始めて作った読書用の眼鏡はその役割を果たせなくなってしまったのである。
原稿を見る気力は燻っていたので、街の眼鏡屋に出かけることとなった。
家内は嬉しげに行きつけの眼鏡屋に案内するということで、西武デパートに出かけるハメになった。「歳なんだからあまり安っぽいのにしないように」、などと親切げに指示はするが、自分の管轄でない僕の出金にはどこか快感を伴う様子である。
眼鏡屋は、ガラスは割れていないのですぐネジを探しますということであったが、新しい読書用の眼鏡を買わねばなるまいと思い込んでいたこともあり、敢えて買う必要もなかったのだが新調する羽目になった。計測してもらうとほとんど老眼は進んでいなかったようである。代金は5万6千円也である。一泊で温泉旅行が出来たなあ、と天を仰いだことであった。
店員が新しいネジでツルを直してくれ、さらに掃除をしてくれたせいか,踏みつけて壊れた眼鏡は一段と鮮やかに見える(気がする)。自宅に戻り気を取り直して読み始めた同僚の原稿には、問題が次々と浮かび上がる。これは良く見えるようになった眼鏡のせいか、はたまた、どこかしらウツウツとして捌け口のない気持にさせる出費のセイなのか。
かくて、三連休は終わり、何ら快楽には出会えず、日本の実態経済向上のために貢献することとなった。
今回はカタカナ語の使用比率が増えた。朝寝のついでに読んだ椎名誠本の影響に違いナイ!
数日前に同僚が「3連休だ」というから、「ソーカ!」と思った次第である。
今日は文化の日で、「文化勲章」を天皇が渡しているニュースで祝日であることを再確認した。文化勲章でもくれる知らせが前々から届いている人は三連休を忘れないだろうと、バカな考えが浮かんだりした。
もっとも、連休だからどこかに出かけたいという願望があり、それが満たされなかったと後悔している訳でもない。第一、家内がボランティアしている老人施設では連休には老人を預けにくるケースが多くて人手不足になるとかで,熱心に手伝いに行く。送迎が担当なのでこちらも出かけ難い事情が発生するのだ。
世間では景気が悪いそうなので、連休にはどこか温泉でも出かけてパーと散財すると社会貢献できたのかも知れないが、その機会は逃してしまった。しかし、散財(?)するという貢献はできたという話をしよう。
土曜日からノドの調子がおかしく風邪かも知れないと用心して朝寝をした。ウガイをヒンパンにして(寝ながら読んでいた椎名誠の本に風邪予防はウガイをあきれるほどの回数やるべし!とあった)、葛根湯を飲んだら少し気分が楽になったので、健康科学科の教員全員が執筆するテキストの原稿でも見ようという気持になった。来年から始まる予定の科目のテキストを作ろうという学部長の企みがあり、編集作業を担当しているためである。本当は彼と2人で書いた方が早いとは思うが、そこは学科教員の連帯感のジョーセイが狙いに含まれているのだ(とかく、管理職はいろいろ考えねばならないのダ。気の毒なので手助けをしているのです)
同僚の原稿は居間のパソコンに送信されているはずなので(締め切りを気にする律儀な同僚が多いはずなので)、それをフラッシュメモリに取り込んで、2階の自分のパソコンで読んで見るベシと考えたのである。そこで、居間のパソコンを立ち上げ2階から階段を踏み外さないように戻り、やれやれと風邪気味でボヤケル頭のまま椅子に座ったときに,お尻に何か変な感触がした。眼鏡を踏んだのである。恐る恐る手にしてみると、見事に眼鏡の片方のツルが千切れてしまっていた。20年前に始めて作った読書用の眼鏡はその役割を果たせなくなってしまったのである。
原稿を見る気力は燻っていたので、街の眼鏡屋に出かけることとなった。
家内は嬉しげに行きつけの眼鏡屋に案内するということで、西武デパートに出かけるハメになった。「歳なんだからあまり安っぽいのにしないように」、などと親切げに指示はするが、自分の管轄でない僕の出金にはどこか快感を伴う様子である。
眼鏡屋は、ガラスは割れていないのですぐネジを探しますということであったが、新しい読書用の眼鏡を買わねばなるまいと思い込んでいたこともあり、敢えて買う必要もなかったのだが新調する羽目になった。計測してもらうとほとんど老眼は進んでいなかったようである。代金は5万6千円也である。一泊で温泉旅行が出来たなあ、と天を仰いだことであった。
店員が新しいネジでツルを直してくれ、さらに掃除をしてくれたせいか,踏みつけて壊れた眼鏡は一段と鮮やかに見える(気がする)。自宅に戻り気を取り直して読み始めた同僚の原稿には、問題が次々と浮かび上がる。これは良く見えるようになった眼鏡のせいか、はたまた、どこかしらウツウツとして捌け口のない気持にさせる出費のセイなのか。
かくて、三連休は終わり、何ら快楽には出会えず、日本の実態経済向上のために貢献することとなった。
今回はカタカナ語の使用比率が増えた。朝寝のついでに読んだ椎名誠本の影響に違いナイ!
教育実習指導から
現在の勤務校の所属学科の卒業生の主な進路は養護教諭である。関西地区では一二を争う実績を持つということで,大学の「売り」となっている。教員免許を取得するためには、当然教育実習を受けねばならない。希望学生が多いので,これ又当然の帰結として,実習担当教員以外の教員も巡回指導に出向かねばならない。私も4名のゼミ学生の出身校での実習指導に出向くことが仕事となる。加古川や和田山などの遠隔地にも半日掛りで出向くのである。
名古屋大学に移籍する前の大阪教育大学では当然の仕事であったので,面倒ではあるが、特段嫌なことではないが喜々としてでもない。昔は専門でもないのに学生の行う「国語」「算数」などの研究授業を見学して、その小学校の先生と一緒に「研究授業の反省会」に出て意見を言わねばならなかった時に感じたとまどいは、今回の養護の学生実習では味わうことがなくて済んでいる(見学はしたけれども、養護の先生の仕事の大半は授業ではないからである)。当時、私のような心理学の教員が「教科学習」に特有のことなど分かりもしなかったのに大過なく過ごせた(ように思える)のは、不思議である。「何とかなる」「何とかせねばならなかった」苦し紛れの適応規制が働いて、それらしいことを発言したせいなのか、大学の先生ということでの小学校の先生の遠慮のせいだったのだろうか。思い返せば冷や汗がでる。
昔もそうであったが、実習校を訪問すると校長先生や教頭先生との会話が必然的に伴うことになる。知らない人との所謂雑談というものが私は得手ではない。これが苦痛とは言わないまでも、重荷である。セールスマンの仕事を選ばず、正解であった。
15~20年前の当時の管理職先生相手の雑談内容は年配の教員への愚痴であった。曰く、「教授能力に欠ける」、「やる気がない」、「権利だけ主張して休みだけはしっかり取る」などなど、大量に教員を採用せねばならなかった時代にむやみやたらと教員採用をした「つけ」についての愚痴であった(そう言えば最近、このような愚痴がしみ込んでいて加齢のために前頭葉機能が低下したのか、抑制が利かなくなって大臣職を棒に振った御仁もいたが、当時の管理職の悩みはそんなことであった)。
しかし、今年15年ぶりにうかがった小学校での校長先生の愚痴は、子どもの問題と幼稚化した父兄の行動ばかりが話題であった。教員の問題よりも「躾け」ができておらず、学級での学習に適応できない子ども、子どもの問題を学校に帰属したがる父兄、父兄同士のトラブルの仲介、などであり、ずいぶん様変わりしていた。15年前には絵空事であった家庭で虐待される子ども、崩壊家族などの問題がもはや現実のものであるとの印象を強く持った。
1977年頃、英国の大学での同僚の一人が「child abuse」が専門であるというのを、そんなの日本ではあり得ないと言っていたのに、信じられない変化である。
30年間に日本では何が起こったのだろうか?社会格差だろうか。小泉政権以降に顕在化した社会における格差が原因として取り上げられることが少なくないが、それだけでもあるまい。50年前にも格差は日本の社会に厳然としてあったからである。地域には眼に見えない格差があり旧地主や名士のうちの子どもとそうでない家の子どもの間には格差があり、トラブルを起こしても対等に処理する仕組みなどなかったように思える。しかし、厳然とした地域社会での秩序があったので、授業中に先生の指示に従わない児童にたとえ身体的に罰を与えても、先生と父兄の間には相互了解的な格差があったので問題にはならなかった。当然問題を起こした子どもの父兄同士のトラブルなどは顕在化することはなかった。
封建制度の残滓が生み出す秩序ある社会は、ある側面では窮屈で住み難い訳だが、そこにはその住み難さから脱出し得体の知れない何かを変えたいとするエネルギーが満ちていたような気がしないでもない。50年あまりかけて覆っている秩序をもたらす膜をくぐり抜けてみると何も見当たらず、どうやってよいのか分からない、共同幻想もいだけない状態にあるのが現在というところか。それにしてもこのような公教育に仕組みの瓦解を許した行政の責任は大きい。政権の交代は必至のようだが、つぎは大丈夫なのかしら、などなどと、簡単には答えの見えない戯言を、帰路の車窓から見える田んぼや山々,その間を縫うように走る公教育に仕組みの瓦解と引き換えのように舗装された狭い道路を眺めつつ自問自答したことであった。とまれ、我が身に比べて小学校の先生は大変であることだけは良くわかった。私も給料に見合う働きをせねばないなあとも感じたことであります。ときにはルーチイーンの日常を離れる自問する機会というものは大切なようです。